『崩壊の地響き』
――白い世界が剥がれ落ちて、その向こう側に色づく世界が再構成されていく。
巨大で荒々しい、圧倒的な神の絵筆が世界に色を付けていく。
まるで、無色の空間に閉じ込められて、その内側から世界に色が塗りたくられていくのを見届けているような、そんな不思議な気分だった。
神は七日で世界を作り出したなんて話を聞いたことがあるが、この光景を見ると、神は七日かけて積み木を組み立てて世界を形作ったわけではなく、まっさらなキャンバスに絵筆で世界を描き出したのではないか、なんて思えてくる。
――オド・ラグナの揺り籠。あるいは、『記憶の回廊』。
そう呼ばれる超次元の異空間から、ナツキ・スバルの存在が引き剥がされていく。
この世に非ざる空間を離れ、断片的となる意識が徐々に結び付いて、少しずつ少しずつ、自分という自我が再形成されていって――、
「――スバル」
「ん……」
呼びかけに呻いて、スバルは喉の渇きを覚えながら瞼を開く。
ぼんやりとした視界、何度か瞬きして世界にピントが合うと、自分が硬く冷たい感触に尻と背中を預けていることに気付く。どこか、壁際に座らされているのだろう。
それからすぐに、目の前の存在の気配にも気付くことができた。
「――――」
正面、スバルの顔を覗き込んでいたのは、特徴的な紋様の瞳を憂いで満たした少女――可愛らしい容姿に派手なドレスの似合う、ベアトリスだった。
色濃い心配の眼差しに、スバルは自分が『記憶の回廊』から元の世界へ、監視塔の中へと戻ってきたのだと実感した。
「――ぁ」
「意識は?ちゃんとしてるかしら?うっかり記憶を落っことしてないか確かめた方がいいのよ。手始めに、ベティーのことはわかるかしら?」
ペタペタと、ベアトリスがスバルの顔や胸に触って触診を試みる。
触ってわかるものでもないと思うが、心配されるのはこそばゆくも嬉しいものだ。そんな気分でされるがままになりながら、スバルは頬をもみくちゃにされて、「らいじょーぶらいじょーぶ」と答えた。
「問題ない。覚えてるって。記憶は無事だし、お前のことも……ベアトリス、お前のこともちゃんと忘れてねぇ。もちろん、他のみんなのことも、だ」
「……まぁ、最初にベティーの名前を呼んだことは褒めてあげるのよ」
と、スバルの頬をこねていたベアトリスが、名前を呼ばれて安堵に目尻を緩める。その彼女の反応にスバルも唇を緩め、なんとなしにベアトリスの頭を撫でた。
目を細めたベアトリスがそれを受け入れてくれるのを掌に感じながら、スバルは深呼吸して、自分の記憶、その健在を確かめる。
ベアトリスには「覚えている」と断言したものの、その確信を得るのは難しい。
直前に遭遇した『暴食』の大罪司教、ルイ・アルネブ。
彼女が大勢の『記憶』と『名前』を喰らった怪物だったことは確かだが、その記憶を食べるという力がどんな形で発揮されるのか、スバルには未知数だったからだ。
実際に噛みつく必要があるのか、『食べる』と宣言するだけでいいのか、もっと複雑な手順が求められるのか、定かではない。――制約と誓約、条件が複雑であるほど、得られる力は大きなものとなるのがこの手の力のお約束だ。除念したい。
ともあれ、そうした条件を『記憶の回廊』で満たされていないか、それはスバルにはわからない。実際、身体的接触や、腕を噛まれたり、舐められたりはしたのだ。それが条件だった場合、雰囲気に流されて見事にやられたことになる。
故に、自覚症状のないまま記憶が虫食い状態にされる可能性は十分あったが――、
「――たぶん、大丈夫だ。約束も恋心も、全部この胸の中にある」
エミリアを思えば胸が高鳴り、ベアトリスを大切に思えばこそ撫でたくもなる。仲間たちの無事を心底願えるのも、スバルが今の自分を喪失していない証拠だ。
これだけを手放さずにあれれば、少なくとも前のような醜態を晒さないで済む。
「――ナツキくん、戻ったのかい?」
と、自分の胸中、欠けた記憶がないことを確かめるスバルの鼓膜に声が滑り込んだ。
顔を上げると、ベアトリスを傍らに置くスバルの方へやってくるのは、薄紫色の髪を撫で付けるエキドナだ。その歩み寄る彼女の姿に、スバルは遅まきながら気付く。
「……エミリアちゃん、たちは?」
