『今も、過去も、変わらぬ愛』
血の涙を流しながら、歯を食い縛って絶叫するジュース。
鬼気迫る彼の姿に、エミリアは自分の背筋が総毛立つのを止められない。
ついさっきまで、ジュースの肉体を取り込もうとしていた黒い『ナニカ』。それは彼の肉体の外側を蝕むのをやめて、今は体の内側に張り詰めんばかりに蠢いている。
黒の法衣の下で、歪に跳ね回るジュースの肉体。
内側がどれほどの惨状になっているのか、厚い生地にじっとりと血が滲むことから、想像を絶する悪夢が展開されているのがわかる。
「ジュース……」
いったい、ジュースは自分の体に何を取り込んだというのか。
そして、レグルスを一撃の元に打倒した今の一撃はなんだったのか。何が起きたのかまるで見えなかったそれは、エミリアには既視感があった。
まるでそれを、つい先頃に目にしたばかりのような――。
「見事な覚悟の証明です。ペテルギウス・ロマネコンティ司教」
しかし、エミリアの思考は涼やかな少女の声に中断される。
息を荒げ、血を吐く形相のジュースを見下ろし、悠然と言い放つのはパンドラだ。傍らに立っていたレグルスが空へ打ち上げられるのを目にしていながら、その自然体の美貌は微塵も揺るがない。
「資格のない身で、よくぞ魔女因子を取り込みました。このパンドラの名において、あなたの覚悟と断固たる意思に、『怠惰』の座を与えましょう」
「そのような座、欲しているとでもお思いデスか?今の私が欲するはただ一つ。この身を捧ぐことに一片の迷いもない、あの母子に安寧のあらんことを――!」
戦場を離脱したフォルトナと幼エミリアの二人。
彼女らを逃がすことに文字通りの心血、命すら注ぐ覚悟のジュース。彼の答えにパンドラは驚くように眉を上げた後、うっすら頬を染めて陶然と微笑んだ。
「愛。素晴らしいですね」
「あなたにはきっと、永遠に理解できぬ感情……デス!」
どこまでも超然としたパンドラに対し、ジュースは徹底抗戦の構えだ。
苦しげに肩膝をつく彼は震える腕を持ち上げ、血で赤く染まる目を押し開いて叫ぶ。
「『怠惰』の権能――見えざる手ぇッ!!」
直後、凄まじいプレッシャーがジュースの元から膨大な勢いで放たれる。
しかし、エミリアの目にはそのプレッシャーの正体がまるで見えない。ジュースはただ腕を伸ばして叫んだ姿勢で、目に見える変化は世界に生じない。
それなのに、
「森が、引き千切られていく……!?」
ジュースの四方、まるで『見えない蛇』でものたくったかのように、破壊の痕跡が広がっていく。木々が薙がれ、大地が割られ、土塊や草花がまき散らされる。
「おぉ……おぉぉぉぉぉぉ!!」
それはジュースの周囲を無作為に破壊しながらも、彼の叫びに呼応して進路をパンドラへ向ける。パンドラは正面の景色が巨人に踏み荒らされるように蹂躙されるのを目にしていながら、その場を動く気配すら見せない。
故に、破壊はそのまま真正面からパンドラの小さな体を捉えて――。
「あのさぁ」
「――――!?」
「僕がきてて、僕がいて、その僕を無視して話を進めるとかどういう思考してるの?そろそろさぁ、温厚で無欲な僕でも、怒っていい頃だと思うんだよねぇ」
見えない蛇の一撃がパンドラに届く瞬間、衝撃に割り込む白い姿。
長くも短くもない前髪を揺らし、持ち上げた手で衝撃波を受け止めるのはレグルスだ。常人なら致命傷必至の一撃を浴びて、立ち尽くすレグルスにその影響は見られない。
それどころか、地面を爆砕するほどに叩きつけられておきながら、土に埋まったはずの肉体にはまたしても、傷どころか汚れ一つついていなかった。
「嘘……」
その結果を目の当たりにして、口元を押さえてエミリアは絶句する。
フォルトナの奇襲に対して無傷で立ち戻ったことにはまた納得ができた。フォルトナよりもはるかに戦闘力に優れるのであれば、あの絶死の結界を防ぎきることも可能であるのかもしれない。
だが、ジュースの見えない一撃は話が違う。白い雪煙に隠された攻撃と違い、彼が打ち上げられ、地面に叩きつけられる瞬間をエミリアは確かに目にした。
彼は無防備に地面に叩きつけられたはずなのだ。
傷を負っていないことは、まだ万が一で許せる。
しかし、体に汚れ一つついていないことは説明ができない。
何か、レグルスには攻撃――否、他者からの影響を受けないカラクリがある。
「レグルス・コルニアス……!」
