『ナツキ・レム』


 

――晴れ渡る空の下、スバルは降り注ぐ日差しに目を細めていた。

 

泣き声が聞こえる。

女の子の泣き声だ。それはもう、力一杯に気合いの入った泣き声で、小さな体を思いっきりに使って全力で泣いている。

自分の感情の全てをそうやって全霊で表す姿を見ると、子どもってものはどうしてそんなに元気なんだろうかとぼんやりと思う。思ったところで、それがいかにも若さのない思考であったことに自分で愕然とした。

 

「昔っからなんか自分が老成してる自覚はあったけど、意識的じゃなく無意識的に気付くと凹むな。まだまだぴちぴちのヤングメンのつもりだったのに」

 

「なにがぴちぴちだよ。ちっとは自分を客観的に見れねぇのか、オイ」

 

まだまだ現役、と己の空いた掌を眺めていたスバルに横合いから悪態がぶつけられる。聞き慣れた罵声にため息をこぼし、スバルはゆっくりとそちらへ目を向ける。

椅子に座るスバルの横で、座るスバルと視線の高さが同じ位置の少年がいた。スバルの無言の注視に少年は唇を曲げ、「それより」と言葉を継いで、

 

「スピカがぴーぴー泣いてるのをどうにかしろよ。マジ手に負えねぇ」

 

「俺はもうダメだ。ナイーブハートが心ない一言で打ち砕かれてボロボロだよ。もう俺もスピカみたいに童心に帰って泣き喚く。ダメな俺を許してくれ」

 

「天下の往来で大の大人がそんな状態になったら許せねぇよ!?」

 

スバルの大人げない拗ね方に、少年が大仰に身を振って元気に突っ込む。と、その挙動にスバルの手の中に抱かれていた赤ん坊――スピカと呼ばれた少女がまた息を吸い、男が二人が「あ」と「う」と役立たずな一言、感情が爆発する。

 

「ぁ――っ!!」

 

「うおお!泣いた!スピカが泣いた!おいこらリゲル、てめぇなんとかしろよ、兄貴だろうが!」

 

「それ言い出したらあんたの方がよっぽどどうにかできなきゃマズイだろうが!」

 

往来の多い街並み、その大通りの一角で、男が二人で赤ん坊を抱えながらぐるぐると回って責任を押し付け合う。

騒がしい三人に街行く人々が何事かと顔を上げ、バタバタと走り回る二人の様子を見ると「なんだいつものことか」とばかりの顔でさらりとスルー。

結果、泣く女児と泣かす男二人の図式はそのまま継続。微笑ましいとも、ひたすらに騒乱罪的で不愉快の紙一重をひた走る。と、

 

「こんだけ女の子がぴーすか全身全霊で泣き喚いてるってのに、助けの手を差し出す人も出てこないなんて……クソ、なんて世の中だ!人心はここまで荒んだか」

 

「世を嘆いてる場合じゃねぇって!このままスピカ泣き止ませられなかったら、戻ってきたときになんて言われるか……」

 

「誰が、戻ってきたらなんですか?」

 

「そんなの、決まって……」

 

リゲル、とスバルが呼んだ少年が腕を組み、頷きながら振り返る。そして、彼の顔が唖然と固まり、呆然と口がおっぴろげられた。リゲルの視線を追い、スバルもまた同じ人物を視界に入れると「お」と眉を上げて、

 

「買い物、終わったの?」

 

「はい、滞りなく。……あなたの方は大変みたいですね」

 

「いや、スピカ超元気だわ。これ歩いて走り回れるようになったら男を振り回すタイプに育つね。悪女系の将来性があるなんて、俺ドキワクしてきたよ!」

 

軽口を叩くスバルの手の中、スピカは泣き腫らした目をぼんやりと開け、正面に立つ女性に気付くとその紅葉のような小さな手を開き、腕を伸ばす。まだまだ上半身の力が足りないのに上体を起こそうとする姿は、抱かれ心地が悪いからチェンジと遠巻きに宣告されているような気がしてさびしい男心。

 

「といって、要求無視して泣かれても元の木阿弥。うい、任せた」

 

「任されました」

 

口調こそ軽く乱暴だが、抱いた赤ん坊を渡す際のスバルの動きはひどく優しい。儚げな宝物を扱う指先に、受け取る女性が小さく微笑を刻んだ。

そして、受け取った彼女はしっかりとスピカを胸に抱き入れて、その体を軽く揺すりながら、

 