「よし、ちゃんと周りを見る力は失われていないようだね。自分が直前まで何をしようとしていたのか、そのことは覚えているかな?」
もったいぶったように問いかけてくるエキドナ、彼女の浅葱色の瞳を見つめ返して、スバルはその向こう側に求める人影――数名、仲間が足りないことを理解する。
周囲、書庫の中に存在するいくつもの書架の陰に隠れている、なんて可愛らしい話ではあるまい。スバルの膝の上、閉じられた黒い厚手の装丁に触れ、息を吐く。
今、この場に残ってくれているメンバー、それは――、
「ベアトリスとエキドナと、メィリィ……?」
「お兄さんったらやっとお目覚め?すごおくハラハラさせられたんだから、お寝坊さんなのも大概にしてよねえ」
「寝坊って……」
腰に手を当てて、憤慨した素振りのメィリィにスバルは頭を抱える。
何とか自分の心を落ち着け、スバルは何が起きているのか仔細を見極めようとした。
室内、エミリアやラム、ユリウスとシャウラの姿が見えない。
いるのは前述した三人とスバル、言ってしまえば非戦闘員四人だけだ。その状況だけで十分以上におかしな話だが、もっとおかしいのは――、
「俺が本を開いてすぐ、って場面じゃないよな?俺はどのぐらい意識が飛んでた?」
「――。一時間ってところかしら。今までの本が数秒で済んでたところだったから、スバルに何かあったらって気が気じゃなかったのよ」
「一時間……」
ベアトリスの回答を受け、スバルは自分が『記憶の回廊』で過ごした時間と、現実時間に大きなズレがないことを理解する。
これまでの、『死者の書』への挑戦とはやはり何もかもが違っているのだ。あの『記憶の回廊』は確かにどこかにあり、そこで過ごした時間もまやかしにはならない。
ルイと遭遇し、ルイに心を嬲られ、舐られ、そして彼女の首を絞めようとして『ナツキ・スバル』を否定して――それを、優しく厳しい言葉に拒まれた。
あの時間が、スバルの見た都合のいい夢ではなかったのだと、そう思えることは悪くはない。だが、事実として、有限の時間が削られたことも見逃せない。
「エミリアちゃんたちは、どうして一緒にいない?」
「君が文字通り、本に没頭している間にこちらも色々と異変が起きてね。この場にいない四人はその対処に駆け回っている」
「異変……?」
「初めに異変に気付いたのはシャウラだった。そこはさすが、この監視塔の守り人という立場の表れだったと言えるかもしれないね」
などと、内容的には軽い調子だが、声色はその内容ほど穏やかではない。押さえ込んだ切迫感を声に滲ませながら、エキドナがスバルの言葉に返答する。
彼女は部屋の入口、階下へと通じる階段の方を手で示して、
「シャウラは、塔の外から何かが向かってきていると言っていた。その後の彼女は素早くてね。異変の原因を確かめにいくと、止める暇もなく飛び出してしまって……」
「それを、あのカッコいいお兄さんが追いかけていったのよお。その間、銀髪のお姉さんとメイドのお姉さんが、眠ってる妹さんを迎えにいったってわあけ」
「それで四人ともこの場を離れたのか。――正直、寂しくもあるけど、それで正解だ。特にこの状況、居場所のわからない身内を作りたくない」
エキドナとメィリィの報告を受け、スバルは混迷する状況を紐解いて息をつく。
シャウラが何に気付いたのかは気掛かりだが、それをフォローしようとしてくれるユリウスと、エミリアやラムの行動がスバルにはありがたい。
青い髪の少女、レムの身柄が保護されれば、不安材料を一つ潰すことができる。
――これから起こり得る、非常事態を前にして。
「――その反応、ナツキくんは何か知っているのかな?」
「――――」
ふと、考え込む表情のスバルにエキドナが片眉を上げて問いかけてくる。その理知的な眼差しを浴びて、スバルは一瞬だけ返答に窮したが、すぐに頭を振った。
誤魔化すことも、言い繕う必要もない。たどたどしい言葉をそのまま話して、仲間たちと共に頭を悩ませればいいのだと。
「何があったのか結論から話すよ。――レイドの本を読んで、あいつの過去を探る作戦は失敗した。過去は見られなかったし、それどころじゃなくなっちまった」
