『氷の森』


 

「んな泣きそうな面ァしたって無駄だぜ?俺様ァもう決めちまったからよォ。こうと決めたら動かねェ。『ドンモラキンは押されてもふんづまり』ってこったな」

 

愕然と、目を見開くスバルを見ながら、ガーフィールは言葉を続けた。

彼の口にした条件――それを耳にして、スバルの内心は驚愕と混乱でしっちゃかめっちゃかになるしかない。なぜなら、

 

「よりにもよって、お前がそれを言いやがるのかよ……?」

 

「あァ?俺様が反対すんのは意外かよ。どんだけおめでてェんだ、てめェはよォ。ちっとばかし話ができたからって、俺様をわかったみてェに思ってもらっちゃ困るっつんだよ」

 

スバルの言にガーフィールは不愉快そうに口の端を歪めるが、渋い顔をして恨み言を言いたいのはスバルも同じだ。

そもそも、今さっきガーフィールに否定された考えは、その当のガーフィールによってされた提案を元にして組み上げたものだったのだから。

 

やり直す前の世界で、ガーフィールは『試練』に挑んで摩耗していくエミリアを見ていられず、スバルに代わりに『試練』を受けるよう打診してきた。頑ななまでにエミリアに『試練』を乗り越えさせなくてはならない、と考えていたスバルにとってその考えは青天の霹靂であり、一理以上のものがあると思って採用したのだが、

 

「俺の中で飲み下せない色々な感情が渦巻いてるが……今は忘れておく。それより、どうして反対しやがる。お前にとっても、『聖域』の解放の可能性を底上げするのは悪い話じゃねぇはずだぞ」

 

「まァ、ババアの方針を全面的に肯定するっつんなら、てめェの提案を受けた方が効率がいいってェのはわかる話だぜ?――だァが、絶対に嫌だ」

 

「なんだそのガキみてぇな言い草は……!」

 

腕を組み、顔を背けるガーフィールの言葉に理屈はない。理屈がないだけに、感情論だけで物を言っているのなら話はややこしい。

これまで話していてわかることだが、このガーフィールという人物はかなり気分屋な部分が――もっと正確に言うなら、機嫌の上下が自分の価値観に左右される部分が大きい。一般論が当てにならないから、なにをすれば効果的なのかわからないのだ。

 

「リューズさん……」

 

取り合うつもりのないガーフィールでは話にならない、とスバルは黙って状況を見守る幼い風貌の老女へ声をかける。が、リューズはスバルに水を向けられると、その手の先が出ないぶかぶかの袖を振りながら、

 

「ガー坊がこうなったら儂の話でももう動かん。残念じゃが、力ずくで言うことを聞かせられるようなものも、『聖域』の中にはおらんしな。スー坊が挑戦してみたらどうじゃ?」

 

「竜車投げるような奴に挑む自殺癖はねぇよ。……クソ、なんだってんだ」

 

ガーフィールの言い分を肯定するわけではないが、積極的にたしなめるでもないリューズも内心では彼の意見に賛成なのだろう。

リューズもまた、やはり『試練』を突破するべきはエミリアであると考えている。彼女がどれだけロズワールに対して敬意を払っているのかわからないが、根本的な部分でロズワールと落とし所は同じに見ていると思っていい。

それでもせめて、ガーフィールがこちらサイドについてくれていれば、と思わずにはいられない。

 

「……スバル」

 

言葉にできない感情を持て余すスバルを見上げ、心配げに声をかけてくるのはエミリアだ。彼女はその紫紺の瞳にスバルの横顔を映し、

 

「わ、私が頑張るから、スバルは無理しなくて大丈夫よ。ちょっと……そう、ちょっといきなりだったから驚いちゃっただけで、なにが起きるかわかってれば……」

 

「いや、エミリアたんの方こそ無理しなくていいって。あの頑固野郎は俺がどうにか説得してみせっから。そうすれば『試練』なんて……」

 

「スバルは――」

 