「はい、ダメなお父さんとお兄ちゃんですね。スピカも早く大きくなって、二人を叱ってあげなきゃいけませんよ」

 

「おいおい、言葉も理解できない内からそういう刷り込みとかやめようぜ?」

 

馬鹿な真似と発言をしたあと、腰に手を当ててぷりぷりと怒る二人に挟まれる自分を思い浮かべる。リゲルとまとめて叱られるその光景は、

 

「あれ、なんか思ったより悪くないな。むしろ幸せな未来像すぎて涙ちょちょ切れそうになるかもしんない」

 

「オレはやだよ。妹に怒られるとか、兄貴の面目丸潰れじゃんか」

 

「俺と一緒にばたばたしてる時点で潰れてねぇ面目なんかねぇよ。見える、見えるぞ……妹好きすぎて甘やかしまくり、尻に敷かれるお前の未来が」

 

「自分が尻に敷かれてるからって押し付けんな!オレは絶対にそうはならねぇ」

 

指を複雑怪奇に動かして煽るスバルに、まんまと青筋を立ててリゲルが反論。が、そのリゲルの怒声に眉をひそめたのはスバルではない。

二人のやり取りを微笑ましげに眺めていたはずの、青い髪の女性だ。彼女は穏やかに、しかしはっきりとした声で「リゲル」と少年の名を呼び、

 

「さっきからお外でなんて口の利き方をするんですか。目に余ります」

 

「う、でもだって……」

 

「でももだってもお母さんは嫌いですよ。それに、さっきの言葉も間違っています」

 

口ごもるリゲルを容赦なく叱りつけ、それから彼女は腕の中で大人しくなったスピカに微笑みを向けながら、

 

「お母さんはお父さんを尻に敷いたりしていません。お父さんはいつだって、お母さんの一番なんですから」

 

頬を赤く染めて、天下の往来で泣き喚くより恥ずかしい発言。

それを堂々と言い切る母親を前に、リゲルは今度こそはっきりと両手を上げて匙を投げる仕草。

むず痒さに似た感覚を覚えながらスバルは笑い、その家族の様子を幸せそうに見守る彼女はそっと髪を押さえる。

 

空を映したようなレムの綺麗な長い青髪が、そよ風に撫でられて柔らかに揺れていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

カララギの地方都市の一角――公園と呼んでいいのかいささか疑問の残る広場のような場所で、設置された腰掛けに座りながらスバルはぼんやりとしている。

 

眼前では短い青髪を逆立てたリゲルが、友人たちと悪ガキ連合を組んで右へ左へはしゃぎ回っている。父親に対する口の利き方はなっていないが、そういうところを見ていれば可愛げもあるものだと思えなくもない。

 

「あとはあの人殺してそうな目つきの悪さだけどうにかなりゃなぁ」

 

「ダメですよ。あの目つきの悪さもあってリゲルなんですから。あんなに楽しそうにしてても、どんなに喜んでいても、知らない人が初めて見たら不機嫌に悪巧みしているように見える顔。それがリゲルなんですから」

 

「聞こえてるし、母ちゃんのフォローの方がだいぶ傷付いたよ!?」

 

スバルが教えて流行らせた『氷鬼』に夢中になりながら、鬼に捕まって氷漬け状態のリゲルが何事か叫ぶ。スバルはそれに適当に手を振り、レムも眠るスピカに気付かれないぐらいに手を振ってみせた。

 

唇を尖らせて、その三白眼を不満げに鋭くするリゲル。それがアルバムなどに残る幼い頃の自分にまた良く似ているものだからたまらない。

 

「つまり、あいつの未来はこうなることがすでに確定ってわけだ。俺があいつだったらと思うと戦慄するぜ……二十年後、俺になるって言われたらな」

 

「料理上手で家事万能。甲斐甲斐しく夫に尽くして夫を立てる、理想的で素晴らしいお嫁さんがもらえる……という意味になるんじゃないですか?」

 

「なにそのリア充、爆発しろよ。あ、俺だった!」

 

頭に手を当てて舌を出すスバルにレムが小さく噴き出す。

口元に手を当てて喉を鳴らしながら、彼女はスバルの顔を横目にして、

 

