『怠惰捕縛戦線』


 

――じんわりと、嫌な汗が額を伝うのをスバルは感じていた。

 

こうしてひとり、暗闇の森を進むのもすでに何度目になるだろうか。ジャガーノートに追われていたときや、レムとの夕暮れの追いかけっこをカウントするのであれば、スバルにとって土が剥き出しの山中を駆け回ることは慣れたものに近い。

 

とはいえ、それを行うときの事態は常に切迫したものであり、落ち着いた心持ちで獣道を進んだ記憶などあるはずもない。記憶に新しい日々での草を踏んだ感触はもちろん最悪な気分で、それは目的を同じとする今もなにも変わらない。

否、待ち合わせの相手への憎悪が高まっている今、その気分は以前のものよりもさらにさらに悪い方へと傾いているといえるかもしれないが。

 

息を吸い、息を吐き、スバルは早まる自身の拍動を制御しようと試み、浮かぶ汗の冷たさに待ち受ける悪意を思って気が滅入る。

 

心を落ち着かせたい。鋼の心の持ち主になりたい。

どんな激情にも揺るがされずに、どんな悪意に対しても怖気つくことのない、強くたくましい真っ直ぐな精神が持ちたい。

それができれば、そうであれば、きっとスバルは色んな人を傷付けずに、色んなことをもっとうまくやってこれたのではないかと思う。

弱くて、脆くて、どうしようもない自分が、どうしてこんなところに立っているのだろうか。どうして、自分なのだろうか。

 

弱気が、スバルの心を挫こうとする。待ち受ける災厄に対し、震える膝が肉体すらもとどめようとしている。

俺じゃなくても、いいじゃないかとそんな気持ちがある。けれど、

 

「俺『が』いいって、言ってくれたもんな」

 

今はただ、その言葉だけを支えにスバルは立っている。

震えそうになる膝を鼓舞し、挫けそうになる心を叱咤して、顔は前を向く。

汗を拭い、鳴りそうになる歯の根を噛めば、目的地はもう目前だ。

 

「――――」

 

スバルを取り囲む影が、こちらに敬意を示すように恭しく頭を垂れる。そうして目上の存在として扱われることに、以前のスバルは嫌悪感を強く抱いた。

だが今は違う。その憎むべき存在たちからの敬意に、今はしてやったりとほくそ笑む。――お前らが、そうさせたのだからと。

 

「これ言うのも実はこの森で九回目なんだけど、引っ込んでろ。大人しく巣に戻って、しばらく顔を見せるな。俺はこの先で、『怠惰』と大事な話がある」

 

「――――」

 

腕を振り、どこか吹っ切れた様子のスバルの言葉に、黒装束たちの姿が闇に溶ける。相変わらず、得体の知れない連中だった。

顔が割れているペテルギウスと比較すると、脅威度では下がるが、かえって正体の知れない彼らの方が不気味な存在であるといえるかもしれない。

 

そんな感慨を置き去りに、消えた黒装束たちが作った道を正面から進む。

滑りそうな苔を飛び越し、うねる木の根を踏み越え、ふいに視界が開ければ、眼前に広がるのは高々と切り立った崖が道を阻む断崖絶壁。

そしてその正面に、こちらを出迎える悪意が立っている。

 

「お待ちしておりましたデス、寵愛の信徒よ――」

 

両手を広げて、その表情に歓喜の色を浮かべながら、歓迎の姿勢を作るペテルギウスがいる。聞き慣れた対面の言葉もこれで三度目。変わり映えのないそれが、殊更にその言葉に奴の本心が込められているのが伝わってくる。

 

「ワタシは魔女教大罪司教『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ……デス!」

 

知っている、と苛立ちとともに吐き捨てそうになり、スバルはその名乗り上げを中途で妨害するのを寸前で堪えた。

冷静に神妙に、相対しようと心に決めていたにも関わらず、ペテルギウスの狂態はそれだけでスバルの神経を侵し、これ以上ないほどに逆撫でしてくる。

 

