『砂の塔の番人』


 

――暗い、暗い澱みの中に意識はあった。

 

そこを訪れるのは、ナツキ・スバルにとっては久しぶりのことだ。

以前にも何度か、それこそ、『死に戻り』するたびに強制的に呼び寄せられていたような気がする、地にも空にも果てのない、闇だけが広がる黒い世界。

 

思えば、ここも不思議な空間だった。

なにせスバルは、この場所にいた記憶を外に引っ張り出せた試しがない。出入りするのは初めてではないのに、外に出たときには入ったことを忘れてしまう。

それはまるで、泡沫の夢のような儚い感覚だ。

 

淡い闇と、薄ぼんやりとした記憶の狭間で、外ではナツキ・スバルと呼ばれる意識は宙を掻き、ゆっくりと漆黒の中を泳ぐ。

 

意識だけで浮上し、肉体はもちろん、手足も目も耳も口もない感覚も慣れた。

上下左右がわからないことへの頼りなさも、奥行きも何もかも見えないことへの不安も、ただ一つのことだけに支配される意識にとっては関係ない。

 

意識の中核に位置し、あるいは意識そのものを形成するのは、耐え難く止め処ない激情――否、それは親愛であり、信愛であり、深愛であった。

 

ここへくれば、その愛情の源に出会うことができる。

意識はそれだけを学習し、再びここを訪れることができたことに歓喜する。

ずいぶんと久しぶりに味わう邂逅を前に、ないはずの胸が弾み、存在しない唇は歌うような喜びに満たされていた。

 

しかし、そんな意識の感慨は――。

 

「ずいぶんと、浮かれきっているようなのデス」

 

「まったく冗談じゃないよね。ちょっとばかり運が良かったぐらいで勝ち誇って、その後も調子に乗られっ放しじゃたまらないよ。図々しいにも程があるっていうかさ。もうちょっと、自分のことを客観的に顧みてほしいんだよね。そうしたらさ、自分がどれだけ厚顔無恥なことをしてるかわかりそうなものだってのに」

 

ふいに聞こえてきた、本来なら届くはずのない声に邪魔される。

 

『――――』

 

意識は振り返る。

顔も肉体もなければ、方角も定まらない世界で、振り返る行為に何の意味があるのか。それはない意味を探すのではなく、ない意味を作るための行いだ。

振り返るためには、肉体が必要となる。意識的にそう考えて行動に移せば、漆黒の闇は何もないナツキ・スバルにそれを与えざるを得ない。

 

かくして、振り返る意識はナツキ・スバルになり、振り返る肉体とあたりを見回すための視界を与えられた。

だが、それだけではまだ不十分、肉体としての完成は程遠い。このスバルは出来損ないであり、本物のナツキ・スバルは到底再現できていない。

 

手があればいいのか、足があればいいのか、あるいは鼻が口があればいいのか。

――否、人間一人を作り出し、再現するというのはそう簡単なことではない。

 

ナツキ・スバルを作るには、ナツキ・スバルはナツキ・スバルを知らなすぎる。

当人一人だけの知識や記憶だけで出来上がるほど、ナツキ・スバルは容易ではない。

 

故に現状、これ以上のナツキ・スバルを作ることは不可能だった。

だが、その欠落した状態に、不完全なナツキ・スバルは気付くことができない。

そのため、仮初の肉体に仮初の視覚を与えただけの不完全なナツキ・スバルは、地に足もつかないような状態にありながら、ぐるりと周囲を見渡し、気付く。

 

闇の中に浮かび上がる、ナツキ・スバル以外の『意識』の存在に。

 

「おぞましくも浅ましい、これは独りよがりの産物に他ならないのデス!あぁ、なんと罪深く、汚れた在り方か!ただただ、軽蔑に値するのデス!」

 

「並以下どころか人間以下、不完全ここに極まれりって感じじゃないか。そんな奴がさぁ、満たされていたこの僕を足蹴にするなんて何を考えてたんだ?分を弁えれば最初からわかりきってたはずだろ?僕の前に立つのも、立ちはだかるのも、邪魔するのも!阻むのも!何もかも!不足なんだよ!足りてないんだよ!人間らしく論理的に考えればさぁ……!人以下の、人畜風情にもさぁ!」

 

闇に浮かび上がる『意識』が、揃って不完全なナツキ・スバルに罵声を浴びせる。

片方は狂的に、片方は禍々しく、それぞれの憎悪をナツキ・スバルへぶつける。

 

ただ、残念ながら、意識だけのナツキ・スバルにはその憎悪が理解できない。

理解するための心が、脳が、このナツキ・スバルには用意されていない。その『意識』たちの言い分を理解しようとするなら、肉体を用意したように、この視覚を作り出したように、理解するための器官を生み出す必要がある。

 

『――――』

 

――だが、なんとなく、そのための器官はいらない気がした。

 

少なくとも、この二つの『意識』の言い分を理解するために、そうした機能を持たせようとすることの意味は薄く、何より欲求を覚えない。

無から有を引きずり出すのも容易ではない。せめて、ナツキ・スバルの意識がそれを本当の意味で欲さなければ、それを得ることも生み出すこともできない。

なので、その二つの『意識』の言葉に応じる言葉も、理解するための頭も、現状では後回しにせざるを得ない。いや、本当に、他意はなく。

 