「過去が見られなかった、かしら?いったいどういうことなのよ?」
「邪魔が入ったんだよ。――『暴食』の、大罪司教だ」
「――っ!」
一拍溜めて、満を持してその名前を出した。
スバルの口からその単語を聞いて、ベアトリスたちが驚きに目を見開く。その大罪司教なる単語も、スバルにとってはルイの口から初めて聞かされたものだったが、彼女たちにとってはそうではないのだろう。
「にわかには信じ難いことだが、『暴食』の大罪司教が本の中……この場合、本の中と言っていいのか疑問の余地はあるが、その中にいたと?」
思案げに眉を寄せ、難しい顔でエキドナが腕を組む。彼女の瞳に宿ったのは疑念と、それ以上の不安だ。それも、彼女の不安はスバル自身へと向けられている。
その不安の矛先が、スバルの記憶にあることは言葉にするより明らかなもので。
「さっきもベアトリスに言ったが、記憶は抜け落ちてねぇ……つもりだ。仲間の顔ぶれも忘れてないし、パトラッシュへの愛情も本物だ」
「どうしてそこで地竜ちゃんの名前が出てくるのかわからないんだけどお……」
頬を膨らませて、メィリィがスバル流の言い回しに腹を立てる。
彼女のお怒りはもっともだ。実際、スバルは一度記憶をなくした前科がある。記憶の有無なんて曖昧な話であり、自覚症状のない記憶の欠損は誰にも証明できない。
――ただし、今この瞬間のスバルだけは、それはないと言い切れた。
「心配してくれるのは嬉しいけど、何も忘れてない。太鼓判を押してやれるぜ」
「その太鼓判に価値があるのかを疑ってかかっているところなんだが……そこまで自信があるからには、何かしらの根拠があるんだろうね?」
「――『暴食』にやり込められそうになってた俺を、レムが助けてくれたからさ」
「――――」
続く名前が持つ効力が響くのは、この場ではベアトリスだけだった。
だから、怪訝な顔つきを崩さないエキドナやメィリィの代わりに、完全に意表を突かれた形になるベアトリスが目を見開く。
そんなベアトリスに深々と頷きかけるスバル。――どんな些細な記憶も、ルイに奪われていないとスバルが豪語する理由は、彼女の存在それだけだった。
あの場所で、心の折れそうになったスバルを激励し、立ち上がらせてくれた少女。
彼女の存在が、そんな隙を『暴食』に与えなかったと、そう信じている。
「スバル、詳しい話を聞かせてもらうかしら。それも……」
スバルの黒瞳を見据え、ベアトリスが起きた出来事の説明を求める。ただし、少女の言葉の最後、途切れた部分には微かな震動――塔が、揺れる感覚が重なった。
不思議と、書架が揺れる気配はないが、塔全体に不自然な揺れがあったことは間違いない。それが、おそらくシャウラを急がせた何らかの異変であることも。
故に、ベアトリスは一度だけ瞬きして続けた。
「なるべく手短に、なのよ」
※※※※※※※※※※※※
「――『死者の書』に潜った途端、レイドの過去じゃなくて、白くて何もない場所に連れていかれた。そこに『暴食』の……大罪司教って女の子がいて、ルイって名乗ったんだ。そのルイの話じゃ、そこはオド・ラグナの揺り籠だとか、『記憶の回廊』だとかって話らしくてな」
塔の中、微かな地鳴りのような震動が足裏を伝う最中、スバルは自分が『死者の書』の中で目にしてきたものの説明を始める。
白い空間で出くわした少女と、その場所が『記憶の回廊』と呼ばれていた事実。オド・ラグナと呼称される、圧倒的な力を持った超常的存在の介在。
それらはスバルにとっては意味のわからない単語や事象の集まりだが、この世界の常識と非常識、その両面を知る面々にとっては価値のある情報であるはずだ。
事実、スバルの説明にベアトリスが「オド・ラグナ……」と意味深に呟く。
「ルイは、世界を壊されないための仕組みとか言ってたな。心当たりあるのか?」
「ベティーも、それについて詳しく知っているわけじゃないかしら。ただ、それがこの世界の中心点……全てのマナが還る場所、とされているのは知っているのよ」
問いかけに首を横に振り、ベアトリスがそんな風に話してくれる。彼女は自分の縦ロールに指を入れて、その柔らかな髪をいじくりながら続ける。