「そうやって否定しないで褒め殺すと、レムは調子に乗ってしまいますよ?」

 

「褒め殺したことになんのかなぁ、今の流れ。自画自賛をあえて否定しなかっただけの話じゃね?まぁ、否定する要素がないのはまぎれもない事実だけど」

 

むしろ、スバルの口から照れや遠慮を完全に排除してレムのことを語らせたら、もっと賛美が飛び交って大変なことになる。子どもたちが覇を競うお昼の公園だけに、家族連れやご近所さんの姿も多い。一度惚気話を始めてしまえば、根掘り葉掘り聞き出されて明日の井戸端の話題を独占してしまうことだろう。

 

それはそれで悪くないかなぁ、と思うあたりだいぶ毒されてきているのだが、スバルはそのあたりのことを意識的に無視し、温かな団欒の中に意識を浸らせる。

目をつむって日差しに身を任せれば、日光の温かみに体が浮くような錯覚が芽生える。夜更かし続きの体が眠気に流されるように意識を引っ張られ、頭がやけに重く感じてふらふらと揺れてしまう。と、

 

「あれ」

 

「眠たいのなら、レムの肩にどうぞ。腕の中は今はスピカの独占中なので」

 

片目を開けてみれば、いつの間にかすぐ隣へ身を寄せていたレムの体がスバルを支えていた。座高の差が少しある二人。スバルが首を傾ければ、すっぽりと彼女の肩に頭が乗せられる状態で。

気恥かしさを覚えながら、スバルは彼女の腕の中で健やかに眠るスピカを見る。父親譲りの黒髪に、母親譲りの愛らしい顔立ち。まだ世界のこともなにも知らず、無垢に日々を生きる愛しい生命。

 

「むぅ、スピカめ。愛娘とはいえ、俺の聖域を占領するなんて悪い子だ。あとでこしょこしょの刑にしてやる」

 

「レムの胸の中を独占するのは夜まで待ってくださいね」

 

「今、ここお昼の公園だから発言には気をつけようね!?」

 

レムの大胆発言にスバルが大きく上体を回して反応。ちらと横顔をうかがえば、言った本人の頬が真っ赤という有様。本当になんというか、

 

「俺の嫁、超可愛い」

 

「日々、愛されておりますので」

 

スバルの惚気にレムもまた惚気で返し、二人して微笑みを交換。レムがにこり、スバルがにへらという擬音の微笑ではあったものの。

そうして見つめ合っているのも気恥かしく、スバルは指で頬を掻くと気を取り直し、「では、お言葉に甘えまして」と改めてレムの肩に頭を乗せる。

 

さらさらと、風に揺れる青い髪が頬に触れて異常に気持ちいい。そのまますんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎながら、レムの肩に頬を擦りつける。

 

「くすぐったいですよ、あなた」

 

「あ、ごめん。なんかやたら気持ち良くてテンション上がっちゃった。スピカ見習って落ち着いてる。落ち着かないのはリゲルに任せるわ。うわ、リゲルこっどもー」

 

「聞こえてんだよ、バカ親父!いちいち引き合いに出すんじゃねぇ!」

 

「リゲル。妹が寝てるんですから、もっと気遣ってください」

 

「腑に落ちねぇ!」

 

凍ったままのリゲルが理不尽に叫ぶが、家族の誰からのフォローもない。付け加えれば誰も凍ったリゲルを助けにこない。とことん、いじられポジションなのだ。

性格や言動、行動パターンがかなり自分に似通っているわりに、周りの子どもたちからはぶられていない点だけは自分より恵まれてるかなぁとスバルは考える。もっとも、子ども時代は自分もそれなりにコミュニティに入れていた気もするので、リゲルの未来は想像以上に明るくない。

 

「スピカはそうならないようにしなきゃだな。リゲルはあんなに残念だけど、お母さん似のお前の未来は明るい。あとは俺みたいなダメ男に捕まらないのを祈るだけ」

 

「あなたの代わりなんてどこにもいません。レムのあなたは世界でひとりです」

 

嫁の太鼓判を押されて小さく笑い、それからしばしの沈黙が二人の間に落ちる。

やわらかな風にくすぐられながら、スバルはそうしてレムの体温を肌に感じながらボーっと無心の世界に入り込みそうになる。

 