「なんたる不遜!なんたる軽視!なんたる侮蔑!これほどまでにワタシが勤勉を以て訴えかけているというのに、わかろうとする努力さえ欠くのデスか!それはなんと、あぁ、あぁ、嗚呼……!怠惰!アナタ、怠惰デスね!」

 

「どこまで他人をコケにすれば気が済むんだよ、人畜野郎……!いいか?僕を誰だと思っている?僕はこの世で最も満たされ、あらゆる出来事に心乱されない日々を望む、無欲で平凡な幸福だけがあればいい男なんだよ。それをお前が邪魔をする。権利の侵害だ。邪悪の所業だ。他人の幸福を足蹴にするのも大概にしろよ……!」

 

埒が明かない気がして、二つの『意識』に背を向ける。

肉体があると、対話する意思がないことを身振りで示せて便利だ。背後では今もなお、二つの罵詈雑言が響く気がするが、気にすると見えてしまうので気にしない。

振り向かずとも視覚は働く。この場合、おそらく『視覚』ではなく、『眼球』の存在が必要になるのだろう。機会があれば、それを作ることも念頭に入れたい。

 

ただ、今はそんな些事にかかずらわっている暇はない。

 

『――――』

 

何故なら、ナツキ・スバルの意識の前には、目的の影が姿を見せつつあるからだ。

 

『――――』

 

何も見えないはずの漆黒の闇、黒の中でより濃い黒を纏う影はいっそ鮮やかだ。

時にはナツキ・スバルの心を凍らせ、震え上がらせるしなやかな指の両腕。細身でありながら柔らかさを感じさせる肢体に、それを包み込む闇色のドレス。

相変わらず、首から上は濃霧に覆われたかのように判然としないが、そこに愛しい感情を抱かせる『誰か』がいることを、ナツキ・スバルは魂で理解している。

 

その姿形は明らかに、以前の邂逅のときより明瞭になり、距離も近い。

以前の邂逅では腕と体つきだけが見えていた人影は、今では身に纏うドレスと、長いドレスの裾から覗く素足まで見える。ほとんど肉体は完全に再現され、ナツキ・スバルに見えないのは闇に隠れる顔貌だけだ。

 

もどかしくはある。しかし、今はそれでいい。

前より強く、より近くに彼女の存在を感じる。だが、ナツキ・スバルの方に、明瞭になりつつある彼女を迎える準備が出来上がっていない。

 

今はただ、すぐ近くに在れることを喜べばいい。

いずれ必ず、その頼りない指先と触れ合い、細い腰を抱き寄せ、愛を交わそう。

 

『――愛してる』

 

その言葉に、出来上がったばかりの顎を引いて、ナツキ・スバルは応じた。

それだけのことに影が喜ぶのがわかり、申し訳ない思いが芽生える。

 

次の機会には、こちらからも愛の言葉が告げられるよう、『口』と『舌』が必要だ。

そんな感慨を覚えながら、ナツキ・スバルの意識は影の庭園から離れ――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

寝起きはいい方である自覚のあるスバルだが、その反面、寝つきが悪いことも実は自覚として持っていたりする。

 

スバルにとって、眠りからの目覚めとは水面に顔を上げる感覚だ。水中にいた人間は誰であれ、水面に顔を出せば呼吸を忘れることはない。

スバルにとって、その呼吸こそが目覚めの意識の覚醒であり、目覚めの『呼吸』はできることが当たり前のことなのだ。

 

「寝起きがいいのって羨ましいな。私、すごーく寝起きが悪くて……」

 

とは、以前にそんな会話を交わしたときのエミリアのコメントである。

ちなみにエミリアの寝起きだが、これがこの言葉は誇張でも謙遜でもなんでもなく、本当にだいぶ悪い。イメージ通りといえばイメージ通りなのだが、エミリアは非常に低血圧で、目覚めてベッドから出るのに小一時間ほど必要なぐらいだ。

 

朝方にベッドの中で体を起こし、うつらうつらとしたまま意識の覚醒を待って、ようやく布団から外に出て、顔を洗って髪を整える――というスタイルである。

反面、スバルと違って寝つきは子どものようにいいのだから、まさに対照的。

 

「森だと、私以外にパックしかいなかったし、パックも夜になっちゃうとそんなに出てきてくれないから……寝ちゃうしかすることなくて……」

 

とは、以前にそんな会話を交わしたときのエミリアのコメントである。

これに関してスバルがどう受け答えしたかについては詳細は伏せさせてもらう。今では夜更かしに付き合う相手もいるのだから、昔のことは忘れるべきだ。

 

ともあれ、寝つきの良さはスバルには素直に羨ましい。

スバルはどうしても、ベッドに入って暗がりの中で目をつむると、色々考えてしまう。特に考えることが多いのは、ああしていればこうしていればという後悔のこと。

それはその一日のことであったり、あるいはもっと前の出来事のことだったり、後悔は時期も手段も選ばずにスバルを責め立てる。

それと戦っていると、どうしても寝付かれない。寝つきの悪さはそれが原因だ。

 

――だから、砂海の地下の出来事も、スバルにとっては新たな後悔の種として、今後のスバルの安眠を大いに掻き乱すことになること請け合いだった。

 

「……ここ、は?」

 