息を吐き、息を吸い、スバルは己の双肩にかかる重みを再認識。そうすることでいくらかの落ち着きを取り戻し、へらっと口の端をゆるめて笑みを作った。

 

「大歓迎ありがとよ。大罪司教様直々にお出迎えとは光栄の至り……俺にそこまでの価値があるとは、自分でも思ってねぇんだが」

 

「謙遜されることはないデス。その身から迸る濃密なまでの寵愛。隠し通せるものではないデスし、自覚がないということもないでしょう?アナタの身にまとう情愛はすでに、大罪司教にすら匹敵するのデス!」

 

スバルの言葉に腕を振り、ペテルギウスは地面を踏みながら激しく熱弁。

狂気的な輝きを灯した瞳がぎらぎらと光り、舌を伸ばして文字通りに舐めるような視線がスバルを上から下まで撫でていく。

 

「感じ取ったときにはよもやと思ったものデスが、やはり……アナタ、『傲慢』ではありませんかね?」

 

「その『傲慢』って言われても、ちょっとわからないんだよ。もうちょい、細かい話とか聞かせてもらっていいか?大罪司教についてとか……あとは、試練についてとか?」

 

流れで『傲慢』の単語が飛び出し、スバルをそれと疑うのも今までのループで何度かあったやり取りだ。そこにスバルは便乗する形で、ペテルギウスが幾度も口にしてきた『試練』の情報を聞き出せないかと口を挟む。

試練は、言い換えてしまえばおそらくは今回の襲撃計画そのものになる。その情報が語られれば対策を講じやすいし、仮にこれを聞くことでペテルギウスが激昂するのであれば――少し早いが、戦いの狼煙を上げるだけだ。

 

そんなスバルの、それなりに覚悟のいった言葉に対し、

 

「構いませんデスよ。街道の封鎖の情報が広まるのもおそらくはまだ時間がかかりマス。『試練』の始まりも同様に――時間は、まだまだあるのデスから」

 

「へぇ……街道の封鎖、ね」

 

激昂するどころか、スバルの協力的ともとれる態度にペテルギウスは却って好感を抱いた様子で、嬉しげに手を叩きながらスバルの方へ歩を進める。

狂人の接近に背中が冷や汗で濡れるのを感じながら、スバルはあくまで余裕の態度を崩さずに首を傾けて、

 

「街道の封鎖っていうと、なにか小細工でも?」

 

「『霧』デスよ。それだけで、説明は十分かと思いマスが?」

 

「なるほど。十分だ」

 

手短な答えにスバルも短く応じる。

そして今のやり取りだけで、少なくともペテルギウスたちが白鯨が撃破された情報をまだ耳に入れていないことが確信できた。

白鯨が魔女教の手先――この場合、『暴食』であることは知ってはいたが、連携に関しては未知数だった部分がこれで明らかになった。

 

街道を霧で封鎖したと思い込んでいるのであれば――街道に他の魔女教が張っていることはまずない。エミリアたちを逃がすにあたり、街道を突っ切らせるのもひとつの方策だと目が見えた。

 

「しかし霧で街道を封鎖して、邪魔者抜きで『試練』ってやつか。なかなか食えないやり方するな、ペテルギウスさん」

 

「試練は神聖にして不可侵なるものデス!いかなる苦境であろうとも、万難を排して臨まなくては愛に対して不誠実というものデス!そう!愛に!向けられた愛に!与えられた愛に!我々は!応えなくてはならないのデス!!」

 

「あ、やべ、スイッチ入れちった」

 

不用意な話の振り方で、ペテルギウスの『愛』のスイッチを入れてしまったらしい。

背をそらし、上を向き、目を剥いて咆哮するペテルギウスにこちらの声は届いていない。彼は一心不乱に腕を天へ伸ばし、そこに見えないなにかが存在するかのように、狂態の中で一筋の涙をこぼしながら、

