『菜月家の朝』
ゲラゲラと耳障りな笑い声を聞きながら、スバルは寝覚めの頭を軽く振って眠気を追い払う。自然覚醒ならば即座に目覚める体質だと自負はしているが、外的要因で無理やりに起こされた場合は話が違う。
頭に回る血の量が少ないような、淡い疼痛を感じながら瞼を揉み、それとなく首を巡らせると――見慣れた自分の部屋が視界に飛び込んでくる。
これでもかとばかりに漫画とラノベの詰め込まれた本棚を始めとして、脱ぎ散らかしたジーパンやジャージが散乱した部屋だ。もうずいぶんと正しい役割として利用していない学習机は読みかけの本が積まれていて、ゲーム専用となった古びたテレビデオの存在が哀愁を誘う。
干すこともまばらな万年床と化した布団の上で首の骨を鳴らし、スバルはそんな当たり前の風景になぜか違和感を覚えた。――どうして、胸がざわつくのだろう。
「おーいおい、そうやって無視されるといい歳したオッサンが泣いちゃうぜ?こんなに朝の陽気が爽やかなんだから、乗せられるような気分でドンと飛び起きろよ」
「ダイビングプレスで起こされた朝を清々しく迎えろってか?無茶言わんでください。というか、骨が軋んでる気がするからこのまま二度寝に沈みます」
スバルの覚醒を待ってかけられた声に憮然として応じ、それから改めてスバルは布団の上にごろんと横になる。交渉の余地なし、と背中を向けるスバルに、布団のすぐ側に立つ人物は「なーんーだーよー」と不満そうに声を上げ、
「反抗期か!反抗期だな!いずれくると思ってたが、まさか今朝くるとはさすがの俺も心の準備ができてなかったぜ!朝飯の準備なんかしてないで、もっとちゃんと息子と対話する準備しておくべきだった。チキショウ、俺の無力さが憎い……っ」
「とか言いながら、人の足を持ってなにを……おい、ちょ、あだ!あだだだぁ!」
「よーし、今日はじっくりお前と語り明かすことに決めた。まずは肉体言語だ!四の字四の字!おら、寝起きの関節技は効くぞ!」
寝転がる足を四の字に組まされ、スバルとちょうど反対向きに寝転んだ賢一がこちらの膝と脛を極めてダメージを与えてくる。逆らいようのない痛みにスバルが苦鳴を上げると、賢一はまたしてもゲラゲラと人生満喫し切った声で笑い、
「そら、どうしたどうした。図体ばっかでかくなって、あんだけ毎日鍛えてる癖に中年一人に苦戦とか恥ずかしいと思わねえのか、わははは……あ、ちょと待て、あだ!あだだだだ!」
「馬鹿め!返し技のやりやすい四の字を奇襲に選ぶとは父ちゃんも老いたな!体をひっくり返すだけでダメージが跳ね返る、俺に四の字を仕込んだことが仇に……あ、待った、ひっくり返し返しはなしで……いだだ!だだ!」
もう手足も伸び切った大の男が二人して、足を組み合わせながらゴロゴロと攻守を入れ替える。そのたび、被害者と加害者が交互して悲鳴を上げる側が交代。二人の乱暴な動きに机の上から本が落ち、立てて置いてあったゲーム機が倒れる。
そんな朝っぱらから親子喧嘩未満のじゃれ合いを続ける二人に――、
「――ちょっと二人とも。お母さんそろそろお腹すいたから、朝ごはんにしたいんだけど」
のんびりとした声と、調子の外れたノックの音が部屋に飛び込んできて、めまぐるしく関節攻撃を繰り返していた二人の動きが止まる。
痛みに半泣きになってぼやけた視界に、部屋の入口に立っている人物――ぼんやりとした雰囲気を漂わせる、目つきの悪い女性が立っていた。パッと見、かなり不機嫌さをうかがわせる視線の鋭さだったが、その実、内心では別になにも考えていない人柄であるのを十七年の付き合いでスバルは知っている。
目つきの悪さですぐに親子とわかる、スバルの母である菜月・菜穂子だ。
母親の登場に賢一は「いっけね!」と舌を出しながら飛び起きると、
「悪い悪い、つい昴とのスキンシップに夢中になっちったい。なんなら先に食べてりゃよかったのに」
「――?家族で揃ってご飯食べられる朝なのに、どうして先に食べるなんてことするの?みんなで顔を合わせて食べた方がいいじゃない」