目覚めた瞬間、スバルは自分が『死に戻り』とは違う覚醒を迎えたと理解した。

まず、周囲に光がある。闇色の中で目覚めた砂海の地下と違い、周りを見渡すことができる状況は変化の証拠だ。さらに言えば肌寒さも薄れ、体は砂の上とは全く異なる感触に抱かれている。背中越しに感じる柔らかい感触は、おそらく寝台だ。

頭の下にあるのも、枕と呼ぶべきそれであり、つまりスバルは――。

 

「ベッドで寝てる……」

 

声に出して確認すれば、寝転がる体の上にかかるのは白いタオルケットだ。

枕と寝台の感触は、よくよく確かめれば知らない感触ではない。むしろ、ここ最近では非常に慣れ親しんだものであり、すぐに竜車に備え付けの寝具だと気付けた。

故にここは、プレアデス監視塔攻略のために使用された竜車の中だ。

 

「って、なんでそんなことに……!?」

 

逸れたはずの竜車の、その中に寝かされていると理解し、スバルは上体を起こす。その瞬間、起こした体の右手が誰かに掴まれていることに気付いた。

とっさに振り向けば、スバルの右隣――ベッド脇の床に膝を突き、寝台に体を投げ出して眠る少女の姿がある。どこか安堵した顔でスバルの手を握るのは、銀髪を一つに纏めたエミリアだ。

 

微かな寝息と、掌から伝わる温もり。

彼女が確かにここにいることに、スバルは掠れた息を漏らし、脱力した。

 

「ぁ、は……エミリア、だよな?これ、無事に……」

 

すぐ傍らに寄り添うエミリア、その姿に実感が持てず、スバルは戸惑う。右手は握られたままなので、左手を伸ばしてその頬に触れた。

白い頬は熱く熱を持っており、その肌は常軌を逸して滑らかで柔らかい。触れているだけで愛おしさが爆発しそうになり、許される限り頬をこねて確かめる。

 

「おお、間違いない、エミリアだ。……可愛い、やわっこい、あったかい」

 

「――あんまりイタズラしてやるもんじゃないのよ。エミリアもずいぶん、スバルを心配していたかしら。二晩、寝てないのよ」

 

「おおっひょい!?」

 

頬を弄られてエミリアが小さく唸るのを堪能していると、唐突に聞こえてきた声にスバルは思わず肩を跳ねさせる。そして慌てて振り返ってみると、寝床と生活スペースとを繋ぐ扉のところに、呆れた顔で寄りかかる幼女を発見した。

 

「ベア――」

 

「しー、かしら。聞き分けのないスバルは嫌いなのよ」

 

「――――」

 

思わず、再会を喜ぶ声を上げかけ、寸前でベアトリスに制止される。とっさに口を左手で塞ぎ、スバルは眠り続けるエミリアをそっと見下ろす。彼女は唇をもごもごさせながら、どこか幸せそうな顔で頬を緩めていた。

 

「危ね危ね……で、ベア子。こっちこい。抱きしめさせろ」

 

「何を馬鹿なことを……し、仕方ないかしら」

 

再会を言葉で喜べないなら、態度で喜び合う以外にない。

スバルが手招きすると、嘆息したベアトリスが実に仕方なさそうに近付いてくる。気のない素振りで自分の縦ロールを弄っている少女、それが傍らにくると、スバルは自由になる左腕で彼女を抱き寄せ、しっかりと胸に抱え込んだ。

 

「よかった……マジでよかった。本当に、心配してたんだぞ」

 

「……それはベティーの台詞なのよ。スバルや姉妹の姉が見当たらなくて、ベティーたちの方がよっぽど肝を冷やしたかしら。生きた心地がしなかったのよ」

 

「そうか。死にそうなぐらい心配してくれたのか」

 

「別にそういうわけじゃ……でもないかしら。そうなのよ、心配したかしら。本当の本当の、ホントに……」

 

軽いベアトリスの体を抱きしめていると、言葉の途中で少女が顔を伏せる。そのまま、胸に額を擦り付けるベアトリスの頭を撫で、無言でしばらく再会を確かめた。

そうして、しばしの沈黙が済むと、ベアトリスはすっきりした顔でスバルの胸から顔を上げ、ぴょんとベッドの横に下りる。

 

「とにかく、寝坊助のエミリア以外にスバルが起きたことを伝えなきゃいけないのよ。スバルで最後だから、みんな心配してたかしら」

 

「みんなって……そうだ、みんなは無事なんだよな?逸れてた奴らも、俺と一緒にいた奴らも全員」

 

「安心していいのよ。ちゃんと全員、無事に揃っているかしら」

 

「そうか……そうかぁ……!」

 

ベアトリスの押してくれる太鼓判に、スバルの抱く焦燥感が薄れていく。全員が無事と聞かされ、望外の返事に心が安らいだ。

だが、すぐにスバルはその太鼓判に嫌なデジャブを感じて顔を上げる。

 

「待て、ベア子。俺はぬか喜びは御免だ。本当に全員大丈夫なのか?」

 

「む、スバルに疑われるなんて心外なのよ。ベティーがこんなことでスバルを騙す意味なんてないかしら。冗談じゃないのよ」

 

「お前がプンプンするのもわかるけど、別に疑ってるわけじゃねぇよ。お前が俺を騙そうとしなくても、結果的に騙される可能性はある。……プリステラでもそれは痛いほど実感したばっかりだしな」

