『――志を問わん』


 

――雲下、雲上で光が発生したのは、ほとんど同時のことだった。

 

厚い雲と、それ以上の隔たりが分ける二つの戦場、それらを同時に観測することができたモノがいたとしたら、それは外なる世界の観測者以外にあるまい。

プレアデス監視塔の攻略に端を発した戦いは、いよいよ大詰めを迎えつつある。

その状況は――、

 

「う、おおおお――っ!!」

 

着弾した砂の大地が吹き飛び、砂煙と衝撃波が荒れ狂う中、スバルは叫んだ。

全身に襲いかかる破壊の力は、スバルの肉体を一瞬で粉微塵にして余りあるモノ。それでもなおスバルが粉々にならないのは――、

 

「――E・M・M!!」

 

スバルとベアトリスの二人が編み出した、三つのオリジナル魔法の一つ。

大雑把に言えば、スバルとベアトリスの肉体の時間の流れを止めて、外からの影響を受け付けなくするという類の絶対防御魔法。

 

「編み出した直後はめちゃめちゃテンション上がったのに、似た能力使う奴が最悪だったせいで、これ使うとかつてないほど生き残るために手段選んでない感がする!」

 

「その件なら、もう十分話し合ったのよ!ベティーはとっくに目をつむるって決めてるかしら!」

 

スバルの嘆きを聞きつけて、肩車されているベアトリスがそう怒鳴る。

『強欲の魔女』の大罪司教、レグルス・コルニアスの『無敵』の性能は、このE・M・Mの上位互換とでもいうべき強力な力だった。使い手は最悪だが実用性はぴか一、目指すべき点はあの域だが、目指したくない域というのが本音のところ。

 

「思い出すだけで胸が悪くなるような奴でも参考に、だ……!」

 

経験を喰らって生きる、と言えば聞こえもよくなるだろうか。

それもそれで、『暴食』の大罪司教を思わせる考え方にも思えて、右を見ても左を見ても邪魔をしてくる奴らだと、スバルは心底うんざりする。

だが、それがなければ、そもそも自分も、ベアトリスも、メィリィも守れない。

 

「――ぁ」

 

スバルの腕の中、目をつむったメィリィがうわ言のように息をこぼす。

苦しげな表情だが、苦しげな間は息がある証拠だ。流れ込んでくる彼女のダメージも、ベアトリスの治癒魔法の影響で徐々に和らいでいる気がする。おそらく、誤差ぐらいの範囲だが、好転しているはずだ。きっと、たぶん。

 

「治癒魔法とE・M・Mと、両方使うのは大変なのよ!ベティーじゃなかったら、三人ともとっくにとっくにお陀仏かしら!」

 

「わかってる!ただ……」

 

ベアトリスの叱咤に感謝しつつ、スバルは己の内に問いかける。

ダメージの有無は、もはや奥歯を噛んで堪える以外にない。問題は、スバルに残されているマナの残量――そもそも、魔力タンクとしてしか役立たないくせに、スバルのタンクの容量は人並みか、ちょっと落第ぐらいしかないのだ。

それが、E・M・Mを使用することで、文字通り、穴の開いたバケツから水が流れ出すような勢いでどんどん消費されている。

この勢いでは遠からず、E・M・Mか治癒魔法の方が打ち止めだ。

そして、

 

「メィリィの治癒魔法を止めるって選択肢がねぇ……!」

 

「なら、E・M・Mを切るしかないのよ。タイミングと、その後の対処はスバル任せになっちゃうかしら!」

 

「おうよ、任せとけ。ベア子、お前はメィリィの治療と、俺が指示したことにすぐさま反応する都合のいい精霊としての心構えを頼む!」

 

「言い方が!悪い!のよ!」

 

言い合い、視線を交わして、スバルとベアトリスは連係に一秒の乱れもなく、E・M・Mを解除――その場から、飛び出すようにして離脱する。

 

背後、紅蠍や魔獣の群れは争い合いながらもスバルたちを狙っている。

相変わらず、監視塔から離れられないハンディを背負ったまま、厄介なのは紅蠍の積極的な狙いがスバルにあること。

最悪、その状況が変わらないのであれば――、

 

「――『魔女』を」

 