「不愉快だなあ。因子に見込まれたわけでもないお前が、体の崩壊も無視して無理やりにそれを押さえ込んでるんだろ?それって、正しい手順で座についた僕らへの侮辱ってやつじゃないの?僕のちっぽけで、揺らぎようのない自尊心が傷付くじゃないか」
悪意を垂れ流すレグルスの顔面が、ジュースの腕振りに合わせて弾かれる。
殴られたような勢いで首がねじれるが、跳ね戻るレグルスの顔には打撃の跡もない。ただ不愉快そうに眉を寄せ、繰り返される殴打を無防備に浴び続けている。
「これ以上、この場に留まっていても今は進展は見られないと思うよ」
ジュースの奮戦と、それを無慈悲に跳ね除けるレグルスの対峙。
旧知の人物の命を賭した戦いを見守るエミリアに、背後からエキドナが声をかける。
振り返り、エミリアは無表情に戦いを眺める魔女の横顔を睨みつけた。
「この場を離れろって言うの?ジュースがあんなにまでなって、必死で!」
「努力の過程が望む結果に結びつくかどうか、という点は議論の余地があるけどね。ボクは生憎と、君と議論をするつもりはない。弱い者いじめに興味はないし、君の声を一文字でも多く聞くことは不愉快の極みだからね」
「だったら、黙って見てたらいいでしょう。私は……っ」
この場に残って、ジュースの覚悟を見届ける。
そう断言しようとして、エミリアの言葉を引き留めたのは他でもない自分の心だ。
とっさに胸元に伸ばした手が空振りし、エミリアは自分が何をしにここへきたのかを思い出す。エミリアは『試練』に挑みに、過去を乗り越えにきたのだ。
今、エミリアが見るのはエミリアが忘れたがっていた本物の過去だ。
ここで行われるジュースの奮戦は確かにあったことで、この場をフォルトナに連れられて逃げてしまった幼いエミリアに代わり、その結果を見届けるべきなのかもしれない。
――でもそれは、エミリアを送り出してくれたスバルたちの気持ちも、エミリアとフォルトナを逃がそうとしてくれたジュースの気持ちも、どちらも裏切ることになる。
ジュースが逃がしてくれたフォルトナと幼エミリアがどうなるのか。
まだ蓋の開かない眠り続ける過去を見つけ出し、答えを暴かなくてはならない。
「どちらが賢明であるのか、足りない頭でも理解できたようだね」
「……あなたの、言う通りだわ。母様と私を、追いかけましょう。ジュースは」
「心配しなくとも、大罪司教同士の戦いだ。そうそう簡単に、どちらかに天秤が偏るようなことにはならないさ。もう一人が加勢すれば話は別だけど……彼女が戦いに手を加えることは、まずありえないからね」
未練を残すエミリアの目の前で、ジュースとレグルスの戦いは苛烈さを増す。
血の涙に続き、鼻孔と口の端からも血を溢れさせるジュース。体内を蹂躙される被害の増大に比例して、彼の操る見えざる破壊の精度と威力は跳ね上がる。
だが、対峙するレグルスの異常なまでの平常運転もまた際立っていた。無防備に破壊を全身に浴びながら、レグルスは退屈そうな顔でジュースの抵抗を見下している。
あるいは彼が攻撃行動に入れば、この場の形勢は一気に傾くのではと思わされるほどに。
「はぁ……っ」
そしてエキドナの視線が突き刺さる先、胸を弾ませるパンドラの興奮した面持ち。
エキドナの語る通り、彼女が戦いに自ら参戦することはなさそうだ。異常な戦いを目の前にして、艶めいた吐息をこぼす美貌の少女――その異常性は別として。
「場面を切り替える。――森へ逃げた、君と母君のところまで」
「――う」
エミリアの結論を受けて、エキドナが持ち上げた手の先で指を鳴らす。
軽やかな音が鳴った直後、視界がぐにゃりと歪み、森の景色が一変する。足下が突然に別の床に張り替えられるような錯覚に、エミリアは思わず踏鞴を踏んだ。
顔を上げる。破壊の痕跡のない森の中、そしてそれは見慣れた場所で。
「嫌!嫌だよ、母様!お願いだから、置いていかないでっ!」
甲高い幼子の泣き声が聞こえて、エミリアは弾かれたように顔を上げた。
正面、エミリアにとっては見慣れた大木――そのくり抜かれた内側に幼子を一人匿うだけの空間を持ったそれを、『お姫様部屋』と母や自分は呼んでいて。
その入口の前で、泣きじゃくる幼エミリアとフォルトナが言葉を交わしている。
フォルトナは自分の胸に縋りつく娘の肩を掴んで、懸命な様子で、
「お願いだから言うことを聞いて、エミリア。大丈夫。すぐに……そう、すぐに全部片付けて戻ってくるわ。だからその間だけ、ここに隠れていてほしいの。お願い」