 

「――――」

 

スバルが何を警戒しているのか、そこまで聞かされてベアトリスは察した顔だ。

プリステラでの魔女教との攻防戦でも、作戦終了後にスバルは同様の報告を受けた。全員が無事と聞かされ、事実として、認識の上でそれは正しかったが――、

 

「確認するぞ。俺と、エミリアと、ベアトリス。それに、レムとラムとパトラッシュ。アナスタシアにメィリィにジャイアンと……最後にユリウス。これで全員だ」

 

「――――」

 

「お前の言ってる全員ってのは、この全員で合ってる……か?」

 

「……大丈夫かしら。それで全員なのよ。ベティーが忘れていて、スバルだけが覚えてる誰かがいるなんてこと、ないかしら」

 

「そっか……そうか。じゃぁ、本当に喜んでも、いいんだな……」

 

必要なことを確認して、スバルは他に落とし穴がないか入念に考える。その上で何も見落としはないと判断し、ようやく、全員の無事という言葉に力が宿った。

 

「よかった。あぁ、よかった……!」

 

「まったく、スバルは大袈裟すぎるのよ。一番危ういスバルが大丈夫だった時点で、他のみんなが無事なことぐらい想像がつくかしら」

 

「バッカ、そういうことじゃねぇんだよ。そうだとわかってても、やっぱり不安は不安だし心配は心配なんだ。お前だって、俺の無事がわかって泣いてただろ?」

 

「泣いてなんかないのよ。ベティーはスバルの胸に顔を押し付けていたから、そんな姿は見られていないはずかしら。証明は不可能なのよ」

 

ふふん、とベアトリスは薄い胸を張って強がるが、その発言自体がそもそも語るに落ちている感が溢れていた。その上、スバルは自分の寝台の背中側――ベッドの半分ほどのスペースに、スバル以外の誰かが寝ていた痕跡を指差して、

 

「ここに、俺の隣に潜り込んで誰かが寝ていた形跡があるんだが、この動かぬ証拠を見てもお前が不安がってなかったとでも?」

 

「それはベティーじゃないかしら!こう、完全に濡れ衣なのよ。知らんかしら」

 

「お前以外の誰がこんなはしたない真似すんだよ。照れるな」

 

「とにかく、違うのよ!ああもう、エミリアが起きちゃうかしら」

 

いつもの調子で軽口を交わしていると、ベアトリスが強引に話の流れを逸らす。その赤い顔に苦笑しながら、スバルは長く、本当に長く深々と息を吐いた。

 

全員の無事、それが言葉で聞けてひとまず安堵する。

砂丘で、魔獣の群れに追われた状況で逸れて、スバルは砂海の地下で訳のわからない『死に戻り』を繰り返して、エミリアたちがどうしているかもわからなくて、あのまま取り返しのつかないことになったらどうしたものかと――。

 

「……そう言えば、あの変な疑心暗鬼、抜けてるか?」

 

「――?」

 

唖然とした様子で、自分の顔を左手でこねくり回すスバルにベアトリスが首を傾げる。ベアトリスには意味不明の行動だが、スバルには意味のある行いだ。いや、この行動自体には意味はないが、自覚症状の有無は大事な要因といえる。

 

「ベア子は……いつものベア子だ。エミリアも、いつも通り可愛い」

 

「何を言い出したのよ……」

 

呆れ顔のベアトリスだが、その言葉に奇妙な不快感や苛立ちは感じない。寝ているエミリアにも同様、二人に感じるのは信愛の感情だけだ。

あの地下でスバルを苛み続けた、不可解な憎悪は影も形もない。

 

「瘴気と遠ざかったから、でいいのか。原因不明で治療法も不明なんて、そんなおっかないのを放置しとくのも胸が悪いけど……」

 

「スバル、まだ具合が悪かったり、体調に不安があるなら寝てていいかしら。急いで起きる必要はひとまずないのよ。試験はベティーたちだけでどうにかするかしら」

 

「……なに?」

 

額に手を当てて、俯くスバルをベアトリスが気遣う。その気遣いの言葉の中に、聞き慣れない単語があって、スバルは思わず聞きとがめた。

 

「今、なんてった?」

 

「だから、休んでていいかしら。ズル休みじゃなく、ちゃんと具合の悪いときぐらい寝てても怒ったりしないのよ」

 

「なんかすごい言われた覚えがある感じの微熱トークだけど、その部分じゃねぇよ?その後で……試験って言ったか?」

 

「あぁ……うん、言ったかしら」

 

スバルの追及に、ベアトリスが「しまった」という顔をした。

それはスバルに隠しておきたかったから、という様子ではなく、むしろ休ませておきたかったから、という気遣いからくる配慮だろう。

ただ、そこまで聞かされて安穏としていられるほど、スバルは大人しい性格ではないし、ベアトリスもそのことはわかっている。

 

「ベア子」

 

「わかってるのよ。ちゃんと説明するかしら。本当はもっとちゃんと、落ち着いてから話した方がいいと思ってたのに……口が滑ったのよ」

 

「隠し事できないのが、お前の可愛くて良いところの一つだよ。――そもそも、最初に聞かなきゃいけないことをスルーしてた」

 

