『獅子座劇場』


 

氷炎の吹き荒ぶ戦場に突如として乱入したのは、謎の白い青年だった。

 

長くも短くもない白髪に、整ってこそいるが目立った部分のない顔立ち。体つきは筋肉質とも華奢とも言いづらい中肉中背で、見た目の印象の薄さから即座に群衆に呑まれてしまいそうな希薄な雰囲気を漂わせている。

だが、

 

「大罪司教……『強欲』……!?」

 

そんな十把一絡げの凡庸な佇まいの青年の名乗りは、スバルに衝撃をもたらしていた。スバルの耳が致命的な聞き間違いを犯していない限り、青年は確かに自分のことを魔女教の大罪司教と名乗った。

そしておそらく、その発言は嘘偽りの類では決してない。

 

そうでなければどうして、あのシリウスの放った劫火を真っ向から浴びて、何の異変も起きていないなどという異常を許容できるだろうか。

 

「それにしても間に合ってよかった。危うく僕の花嫁が灰になるところだったからね。他者に多くを望まないことを自負する僕ではあるけれど、さすがに花嫁には人型を保っていてもらいたい程度の願いはある。願いというよりは、当たり前のことだと思うけどね。灰の塊に愛を囁くほど、倒錯的な性癖は持ち合わせていないし」

 

なおも消えない恐怖を継続させたまま、震えるスバルの前で青年――レグルスと名乗った大罪司教が腕の中のエミリアを見下ろして言葉を紡ぐ。

ペラペラと流暢に舌を回すが、その内容は中身がないも同然の戯言だ。

その戯言を浴びせかけられるエミリアだが、レグルスの腕の中でピクリとも動かない。どうやら完全に意識を失っているらしく、その細い体は抱かれるままだ。

レグルスは眉にかかる己の白髪を指で弄り、

 

「無事はよかったけど、残念なことに今の僕の活躍を花嫁は見てくれていなかったらしい。絶体絶命の危機を救うなんて英雄的行動、二人の心を近付けるのにとても大事な場面だったと思うんだけどね。まあ、最終的に結ばれることは決まっているわけだから、道のりが早いか遅いかだけの違い。大したことじゃないか」

 

「お、前はさっきから何を……」

 

「うん?」

 

手前勝手な理屈を並べ立てていたレグルスが、スバルに気付いてその眉を寄せる。それから彼は疲れたような吐息をこぼして、

 

「君さあ、礼儀ってものがわかってないんじゃないの?僕はさ、最初に名乗ったと思うんだよね。どうして名乗ったかっていうと、それが人間関係を始める上で一番大事なことだから。どんな関係であっても、まずは自分と互いを知ることから始めなきゃならないわけじゃない?で、僕はこれでも気遣いができる方だから、なるべく誰とでも友好的に接したいと常々思っているんだよ。それに相手が照れ屋の可能性だってあるわけじゃない。仲良くしたいと思っていても、なかなか自分からは名前を名乗ることだって躊躇ってしまうみたいなね。そういう人に配慮する意味もあって、僕はできるだけ自分から名乗って、相手を安心させる土壌を作ってあげたいと思って行動してるわけ。もちろん、恩着せがましいそんなことを最初から誰にでもずけずけと明かすわけじゃないさ。でも、そういった意味合いがあって最初に名乗っているんだってことを、ある程度の年齢になるまで過ごしてきたなら察してほしいんだよね。っていうか察せるでしょ。それとも君、初対面の相手とは名乗らずに話し合うのが当たり前の生活してきたの?だとしたらそれってちょっと僕の常識感と文化が違うよね。それなら互いの感覚のすり合わせは必要だと思うけど、それならそれで誤解を生まないように前もって断っておくべきじゃないかな。そういった心遣いの一つもしないで当たり前みたいに相手の優しさに甘えるのって、ちょっと違くない?というより、それはもはや失礼に値するよね。失礼そのものだよね。礼を失するってことは、相手に対してその程度の価値しか見てないってことだよね。相手の価値を見損なうってことは、それはもはや相手の人生の、生き方の侵害だ。他者の権利の侵害だ。無欲で理性的な僕に対する、僕の権利の侵害だ」

 

「お、おう……?わ、悪かった。……俺の名前はナツキ・スバル、だ」

 