「ダメ!絶対にダメ!フォルトナ母様、ジュースと同じ顔してる!ジュースと同じで、何かするんだ!わ、私を置いて、何か……するんだぁ……っ!」
幼エミリアは小さな掌で母を逃がすまいと必死にしがみついている。
振りほどこうと思えば、幼子の手を振りほどくことはフォルトナには簡単にできたはずだ。それでも、フォルトナが幼いエミリアの手を無情に振りほどかないのは、エミリアを見つめるフォルトナの紫紺の瞳が何より歴然と証明している。
フォルトナがエミリアの母親だから、泣き縋る娘の手を振りほどかないのだ。
「置いていかないで!一緒にいさせて!もう、嘘もつかない!約束も破らないっ!いい子になりますっ、いい子になりますから……置いて、いかないでぇ……っ」
「エミリア……エミリア、エミリア、エミリア……!」
母と離れたくないから、母と離れないで済むための全てを捧げる幼エミリアの声に、フォルトナは感極まった顔で娘を抱きしめた。そうやって娘の顔を自分の胸に押し付けていなければ、自分の今の顔を見られてしまう。
溢れ出す涙を止められずに、頬を濡らしてしまう自分の涙を、娘に見られてしまう。
「フォルトナ、母様……」
幼い頃のエミリアが見れなかった泣き顔を、今のエミリアははっきりと見た。
エミリアという少女の中で、いつだって気高くて、立派で、強くて、尊敬できて、弱いところなんて一片だってないと信じて疑っていなかった母が、こんな風に傷付いて、堪え切れない悲しみに打たれて、熱い涙を流すことなんて、想像もしていなかった。
「…………っ」
母の涙を見ている内に、過去を垣間見るエミリアの頬が限界を迎える。
とっさに押さえた手も間に合わず、瞳の端から涙が次から次へと流れ出してきた。
この光景を、今の母の顔を見ていれば、はっきりとわかる。
疑ったことなんてなかったけれど、今この瞬間に、それを改めて確信できた。
「フォルトナ母様は……私の、本当のお母様だったわ……っ」
生みの母親が誰であったかなんて、今のエミリアには何の意味もない。
フォルトナが本当の母親のことを忘れるなと、自分はあくまで代理人なのだと何度言ったところで変わるものか。
大切で尊敬するフォルトナ母様の言葉であっても、それだけは受け入れられない。
「フォルトナ母様……愛してる……」
この気持ちだけは、誰に何を言われても曲がるものか。
「フォルトナ様――!」
幼エミリアを引き離せないフォルトナの背中に、男の呼び声が投げられる。
その声に反応したフォルトナは袖で顔を拭い、涙を乱暴に隠して声の方へ振り返った。視線の先からやってくるのは、軽装のエルフの男性だ。
集落で暮らすエルフの一人で、エミリアも見知った人物でもある。
「アーチ、村の様子は?」
駆け寄る男に普段通りの声で問いかけるフォルトナ。アーチと呼ばれた男性はフォルトナが涙を流していたことに気付いた顔だったが、それに触れずに首を横に振った。
「どこも同じです。司教様のお連れの方々と、男衆で応戦していますが……」
「芳しくはない、わね」
アーチの答えに目を伏せ、フォルトナは戦況の悪さに歯噛みする。
幼エミリアはそんな母を不安げに見上げ、何も言えずに裾を掴んで震えるだけだ。
アーチはそんなエミリアを見て、
「大丈夫だ。そんなに怖がらなくていい、エミリア。村のみんなや、大人の俺たちを信じろ。それにお前のお母さんは、とっても強くて怖い人だ」
「う、うん……」
「アーチ、怖いは余計でしょう。まったく……」
幼エミリアを安心させようとするアーチの言葉に、フォルトナは憤慨したように腕を組む。ただ、下を向いてばかりいられないとアーチの遠回しな気遣いに頷き、彼女は背後のお姫様部屋を眺めた。
「もう、ここにエミリアを隠していても、何の目くらましにもならないわね」
「悔しいですが、この森にいては遠からず見つかります。奴らの目的はやはり……?」
「森の奥の、封印でしょう。どこで聞きつけてきたのか……あの女まで……ッ!」
置いてきたジュースのことや、襲撃してきた魔女教のレグルスとパンドラ。特にパンドラの存在に確執があるのか、フォルトナは悔しげに唇を噛みしめる。
そして、フォルトナは強く首を横に振った。
「いいわ、とにかく私が出る。この森で一番の戦力である私が、こんなところで足踏みなんてしてる場合じゃないもの」
「いえ!俺たちが戦います!フォルトナ様は、エミリアを連れて森の外へ!」