心底、不覚を取った顔のベアトリスに微苦笑し、すぐにその笑みが頬から消える。スバルはわずかに声を低くし、あって当たり前の疑問を口にした。

それは――、

 

「ここは、どこだ?竜車の中、なんて小ボケは挟まなくていいからな?」

 

「スバルも、想像がついていると思うかしら」

 

ベアトリスが物憂げに吐息し、それから腕を組んだ。

そして、少女は天井を――その向こうの外を見上げる仕草で、軽く踵を鳴らし、

 

「――プレアデス監視塔」

 

「――――」

 

「あの砂丘の果てにあった監視塔、その中にベティーたちはいるのよ」

 

と、そう言った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――繋がれたエミリアの手を慎重に解き、二晩の徹夜ですっかり眠りの中にある彼女を寝台に横たえると、スバルはその額を撫でてから竜車を抜け出した。

 

一ヶ月以上の時間を過ごした竜車の中は、どうやら逸れる直前と変化はない。

車体に大きな傷もなければ、どこかが破損したということもなかったようだ。

 

「スバルたちと違って、『砂風』の割れ目に呑まれたベティーたちは無事だったかしら。あの花畑とも違う場所に飛ばされて……一緒にスバルたちがいなかったことがわかったときの方が、よっぽどみんな青い顔していたのよ」

 

「お前も含めてだろ」

 

「――エミリアやユリウスもそうだったかしら。ベティーだけじゃないのよ」

 

ふい、と拗ねたように視線を逸らし、ベアトリスが竜車の外へ繋がる扉を開ける。軋む音を立ててドアが開くと、薄暗い空間と乾いた風に出迎えられた。

風の雰囲気は砂丘のそれに近く、空間の暗さは砂海の地下のそれに近い。ただ、砂丘に比べれば風には砂が混じらず、地下と比べれば暗さは和らいでいる。

原因は空間のそこかしこに備え付けられた魔法灯と、壁にびっしりとこびり付いて淡く光る苔によるものだろう。あの手の苔は確か以前、『聖域』の墓所の中でも見かけた覚えがある。どこにでも群生するあたり、わりと便利な植生だ。

 

「ここは……」

 

「プレアデス監視塔の第六層……まぁ、最下層ってことかしら。砂海から見える塔の外見からだと、第六層は地下に埋まってる部分になるらしいのよ。砂の上に出るのは第五層から……といっても、あんまり区別はつかないかしら」

 

円状の空間を見渡して、目を丸くするスバルにベアトリスが説明する。

イマイチ、要領を得ない説明なのは、スバルがプレアデス監視塔の内部や構造に全く精通していないためだろう。

 

見る限り、プレアデス監視塔の内部はかなり広大な空間が広がっている。

ベアトリスが第六層、と称した場所は床が一面石造りになっており、空間のど真ん中にぽつんと竜車が鎮座している。その竜車を中心に広がる円形の空間は、ざっと半径で二、三百メートルはありそうだ。

楕円ではなく、正確に円形として塔が建造されている場合、その正確さと、掛けた手間の膨大さに空いた口が塞がらない。

 

「……大昔の無駄手間って考えると、ピラミッドとかが思い浮かぶな。あれも一人の墓にしちゃ相当な無駄の塊。いや、なんか公共事業扱いで、職無しの人間にとっちゃすげぇありがたかった的な話は聞いたことあるけど」

 

「ぶつくさと、またわけわからんこと言ってるみたいなのよ」

 

「墓石の話だよ。生前葬も流行りだし、死んだ後のことを考えて先手を打っておくのは大昔から発想はおんなじだわな」

 

「……死んだ後の話なんて縁起でもないかしら。馬鹿馬鹿しいのよ」

 

配慮に欠けたスバルの発言に、ベアトリスが不貞腐れたように目を背けてしまう。自分の失言に気付いたスバルは頬を掻き、それからベアトリスの頭を軽く撫でた。

それから、ふと思い出したように竜車の前に回り込み、

 

「おー、ジャイアン!お前も無事で何よりだ!ジャイアン、死んじゃいあん!」

 

「なんで急にそんなくだらないこと言い出したのかしら!?」

 

「いや、やっとかなきゃいけない気がして。でも、無事で嬉しいのは本気だぜ」

 

竜車の前、きっちり車体の傍に繋がれているのは頼れる地竜のジャイアンだ。

デザート仕様のガイラス種はタフが売り、その文句に恥じないしぶとい生き様を見せ、ジャイアンは見事にあの難局を乗り切ってみせた。

 

「とはいえ、他の面子を差し置いてお前が最初の生存確認!ってのも締まらんなぁ」

 

「――――」

 

「おいおい、そんな切ない顔すんなよ。嬉しいって。ほら、あとでいつもより多めに餌やるから勘弁してくれ」

 

「――――」

 

「なんだよ。まったく現金な奴だなぁ」

 

「そろそろ、小芝居も落ち着いていい頃なのよ。疲れるからいくかしら」

 

ジャイアンと並んで小ネタを挟むスバルに、ベアトリスが付き合い切れない顔。そんなベアトリスの反応に「悪い悪い」と首をひねり、それからスバルは言った。

 

「別に困らせる気はないんだけどさ、確かめたいことがあって」

 

「なんなのよ」

 