日々、労働に勤しんでそれなりに疲労の溜まった体だ。たまの家族サービスの時間、幸せな日常を謳歌している。うららかな日差しを浴び、息子が友達連中にいじられているのを遠目にしながら、娘を抱く妻に寄り添って自分はうたた寝。

――それは、なんと幸せで甘い時間なのだろうか。

 

「スバルくん――」

 

ふと、名前を呼ばれてスバルは閉じていた瞼を開いた。

ちらりと視線を声に向ければ、首をわずかにこちらへ傾けるレムがいる。彼女は透き通る薄青の瞳にスバルを映し、何事か言いたげに唇を震わせる。

 

「……その呼び方」

 

「――――」

 

「久しぶりだな。ここんとこずっと、『あなた』か『お父さん』だったのに」

 

片目をつむり、スバルが口元をゆるめると、代わりにレムが唇を引き結ぶ。

その彼女の態度は数年前を思い起こさせるもので、『逃げてきたばかりの頃』は頻繁にしていたものだ。スバルには気付かれないようにしていたのだろうけれど、彼女が思っている以上にスバルは彼女のことを見ていたのだから。

 

目をつむり、風を感じる。

今日、こうして家族で買い物に出ようと誘ってきたのはレムだった。その意図がどこにあるのか、なんとなく察しはついている。なぜなら、

 

「あの日から、今日でもう八年だもんな」

 

「気付いてたんですね……」

 

「そら、俺にとっちゃ……いや、俺たちにとっちゃ大転機の日だぜ?気付くし、覚えてるってか忘れねぇ。――忘れられねぇよ」

 

運命に屈した日。全てを投げ捨てて、逃げ出してきた日。

なにもかもを諦めるつもりで、でもたったひとつだけは諦められなかった日。

 

あの日の決断と、彼女の愛――それがあったから、スバルは今こうしていられる。

 

「スバルくんは……」

 

懐かしい呼び方は、二人でカララギに逃げてきてからしばらくして、彼女が意識的にしなくなったそれだ。夫婦という形を自分たちと周囲に示すためのことであったとも思うし、どこか一部分でも過去と違う形にしたいという思いもあったのだろう。

今日この日まで、あえてそれに言及してきたことはなかったし、レムもまたその理由をスバルに語ることはなかった。

その置き去りにしてきた日々の中にあった呼び方でスバルを呼び、レムは瞳に複雑な感情の渦を起こしながら、

 

「後悔、していませんか?」

 

「後悔?」

 

「はい。逃げてきたこと。諦めてしまったこと。投げ出してしまったこと。レムを……」

 

「選んだこと、とか言ったら超怒るぜ。リゲルとスピカ連れて実家に帰らせていただきます!あ、リゲルはやっぱいいや。置いてく」

 

向こうでリゲルが凶悪な顔をしたのが見えたが、スバルは「今、大事な話してるから」と息子を千尋の谷へ叩き落として素知らぬ顔。改めてレムに向き直り、「あのさ」と言葉を継いでから、

 

「八年も経って超今さらだし、こんなこと正直何回も何十回も何百回も言ってるからどんだけ効果があるかはわかんねぇけど」

 

「はい」

 

「俺はお前を、世界で一番愛してる。俺の嫁はお前だけで、お前の男は俺だけだ。お前は俺みたいな男が、妥協して手に入れられるような安い女じゃねぇよ」

 

体を起こし、スバルは指先でレムの額を軽く弾く。額に手を当てて、驚いた顔のレムにスバルはずいっと顔を近づけ、

 

「あの日の誓い通り、俺の全てはお前のものだ。お前に尽くす、お前に捧げる、お前のためだけに生きる。――今は、俺とお前の子どものためってのもある」

 

鼻先に唇を寄せ、目をつむる彼女の唇を奪った。

触れるだけの口づけを交わし、息のかかる至近でスバルは年齢を重ねてもそこだけは変わらない悪戯小僧の笑みを作り、

 

「それじゃ、安心できねぇか?」

 

「……ごめんなさい。レムはいつでも、不安なんです。だって、どんどんスバルくんを好きになる。これ以上の幸せな時間なんてないって思っているのに、もっともっと幸せにされてしまいます。幸せで、好きで、だから不安なんです」

 

瞳に涙を浮かべて、幸せだと言い切りながらレムは小さく首を振る。首を振って、スバルの額に額を合わせて、互いの熱を交換しながら、

 

