『帝国の流儀』
全身をじわじわと蝕む脅威、流れる血がマグマとなったような苦しみが、ナツキ・スバルの存在を一枚一枚引き剥がし、飾りのない自分を剥き出そうとしてくる。
治りきっていないカサブタを剥がし、生々しい傷を冷たい空気に当てるような、そんな残虐な行いの延長戦。――魂が、守れることのない現実に触れる。
訪れるのは痛みか、嘆きか、悲しみか。
あるいはもっと全く異なる何かなのか、それすらもスバルにはわからない。
わかることがあるとすれば、救いがあるとすれば、たった一つだけ。
その、絶望的な感覚は答えに行き着く前に途切れ、嘘みたいな開放感が――、
「――ぜえはあうるっせえぞ、てめえ」
「がもがっ」
直前の苦しみから解放され、血泡を噴くはずの口を大きく開ける。
肺に穴が開いたみたいに空っぽだった体が酸素を求め、思うさまに無味無臭のそれを味わおうとしたところへ、何かが無理やり口へ突っ込まれた。
思わぬ衝撃にのけ反り、咳き込むスバルに罵声が浴びせられる。
だが、何があったのかがわからない。正確には見えない。顔に感じる締め付けは、目元に何かを巻かれている証だ。顔を縛られている。
――否、縛られているのは顔だけではない。手足も同様に拘束されていた。
その状態で、誰かに何かを口の中に突っ込まれたのだ。
「ごほっ!げほっ!な、なんで、縛られ……ごぁっ!?」
「てめえ、なに反抗してやがる。自分の立場がわかってねえのか?」
「あ、がく……ッ」
その口の中のモノを吐き出した直後、乱暴な相手に鳩尾を蹴飛ばされた。衝撃に息が詰まり、横倒しになるスバルへと相手の唾が吐きかけられる。
唾を浴びせられた屈辱も、胸を貫く痛みの前には気にならない。ただ、閉ざされた視界が痛みで赤く明滅する中、スバルの頭は混乱の海に呑まれていた。
――ほんの十数秒前の出来事が、スバルの頭を掻き回している。
「――――」
トッドに起こされ、連れ出されたテントの外では大きな森が火の手に包まれていた。それがスバルの失言を理由に起きたと知った直後、背中に矢を浴び、倒れた。矢を放ったのは幼く見える少女で、見る間に体から力が抜け、全身が痙攣して。
血泡を噴きながら苦しんで、駆け寄ってくれたレムの声を聞きながら、途切れそうになる意識を繋ぎ止めようとして――、
「ここ、に……」
「ああ?てめえ、いつまでふざけて……」
「――まあまあ、落ち着けって!何もわかんないんだよ!仕方ないって!それよりほら!目隠し、外してやろう!」
「――ぁ」
混沌の渦に呑まれていた思考が、頭上で交わされる会話に現実に引き戻される。
聞こえてきたのは二人の男の会話だ。片方は粗野と乱暴が具現化したような荒っぽい男の声であり、もう片方はそれをとりなす人の好い印象の柔らかい声。
――その声の主の両方の顔まで、スバルの頭には自然と浮かび上がった。
「ちっ」
舌打ちと足音がして、スバルを蹴りつけた男が遠ざかる。それからすぐに、「やれやれ」と呆れと苦笑の入り混じった嘆息が聞こえて、
「いきなり悪かったな。何がなんだかって気分だと思うが、とりあえず目隠しを外すぞ?手足の縄は外せないから勘弁な」
「――――」
そう言いながら、歩み寄る男がスバルの頭に巻いた目隠しを外す。
わずかな痛みと共に訪れる開放感、それを堪能するより前にスバルは深呼吸、それを一度、二度と繰り返し、最後に軽く息を止める。
それから、ゆっくりと視力が戻るのを待って、瞼を開いた。
そして――、
「……やっぱり」
ぼやけた視界が徐々に鮮明になると、スバルの前に広がっていたのは天幕と焚火、忙しなく行き交う帝国兵たちの姿だ。
見慣れたというほどではないが、見知った帝国の野営陣地――スバルが雑用のために東西奔走した、借り暮らしの土地である。
「――――」
その光景自体に不思議なことはない。
そもそも、スバルが矢傷に倒れたのがこの陣地なのだ。意識不明になったところを治療され、ここで目覚めたとて何の不思議があろうか。
ただし、そう納得するためには最初の衝撃――口の中に靴を突っ込まれた事実と、今もなお手足を拘束されたいる事情が説明がつかない。
いくらスバルが帝国式の流儀に疎いとはいえ、治療するたびに対象の手足を縛って拘束するような常識がまかり通るなら、そんな国は滅んでほしい。
つまり、そうでないということは――、
「死んだ、のか」
――『死に戻り』したと、そう考えるのが一番自然な状況だ。
そして、それを確かめる方法は皮肉にもあっさりと思いついた。ただ首をひねり、陣地の向こうにある緑の森を視界に入れるだけでいい。
スバルが自ら失言し、結果、帝国兵の暴挙を許して焼失した密林。
業火に焼かれ、黒煙を上げていたはずの森は、しかしてそこにあった。右へ左へ、地平線を埋め尽くすほどの緑の密林、健在なりと。
「――――」
それを確かめたことで、スバルの脳裏にはっきりとそれが浮かび上がる。
矢傷に倒れ、血泡を噴くスバルの下へ転がるように這い寄り、必死になって死ぬなと呼びかけていたレムの声を、存在を、歎願を。
だが、スバルはそれを裏切った。彼女の前で、無残にも死んでしまった。
未知の土地で、嫌っていたとはいえ自分を知る男が死んでしまい、記憶喪失のレムがどれほどの不安と恐怖を味わったことか、想像するだけで胸が張り裂ける。
そして、同時に思った。――もう絶対に、彼女にそんな思いを味わわせたくないと。
「ちょうど、水汲みにいったところで見つかってなぁ。悪いが、お前さんは俺たちの捕虜になったんだよ」