 

「全ては愛に、愛に殉じるのデス!存在そのものが不届きなる銀色の半魔に、それを背負うことの罪深さを!なおも歩けるかどうかの試練を!誠に相応しいか試さなければならないのデス!怠惰でなく、勤勉であれるものかどうか!その道筋を!ワタシが、この手で、この身で、この愛で――デス!!」

 

「相応しいか、試す……?」

 

「そう!試練とはそのためのものデス!故に試されなければならない、試さなくてはならない!魔女因子を取り込み、器に相応しい身かどうか――!」

 

懐を探り、ペテルギウスが取り出すのは黒い装丁の本だ。

手に取ったそれを愛おしげに指でめくり、びっしりと文字で埋め尽くされたそれを一語ごとに愛撫するように触れてゆく狂人。

 

「福音に記されたワタシの役目、為さねばならない愛の証!アナタが『傲慢』であるのなら!ワタシのこの昂ぶる想いが理解できるはずデス!我ら大罪司教が一度に揃うなど、それこそ四百年ぶりのことなのデスから!」

 

「待て!魔女因子とか『傲慢』とか、まだ話が通じて……」

 

「福音を!福音の提示を求めマス!アナタが賜った愛を、このワタシの目に焼き付けさせてほしいのデス!デス、デスデスデスデスデスデスデスデスデスデェェェェェェェッッッッス!!」

 

詰め寄り、息の吹きかかる位置に顔を寄せてくるペテルギウス。生臭い息がこちらに届き、伸ばされた舌が鼻先に届きそうになるのを感じて、とっさの嫌悪感からスバルは後ろへ小さく飛ぶ。

そのスバルの反応を心外だとでも言いたげにペテルギウスは視線で追い、首を九十度傾けた歪な姿勢を作ると、

 

「福音の、提示を――」

 

静かな声で、狂気的な瞳で、そう告げてくるのを聞き、ここまでだろうとスバルは判断する。

まだまだ聞きたいことは無数にあり、聞き出せたことも要領を得ているとは言い難い。だが、今この場ではこれ以上は無理だ。だから、

 

「ああ、待ってろ」

 

懐に手を入れて、ペテルギウスの要求に応えてやる。

福音を取り出すわけではないが、所属を明らかにするものを差し出せと求めてくる狂人に対して、スバルがいったい何者であるのかを示す答えを。

 

「これが――俺の答えだ!」

 

叫び、抜いた腕を真上へ振り上げる――直後、輝いた魔鉱石の光が森のどこからでも確認できるほどの白光を放つ。

目を焼かれるそれに腕をかざしたペテルギウスは、しかし即座にスバルを敵方であると判断したのだろう。

 

「その身に寵愛を帯びていながら……なんたる不敬――!!」

 

怒りの形相でスバルを睨みつけるペテルギウス、その影が爆発し、伸び上がるのは漆黒を伸ばしたような殺戮の魔手だ。

真っ直ぐにスバルの首を目掛けて迫る魔手、身を低くしたスバルは横っ跳びにその指先をすり抜けながら、

 

「ヴィルヘルムさん!双子!!」

 

スバルの呼びかけに森を飛び出すのは、気配を消してスバルの背後からついてきていたミミとティビーだ。

姉弟は同時に木を蹴って宙を舞うと、くるくると回転しながらペテルギウスの矮躯を飛び越えて、断崖絶壁の正面へ――口を開き、咆哮が轟く。

 

「わ――!」

「は――――!!」

 

共振波が大地をめくり、振動の波に呑まれる岩壁が激しい音を立てて崩落する。二度目の生き埋めもまんまと成功し、そのあまりの破壊に目を瞬くペテルギウス。そしてその隙だらけの背後から、

 

「敵に背中を向けるなど――!」

 