弱腰でガーフィールの言い分に負けてしまいそうなエミリア。そんな彼女の弱気を鼓舞しながら、スバルは理屈をこねくり回して言論武装しようとする。しかし、そうして論戦の準備を頭の中で始めるスバルに対しエミリアは、

 

「スバルは……ううん、スバルも、私に任せられない?」

 

「……え?」

 

「わ、私がダメなところ見せちゃったから、『試練』を任せられないって……そんな風に思ってるから、代わりに」

 

「違う。そうじゃないよ」

 

「ううん、スバルが不安に思うの、わかるもの。スバルはちゃんと乗り越えられたのに、私は乗り越えるどころか……む、向き合う覚悟だって決まらなくて……『試練』なんて名前の、『過去』に……」

 

スバルが否定するが、エミリアは首を横に振ってそれを受け入れない。

彼女の瞳に負感情が浮かび、唇が浅く震えて色白の頬がさらに血の気を失う。不安定になる言葉の様子から、その脳裏に『試練』という名の『過去』が回想されているのがわかった。

――それは、気丈な彼女をいとも容易くたじろがせてしまうほどのもので。

 

「思い出さなくていい――!」

 

「でも向かい合わなきゃ、『試練』は越えられないの!そう、そうよ……『試練』を越えなきゃ、『過去』を越えなきゃ……王様になれない。村の人たちも、『聖域』の人たちも外に出してあげられない……」

 

その両肩に触れて懸命に声をかけるが、首を振るエミリアは頑としてスバルの言葉を聞き入れない。それどころか、制止の言葉をかけられればかけられるほどにその意思は強固なものになってしまい、

 

「スバルに甘えてばっかりじゃ、いられない。いられないもの。ほんの少し前に、スバルがあれだけ傷だらけになって、それでも私のために頑張ってくれたのに……私、またスバルに、なにもかも背負わせるつもりで……」

 

「いいんだよ、それで。言い方悪いかもしれないけど、持ちつ持たれつだ。適材適所の方がいいか?この『試練』に関しちゃ、俺の方が相性がいいんだ。ただそれだけのことで、それ以上の意味なんてない。俺ができそうだから、俺がやった方が確実で早い。俺にできそうなことなんてそうそうあるもんじゃない。エミリアたんがエミリアたんで頑張らなきゃいけない機会なんて、これからいくらでもまたある」

 

「その機会の大事な一つが、今なんじゃないの?嫌なことから目を背けて、逃げ続けて……それで、私、どうなるの?」

 

――逃げることのなにがいけない、と叫べればどれだけよかったことか。

嫌なことから逃げて、辛いことから目を背けて、苦しいことに背を向けて、それで安穏と生きられるのならばそれも生き方の一つとして悪くない。スバル自身、そうやって極力、艱難辛苦の数々とは距離を取って生きてきたのだ。

だから、そうした生き方が――弱い生き方だとしても、責められる謂れなどどこにもないのだと思ってもいるし、いうこともできた。

 

それなのに、今。今こそ、エミリアに対してその頑なな心を、不自由な弱音を、弱さをわかってやれるスバルこそが肯定すべきだったのに――。

 

「――――」

 

どうしてなのか、思っているはずの言葉を口から発することができずにいた。

押し黙るスバルに、エミリアはギュッと瞼を閉じて下を向いてしまう。その両肩に触れたまま、熱いぐらいに感じる体温をスバルはどうすべきかわからない。

そんな二人の様子を眺めながら、

 

「ハッ。そうやって言い合い押し合いしてんのは勝手だがよォ、傍目に聞いてる分にゃァエミリア様の方に分があるように聞こえんぜ?実際、『試練』はエミリア様が挑むために用意されてるもんだろが。そこを横っからしゃしゃり出て……」

 

「うるせぇよ!お前は……お前はまだ、なにも知らないから……っ」

 

「あァ?」

 

こちらの気持ちも知らず、暢気に言ってのけるガーフィールに怒りが爆発する。スバルの怒気をぶつけられて、剣呑な気配を醸し出すガーフィール。

だがスバルもまた、ガーフィールの物騒な態度にも怖じることなく睨みつけ、

 