「いや……ジャイアンがここにいるのに、パトラッシュが見当たらないなって」

 

同じ地竜同士、パトラッシュが無事ならここに繋がれているのが普通だ。

だが、竜車の向こう側を確認しても、あの漆黒の美しいフォルムは見当たらない。あるべき姿がないことにスバルは不安がるが、

 

「早合点するんじゃないかしら。あの地竜……パトラッシュなら、第六層には置けないから第四層にいるのよ」

 

「四層?上ってこと?なんで?」

 

「ケガしてるから治療中かしら。竜車の中に姉妹の妹……レムの姿もなかったはずなのよ。状態が思わしくないのはみんな、四層に置かれているかしら」

 

「治療中って……レム、治るのか!?」

 

思わぬ話を聞かされて、スバルはベアトリスに飛びついてしまう。

そのスバルの剣幕にベアトリスは少し驚いた顔をするが、すぐに近付くスバルの鼻を摘まんで遠ざけ、

 

「お、落ち着くのよ……!焦るんじゃないかしら……!」

 

「これが落ち着いてられるか!レムは……治るのか?それにパトラッシュも治療中ってどんな塩梅なんだ!?」

 

「結論から言うと!すぐにどうこうってことじゃないのよ!ただ、寝かせているよりマシな状況にしたってだけかしら!地竜もそうなのよ!」

 

「……そうなのか」

 

詰め寄るスバルがしゅんと項垂れ、その勢いの減衰にベアトリスも沈痛な顔をする。しかし、少女は小さな拳を固めると、

 

「ほら、凹んでる場合じゃないかしら。なんとかする方法はきっとあるのよ。それを確かめるために、今はみんなで監視塔の試験に挑んでるかしら」

 

「――――」

 

落ち込んだスバルを励ますように、ベアトリスが下手くそな奮起を促してくる。その様子にスバルは毒気が抜かれ、「そうだよな」と顎を引いた。

 

「悪い、どうも後ろ向きだ。心配ばっかかけてごめん」

 

「スバルにかけられる心配なら、まぁ、別に許容してやるのよ。でも、できればベティーの見えるところで心配させてくれれば助かるかしら」

 

「考えとく」

 

ベアトリスの思いやりに触れ、スバルは彼女の頭を掻き回して感謝を表現する。

強力なベアトリスの髪型は、そんな風に乱そうとしても乱れない強固なものだ。ともあれ、ベアトリスの励ましも受け、スバルは塔の上の方へと目を向けた。

 

「ここが第六層……とにかく、上にいけばいいんだよな?」

 

「ユリウスたちはたぶん、今は試験の真っ最中なのよ。だから、今は先に『賢者』の方と顔を合わせて、詳しい話を聞いた方がいいかしら」

 

「賢者、か……あれ、そういえば」

 

ベアトリスの言葉の途中で、スバルは『賢者』の単語に引っ掛かりを覚える。

そう、そもそもその『賢者』に会うことが目的で監視塔へ足を運んだにも拘らず、ここまでベアトリスは『賢者』について特に話をしてこなかった。

 

「ベア子、賢者に会ったんだろ?どんな奴だった?チクチクと俺たちに向かってなんか白い光線投げてきてた恨み節とか言ってやったか?」

 

「……あんまり、賢者の話はしたくないのよ。ううん、違うかしら。賢者のことはたぶん、直接会った方が話が早いかしら」

 

「俺、その言われ方でまともな奴と顔合わせた記憶ないんだよな。確か、ロズワールと初めて会ったときもエミリアたんに似たようなこと言われた気がする」

 

もう一年以上も前のことだが、当時の会話は鮮明に覚えている。

確かロズワールに関しては、『会って話した方がわかりやすいし、きっと話も合うと思うわ』というような説明だった覚えがある。

実際、直接会わなければあのインパクトは伝わらなかったと思うし、会話の波長も合うといえば合うのだが、まぁ、当時のことは今さらだ。

 

「会えば、わかるのよ」

 

「……わかったよ。とにかく会ってみればいいんだな。これ、上はどうやって?」

 

「階段かしら。よく見ると、ちゃんと壁のあたりに階段があるのよ」

 

ベアトリスの言葉に目を凝らすと、なるほど円状の外縁に段差――階段のようなものがあるのがわかる。ただ、それは膨大な量の段差となり、広大な円形の塔をぐるりと回る形で組まれる螺旋階段を呈していて。

 

「え……?これ、上るの?」

 

「これを上るかしら。頑張れば、そんなに時間はかからないのよ」

 

「頑張ればって言われても……上まで何段あるんだよ!?」

 

果てしない上下運動を繰り返させられる羽目になりそうで、スバルは絶叫する。その声は空しく塔の中に木霊し、おそらく相当上まで響いて、悲しく消える。

そのスバルの嘆きを余所に、ベアトリスはやれやれと肩をすくめて、

 

「仕方ないかしら。これがちょっと魔法とか使えると、色んな手段で階段を飛ばして上までいけるかもしれないけど……スバルじゃ他に手がないのよ」

 

「いや、ほら、ムラクとかさぁ。あれ使って、軽々と一気に上まで上昇するとかそういう感じでどうだ?」

 

「やってやれなくはないけど、いざという場面でマナのガス欠……なんて事態が危ぶまれる気がするのよ」

 

