『薄氷関係』
「――スバルは、忘れられることがどれだけ辛いのか知ってる。だから、誰かを忘れるなんて、冗談でも絶対に言ったりしないわ」
「――――」
部屋に戻る直前、室内から聞こえた声音にスバルは思わず息を詰めた。
姿形は見えないが、美しい銀鈴の声音はエミリアのものだ。その、彼女の微かに張り詰めた声とその内容に、スバルは愛想笑いを作る頬を引きつらせる。
声に込められた強い信頼、それと同じぐらい大きな嘆願。
それはエミリアが、『ナツキ・スバル』へ向けているものだ。断じて、『菜月・昴』へ向けられたものではない。それを、先のやり取りと同じく痛感する。
「……冗談でも言わない。そうね。珍しく、エミリア様の方が正しいわ」
その声を聞きつけ、自嘲げに呟くのはスバルと同行するラムだ。水の入ったバケツを持つスバルと違い、無手の彼女は自分の肘を抱き、白い肌に爪を立てている。
それは戒めであり、悔恨であり、届かない誓願の痛々しい続きだ。
「ラム……」
「益体のない戯れ言よ、聞き流しなさい。さっきのことも、エミリア様たちにご心配をかけるだけ。ラムの名誉のためにも黙っていることね。もし喋ったら……」
「――――」
「……本当に、覚えていないのね」
喋ったら怖い、とでも言いたかったのだろうか。あるいは、スバルの方が彼女の軽口を先取りして、そんな言葉を投げかけるべきだったのか。
先の、妹の存在を繋ぎ止める術を求めたときと同じように、ラムはその薄紅の瞳に掠れた失意を宿してスバルを見た。その感傷も、瞬きの間に消える。
何も言わせてくれないのはラムの強さか、それとも弱さだったのか。
彼女の心の奥底はわからない。
ただ微かに、スバルの胸元に縋りついた痕跡がわずかに残るばかりだ。
「――お待たせして申し訳ありません。戻りました」
思案する暇さえ与えず、歩みを再開したラムが部屋へ足を踏み入れる。その頑なな姿勢こそが、ラムの固持する意思の表れだろう。ならばスバルも、それに言及しない程度の心遣いはあった。
彼女に遅れてスバルも部屋に戻れば、室内には多少なり無理の気配が広がっていた。
それでも、スバルの衝撃的な告白の直後に比べれば幾分もマシだ。
それを証明するように、戻ったスバルに「ご苦労様」とエミリアがねぎらったあと、声をかけてきたのは――、
「……先ほどは、醜態を晒してすまなかった。改めて、いいだろうか?」
「お、おお。こっちこそ、なんつーか驚かせて……ああ、いや、話の腰を折っちゃ悪いな。承ります」
「そう硬くならないでくれていい。君に畏まられるのはいささか落ち着かない」
そう言って、薄く笑みを浮かべるのは紫髪の美青年――ユリウス、だったか。
先の、スバルの告白直後には顔を蒼白にしていた人物だ。水汲みの間、エミリアとベアトリスがどれだけ説得に心を砕いたかはわからないが、見るに、会話を交わすぐらいの気力は取り戻してくれたらしい。
ただ、通路でのラムの言葉もある。――ユリウスのことを聞いたとき、彼女はスバルに残酷だと、そう言った。それがいったい、どういう意味だったのか。
「改めて、ユリウス・ユークリウスだ。こちらにいらっしゃるアナスタシア様……彼女の騎士を務めている。君とは友人……の、ようなものだ」
「そうか、よろしく……なんで、そこに自信なさげ?」
「生憎と、君と私でお互いの認識に些少の違いがあってもおかしくはない。私は友人と思っていたが、君がどうだったかは……」
「文字通り、記憶の彼方ってか」
「――。そういうことだね」
どこか、言葉の端々に感じられる優麗さにスバルは唇を曲げた。
エミリアたちの話によれば、相応に過酷な環境への旅路――それに同行したメンバーで、唯一の同性ともくれば当然、それなりに心を許した間柄のはず。