「こうして触れているあなたを、いつかなくしてしまいそうで」

 

「安心してろ。俺はお前を離さないし、いなくなったりもしない。お前が俺に愛想を尽くさない限り、離れ離れになるこたぁねぇよ」

 

「レムがスバルくんに愛想を尽かすことなんてありません――」

 

「じゃ、ずっと一緒だ。愛してる、レム」

 

自分の中の感情を持て余すレムに、スバルは再び口づけた。

やわらかな唇に歯を合わせ、驚きに固まる彼女のさらに深くへ入り込む。互いの柔らかな器官が絡み合い、熱い唾液を舌先に感じた。

そこまでして唇が離れる。軽く息をつき、やや息を深く長くするレム。スバルはそんな彼女に「そもそも」と指を立てて、

 

「妥協とか馬鹿なこと言うんじゃねぇよ。じゃあ、なにか?リゲルとスピカは愛情じゃなく同情でできた子だとでも?スピカは俺とお前の計画性に満ちた愛の結晶だし、リゲルは燃え上がる愛情の若さ故の暴走の結果で生まれた子だぞ」

 

「……リゲルが生まれたときは大変でしたね」

 

腰に手を当てて説教姿勢のスバルに、答えるレムの唇が微笑の形を刻む。

思い出に思いを馳せる彼女は愛おしげに過去の記憶を指先でなぞり、

 

「カララギに移り住んでやっと住む場所と働き口を見つけて、時間をかけてゆっくり生活基盤を整えなきゃいけなかったのに」

 

「いやほら、若かったから辛抱たまらなくて」

 

「スバルくんも仕事のあとで疲れてるはずなのに、寝る前になるとすごく元気になってしまって」

 

「いやほら、若かったから体力が有り余ってて」

 

「正式に雇ってもらえるようになったのと、身籠ってしまったのがほとんど一緒でしたから。あのときはレムも顔が真っ青になってしまいました」

 

「認めたくないものだな、自分の若さ故の過ちというものは……」

 

レムの怒涛の攻め口に、スバルは遠い目をしながら感慨深げに呟く。向こうでスバルに過ち扱いされたリゲルがもの言いたげな渋い顔をしたが、空気を読んでどうにか自制には成功したらしい。なかなかできた息子である。

 

そんな息子の成長ぶりに頷くスバル。その隣でレムも同じように、渋い顔で凍りついたままの息子を見て、「でも」と小さく息を継ぎ、

 

「レムはリゲルを身籠ったとき、本当にとても嬉しかったですよ」

 

「そら、俺だって嬉しかったよ。最初に聞いたときは鼻水出ておしっこちょっとちびって、夢かどうか確かめようとレムに殴ってもらって流血沙汰したしな」

 

レムもそれなりにてんぱっていたせいもあるだろうが、フルスイングでぶん殴られて仮住まいが傾くほどの威力で壁に叩きつけられたのだ。とっさに受け身が取れていなければ、下手したら死んでいてもおかしくなかった。

そんな思い出はさておき、レムがスバルに懐妊を報告してきたときのことは克明に思い出せる。あのときの、自分の胸に湧き上がった温かな思いも全て。

 

しかし、レムはスバルのその答えに首を横に振る。その反応の意味がわからずにスバルが首を傾げると、彼女はその微笑みにわずかに影を差し、

 

「レムの嬉しいは、きっとスバルくんの純粋なそれとは違います。レムが思った嬉しいは……これで、スバルくんを失わなくて済むという喜びでしたから」

 

「…………」

 

「リゲルは、レムとスバルくんの間に確かな形で生まれた絆です。言い方はとても悪いですけど、赤ん坊ができたことでレムとスバルくんの間には、決して切り離せない確かなものが繋がれた。……それがレムには嬉しかったんです」

 

不安な日々が、ずっと彼女には圧し掛かっていたのかもしれない。

これまでの積み重ねもなにもかも捨て去って、新天地に己と相手の二つだけで逃げ込んできたのだ。もはや互いに縋るものは相手しかいない日々の中、レムはいつまたスバルを失うかわからない恐怖にずっと耐えかねていた。

 

彼女の自信のなさは、スバルととてもいい勝負ができるレベルのものだ。

過小評価がすごすぎるレムにとって、スバルとの生活は極限の幸せと極限の恐怖で削られ続ける時間に等しかった。

そんな時間に終止符を打ったのが、二人の間にできた新たな命。

 