気を回した賢一の言葉だったが、菜穂子は疑問符を頭に浮かべて首を傾げる。皮肉でもなんでもなく、純粋にそう思っているからそう口にしたという風情。
そんな妻の様子を見下ろし、賢一は力強く何度も頷くと、
「だよな、そうだよな。さすがは俺の嫁、よくわかってるぜ。朝飯はみんなで顔を合わせて食べた方がおいしいもんな!」
「朝でもお昼でも晩御飯でも別に味は変わらないと思うよ?全員でまとめてご飯にした方が洗い物がいっぺんに片付くじゃない」
「あ、洗い物の話か。なんだ、ごめん。ちょっと一人で盛り上がっちゃった」
いいこと言った顔だったのが、天然な発言に打ち消されて消沈する。肩を落とす賢一を不思議そうに見て、しかし菜穂子はいまだに寝そべったままの昴を見下ろすと、
「ほら、昴もご飯にしましょ。今日の朝ごはんは、昴のために頑張ったんだから」
と、親しい人間にしかわからないほど、上機嫌に薄く微笑んだのだった。
※※※※※※※※※※※※※
――寝ぼけ眼を擦りながら渋々と降りてきた一階の食卓で、スバルはあまりの衝撃に曖昧だった意識が覚醒に導かれる感覚を味わっていた。
「お母さん。俺のために頑張ってくれたって言ってたけど……」
「うん。お母さん、昴のために頑張ったよ。朝から準備が大変だったんだから」
ふふん、とばかりに鼻を鳴らしてどこか自慢げな菜穂子の態度。その態度に後ろめたさがまったく感じられないのを見るまでもなく感じ取り、スバルは嘆息する。
そのスバルのため息の行き着く先、食卓の上をトイレを経由してやってきた賢一が見つけて、「おお」とある種の感嘆符を口にすると、
「すげえな、昴。お前の皿、特別メニューじゃん。緑の森じゃん」
「端的にありがとう。うん、マジそんな感じ。……これ、どういうこと?なんで俺の皿だけ、こんなこんもりグリンピース積んでるの?」
賢一の指摘に頷き、スバルは自分の定位置――自分の席の前に並べられた朝食、その中でも異質な雰囲気を漂わせる一皿を指差す。グリンピースが親の仇とばかりに積まれたそれは、他の食材が埋もれて見えないのか端から入っていないのか、グリンピースしか見えない。ちなみに、スバルはグリンピースが嫌いなのだが、
「ほら、いつだったか昴がグリンピース嫌いって言ってたじゃない?そういう好き嫌いってよくないとお母さん思ったの。だから、この機会にいっぱい食べて克服してもらおうかなーって」
「そんないつだったかも覚えてないような記憶を頼りに俺の好き嫌いを直そうとしてくれたんだ。しかもこの機会って……別になんの特別な日でもなくね?」
「ふふ、青いな、昴。いいか、いつだってどんなときだって、今日という日の今この瞬間はここでしか味わえないんだ。お前は同じような一日がまた訪れると思ってるかもしれないが、そうやって実は無数の『これだけ』って瞬間を見逃して……」
「今、そういうのいいです」
軽く踊りながら会話に割り込んできた賢一を押し退けて、スバルは深々とため息をこぼしながら自分の席へ。そして、とりあえずグリンピースの積まれた皿を自分の前から押しのけると、
「ともかく、俺のために用意してくれた気持ちだけありがたく受け取って、グリンピースそのものは遠慮する。朝から嫌いなものでお腹なんか満たしたくない」
「またそんなこと言って。それじゃ、もしも世界にグリンピース以外に食べるものがなくなったらどうするの。そしたら食べるでしょ」
「そんな世界になったら遠からず栄養失調で死ぬから、ちょっとグリンピース食べたぐらいじゃどうにもならないだろ。だから俺は、絶対に食べない」
屁理屈をこねる菜穂子に屁理屈で返し、スバルは腕を組んで胸を張りながら、
「たとえアルマゲドンが降ってこようと、俺は絶対にグリンピースは食べない」
「ったく、そうやって食わず嫌いとかしてると人生損してるっつの。あ、お母さん、俺のサラダに入ってるトマト、嫌だから代わりに食べて」