それはそれとして、いかにも騎士然としたユリウスの態度と先ほどの発言だ。今のスバルでも、記憶をなくす前の彼への初対面の印象は悪かろうと受け止める。
「そんな心配しなくて大丈夫よ。スバルとユリウスはすごーく仲良し。それは、ちゃんと一緒にいた私たちが保証してあげるから」
「そうねえ。別にそれは心配する必要ないんじゃなあい?騎士のお兄さんにとっての問題ってえ、それどころじゃないんだしい」
そんな二人のやり取りに、腰に手を当てたエミリアが割り込み、メィリィがどこか悪戯っぽい眼差しで茶々を入れる。
エミリアの言葉は、純粋にスバルとユリウスの初接触を慮ってのものだが、メィリィのそれはエミリアのものとは孕んだ思いが別枠だ。
そのことにスバルが眉を顰めれば、その意を酌んだようにユリウスが頷く。
「そう、だな。メィリィの言葉通りだ。スバル、君に起こった異変についても話し合わねばならないが、我々が抱える問題はそれだけにとどまらない。そのことについても、ここで説明させてほしい」
「それは、今朝から様子のおかしいアナスタシア様に関係があること?」
「……ご明察だ、ラム女史」
壁に寄りかかるラムの言葉に、微かに目を伏せたユリウスが応じる。それを受け、ラムは細めた目をアナスタシアへ向けると、小さく吐息をこぼした。
「バルス、水桶を寄越しなさい。食事の準備をするわ」
「……大事な話をするとこなんじゃないのか?」
「同じ部屋の中よ。別に話は聞こえる。……手を動かしていた方が気が紛れるのよ」
乱暴に言って、ラムがスバルの手からするりと水の入ったバケツを奪った。そのまま彼女は部屋の隅にある荷物の方へと向かう。朝食の準備、その言葉通りの作業を小さな背中が始めるのが見えた。
「ごめんね。ラムも、普段はああじゃないんだけど……」
「なに、気遣いは不要だよ。彼女の気持ちも理解できる。――喉から手が出るほどに欲した情報が、目前で一気に遠ざかったと思えばね」
ゆるゆると、エミリアの謝罪にアナスタシアが首を横に振った。そんなアナスタシアの受け答えに、エミリアとベアトリスは難しい顔をする。
スバルにはわからない、彼女らの引っ掛かり――その答えは直後に、アナスタシア自身の口から語られた。
「さて、すでに大いなる混乱をもたらされた朝に、これ以上の驚きを追加でもたらすのは気が引けるんだが……隠し立てを続けることは不和以外の意味を生まない。故に受け切れる土壌があると信じて、打ち明けさせてもらおう」
「……ずいぶんと、尊大で遠回しな物言いなのよ。とっとと本題に入るかしら」
「そんなに怯える必要はないよ、ベアトリス。――ボクと君とは、おそらくは関係の浅からぬ姉妹のようなものだ。お察しの通り、ね」
「――――」
アナスタシアの言葉に、ベアトリスが頬を硬くした。自然、スバルの隣に立っていた少女は、頼りを求めるようにスバルの袖口をそっと摘まむ。
その様子を横目にして、スバルは幾許か躊躇ってからその手を取った。微かに指先が驚きに震えるが、小さな掌はすぐに温もりを受け入れる。
「……君と契約者との関係は微笑ましくて理想的だな。ボクも、アナとそうした関係を築くのが理想だったんだが、今はそれがうまくいっていない」
「他人事みたいに、アナスタシアさんのことを呼ぶのね。やっぱり、あなたは……」
「ああ、君たちの推測は正しい。――今、この体に宿っている意思はアナのものじゃない。アナスタシア・ホーシンは、この体の奥底で眠りについている。こうして君たちと言葉を交わすのは、仮初の主として肉体を預かる亡霊さ」
エミリアが息を詰まらせ、握ったベアトリスの手に力がこもった。告白にユリウスが沈痛な顔をし、メィリィは相変わらず退屈そうな表情。そのメィリィの横で胡坐を掻くシャウラだけが、告白ではなく食事の準備をするラムの方へ意識を向けている。
こちらへ背を向け、作業に従事するラムの表情は窺えない。
そして、スバルだけは――、