「信じられなかったか?」

 

「いいえ。レムはスバルくんをこの世の誰より信じています」

 

「違うよ。俺を信じられなかったんじゃなくて……自分を、信じられなかったのか?」

 

スバルの否定の言葉に、レムは小さく息を呑み、それから頷いてみせる。

彼女の中でスバルの存在は不相応に大きい。それに対峙する自身の影が、彼女には殊更小さく思えて不安なのだろう。

――同じだけの思いをいつだって、スバルも抱えていることに彼女は気付かないのだろうか。レムは自分にはあまりにも、できすぎた女の子だとスバルもいつも思っているというのに。

 

笑ってしまう。と、スバルが歯を見せて口元をゆるませるのを見て、レムは心外だとばかりに頬を膨らませると、

 

「いいんです。レムがバカだったんです。笑われたって仕方ないくらい……」

 

「違う違う。改めて思っただけだよ。俺とお前は性根の部分がそっくりで、そんでもって俺の嫁はやっぱり世界一可愛いって」

 

不意打ちなスバルの言葉にレムは一瞬驚いて固まったあと、ボッと顔を赤くする。その反応を見ていると、やっぱり自分は彼女を愛しているのだと実感できた。

世界一、レムのことを好きでいる。愛している。声高に、叫ぶこともできる。っていうか、事実たまにしている。ご近所でも有名な熱々夫婦だ。

 

「――リゲル、スピカ」

 

「ん?」

 

ふと、レムが愛おしげに自分たちの子どもの名前を呼ぶ。首を傾けるスバルにレムは「いえ」と言い、上目遣いにスバルを見つめて、

 

「どっちも、星の名前でしたよね。スバルくんの住んでいた場所での、星の呼び方」

 

「そそ。俺の親父は基本的に頭おかしくて常識をトコシキって読むような残念な人間だったけど、俺の名前を昴って付けたことだけはいい判断だったと思ってる。気に入ってんだよ、名前。スバルってのも、星の名前でさ」

 

小学校の頃だったか、自分の名前の由来を確かめるという課題かなにかで、スバルは自分の名前の来歴を知ることになった。夜空を彩る星のひとつが自分の名前だと知ったときは、柄にもなく嬉しさにはしゃいだものだった。

以来、趣味はなんでも長続きしない性質だったものの、星の図鑑を眺めるようなことだけは長く長く習慣として続いた。星の名前なら一通り知っているし、なにかに名前をつける機会があれば選択肢は当然、

 

「星の名前から取る、ってな。ネットのハンドルネームも星の名前だし、偽名とか名乗るにしてもたぶん星から取るね。これもある意味、キラキラネーム!?」

 

「どういう意味かはわかりませんが、星の名前から取るのは素敵だと思います。三人目が生まれてきても、きっとそうしましょうね」

 

「今から三人目の話とか気が早くね?スピカ、まだ乳児だよ?」

 

「授乳のとき以外はリゲルに任せてしまえば大丈夫だと思います。なんのために、リゲルが大きくなるまで次の子ができないよう注意したと思ってるんです?」

 

「俺の陰で目立たないけど、レムもけっこうリゲルに対してガンガンいくよね!?」

 

日頃の息子の扱われ方に苦笑して、スバルは尻を払うと立ち上がる。見上げるレムの前でスバルは背をそらし、腰を回して、

 

「そろそろ、買い物も置きたいし家に帰ろうぜ。外だと人目が気になって、思う存分いちゃいちゃできねぇし」

 

「そうですね。今はレム、久しぶりに全力全開でいちゃいちゃしたい気分です」

 

「お、鬼の体力に付き合うのって今の俺のリビドーでいけるかな……」

 

恐々と呟いて、それからスバルは長椅子に座るレムに手を差し伸べる。レムがゆっくりとその手を取ると、引っ張るようにして立ち上がらせ、「わ」と声を上げる彼女を腕の中に抱き入れた。

スピカごと彼女を抱きしめて、その温もりをしっかり堪能してから、

 

「んじゃ、帰ろうぜ。俺たちの家に、な」

 

「はい、あなた」

 

片手に買い物袋を持ち、もう片方の手でレムの差し出す手を握る。前を歩くスバルに半歩遅れて、手を繋ぐレムが寄り添いながら歩く形だ。

そうして広場の真ん中、いまだに凍りついたままの息子の傍へ行き、

 