自分の『死に戻り』を打ち明けることで瘴気を発生させ、周囲の魔獣を自分の方へと引きつける。――芸がないが、それはスバルがよく頼る手法の一つだ。

現時点で十分以上に危険な状態だが、紅蠍の執着がスバルにあるなら、他の魔獣と同士討ちさせる意味でやる価値はある、かもしれない。

しかし、それに賭けるには巻き添えにするものが大きすぎる。

 

ベアトリスが、メィリィが、そしてスバルが倒れれば少なからず負荷を預けてくれているラムの方も総崩れになり、最終的に芋づる式で壊滅する。

『コル・レオニス』の力で、結果的に一蓮托生感が強くなりすぎていた。この権能の力でどうしてあそこまで孤独になれたのか、レグルスの生き様が本当にわからない。

 

「――――」

 

「――っ!E・M・T!!」

 

益体のない思考の果てに、白光が頭部を蒸発させる未来を感知、スバルは『死』の予感に喉を涸らしながら、オリジナル魔法の二枚目を切る。

『E・M・T』は、動けなくなる『E・M・M』の弱点を排除し、あらゆる魔法を正面から打ち消すことに成功するアンチ魔法――原理上、それがマナを帯びて放たれたモノであるのなら、この魔法に打ち消せないものはない。

ただし――、

 

「E・M・M解除して五秒で切り札切っちまったぁ!」

 

口ほどにもないどころの話ではなく、それどころか次を打つ手立ても消えているため、本気の本気で八方塞がり。

そのままスバルたちを狙い、紅蠍の尾針が、餓馬王の炎が、その他魔獣たち諸々の攻撃がこちらへ放たれ、こちらを消し炭にしようとする。

息を呑み、スバルは身を硬くする。三枚目、最後のオリジナル魔法を使わなくては、この状況は打破できまい。だが、あれは未完成だ。

失敗した場合、スバルたち三人が虚数空間を漂う結果になる可能性があるが――、

 

「土壇場での覚醒に賭けられるほど、自分が信じられねぇ――!」

 

ナツキ・スバルが大した奴だと認めることはできても、それはどんな状況に置かれても打破するスーパーガイであると盲目的に信じたわけではない。

ただ、諦めが悪いだけだ。ねじ伏せられても、立ち上がる回数が人より多いだけ。つまりそれだけ、人より多くねじ伏せられているという意味でもある。

 

「ここで、負け癖発揮してる場合じゃねぇんだ。分の悪い賭けだが……」

 

「――意地と見栄でどうにかしてみせると?それも、実に君らしい決断だがね」

 

試すしかない、とスバルが決断しかけた瞬間だった。

不意の声が頭上から降ってきて、放たれる『死』の攻撃とスバルたちの間に人影が割り込む。それがあまりに眩しくて、スバルは思わず目をつむった。

比喩表現抜きに、眩しかったのだ。――その人影が、虹色に輝いていたから。

 

「――アル・クラウゼリア」

 

直後、襲いくる猛撃に対して、光を打ち払う光が放たれる。

破壊の衝撃波も、焼き尽くす炎も、自らの命と引き換えの突貫もあった。それらを黒い光が減退させ、溢れ出す水が呑み込み、吹き上がる砂嵐が勢いを逸らす。

まさしく、自然そのものを操るかの如き所業、それを為したのは砂の上に着地し、すらりと長い騎士剣を振るった優美な背中――、

 

「――故あって、馳せ参じた。危ういところだったようだね」

 

そう言いながら、ちらとスバルへ振り向くのは、ご存知『最優の騎士』ユリウス・ユークリウスだった。

その白い装いのあちこちを血や埃で汚しながらも、彼は悠然とそこに立つ。

纏った虹の輝きも同然に、以前にも増して優麗たる立ち姿で。

その堂々たる参上に、スバルは「ユリウス……」と声を震わせ、

 

「お前……終わったら、他の危ないとこ助けにいけって伝言頼んだだろうが!」

 

「ああ、聞いたとも。だから、ここへやってきた。すまないが、他の面々と比べても、ここが一番危険だと判断したのでね」

 

「うるせぇ!その面の傷どうした!レイドは!?」

 

「完敗だ。気持ちよく勝ち逃げされたよ」

 

「だっせぇ!どうせなら勝ってこいよ!きてくれなかったら死ぬとこだったわ、いっぺんしか言わねぇけどありがとよ!」

 