「そうやって押しつけて、結果どうなるかお前はわかんのか?傷付いて苦しんで磨り減って、そうなるとこ見て平気でいられんのかよ。……俺がどうかしてたんだ」

 

「……急になにを言い出してんだかわっかんねェよ」

 

「条件だのメリットだの、そんなのありきで考えるばっかで、肝心のエミリアのことなにも考えてなかったって言ってんだよ。『試練』を乗り越えて、それで得られる成果ってのはでかいだろうよ。でも、それまでの間につけられる傷は、流す涙は、勘定に入ってない。……本人の意思もだ」

 

前回の世界で、摩耗していくエミリアを一番近くで見ていたにも関わらず、スバルは『試練』を前に弱っていく彼女をしかし止める言葉を発することはなかった。

彼女なら、エミリアならばやり遂げてくれるはずと、苦しんでいる彼女を追い込み、追い詰めて、磨り減り切ってしまうまで押し込んで、それを諭されてようやく気付いた始末。それを気付かせてくれた相手に、こう言い返さなくてはならない不毛な感情の行き場がない。

『死に戻り』という現象の厄介さが、今のスバルにはひどく突き刺さっていた。

 

そして、先回りして起きる事実を知っているだけの状況。そうした情報足らずの言葉足らずで、なおも感情ばかりが先走った言葉を口走れば、

 

「なに、を……知ってるの、スバル」

 

「エミリア?」

 

袖を引かれる感触に顔を上げれば、エミリアがスバルを目を見開いて見ていた。彼女の紫紺の瞳には感情が渦巻き、それは浮かぶ涙の滴に溺れて見えなくなる。

エミリアは小さく首を横に振り、「いや、いや……」と何事かを拒むように、

 

「知ってるの?スバル、わ、私の……私の『過去』を、知って?」

 

「待て、落ち着こう。深呼吸しよう。さっきから話の流れが悪い。だから」

 

「ちが、違うの……私、そんなつもりじゃなくて……私は、ただ……ただっ」

 

墓所の中、『試練』を終えた直後と同じ状態に再び舞い戻るエミリア。

狼狽し、混乱し、口走る言葉は支離滅裂になり始め、潤む紫紺の瞳は目の前にいるスバルを映しているのに見ていない。

彼女は指を伸ばし、スバルの服の裾を掻き毟るように引き寄せ、

 

「みんなが、私を……だから、母様も私を……でも、違う。ホントは違う。本当は違ったの。あのとき、私は……本当は……っ」

 

「エミリア、なにを……」

 

必死の声音で、取り縋りながら口走るエミリア。その彼女の焦燥の意味をわかってやれず、スバルはただ無意味な真摯さを舌に乗せて届くことを祈るしかない。

そのなにもできないスバルの前で、ふいに動いた影があった。それは、

 

「――ラム」

 

短い呼びかけに応じることなく、滑るようにエミリアの背後に回り込んだラム。彼女はそっと伸ばした手で後ろからエミリアの口を塞ぎ、銀色の少女が驚きに目をかすかに見開く中、小さな声で「失礼します」とだけ声をかけ、

 

「……ぁ」

 

ふっと、力が抜けたようにエミリアの体がその場に崩れ落ちる。

真正面で倒れるエミリアにとっさに手を伸ばし、転倒しかけた彼女を抱きとめてスバルはそっと安堵の吐息。それから、それをしたラムを見上げて、

 

「なにしたんだ?」

 

「落ち着かせるために手っ取り早い方法を。バルスは怒るかしら?」

 

「強引だったことには物申したいとこだが……最善だったと思う。悪ぃな、面倒かけちまって」

 

「エミリア様のご都合をバルスに謝罪されるというのもおかしな話だわ。いつから、エミリア様の保護者を大精霊様から譲り受けたの?」

 

「そんなつもりは……」

 

ない、と言おうとして、スバルはその反論に説得力がまるでないことに気付く。

なんらかの事情でパックが姿を見せていない現状、スバルがいつも以上に気を張ってエミリアを見ていることは事実だ。なまじ『試練』に挑んだことで摩耗していく彼女を知っていることもあり、その感はなおも増しているだろう。