「おい、札幌雪まつり中の息子よ。あまりにも氷鬼に進展がなくて見てて最高に詰まらないから、俺とお母さんと娘は家に帰る。お前は友達の家にでも泊まれ」

 

「露骨に追い出しにかかりやがったな!?っていうか、両親が真昼間っから公園の真ん中で堂々とキスしていちゃついてる件」

 

「ざまぁ、嫉妬乙。悪いな、リゲル。このレム、俺専用なんだ」

 

「うぜぇ!!」

 

鼻を膨らませて高笑いのスバルに、リゲルが三白眼を鋭くして怒鳴る。だが、そうすればするほどスバルが嬉しげにするのを見て、リゲルは長く深い吐息をこぼしながら頭を振り、

 

「落ち着け落ち着け、オレ。親父のペースに振り回されるな。落ち着け、落ち着けー。よし、落ち着いた。で、母ちゃんとなんの話してたん?」

 

「ああ?お前の名前の由来が星の名前って感じの話だよ。お前の最初の名前の候補は実はヴェガだったんだが……」

 

「強そうじゃん!なんでやめたんだよ」

 

「いや、強そうだろ?強く育ちそうで、反抗期とか手強くなりそうだからやめといた。いずれ抜かれるとわかっていても、息子には負けたくない父親心ってやつが俺にそう囁いたのさ」

 

「そんな生後数日しか経ってないような乳児相手にそこまでの未来を!?」

 

スバルの冴え渡る軽口に、飛び跳ねて突っ込みを入れるリゲル。と、

 

「あー、リゲル動いてるやんか!氷鬼の決まり破ったらあかんで!」

 

「あ!」

 

それまでリゲルを意図的に省いていたとしか思えなかった鬼が、動いたリゲルをここぞとばかりに糾弾する。喉を詰まらせて固まるリゲル。その肩をスバルが叩き、

 

「氷鬼の掟を破った奴には罰ゲームだ。もう笑ったり泣いたりできなくなるまで鬼にくすぐられる。――頑張れ」

 

「マジな顔でなにをとんでもないことを……おい、なんだよ、お前ら!ちょっと待て!この男の言葉を真に受けるな!待っ、うわぁぁぁぁ――!!」

 

ぞろぞろと現れた子どもたちにリゲルが追い回される。リゲルは逃げ出した。しかし、回り込まれてしまった。そのまま四肢を掴まれて地面に押しつけられ、抵抗もむなしくその体に白い指先がいくつも襲いかかり、

 

「さらば息子よ。お前はいい息子だったが。お前の父上が悪いのだよ」

 

「リゲル。お父さんとお母さんは大事な話し合いがあるので、今日はお友達の家に泊まるんですよ。あと、角の使用は禁止です。服は破かないように」

 

「お、覚えてろ、薄情両親――!!」

 

山ほどの魔手に体を弄ばれて、強制的な笑い声がリゲルを中心に弾け出す。兄のそんな醜態を薄目に見て、スピカが楽しげな声を上げるのが見えた。

なかなか、将来有望な感性をしている。きっと、彼女の躍進はリゲルのナツキ家での立場をより盤石なものへと変えるだろう。

 

愛してやまない愛息子へ、ちょっとばかり歪んだ形で愛情を示して、スバルはレムの手を引いて歩き出す。

大切な家族が暮らす、安らぎと幸せに満ちた我が家へ。

 

「スバルくん」

 

「ん?」

 

手を引かれて足を止めて、スバルは振り返る。

途端、強い風がふいに二人の間を吹き抜けた。思わず目をつむり、風の音が止んでからゆっくりと目を開く。

 

レムの長い青髪が風に大きく撫ぜられて、日差しの中に溶け込むように煌めいていた。

髪を長く伸ばすようになったレム。それが誰に対抗してのものだったのか、今のスバルにはなんとなくわかっている。そして長い髪の少女を連想するとき、一番最初に浮かぶのはもう、目の前の世界で一番大切な女性であることも。

 

青い髪が静かに流れ、腕の中の愛娘を抱くレムがスバルに笑いかける。

それはこの上なく、スバルにとって愛しいという感情を呼び起こさせる最愛の存在の微笑みであった。

 

「レムは今、世界で一番――幸せです」