「普通に階段上っても、いざという場面で体力のガス欠が危ぶまれるよ!?」

 

引きこもり当時に比べれば体力はついたとはいえ、それでも異世界基準ではまだまだ貧弱な坊やであることから抜け出せていないスバルだ。

最下層の第六層、その上にある第五層がどれだけの高さかはわからないが、少なくとも見上げた限りでは天井はちょっと見当たらない。その程度には高いと考えると、これはもう、ちょっとした登山レベルの所業だ。

 

「クソ!でも上らなきゃレムとかパトラッシュの安全が確認できねぇもんなぁ。やるしかねぇか。ああもう、チクショウ」

 

「その意気かしら。ファイトなのよ。ベティーも応援するかしら。――上に着いたら呼んでくれると、とても助かるのよ」

 

「させねぇよ、ショートカット!?お前も一緒にこいよ。歩け!汗を掻け!」

 

「残念だけど、ベティーは可愛い精霊だから汗なんて――」

 

仕方なしに階段へ挑む覚悟をスバルが固めると、ベアトリスがそれを挫きにかかる。が、言い合いの最中、ベアトリスはふいに言葉を中断し、頭上を見上げた。

 

「ベア子?」

 

「マズいかしら。スバル、下がるのよ――!」

 

態度の急変にスバルが声をかけるのと、ベアトリスが血相を変えて飛びついてくるのは同時だ。胸に飛び込んできたベアトリスを受け止め、抱え上げる。

と、ベアトリスはぽかんとして、それからスバルの胸を乱暴に叩いた。

 

「馬鹿!だっこしろって意味じゃないかしら!下がるのよ!」

 

「とっさだったからつい……って」

 

ベアトリスを抱き上げたまま、スバルは軽く後ろへ体を傾けた。何事かはわからないが、ベアトリスの警戒は事実だ。それに備えて、と思ったが、遅い。

 

――直後、凄まじいプレッシャーが頭上に発生し、スバルは息を呑む。

 

その圧迫感の原因は猛然と迫り、次の瞬間にはスバルの眼前へと着弾――激震が巨大な塔を揺るがし、生まれた爆風と砂煙にスバルは吹き飛ばされかける。

背後にちょうど、ジャイアンの巨躯がなければ転げ回っていたことだろう。竜車と地竜の重みに守られて、スバルは吹き付ける砂と暴風の中、必死に目を押し開いた。

 

そして、噴煙の向こう、着弾地点の砂煙が唐突に払われる。

煙を引き裂くような突風と、その向こう側から堂々と姿を見せる人影。もうもうと立ち込める砂を破って現れる相手の姿に、スバルは凝然と頬を強張らせた。

 

その姿、その外見に、見覚えがあったのだ。

 

「お前は……」

 

つかつかと、固い床を踏みしめて歩み寄ってくるのは長身の女だ。

黒に近い褐色の髪をポニーテールにして、大胆に手足、腹や背中まで露出した半裸と言って差し支えない格好。胸と下腹部を最低限にだけ隠し、その服装の上から黒いマントを羽織った、ずいぶんと偏った衣装の人物だった。

 

スバル的に言えば、ホットパンツに黒ビキニを付けてマントを羽織った痴女だ。

 

すらりと長く白い手足に、惜しげもなく揺らされる豊満な胸。背丈はスバルと同じぐらいか、やや向こうの方が高く、腰の高さは比べるべくもない。

白い肩の上には整った顔が乗っており、気だるげだが目力のある美貌があった。

 

――それは間違いなく、スバルが意識を失う直前、最後に見た顔だ。

 

あのケンタウロスに対して、容赦ない攻撃を加えて屠った人物。

そしてあのケンタウロスへ仕掛けた無数の光は、スバルも知る攻撃で。

 

「……お前が、『賢者』なのか?」

 

「――――」

 

無言で歩み寄る女に、スバルは喉の渇きを覚えながらそれだけ問いかける。

しかし、女はスバルのすぐ目の前にくるまで何も答えず、手を伸ばせば届く距離まで近付いたところで足を止め、しげしげとこちらを見るだけだ。

 

その視線は全身を舐めるようで、正直、スバルは落ち着かない。

声音一つも聞いていない相手で、おまけにその実力はケンタウロスを容易く葬り、想像を絶する距離から飛び降りても何の影響もないような人外レベル。

下手を打てば、即座に消し炭にされてもおかしくない相手だ。そんな相手の出方が全く見えないのは、恐ろしい以外に何の感想も抱けまい。

 

「――――」

 

スバルの腕の中では、変わらずベアトリスが身を固くして抱かれたままだ。彼女も緊張しているのが、その小さな体越しに伝わってくる。

少なくとも、ベアトリスと接触している状況で出くわしたのは幸いだ。最悪、戦闘に入ることは不可能ではない。

無論、戦いにならないに越したことはない。その努力は惜しむべきではない。

 

「お、おいって……聞いてる?ほら、あの、俺の仲間が世話になってるって話で、別に敵対するつもりとかない……んですよね?」

 

「――――」

 

「あの、黙っていられると不安になるんで、なんか言ってもらえると……それともひょっとして、言葉じゃなく念話で繋がる系とか?だと、困るなぁ。はは」

 

「――――」

 