そしてエミリアの方にも、頼れる大精霊が傍らにいてくれないことで、これまで以上にスバルに寄りかかっている実感があるようだった。

なんにせよ、

 

「お守しなきゃいけねェってんなら、話ァここで終わりっだな」

 

ラムの手で強制的に眠らされたエミリア。彼女を優しく抱き止めるスバルを見て、ガーフィールは鼻を鳴らすとそう吐き捨てる。

その態度にとっさに声を荒げかけるが、腕の中のエミリアがかすかに身じろぎしたのを受けてスバルは思わず口を閉ざした。そのまま、反論の機会を失って、こちらに背を向けるガーフィールを見送るより他にない。

 

「今日の『試練』は例外ってことにしてやんよ。明日から、また『試練』を受けんのはエミリア様だ。てめェが受けんのは、この俺様が認めねェ」

 

歯を剥いて言い放ち、ガーフィールはリューズの家を出ていく。その後ろに小さな人影――リューズもまた続き、

 

「すまんな、スー坊。じゃが、儂も同意見じゃ。『聖域』の解放は早ければ早いほどいいが……ロズ坊やの思惑に沿って進む方が儂らにとっても都合がいい」

 

「都合って、そりゃどういう……」

 

「いざ『聖域』からの解放があっても、儂らがロズ坊やの領民として庇護にあり続けることには変わらん。ならば、機嫌を損ねかねん例外はできるだけ避けたい。……悪く思わんでほしい、とまで身勝手をいうつもりはないがの」

 

リューズの言い分には『聖域』の住人としての切実な思いがあり、それがなおさらスバルに反論の余地を失わせた。

ガーフィールとリューズ、『聖域』側の二人が室内からいなくなると、こちらに取り残される形となったのは図らずもロズワール邸のメンバー+α。

 

「で、αであるところのオットーはこの状況をどう見るよ」

 

「居心地と先行きが最悪な感じすぎて黙ってやり過ごそうとしてる僕を引っ張り込むのやめてもらえませんかねぇ。……ただ、素直に話を聞いてた感想を言うなら、ガーフィールさんたちの言うことの方が正論だとは思いますよ」

 

指を立て、話を振られたオットーは跪くスバルを見ながら何度か頷き、

 

「辺境伯の狙いもそうですし、エミリア様の王選候補者としての立場もある。確かにナツキさんが代わりに『試練』を代行しても、それはそれでエミリア様のお手柄ってことになるとは思いますが……後々にその話を聞く第三者はともかく、今この『聖域』に滞在する当事者たちの納得を、つまりは支持を得られますかね?」

 

「……そのへんの理屈は俺にだってわかってる。どう考えたって、エミリアが『聖域』を解放する方がずっと状況的にメリットがある。だけど……」

 

「エミリア様には、『試練』を乗り越えることができない?」

 

口ごもるスバルの躊躇を蹴り破るように、あっさりとそう口にするラム。そのいっそ清々しいぐらいに身も蓋もない言い方に、かえってスバルは落ち着いた顔で、

 

「見た限り、短期間で結果を出すのは厳しいと思う。エミリアの過去になにがあったのか、具体的にわからないまま話してても仕方ない話だけど……そんなに時間をかけられる状況でもない、ってのはお前らにもわかってるだろ?」

 

「少なくとも、王選の決着を見る三年以内に終わらせてもらいたいところだわ」

 

「それはそれで気が長すぎる話だよ」

 

軽口の類ではあるのだろうが、真顔で言うものだから本気の可能性を潰しておく。そしてスバルの言葉の意味に気付いて頷くのは、

 

「避難してきた方々の負担、それに『聖域』の食糧事情なんかもありますからね。長期的な視野で見て、この人数を維持し続けるのは現実的じゃないかと」

 

