『囁き』


 

――それはスバルにとって、ひどく既知感を呼び覚ます怒声だった。

 

「魔女の、臭い……」

 

それを理由にこうして敵意を向けられるのは、スバルにとって二度目に当たる。

スバル自身には嗅ぎ取ることのできないそれを嗅ぎ取り、スバルへ親の仇でも見るような憎悪の眼差しを向けてくるガーフィール。

その視線の鋭さを、その敵意の奔流を、すでにスバルは知っていた。

 

魔女の悪臭。咎人の残り香。魔女に魅入られたもの。

 

彼女はそう言ってスバルを罵り、一度はその命を奪うまで関係を悪化させたのだから。

 

「なにを呆けた面ァしてやがる。図星突かれて口も利けなくなったかよ、あァ?」

 

驚愕と動揺で喉を塞がれたスバルに、ガーフィールがなおも尽きぬ怒りを舌に乗せて打ち出してくる。力なく両手を下げているが、警戒は解かれていない。

スバルの一挙手一投足に目を光らせる姿勢は、彼との間に確かにあったはずのささやかな親近感――それへの期待を彼方へと追いやってしまっていた。

 

「その、魔女の臭いってのは……」

 

「あァ?」

 

「俺の体から漂ってるって悪臭は、墓所を出てから――『試練』のあとから漂ってきてるってことでいいのか?」

 

「……そうだよ。それまでは気にかかるほどじゃァなかったってのに、戻った途端にぷんぷん臭いやがる。中でなにやらかしったんだか知らねェが、その臭いをさせてやがる野郎を信用してやるほど、俺様ァお人好しじゃァねェんだ」

 

問いかけに肯定の頷きがあって、スバルは短い吐息をこぼして目をつむる。

魔女の悪臭――スバルにまとわりつくそれの濃さが増したというのは、ほぼ間違いなく『死に戻り』を終えた直後からだ。

以前から疑っていながら、これまで答えを出すことを無意識で避けてきた謎。その答えの一端を、今さらになってスバルは認める。

 

――ナツキ・スバルを『死に戻り』させているのは、魔女であるのだと。

 

理由はわからない。関係性もないはずだ。だが、不思議な理解と納得があった。

あとたった一欠片、はめ込むだけで終わるパズルを前にずっと足踏みしていたような、そんな完成形のわかり切っていた答えをようやく出したような感覚が。

 

「いったい、俺とどんな因縁があるってんだよ……こっちの世界くるまで、超常現象ともなにとも無縁の生活だったぞ。こっちきてからだって、話題の魔女様と直接ご対面したことなんざねぇ……それどころか召喚されて六時間ぐらいで一回死んでるし」

 

『死に戻り』の特性自体、この世界に招かれた段階でスバルに与えられていた。

そこに魔女の関わりがあるのだとしたら、そもそも召喚自体にも魔女の関わりがある。これまで、一度としてはっきりとその答えを求めたことはなかったが――、

 

「ついにそれとも目を背けてられねぇってことか……」

 

「なァにぶつぶつ言ってやがる。わけのわっかんねェことで頭悩ましてる暇があんなら、とっとと大聖堂いって眠りこけてろ。俺様に面倒かけんじゃねェ」

 

「……見逃すのかよ?お前的に言うなら、俺は魔女の臭いを全身から漂わせてる怪しい野郎なんだろ。深夜に人気のない場所で二人きり。逢引きか闇討ちにはもってこいのシチュエーションだぞ」

 

「はっ。俺様ァ気ィは短ェがそこまで考えなしってわけじゃねェよ。……今、てめェの首を噛み千切るのは簡単だけどよォ、それしてどうなるってんだ?半魔の連れのてめェが死にゃァ、もっと面倒が起こるぐらいわからァ」

 

ガーフィールの意図が読み取れず、首を傾げるスバルに「けどな」と彼は続け、

 

「てめェを墓所に近づけて、これ以上悪臭が増すのだけァごめんだ。今はまだ鼻が利く俺様ぐらいしか気付いちゃいねェが……このふんづまりにいるババアや他の連中だっていつ気付いてもおかしくねェ。もっと面倒な連中にもよォ」

 

「もっと面倒……」

 

「心当たりの一つや二つ、あるんじゃァねェか?てめェのその悪臭も今に始まったこっちゃねェだろが。その臭いを嗅ぎつけて、近づいてくるクソ共によォ」

 

牙を鳴らすガーフィールの言葉に、思い当たる節が多すぎるスバルは息を呑む。

そのスバルの反応を見て彼は鼻を鳴らすと、虫を払うような手振りをスバルに向け、

 

「だから、とっとといっちまえ。今なら俺様ァなにもしねェ。明日以降も、大人しくしてるってんなら噛みついてやることもしねェ。だけどなァ、墓所に近づくこととやたらめったに俺様やババアに関わんな。互いに嫌な思いはしたかねェだろ」