「……何の話をしてるのか、さっぱりわからねぇ」
当たり前のようにやり取りに置き去りにされ、難しい顔をする他になかった。
※※※※※※※※※※※※※
――アナスタシア・ホーシンと名乗った少女の肉体は、現在は全く別の存在によって支配され、その精神は深い眠りについている。
早い話、アナスタシア――エキドナと名乗った精霊の説明はそうした内容だった。
その事実はエミリアやベアトリスにとっても衝撃的だったようだが、スバルにとっては衝撃的というより、わけがわからない状況を加速させたも同然だ。
元々、アナスタシアに対する認識が頭に残っていないスバルだ。それを、最初の挨拶でアナスタシアと説明された人物が、実は別人だったんですと言われても、
「……そ、そうなのか。それはなんだ。ええと、大変、だよな?」
と、他人事のような感慨を漏らす以外にリアクションができない。
無論、これが非常に深刻な事態であることは、自分以外の周囲の反応からも想像がついた。そもそも、この塔とやらにきた目的が目的だ。
眠り続ける少女を、何らかの病にかかったらしき人々を、救う手段を求めてこの塔へやってきた。――そう、聞いていたはずだったのに。
「いざ、塔へついてこれからというタイミングで、肝心のこちらが満身創痍……バルスはなけなしの記憶を失い、アナスタシア様の意識は深淵の中」
「あ、明るい条件が見えない……」
端的にまとめたラムの言葉に、スバルは頭を抱えたい気持ちになる。
問題は山積み――第一、スバルはスバル自身の問題にすらまだ向き合い切れていない。そんな状況で、次から次へと難題ばかり突き付けられても動きようがない。
これでは――、
「みんなで、下ばっかり向いててもしょうがないと思うの。うんと悩みたい気持ちは私もわかる。わかるけど……でも、落ち込むだけじゃダメ」
「――――」
「私たちは、たくさんの人の期待を背負ってこの塔まできたのよ。今、スバルとアナスタシアさんが大変なことになったのは、はっきり言ってとっても大変。だけど」
両手を叩いて、全員の視線を集めたエミリアがそこで言葉を切る。
そして、一拍の間を開け、エミリアは紫紺の瞳で全員を見回すと、
「足は止められない。――諦めちゃダメって、ずっと教わってきたもの」
強い口調で言って、エミリアが順繰りに部屋の中の面子の顔を見る。その視線が最後にスバルへと向けられ、美しい紫紺に射抜かれて喉が詰まった。
自然、胸が熱くなる。何を言えばいいかはわからない。が、その視線には期待があった。それを受け、動かなくてはならないと、スバルは手に力を込める。
「いたっ!痛いのよ!ちょ、スバル!」
「あ、悪い……いや、悪くねぇ。これは、気合いが入った証拠だからな」
「いい顔で言っても痛いものは痛いかしら!反省するのよ!」
「ご、ごめん。痛いのは悪かった。でも、気合いは間違いじゃない。ああ、そうだよ」
華奢な手を握り潰されかけたベアトリスの抗議に謝罪し、スバルは頭を振った。
辛気臭い顔をしたくもなる状況、それはわかる。だが、答えの出ない難題に頭を悩ませるばかりでは前進はない。そのことも、スバルの経験上、間違いなかった。
スバルだって、一人だったらこんな状況、きっと途方に暮れていたに決まってる。でも、スバルは一人ではない。スバルの側に記憶がなくても、スバルのためを思って声をかけてくれるエミリアたちがいる。それなら――、
「確かに、俺の記憶がすっぽ抜けてみんなに迷惑かけてるのは申し訳ない。でも、それがイコールで絶望的って話にはならねぇはずだぜ。考え方を変えてみろよ。今の俺なら、余計なしがらみに囚われない斬新なアイディアが湯水のように湧き出すかもしれねぇ。それが、この状況を打開するヒントになるかもしれないだろ?」
「……それはまた、ずいぶんと前向きな意見だね」