「さすが俺の父親……一つの発言の前半と後半で見事に矛盾してやがる」
手で自分のサラダからトマトを母親の方へよけ、代わりに母親のサラダからゆで卵を強奪していく父親。定例のやり取りなので文句も言わない夫婦間の暗黙の了解。それを横目にしながら、スバルはグリンピース以外の朝食――湯気の立つ味噌汁と、蜂蜜がふんだんに使われたハニートーストを前に手を合わせ、
「いつも思うんだけど、なんでこんな和洋折衷?」
「お母さん、味噌汁の具はわかめ、パンに塗るのは蜂蜜が好き」
答えになってない。が、それを突っ込むのももはや面倒臭い。言ったところで、菜穂子は不思議そうな顔をして首を傾げる動作を返してくるだけなのは目に見えている。
スバルが小さく「いただきます」と言ってから味噌汁に口をつけると、賢一と菜穂子もそれぞれ自分たちの席――スバルと向かい合わせに並んで座る。
二人も手を合わせて「いただきます」と口にしてから、揃って同じ動作でまずは味噌汁を啜り出す。誰も気付いていないが、完全にパターンが三人一緒だった。
「む、この味噌汁……さてはお母さん、ちょっと見ないうちに腕を上げたな?」
「わかる?実は昨日、お昼の三分クッキングの番組を録画したのよ」
だからなんだよ。
菜穂子の調子外れた返答と、賢一の適当な話題の振り方に頬が引きつる。しかも菜穂子の発言はかなり正確に事実に沿うので、「録画した」と発言したからにはおそらく録画しただけで見てはいない。たぶんそのまま見ることもない。そもそも、
「父ちゃんが朝からいるんだから、味噌汁もトーストも作ったの父ちゃんだろ」
「おいおい、慧眼だな、俺の息子。そこに気付くとは……発言の矛盾を揺さぶって、証拠を叩きつけにくる気だな?」
「今さらずいぶん古いゲームにはまってんな!いや名作だけど!」
おそらく、スバルの机の上からゲーム機ごと持っていったのだろうと思う。通勤中の暇つぶしなどにもってこいだろうが、いい歳した中年が電車の中でゲーム機持って前のめりになりながら熱中している姿は想像するだけで背中が痒くなる。
と、そんな話をしながら、甘いトーストを咀嚼するスバルは「そういえば」と切り出し、
「今さらすぎるけど、父ちゃんはなんでそんな薄着?そろそろ暑くなってきたけど、ランニングにステテコ一丁っていくらなんでもラフすぎるだろ」
「ステテコ履いてんのはお前も同じじゃん?てか、父ちゃんはアレだから、ちょっと早起きできたもんだからテンション上がって庭で乾布摩擦とかしてたアレだから」
「乾布摩擦て、逆にそれってもっと寒い時期にやらなきゃ意味ないんじゃなかった?」
「こういうのはやる気の問題なんだよ。走り出す前にそういうつまらないこと気にしてて、お前目的地に辿り着けんのかよ。お母さんもなんか言ってやれよ」
「そうよ、昴。それに気温は寒くなかったけど、お父さんの乾布摩擦はちゃんとお母さんが冷たい目で見てたから」
「あれ!?嫁のフォローがないよ!?」
「え……フォローしたじゃない。ちゃんと寒かったって」
「それフォローじゃなくて追い打ちだよね!?」
ガタガタと椅子を揺らして不平不満を露わにする賢一。そんな夫を見ながら「埃が立ってる気がするから、あとで掃除しなきゃ」と見当違いな反応をしている菜穂子。
そんな両親を見ながら、スバルは目を伏せつつぼそぼそと朝食を進めていく。なお、スバルの前からどけられたグリンピースの皿は賢一の方へ行き、賢一が嫌がって菜穂子の方へ押しやり、その菜穂子が再びスバルへ送るという堂々巡りを続けていた。
「っていうか、これもう完全に誰も食べないパターンだろ。どうすんだよ、こんな大量のグリンピース。責任とってお母さんが食べてよ」
「でも、お母さんグリンピース嫌いだし……」
「人の好き嫌い克服させようとしといてそれかよ!?」
「あ、でも勘違いしないで。お母さんが嫌いなのはグリンピースだけじゃなくて、こう……小さくて丸いもの全般だから。口に入ると気持ち悪くて」