「全てのマナはオド・ラグナに還り、そこで循環する……言い換えれば、オド・ラグナは精霊の死と再生に深く関わる存在でもあるかしら。だから、ベティーたちとも無関係とは言い切れない相手なのよ」
「ただし、ボクたちはその出自からして特別だからね。存在がオド・ラグナを経由していないんだ。そういう意味では、他の普通の精霊よりはオド・ラグナに対して客観的な目線を保つことができるのかな」
「普通の精霊よりって……そうか。お前らが見た目よりも長生きしてるって話は、そういうところからきてるわけだ」
ベアトリスの言葉を引き継ぐエキドナ、彼女の発言にスバルは得心する。
ふらっと余談で湧いた話だったが、ベアトリスやエキドナが数百年を生きる存在であったという話は事実だったらしい。
その長寿の種明かしが、彼女らの精霊であるという出自そのものなのだろう。
「俺的には、ベアトリスは精霊ってより妖精って感じの可愛さだと思うんだが」
「……それ、前もスバルに言われたかしら。無知なスバルにはわからないようだけど、ここでは妖精って言葉は誉め言葉ではないのよ。だから、まぁ、素直に喜ぶのも、馬鹿にされたって怒るのもできなくてもやもやするかしら」
「む、そうなのか。そりゃ失礼した」
確かに、ファンタジーの本場である海外では、妖精のような存在は人間を惑わして危害を加えるイメージが強いとも聞く。
その考えがこの世界でも適用されるなら、妖精が誉め言葉にならないのも道理だ。
「すまん。言い直すと、食べちゃいたいくらい可愛いって意味だったんだ」
「食べちゃうって気持ちと、可愛いって気持ちが同列になったらおかしいのよ!」
「あれ、そうかな?可愛いものを何となく口の中に入れちゃうとかない?」
「そう言えば、悪い動物ちゃんたちだと、自分の赤ん坊をうっかり口の中に入れて、噛み殺しちゃうこととかあるのよねえ」
メィリィのいらない注釈によって、ベアトリスが震えて怖気立つ。
ともあれ、またしても本題から話題が逸れている。ここで重要なのは――、
「――その、オド・ラグナの揺り籠。『記憶の回廊』が如何なる場所なのか」
「魂を濾す場所、なんて冠まで付けてくれてたぜ?」
「魂を濾す……濾過する、洗浄するということか。オド・ラグナの果たす役割がマナの循環にあると考えると、あながち笑い話にもできないな」
エキドナの意見に、スバルもまた同意見だ。
それを大げさな話だと、あの実物の空間を目にしたスバルには笑う気になれない。
全ての死者の魂が、『記憶の回廊』へと辿り着くことで循環する。
そこで、魂は人生という長丁場で染みついた記憶や歴史といった汚れを洗い落とし、まっさらな存在となって再び新しい人生を得るのだ。
「俺は、それがわりと納得のいく説明だと思ってる。死んだ人間の魂が再利用される仕組み……そこで洗い落とされる『記憶』が、この書庫で『死者の書』って本になる」
「どこかへ消えてなくなるわけじゃなく、事実として世界は死者を記憶していると。詩人だね、とはこの書架を見れば軽はずみには言えなくなるな」
書架は、この世界に産み落とされ、『記憶の回廊』へ辿り着いた全てを記録している。
言い換えれば、『記憶の回廊』とは『死者の書』を作るための編纂室なのだ。そこで本の形に整えられた記憶が、『死者の書』としてこの書架へ収まっていく仕組み。
そして、『暴食』は本来はそうあるべき個人の記憶や歴史に対して、横紙破りの働きかけをすることで悪さを働いている。
――それこそが、『暴食』の有する力の正体なのだ。
「本当なら、オド・ラグナがやってたはずの魂の濾過作業を、勝手に自分でやってる。それで、削ぎ落とした『記憶』を自分の腹に入れて、文字通り他人の『人生』を食い物にしてきたってわけだ」
言葉にしてみると、それがどれほど悪辣な行いなのかがはっきりとわかる。
ましてやルイは、それを『幸せになるための試行錯誤』と断言した。ありとあらゆる人生をつまみ食いして、その中から自分に相応しい幸福な人生を見出すのだと。
それは、当たりが出るまで籤を引き続ける作業に等しい。
無限に籤を引く権利を得た結果、ルイは、その兄弟たちは他人を食い物にすることで幸せを掴む道を選んだ。――それが、スバルには恐ろしい。
ルイたちの判断が、ではない。それが特別、外れた考えだと思えないことがだ。