そう、強い思いを胸に抱いたスバルの前に、一人の男がしゃがみ込んだ。
柔らかい笑みを浮かべ、目尻を下げたその人物を知っている。――トッドだ。
この帝国兵だらけの陣地の中、唯一、スバルやレムに友好的に接してくれた人物。
帝国についてあまりに無知なスバルに根気強く付き合ってくれた男で、スバルとしても最初に彼に拾われたのは幸運だと思っていた。
彼が、スバルの言葉を理由に森を焼き払う選択を後押しするまでは。
「――――」
体感では十分も経過していないが、彼の屈託のない報告には背筋が凍った。
部隊が派遣された目的である『シュドラクの民』、その攻略のために森へ入るのが困難であると判断した途端、帝国兵は容赦なく森を焼き払った。そして、その選択の決定打となった情報を供出したとして、スバルの貢献を大いに褒め称えたのだ。
神聖ヴォラキア帝国では強者が尊ばれ、弱者は虐げられる。
剣に貫かれた狼をシンボルに、『剣狼』のみに生きる資格があると教える大国。トッドのようなメンタリティは、帝国では珍しいものではないのかもしれない。
魔獣がいると聞いて、森に火を放つ作戦が決行されたのも頷ける在り方だ。
ただし、スバルはもちろん、ルグニカ王国の人々の誰とも相容れないだろう。せいぜいが、合理主義の塊であるロズワールぐらいだろうか。
いずれにせよ、今度は森を焼け野原にさせてはならない。
「――――」
ごく、と唾を呑み込み、スバルは前回の出来事を失敗と捉える。
スバルが殺されてしまったこともそうだが、たとえ帝国兵が安全策を取るためだったとしても、森を焼き払うなんてことはやりすぎだ。
スバルの失言がなければ、トッドたちと『シュドラクの民』は穏便に話し合いの場を作り、血を流さずに交渉を結実させた可能性だってあった。
その可能性を奪い、森にいた人々を危険に晒した――否、責任逃れはやめよう。あの大火で被害者がいなかったなど、絶対にありえない。
ナツキ・スバルは自分の失言で、森で暮らす人々の命を奪ったのだ。
『死に戻り』によって、その世界線の出来事に干渉できなくなったとしても、その事実からは逃れられない。――スバルは、それを決して忘れないのだから。
「――――」
故に、スバルは二の轍を踏むまいと覚悟を決める。
『死』は重く、自分のモノも他者のモノも、決して繰り返させてはならない。そう考えれば、ここでトッドやジャマルと初対面をやり直せるのは不幸中の幸いだ。
『死に戻り』のリスタート地点が変更され、草原でレムに昏倒されたあと、森の狩人と魔獣の猛攻から逃れ、帝国の陣地に拾われた直後へ舞い戻った。
ここからトッドと、可能であればジャマルとも友好的な関係を築き、彼らを森の『シュドラクの民』と決裂させない形で交渉へ臨ませる。
そのために――、
「お前さん、話は聞いてるかい?いきなり捕虜って言われて、それで混乱してるのもわかるんだが……」
「――。いや、そう、だな。混乱はしてる。混乱はしてるんだが、ええと……」
押し黙ったスバルの前にしゃがみ、トッドがこちらの心情を慮る。彼のその姿勢を受け止めながら、スバルは次の言葉を選ぶために考え込んだ。
前回、トッドとの関係は良好だった。あの関係性は維持しつつ、スバルやレムに便宜を図ってもらう路線は継続すべきだろう。
その上で、彼の極端な行動を抑制するべく、慎重に情報を選ばなくては。
「驚いたけど、捕虜になったってのはわかった。川に飛び込んだことも覚えてる。そこから助けてもらったんなら、あんたたちは命の恩人――」
「――待て」
「え?」
ひとまず状況を精査し、川から引き上げられた人間として違和感のない態度を演出しようとするスバル。
だが、そんなスバルの言葉を遮り、トッドがこちらの顔に掌を突き出した。
広げられた五指と掌に視界を塞がれ、スバルはとっさに息を詰まらせる。
そして――、
「――お前さん、なんで今、そんな目で俺を見たんだ?」
と、冷たく硬いトッドの声が聞こえた直後、スバルの右肩に鋭い感触が侵入する。
視界を遮られ、相手の動作への反応が遅れたスバルは、自分の右肩に起こった違和感の方へ目をやり、何があったのかを理解した。
――スバルの右肩に、ナイフの鋭い先端が突き立てられていたのだ。
△▼△▼△▼△
「――ッッ!?」
何があったのかを視認した瞬間、スバルの喉が声にならない声を上げた。
凄まじい灼熱感が右肩を中心に爆発し、スバルの全身が鋭い痛みに痺れて伸びる。体をぴんと伸ばして発生した痛みを全身に分散しなければ、許容量を超えた不幸を受け止め切れない脳がパンクしかねない。
それほどに、意図しない刺し傷の衝撃は絶大なものだった。
「ぎ、がああぁぁぁぁ――ッ!!」
声にならない声に遅れて、数秒後に明確に痛みに引き出される絶叫が上がる。
身をよじり、抉られた肩をさすったり、押さえたり、とにかく痛みを押さえるための何らかのアクションを起こしたい。しかし、スバルの手足は拘束され、突き立てられたナイフを引き抜くアクションすら起こせない。痛い、痛い、痛い、痛い。
「お、おい!なんだ、今の悲鳴!」
苦痛に悶え、絶叫を何度も上げるスバル。そのただならぬ声を聞きつけ、慌てた様子で駆け込んできたのは眼帯をした粗野な外見の男、ジャマルだった。
直前までスバルを蹴りつけ、暴力を振るっていた側だったジャマルは、右肩にナイフを生やして血を吐くような悲鳴を上げ続けるスバルの姿に目を見開く。
そして――、