じろじろと、推定『賢者』はスバルの言葉に反応せず、見てくるだけだ。

居心地の悪さ、ここに極まれり。スバルの困惑と戸惑いの程は、話し方の混乱ぶりから察することができよう。

このままだと、雰囲気の悪さに殺されかねない。

 

――そんなスバルの不安は、ふいに破られた。

 

「……三つ」

 

「へ?」

 

「――――」

 

スバルをじっと見つめていた女が、急にそんな風に呟く。

その声はやや掠れてはいたが、続けて聞くことができればおそらく美声と判断できるハスキーボイスだ。

ただ、どうにもミステリアスというか、心情の読み取れない目の前の女の声にしては、可愛げがあるなとぼんやりと思う。

と、そんなスバルの前で、女は静かに吐息して、

 

「ま、それはいっか。そんなことより、見つけた」

 

「ええ、と?」

 

急に女は何か投げ出すように言って、表情を変化させる。

それまで真剣に、スバルの内を覗き込もうとするかのような態度だったものが、ゆっくりと大きく、時間をかけて、凍ったものが溶け出すかのように。

女の口元が横に広がり、それは笑顔と呼ばれる形になって、

 

そして女は、スバルを見つめて、言った。

 

「――お師様」

 

「……は?」

 

まったく聞き覚えのない単語と、まったく身に覚えのない感情。

その予想外すぎる反応に呆気に取られて、スバルは後ろを振り返る。当然だが、そこにはジャイアンの姿しかない。ならば、ジャイアンが件のお師様か。

 

「お前、ここにきて急に重要キャラのフラグ立ててきたのか!?」

 

「そんなわけないかしら!現実を見るのよ!」

 

ジャイアンにスバルが詰め寄ると、腕の中のベアトリスに怒られる。

その言葉はもっともだが、スバルの方は頭が回っていない。いったい、何を言われているのか皆目見当がつかないまま女に向き直り、

 

「いや、悪いけどたぶん人違いとかそういう類の……むぐっ!?」

 

「お師様ぁ!もうもうもう!待ってたッスよ~!」

 

言葉の途中で、感極まった様子で飛び込んでくる女に抱きしめられる。というより、飛び込んできた女のタックルを食らい、押し倒される形だ。

背中から床に倒れ込み、間に挟まれるベアトリスが「むきゅー!」と悲鳴を上げるが、目を白黒させるスバルから、はしゃぐ女は離れようとしない。

 

その長いポニーテールを振り乱し、女は異常な怪力でスバルを締め上げつつ、嬉しそうな声で何度も何度も繰り返す。

 

「お師様!お師様!長かったッス!寂しかったッス!もうずっと、このまま近付く奴らを狙撃するだけの人生かと思ったッス!」

 

「ま、待て!待て待て!なんだ!?何の話だ!?」

 

「なんだってひどいッスよぉ!お師様が命令したんじゃないッスかぁ。祠に近付く奴らの邪魔をしろって……方法はまぁ、別ッスけど」

 

「じゃなくて、俺がお師様!?何を言ってやがる!?」

 

柔らかい女の肌と直接触れ合っているが、そのラッキースケベを堪能する心の余裕もない。異常な腕力に掴まれたまま、スバルは必死に逃れようとする。

しかし、女も女で言い分があるのか、スバルから離れようとしない。

結果、スバルと女は間にベアトリスを挟んだまま、床の上でくんずほぐれつになる。

 

「お前、とにかく、離れろ……話にならねぇ……!」

 

「いやッス!絶対にいやッス~!そんなこと言って、また目ぇ離した隙にいなくなるつもりに違いないんス!お師様変わってなさすぎ!」

 

「知るかぁ――!!」

 

強情な女は何のトラウマがあるのか、スバルから決して離れない。その顔を乱暴に掴んで遠ざけようとしながら、スバルは噛みつくように叫ぶ。

 

「そもそも、お前は誰で!なんなんだ!」

 

「何を言ってるッスか!シャウラッス!プレアデス監視塔の星番!お師様の可愛い教え子のシャウラッスよぉ!」

 

「覚えがねぇ――!」

 

名乗る女――シャウラだが、その名前は塔の『賢者』の名前のはずだ。

そのプレアデス監視塔にいる、偉い『賢者』がまさかこんなわけのわからない女であるはずがない。

 

スバルは断固として、そこに異議を申し立てる。

しかし、そうしてもつれ合って進展のない場に、ふいに変化が飛び込んだ。

それは――、

 

「――大変!大変よ!起きたらスバルがどこにもいないの!みんなに急いで知らせて、探しにいかなきゃ……」

 

「あ」

 

と、竜車の扉から飛び出すように、寝癖だらけのエミリアが転がり出る。焦燥感でいっぱいだったエミリアは、竜車を出たところで絡まり合うスバルとシャウラ――と、実はベアトリスもいるのだが、その二人を見つけ、目を丸くする。

 

「エミリア……たん!起きてくれて助かった!実はこいつが……」

 

「えい」

 

「痛い!?エミリアたん、なんで今、俺蹴ったの!?」

 

「よくわからないけど、すごーくもやもやしたの」

 

目覚めたエミリアも含めて、しばらく騒がしい怒鳴り合いは続き――。

 

結局、騒ぎに気付いたユリウスたちが合流するまで、プレアデス監視塔の『賢者』(仮)との悪戦苦闘は続いたのだった。