地を這うように、低い姿勢でヴィルヘルムが駆け抜ける。

風になったような老剣士の速度に、接近に気付いたペテルギウスが振り返るが――あまりにも遅い。

 

影が飛びかかる剣鬼目掛けてその掌を差し向けるより、振り被られた刃が上下に振られる方がはるかに速い。

斬撃が鈍い音を立てて、伸ばされていたペテルギウスの右腕を二の腕半ばで斬り飛ばす。傷口の鮮やかさに時が凍る中、ただそれだけ動きの止まらない刃が白刃を閃かせて翻り――したたかに、剣の腹がペテルギウスの後頭部を打った。

 

「――がっ!」

 

鋭い打撃にペテルギウスの目が瞬時に焦点を失い、その場に抵抗もできずに膝から崩れ落ちた。と、同時に切り落とされた右腕の傷口から大量の血が噴出。

しとどに大地が朱色に染まるのを呆然と見て、それからスバルは慌ててペテルギウスへと駆け寄る。懐から手拭いを取り出し、倒れ込んだ狂人に失血死されては叶わないと止血の処置をしようとするが、

 

「スバル殿!まだ危険です」

 

「危険たって……うぉえ!?」

 

そのスバルを鋭い声でヴィルヘルムが制止し、なにを言うのかと振り返りかけたスバルは眼前で跳ねるように身を起こすペテルギウスに驚愕を浮かべる。

狂人はその上体を大きく揺らし、なおも白目を剥いたまま、口の端から泡をこぼすような状態でありつつも首をめぐらせ、

 

「ワタシの、指先からの反応が、途絶えて……なにをしたのデス……か!」

 

致命的な出血をこぼしながら、しかしペテルギウスは自らの命の刻限を縮めるそれに意識を払わず、血塗れの舌を出して狂態を演じる。

意識の消失を、舌を噛み切りかけるほどの痛みで堪えたのだろう。自傷をいとわない精神性だからこそ可能な手段なのだろうが、現時点では非常にまずい。

 

「ヴィルヘルムさん!死なれるとマズイ、気絶させてふん縛ってくれ!」

 

「殺さず仕留める――あまり得意ではありませんが、御意!」

 

応じた剣鬼が体を上下に揺さぶり、不可思議な挙動で前へ飛ぶ。

ペテルギウスはなおも焦点の合わないままの顔をヴィルヘルムへ向け、膨れ上がる影の魔手を老剣士へと伸ばす。だが、

 

「乱れて……頭にダメージいってるからか!」

 

伸びる腕の数は十三、十四、十五と次々に増えるが、肝心のヴィルヘルムの方へ伸びるそれの動きは統率がとれていない。揺らぎ、震え、波打つ無為な挙動がそこには生まれ、避ける意思なく風のように走るヴィルヘルムへ追いつけない。

そしてなにより、ヴィルヘルムの幻惑の踏み込みがそれを許さない。

 

「マジで!?」

 

上下に身を振るヴィルヘルムの姿がかすかにぶれ、次の瞬間には上下に同時に老剣士の姿が遍在する。片割れが地を蹴って上空から、もう片割れが身を低くして足下を刈りにいく分身体技――その離れ業にはさしものペテルギウスも泡を飛ばし、

 

「寵愛も知らぬ哀れな愚物の分際で――!」

 

「貴様らの語る愛など知らぬ。この身、ただひとりの女を愛するので手いっぱい故に――!」

 

啖呵にそれを上回る剣気が叩きつけられ、ペテルギウスが蒼白な顔つきで見えざる手を振るう。それは怒りがダメージを凌駕したのか、上下に分かたれるヴィルヘルムの像のどちらにも迷いなく追いつき、その老躯を指先で絡め取って引き裂かんと猛り狂う。

 

「いただきました――デス!」

 

「残念ですが」

 

しかし、そのペテルギウスの会心の笑みが一転、掴んだ指先の向こうで像が消える。

上下、双方から襲いかかっていたはずのヴィルヘルムの姿が消失――そして、上でも下でもない、真っ直ぐに地を駆ける老剣士の姿が像を結び、狂人の眼前へ。

 