「トッド、話が違うじゃねえか!貴族のナイフを持ってやがったから、こいつらには手を出すなって言ってたのはお前だっただろうが!」
「ああ、こいつらの素性がわからないうちはそのつもりだった。それに関しちゃ、話が違うってお前が怒るのはわかるよ。失敗失敗」
「……ってことは、こいつがどこの誰なのかわかったのか?」
声を荒らげたジャマルが、立ち上がったトッドの答えを聞いて落ち着きを取り戻す。しかし、そのジャマルの問いかけにトッドは「さあ?」と首を傾げた。
そのまま、トッドは横倒しになって苦鳴を上げるスバルの体に足を乗せ、
「どこのどなたなのかは聞いてないからさっぱりわからん。ただ、俺たちの敵である可能性は高い。だから、先制攻撃だ」
「ぐ、ぎゃあああ――ッ」
「おお、痛そうだな。あんまり苦しませても仕方ないんだが、お前さん、痛みには強い方かね。そこんところ、どんな自己評価だ?」
スバルの体に乗せた足に体重をかけ、トッドが平然とそう聞いてくる。
だが、地べたに倒れるスバルはトッドに体重をかけられると、肩のナイフが傷口へ深く押し込まれる形になり、耐え難い苦痛の再演に答える余裕がなかった。
視界が明滅し、喉が焼け、血を吐くような絶叫が何度も何度も上がる。
それをどれだけ繰り返しても、痛みは安らぐ気配もない。失われることなく、新鮮な絶望となって、寄せては返す波のようにスバルを襲い続けた。
「答えない。反抗的だな。やっぱり敵だ」
「……そんな転がしてたら、答えられるもんも答えられねえだろうよ」
「ん?そうなのか?しまったな。自分が痛みに鈍いと、どうしてもこういうところで下手をやらかしちまう。失敗失敗」
言いながら、トッドがようやくスバルの体から足をどける。
追加される痛みは消えたが、断続的な痛みはなおもスバルを刺し続けており、耐え難い苦痛に噛みしめた口の中から血が流れ出していた。
眦からは涙もボロボロと流れ、惨めにもそれを拭かせてももらえない。
「お前……これでよく、俺の素行が悪いなんて注意できるもんだな……」
「――?お前さんが捕虜とか部下を殴るのは憂さ晴らしだろう?それでお上品ぶるなんて冗談はよしてくれよ。俺は必要なことをしてるだけさ」
一方で、そんなスバルの醜態を無視し、男たちは頭上で会話を続けていた。
スバルへの刃傷沙汰をさし、ジャマルがトッドを宥めているという、少し前なら考えられなかったような光景が展開されていた。
これは、いったい、何が起きているのか。
痛みに耐えるためにリソースが割かれているとはいえ、考えがまとまらなすぎる。
あれだけスバルたちに良くしてくれたトッドが、何故、こんな真似を――、
「で、なんで刺したんだ」
奇しくも、ジャマルがスバルの抱いた疑問をトッドに投げかけてくれる。
そう問われ、トッドは片目をつむると、身悶えしているスバルの方を見やり、
「目隠しを外して俺を見たとき、俺を操ろうとする目をした。不安とか緊張ならわかる。怯えたり泣いてもいい。――でも、操ろうとするのはおかしいだろう」
「操る、ねえ」
「意識のない奴が、蹴り起こされて目隠し外されて、最初に見た顔を利用してやろうなんて目をするかね?そりゃそういう奴もいるのかもしれないが、そんな奴は怖くてとても対応できんよ。さっさと殺した方がいい」
思案気なジャマルに対して、トッドはあくまで理路整然と自分の考えを述べる。
スバルを刺した理由は、トッドがスバルを危険だと判断したから。そして、危険な相手への最善の対処として、その無力化を図ったのだと。
何故なら、トッドはスバルの右肩を刺した。――左手は指が折れ、使い物にならないとわかっているからだ。
右肩を刺され、左手の指を折られ、スバルの両腕の機能は大きく低下した。
自らの安全を確保するため、トッドは即座にその判断を下し、実行したに過ぎない。
――過ぎないって、なんだ。
「起きてすぐにそんなこと考えたのかはわからねえじゃねえか。運ばれてる最中に目が覚めてて、ずっとこっちの話に聞き耳立ててたのかも……」
「いや、それはない。寝たふりしてるんじゃないかはずっと見てた。どこかで意識が戻ったら、そういう生理的な反応をしたはずだ。もしも、寝たふりを俺が見落としたんだとしたら……」
「したら?」
「寝たふりでこっちを騙しながら、計画的に俺を操ろうとしたってことじゃないか。こっちの方がもっと怖い。やっぱり殺しておくのが正解だろう」
その話を聞いていて、痛みと戦いながらスバルは戦慄に息を呑んだ。
トッドの説明を聞きながら、ジャマルは徐々にその語気が弱まっていく。最初はスバルを刺した事実に驚きと怒りがあったはずが、少しずつ激情を解体されていた。
トッドの声音と話し方には、相手の心情を柔らかくする魔性が宿っていた。
第三者的な立ち位置から観測して、それがようやく理解できる。
トッドは相手に寄り添い、理解を示し、その上で相手にとってもメリットのある魅力的な提案を差し出す。最初の勢いを殺され、頭の柔らかくなった相手はその差し出された提案を吟味し、ついつい味わいたくなってしまう。
今、目の前でジャマルの身に起きていることがまさにそれだ。
そしてそれは、『死に戻り』する直前でスバルの身に起こったことでもあった。
「連れのお嬢ちゃんたちも得体が知れないが、あっちの二人は単純で接しやすい。何か面倒がある前に、病巣は取り除いておこう」
「まぁ、そりゃ構わねえが……」