「後ろ向きになって得するか?大事なもんは前にある。幸運の女神は前髪しかないってよく言うだろ?それに、この塔の攻略?それに必要なのは柔軟な発想ってヤツかもしれねぇぜ。この世界の固定観念に囚われない、異世界の発想ってヤツだ!」
勢い任せの発言に、苦笑するアナスタシア――否、エキドナをさらなる勢いで押し返した。空元気の口から出任せには違いないが、今の空気は壊す必要がある。
そんなスバルの考えを受け、難しい顔をしていた面々にも変化が生まれた。
「……ん、そうよね。スバルはいつだって、色んな大変な場面を飛び越えてきてくれた。だからきっと、これも乗り越えちゃうわよね」
「おお、その意気だぜ!って、それだと頑張るのはまぁ俺なわけなんだが、期待される以上はせいぜい頑張ってみる所存。可愛い女の子の応援もあるしね」
「ありがと、スバル。――うん、良かった。やっぱり、スバルはスバルなんだ」
「――――」
そっと、豊かな胸を撫で下ろしたエミリアの囁きにスバルは虚を突かれた。
――やっぱり、スバルはスバル。
彼女のこぼした、心底からの安堵の一声に、スバルもまた安堵する。
これでよさそうだ、とそう思えた。
彼女の、エミリアの知るナツキ・スバルとの齟齬を少しずつ埋めていける。そうすればきっと、ぎくしゃくとぎこちない関係も円滑にやっていけるはずだ。
「……やれやれ、楽観的なことだ」
「おお?」
と、エミリアの言葉に安堵したスバルへ、ふいにそう言ったのはユリウスだ。彼は肩をすくめると、スバルの視線に「いやなに」と唇を緩め、
「記憶の有無に関わらず、君が勇猛と無謀の区別がつかない一声を上げるところは変わらないなと思っただけだよ。我々に立ちはだかる障害がどれほど強大か、忘れてしまえたからこその発想、と言えるだろうか」
「そっちこそ、やけに板についた嫌味ぶりじゃねぇか。さては、そっちがあんた……いいや、お前の素ってわけか。ユリウスさん……ユリウス、だな」
「……なるほど。エミリア様のおっしゃる通り、記憶の有無など些細なことなのかもしれないな。どうあれ、そうそう人の根は変わるものではないと」
「俺も、お前とどういう付き合いだったのか結構想像がついてきたよ。お互い、わかりやすいタイプで何よりだったな」
剣呑というほどに険しくはなく、友好というには刺々しいやり取りを交換する。しかし、スバルはこれがユリウスとの距離感だったのだと確信が持てた。
最初に抱いた印象に間違いはない。スバルとユリウスとの初対面は、お互いに印象は良くなかったはずだ。その後、どういう経緯で塔へ同行するような流れを許容するに至ったかはおいおいだが――、
「またよろしくだ、ユリウス。抜けた記憶が戻るまで、適度に苦労しろ」
「ああ、仕方ない。これも務めと、甘んじて受け入れよう。――記憶など些細なこと。そう、だとも。……その通りだ」
スバルの友好の挨拶に、ユリウスが静々と頷いたところで話が区切られる。
記憶は失われ、それ以外にも問題は頻出。決して、明るい顔をできるような状況でないのは事実だが、それでもなお、顔を上げるところに強さがある。
「当人が深刻になりすぎていないところが、救いといえば救いなのかもしれないね」
「表に出てないだけで、この胸の内は嵐に見舞われてるけどな。まぁ、それはあとでエミリアちゃんに二人きりで優しく慰めてもらうから」
「――?膝枕する?」
「あ、いえ、ごめんなさい。それはまだちょっと、早いかなぁって」
胸を張り、調子に乗った途端にスバルはへたれた。まさか、あっさりと優しく慰めてくれるエミリアの態度に心が怖気づく。
しかも、膝枕だ。自然と、視線が柔らかそうな彼女の白い腿へ向いて――、
「準備ができたわ。運ぶのを手伝いなさい、バルスケベ」
「痛ぁ!?」
膝裏に軽快な勢いで蹴りが入り、スバルはその場に悲鳴を上げて崩れ落ちる。それを横目に見下ろし、汚らわしいとでも言いたげな顔をするのはラムだ。