「馬鹿、な……!」

 

「殺気と剣気と、足さばきの応用――剣撃の妙技、ご堪能いただけましたか、な!」

 

身をひねり、うなりを上げる剣の腹がペテルギウスの左側頭部を直撃。

鋼が肉を打つ炸裂音が響き渡り、割れた額から血が刹那の間だけ噴き出す。だが、その一撃を受けてそれでも意識を失わないペテルギウスは首を動かし、左の頬に刃の冷たい感触を味わったまま、

 

「剣の冴え、すさまじく……アナタは誠に、勤勉な方のようデス……べっ!?」

 

「悪いが」

 

頬に当てたままの刃に舌を伸ばそうとしたペテルギウス。その顔面の反対を、腰から外したヴィルヘルムの宝剣の鞘が打ち抜いていた。

 

「主からの借り物でな。――下種の唾液で、汚して返すなど考えられんのだ」

 

「で、で……デェスゥ……ッ」

 

両手を振り、宝剣を軽やかな音を立てて鞘に仕舞い込む。そして流れる仕草で腰に戻した直後、ヴィルヘルムは唖然と見守るこちらに薄く微笑み、腰を折った。

 

「ご指示の通り、大罪司教――生け捕りにしてございます」

 

老剣士が老紳士に転身した途端、意識を失った狂人が今度こそ地に倒れ伏した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「もう意識ないよね?確実?近づいて平気?いや、死なれても困るから早めに応急手当てしなきゃいけねぇんだけど」

 

「ビビってるとかなさけないなー、おにーさん。こんなひと、べつに死んじゃってもいーじゃんかねー」

 

「死なれると面倒なことになるって説明されたはずですよ、お姉ちゃん。とりあえず、止血だけはしてみましたです」

 

倒れて動かないペテルギウスの周りで、おっかなびっくりのスバルとそれを指差して笑うミミ。そんな役立たず二人を放置して、テキパキとティビーがペテルギウスの腕に布を巻き、負傷箇所を塞ぐ手当てを施していた。

その間、ヴィルヘルムは崩落した洞穴の方を見回っており、戻った老剣士は結果を目で促すスバルに鷹揚に頷き、

 

「見たところ、完全に埋まっております。出口が別にある洞穴とも思えませんから、中にいた魔女教徒は壊滅と思ってよろしいでしょう」

 

「そか。……あんまし、ガッツポーズしていい報告ではないんだろうけどな」

 

「なんでー?」

 

敵対しているとはいえ、人の生き死にが関わる状況だ。

諸手を上げてそれを歓迎できるほど、まだスバルは異世界の常識に染まり切ってはいない。その点が不思議らしく、ミミはその愛らしい顔立ちながら酷薄な死生観に則った態度で、

 

「敵をやっつけるのにむつかしーこととかかんがえてたらキリがないじゃん。敵はやっつける、みんなはたすける。お金はもらう、おふとんでねる。むつかしーこと考えてるより、そうした方がいーと思うなー」

 

「シンプルでいいな……いや、俺が甘え過ぎってだけの話なんだろうけど。そのことで議論するつもりはねぇよ。それより……」

 

森の方へ視線を送り、スバルは合図とともに行動を起こしたはずの他の面々を思う。前回の流れをほぼ踏襲している以上、奇襲はどの組も成功しているはずだ。

ただ、今回は前回よりも襲撃するアジトの数が二ヶ所多い。加えて数名には村の方へ先に向かってもらったため、その分だけ各地の戦力はダウンしている。

 

リカードをこちらとは別の配置に回し、前回に苦戦したと思しき組の戦力が減らないよう苦心したので、手違いが起きていないと思いたいが。

 

「それに、肝心のペテルギウスはこっちで押さえてるしな」

 