悪態に交えた感謝を聞いて、左目の下に白い傷を作ったユリウスが「ふ」と笑った。

気障ったらしい態度だが、どうやら彼も彼でレイドとの戦いを終えて、何やら得るものがあった様子。その証拠に――、

 

「準精霊たちと仲直りしたのか」

 

「正確には、彼女たちは蕾から開花し、精霊へと昇華された。それに、仲直りというのも適切ではないね。仲違いしていたわけではないのだから」

 

答えるユリウスの周囲を取り巻くのは、淡く、その光を増した六体の準精霊――否、精霊たちだ。

『暴食』の権能に『名前』を奪われ、その繋がりをも失った精霊たちは、ユリウスに付き従いながらも力を貸せず、戸惑いが長く続いていた。

しかし、そんな両者の溝は埋まり、以前以上の絆が育まれている。

六体の精霊と、スマートに契約を結び直したとは、とんだすけこましだ。

 

「俺はベア子を口説くだけで精一杯だってのに、喰えねぇ野郎だ」

 

「残念ながら、喰われはしていたのだがね」

 

「笑えねぇよ!お前、ちょっと吹っ切れすぎだろ!!」

 

権能の被害に遭ったことさえユーモアに変えるユリウスに、スバルは目を丸くした。

勝ち逃げされた、と表現した以上、レイドとの決着はあったのだろう。レイドの肉体はロイ・アルファルドのモノであるはずだから、『暴食』の片割れとの決着があったと考えるのが自然だ。

そして、ユリウスがその危険性に言及しないということは、アルファルドの無力化には成功していると、そう考えて間違いない。

 

「ユリウス!ちょうどいいところにきたかしら!クアを借りるのよ!」

 

「――、心得ました」

 

そのスバルの頭の上、ベアトリスの呼びかけにユリウスが即座に頷く。彼も、スバルに抱かれるメィリィの状態が一刻を争うと察してくれた。

六体の精霊から、水を司る青いクアが飛び出してくると、その優しい力がベアトリスの治癒魔法と共に、メィリィの体へ癒やしのマナを注ぎ込む。

その上で――、

 

「時間稼ぎに徹する必要があると」

 

「ああ、見ての通りだ。赤くなってシャウラはカンカンってとこだが、やれるか?赤い奴に負けてきたばっかなんだろ?」

 

「だからこその雪辱戦と述べるのは、淑女に対して失礼な態度だろう」

 

真っ直ぐに向き合うべきと、ユリウスが騎士剣を構えて紅蠍――シャウラと対峙。

割り込んできた騎士の姿に、しかし、紅蠍の複眼からは意思は感じられない。その殺意は変わらずスバルへ向いていて、途上のモノは全てただの障害物。

精霊騎士として、一段階上へと自らを高めたユリウスをして、その態度だ。

 

「スバル、シャウラ嬢は私が引き受けよう。それ以外は……」

 

「自力で何とかしろってことだな、了解」

 

「いや、ベアトリス様と協力して成し遂げてくれ」

 

「こういう状況の俺の自力って、七割くらいベア子を計算に入れてるから」

 

正直、七割でもずいぶんと見栄を張った数値である。

八割か九割、スバルがベアトリスの契約者として誇れるのは、小賢しい頭と小技の数々くらいなのだから、九割五分でもおかしくないぐらいだ。

いずれにせよ――、

 

「戻ってくれて助かったぜ……」

 

「君も、己の価値を見つめ直したようで何よりだ」

 

そんな短いやり取りを交わし、スバルとユリウスは互いの役割に集中する。

ユリウスは魔獣の攻撃がスバルたちへ届かぬよう、自ら前進し、剣林弾雨にその身を晒すことによって背後への被害を減らす。

 

一方で、スバルは瀕死のメィリィを魔獣の被害から遠ざけつつ、勝利条件が満たされるまでの時間稼ぎに集中を、と思ったところだ。

 

「――っ」

 

驚きの感覚があり、スバルは弾かれたように顔を上げた。

理由はプレアデス監視塔、そちらに起こった変調だ。それは――、

 

「――ラムの反応が、消えた?」

 

△▼△▼△▼△

 

――ボルカニカの放った息吹きが、青い光となって最上層へと襲いかかった。

 

「――――」

 