「無駄に前向きなのはバルスの数少ない美点ね。それを活かして、食事の準備にも前向きに取り組みなさい。片付けと、掃除と、ありとあらゆる雑用にも」
「それ、ラムが楽したいだけなんじゃ……」
「あ、お師様、あーしも手伝うッス~!ご・は・ん!ご・は・ん!」
強権を発動するラムへの抗議は、待ち切れないとばかりに食事へ飛びつくシャウラによって掻き消された。皿を運び始めるシャウラを見て、スバルも仕方なしとその準備に加わる。
「メニューは……なんか、いかにも保存食って感じだな」
「事実、いかにも保存食だもの。エミリア様のおかげでいくらか持ち運べた生鮮類も底を突いた。これから、味気ない食事が続くわよ」
「そりゃ、なるたけ早く塔を攻略して、人里へ戻りたいもんだな」
人間の心の余裕は、衣食住が整って初めて生まれるなどと聞いたことがある。そういう意味では、この塔の生活はどこまで整っているか怪しいものだ。
特に食事に関しては記憶がないのも相まって、スバルにとってはこの味気ない保存食が『異世界の味』のベーシックとして刻まれる。これは辛い。
「食事中にすまないが、ナツキくんに確かめたいことがある」
「ひもじい、ひもじいよ……って、俺に?なんだ、聞きたいことって」
異世界召喚されて奴隷落ちし、貧しい食事の内容に不平を訴えるロールプレイをしていたスバルは、エキドナの言葉に食事の手を止める。
「なに、ひとまず前向きに事態へ向き合おうと団結したところで恐縮だが、ナツキくんの身に起きた出来事について事情を共有しておきたいと思ってね。なにせ、この塔へきたことで起きた異変は君の記憶だけだ。逆説的に言わせてもらえば、いつどこでボクたちにも君と同じ現象が起きるかわかりはしない」
「なるほど、それは確かに。我が事ながらあれだが、記憶喪失って面倒臭ぇからな」
「本当に我が事なのにあれな言い方かしら……」
納得、と頷くスバルにベアトリスが呆れた風な顔をした。
しかし、エキドナの心配には一理ある。それに実際、スバルも自分の記憶が失われた経緯は知る必要があった。記憶が戻る糸口も、失われた流れに関係あるはず。
「――――」
食事するスバルの右隣にベアトリス、左隣にはエミリアがいる。記憶をなくし、目覚めたスバルの傍にいてくれた二人――彼女らが自分へ向ける、根拠のわからない信頼と好意、それがいったいどんな記憶に由来するものなのか、知りたい。
――否、思い出さなくてはならないと、そう任ずるが故に。
「とはいえ、俺も起きたら記憶がなくなってたらしいって話なんで、よくわからないんだよな。……エミリアちゃんたちは、どういう経緯で俺を?」
「それは……朝、竜車にスバルの姿が見えなくて、四層の部屋にも見つからなかったから心配になって……」
竜車、という単語に引っかかりを覚えたが、スバルは話の腰を折るのを恐れて口を挟まなかった。おそらく、緑色の部屋にいたトカゲ――地竜と関係あるものだろう。馬車みたいなものだと思われる。実物を見たい好奇心は後回しに。
「ベティーはエミリアほど切羽詰まったりはしなかったのよ。ただ、この得体の知れない塔で契約者の行方がわからなくなるのは困りものかしら。だから、エミリアと一緒に塔の中を捜し回って……」
「捜し回って?」
「三層の、あの白い書庫で倒れてるのを見つけて、緑部屋に運んだの」
エミリアとベアトリスの共同説明に、スバルは「はー」と息を吐いた。
「三層とは、この塔における複数に跨る階層の一つだ。我々がいる、この階層が四層。最上層である一層を目指し、攻略を進めている。三層はすでに攻略済み……他ならぬ君の知恵によって、だ」
「補足説明ありがとよ。……俺の知恵で、ねえ」
微妙に足りない部分を、ユリウスが詳細に補ってくれる。とはいえ、その内容はスバルにとってはやや信憑性に欠けて思えた。