まくし立ててくるレグルスの目が、徐々に狂気を帯びるのを見てスバルの心が激しく警笛を鳴らす。その恐怖に従って、スバルは震えながらもどうにか名乗った。

と、そのスバルの名乗りを聞いて、レグルスは見開いていた目を細めて、

 

「……そう、それでいいんだよ。相手を尊重することで、自らもまた尊重される。当たり前の配慮が、互いにとって住みよい世界を作る。多くを求めず、自らの器に合った幸せを得ることで、誰もが相応の幸福を過ごすんだ。我欲に浸るな、ただあるがままを受け入れ、日々の糧に満足しよう。それが、平和的な生き方だ」

 

冗談かと思うぐらい、平穏な正論を並べ立ててくるレグルス。だが、それが彼の冗談でも何でもない本音であることは、理想を語るその双眸が証明している。

ただ文章だけ切り取れば、まともな発言に思えるのはシリウスも同じだ。

そしてレグルスの振舞いと発言からは明らかに、そのシリウスと同じ薄っぺらさと歪さを感じずにはいられない。

 

「話しかけられてんだからさぁ、相槌の一つぐらい打つのが聞く姿勢ってもんなんじゃないの?人として当たり前のことがどうしてできないわけ?そうやって日々、無自覚に無意識に無分別に、他人の心を些細に傷付け続けてるってどうして自覚できないの?ちょっとの傷でも傷は傷だろ?そこから悪いものが入って、命を脅かす病気にかかるかもしれない。体も心も一緒だ。自分が、無自覚に他人の命を脅かしてることに、理解が足りない連中が本当に嫌いだ。頭、おかしいんじゃないの?」

 

「…………」

 

「人間的に欠陥があるのに、それを自覚できないのはダメでしょ。それで当たり前の分別を持つ人間が負担を負わされるのも間違ってるでしょ。大多数の人間が意識しなくても常識を守るから、世界が緩やかにうまく回ってるってどうしてわからないの?意識しなくてもできる人間の思いやりを踏み躙る前に、歪で欠落した自分の間違った在り方を意識して変えなきゃ、心を土足で踏み荒らし続けるだけじゃないかなぁ?」

 

押し黙るスバルの態度が気に入らないのか、レグルスはなおも畳みかける。

次第にその口が早回しになり、ボルテージが上がっているのがはっきり伝わる。それでもなお、スバルは応答できない。

それをするには、心が竦んでしまっていて。

 

「これだけ言っても、まだ無視して……」

 

「ご高説ありがと。――とっとと焼けて焦げて消えてしまえ!!」

 

棒立ちのレグルスの背後から、滝のように落ちる炎が襲い掛かった。

掲げた両腕から立ち上る炎を、仮にも同じ大罪司教を名乗る相手へ容赦なく叩きつけたシリウス。スバルはその凶行を目の当たりにしていたから、とっさに声を上げることができなかったのだ。

 

「スバル……」

 

「わ、かってる。でも、大丈夫だ」

 

背後、スバルの肩を痛いぐらいに掴むベアトリスの声も震えている。その声が炎の滝に消えたレグルス――その腕の中にいたエミリアを案じているのはわかっていた。

スバルも、その凶行にエミリアが巻き込まれることへの恐怖がなかったわけではない。だが、それでも確信があった。それは、

 

「――あのさ、話の途中でこんな真似するとか、どれだけ空気が読めないの?何か言いたいならまず最初に声をかけて、発言したいなら挙手しろよ。相手の言葉を待つぐらいの気遣い、僕ができないとでも思っているのか?」

 

煩わしげに腕を振るい、渦巻いていた灼熱の劫火をレグルスがかき消した。

熱波がまるで手品のように消え、その中心地に立つレグルスには何の変化もない。当然、それは彼の腕の中のエミリアも同じだ。

あれほどの炎の中に呑まれておきながら、火傷どころか汗の一滴も浮いていない。

 

「挙句に僕は君と同じ大罪司教なんだけど?君の頭がおかしいのは知ってるし、少しの粗相なら見逃す優しさが僕にはある。幸い、被害もないしね。ただ……」

 

振り返り、レグルスが声を低くしてシリウスを睨みつけた。その視線を受けるシリウスも、コートの前を閉じて少女を再び周囲から隠しながら、両腕をだらりと下げてギリギリと歯軋りを続けている。

 