それを、エミリアは渾身の力で生み出した氷の盾で防ぎ、突破を試みる。

プレアデス監視塔へ到着するまでの砂海の旅路、塔から降り注ぐ白光を受け止めるために用いられた氷盾は、しかし、龍の息吹きの前には刹那ともたない。

複数枚を重ね合わせた氷盾が瞬時に融解し、わずかでも威力が減衰していれば御の字という規模の攻撃がエミリアへ降り注ぐ。

 

「――――」

 

一瞬、エミリアの脳裏を背後に庇った黒いモノリスが過る。

頑丈で、龍の息吹きではびくともしないのかもしれない。しかし、万一、あれが失われたら『試験』が台無しになる予感があった。

それに、これは『試験』の突破とは無関係な感慨だが、

 

「あれを壊されたら、すごーく寂しい……」

 

奇妙な既視感を覚える手形、それを残したモノリス。

あれが自分とどんな関係があるのか、はたまた単なる思い過ごしなのかもわからない。ただ、その感覚の正体を確かめたかった。

だから、あれは失えない。あれを、失わないために。

 

「――――」

 

アイシクルラインとして展開し、感応可能状態だったマナを一極に集中する。

エミリアは、自分でもビックリするぐらいのマナを保有しているが、その莫大なマナを一度に操れるかというとそういうわけではない。

どれだけマナを溜め込んでいたとしても、一度に出せる量はゲートの分だけ。

それでも並大抵の魔法使いの十倍以上の出力を誇るエミリアだが、精霊術師として長年過ごしてきたことの強みが、その可能性をさらに広げた。

 

魔法使いはゲートを通じて、自らの内に溜め込んだマナを使用し、世界に干渉する。

精霊術師は精霊の力を借り、大気中のマナを使用し、世界に干渉する。

 

ならば、その両方の素養を兼ね備えたエミリアにはできる。

 

蛇口から出る水の量は定量だが、その水を桶に溜めればもっと多くの水を使える。それをエミリアは、自分の肉体と世界とで実行する。

自らの内から溢れたマナを外界に留め、ゲートを無視した極大魔法の応用――、

 

「――アブソリュート・ゼロ」

 

スバルがそう名付け、実現は難しいかもと話していた机上の空論。

本番での一発勝負ができるほど、自分で自分を信じられないとスバルが叫んだのは奇しくもほぼ同じタイミング、そこでエミリアは一度も成功していなかった勝負に出る。

そして、それを成功させる。

 

本来の、エミリアの魔法の力が一だとすれば、溢れた力を応用して顕現するこの魔法の威力は十か、あるいは百に迫るだろうか。

 

瞬間、世界を席巻する白い空白は、大気が凍て付いたなどという表現ではなく、止めることのできない時の経過さえも止まるような威力を伴っていた。

不可避の『死』であったはずの龍の息吹き、それさえも例外ではない。

 

真っ向からぶつかり合った青い光と絶対零度、その衝突が世界に空白を生む。

 

「――――」

 

刹那、その二つの極大の力は、わずかな時間の拮抗もなく、対消滅する。

本当に驚くほど、音も衝撃も伴わない消滅があり、止まったはずの時が再び動き出したときには、エミリアは氷槍を構えて前に飛び出していた。

 

「て、やぁぁぁぁ――!!」

 

細い喉を震わせて、エミリアはボルカニカへ向けて突撃する。

全身からごっそりと力を持っていかれ、体がとても重い。マナ自体は体の外に出したものを使ったとはいえ、それを扱うエミリアへの負担は絶大だ。

 

水を溜め込んだ桶をひっくり返すにも、当然、そのための力がいる。

桶ではなく、泉をひっくり返すような力を使ったのだから、エミリアが疲労困憊となるのも当然のこと。しかし、声を出した。

 

「へこたれてなんて、られないから!!」

 

そうやって叫ぶことで、エミリアは自分自身に活を入れる。

元気とマナは違うものだが、それでも力一杯を自分に言い聞かせることで、眠っている力が湧き上がってくるのを感じた。勘違いかもしれないが、騙されるのが自分なら、嘘をつくのもたまには悪いことではない。

 

『――サテラぁぁぁ!!』

 