 

「互いに不干渉、と。それならなにもしないってのか。ずいぶん、寛大なこったな」

 

「『グリンガムの尾を踏んで命拾い』ってなァ。気が変わらないうちに失せろや。俺様もできりゃァ、ラムに嫌われたかァねェんだ」

 

意中の少女の名を出し、引き合いにした上で選択する覚悟があることを告げるガーフィール。彼から発される敵意が、驚異的な自制心によってかろうじてせき止められていることが伝わってくる。

スバルにも言い分や反論、どうとでも論戦を続ける余地は残っているが、

 

――この場は引くのが得策、だな。

 

そう判断を下し、吐息をこぼすと肩を落として一歩下がる。

前に進む意思はないと表明したことで、ガーフィールの姿勢が露骨にゆるむ。片目をつむり、鼻から長い息を吐く彼は墓所までの一本道にどっかり腰を下ろし、腕を組んだ姿勢のままスバルを見上げて、

 

「それでいい。余計な真似だけァすんじゃねェよ。――俺様ァ今日から、『試練』が終わるまではここで過ごす。明日も明後日もその次も、朝も昼も夜も、てめェをこの先に進ませるつもりはねェ。よォっく、覚えとけよ」

 

「……ラムに嫌われないように、水浴びぐらいはしろよ」

 

「俺様の悪臭がてめェのそれよりひでェことになる前に、エミリア様が『試練』を突破できるよう尽くせ。――とっとと消えろ」

 

目をつむり、どうやら本気でこの場で就寝するつもりらしいガーフィール。

一見隙だらけに見える姿。この場は退散し、大きく迂回して森の中を抜ければ墓所まで辿り着くことは不可能ではないだろうが、

 

「やめておこう」

 

おそらくはそれすらも警戒の一端なのだ。

こうして姿が見える内は、ガーフィールも言葉でスバルを制止するに留まった。だが、その配慮を踏みにじった行いにスバルが出れば、ガーフィールも容赦はしまい。

パトラッシュごと竜車を投げ飛ばすような技量の相手に勝てるビジョンも、獣じみた彼の嗅覚から逃れ切る方策も現状のスバルにはない。

 

「茶会をスルーしたツケがここで回ってきやがったか……」

 

額に手を当てて、あの魔女と話し合いの場が持てていた幸運を今さら悔やむ。あの時点で問い質すべき質問がなかったのは事実なため、責められることではないのだが。

 

「少なくとも今夜はどうにもならねぇ。なにか、手を打たないと……」

 

ガーフィールを突破しなくては墓所に至れない。そしてスバルが墓所に至れないとなれば、エミリアが『試練』を受ける以外に道はなくなる。

そしてスバルの経験上、彼女が『試練』を乗り越えることはあと三日では不可能。その三日の内になにがしかの行動に出られなければ、

 

「屋敷がエルザに襲われる。エルザ撃退の機会は、みすみす見逃しちまう」

 

他力本願であったとしても、どうにかする抜け道を求めてエキドナとの会話は持ちたかった。しかし、それはガーフィールの手で妨害されてしまう。

エキドナの意見抜きにスバルが『試練』を突破しようとするのも、ガーフィールの手によってこれまた妨害があるだろう。

そこまで考えて、スバルはひどくシンプルに現状が詰んでいることに気付いた。

 

「おい、おい、おい……これ、地味にヤバい状態なんじゃねぇか?」

 

技量でガーフィールを突破できない以上、スバルが『試練』に臨むには口八丁手八丁、あるいは別の方策を用いて彼をその場からどかすしかない。だが、それをするにはスバル単独では不可能であり、

 

「協力者を募ろうにも……ラムもオットーも、状況的に俺の味方じゃない」

 

あの二人も、『試練』と王選との関係をすり合わせた上で、エミリアがこの場を乗り切ることが最善であると判断している。もちろん、あと二日もかけてエミリアが擦り切れていくのを見れば意見を変えることもあるだろうが、

 

「それじゃ襲撃に間に合わない。どうにか……できるのか?」

 

エミリアの『試練』突破が困難であると周囲が気付き始めるのと、スバルが抱いている危機感の間に時間差がある。スバルがあまりに強固に『試練』への自分の参加を呼び掛けることは、スバルからエミリアへの信頼の欠如を疑われることにもなるだろう。

それを受け、エミリアがどう思うのか考えただけで胸が抉られるような痛みを感じる。彼女を信じていないわけではない。むしろ、彼女ならば時間をかければ必ずや己に与えられた役割を果たすだろうと確信すらしている。

 

――彼女の背負う、あまりに重すぎる業を聞いてもそう思えるのか?