「今のはこの子も焼き殺すつもりだっただろう。それを許すっていうのは、いくらなんでもちょっと無理じゃないかな。っていうか無理だよね。古来からどんな物語の人物でも、愛する人を傷付けられたら怒りに燃えるのは必定だよね。それは誰もが持つ当たり前の権利で、だから僕も持ってる当たり前の復讐の権利だ」

 

「怒り!ハッ、怒りときましたか!笑わせてくれる!お前みたいな薄っぺらで小さな男が、軽々しく怒りだのなんだのと口にするな!それは私のものだ!私があの人から貰った、何より大切なものだ。それを……」

 

「へえ、そうか。君、まだあの先走って死んだ馬鹿に拘ってるんだ?やだやだ、気持ち悪い。生産的でも理性的でもないよね。死んだら終わりだ。それが当たり前のことじゃないか。それも認められないで思い出にしがみついてるなんて……やっぱり君は欠陥人間だ。愛する人が死んだら次を探す。愛愛うるさいわりに、当然の権利も行使しない。世界の循環を乱すなんて、とんでもないクズだな、君」

 

「あの人の死を嗤ったお前が、偉そうなことを言うなぁ!!」

 

感情のこもらない罵声を浴びせられて、シリウスが唾を飛ばして激昂する。

怪人は怒りのあまり踏み込みで石畳を砕き、炎を帯びる両腕の鎖をレグルス目掛けて凄まじい速度で放った。焼けた鉄が音を引き裂き、直撃した相手の傷口を焼きながら抉る最悪の凶器となってレグルスを殴殺する。

 

鎖が肉に叩きつけられる鈍い音がして、棒立ちのレグルスの顔が横に弾かれた。しかし、シリウスの怒りも鎖の打撃もたったの一撃では収まりがつかない。

右へ左へ、上から下から、前後も斜めも覆い尽くし、シリウスの赤銅色の鎖がレグルスの全身を滅多打ちにする。その上で高速で飛来する鎖は熱の軌跡を描き、炎の檻が出来上がったのだと気付いた直後、

 

「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ!忌々しい半魔ごと、炭になれぇっ!!」

 

炎の檻が中心へ収束し、レグルスを包んで猛烈な火柱が上がる。

石畳が溶けるほどの高熱に、レグルスの立っていた地点は石畳もその下の土も蒸発して陥没してしまう。

 

その灼熱の結果を見ながら、息を荒らげているシリウス。

怪人の周囲にはその怒りの感情を共有し、目や鼻から血を垂れ流して狂乱する群衆が奇声を上げて集っている。だが、

 

「あのさ、君って同じこと何度言わせればわかってくれるわけ?」

 

赤熱して溶けた石畳を踏んで、何事もないかのようにレグルスは現れる。

自身の白髪にも衣服にも、腕の中のエミリアにもかすり傷一つ負わせずに。

ただその表情に、子どもじみた不満げな色だけを宿して、

 

「僕は思うんだよね。同じことを何度言ってもわからない人ってのは、言われたことを理解するための努力が足りないんだって。そしてその努力が足りないってことは、言ってくれた相手に対する気遣いが足りないんだよ。軽んじてるわけ。だから、言われたことを心に刻むことも戒めにすることも反省することも明日の糧にすることもしないで、すっかり忘れて同じことを言わせる。それって相手を軽んじてるのもあるし、自分が相手にもたらす悪い影響そのものも軽んじてるよね。自分の価値も相手の価値も根こそぎ丸ごと軽んじてる。それってさ……もう、言葉も行動も伴ってないけど暴力だよね。そして僕は思うんだよ」

 

「クソ虫がぁ……!」

 

「魔女教の最初の頃の教義にはこんなのがあった。『頬を打たれたなら、反対の頬を差し出して、その上で理由を問いなさい』って、理解し合うことの尊さを示した教義だね。でも僕は、こう思うんだよ。頬を殴りつけた相手には、殴り返さなきゃいけないときもあるんだ。特に――痛みを知ろうとしない奴には、それが必要だ」

 

言葉だけ聞けば、まともなのだ。

だがレグルスはその在り方が、どこか歪なのだ。

 

「――っ」

 

陥没から踏み出したレグルスが、シリウスに対して陰惨な笑みを浮かべる。

その笑みは決して友好的なものではなく、捕食者が獲物を見つけたときに浮かべる舌なめずりに近いそれだ。

 