「なんの勘違いもしてねぇし、ますますをもって不信感が募ったよ!」
そういえば母親が豆類を口にしているところを見たことなかったな、と思いつつ今度は皿を賢一の方へ押しやり、
「んじゃ、妻の責任は夫が取るってことで、父ちゃんが食べてくれよ」
「寂しいこと言うなよ、昴。俺たちは今どき珍しい仲良し家族だろ?つまり、お前とお母さんが嫌いなもんは俺だって嫌いだよ」
「誰も幸せにならねぇ気遣いだったな、この緑の皿!」
誰の口にも入らないまま放置されるグリンピース。最終的には賢一が「仕方ないからピラフにでも入れるか。なくなるまでピラフ攻めだぜ、へへへ」と悪ガキみたいな顔をして処理を決定。
他のものに入っていればなんとか、とそれを受け入れたスバルと、なにに入っていても嫌なものは嫌と頑なに首を横に振った菜穂子。けっきょく、男衆二人で片付ける羽目になる。
「ごちそうさまでした」
「うい、お粗末さん。よっし、じゃあぱぱっと洗い物して、腹ごなしに学校まで競争といくか、昴!」
「流れるように登校を促すパターンも聞き飽きたぜ。そもそも、食ってすぐに走り出すほど腕白小僧に育った覚えないし」
洗い場に食器を放り込んだ賢一が振り向いて歯を光らせるのを見て、スバルは肩をすくめると食卓を立つ。それから小さい声で「昼まで寝てる」と言い残し、頭を掻きながら二階の自室へ――と、ふいにその足が止まる。
「なん、だ……?」
こめかみのあたりに疼きが走り、スバルは軽く頭を押さえて目をつむる。ちかちかと瞼の裏に光が瞬き、喉の奥の方を熱いものがチリチリ焦がすのを感じた。
なにかが、変だ。なにか変なのだ。
振り返り、スバルはこちらを見ている両親の顔を見る。
誘いを断られた賢一が不服そうに唇を尖らせ、菜穂子は食卓を布巾で拭きながらどこか寂しげな目でスバルを見ていた。
父と母から向けられる視線――そこに込められた感情を意識して、スバルの胸中が無視できない熱に苛まれた。顔がカッと熱くなるのを感じ、スバルはその表情を見られまいと慌てて背を向けると、逃げるように――否、自室へと逃げ込んだ。
「なんだ?なんで、なんでこんな変な気持ちになった?」
自分の胸に手を当てて、スバルは拍動の速さに驚きながら息をつく。崩れ落ちるように布団の上に尻を落とし、落ち着かない目で部屋を見回す。
目覚めたときから変わりのない自室だ。昨夜、眠る前に見たそれと変わっているところもない。ずっとずっと、変化の訪れることなく停滞し続ける部屋。
主である、スバルの停滞を示しているように。
ちらと時計を見れば、時刻は朝の八時になろうかというところだった。学校の開始は八時半であり、自宅からは自転車で約二十分。間に合わない時間ではない。
だが、スバルは着替える素振りもなく、膝を抱えたまま布団の上で動く針をジッと見つめる。刻々と動く秒針、長針が静かに十回動き――デッドラインを越える。
――これでもう、今日も学校には間に合わない。
「だから、仕方ない。そうだ、仕方ねぇんだ」
もしも覚悟が決まるまで、もう少しだけ時間が残っていたら登校できたかもしれない。しかし、現実は非情にもスバルにタイムリミットを宣告した。
だからもう、今日は選択を迫られることはない。それなのに、
「……いつもなら、これで落ち着くはずじゃねぇか。どうしたよ」
動悸が収まらず、呼吸の荒れが鎮まる気配がない。
自身の肉体の変調に困惑を抱えて、スバルはかたかたと鳴る歯の音にすら怯える。
――スバルにとって、朝のこの時間は一日でもっとも恐ろしい時間だった。
「落ち着け、落ち着け……時間は過ぎた。もう、落ち着いていい時間だ。いいんだ」
震える体を押さえながら、スバルは繰り返し自分に訴えかける。
もう、日課となってしまった恐怖の儀式は終わりの時間だ。明日の朝、同じ時間にまったく同じ恐怖とぶつかるとわかっていても、それでも今日は乗り越えた。
誰もスバルを急かしはしないし、誰もスバルを追い詰めもしない。だからスバルの心を焦れさせるのも追い詰めるのも、他でもないスバルだけだ。