血の気を失い、浅い呼吸を繰り返すペテルギウスを足で引っ繰り返す。

だらりと力の抜けた体は細さも相まって弱々しく、意識のあるときの狂態がなければ病人といっても通りそうな風体だ。黒の法衣が今は自身の血でぐっしょり濡れていて、ますますその見た目は死者に近い。

 

「それで、この者はどうされますか。見張りを立てて置き去りにしますか?」

 

「それもキツイ。目覚めて『見えざる手』で脱出されないとも限らないし、手元から離すと対処できなくなるかもしれねぇ。……連れ回すしか、今はないな」

 

「『見えざる手』……ですか。魔女教の不可思議さに今さら言及するのも野暮ですが、魔法とも精霊術とも異なる術式とは、不気味ですな」

 

「呪いとか、あっちのとも雰囲気違うしね。俺の常識に照らし合わせると、超能力とかの方が近ぇのかな。見えざる手も、言ってみりゃサイコキネシスの亜種みたいなもんって言えないこともないし」

 

術者の意図に従い、他者には見えない手がそれを為す。

それはまさしく、元の世界の現代知識に当てはめるならサイコキネシスが該当しそうなところだ。スバルにも見える時点で、大別はまた違うのだろうが。

 

「ともあれ、防ぐ手立てがない。両手を縛ってても、『見えざる手』には効果ないだろうしな。そういや、魔法使いとかって拘束どうやってするの?」

 

「相手が魔法使いであるなら、詠唱させないよう口を塞げば良いだけです。精霊術師が相手となると、精霊自体がマナを扱えるので難しいところですがな」

 

「なるへそ。確かにパックは、エミリアたんが捕まったって聞いても大人しくしてるようなタイプじゃなさげだ」

 

あの本当の姿を見たあとでは、あの灰色の体毛の小猫に対する認識はだいぶ違う。

普段のパックの振舞いはどうあれ、彼の心情はエミリアに全て傾けられている。仮に前述の状態になっても、エミリア以外を吹き散らすことなど造作もあるまい。

 

長閑な彼と平静なまま、また言葉を交わし合うことができるか、今のスバルには自信がなかった。変わってしまったと、そう思いたくはないのだが。

 

「と、こっちが浸ってる間になにをしてんだ、おチビちゃん」

 

「おチビではなく、ティビーです。ええ、少しだけ持ち物の検査をです」

 

ごそごそと、治療を終えたあとのペテルギウスの懐をまさぐるティビー。

黒の法衣の懐は思いのほか広いらしく、探るティビーは次々に内側に仕舞い込まれていたものを外に出し、

 

「携帯食にラグマイト鉱石。おっと、お財布も持ってるですね」

 

「意外と小市民的で驚きなアイテム欄だな。ってか、お行儀良くねぇよ。いかにお前が傭兵とはいえ」

 

「団の中では知性派だと自負してるですけど、根っこはボクも傭兵ですです。敗者から戦利品をいただくぐらいのことは……これはなんです?」

 

これまた殺伐とした現実感を口にしつつ、首を傾げるティビーが手に持ったのは黒の装丁の本だ。それにスバルは見覚えがあり、思わず「あ」と声を漏らして、

 

「福音、とかペテ公が呼んでた本だな」

 

「――!これが福音ですか!うわぁ、触ってしまいましたです!」

 

スバルの言葉にティビーが即拒絶反応を示した。

彼は手に持っていた福音に熱でも感じたように手放し、地面に投げると砂をかけて遠ざかる。その姿、まさに慌てふためく子猫のようで。

 

「本は大事にしろよ……ひとりの本好きとして軽くへこむぜ。ラノベばっかだけど」

 

読み漁っていた数々の物語を回想しつつ、スバルは落ちた本を拾って埃を落とす。が、そんなスバルにティビーは小刻みに首を横に振り、

 

「す、すぐに手放した方がいいと思うですよ。福音は魔女教徒の手元に届く、入信の証みたいなものなんですから。触ってると、頭がおかしくなるかもですよ!?」

 