「ここで逃げてどうなるというの?安息の地を奪われる……そんな結論に留まらない。私たちの負けが問題なんじゃないわ。奴らに封印を暴かせることが問題なのよ!」
思い留まるように叫ぶアーチを、フォルトナはさらに強い口調で打ち切る。
それから彼女は怒鳴り返したことを恥じるように「ごめんなさい」と口にして、
「恨んで、いるでしょうね。本当ならあなたたちは、こんなことに巻き込まれるような理由はなかった。私やエミリアがきて……いらない厄介事を」
「そんな……!そんな風に思うものが俺たちの中にいるものですか!」
「アーチ……」
フォルトナの悔恨を滲ませる声に、アーチはそれだけは言わせてはならないとばかりに猛反発する。顔を赤くして、エルフ特有の長い耳を尖らせて彼は激昂した。
「いつまでも、俺たちをあなたたちの問題の蚊帳の外扱いするのはやめてください!我々の寿命からすれば、瞬きのような短い時間だったかもしれない……!それでも、同じ時を、同じものを見て一緒に過ごしたはずだ!お忘れなのですか!」
「…………」
「誰があなたたちを疎ましく思うものか!あなたや、あなたの兄上……エミリアの母君に大恩ある俺たちに、それを忘れる恥知らずになれと仰せなのですか!?」
感情を爆発させて、涙声まじりになるアーチの訴え。
まだ年若いエルフは息を荒げながらその場に膝をつき、鼻をすすってフォルトナを見上げた。その視線を受けて、無言でいたフォルトナは目を強くつむる。
「ごめんなさい。――私はまた、一緒に暮らす家族たちを否定するところだった」
「フォルトナ様……お、俺は、出過ぎたことを……」
「いいえ、大切なことだったわ。アーチ、ごめんなさい。そしてありがとう」
跪くアーチに感謝を告げて、フォルトナはそっと手を差し出す。アーチは一瞬だけ躊躇うような顔をしたが、フォルトナの手を取って静かに立ち上がった。
それから、フォルトナは幼エミリアを振り返り、
「エミリア。母様はこれから、みんなを守るために大事なお役目をしなくちゃいけないの。だから、ちょっとの間だけお別れ」
「やっ……やだよ、母様。私、私……っ」
「お願い。少しだけだから、言うことを聞いて。アーチと一緒に、森の外へ出ていてほしいの。この森は……すごーく、危なくなるから」
泣きそうな顔で首を振る幼エミリアに語りかけ、フォルトナはアーチを振り返る。
決意を宿す紫紺の瞳に見つめられて、アーチはその細い体を硬直させた。
「ふぉ、フォルトナ様……俺は」
「アーチ。あなたはまだ若くて、未来がある。どうかエミリアを連れて……生きづらい世界だけど、きっと希望はあるから」
「そんな……最後みたいなこと言わないでください!俺は、俺は最後まで森に残ってみんなと!」
「エミリアを、お願い。私と、兄さんと、義姉さんの、大切な娘なの」
「――――ッ!」
フォルトナの、それは強さも気高さも消えた、ただただ弱い女性の声。
母であり、女であるフォルトナの声に、アーチは涙を流した。
嗚咽を漏らしながら、アーチは涙を流す自分の顔を掌で覆って、
「卑怯だ……ッ!そんなこと言われて、断れるわけがないって、わかっていて……!俺だって、みんなと戦いたい……ッ!それなのに……!」
「ごめんなさい。子どもに全部を押し付ける、私たちを許して」
涙を流す若いエルフの肩に手を置いて、フォルトナは許しを請う。
何も言えないアーチは、しかし無言でフォルトナの頼みを受け入れた形だ。
そして、この場でフォルトナが言い聞かせなくてはならないのは、幼エミリア一人。
「エミリア」
「やだっ!母様と、母様と一緒にいるの!お願い!お願いします!お願いですから、一緒にいさせてください!一人になるのは……いやぁっ」
「あなたは一人なんかじゃないわ。よく聞いて」
泣き喚き、聞く姿勢にない幼エミリア。耳を塞ぎ、母の別れの言葉の全てをシャットアウトしようとする仕草に、エミリアは過去の自分の頬を張りたくなる。
聞き分けのない態度を咎めたいのではない。フォルトナが口にする言葉の全てを、一言一句、聞き逃すことのないように言い聞かせたいがためだ。
「エミリア」
しゃがみ込み、フォルトナはエミリアを抱いた。
必死に耳を塞ぐ幼エミリアの腕を取り、噛みつくように頭を押し付ける娘の銀髪に頬をすり寄せる。何より、誰より、愛おしいものへ、壊さないように触れるように。