学校に行く――ただ、それだけの選択をスバルに強いる苦痛の時間。
登校を拒否し、不登校児となって久しい期間を経たにも関わらず、開き直ることもできない己の弱さと向き合い続ける時間。
自己嫌悪とコンプレックスに苛まれながら時間の経過だけを待ち、登校時間を過ぎたのを確認してそれらから解放される惰性の日々。
毎日毎日の苦しみだからこそ、解放されたときの安らかさだけは誰よりも知っている。それに縋る己の弱さも、そうせざるを得ないと言い訳を続ける醜さも。
それも全部許容した上で、この時間を過ごしているはずなのに――、
「なんで今日に限って……」
罪悪感が、自己嫌悪が、へばりつくような不快感が消えることがない。
胸を掻き毟りたくなるような焦燥感の出所がわからず、スバルは呼吸すらおぼつかないまま嫌な汗を掻き、布団の上で悶え苦しむ。
ずっと、食卓を離れるときに見た、両親の顔が頭に焼きついて離れない。
いつも通りの素振り、いつも通りの会話、いつも通りのやり取り、いつも通りの裏切り、いつも通りの怠惰――そうだったはずだ。
なのに今日に限って、そのいつも通りの行いの数々がやけに胸を苦しめる。
――思い返せば、今朝は目覚めの瞬間からなにかがおかしかった。
父である賢一があの手この手の趣向を凝らして、スバルの目覚めに嫌がらせするのはいつものことだ。学校にも行かなくなり、名実ともに穀潰しと化したスバルへの接し方が変わらない父。つまりは今朝のやり取りも延々、十七年間続いてきたやり取りに違いないのに――今朝はどうしてかやけに、ダイビングプレスとは別の理由で胸が痛んだように思う。
母である菜穂子の的外れで見当違いな思いやりだって、全然役に立たないことの方が圧倒的に多くても、それでもいつもスバルのことを優先している。自宅にこもりきりのスバルと、専業主婦の菜穂子は同じ時間を過ごすことが必然的に多い。それでも、時間に任せるように、穏やかな目でスバルを見守り続ける。――食事の場ではどうしてなのか、その眼差しをやたらと意識してしまうことが多かった。
そして現状、登校時間を過ぎたにも関わらず、落ち着かないまま焦燥感に焼かれ続ける自分の身の変調が一番不可解だった。
「なにか変だ。なんでだ?なんかあったのか?昨日は確か……」
昨日の行動を振り返り、今朝までの間になにがあったかと頭を悩ませようとして――痺れるような感覚にそれを中断させられる。
目の奥で火花が散るような感覚は、まるでスバルが記憶に触れようとするのを拒むように熱を発した。そのことに目を白黒させながらも、スバルは再度記憶の海に挑もうとして――それをやめる。挑んだところで、答えなど同じだ。
昨日も、一昨日もその前も、スバルはなにもしない日々を過ごした。
今朝の、今の胸の疼痛だって、なにか特別があったから起きているわけではない。
たまたま、今日はそんな風に罪悪感を、痛みに感じる日なだけだ。両親の顔をまともに見れなかったことだって、それと重ねてのことに決まっている。
「――ちょーっといいかよ、昴」
と、結論を出してもなおも収まらない拍動にスバルが嫌気が差した頃、その声は扉越しにこちらへと投げかけられていた。
扉の方へ目を向けると、ちょうどそこから半身を覗かせた賢一がするすると滑るように部屋へ入ってくる。巧みな足さばきはキングオブポップを彷彿とさせる、滑らかな仕上がりだが――、
「人が入っていいかどうか答える前に入ったらノックの意味とかなくね?」
「おいおい、親と子という固い絆で結ばれた俺とお前の間に、ノックがどうとか小さいことを言い合うような理由は……いや、あるよな。そうだよな、思春期の男だってんなら部屋に一人こもってそりゃやりたいこともある。わかった。十分ぐらいしたらまたくるわ」
「勝手に結論出して現実的な間を置こうとすんなよ!別に大丈夫だよ!」