「たかだか本の一冊で狂わされるほど、ここ数日の俺の精神的なダメージ耐性は上がってないと思うぜ。……中身は、読めねぇな」

 

パラパラと内容をちら見してみるが、書かれている文字からしてスバルの勉強しているイ文字ともロ文字ともハ文字ともつかない謎言語だ。

若干、達筆過ぎる平仮名風に見えなくもないのだが、達筆過ぎて読めないので内容の把握は困難だろう。ともあれ、

 

「回収は、一応しとくか。俺が読めなくても、誰ぞに読めないとは限らないし」

 

大罪司教の持ち物だ。ひょっとすると、この福音書とやらからその実態を知る手掛かりが得られるかもしれない。

そんな期待があっての所持なのだが、こちらを見るティビーの視線はそれでも恐れた様子なのを隠せない。

 

「そんなビビらなくても。そもそも、本にビビってるわりには熱心にそいつの懐は探ってたじゃねぇか」

 

「呪われた人間と呪うかもしれない本なら後者が恐いです。別に呪われた人間なんて、ボクとお姉ちゃんがいれば倒すのはわけないですし」

 

「おー、そーだぞー!ミミとティビーなららくしょーだー!」

 

話の内容には相変わらず絡まず、弟の言葉に態度で同意する姉。

そんなやり取りに微笑ましさすら感じつつ、スバルは福音書を抱えたまま、地面に横たわるペテルギウスを見下ろして、

 

「で、他にめぼしい持ち物はなかったか?地図とかあったら、ひょっとすると手下の合流場所とか、運が良ければ魔女教の集会場とかあるかもだけど」

 

「そういった持ち物は見当たらないです。その福音を除いたら、着の身着のまま出てきたみたいにしか思えない格好ですですよ」

 

軽装、という意味では確かにペテルギウスの格好は気になるところだった。が、首をひねったところで答えが見つかるわけもない。

これ以上の収穫はここでは望めまいと判断し、スバルは振り返ると、

 

「とりあえず、がっちり拘束して起きないか監視。目が覚めたらその都度、一撃ぶち込んで気絶してもらう感じでいこう。鬼の所業だけど、ヴィルヘルムさん頼める?」

 

「私も剣鬼と呼ばれる身、請け負いましょう。このあとは、避難ですかな」

 

ヴィルヘルムが縄でペテルギウスを縛り上げ、矮躯を肩に担ぎながら問いかけてくるのに、スバルは「そうなる」と頷きで肯定し、

 

「魔女教の掃討はともかく、エミリアたんたちの避難が優先だ。『怠惰』からみんなを遠ざけたあとで、こいつの処遇を決めるって感じで」

 

「意識を奪ったまま、大瀑布から外界へ落とす。あるいは彼奴らの崇める魔女同様に封石に閉じ込めるというのも手でしょう」

 

「詳しく聞きたいけど、後回しにすっか。選べるだけプランがあるのはいいことだ」

 

ペテルギウスの処遇について、細かい詰めはあとに回す。

逃げられる可能性と自害の可能性は、目を光らせるヴィルヘルムが潰してくれる。あとは他の陣営の襲撃が通っていることと、詰めを誤らなければいける。

 

「うっし。じゃあ、ようやっと久々に……俺の女神に会いにいきますか」

 

ある意味では、ペテルギウスとの相対よりもさらに緊張を要する。

そんな決意に胸を熱くしながら、スバルたちは合流を目指して村へと進んでいった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

木々を抜けて、街道沿いの道に合流すると、待たせていたパトラッシュらがスバルたちを出迎えてくれた。

襲撃に成功したチームから順に、ここに残していった地竜たちに乗って村で合流する手筈になっていたので、スバルたちがきた時点で残る組はわずかひとつ。

いくらかの不安はあるものの、残りのチームがライガーを含んだリカードのチームであったことに気付くと、そちらの懸念も払拭される。

 