「それとも、お前さんがやるか?青い髪の嬢ちゃんに部下がやられて怒り狂ってたのを止めたし、憂さ晴らしする相手は必要だろう」
「――それもそうだな」
平然としたトッドの提案に、ジャマルが下卑た笑みを浮かべた。
そのまま、ジャマルはトッドの横を抜け、拳の骨を鳴らしながらこちらへ迫ってくる。そのジャマルの纏った暴力の気配もスバルを竦ませたが、それ以上にスバルの心胆に震えを走らせたのはトッドの発言だった。
ジャマルのための憂さ晴らしにスバルを差し出したこともそうだが、トッドはここでスバルを排除しても、別の方法でこちらの思惑を探る気でいる。
そのために利用されるのがレムと、一応ルイだ。
だが、何を聞かれてもあの二人は答えられない。どんな過酷な拷問にかけられても、レムが明かせる情報は何一つないのだ。
つまり――、
「――ッ」
強く強く奥歯を噛みしめ、スバルは口内の血の味を起爆剤に、これをレムに味わわせないための方策を模索する。
あと数秒ののち、ジャマルの暴力が再開され、手加減を無用とされた野蛮な攻撃によってスバルは殺されるか、半死半生の状態にされるだろう。もしもジャマルに良心が備わっていたとしても、トッドの方がスバルを生かしておかない。
森に火を放つことができるトッドは、スバルの命を消すのも頓着しないだろう。
一歩、二歩と、ジャマルが近付いてくる。
その間、スバルは極限まで思考を加熱させ、必要な答えを己の内に探し求めた。この状況を打開する、何らかの方策を、可能性を、拾うべき奇跡を――、
「せいぜい、俺の憂さ晴らしとしていい声で喚け、クソガキ。てめえの女の分も、てめえが体でツケを払ってもら――」
「――『シュドラクの民』」
「――――」
荒くれもののお決まりの暴言を吐いて、ジャマルがスバルへ暴力を叩き付けようとする寸前――スバルの唇が、その単語を紡いでいた。
途端、ジャマルの動きが止まり、彼の背後にいるトッドの表情も変化する。
ジャマルは明確な驚きを浮かべ、トッドは片眉を上げてから、
「へえ」
と、そう笑ったのだ。
「『シュドラクの民』……ここでその手札を切ったか。お前さん、賭け事のやり方をよく弁えてるみたいじゃないか」
「トッド、このガキの言い分なんぞ……」
「まあ待てまあ待て、ジャマル。殴るのも蹴るのもあとでもできる。けど、舌やら喉やら潰した相手の声は聞き取りづらい。ここは聞くのが一番だ」
「クソ!」
怒りのやり場がなくなり、ジャマルが手近な木の柵を乱暴に蹴りつける。
その文字通りの憂さ晴らしを横目に、トッドがスバルの方へと向き直った。その顔に貼り付いた笑みは、恐ろしいことにスバルの知るそれと何も変わらない。
スバルの指の治療をし、スバルを食事に誘い、森を焼くスバルの貢献を称賛したときと同じように、トッドは生死の瀬戸際にあるスバルに笑いかけていた。
「それで、『シュドラクの民』の名前を出したんだ。お前さんから、何かこっちにとって嬉しい話が聞けると思って期待していいのかな?」
「……ああ。森にいる『シュドラクの民』の、居場所を知ってる」
「――!へえ、そいつはいい!」
笑みに喜悦を滲ませ、トッドが胸の前で手を叩いた。
彼のその反応を見て、スバルは自分の中から引っ張り出した『奇跡』が、間近に迫っていた窮地を遠ざけるのに役立ったと確信する。
ただ、同時にこれはスバルにとっても諸刃の剣だ。
なにせ、スバルは『シュドラクの民』の居場所なんて知らない。
ナイフを譲ってくれた覆面男と、スバルを狙った弓矢を使う狩人――おそらく、このどちらか、ないしは両方が『シュドラクの民』の関係者と考えているが、こちらから彼らと接触する術や、具体的な居場所の心当たりなどないのだ。
――つまり、これはスバルの命を賭けた大博打だった。
「お前さんは、どうして『シュドラクの民』の居場所を?」
「……俺が『シュドラクの民』の一人だから」
「なるほど、やっぱりそうか。肌の色はともかく、黒髪だろう?だから、そうじゃないかとは思ってたんだ。シュドラクが黒髪なのは有名な話だから」
「――――」
全く知らない情報を後出しで出され、運に助けられたスバルは大きく安堵した。
全身に脂汗を浮かせ、スバルはこの話し合いの緊張感に冷や汗を追加する。肩の痛みはなおも増しており、それにつられて左手の指も苦痛を訴え始めている。
その上、肉体はプレアデス監視塔での騒動と、その後の森でのレムとの一悶着や大河への逃避行の負担を回復していない状態だ。
ふらつく意識と途切れそうな精神を繋いで、過てば死という一問一答へ臨み続けなくてはならない。――全ては、生き延び、レムを救い出すために。
エミリアやベアトリスたちの下へ帰り、ラムとレムを再会させるために。
「そうすると、お前さんの立場は斥候ってところか。服装とあのナイフも、こっちに溶け込むために用意したとか」
「――。ナイフは旅人のを奪った。服も同じだ。そして……」
「こっちの内情を探ろうとしたと。なかなか大胆な作戦だ。溺れてたのは本当みたいで、ナイフに気付かれない可能性もあったのに……」
「でも、その方が真実味は増しただろ?」
杜撰な計画だと指摘されれば、スバルはそれはあえてだと強気に笑った。
口の端を歪め、歯を見せて悪い目つきをもっと悪くする。そうすることで、自分の発言に説得力を持たせる構え。
実際、それを聞いてトッドは目を細め、発言の真意を吟味した。
「――――」
その沈黙が重く、スバルの命を真綿で締め上げていく。