息吹きを防がれ、吠えながらボルカニカがその前足と尾を振り回す。

知覚の外からくる衝撃、それをエミリアは自身の周囲に展開した氷の粒の感覚を頼りに防御――生まれる七人の氷兵が砕かれながら、エミリアの前進を手助けした。

 

振り下ろされる一撃を横っ跳びに、続く前足を氷兵が体で止め、その肩を借りてエミリアは大跳躍、空中のエミリアに振るわれる尾撃は、二体で肩車した氷兵が高さを稼いでその身を犠牲に食い止める。

 

「たあ!てや!そやぁ!!」

 

彼らの尊い犠牲に力を借りて、エミリアは身を回しながら氷槍を叩き込む。それは、『神龍』の外皮を削るには足りないが、意識を引くのは十分。

煩わしげに振られる前足を銀髪に掠めながら躱し、エミリアはボルカニカの懐へ命懸けの突貫をやり遂げた。――その位置から、

 

「あの、白い鱗に――」

 

触れるか、一撃が届けばとエミリアは頭上を仰いだ。

再び触れ合えるほどの距離へ近付いた『神龍』、その直視の難しかった白い鱗、それを目の当たりにして、エミリアは目を見開く。

理由は驚きだった。それは、白くなった鱗というわけではなかった。そうではない。

そこにあったのは、鱗の一枚と見紛うほどに大きな白い傷跡だった。

 

「古い、傷……」

 

すでに傷は塞がり、触れられたところで痛みはあるまい。

しかし、『神龍』はただ傷に触れられることを嫌がり、あれほどに悶えたのだ。それがボルカニカの消せない古い記憶と関わるとわかり、エミリアは息を詰める。

その一瞬の躊躇いに乗じて、ボルカニカが翼をはためかせた。

 

「あ――っ!」

 

羽ばたくボルカニカの巨躯が、手を伸ばすエミリアを置き去りに一気に上昇する。

やってしまったと、エミリアは自分の失敗を大いに悔やんだ。

 

これが、翼のある存在と矛を交える上で、一番やってはならない状況。

届かない位置から一方的に攻撃をされれば、負債はあっという間に積み重なる。

 

「ダメよ――!!」

 

とっさに床に手をつくエミリア、その足下から一気に氷が隆起する。

即席で作られた氷の足場を空へ伸ばし、エミリアは飛翔するボルカニカへ追いつこうと必死に手を伸ばした。

しかし、その氷の足場も、十メートル、二十メートルと伸ばしたところで限界を迎え、それ以上の距離を稼がれては届かない――、

 

「――みんな!お願い!!」

 

そのエミリアの叫び声に、氷の足場を駆け上がってくる氷兵たちが応える。

氷の兵隊たちは限界を迎えた足場の先端まで登ってくると、そこから一気に跳躍し、その跳躍した兵の背中を踏み台にさらに跳躍、それを六回繰り返し、最後の一体の背中をエミリアが踏んで、

 

「ごめんね!」

 

強く踏み切った瞬間、踏み台にされた氷兵が背中でへし折れる。

しかし、落ちていく七体の氷兵は全員、親指を立てて笑顔で墜落していく。そんな彼らの後押しを受け、最後の跳躍をしたエミリアの手が、ボルカニカの尾へ――、

 

『――愚か』

 

その一言と共に尾が引かれ、エミリアの指が宙を掠めた。

そして、瞠目するエミリアへと、引かれた尾が勢いよく戻ってくる。

 

空中、逃げ場がない。とっさに氷の盾を生み出そうにも、それを砕かれた上で届く威力だけで、十分にエミリアには致死性の破壊力。

 

「――ぁ」

 

失敗、大変、どうしよう、と様々な考えがエミリアの頭を錯綜する。

時の経過が遅くなる感覚の中、打開策を必死に探し、自分の頭や体の隅々まで何かできないか総動員。ただ、諦めるという選択肢だけはない。

エミリアの大好きな人たちは、誰一人、諦めることを選ばなかったから。

だから――、

 

「私も、諦めない!」

 

だが、威勢のいいだけの言葉では何も救えない。

その無常を教えるかの如く、長きを知る『神龍』の尾撃がエミリアへ迫り――、

 

「――エミリア様!!」

 

瞬間、真下から吹き上げる猛烈な風が、エミリアの上昇をほんのわずかに手助けした。

 

△▼△▼△▼△

 