「まぁ、そういうこった。ただでさえいきなりの避難生活でストレス溜まってるってのに、そこで食い物まで満足いかなくなったら人間すぐに不満が爆発するぜ。『聖域』の連中だって、自分たちの食事水準が下がってまで人質を囲い続ける意味がない。――少なくとも、全員は」

 

「ガーフが、村の人たちの間引きでもしかねないっていうの?」

 

と、やや語気を強めに問いかけてきたのはラムだ。

スバルはそんな彼女の反応に意外なものを感じて眉を上げたが、彼女も今の態度に自分で違和を感じたのか、誤魔化すように己の前髪を指で撫で、

 

「あまり考えたいことではないけど、ガーフの性格ならそれもありえる。あれは土壇場になれば、自分の中の優先順位に従うことを躊躇わないから」

 

「そのへん、お前に似たとこあんな。俺も同意見だ。……だから、そうなる前に人質の人たちを『聖域』から解放するのは提案したいんだが」

 

前回、その提案が通った背景には『スバルが試練を受けること』という秘密裏に交わされた条件があった。今回、それが機能していない以上、同じ提案でも交渉はかなり難航することが予想される。それでも最終的にはこちらが譲歩を勝ち取れるものと思っているが、

 

「なんにしても、『聖域』の連中がどうしてもエミリアに『試練』をやらせようってごり押ししてくるんなら、そのための憂いを省くぐらいのことはさせてほしいもんだ」

 

「……意外ね。バルスはもっと、聞きわけのない子どもみたいに反対するものと思っていたけど」

 

エミリアが『試練』を受けることに対する憂慮を取り除こうとするスバルの姿勢に、ラムがそう端的な感想を述べる。それに頷きつつ、スバルは「んや」と前置きし、

 

「口惜しいし、悔しいけど……ロズワールの思惑に乗るのが一番理に適ってんだよ。ああ、そうだ。エミリアが傷付くことさえ度外視できるんなら、このままやり通す方がいいに決まってる」

 

「傷付くとわかっていて、それでも歩かせるの。鬼になったものね」

 

「鬼に言われるとは俺も変わったもんだよ。ただ……いや、いい」

 

言いかけて、その口を閉ざしてスバルは首を横に振る。その歯切れの悪い態度にラムは眉を寄せたが、そこから先を言葉にするつもりはない。

スバルはいまだ腕の中のエミリアを起こさないように抱き上げる。軽い。意識のない人間は常より重く感じるというが、それでも彼女の体は羽根のように軽い。

この細く小さな体に、いったいどれだけのものを抱え込んでいるのだろうか。

 

「ラム。エミリアを部屋に寝かせたら、ロズワールと話がしたい。いけるか?」

 

「ロズワール様は静養中よ。しばらくは誰も入れるなと……」

 

「『試練』について話がしたい。こればっかりは、俺やお前みたいに役職が低めの奴らで話し合ってても埒が明かねぇ。頭脳の意見が必要だ」

 

こうして『試練』を餌にすれば、ロズワールも面会謝絶の看板を取り去ってスバルと向き合うしかない。そのことは前回のループですでに体験済みだ。

ラムはしばし、スバルの言葉を吟味するように瞑目していたが、やがて疲れたように吐息をこぼすと、

 

「ロズワール様にお伺いを立ててくるわ。バルスはエミリア様を寝台に……おかしな真似をしないように」

 

「シリアスモードの俺になんということを。思いつきもしてなかったのに、お前がそれ言い出したせいでエミリアたんの柔らかさをダイレクトに感じてることを意識して膝が震え出したぞ、どうしてくれる」

 

「オットー、見張ってなさい」

 

「かしこまりました!」

 

スバルの戯言をさらりと受け流し、ラムは手短にオットーに命じると家を出る。取り残される男二人と美少女一人。そんな状況でオットーは敬礼のポーズのまま、スバルの方をじろりと見ると、

 

「ささ、エミリア様をベッドの方へどうぞ。なんなら手伝いますが」

 

「それ以前に、お前のそのラムへの従順な姿勢はなんなんだよ……」

 