無限に籤を引く権利を得れば、誰もが当たりが出るまで籤を引くことを選ぶだろう。
だから、ルイ・アルネブの行動は、至極真っ当な人間の欲望で――、
「たとえそうでも、普通なら他人が犠牲になるとわかっていて、籤を引き続けることはできないはずかしら」
「ベアトリス……」
「犠牲があるとわかっていて、それでも籤を引き続けるのは正気の沙汰じゃないのよ。だから、大罪司教に同情の余地なんて存在しないかしら」
スバルの考えを読み取って、ベアトリスがぴしゃりとそう言ってのける。
それを非情な割り切りであると、そんな風に捉えるのはそれこそ情がない。ベアトリスはスバルの心情に寄り添い、スバルが言えなかった言葉を代弁してくれただけだ。
そう、同情の余地などない。
置かれた状況や、居場所のなさは当人に責任はなかったかもしれない。だとしても、最初の一歩を踏み外し、以降も人の道を外れ続けたのは当人の選択だ。
誰であれ、その報いは受けなくてはならない。
「でも、変な話よねえ。どうして、生きてた頃のその人のことがわかる本が、そんなよくわからないところに繋がっちゃったわけえ?」
「それは……死んだ人間の魂が『記憶の回廊』でリサイクルされるから、そこから卸された本が元売りに繋がったとか……いや、説明がつかねぇな」
メィリィの疑問点、それにスバルは明確な答えを提示できない。
何故、レイドの『死者の書』が『記憶の回廊』と繋がってしまったのか。
少なくとも、記憶を失う以前のスバルは一度、『死者の書』を読んでいるはずだ。同じタイミングでユリウスも読んだと聞いているし、その後、すでに通り過ぎたループの中ではメィリィの本を読んだ経験だってあるのだ。
だが、その経験の中に、読み手の意識があの空間へと飛ばされた実績はない。
ならば、ルイの介入があったと考えればどうか。
「けど、『暴食』には俺を呼びつけようって考えはなかったように見えた。あいつにとっても、俺がきたのは計算外って感じで……レイドの『死者の書』に細工はなかったはず」
「――一つだけ、仮説があるのよ」
思案するスバルの前で、ベアトリスが指を一つだけ立てて言った。
その指先を見つめ、スバルは「仮説?」と言葉の先を促す。
「聞かせてくれ。どんな可能性が思いつく?」
「書庫の『死者の書』が、『記憶の回廊』で魂から削ぎ落とされたものを写し取った記録書だとするかしら。通常、これを本の形で読み取るのがこの書庫の機能……だけど、その記録を他の使い道に利用されていたら、どうなると思うのよ?」
「死者の記憶を、別の使い道に?でも、それこそ『死者の書』以外にどんな……」
「――ああ、なるほど、そういうことか。賢いな、ベアトリス」
ベアトリスの言葉を聞いて、スバルは訝しむように眉を寄せる。だが、そんなスバルを余所に、合点がいったと手を打ったのはエキドナだ。おまけにそれだけでなく、エキドナに続いてメィリィも「そっかあ」と口に手を当てて、
「もしかして、そおいうことなの?」
「待て待て、わかったような顔をするなよ。負けず嫌いだな、お前は。そういう自分の新たな一面を発見するのもいいけど、子どもらしく素直に、わからないことはわからないって言っても全然許される立ち位置なんだぞ」
「負けず嫌いはお兄さんの方じゃないのお。わたしだって、ちゃあんと考えたらわかることはわかるって言っちゃうわあ。……上の、赤毛のお兄さんがそうってことよねえ」
詰め寄るスバルを手で押しのけて、メィリィがベアトリスにそう確認する。すると、ベアトリスはため息をついて、
「メィリィの考えで当たりかしら。……レイドが、そうなのよ」
「ええと、つまり?」
「『死者の書』からレイドの過去を参照することができなかった。それは今、その本の中にレイド・アストレアの記録がないからだ。レイドの記録は今現在、別の形で使用されている。――試験官としての、レイド・アストレアをこの塔に再現するために」
「ああ!」
噛み砕いたエキドナの説明を聞いて、ようやくスバルも理解に至った。
それならば、なるほど納得がいく。スバルが『死者の書』を読んだ結果、起きた出来事とも矛盾することなく一致するわけだ。