吹き上げる風に体を押され、エミリアの状況がわずかに変わる。

 

『死』を十割免れなかっただろう状況から、『死』の可能性が九割の状況へ。

そして、その一割の生存の可能性を、諦めを知らないエミリアは見事に掴み取る。

 

「――っ」

 

エミリアの頭を狙い、振り抜かれる『神龍』の尾。

上昇の勢いが増したため、その尾撃の狙いが頭からエミリアの胴体へズレた。それを知覚ではなく直感で理解し、エミリアは思い切り膝を畳み込む。

体を小さくして、当たる範囲から逃れようと――その、エミリアの爪先を、振り抜かれる尾撃が掠め、凄まじい衝撃にエミリアの体が高速で回転した。

 

「――――」

 

膝を抱えたまま、エミリアの体は真上へ吹っ飛ばされる。

内臓が頭から飛び出しそうな衝撃に呑まれながら、エミリアはぐっと奥歯を噛みしめ、上空に氷の足場を展開、強引に自分の体を制動した。

 

どん、と強い音が鳴り響いて、全身で衝撃を受け止めたエミリアは涙目で下を見る。

空に作られた氷の天井、それを足場に天地のひっくり返ったエミリアの視界、ボルカニカの頭部と、一層の階段から姿を見せた人影が遠く見える。

 

正確には人影ではない。人と、地竜の影だ。

 

「ラムと……!」

 

こちらに手を伸ばし、エミリアの上昇を手助けしたのは乱入したラムだった。

遠目に見えるラムは血だらけの満身創痍で、あんな状態でこの場に駆け付けてくれたことに驚きを隠せない。

だが、彼女の手助けがあったおかげで、エミリアは頭を叩かれて死なずに済んだ。

 

その助力を借りて、エミリアは今一度、膝に力を込める。

この氷の天井を足場にして、一気にボルカニカへと急襲を仕掛けんと。その、エミリアの前でボルカニカはおかしな様子を見せていた。

 

尾を振るった姿勢のまま、エミリアの方を見ず、眼下を見ているのだ。

エミリアを助けたラムを次の獲物と定めたのかと、そう思われた。しかし、そうではなかった。古の『神龍』、その金色の目が見るのはラムではない。

それは――、

 

『――パトラッシュ?』

 

「い、やぁぁぁぁ――っ!!」

 

ボルカニカの呟きを掻き消す勢いで、エミリアの体が眼下へ射出された。

半瞬遅れ、頭上を仰ぐボルカニカの尾が氷の天井を砕く。遅い。すでにエミリアの姿はそこにはなく、そして、真っ直ぐボルカニカの喉を狙ってもいない。

 

放たれたエミリアは別の氷の足場――否、氷の『すろーぷ』を作り出した。

プリステラで、スバルと一緒にレグルスから逃げる際、その勢いを殺さずに加速する目的で作った代物――それを、宙に作り出し、氷の靴で滑走する。

 

エミリアの速度が空中で加速し、それを追いかける尾の攻撃を届かせない。

宙で生まれた氷の滑走路、それがエミリアの銀髪のなびいた直後を尾に追われながら、ぐんぐんぐんぐんと加速し、そして――、

 

「ちぇやあああ――っ!!」

 

滑走路から飛び出したエミリアの蹴りが、ボルカニカの喉へ高速で迫る。

それはエミリアを掴まんと閉じてくる前足を回避し、放たれた矢の如く真っ直ぐ、ボルカニカの喉元の白い傷跡へと届いた。

 

『――――ッッッ!!』

 

エミリアの白い靴裏が喉を捉え、ボルカニカが再びの絶叫。

空が割れるような音に「きゃあああ!」とエミリアは耳を塞ぎ、そのまま蹴りの反動で一気に落ちる。落ちて、落ちて、落ちて――、

 

「きゃ!……わ、ありがとう!」

 

落ちてくるエミリアを、足場にされて落ちたはずの氷兵たちが受け止めた。

柔らかい衝撃に助けられ、エミリアはその場に立ち上がる。そして、自分が最上層へ戻ったことと、頭上のボルカニカが悶えているのを視認。

それから改めて、中央の柱のモノリスへ走る。

 

走って、走って、あのモノリスの、既視感を感じる手形へと走って――、

 

「やっぱり!!」

 