レグルスが、シリウスの炎と鎖をどのようにして防いでいるのかは未知数。防御一辺倒の能力者で、『強欲』の権能は攻撃手段を持たない可能性だってある。

故にレグルスの行いが、致命的な結果をもたらすとは断定できないはずなのに。

 

――断言できてしまう。このままだと、シリウスは死ぬ。

 

レグルスが防御一辺倒の力の持ち主である、そんな可能性はないに等しい。

あの青年が何か行動を起こせば、間違いなくシリウスは死ぬ。それだけなら何の問題もない。むしろ、仲間割れで大罪司教が減ってくれるなら万々歳だ。

万々歳であるが――そのシリウスの死には、周囲の大多数が巻き込まれる。そこにはスバルはもちろん、シリウスの狂気に囚われた群衆も、きっと互いの無事を祈って自らの身を差し出したルスベルとティーナの二人も含まれている。

 

「――――」

 

今もスバルの全身には、薄らぐことのない恐怖が駆け巡っている。

落ちた膝は震えたままで、呼吸すらどこかおぼつかないほどだ。

でも、そんな状況であっても。

 

「スバル」

 

耳元で、頼りない声がスバルを呼ぶ。

自身も恐怖に震えが隠せないでいるのに、自分を頼れとそう伝えようと懸命になっている声が、背中から熱を通して伝わってくる。

 

怖気を噛み、スバルはふらつきながら立ち上がった。

何もかも背中の軽い重みに委ねるなんてことはできない。かといって、その力を借りずにうまくやれるほど力はない。

故にスバルは、一人で挑むことを拒絶し、一人に任せることも拒絶する。

 

スバル一人だけなら、きっと恐怖に震えて立てなかった。

今、スバルが立てているのは一人じゃないからだ。狂気に呑まれた他の人々と違って、スバルだけが誰かと密着して一人ではない。

繋がっている実感が、ナツキ・スバルを恐怖に抗わせた。

 

「ベアトリス」

 

「わかってるのよ」

 

呼びかけ一つで、ベアトリスは全てを了承したと頷いた。

互いの意思疎通が本当にできているのか、確かめる必要も感じない。ただ互いの役割に全力で尽くす――それが、結果を引き寄せるはずだ。

 

シリウスもレグルスも、大罪司教は揃ってスバルの存在を失念している。

互いが互いしか見えていない。潰し合い上等。シリウスがレグルスだけを焼き殺してくれるなら最上の結果だが、それはおそらく発生し得ない可能性だ。

だからスバルが狙うのは、レグルスの蛮行を止めることだ。

 

奴の意識をこちらへ引き寄せ、多大な被害が生じるのを未然に防ぐ。

それと何より、

 

「それ以上、エミリアに気安く触ってんじゃねぇ……!」

 

尽きぬ恋心が、恐怖を押しのけてスバルに火をつける。付けたと、そう嘯く。自分の心をまず騙すところから始めなくては、とてもではないが挑めない。

 

目の前、こちらに背を向けるレグルスの動きは緩慢だ。それに相対するシリウスの動作も精彩を欠いている。それがスバルにはこの上なく好都合だった。

 

「――シャマク!」

 

震える足を叱咤して走り出した瞬間、背中のベアトリスが魔法を詠唱。

最強の魔法であるシャマクの黒い靄がレグルスの肉体を世界から覆い隠し、その足取りを見事に阻害する。そこへ、スバルは見えなくなる直前まで確かにあった位置を目掛けて、手にしていた鞭を思い切りに振り抜いた。

 

狙いは首だ。

細いそこに鞭を引っ掛け、一気に引き倒す。さすがに頭にきているレグルスも、そこまで乱雑に扱われればスバルへ注意を向けざるを得まい。あるいはベアトリスのシャマクの時点で、完全な前後不覚に陥っている可能性もあるが――、

 

「手応えがねぇ!」

 

「くるかしら!!」

 

確かに当たるはずの鞭からの反応が乏しく、スバルが焦燥に駆られた声を上げた玉後にベアトリスの警告。

次の瞬間、黒い靄を突き抜けて白髪の青年がスバルへと地を蹴っていた。

 

「さっきから前へ後ろへ忙しいな。僕のささやかな平穏を乱す権利の強姦魔め。飛び散って消えてなくなってくれるかなぁ?」

 