「母様は、いつだってあなたの傍にいるわ。目をつむって、浮かぶあなたの思い出の中に。腕を抱いて、温かくなる胸の中に。声を出して、その声が響く空の下に。ずっと、母様はあなたと一緒。ずっとずっと、いつまでも……一緒」
「嘘だ。嘘だ、嘘だ、嘘だ……母様の、嘘つき……っ」
「エミリア。――約束」
母の言葉を気休めと切り捨てようとする幼エミリアに、フォルトナは視線を合わせて言った。母の口から紡がれた『約束』という単語に息を呑み、幼エミリアが口をつぐむ。
差し出される掌、フォルトナの視線に導かれて、幼エミリアは小さな掌を合わせる。
「母様とエミリアは、いつまでも一緒。そのことを今、約束するわ」
「ほ、本当に……いっしょにいてくれる……?」
「ええ、本当に。母様はエミリアを……リアを、この世の誰よりも、すごーく、大好き」
リア、と呼ばれる優しい声に、幼エミリアが、エミリアの涙のダムが決壊する。
嗚咽を漏らし、泣き崩れる今と過去と二人のエミリア。
「フォルトナ母様……私も、私も母様が大好き……大好き、大好きぃ……っ」
「愛してる。フォルトナ母様を愛してる。すごーく、大好きで、大好きで、大切……っ」
今と過去と二人のエミリアの感情が重なり、向けられる愛へ必死になって答える。
声を絞り尽して、体を押し付け合って、そうしなければ自分の胸の中にある、その感情の全てを伝えられないのだと、溢れ出すそれを表現しきれないのだと教えるように。
「リア、大好き」
頬に、瞼に、額に、フォルトナの柔らかで熱い唇が当てられる。
触れ合うことを、抱き合うことを許しても、母親としての愛情表現には奥手で、この手のことは絶対にしてくれない人だったから――それはフォルトナが本当に心の底から、初めて自分をエミリアの母と認めた瞬間だった。
「――アーチ、お願い」
「……はい。わかりました」
愛娘に最愛を伝えて、立ち上がるフォルトナが青年を呼ぶ。
呼ばれたアーチは滂沱と涙を流す幼エミリアをフォルトナから受け取り、しっかりと抱きかかえると、フォルトナに大きく一度、頭を下げた。
「きっと、無事に逃げてね」
「はい……はい!エミリアに……この子は絶対に、誰にも傷付けさせません!」
絶対の誓いを立てるアーチに、フォルトナは安堵したように頬を緩めた。
そうして森の奥への道を指差して、
「行って、お願い」
「――――」
アーチはもはや何も言わず、フォルトナの指差す方へ向かって走り出す。
森を駆ける青年に抱かれる幼いエミリアは、彼の肩口から背後――遠ざかる母を見つめて、声にならない声を上げた。
その声に、フォルトナは鋭い目つきを本当に優しげに和らげて、
「――愛してるわ。エミリア」
※※※※※※※※※※※※※
アーチに抱かれて、幼エミリアはもう母の見えなくなった方を必死に見ている。
そちらを見つめ続けていれば、見えなくなった母の姿がひょっこりと現れてくれるのではないかと願うように。自分を追ってきてくれるのではと期待するように。
「エミリア……!」
そんな幼エミリアの頑なな心が、小さな体を抱き上げるアーチには伝わっている。
フォルトナとの別離を経験した幼い心に、アーチは何を言うべきなのかと顔をくしゃくしゃにしていた。
「――意外だったね」
そうして走るアーチの背を追うエミリアに、並走するエキドナが声をかける。
まだ母との別離の場面を引きずり、嗚咽を殺し切れないエミリアは視線だけでエキドナへ問いを投げると、白髪の魔女はその肩をすくめてみせ、
「君があの場に留まらず、過去の自分を迷わず追ったことがだよ。てっきり、先の怠惰を見ていたときのように、自分の母親の動向を女々しく引きずると思ったのだけど」
「……さっきも、言ったでしょ。私は、自分の過去を見届けにきたの……!母様もジュースも、みんな……そのためにっ」
「はいはい。余計なことを言ったね」
エミリアの涙声の反論に、エキドナは望む答えを得られなかった顔で首を振る。
その無神経な態度にさすがのエミリアも苛立ちを覚えたが、それを言及するより先に目の前で、アーチに抱かれる幼エミリアが掌で顔を覆う。
「なん、で……なんでぇ……っ。どうして、こんな風に……なったの……?わた、私が約束、破って……お部屋から出たから……」
「違う。違うよ、エミリア。エミリアのせいなんかじゃない!フォルトナ様のせいでも、誰のせいでもないんだ!自分を責める必要なんてどこにもない!」
「じゃあ、どうして……?どうして、お別れなの……?母様も……ジュースも、どうして……きら、嫌われてるの?いろんな、たくさんのものに、嫌われてるから、こんな風に……っ」