モノリスに到達し、今度こそ邪魔のない勢いで手を押し付けた。

その勢いと衝撃にモノリスが揺れたが、エミリアの手はぴたりと問題の手形と一致。手がそっくりな人が世界に何人いるのかわからないが、少なくとも、このモノリスの手形はエミリアと手がそっくりな人のモノだ。

そして――、

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「あ……」

 

モノリスに手を置いたエミリアの下へ、羽ばたく『神龍』が降りてくる。

なおも空にその巨体を浮かせたまま、一度は正気のようなボケ状態に戻ってしまったはずのボルカニカが、またしても最初と同じ問いを放った。

だが、その問いかけは、最初の、何もかも忘我の果てから出たものと違っているように感じた。――正しく、問いかけが始まるのだと、そう感じて。

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

何度となく、かけられた言葉。

頂へ至る者の志を問わん。――つまり、てっぺんにつく人の気持ちを聞かれた。

何をしたいのか、何を望むのか、何をするためにここにきたのか。

 

「――――」

 

その問いかけに対して、エミリアの答えはたくさんある。

何をしたくて、何を望んで、何をするためにここへきたのか、答えはたくさん。

しかし、今この瞬間、大急ぎでエミリアが望むことは――、

 

『――問わん。汝の、志は!』

 

重ねる問いかけ、それを聞いてエミリアは目を見開き、口を開けた。

そして、大きな声で答える。

 

「――みんな、仲良くして!!」

 

△▼△▼△▼△

 

瞬間、絶大な風が吹き荒れ、砂海がその勢いに一気に呑まれる。

 

「うお!?」と、魔獣の猛攻を躱していたスバルは悲鳴を上げ、メィリィの治療に奮戦していたベアトリスも「何かしら!?」と驚愕する。

それは当然、シャウラ相手に人外級の戦闘を繰り広げていたユリウスも同じだ。

 

――否、彼の驚きは、それ以上に大きなものだったかもしれない。

何故なら、凄まじい塵旋風が視界を覆い、身の危険を感じて下がったにも拘らず、追撃がなかったからだ。

そして、その答えを目の当たりにして、ユリウスの驚きはさらに続く。

 

「――これは。スバル!!」

 

「ああ!?なんだよ!砂がヤバくて周りが見えね……」

 

「いいから!こっちへ!」

 

ユリウスの懸命な呼びかけを聞いて、口の中の砂を吐くスバルがそちらへ顔を向けた。

すると、ユリウスが必死な理由がわかり、目を見張る。

それは――、

 

「――シャウラ!?」

 

「~~ッッ」

 

驚愕の声を上げるスバル、その視界に映り込んだのは、塵旋風を浴びてひっくり返り、砂の上で複数ある足をバタつかせている紅蠍の姿だった。

それまで、あらゆる攻撃に対して何ら反応を見せず、機械的な動きでこちらを追い詰めんとしていた塔の管理者――星番と、そう自称していた通りの活動に生じたエラー。

 

「何かしたのか!?」

 

「いいや、特別なことは何もしていない。攻撃をしのぐのに注力していた。さっきの、あの砂風が吹いた途端に……」

 

「砂風……そうだ、あの風は……」

 

スバルたちを呑み込んだ猛烈な風、それを『砂風』と呼ばれて違和感に気付く。

アウグリア砂丘を行くものたちを容赦なく呑み込む砂風だが、問題の結界を突破して以降、監視塔の周辺に強い風が吹いたことは一度もなかった。

それこそ、砂風と呼べるほどのモノは一度も。それが、今、吹いたのは――、

 

「――スバル!見るのよ!空が」

 

「――――」

 

思考が千々に乱れるスバルへと、ベアトリスが可愛い声でそう叫んだ。それを聞いて、スバルはつられて上を仰ぎ、見る。

プレアデス監視塔に生じた変化、そのわかりやすい激変。

 

「――雲が、晴れた」

 

雲を突き破り、天へと伸びるプレアデス監視塔。

その最上部は文字通り、雲に覆われて下から覗き見ることはできなかった。その、監視塔を包んでいた奇妙な雲が、丸々消えている。

それで、ようやく気付いた。――さっきの風は、あの雲を散らすための余波だ。

雲が晴れ、塔のてっぺんが下から見える。

それが意味するところは、スバルの希望的観測によれば一つだけ。

 