「み……ううん、ムラク!」

 

右手でエミリアを抱き、空いた左手を無造作にスバルへ伸ばすレグルス。ベアトリスはとっさの判断で攻撃を放棄し、スバルの肉体に重力操作の魔法を付与。

スバルはベアトリスの判断を即座に肯定し、迫るレグルスの指先を跳躍によって回避する。

 

ムラクは陰魔法の一種で、対象の肉体にかかる引力を緩和する効果を持つ。

スバルの肉体は今、まさに羽毛のような軽さで高々と宙へ舞い、こちらへ追い縋ろうとしたレグルスの体を置き去りにした。

 

「なんで避けるかなぁ?」

 

「避けるに決まってんだろ、おっかねぇ!」

 

頭上へ逃れるスバルを見上げるレグルスに、スバルは真上から鞭を叩きつける。今度は狙い違わず、その脳天を鞭が直撃。白髪が衝撃に浮き上がり、その頭部には鞭による痛々しい裂傷が――生じない。無傷。そよ風に髪が揺らされたも同然だ。

 

「花嫁が傷付いたらどうするんだよ。女の子に優しくするなんてのは、誰に教わるでもなく当然のことだと思わない?それもできないの?」

 

「馬鹿言うな!俺がこの世で一番優しくしたいのがその子だぞ。そもそも、花嫁花嫁ってお前は何のつもりでそんなことを……」

 

「決まってる。運命さ。――だって、夢で約束したからね」

 

微笑するレグルスの答えに、壁に張りついて片手で自分の体を支えるスバルは呆気にとられる。どこか間の抜けた構図だが、当事者たちは意に介さないまま、

 

「彼女と僕は結ばれる。運命だよ。僕は基本的に自分に満足しているし、何かを欲するようなこともしない。しないけど、与えられるものを受け入れないほど狭量でもない。運命が僕にそれをもたらすならなおさらだ。多くは望まないが、僕の手の届く範囲の僕の世界は何としても守ろう。僕自身と、僕の大切な人ぐらいは。だから」

 

「――――」

 

「僕は彼女を守るよ。妻に迎えて愛し愛され、あるべき平穏を享受する。そのためならば僕は自分に与えられた力を振るうことをいとわない」

 

「そ、こに……その子の意思はどう入るんだよ?当事者同士の意思の確認もし合ってないのに、どんだけ先走って」

 

レグルスの力強い断言と、それを裏付けるだけの強者の風格。

真っ直ぐ正しく、清貧で野心のない考え方でありながら、致命的におかしい。

何が致命的におかしいのか説明はできない。しいて言えばスタート時点で何かが間違っているのだ。始まりから何かが狂っているから、全部が裏返っている。

 

恐怖、それだけではないものでスバルの声が震える。

その問いかけにレグルスは、まるで何てことのない話を聞かされたように笑い、

 

「心配してくれているのかな。だとしたらありがとう。でも、大丈夫だよ。運命は必然で……とりわけ、愛や友情は一人では成立し得ない。僕に運命の花嫁が告げられるのなら、相手にも僕が運命の花婿だと伝わっているに決まっているじゃないか」

 

「……完全に、どうかしてるのよ」

 

破綻した理論を語るレグルスに、ベアトリスが嫌悪感に満ちた呟きを漏らす。

スバルも同意見だ。レグルスのその発想は、正論と綺麗事で表面を飾り付けたストーカーの理屈に近い。そしてストーカーの厄介さの例に漏れず、自分が間違っているなどと微塵も彼は疑っていない。

 

「もう十分だ。そもそも、恋敵相手にわかり合えるはずもねぇ。恋敵って認めるのも嫌になるぐらい、気分悪い奴だが」

 

壁から手を離し、スバルは再び広場の地上へと着地する。

音もなく立つスバルを見て、レグルスは合点がいったと顎を引いた。

 

「なるほどね、そういうことか。あのさ、こんなこと言うのも申し訳ないんだけど……運命の恋人には割り込めない。横恋慕は見苦しいと思うよ?」

 

「黙れよ!エミリアたんは俺の嫁だ。てめぇなんぞにくれてやれるか」

 

「へえ、エミリアっていうのかこの子。いい名前だ。小鳥を愛でるように囁いて呼ぶのが似合う、可憐なこの子にぴったりじゃないか」

 

