『生き足掻く牙』


 

喉が震える。魂が絶叫する。

肉を切り裂き、神経が侵され、発狂しそうな鋭い激痛が脳を殴打する。

 

「ぎゃあああああああ――っ!!」

 

目の前が真っ赤になり、現実がまったく把握できない。

右の太もものあたりを黒い獣に噛みつかれている。引き剥がそう、とその思考が走るよりも、苦痛に対する叫び声を上げる反応の方が早い。

 

――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。

 

頭の中が全てそれで埋め尽くされ、反撃など思いつく余裕もない。

ふいに平衡感覚が崩れる。喰らいつく獣が牙を突き立てたまま首を振り、体重差はゆうに倍近くあるスバルを地面に引き倒したのだ。

 

「うごぁっ――」

 

勢いあまって半回転し、うつ伏せに地面に叩きつけられる。受け身も取り損ねた顔面が土に激突し、鼻面が潰れる感覚と口の中に土の味。

上も下も痛みが自己主張を続けており、土を吐き出しながらスバルの喉は低い呻きを上げ続ける。と、そこまできて右足から牙の感触が抜けていることに気付き、慌てて体を引っ繰り返す。

 

「ヤバい……ッ」

 

仰向けに戻り、上体を起こす。

右足からはおびただしい出血が見られ、破れた服の下の肌は肉がめくれ上がっている。ナイフで抉られたような傷口に痛みがぶり返すが、それよりも優先すべきは立ち上がること――が、間に合わない。

 

獲物の動きを封じ、追撃に移る漆黒の影は早すぎて追うことができない。

地面を左右に弾みながら接近する野獣に、スバルができた反応は両腕で上半身を庇うことのみ。

 

振りかざされた鋭い獣爪が一閃、スバルの右腕を手の甲から肩口まで一気に切り裂く。血が噴き出し、新たな傷口の発露に痛覚が喝采し、スバルの脳を激痛の重奏で沸騰させる。

 

喉笛を噛みちぎる前に、四肢を潰して抵抗力を奪うつもりなのだ。

 

野生の狩りの残酷さを実体験し、スバルは慄き絶叫する。

意味をなす言葉にならないそれは角付きの動きに影響を与えない。淡々とやり慣れた仕事をこなすように、角付きは叫ぶだけのスバルの左手首に噛みついて、四肢の三つ目の機能を奪った。

 

左手首を牙が貫通する感触。

痛みを通り越して、もはや絶叫を誘発するなにかでしかない感覚。視界が点滅し、思考すらまともに走らない状況下で、それでもスバルを突き動かすのは反射的な生存本能それのみだ。

 

「ああああ――!!クソがぁぁぁッ!!」

 

叫び、渾身の力で喰いつかれる左手首ごと獣を地面に叩きつける。それで牙が抜けるほど甘い顎の力ではない。血と涎で黒い体毛を汚しながらも、角付きはスバルの抵抗を嘲笑うように深く牙を押し込んでくる。

その横っ面に、

 

「図に、乗んなぁぁぁ――!!」

 

いまだ取り落としていなかった羽ペンが、野獣の左目に深々と突き刺さった。

 

眼球が潰され、内部を掻き回される感触に、雄叫びを上げるのは角付きの番だ。

無力な獲物と定めた相手からの思わぬ報復に、野生が全身を振り乱して抵抗する。が、スバルもここを逃せば次はないと判断している。

羽ペンを突き刺す右腕はもちろん、喰らいつかれた左腕もそのままに全身で覆いかぶさり、決してその体を逃がそうとはしない。

 

「いてぇいてぇいてぇいてぇいてぇ――ッ」

 

神経までやられた右足の踏ん張りは利かず、左腕は手首が皮一枚でぶら下がっている状態で、右腕はめくれ上がった傷口の奥に骨が見えている。

痛打した鼻からは鼻血がとめどなく流れる感覚があり、下手すると前歯も二、三本足りないような気がする。

 

そんな状態でありながらも、目の前の窮地から逃れるために全力を尽くす。

痛みがある。苦しみがある。恐怖がある。生きている。

自分も、この獣も、まだどちらも息があるのだ。

 

「あがぁ――っ」

 

闇雲に振り回された獣の爪が額を掠め、脳が揺らされる感覚に押さえつける力がゆるんだ。その隙に角付きはスバルを突き飛ばすと、その左目に羽ペンを刺したまま距離を取る。

 

跳躍ひとつで数メートルも離れ、そのまま漆黒の影は森の中へと溶け込んで消える。

土の上にへたり込んだままのスバルは、痛みすら忘れてその消えた姿を探し求めた。

 