「いやぁ、ほらラムさんて辺境伯の直属でしょう?それ考えると心根はエミリア様べったりのナツキさんより、ラムさんに媚び売っておいた方が辺境伯との関係性にも希望が見えるってもんじゃあないですか、へへっ」

 

「お前初期の有能商人の印象から小ずるい小悪党に自分からシフトしていくのどうにかなんないの?今に邪魔者扱いされて闇に屠られるよ?」

 

現金なオットーの変わり身に言及しつつ、スバルはため息まじりにエミリアを寝室へ運び込む。寝乱れたシーツを軽く手直しし、そこにゆっくりと彼女を寝かせる。と、

 

「お……」

 

シーツを肩までかけて離れようとしたところで、彼女の指先がスバルの服の裾を摘まんでいたことに気付いた。その頼りなげな指先の感触に、スバルは愛おしさを感じながらそっと外す。そして外した指先を両手で包み込み、

 

「待ってろ、エミリア」

 

「――――」

 

「今に俺がなんとかしてやる。君がもうこれ以上、泣くことも苦しむことも、しなくて済むように。きっと」

 

それだけを誓って、スバルはエミリアの手を解放する。

立ち上がり、振り返って家の出口へ。――ロズワールの下へ。

 

かの魔人に、聞き出さなくてはならないことがあまりにも多すぎるのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――事情は、なーぁるほど把握したとーぉも」

 

顎に手を触れて、スバルの長い話を黙って聞いていたロズワールはそう頷いた。

場所はロズワールの静養する民家の一室であり、室内にいるのはスバルとロズワールの二人だけだ。寝台に横たわり、上体だけを起こしてこちらを見るロズワールにスバルは険しい視線を向けたまま、

 

「そういうわけで、『聖域』側の意見も極力盛り込むんなら、落とし所としちゃそのあたりがベストだと思うんだ」

 

「まーぁ、確かにエミリア様が『聖域』の結界内に入った時点で、ガーフィールたちの思惑は成ったも同然だーぁからね。エミリア様自身が『聖域』の外に出るためにーぃも、『試練』を乗り越える必要がある。保険としての人質が食糧を浪費するだけのお荷物になるんなら、手放すのも道理……というわけだね」

 

「筋は通した話だと思ってる。別に『聖域』の問題を投げ出すわけでも先送りにするわけでもねぇ。ただ、純粋に必要な部分以外は削るべきだって話でな」

 

「うまい言い方じゃーぁないの。君の中にはこうした懸念もあるんじゃないの?『聖域』の解放の目処が立たなくなる、あるいはエミリア様の心が先んじて『試練』に耐えかねてしまえば、人質はエミリア様に対する脅迫の材料にもなり得る。そういった憂慮を、先に取っ払ってしまおうじゃーぁないか……みたいなね」

 

片目をつむり、黄色の瞳でスバルを見るロズワール。彼の言、その内容を呑み込んでスバルは腕を組んで頷きながら、

 

「いやごめん、そこまでは考えてなかった。っていうか、そんな恐ろしい発想が即座に出てくる時点でちょっと引くわ」

 

「あーぁれれーぇ?思い過ごした、もとい思い余った?これは失礼。たーぁだ、そういう考え方もできることだーぁよね」

 

自身の度を越えた悲観を誤魔化すように笑うロズワール。その笑みに白けた顔を向けながら、スバルはさすがにそこまでのことをガーフィールがするとは思っていない。

いくらか頑固で融通の利かない、やや話も通じない部分が見受けられる人物だが、筋の通らない真似と倫理にもとる行いには手を染めない。

ほんの数日間の付き合いだが、スバルはガーフィールをそう評価していた。

ともあれ、

 

「それで?スバルくんは私になーぁにをしてほしいのかな?」

 

「今の話を、できれば俺からじゃなくロズワールの方から打診してほしい。今回はどうも……俺だと折り合いが悪くなりそうでな」

 

「そりゃまた、どーぅしたことなの?」

 

「ガーフィールの野郎がいたく俺を気に入らないらしくてな。説得を諦めるわけじゃねぇけど、今日明日で話つけるのが厳しいってのもわかってんだよ」

 