「名前も知らねぇで……その子の何を見て、花嫁だなんて戯言を……!」

 

「顔だよ」

 

絶句。怒りのあまり、喉が詰まるスバル。

その無言を何と勘違いしたのか、レグルスは首を傾げて、

 

「顔が可愛い。愛なんて、それが全てでしょ?」

 

「お前死ね」

「死んだ方がいいかしら」

 

スバルの怒りにベアトリスも同調し、軽々しすぎるレグルスの愛を否定する。

踏み込み、前へ飛ぶスバルの体はムラクの効果を継続していた。風に乗り、一気に距離を詰めるスバルに、レグルスは驚いたように目を見開いた。

 

この上でまだ、自分に接近戦を仕掛けるスバルの考えが理解できないのだろう。

スバルの方も理解している。レグルスに接近することの愚かしさ。レグルスはシリウスのようにわかりやすい武器を持っていない。それは彼の準備の不足を意味するのではなく、それが必要ないからと断ずるのが正しい。

故にレグルスに対し、接近するのはまさに命取りの行いだ。それでもなお、スバルがレグルスに接近戦を仕掛ける理由は一つしかない。

 

――スバルの方の切り札も、接近戦でなければ使えないからだ。

 

「なんで飛び込んでくるやら、理解できないよ。する必要もないけど、やけっぱち以外の意味があるなら教えてほしいな。ほら、散る相手に対しても最後まで理解し合いたいって思いやりを欠かさないのが僕って存在だから」

 

「ご高説感謝――ベア子!」

「準備いいのよ!」

 

接近するスバルへ、レグルスが無造作に左手を伸ばしてくる。

開かれた五指は、おそらくがそれぞれが命を刈り取る必殺の凶器だ。それを前にしてスバルは息を吸い、叫ぶ。

 

スバルとベアトリスが、この一年間で積み上げた結果の一つを。

 

「――E・M・M!!」

 

「……なに?」

 

高々と吠えるような詠唱が、スバルの壊れたゲートの内側からベアトリスへマナを感応させ、そこからこの世に二つと存在しない新機軸の魔法を発現させる。

ナツキ・スバルとベアトリスのコンビが作り出した、たった三つのオリジナルスペル――絶対防御魔法『E・M・M』の発動だ。

 

不可視の魔法のフィールドがスバルの肉体を包み、この世界から半歩だけその存在を『ずらす』ことにより、スバルへの攻撃を打撃魔法問わず完全に無効化する。

 

レグルスの指先も、スバルへ届いていながら何の被害ももたらさない。それを目の当たりにして、初めてレグルスの顔が驚きを得て硬直する。

その横っ面目掛けて、スバルは思い切りに左の拳を振り抜いた。

 

「どらぁ!」

 

「――っ」

 

レグルスの頬が打撃に弾かれる。

渾身の手応えにスバルは頬を歪めたが、弾かれたように戻るレグルスの顔には赤みすら残っていない。完全に、ダメージ無効。スバルが為したことと同じようなことが、恒常的にレグルスの肉体を守っているとしか思えない。

 

「チャージまだかしら!」

 

レグルスの反撃がくる前に、次なる行動の条件未達をベアトリスが叫ぶ。

接近した状態で、スバルはレグルスの攻撃を回避する必要がある。身をかわす、防御する、いずれの行動も難しい。となれば、魂を削る――。

 

「いい気になるんじゃ……」

 

「インビジブル・プロヴィデンス!!」

 

こちらを向いて苛立ったレグルスの顔を、真下から見えない拳が打ち上げる。

驚愕に言葉を中断しながら、吹っ飛ぶレグルスの姿。それを見ながらスバルは込み上げる血痰を吐き、乱暴に袖で口元を拭った。

 

スバル以外の誰の目にも、今の不可視なる神の意思は見えなかったはずだ。

だがスバルにははっきりと、自分の胸から突き出す黒い腕――第三の腕とも呼ぶべき、忌まわしい力の奔流を見ていた。

 

全身が軋み、魂が削れて、毒が回ったように黒くなる血を吐き出す。

それだけの代償を払って、ようやく渾身の一撃が繰り出せる程度。その渾身もスバルにすればという程度で、岩を砕く一発ならガーフィールの足下にも及ばない。

それでも、見えない一発にはそれなりの効果があるはずだ。

 

「スバル、大丈夫なのよ?」

 