あまりにも突然に訪れた、ジュースやフォルトナとの別れに、幼いエミリアの心は砕け散る寸前にまで追い詰められている。
今の状況に陥った原因を、自分の行いを振り返り、自己否定の海に沈む幼エミリア。
約束を破ったこと。出てはいけない部屋を出たこと。知ってはいけない封印を知ったこと。何もかもが、自分の行いが原因で始まったことのように思える。
「一人で……お部屋に閉じこもって……そうしたら、よかった?そうしたら、誰もいなくならないで……みんな、一緒で……いられた……?」
「エミリアぁ……っ」
「私、悪い子だった……?だから、みんな世界に嫌われて……一人に、なるの?」
「違う……違うよ、エミリア。誰も、誰も君を嫌ってなんかいない。世界は君を苦しめるためにあるんじゃない……世界は、みんな、君を祝福するためにあるんだ……!」
再びぽろぽろと涙を流す幼いエミリアに、アーチは必死に言い聞かせる。
それはエミリアを泣き止ませたいという意思もあるが、それ以上に自分自身がそう信じたいがための願いのようでもあった。
アーチの叫びに、過去を見るエミリアは胸を打たれる。
フォルトナや、ジュースばかりではない。エミリアは彼を始めとした集落の皆に、守られて、愛されて、孤独にならないように手を差し伸べられていたのだ。
ずっとそうだったことを、今この瞬間まで、本当の意味では思い出せていなかった。
「そこの君――!」
走るアーチの目の前に、鋭い声を上げる誰かが滑り込んでくる。
木々の隙間を抜けて飛び出した黒い法衣の人物に、とっさに足を止めるアーチは警戒の眼差しを向けた。しかし、相手はその視線に対して手を上げて、
「待て、慌てるな!私はロマネコンティ司教様の指先だ!」
「司教様の……!」
息を切らす法衣の男性に、アーチはジュースの名前を出されて安堵の表情を浮かべる。アーチの警戒が解けたのを見て、男性はこちらへ歩み寄り、幼エミリアに気付いた。
「そちらの少女は……ではまさか、フォルトナ様は?」
「ご心配には及びません。俺……自分にエミリアを託し、残られただけです。フォルトナ様は我々の集落で一番の手練れです。必ずや、立ち入った敵を打ち倒して……」
「……申し上げにくいが、おそらくはそれは難しい」
態度を改めるアーチに対して、男性は目を伏せて掠れた声で言った。
その言葉にアーチが眉を上げると、男性は重々しい表情で吐息をこぼし、
「大罪司教の強欲が確認されて、司教様が応戦されている。それだけなら、他の過激派の信徒を退ければ追い返せる可能性もあったのだが……」
「何か、他の問題が……?」
「――魔獣『黒蛇』が、森に放たれている」
「――――ッ!?」
男性の言葉に、アーチが愕然とした表情を浮かべた。
彼は聞かされた内容に信じられないと首を振って、森を手で示した。
「馬鹿な、ありえない!三大魔獣の『黒蛇』は、白鯨や大兎以上に制御できないはずだ!暴食の制御下にある白鯨や、進路を誘導できる大兎とは違う……黒蛇は、誰にも従わないただの厄災!災禍の中の災禍!それがどうして!」
「……魔女教の、パンドラ様が同行されている。パンドラ様だけは、権能によって黒蛇を制御まではいかずとも、目的地へ誘導することは可能なのだ」
「パンドラ……?そんな人物の名前は……」
「秘密裏にされていたお方なのです!魔女教においても、司教様の穏健派とも他の過激派とも、どちらも共通して口にしてはならない禁忌。その方が、おいでになられた」
絞り出すような男性の声に、アーチも二の句を継げない。
それでもアーチが絶望に沈まなかったのは、自分の腕の中に自分とは異なる命の鼓動を感じていたからだ。ここで下を向くことが許されないと、彼は知っていたからだ。
「自分は、エミリアを逃がすようフォルトナ様に仰せつかりました。森がどうあれど、この子だけは……希望だけは、守り抜かなくてはいけない!」
「……同行しましょう。衰えたこの身で、どれだけ力になれるかわかりませんが」
抗う意思を消さないアーチの態度に、男性も萎れきった表情を立ち直らせる。
法衣の裾を翻し、年齢のわりに鍛えられた健脚をさらしながら、彼は森の外へ通じる道を先導するために走り出す。
「過激派の信徒を避けて進みましょう。とにかく、大森林を越えれば目が――」
ある、と男性が方針を示そうとした瞬間だった。