「レイドの記憶は閲覧じゃなく、再現に使われているかしら。だから、さっきのスバルには読めなかったと推測できるのよ」
「それと、昨日の俺が『記憶の回廊』でルイに記憶を喰われたことも説明がつく」
昨日までのスバルが、今のスバルと同じレイドの攻略法に気付いたことは間違いない。それを試そうとした結果、書庫でレイドの本を読み、あの白い世界へいったことも。
実際、ルイはスバルとの遭遇は昨夜に続いて二度目だと言っていた。一度目の接触でスバルの記憶を喰らい、二度目の邂逅で食べ残しさえも平らげようとしていたのだと。
「しかし、そう考えると、この本はレイドの攻略本には絶対ならないわけか。……や、それどころか、『暴食』と望まぬタイマンさせられる危険な一冊ってことに」
「そうだね。とはいえ、思わぬ形ではあったが、ナツキくんの記憶が失われた原因、それが掴めたことは僥倖と言えるだろう。記憶の喪失が塔の機能の一部ではなかった。……『暴食』と接触させられる罠は、ひとまず塔の狙いではないだろうから」
「それは、まぁ、うん、そうだな」
即死する罠の手前に転移したことまで、塔の作り手が想定していたかは不明だ。おそらくこれは偶発的に発生した事態、と考えておきたい。
そうでもしないと、この塔の設備を整えた人物は破滅的な思考力の持ち主か、悪魔的な性格の悪さの持ち主ということになりかねない。
スバルには身に覚えがないが、それをシャウラはお師様と、スバルと同一の存在のように語るのだから、より風評被害が怖いといった有様だった。
「レイドが再現されて、何もない『空白』の一冊だった。だから、あの『死者の書』はオド・ラグナの膝元に直結した……で、いいのか?」
「今のところは、それ以上の仮説は浮かばないかしら。どうしてそこに、『暴食』の一人が隠れ潜んでいたのかも謎なのよ。でも、一つだけ言えるのは……」
レイドの『死者の書』を取り巻く、一連の不可解な出来事。
そこの一つの仮説が一本通った。無論、答えの見つからない疑問は残されてはいる。しかし、その疑問の全てを検討する時間は、残念ながらスバルたちにはなかった。
その証拠に――、
「――エキドナ!皆は無事か!?」
階段を飛ぶように駆け上がり、一人の騎士が『タイゲタ』の書庫へと姿を見せる。その人物を目にして、振り返ったエキドナが目を丸くした。
「ユリウス、ずいぶんと慌てた様子だね?」
「想定外のことが起きている。すぐにでも、皆の考えを聞きたいと……む」
エキドナに答えながら、こちらに歩み寄ってくる美丈夫、ユリウスだ。
彼は微かな緊張と警戒に頬を硬くしていたが、床に胡坐を掻くスバルと目が合うと、その黄色い双眸をわずかに見張った。
「目覚めてくれたか、スバル。それは僥倖だ。私が誰かはわかるか?」
「そうだな、最初にその心配だよな。ええと、あなたは……?」
「――やはり」
「嘘だよ!冗談だよ!お前はユリウス・ユークリウスだよ!真剣な顔で何がやはりだよ!ちゃんと戻ってきたわ!」
「ふ。私の方も冗談だ。君の治らない幼稚さへの意趣返しだと思ってほしい。――このあと、少し笑えない話をさせてもらうのでね」
ぐう、とやり込められて難しい顔のスバル。そんなスバルの反応を鼻で笑い、それからすぐにユリウスは表情を引き締めた。
言葉の通り、笑えない報告があるということなのだろう。
「『死者の書』から戻ったスバルの報告も聞きたいところだが、火急の要件が。――シャウラ女史が感じ取った異変が何なのか、塔の外を確認してきました」
「そのシャウラの姿が見えねぇけど……」
「彼女は、塔の外壁から脅威に対して対応中だ。ただ、とても手が足りない」
持って回った言い回しだと、スバルがユリウスをきつく睨む。その鋭い視線を受け、ユリウスは小さく吐息をつくと、「すまない」と前置きして、
「微かな地響きがあることは、君たちも感じていただろう。これは、足音だ」
「足音?」
「ああ」
思わぬ言葉に首をひねるスバルたち、そのスバルたちにユリウスは顎を引くと、それから一拍溜めて、告げた。
「――アウグリア砂丘の各所に存在した魔獣が、一挙にこの塔へ押し寄せている。シャウラ女史が応戦しているが、中へ押し込まれるのも時間の問題だろう」