「げほっ……どうにか。それにあいつ、威力は凄そうだけど、攻撃はしょぼい。今までやり合った中じゃ、ラチンスとどっこいだ」

 

喉に絡む血を吐いて、スバルはレグルスの格闘能力の低さを指摘する。

スバルでも相対できる程度に、レグルスの戦闘技術は稚拙で素人丸出しだ。必殺の指先も、集中力が続けば回避し続けられるかもしれない。

 

「――――」

 

肩が叩かれる。

ベアトリスから無言で、チャージが完了したことの報告だ。

 

オリジナルスペルはその能力と効果の高さから連発ができない。加えて、三種類の魔法は原理的に日に一度ずつ使うのが限度――それ以上は肉体が喪失する。

 

「E・M・Mは切ったが、これなら魔法抜きでも近付ける。それで、アレがぶち込めれば……」

 

「勝ち目があるかしら。光が見えてきたのよ」

 

「そんなものどこにもないよ。勘違いさせたんなら悪かったけどさ。僕もあんまり虚仮にされ続けるのは面白くない。面白くないっていう問題じゃないよね。僕の意思が通らないっていうのは、それはよくない。権利の侵害だ。さっきから二度も攻撃を当てさせてあげてるんだから、そろそろ僕の攻撃が当たらないと不公平だよね?」

 

中空から着地して、レグルスは決意を新たにするスバルたちを睨みつける。

その表情は最初の余裕を失い、不機嫌を通り越して憤慨に到達していた。

ようやく向こうも、スバルに対して敵であるという認識を持ったのだろう。これで当初の目的――と、そこまで思ったときだ。

 

「うわっ!?」

 

「……何のつもり?」

 

睨み合うスバルとレグルス、その二人の間の地面が突如として燃え上がった。

熱波を真っ向から浴びて顔を炙られる感覚にのけ反るスバルと、生じる熱い風をしかめっ面で受けるレグルス。

 

両者の視線は当然、それを為した張本人――シリウスへ向かう。

ここまでどういったわけか、完全にスバルとレグルスとの戦いを傍観していた怪人。どんな意図があって黙っていたのかはわからなかったが、そのまま黙り続けてくれているのが最善であったのに、唐突な参戦だ。

 

地味にシリウスの炎に対する防御手段がないため、実は接近戦のみのレグルスよりも相手にしたくない。その上、まだ倒すための条件すら見抜けていない相手だ。

状況の悪化する展開に、スバルは息を呑む。

 

しかし、事態はスバルのその想像をはるかに超えて悪化した。

 

「――つけた」

 

「――?」

 

立ち尽くすシリウスが、睨みつける二人――否、スバルをジッと見ている。

怪人は殺意を向けるレグルスへの意識など全く残さず、ただ一心不乱にスバルへと視線を注いでいた。その視線が狂気的な色を帯びていて、スバルの喉が急激に渇く。

そして怪人はだらりと下げていた両手を持ち上げ、自らの頬をその手で挟むと、

 

「見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。ああ、あああ!ああああ!そう、やっぱりそうでした!ごめんね、気付かなくてごめんね?ごめんね?ああ、良かった。そうですよね。やっぱりあなたは、帰ってきてくれたんですね!?」

 

「何を……?」

 

「そこにいたのね、あなた!?どこを探しても見つからなくて、あなたの予備を全部引き裂いてみたのにどこにもいなくて、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと探していたのに……ううん、そうやって私が探しているのに気付いてくれたから、帰ってきてくれたんです!」

 

高く裏返る声は、明らかな熱を孕んでいた。

頬に手を当てたまま身悶えし、体を左右に揺するシリウスの声は弾んでいる。それがどんな状態であるのか、目の前の怪人の奇態を見れば言葉にはし難い。

だが敢えて、それでも近いものがなんであるのか述べるのであれば、それは――探していた恋人の面影を見つけた、愛に盲目的になった女の振舞いだ。

 

「私の想いが届いたから!あなたと一つになりたいと、ずっとそう願っていたのをやっと気付いてくれたから!私の『愛』があなたに届いたから!」

 

「――――」

 

「ずぅっとあなただけを待っていました……愛しい愛しい、ペテルギウス!」

 

そう言って狂的に微笑み、シリウス・ロマネコンティは亡夫の名を呼び、スバルへと熱情のこもった瞳を向けていた。