「――やってくれたのか、エミリア」

 

呟くスバルの知覚、『コル・レオニス』が感知する塔内の仲間たち、その感覚に消えたはずのエミリアと、それからラムとパトラッシュが戻っていた。

おそらく、ラムとパトラッシュはエミリアの援護に向かい、そこで成果を出した。

つまり、スバルの考えが正しければ――、

 

「塔のルールが書き換わって……シャウラ!おい、シャウラ!聞け!」

 

「~~ッ!」

 

「もう、俺たちと戦わなくていいんだ!お前は、もう、自由に……」

 

ひっくり返り、悶える紅蠍が苦しむのは、己の内に刻み込まれた古からの盟約が断たれたことが原因か。細かい事情はわからない。

ただ、もういいのだ。彼女がこれ以上、苦しむ必要はなくて――、

 

「なぁ、シャウ――」

 

「――っ!スバル!!」

 

呼びかけようと、そう近寄りかけたスバルの襟首が掴まれる。瞬間、引きずり倒すように逃がされた空間を、鋭い尾が猛然とすり抜けた。

その風に掠められ、空気が焦げた臭いを鼻に感じ、スバルは絶句する。

 

今、ユリウスが引き止めてくれなかったら、直撃されていた。

しかし、スバルを苦しめたのは『死』の感覚ではなく――、

 

「おい、シャウラ!シャウラ!なんでなんだ、しっかりしろよ!!」

 

「~~ッッ」

 

スバルの必死の訴えを聞きながら、紅蠍がゆっくりと砂の上に体勢を戻す。

ひっくり返った姿勢を戻した紅蠍、その複眼は揺らめきながら、しかし、ゆっくりと再びスバルを捉えて、その凶悪な牙から涎をこぼした。

 

それは、とても理性ある存在の態度とは思えず――、

 

「――スバル、残念だが」

 

そう言いながら、ユリウスがスバルの肩を掴み、前に出ようとする。

だが、そのユリウスの考えがわかり、スバルは彼の腕を掴んで引き止めた。

 

ユリウスが、汚れ役を引き受けようとしてくれているのはわかる。

しかし、それをさせるわけにはいかない。

 

「助ける、そう決めたんだ。――俺は、あいつを助け出す」

 

「自覚のない、お師様としての務めと?」

 

「違う」

 

首を横に振り、スバルはユリウスの言葉にそう応じる。

そうではない。スバルがシャウラを助けたいのは、お師様だからなんて理由じゃなく、

 

「俺が、あいつのお師様だからじゃない。俺が、あいつに絆されたから、そうするんだ」

 

「――――」

 

「ベア子と同じだ。こんな砂の塔でずっと一人でいて、それで俺らと過ごした何日かが楽しかったって泣きじゃくる奴を、どうして放っておけるんだよ」

 

奥歯を噛みしめ、スバルはユリウスの腕を掴んだまま、そう言い切る。

そのスバルを見つめ返し、ユリウスは吐息した。

 

「……強情だな。だが、そうすべきだ」

 

「――ユリウス?」

 

「いいや、改めて感心したんだよ。一度、見栄を張ったんだ。ならば、最後まで張り通せなくては、とね」

 

薄く微笑んだユリウスが、自分の左頬の傷を指でなぞってそう答える。

その答えに目を細めたスバルは、自分の空いた左手が柔らかい感触に握られたと気付く。見れば、それをしたのはベアトリスだ。

彼女はそのくりくりの地上一愛らしい目でスバルを見つめ、

 

「メィリィの、峠は越したかしら。あとは――」

 

「連れ出すの、手伝ってくれるか?」

 

「これでダメなんて言ったら、ベティーはどんな鬼畜なのよ。……まったく、スバルは本当にどうしようもないパートナーかしら」

 

ベアトリスの答えに、スバルは苦笑いして自分の頭を掻いた。

それからしっかりと、大切な契約精霊と手を繋ぎ直して、紅蠍と――シャウラと向き直る。

 

精霊騎士、二人並んで、救わなくてはならない、泣いている少女と向かい合う。

そして――、

 

「俺はもう、身も心もくたくただ。――だから、さっさと助けられろよ、シャウラ!」

 

――プレアデス監視塔攻略、最後の延長戦が、幕を開ける。