正直、自分の発言に説得力があるのか、その説得力を後押しするだけの表情や喋り方ができているのか、痛みと負荷が辛くて全く顧みられない。
次の瞬間、馬鹿馬鹿しいと一蹴され、鼻で嗤われた挙句に頭を割られても不思議はない滑稽な言い訳をしているようにも思える。
トッドのスタンスが量れないことも、その緊迫感に拍車をかけていた。
そしてしばらくして――、
「――お前さん、命乞いのために部族を売るのかい?」
片目をつむったトッドに問われ、スバルは唾を呑み込んだ。
引き出したい言葉を引き出した。あとは、答えを過たないことだ。
命乞いのために部族を売る。
スバルは自分が『シュドラクの民』だと発言した上で、『シュドラクの民』を売る。
これがハッタリだと気付かれてはならない。その上で、必要な顔と声を作れ。
――自分の部族を売り、命乞いをする惨めで卑屈な男の顔と声を。
「……あ、ああ、そうだ。身内を売る」
「――――」
「頼む、何でもする。何なら、あいつらを誘き出してもいい。何でも、何でもだ!」
どもり、頬をひくつかせ、冷や汗に塗れながら、スバルは命乞いをする。
自分の命に執着し、他者の命を蔑ろにして、決して相手に好意的に受け入れられることなんてない、自分本位な存在と化せばいい。
なんてことはない。
そうした人間性のモデルなら、この世界で過ごした日々で幾度も見た。
あの、人間性最悪の大罪司教共をモデルとする日がくるなど、思いもしなかったが。
「見下げ果てた野郎だ。気に入らねえ目ぇしやがって」
そのスバルの命乞いを聞いて、ジャマルが心底からの軽蔑と怒りを吐き捨てた。
少なくとも、スバルの言動はジャマルに対しては悪い方向へ舵を切ったらしい。だが、悪いがジャマルに取り合っている余裕はない。
今、この場でスバルの処遇を決める権利を有するのはトッドだ。
実際の役職や立場なんて、この場においては何の意味も持たない。強者が弱者を虐げる帝国流――まさに、その帝国流のしきたりに従うのだ。
「――。その必死さ、嘘はついてないみたいだなぁ」
そして、努力によって卑屈な表情を維持するスバルに、トッドがついにそう発言する。
それを聞いて、スバルはぬか喜びを恐れながらも首の皮が繋がった感覚を得る。同時、それに不愉快な反応をしたのはジャマルだ。
「おい、トッド!この野郎を信じる気か?こんな、自分のために部族を売るようなクズの言い分なんぞ……」
「待て待て、何を言ってるんだよ、ジャマル。自分のために部族を売るぐらい卑屈な奴の言うことなんだぞ?それはもう、必死で俺たちに利得を示すさ。そうじゃなきゃ、大事な命が拾えないんだから」
「~~っ」
激昂したジャマルが、そのトッドの言葉に続く言葉を封じられる。
まさしく、それはスバルがトッドに抱いてほしかった卑屈な男への正当な評価だ。自分が助かるためなら仲間の命も売るような男。もたらす情報に価値があると信じさせるためには、スバルの評価を最低まで貶める必要があった。
その点、肩を刺されて無様に喚き散らしたのも、前向きに働いたはずだ。
そう自分を慰めるには、この痛みは代償として大きすぎる気がしたが。
「俺はどうなっても知らねえぞ!」
結局、スバルの目論見通り、ジャマルがトッドにそう説得される。
それを窘めながら、トッドは「信じろ信じろ」と彼の肩を叩いて、
「命に執着してるのは間違いない。――自分のかはともかく、さ」
と、卑屈に頭を下げるスバルを見ながら言ったのだった。
△▼△▼△▼△
「――っ!待ちなさい!その人をどうするんです!?」
そう言って、鉄の檻の格子を掴んだレムが、目を怒らせてそう怒鳴っていた。
場所は帝国兵の野営陣地、スバルの卑屈な訴えを聞き届けたトッドとジャマルが、そのままスバルを連行し、野営地を離れようとしているところだった。
その際、囚われるときに暴れたレムを閉じ込めた檻の傍を通過することになり、冒頭のレムの怒声が上がったというわけだった。
「――――」
レムに睨まれるスバルは、それはもうボロボロの風体だった。
川から引き上げられ、半端に乾いた衣服は重たく、さらには右肩の刺された傷も簡易的な応急手当しかされていない。左手の折れた指も手当ては望めず、足枷こそ外されたものの、手枷はスバルの自由を奪ったままだった。
まさしく奴隷も同然の姿で、野営地の外へ連れ出されるナツキ・スバル。
それを見たレムの心情たるや、混乱と驚きでしっちゃかめっちゃかだろう。もちろん、スバルは彼女に事情を説明できない。
『死に戻り』したことで、スバルとレムのわずかに歩み寄れたかもしれないと期待した関係もリセットされ、全てはやり直しだ。
レムはスバルを魔女の残り香を理由に敵視し、スバルはその誤解を解くための時間や機会を与えられておらず、その上――、
「――っ!?さっきよりも、もっと臭いがひどくなって……なんなんですか、これは」
『死に戻り』を重ねるたびに色濃くなる瘴気を嗅ぎ取り、レムの警戒レベルがまた一段階引き上げられてしまった。
彼女からすれば、ナツキ・スバルは邪悪の申し子そのものといったところか。
そして、その認識を訂正する意義が、スバルの心が傷付く以外に見出せない以上、ここで誤解を解くアクションは一切起こせない。
「……ずいぶんとややこしい関係なんだな?あのお嬢ちゃん、お前さんの連れのはずだったのにあの調子だよ」
「あの子……いや、一緒にいた二人は」
「二人は?」
「――。どっちも、あんたたちに接触する小道具として買ったんだ」