負傷を理由に撤退、などと楽観的なことは考えられない。

手負いの獣は恐ろしいとは良く聞く話だ。そして、獣にとってもスバルは手負った相手ということになろう。

どちらにとっても、相手はここで息の根を止めなければならない存在なのだ。

 

「――痛ぇ」

 

踏ん張りの利かない右足を膝立ちに、左足だけを頼りに体を起こす。両腕は見るも無残、特に左手は見ただけで心が折れそうで視線を向けられない。

ガンガンと側頭部が殴りつけられるような錯覚。鳴り続ける痛みの警鐘を一時的に無意識へ追いやり、スバルの視線は獣の消えた森を睨む。

 

必ずくる。

根拠のないその確信は、これまで少なからず殺意と向き合ったスバルにとって、この世界で得た数少ない経験の賜物だったのかもしれない。

 

「――――ッ!!」

 

息を詰めるような叫びを上げたのは、果たしてスバルか相手だったのか。

ただわかることは、身構えるスバルの眼前に、鋭い牙がずらりと並ぶ口腔を開き、弾丸のように角付きが飛び込んできたという事実だけだ。

 

三十キロ以上の生き物が、全速で手加減なしに突撃する威力をスバルは全身で味わった。それも、こちらは両足の支えという加護を受けられない条件でとの制約付きでだ。

 

とっさの判断で右腕が上がり、角付きの噛みつきは真下から顎を叩かれて不発に終わる。が、突進の破壊力を殺し切ることなど微塵もできず、スバルの体は激突の勢いのままに角付きともつれて地面を転がる。

 

「おおおおおあああああ――」

 

背後に吹っ飛ばされ、全身を強く打ちながらも、スバルは無我夢中で腕を振り回す。途中、固い体毛に触れた感触、思い切り掴み、それがどこの部位がわからないまでも決して逃すまいとしがみつく。

 

もつれ合いながら地面を転がり、その内にスバルと獣の体は斜面へと突入。止まるどころか勢いを増して坂下を目指し、挙句の果てに、

 

「――嘘だろ」

 

ふいに、全身を打ち据えていた固い地面の感触が消失。

直後に襲いくる浮遊感を得て、スバルは崖から身を飛ばしたのだと気付く。

 

「――――!!」

 

声にならない叫びは、再びスバルと獣のどちらかが叫ばれたものか。

結果的に、その叫びはそう長くは続かなかった。

 

浮遊感はわずか二秒ほどで遮断され、またも全身を痛打する衝撃に骨が軋む。鈍い音が鳴り、実際にどこかが折れたのだろうと思う。が、体はそれどころではないとの判断を優先。

手首から先の感覚がない左腕を伸ばし、地面を掻き毟るように転がる勢いを殺しにかかる。岩肌に広げた五指の爪が剥がされ、噴き出す鮮血でスプレーしたような斑が岩壁に描かれる。

 

そうまでしてようやく勢いがゆるみ、スバルの体が再びの崖際でかろうじて止まる。半身を宙へ乗り出した状態での停止に、スバルは慌てて地面のある方へ体を転がし、

 

「ぶはぁ……はぁ……ああ、ああ、ああ、クソ!」

 

鼻をつまんで勢いよく、流れ切っていない鼻血を排出する。

口の中に溜まった液体が涎なのか血なのか胃液なのか、それすら判断できずに罵声と一緒に全部を地面に吐き捨てた。

 

荒い息を吐き、体中が訴えてくる裂傷と打撲の痛みに顔中をしかめ、そしてスバルは自分と一緒に落下した獣の姿がないことに気付いた。

 

「おい、どこに……!?」

 

転落死を免れたことを幸運だと思っている場合ではない。

再び奴の襲撃を受ければ、同様に崖際にいるスバルの命運は今度こそ決まる。俊敏に飛びずさってこちらを威嚇する角付きの姿を想定し、スバルは体勢を変えながら周囲を見回す。

そして、すぐにその黒い姿を視界に捉えた。

 

「……そうかよ、お前は無理だったか」

 

角付きの姿はスバルの眼下、その崖下に存在していた。

スバルと違い、二回目の転落を避けることができなかったのだ。一度目の倍以上の高度からの落下に耐え切れず、頭から落ちたらしき獣はおびただしい血痕の上に横倒しになり、ぴくりとも動かない。

 

――どうやら、スバルはまたも命を拾ってしまったらしい。

 

「クソったれ……馬鹿げて、やがる……」

 

その命の終焉を見届け、安堵が心の隙間に差し込んだからか。

看過できない出血をしているスバルもまた、地面に横倒しになると、襲いくる眠気に抵抗できずに瞼を閉じる。

 

そのまま、なにも考えられずに意識が落ち、消えた。