しかし、そんなスバルの反応に、エミリアが「大丈夫」と言葉を継ぎ、
「それはホントのお話。私たちはちんぷんかんぷんだったのに、スバルったら一人ですぐに解いちゃって……すごーく、カッコよかったのよ」
「ははは、ありがと。……ちんぷんかんぷんって、きょうび聞かねぇな」
「――――」
「なんか変なこと言った?」
褒められた照れ隠しだったのだが、何が問題だったのかエミリアが黙りこくってしまった。一瞬、彼女の瞳が深い感情に揺れるのが見えたが、その正体はわからない。
ともあれ、水面を揺らす波紋のようなそれには追いつけず、
「ところで、倒れてた俺をあの草だらけの部屋に運んだってのは……」
「あの部屋は特別な精霊によって守られている。その精霊は人の傷を癒す力があって……だから、レムもあの部屋に寝かせてあげているのよ」
「オーケー、オーケー、理解した。それで、俺も運び込まれたわけだ。……ちなみに、記憶がなくなった原因があの部屋って可能性は?」
「それは……」
考えていなかった、というようなエミリアの反応にスバルは片目を閉じる。
これはあくまでスバルの勘繰りだが、精霊とやらの考えは不明ながら、それが植物の形をとるならある種の残酷性は考えられるのではないだろうか。
花が美しい姿と甘い蜜で、昆虫に花粉を運ばせるように。
あるいは擬態によって虫を捉え、その生命力を吸い尽くす食虫植物のように。
肉体を癒す代わりに記憶を吸い尽くす。――そんな可能性があるのでは。
「なかなか突飛な発想力だが、それは考えにくい。その場合、君よりも長く、早くあの部屋に入っていたボクにまず異変があるべきだ」
「……元の体の持ち主が起きないのは、その異変とは無関係?」
「アナのことは、この塔へくる以前からの問題だ。緑部屋との関連性はなきに等しい。あとはそうだね……部屋にいた地竜は、君を忘れていたかい?」
「なに?」
「あの地竜は君にひどく懐いていた。仮に記憶を吸い尽くす悪癖があの部屋の精霊にあったなら、彼女は君にそっぽを向くかもしれないね」
エキドナの言葉に、スバルは目覚めた直後にすり寄ってきた地竜を思い浮かべる。
確かに、あの地竜はやけにスバルに親しげだった。その原因が、元々スバルの地竜だったということなら納得だ。それと同時に驚くこともある。
「あの地竜、雌だったのか……」
「話を戻そう。あの部屋が、君に悪さを働いた可能性はあまり高くない。ボクとしてはそれよりも、君が倒れていた部屋の方に問題があると思える。三層の、あのタイゲタの書庫で目覚めたという話だったね」
「うん、そう。あの部屋で、スバルが白い床に倒れてて……」
そのときのことを思い返して、エミリアがぎゅっと自分の手首を握りしめる。
「慌ててあの部屋に運んで、みんなを呼びにいこうとしたんだけど……」
「呼びかけてる間に目が覚めて、そしたらスバルはこの調子だったのよ。だから、時間的にも緑部屋の仕業とは考えにくいかしら。……やっぱり、あの書庫に」
問題があったとすれば、その書庫とやらに原因がある。
どうやらその共通見解に至った様子だが、スバルにはピンとこない。その、書庫という部屋がいったいどんな部屋なのか、想像力が及ばないからだろう。
「その、タイゲタ?タイゲタの書庫ってのはどんな部屋なんだ?何となく、聞き覚えはある響きなんだが……」
「あの書庫は、『死者の本』が存在する部屋だ」
「『死者の本』……ってのはまた、中二チックだな、おい」
響きへの関心は棚上げして、スバルはその『死者の本』という表現に食いつく。その反応を受け、顎を引くユリウスが「確証はないが」と続け、
「あの書庫には、世界各国の死者の名を冠した本が連なっていた。本を読むには資格がいる。おそらく、自分に関係のある死者の本だけが読めるというものだ」