一瞬、どう返答すべきか迷いつつも、スバルは酷薄を装ってそう言い切った。
今のスバルは、自分の命可愛さに仲間を売り渡す冷血漢なのだ。当然、レムとルイの二人に関しても情など一切ない、我が身可愛さ百パーセントの必要がある。
二人を――とにかくレムを、人質にされるようなことは防がなくてはならないのだ。
「だから、何も知らない二人だよ。あれこれ聞くだけ無駄……あんたは大方想像がついてたみたいだったが」
「まぁ、演技には見えなかったかな?小さい嬢ちゃんの方は、あれは本当に頭がイカれてるんだろうし、あの嬢ちゃんの方も嘘はついてない。それはそれで、自分でも暴れてる理由があやふやなんで厄介なんだが」
「ちっ」
苦笑いしながら頬を描くトッドと、忌々しげに舌打ちするジャマル。
彼ら二人を筆頭に、スバルと共に野営地を離れるのは二十名ほどの帝国兵だ。これからスバルは彼らを連れ、森の『シュドラクの民』の集落へ向かうことになっている。
居場所をトッドたちに教え、帝国の勝利へ貢献する。そして、その褒美として命を救ってもらい、憎まれっ子世に憚るを実践するという筋書きだ。
おおよそ、卑屈な男のサクセスストーリーとしては及第点だろう。
それが不可能という点に目をつぶれば、だが。
「捨てた方が賢明じゃないか?せっかく買ったんだ。いらないなら、仕事をしたあとで俺が引き取ってくが……」
「なんだ、気が早いな、お前さん。前向きなのはいいことだが、助かるかどうかはちゃんと仕事ができるかどうか次第ってことを忘れるなよ?あの子らの処遇なんかより、我が身の心配が第一だ」
「へへ、そうだったな。ついつい、終わったあとの欲が出ちまってよ」
ここで拘れば、レムへの執着がバレるとスバルは即座に方針転換。
手枷のせいで揉み手はできないが、心情的にはそんな雰囲気でトッドに応対する。幸い、トッドはそれ以上食い下がらず、檻の中のレムに手を振って、
「大人しくしてな、嬢ちゃん。ひとまず、何にもなければ何にもしないよ」
「そんな言葉に説得力があると思っているんですか?」
「説得力はわからないが、信じるか信じないかは嬢ちゃんの問題だろう」
トッドにそう言われ、レムが悔しげに押し黙る。
援護射撃もできない上、これ以上の会話もできないことを悔やみつつ、スバルはレムの姿と声をしっかり焼き付け、自分の心を焚きつける燃料とする。
――何とかして、レムを帝国の陣地から連れ出し、逃れなくてはならない。
もはや、トッドたちと友好関係を築いて、自分とレムを守ってもらおうという考えはスバルにはなかった。――彼らは、敵でも味方でも危険な存在だ。
味方にしてもコントロールはできないし、敵になった場合の危険性は言うまでもない。
そもそも、ヴォラキア帝国の人間と、必要以上に馴れ合うことも避けるべきだ。
スバルたちの立場は非常に複雑なところにあり、それは下手をすれば、個人の問題ではとどまらない可能性すら秘めているのだから。
「よし、それじゃ出発するぞ。全員、気は抜くな」
「号令を出すのは俺だ!」
そう意識を引き締めるスバルを連れ、トッドが味方にそう声をかける。
それを聞いた帝国兵の返答がある中、ジャマルが怒気を露わに怒鳴っていた。
△▼△▼△▼△
――その後、スバルを先頭に一行はバドハイム密林へと侵入する。
目的は森で暮らす『シュドラクの民』の集落であり、位置の特定だ。――ただし、ナビゲーターのスバルはハッタリをかましており、集落の位置など知らない。
それどころか、『シュドラクの民』の正体すらもあやふやな状態での博打だった。
「――――」
鬱蒼とした森を進みながら、スバルはどうにか抜け出す隙を窺っている。
相手は大人数だが、軽鎧であってもスバルより身軽には動けない装備を付けている。どうにか隙をついて逃げ出せれば、彼らより早く陣地へ戻り、レムを連れて逃げることも可能かもしれない。というか、現状それぐらいしかプランがない。
幸い、レムの入れられた檻は外からなら簡単に鍵を解錠できるものだ。
重要なのは、その権利をスバルが手に入れることと、檻を開けたスバルを信じてレムがついてきてくれるかどうか。あとは、ルイの存在。
「置いてくって言ったら、レムは絶対ついてきてくれねぇだろうな……」
ただでさえ、『死に戻り』による瘴気の追加でレムの信頼度を削ったスバルだ。
その状態でスバルが必死に舞い戻っても、ルイを置いていくスバルの判断をレムは歓迎しないだろう。それどころか、その場でスバルを叩き伏せ、自らルイを奪還、スバルだけを帝国陣地に置き去りにしていく可能性すらあるのではないか。
「……いくらレムでもそれはないか。足の自由が利かないんだし」
あくまで、足が不調なせいで実行できないだけで、もしも体が万全だったらそれをやりかねないとは思う。思うが、それをされては大いに困るのだ。
だから、連れ出すならルイも一緒に連れ出さなくてはならない。どこまでも、この枷と呼ぶべき負の因子を捨て去ることができない難儀があった。
そして――、
「それで、集落まではどのぐらいかかる?」
「……大体、二、三時間くらいですかね」
「二、三時間!ずいぶん早いな。それぐらいで済むなら御の字だ。こっちからしたら、何年がかりになるかってはずの任務だったんだから」
質問の回答を得て、トッドが僥倖だと頬を緩める。
軽鎧を装備し、腰に手斧をぶら下げたトッドの言葉に、スバルは彼が婚約者を残して任務に参加していたことを思い出した。