先導するために前を行く男性の体が、ふいに何かに足を絡め取られて転倒する。横倒しになる男性にアーチが小さく声を上げ、慌てて駆け寄った。
だが、その駆け寄るアーチに男性は鋭い声で、
「くるな!!」
「――ッ!?」
「ぬかった……これほど、早くくるとは!」
駆け寄ろうとするアーチを引き留めた男性が、転ばされた体を起こす。しかし、上体を起こしただけだ。伸ばされた両足は、どういうわけかピクリとも動く様子がない。
ただ、めくり上げられた法衣の下――剥き出しの男の脛に黒い火傷のような跡がびっしりと刻み込まれていた。
「黒蛇の邪舌……!お逃げなさい!」
「ですが!」
「もう、助かりませぬ……」
アーチに逃げるよう言いつける男の顔が、その面貌を急速に変えていく。
法衣から覗く首から上の肌が、徐々に徐々に赤黒い斑点に覆い尽くされ、目元の温厚そうだった顔つきの目が見開かれて、眼球がこぼれ落ちそうなほどに顔が落ちくぼむ。
両手の指で斑点だらけの首を掻き毟り、男は口から大量の黄色い泡を吹いて、
「ぶ、ぶぶ……あ、ぶ……っ」
苦しげに呻いたと思った直後、眼窩、鼻孔、耳朶、口とあらゆる顔面の器官からどす黒い血が流れ出し、男の生命が絞られるように垂れ流される。
その哀れなまでの死に様にアーチはもちろん、直視することになったエミリアは平常心ではいられない。エキドナすら、その表情を痛ましげにしかめたほどだ。
「病魔の坩堝……病巣の魔獣、黒蛇……っ!」
男の末路を見届けて、アーチは掠れきった声で男を殺した魔獣の名を呼ぶ。
その名に反応したわけではないだろうが、アーチと幼エミリアの息遣いだけが支配する静かな森に、突如として別の音が混じり出した。
しゅるしゅると、巨大な生き物が舌なめずりをするような。
長く細いものが、存在を主張しながら床を這いずり回るような。
あまりに音の規模が違いすぎて、印象と符合するのも難しいが、それはまるで、蛇が獲物を前に、舌を出し、地面を這う音に似ていた。
「――クソぉ!」
音の正体を察したアーチは、自分と幼エミリアが黒蛇の狩場にいると気付いた。
声を上げることが不利に働くとわかっていながらも、声を上げるより他にない。そうする以外に、抵抗する術が思い浮かばないのだ。
どちらへ走ればいいのかもわからず、男の死体から離れるようにアーチは走り出す。すでにフォルトナの指差した方へ向かう考えは頭にない。今はとにかく、この脅威から逃れなくてはならない。守るべきものを、守らなくてはならない。
そんな、若いエルフの懸命で必死の抗いは――。
「ぁ――」
地面を蹴った右の足首に絡みつく、黒い邪舌によって無残にも破り捨てられる。
剥き出しの肌に、邪舌の這った部分が赤黒い火傷の傷跡を刻む。
それを見た瞬間、アーチは自分の右足に掌を向けて、
「……フーラ!!」
躊躇いなく、火傷の生まれた脛から下を風の刃が切り飛ばす。
踏ん張りを失い、倒れかける体を木の幹に押し付け、アーチは大量の血が噴出し、激痛に蝕まれて沸騰する脳を歯が割れるほどの歯噛みで堪え、
「ヒューマぁ……!」
空気が割れる音がして、切断されたアーチの右足の傷口が凍りついていく。白い蒸気が上がり、強制的に傷口を止血する手法にアーチは絶叫を上げた。
壮絶な彼の行いに、エミリアは絶句する。即座の判断、激痛への対処。そして、そうまでしても腕の中の幼エミリアを離さない彼の心の強さに。
「アーチ……?」
胸に顔を押し付けられる幼エミリアは、今のアーチの行いを見ていない。そしてアーチも、それを幼エミリアに見せるつもりなどまったくなかった。
彼は幼エミリアに、脂汗の浮く顔のままぎこちない笑みを浮かべて、
「何でも……ないよ……っ。だい、じょうぶだから……!」
途切れ途切れでありながらも、幼エミリアに何も悟らせまいと答えるアーチ。
しかし、残酷な運命は気高い青年の志をどこまでも嘲笑った。
足を切り飛ばし、傷口を凍らせて止血するような決死の覚悟の行いで塞いだ傷――その凍った右足の無事な部分が、水分を失ったように渇き、水を吸い尽くされた大地のように割れ始め、被害が侵食する。
まるで大地が涸れるようにアーチの右足は死に始め、そしてそれは足だけに留まらない。
「……エミリア。あの、二つの木の間の白い花が見えるかい?」
「……うん」
大樹に背を預けてしゃがみ込むアーチ。地面に足の着いた幼エミリアは、彼の指差す方を見て、そこに言われた通りの白い花を見つけて頷いた。