「また悪趣味な……その本に、何が書いてあるんだ?」
「およそ、その死者の人生だろうか。強烈な思念が脳に焼き付くように押し寄せてくる。あまり、好んで何度も確かめたい内容ではないな」
ユリウスの説明からは、体験した当人にしか語れない事実の重みがあった。
死者の思念が脳に焼き付く、とは端的に言ってあまり味わいたい類の衝撃ではないように思えた。そして、そんな体験が可能な書庫で倒れていたのなら――、
「――俺も、本を読んで倒れてた?まさか、それで脳をやられた的な?」
「ない、とは言い切れないだろうね。そのあたり、『賢者』としてはどう考える?」
「……もしかして、あーしに言ってるんスか?」
スバルの推測に頷きつつ、エキドナが意味ありげな視線をシャウラへ向けた。その視線の意味もさながら、『賢者』とは全く不釣り合いな呼び方だ。
なんなら、シャウラが最もこの一室で『賢者』から遠い存在と言っても差し支えあるまい。
「何度言われても、あーしの答えは変わらないッスよ。あーしは、塔のことはルール以外はなんも知らねッス。あーしはルール破りに厳しくするように言われてるだけ。お師様が塔で何をしても、あーしはノー関係ッス」
「そもそも、俺はどうしてシャウラにお師様なんて呼ばれてるのかも未知数なわけなんだが……」
「安心なさい。それについては記憶がなくなる前からバルスの答えは同じよ。都合がいいから何も言わずに利用しているだけ。……最低ね」
「勝手に勝手な結論出されましても!」
親愛度MAXと表現しても過言でないシャウラの視線に、スバルは困惑を表明するしかない。
グラマラスな美女に親しくされる環境は普通に考えれば嬉しいかもしれないが、その好意の発信源がわからなければひたすらに困惑を生むだけだ。
それに、彼女の好意と親愛には奇妙な違和感を覚える。エミリアやベアトリスがスバルへ向ける、ひたむきなものとは根本が異なる何かを。
これが、記憶がないことの弊害なのか今のスバルにはわからないが。
「ともかく、その書庫ってのが怪しい。記憶の戻る手掛かりがそこにあるかもしれないってんなら、確かめにいくのも手だな」
「そうすべきだろう。ただでさえ難題が重なった状況だ。我々を悩ませる問題は少ないに越したことはない。それに、こうした状況になって素直に思い知る」
「思い知るって何を?」
「――君が、どれだけ多くを補ってくれていたかを、だ」
ユリウスの言葉に、スバルは片目をつむったまま、小さく鼻を鳴らした。
それは照れ臭いからではなく、本心からの苦笑だ。それこそ、買い被りが過ぎる。ナツキ・スバルにそこまで寄りかからねばならないなど、末期も末期。
弱り目に祟り目、相当の負担になったのだなと、改めてスバルは自分の無自覚な足手まといぶりを意識する。
「なんにせよ、食べ終わったら書庫ってとこにいってみたい。俺の落ちた記憶がそこに散らばってんなら、拾い集めて詰め直したいとこだから」
「もう、そんな変な言い方して。ホントに、スバルなんだから」
「そのスバルなんだからって言い方、たぶん褒め言葉じゃないよね!?」
あえて軽い調子に崩したスバルに、エミリアが薄く微笑みながらそう言った。それを受け、場の空気がほんのわずかだけ弛緩する。
方針が定まり、本当の意味で少しは前向きになれたような感触があった。
「そんな空気に割り込むようで悪いんだが、ナツキくんに聞きたいことはもう一つあるんだ」
「まぁ、ここまできたらもう何でも言えよ。なんだ?」
「いやなに、これはあまり記憶のことや、塔の攻略とは関係のないボクの好奇心の質問なんだが……」
そう前置きして、エキドナは緩くウェーブした自分の髪を指で撫でる。そして、愛らしい表情の中、浅葱色の瞳にだけ深く理知的な色を宿し、言った。
「君がたびたび口にする、イセカイとはどういう意味なんだい?」