当たり前だが、スバルに傷を負わせるような判断をしようと、彼の背景事情がガラッと変わったりするわけではない。
トッドは帝国軍人として指示に従って密林へ派遣され、そのために婚約者と離れ離れになることを余儀なくされている。
トッド以外の軍人、ジャマルだってそうだ。彼らにも事情があり、それぞれの理由のためにこうして任務に従事しているのだろう。
そういう意味では、スバルとトッドたちとの間に争う理由などないのだ。
ただただ運が悪かった。不運が重なった。風向きがよくなかった。色々と言葉を並べ連ねてしまえば、そういうこととなるのだろう。
ただ――、
「……俺が言うことでもないと思うんだけど、不用心じゃないですか?『シュドラクの集落』に向かうのに、この人数っていうのは」
先導という形で先頭を歩きながら、スバルがすぐ後ろのトッドに声をかける。
帝国一行は約二十名、案内付きとはいえ、この広大な森を捜索するのに十分な人員とはとても言えまい。
そんなスバルの疑問に、トッドは「仕方ないさ」と肩をすくめ、
「情報源としちゃ立派だが、上はそこまでお前さんの話に期待していない。俺たちで確かめて、初めて情報の価値が出るんだ。それに……」
「それに?」
「これがお前さんの罠で、俺たちが帰らなかったら帰らなかったで森に入るのは危ないってことを陣地の味方に周知できる。はは、ヴォラキア万歳だ」
「「――ヴォラキア万歳!」」
勝利のための犠牲もやむなしと、気安い調子のトッドに帝国兵が唱和した。
ヴォラキア万歳と、森の大気が揺れるほどの声は、彼ら帝国兵がこの強大さを尊ぶ国にどれだけ心酔しているのかの証のようでもあった。
いずれにせよ――、
「俺たちの心配なんざしてる場合か、ええ?これが終わったあと、てめえの首と胴が繋がってる保証はねえんだ。せいぜい、俺たちの機嫌を取れよ」
「ジャマルさん……」
「下種の裏切り者が、俺の名前を呼ぶんじゃねえよ。てめえは刻んで捨てて、女共はそうさな……女好きのズィクル二将に献上でもするか。きっと大喜びだろうよ」
「ジャマル……あんまり馬鹿ばっかり言うのはよせよ。疲れるから」
よほどスバルが気に入らないのか、ジャマルからの視線と声はとにかく険悪だ。
それに伴い、彼はレムとの関係も悪いため、ジャマルに状況のキャスティングボートを持たせると、スバルにとって最悪の結果に落ち着きかねない。
そんなジャマルを宥め、「落ち着け」と声をかけるのはやはりトッドで。
「むしろ、こいつの機嫌を取らなきゃいけないのは俺たちだって忘れるなよ。こいつは命惜しさに俺たちのためになる情報を出す。代わりに俺たちは命を助ける。でなきゃ、集落についた途端に俺たちはシュドラクに一斉に襲われるぞ」
「上等だ。そんな真似するなら、俺たちで皆殺しに……」
「――本気か?勝ち目の見えない戦いに俺は乗れないぞ。お前だって、結婚前の妹を未亡人にしたくないだろうに。だろう?ジャマル義兄さん」
「ぐ……」
思慮に欠けた言動の多いジャマルを、トッドがそうやって言い含める。
スバルの知らない二人の関係性が多少なり見えたが、生憎とそれへの感慨はない。すでにスバルは、トッドたちに対する『覚悟』を済ませている。
――出会いが、風向きが、運が悪かった。
「――でも、俺はレムの方が大事だ」
だから、スバルはトッドたちに対して、危害を加えることにしたのだ。
「――?」
ふと、隊列を組んだ捜索隊の後ろの方で、帝国兵の一人が小さく喉を鳴らした。彼は何かに気付いたように首をひねり、そうさせた原因を視界に探す。
微かな違和感、しかし無視できないそれを求め、ぐるぐると密林の中に視線を彷徨わせて、そして――、
「――ぁ?」
密林の暗闇の中、ぼうと浮かび上がった赤い光点と『目』が合った。
「魔獣だあああぁぁぁ――っ!!」
「――ッ!?」
目が合った直後、それを見つけた帝国兵は即座に仲間に警戒を促した。
そこまでの反応は完璧で、帝国兵に落ち度は何一つないと言える。その呼びかけに従って、すぐに臨戦態勢に入った仲間たちも同様だ。
しかし、抜剣したと同時、即座に魔獣へ斬りかかったこと。
――これは、明確に勇み足であったと言える。
「うおおおお!!」
剣を抜いた帝国兵が森を駆け、吠えながら飛びかかった相手は巨体をうねらせる大蛇――緑色の鱗に覆われた、全長十メートルほどの蛇の魔獣だ。
スバルが森で遭遇した魔獣と同種のそれは、森に魔獣がいることを知らなかった帝国兵たちにとって、まさしく青天の霹靂をもたらした存在。
だが、魔獣の危険性に対してすぐに対処を試みたことは、正しい判断だったが故に間違いだった。――魔獣の狙いは、帝国兵ではなかったのだから。
魔獣の狙いは他でもない、大量の瘴気を纏ったナツキ・スバルだったのに。
「――――ッッ!!」
放たれた剣撃を鱗で受け、大蛇が吠えながら巨体の尾で帝国兵を吹き飛ばした。その赤い眼光が獰猛に光り、凄まじい咆哮が一行へ叩き付けられる。
魔獣の囮をやって一年、その道のプロのスバルは知っている。
大抵の場合、魔獣は瘴気を纏っているスバルを積極的に狙うが、自分に危害を加えられたときは話は別だ。それは白鯨であっても大蛇であっても変わらない。
白鯨は自分を切り刻むヴィルヘルムを狙い、大蛇は自分を射抜いた狩人へと牙を向けた。
その法則はここでも活きる。大蛇の狙いはスバルから、揃いの装備に身を包み、自分へ敵意を向ける帝国兵たちへと変わったのだ。
「――ッ、魔獣だと!?聞いてねえぞぉ!!」