「とりあえず、ヤマは越えたと思うぞ。前回のお前のリベンジも達成だ。褒めてくれていいぜ、パトラッシュ」

 

太い首をねじ切られる最期を迎えた前回、それを知らないパトラッシュにスバルが恩着せがましく告げると、地竜はその騎乗者の意を仕方なさげに酌んで鼻先を擦りつけてきた。

 

「おうおう、なんだ案外お前も可愛いとこが……おい、ちょっと、痛い、お前の肌って鱗がざらざらしてて痛い痛い痛いって、おい、ちょ、勘弁して……!」

 

勢いに押されて地面に横倒しになるスバルに、パトラッシュはなおも執拗に体を擦りつけてくる。結果、地面を為す術もなく何度も転がされて、一張羅がボロボロの土まみれになるナツキ・スバル。

恨めしげに立ち上がってパトラッシュを睨むが、高貴な地竜は薄汚れた騎手を前に知らん顔だ。

 

「心が通じたと思った日々もあったのに、なんて扱いだよ。覚えてろよ、トカゲ野郎!いずれ、お前を乗りこなしてヒーヒー言わせてやるからな!」

 

「少し前から何度か言おうと思っていたのですが、スバル殿の乗っている地竜は雌ですよ」

 

「お前、メスだったのかよ!?」

 

戦友の思わぬ性別暴露にスバル愕然。

そうなってくると、先ほどまでのスキンシップにも別の意味が生まれてきそうだ。ラノベ展開なら擬人化展開がこの先待ち受けているのかと思いもするが――。

 

「俺のヒロインはもう両手塞がってるから無理だよ!お前の気持ちは嬉しいけど、擬人化されても受け止めきれ……ぶふっ!」

 

横殴りの尻尾のスイングがいい感じに脇腹に入り、息が詰まってスバルは悶絶。その様子を変わらず冷めた目で見下ろすパトラッシュ。どうも、スバルと彼女の間には親愛のパラメーターしか存在していないらしい。

 

「こ、これからも……よろしく頼む」

 

それでいいのよ、と言いたげなパトラッシュが背を屈め、ふらつくスバルをうまい具合に背中に乗せると、一同は揃って村の方へ向かう。

途中、目覚めかけたペテルギウスをヴィルヘルムが目も背けたくなるような一撃で再び昏倒させる一幕があり、そうしている間に――、

 

「村が、見えてきたな」

 

「――どうやら、他のものもすでに辿り着いている様子です」

 

遠目にちらりと村の景観が見え始めたところで、ヴィルヘルムは目を細めながらスバルにそう報告する。相変わらず、スバルはどれだけ目を凝らしてもぼんやりと村の形が見えるだけなのだが、どれだけ体の作りが違っているのだろうか。

ともあれ、待機させていた地竜たちを連れていた仲間が無事に到着していると聞いてスバルはホッと肩を撫で下ろす。

 

今回は村に先にペテルギウスが先回りしている心配もなく、奴の身柄は押さえてある。無事にエミリアたちを村から避難させられれば、後顧の憂いなく魔女教と向かい合うことが――。

 

「……なにやら、揉め事の気配」

 

「え、嘘。なんで?今回はうまくやった方じゃね?」

 

が、そんなスバルの安堵感を置き去りに、顔に渋いものを浮かべるヴィルヘルム。無意味な嘘をここで彼がつくとも思えず、スバルはパトラッシュを急がせて村の敷地内へと一気に駆け込んだ。

そして、その場でスバルが見たのは、

 

「伏して、お願い申し上げる。――我が名はユリウス・ユークリウス。王都ルグニカの近衛騎士団に所属する、近衛騎士がひとり!」

 

膝をつき、自身を取り囲む村人や行商人たちの視線を一身に浴び、高らかにそう名乗りを上げる美丈夫――ユリウスの姿だった。