 

「――――」

 

内心の、あまりに暗く低い自分の囁きにスバルは足を止めてしまう。

時折、こうして囁きが聞こえることがある。自分の中のひどく薄暗い部分が、理想を求めて手を伸ばそうとする愚かさを、後ろからせせら笑うような声が。

 

「『試練』はあの子を蝕み続ける。それでもあの子は周囲の期待と自分の願いのために、傷付いても進もうとする。そうだろ」

 

――傷を顧みず進めば乗り越えられると、本気でそう思えるのか?

 

痛みを堪えて、涙を堪えて、泣き言を堪えて、そうして歩み続ければ、いつか必ず道は開けると、願いは叶うとそう思うのか。

 

――負う必要のない傷も、向き合う必要のない過去も、償う必要のない過去もある。

 

「負い目に思ってるから、なんとかしなくちゃいけないと思ってるから、だからあの子は過去を見て、それで苦しんでるんじゃないのか……」

 

――でも、それは本当に今なのか?時期が悪い、それだけのことじゃないのか?

 

過去は向き合うべきものか、本当にそうなのか。

犯した罪は償わなくてはならないのか、贖いは強制されるべきものか。

彼女も、エミリアも知られたくないと拒んだ過去、こんな『試練』なんてものがなければ、きっとスバルも無理やりに暴こうなどと思わなかった過去。

 

いずれ、時間をかけてそれを呑み込み、乗り越える機会はあったかもしれない。

けれど、それは本当に今なのか?ふさわしい時であるのか?

 

どうにかしなくてはならないと強迫観念に突き動かされて、そんな状態で出した答えに本当に胸を張っていられる意義を見出せるのか?

 

「少なくとも俺は、過去と向き合えてよかったと思ってる。どうにか乗り越えて、自己満足に過ぎないってわかってても、今こうして立ててるのが答えだ」

 

――だけどそれは俺が、過去と向き合う準備ができていたからだろう?

 

大嫌いだった自分自身を、それでも愛していると肯定してくれた子がいた。

その子がいたから、その子のおかげで、スバルは無様な姿を両親にさらすことも、醜い内面を剥き出してくることも、それでも顔を上げて別れを告げることもできた。

 

――今、エミリアにそれだけの準備ができているのか?

 

彼女の抱える過去を、その重さの一端に触れて、スバルがこれまでかけてきた言葉や行動、それらが彼女にどれほどの力を与えられただろうか。

薄っぺらな人生観と、ほんの少しばかりの努力と、裏付けのない愛情を口にするばかりで、彼女の背をどれほど支えられただろう。

 

「……俺は、君にどうするべきなんだろうな」

 

エミリアが好きだ。彼女を愛している。愛していきたいと、思っている。

彼女に好きだと思ってもらいたい。愛されたい。愛し続けてほしいと、そうも思っている。

 

だから彼女に喜ばれることをしたい。助けになってあげたい。苦しいと、辛いと、悲しいとそう思っているなら、それを代わりに受けてあげたい。

それができなくても、許されなくても、せめて彼女の支えでありたい。

 

――スバルを立たせてくれた子が、レムがしてくれたことをスバルもしてあげたい。

 

全身全霊で愛してくれたレムのように、スバルもエミリアを支えてあげたい。

それができて初めて、スバルはレムに誓ったことを本当にする資格を得るのだと思う。だから今、スバルがやるべきことは、

 

「君が立つための時間を、なにかをやり遂げるための覚悟を、そうできるだけの全部を……どうにか作ってあげること、か」

 

口に出して拳を固めて、スバルは自分のやるべきことを見つめ直し、ふとその口から笑みを含んだ吐息が漏れ出す。

なんだ、やることなんて全然変わらないではないか。

 

「あの子のために全力を尽くす――言葉にしてみりゃ、長々と悩んでそれだけの話。まぁ、自分のやらなきゃいけないことを自覚するのは必要だけどな」

 

さしあたって、やらなくてはならない問題と、それに付随する障害。そしてそれらをクリアする、驚きと斬新さに満ち溢れた打開策。それらの立案にかかろう。

時間は待ってはくれない。限られている。そして、焦って間違った結論に走ることも許されない。これまであまりにも、そうして見過ごしてきたことが多すぎるから。

 

「状況の悪さで下向いてても好転はしねぇ。時間が経てば経つほど事態が悪くなってくのは、残念すぎるぐらいに実感があることだしな」

 

時間経過に任せてなあなあで解決、というパターンだけは絶対にありえない。

それがひどく、スバルにとって厳しいこの世界のスタンスというやつで、だからこそ足掻き甲斐ももがき甲斐も、立ち向かい甲斐もあるというものだが。

 

「事態は最悪。時間は待ったなし。相も変わらずわからないことだらけ、だけど」

 

そんなのはいつものことで、そんなのは誰もが当然のことで、それでもやり直す機会が与えられているだけ、自分はずっとずっとマシなのだから。

 

「ナツキ・スバルの勇気が、エミリアを救うと信じて――!」

 

どうにか一つ、頑張って切り抜けてみようじゃないか。