吠える大蛇の敵意を向けられ、ジャマルが怒りに声を震わせて双剣を抜いた。そのまま意外にも、勇猛果敢に魔獣へ飛びかかる動きは軽快で、実力の高さを窺わせる。
しかし、そんなジャマルの思いがけない奮戦を応援はできない。
スバルはこれを狙い、数時間もトッドたちと森を歩いたのだ。
魔獣の存在を知らない彼らと、スバルの瘴気に引き寄せられる魔獣。自分の体臭と魔獣を利用するのは毎度のことだが、スバルも立派な『魔獣使い』だ。
合流したら、メィリィとこの称号をかけて戦うべきだろう功績の数々。
ただし今は、それに拘泥している暇はない。
「今すぐ――」
この隙に乗じて、帝国陣地へ戻り、レムを解放する。
そのために駆け出そうとして、スバルは首の裏に怖気を覚えた。そして、その怖気に従って、なりふり構わず頭を下げる。
直後、スバルの頭部のあった位置を薙いで、斧がすぐ脇の大木へ突き刺さる。
「――っ」
今、頭を下げていなかったら死んでいた。
そのことに戦慄しながら、スバルは視線だけ振り向き、下手人を見る。
「――――」
こちらを鋭い目でねめつけているトッドと、視線が交錯した。
「――ッ」
その視線に囚われまいと、スバルは森の中を全力で走り出す。
足を止めればトッドに捕まる。捕まれば、トッドは確実にスバルの命を奪うだろう。あの目には、そういう強固な意志があった。漆黒の意思があった。
大罪司教とも、魔獣とも、あるいはレイド・アストレアとも別種の恐怖を覚えた。
あの目は、執拗な執念に彩られたモノだ。――漆黒の、殺意だった。
「がっ!?」
そうして走るスバルの背を、何か硬い衝撃が貫く。
振り返れないスバルの背中、肩甲骨のあたりに当たったのは投げられたナイフ――奇しくも、嫌な形でスバルの手元に戻ってきたものだ。
それを肩にぶら下げたまま、スバルは荒い息を吐いて、必死に逃げた。
背後、魔獣と帝国兵との戦いが続いている気配があるが、スバルも他の魔獣に絡まれないよう、トッドに追われないよう必死だ。
必死で、必死で、必死で駆け抜け、駆け抜け、駆け抜け続ける。
息が切れ、血を吐いて、何度も転びかけ、実際に転んで、全身を泥だらけにしながらも走り続け、帝国の陣地へ戻らんと必死になる。
「レム……レム……れ、む……ぅ」
子どもが歩いた方がマシな速度になり、涸れた喉で喘ぎながら、酸素も体力も精神力も尽きかけた状態で、スバルは唯一の執着に縋りつく。
レムの下へ、レムを連れ出して、レムを助け出して、みんなのところへ帰る。
エミリアとベアトリス、ラムとペトラとフレデリカ、ガーフィールとオットー、ついでにロズワールのいる場所に帰って、そして、レムに優しい時間を返すのだ。
あの子が過ごすべきだった時間を、愛おしい時間を、そうして――、
「――ぁ」
そんな儚い夢を求めるように手を伸ばして、スバルの足が宙を掻いた。
不意に足場が失われ、崩れる体勢を支えるための腕が使えず、真っ逆さまに落ちる。
どこかへ、真っ逆さまに落ちる。悲鳴も上げられない。喉が開かない。
ただただ、落ちていく。
落ちて、落っこちて、まるで淡く、泡が割れるみたいに夢も割れて。
「――れむ」
掠れた声が空しく漏れて、スバルの意識はそこで途絶した。
△▼△▼△▼△
「――いつまで眠っているつもりだ、戯けものが」
「ちょこびっ!?」
深淵の、真っ暗闇から突如として、衝撃が意識を引き上げた。
受けた一撃は側頭部で、横倒しの頭を踏まれたような感覚――否、ようなではなく、まさしくそれが行われたらしい。
頭の右側を床につけていたらしく、踏まれた左の側頭部と、地面に押し付けられた右の側頭部とが同時に痛めつけられた。おかげで、鋭い痛みに意識を引き起こされ――、
「……あ、れ?俺は……ぐがっ」
喉の奥に血の味を感じながら、スバルは呆然と体を起こした。
途端、右肩と背中、左手と足など、全身の至るところに激痛を覚える。
凄まじい痛苦に視界が真っ赤に明滅して、スバルは起こした体を再び横たえ、陸に上げられた魚のようにびくびくと震えた。
アドレナリンで多少は無視できた痛みが、一度意識を落としてしまったことでぶり返してしまった結果だ。だが、こうして各所が痛むということは――、
「……死んで、ない」
「当然であろう。死者がモノを語るか?今の貴様の有様たるや、生中な道化の振る舞いよりよほど見応えがあったわ。褒めてつかわすぞ」
「あぁ?」
唖然としながら自分を確かめ、思わず呟いたスバルに傲慢な物言いがかかる。
その言われように理解が追いつくと、スバルは再び訪れるだろう痛みを警戒しつつ、ゆっくりとまた体を起こした。
周囲、見ればスバルが寝かされていたのは土の地面で、周りには太い枝がいくつも突き立っている――否、これは木の格子だ。
何度も思い返したレムの姿がフラッシュバックし、スバルは自分が木製の檻の中に閉じ込められているのだと気付いた。気付いて、頭が混乱する。
まさか、逃げるのに失敗してトッドたちに捕まったのかと焦ったが――、
「そう急くな。貴様の追手はここにはおらぬ。安心せよと告げるには、いささか窮屈な状況であることは否めんがな」
「あんたは……」
「まさか、また貴様の顔を拝むとは思わなかったぞ。――ナツキ・スバル」
そう、凝然と目を見張るスバルの名を呼んで、相手はにやりと口の端を歪めて笑った。
目元しか見えない覆面姿なので、おそらく笑ったとしか言えないが、笑った。
――スバルと同じく、檻の中に閉じ込められた状態で、傲慢に男は笑ったのだった。