別れ際の、ガーフィールのスバルを見る目つきの鋭さを覚えている。

まるで親の仇でも睨みつけるような敵意と嫌悪に満ちた眼差し――それを向けられる理由に心当たりがない。なにか彼の流儀において許されざることをしたか、あるいは彼の信念に真っ向から逆らうような失言があったのか。いずれにせよ、

 

「感情的になってるあいつは、俺の意見ってだけで頭ごなしに否定しかねない。おまけにリューズさんも、ガーフィールがそう言い出したら消極的に受け入れちまいそうだ。そうなる可能性が見えてるなら、その可能性は省かせてもらいたい」

 

「そこで私の出番、というわーぁけだね。ま、いいでしょ。私の方からリューズ婆様とガーフィールには話をしておくよ。私もガーフィールには嫌われてるから、すぐに話がつくかはわからないけーぇれどね」

 

スバルの提案を受けて、ロズワールは気楽な様子でそれを請け負う。

その心強い返答にスバルは安堵の吐息を漏らす。とりあえず、これで心配事の一つは解決に向かう。残った問題があるとすれば、

 

「さーぁて。私への用件は、それで終わりでいーぃのかな?」

 

「いや、まだだ。――肝心の、そう肝心の話をまだしてない」

 

この場に足を踏み入れた、もっとも大事な話が始まっていなかった。

ロズワールは首を傾け、流れ落ちる己の長髪を手で背に落として片目をつむる。癖になっているのか、黄色の瞳に見つめられながらスバルは背筋を正した。

そして、

 

「墓所の『試練』はエミリアに『過去』を見せてる。あの子が見て苦しんでる『過去』ってやつに、お前は心当たりがあるか?」

 

エミリアが隠そうと必死になっていた『過去』に、スバルはそう切り込んだ。

問いを受けたロズワールは開いていた黄色の瞳の瞼も閉じ、考え込むようにわずかに顎を引く。そのまま、室内にしばしの沈黙が落ち、音のない世界で焦燥感が己を焦がす音だけを聞きながらスバルは待った。そうして、

 

「それを直接、エミリア様に聞かずに私に尋ねるというのは、卑怯なことだーぁとは思わないのかい?」

 

「姑息だ卑怯者だと罵りたいなら好きにしろよ。俺だって、できるんならエミリアのことはエミリアの口から全部知りたいさ。けど」

 

あんなにも涙目で、あんなにも辛そうに、それでも隠そうとする内容を彼女から直接聞き出すことなど、スバルにできるはずもない。

ただ、そうまでして彼女が隠そうとしている秘密を暴くことに対して、スバルは良心の痛みを感じてはいても躊躇うことはなかった。

 

「俺があの子のことを知りたいってのもあるし、知らなきゃいけないってこともある。そのために利用できるもんなら、藁でもなんでも掴むさ」

 

「今まで色々なことを周りに言われたものだが、藁扱いされるのはさーぁすがに初めての経験だよ。……さぁーて」

 

小さく笑い飛ばしてから、ロズワールの表情がふいに消える。

彼は短い息を吐いてから呼吸を止めて、その左右色違いの瞳にスバルを映した。その異なる色彩の視線を浴びせながら、ロズワールは持ち上げた手で額に触れると、

 

「エミリア様がハーフエルフであること。そーぉして、ハーフエルフという存在が『嫉妬の魔女』の影響で、ひどく差別意識を持たれていること。こーぉれらは、さしもの君でもすーぅでに知っているお話だーぁよね?」

 

「……ああ。エミリアがそれで不当な扱いを受けてきたんだろうってのも、あの子の王城での振舞いとか見てたらわかる。胸糞悪い連中とも、顔合わせたしな」

 

脳裏に浮かぶ魔女教の悪辣な姿。首振り一つでその想像を追い払うスバルに、ロズワールは「たーぁだ」と言葉を続け、

 