アーチは汗の浮く額を拭い、苦しげな表情を隠しながら、
「その、花の方へ走れるかな?花を、通り越して……真っ直ぐ、真っ直ぐ……」
「はし、れる……走れるよ。でも……」
「じゃあ、走って――」
白い花を見つめて、声を詰まらせる幼エミリアにアーチが告げる。
短い、送り出す言葉。幼エミリアは戸惑いを目に浮かべながらも、彼の様子が尋常ならざることに気付いて、紫紺の瞳を震わせる。
一人になることに。また、目の前から人を失うことに。
「大丈夫。エミリア、君は、一人にならないよ……」
「アーチ……」
「さあ、走るんだ。何が聞こえても、振り返らず……走って!」
アーチの鋭い声に肩を跳ねさせ、踏み出した幼エミリアはそのまま走り出す。振り返りたい気持ちを堪えて、でも振り返るなと言われたから。
アーチの言葉が、フォルトナの言葉が、ジュースの言葉が幼い頭を反響している。
言いつけの全てを守れば、きっと何もかもが元通りになると信じるように。
そうすることだけが今の幼エミリアの希望なのだと、自分自身に言い聞かせるように。
走って、自分を置き去りにして、希望の方へ見えなくなる幼エミリアを見送る。
アーチは長い息を吐き、上着の裾をめくった。
すでに枯渇の浸食は両足と腰を覆い尽くし、胸の下まで到達している。
両足は動かすことができず、それどころか触れただけで崩れて散ってしまいそうだ。
枯渇が胸の上、心臓まで辿り着いたら、どうなるだろうか。
しゅるしゅると、獲物を前に舌舐めずりする魔獣の音が聞こえる。
逃げ去る少女を、森の希望を、アーチの、残り僅かな命の燃やし尽くす意味を、奪い去ろうとでもするような音に。
「誰が、行かせるものかよ……」
しゅるしゅると、遠ざかりかけた音が止まる。
まだ息のある獲物に対し、興味を失いかけていた気を引かれたように。
音が近付く。つまり、終わりが近付くのを感じながら、アーチは頬を緩めた。
自分に死が迫るということは、あの子から死が遠のいたということだから。
「フォルトナ様……きっと、あの子は、大丈夫ですよ」
しゅるしゅると、最期の音が近付いてくる。
それを聞きながら、これ以上ない命の危機にさらされながら、それでもアーチはやり遂げたことを誇るように笑い、
「――――」
その微笑みは、枯渇しきってもなお、涸れないままに保たれていた。
※※※※※※※※※※※※※
――アーチの指差した白い花は、もうとっくに通り越してしまった。
「はっ……はっ……はぁっ」
息を弾ませて、狭い歩幅を懸命に伸ばして、幼エミリアは森を走っている。
アーチの指差した方向へ、とにかくそっちへ向かうことが最善なのだと、他の何も考えずに済むように、母とジュースとアーチと、みんなのことを考えながら。
「うぅ……ううぅっ!」
首を振る。
涙が流れる。口の端を、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪える。
今、何がどうして、どうなっているのだろう。
みんなは何を知っていて、自分は何を知らずにいるのだろう。
どうしたらいいのか、何もわからない。自分にできることは何かないのか。
フォルトナや、ジュース、アーチたちを襲っている人たちは誰なのか。どうすればあの人たちは帰ってくれるのか。彼らは何が目的で――。
「ふう、いん……」
そうだ。
フォルトナとアーチは、何か言っていた。ジュースも、フォルトナと話しながら、それが大事なものであるというように言っていたはずだ。
だとしたら、彼らの目的は。
「――ぁ」
考えごとをしながら走っていた幼エミリアの足下がふいに空振り、少女は自分が地面を見失って、森の窪地に入っていたことに気付く。
とっさに手をつこうとしたが、鋭く抉られた窪地は小さな体を引き留めるような手助けをせず、走る勢いのままに幼エミリアは傾斜を転がり落ちる。
普段なら、すぐに擦り傷の痛みに泣いて立ち上がったかもしれない。
けれど、心身ともに極度の疲労状態にあった幼エミリアは、地面に強かに頭を打ち付けたことで、ほんのわずかな間、意識を飛ばすことになる。
「わた、しが……」
何か、しなくちゃいけないのに。それが、見つかった気がしたのに。
それをしなくてはならないと、使命感の小さな火を胸に灯して、意識が途絶える。
――そして物語は一時的に幼子の元を離れ、激戦の地へと戻る。
二つの運命の、その終着点を見届けるために。