いらん気遣いをされたことに声を荒げつつ、スバルは呼吸の荒さをそれで誤魔化せると内心で安堵。スバルの返答を受けた賢一は「本当にぃ?」と疑わしげな顔をしつつも、後ろ向きに前進するムーンウォークで再入室。
じと目で見上げる息子と向かい合い、その場で指を天に突きつけてポージングすると、
「さて、昴よ。見りゃわかると思うが、実は俺は今日は仕事が休みなんだ」
「うん、まぁ気付いてた。月曜日の朝のこの時間から家事に従事してりゃさすがに俺も気付くって。で、それでなによ」
「ま、そう結論を焦んなよ。ちょちょっと、話したいこととかあったからこの機会にまとめて話そっかなーみたいなとこだ」
「話って?飯食ったら自分の食器ぐらい自分で洗えって?」
「それもある。父ちゃんは洗い物が嫌いだ。作るの好きだから準備とか調理自体は楽しいけど、それが過ぎたらもうやる気がない」
ゆらゆらと揺れながら崩れ落ちる賢一。先ほどからアクション過剰な父の姿にスバルは眉を寄せ、なんとなく父が迷いを抱いているのを感じ取る。
本題になかなか入らず、茶化した態度で己と相手の心に覚悟を決めさせる時間を持たせる――うまくはやれていないが、スバルも似たようなことをする性格だからだ。
それも、当然の相似であるのだが。
「――痛っ」
そう思った瞬間、またしてもスバルの頭を鋭い痛みが襲った。
こめかみの内側に針を突き立てるような痛み。骨が削られたような軋みを頭蓋に感じながら、スバルはその痛みの表情を見られまいと顔を伏せ、
「そ、それで?そのやる気なくした父ちゃんは俺となんの話をしようってんだよ」
「うん、そうだな。昴、好きな子とかいる?」
「――中学生か!!」
痛みを誤魔化すための話題振りが、痛みを忘れるほど馬鹿な話題で過敏に反応。
顔を上げて怒りに頬を引くつかせるスバルを見て、賢一は「おーおー」と両手を振りながら、
「そんな過剰反応するなんて、好きな子いますって自白したようなもんだぜ」
「したり顔でなに言い出してやがる。呆れて悲嘆して嘆息して物も言えねぇよ」
実際、的外れな指摘だ。
好きな女子であるとか、そういったことに関する興味は今のスバルにはない。持てないし、持ってはならないとそう思う。思い込んでいるだけかもしれないが。
「なーんだよ、つまんねえの。ちゃんと父ちゃんがお前が小さい頃アドバイスしてやったろ?女の子は何年越しの約束とかそういうシチュエーションに弱えから、もうとにかくめぼしい女の子に片っ端から十年後の約束とか交わしまくってフラグ立てておけば、ティーンズになってから攻略ルート乗っかれるぜってよ」
「純真な俺はそれ真に受けてあちこちの女の子に指切り迫って、ここら一帯じゃ指切り禁止令が出たんだぜ。理由はおっかない顔の児童が女子児童に無理やりに針を千本飲ませようとする事例が多発ってことでな!」
「……父ちゃんの甘いマスクが遺伝したらよかったのにな。足が短いとこと、母ちゃんの目つきと、父ちゃんのテンションと母ちゃんの無頓着さと、お前は母体から出てくるときのステータスの割り振りを誤りすぎ」
「へその緒ついてた頃の俺に言ってよ……」
切なすぎる思い出を振り返り、なんでか親子共々にテンションが盛り下がってため息をつき合う。と、そうやって脇道を走った話題を「で?」とスバルが本題に戻し、
「けっきょく、なんの話がしたかったんだよ。俺にはこのあと、二度寝と三度寝っていう大事な使命があるから、ご用件はピーという発信音のあとでこっそりと退室して母ちゃんとくっちゃべってください」
「ナチュラルな流れで追い出すなよ。おまけにお母さんに話しても伝わるわけねえだろ。俺の奥さんでお前のお母さんって生き物は世界一察しの悪い女だぞ。そこが可愛いんだが」
ナチュラルに惚気的な発言が出てげんなりとした顔になるスバル。
そのスバルの前で賢一はしばし「んー」とうなって上を見上げたあと、イタズラ小僧のような顔をして己の鼻に触れると、
「ま、なんだ。いい天気なんだし――ちょっと、外で親子トークと洒落こもうぜ」