「確かに特にひどい弾圧を受けたのはハーフエルフだったんだーぁけど……ことはそれだけに収まらない。時にスバルくんは、王都でエルフを見かけたりしたかーぁな?」

 

「エルフ?ハーフじゃなくてか?……いや、たぶん、見てないと思う」

 

顎に手を当てながら、スバルはこれまでの記憶を総動員して世界を振り返る。が、幾度も繰り返した世界の中、スバルの意識にエルフ――美しく、そしてわずかに耳の長いという特徴を持つポピュラーな種族を見かけた記憶がない。

そんなスバルの答えにロズワールは「そうだろね」と短く応じ、

 

「厳しい弾圧を世界各所で受けたのはハーフエルフだけじゃーぁない。そのハーフエルフが生まれる原因の片割れでもある、エルフにもその矛先は向いたんだから」

 

「……!いや、いくらなんでもそれは見境がなさすぎるだろ。それにその理屈で言うなら……」

 

「人間の方も根絶やしにしなくちゃって?残念だーぁけど、この世界においては亜人より人間族の方がはーぁるかに数も多い、国家も大きい。そうした亜人と人間族との溝が広がりすぎた結果が、『亜人戦争』に続いてくるわーぁけだけど、今はその話は関係ないからね」

 

「それで、エルフの弾圧された過去がどうしたってんだよ」

 

亜人戦争、と聞いたことのないフレーズが飛び出し、興味をそそられながらもスバルは本題からずれる前にと話を元の流れへ戻す。ロズワールは顎を引き、「つーぅまーぁり」と左右に頭を揺らすと、

 

「王都のような場所にハーフエルフが顔を出せないのはもちろん、その親種族であるエルフもまた方々に顔を出しづらい。君が王都でエルフの顔を見かけることがなーぁいのも、その影響が大きいだーぁろね」

 

「それは……納得した。したけど、どう繋がってくるんだよ」

 

結論を求めるスバルの問いかけ。それにロズワールはもったいぶるように枕に背を預け、押し返される柔らかさを背に感じながらかすかに上を向くと、

 

「ハーフエルフ差別の延長で、エルフもまた各所で弾圧を受ける憂き目に遭っていたわーぁけ。そうなってくると、エルフたちはどこで暮らせばいーぃんだろうねぇ」

 

「エルフっていや……お約束なら森の中とかに集落を作ってるイメージだ。人が足を踏み入れないような森の中で、狩りとかしながらひっそりと」

 

「どこで知ったか知らないけど、おおよそはそんな感じの考えでいーぃとも。エルフたちは町を追われ、そうして森の奥地でひっそりと暮らすようになるわーぁけ。――エリオール大森林、その場所もそんなエルフたちの住処の一つだった」

 

ふいに、ロズワールの声のトーンが変わったことに気付いてスバルの肩が震える。

自然、部屋の温度が急に下がったような肌寒さまで錯覚。その理由が目の前のロズワール、彼の言葉が持つ言い知れぬ力がそう思わせているのだ。

そして、彼が口にした土地名。それに聞き覚えがある。

 

――エリオール大森林、それはクルシュ邸で交わされた話し合いの最中に幾度も出てきた名称であり、魔鉱石の豊富なロズワールの管理下にある土地。そして、

 

「今は氷漬けになってて、誰も近づけないとか……」

 

「エリオール大森林の凍結が始まり、そして広がったのは記録上は九十年以上前の出来事になる。全てを凍てつかせ、あらゆる生き物を凍えさせる絶対零度の世界。――彼女は、そんな世界でたった一人で生きていた」

 

スバルの不安を肯定するように、ロズワールが常の軽い響きを声音から消して言い放つ。

九十年。長すぎる年月。そしてそこにいたという人物。スバルが求めた話の流れからして、その答えは一つしか思い浮かばない。

そして、ロズワールは言葉を見失うスバルに対して、はっきりと告げる。

 

「――エリオール大森林の奥、そこを住処にしていたエルフ族は集落ごと氷漬けになって今も時間を止めている」

 

「――――」

 

「たった一人、その過ちを犯したハーフエルフの少女を除いて……ね」