『レム』


※ ※※※※※※※※※※※※

 

――そのときに得た感情のことは、今でも深く覚えている。

 

振るわれる剣、飛び散る鮮血。

見慣れた景色が炎であぶられ、見知った人々が物言わぬ骸へと変わっていく。

 

終わっていく世界。閉じていた世界。報われない世界。

ただただ厳しくて、ただただ理不尽で、ただただ傷付けられるだけの、そんな世界。

 

手を伸ばし、指を動かし、唇を震わせて、それでも懇願する。

 

そんな救いのない世界であったとしても、自分にはそれしかなかったのだから。

ずっとずっと、目の前を塞いでくれる背中の後ろから、覗くだけだった世界。

 

その壁がふいに取り払われて、広がった世界の眩しさに目を細めて、肌を焼く炎の熱さと色を、焦げつく肉の臭いと色を、宙を舞う『角』の美しさとその色を、全てをその眼に、開き切っていなかった視界に刻みつけて――、

 

もう、終わってしまうかもしれない世界の中で、自分がなにを思っていたのか。

そのときに得てしまった感情――そのことを今も覚えているから。

 

それからの彼女の日々は全て、その感情への罪滅ぼしだけでできていた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――レムという少女にとって、姉と比べられることは非常に辛い日常だった。

 

亜人族の中にあって、鬼族が持つ膂力とマナは飛び抜けて高い部類に入る。

比類ない戦闘力、『森の王』とされる種族特性は自然の中においてその優位性をさらに強め、彼の存在を亜人族有数の強者と認めさせるに足る力を見せつけてきた。

 

肉体の強靭さ、扱えるマナの質、戦闘においてこれほど頼りになる種族はない。

ゆいいつ、鬼族が持つ弱点があるとすれば、それは種としての絶対数の少なさだ。

 

強大な個を生み出すことに特化した種は、多数の芽を息吹かせるには至らず、鬼族はその力と相反して、細々と山奥に集落を構えるような暮らしを余儀なくされた。

もっとも、その強靭さと違って気性は穏やかなものが多く、その生活に対して不満を抱いているものなど多くはなかったが。

 

そうして人里離れた土地で暮らす種族であったからこそ、厳格な掟というものがいくつも存在した。

掟を破れば罰則が下され、最悪追放すら免れない。個体数の少なさから身を寄せ合う彼らにとって、追放は生涯の孤独を意味する。

故に、掟は何事があったとしても守られなくてはならない。

 

――鬼族にとって、双子は『忌子』である。

それも、数少ない鬼族たちの中で定められた、厳格な掟のひとつであった。

 

元来、鬼族のものはその頭部に二本の角を有して生を受ける。

平時には角は頭蓋の中に隠されているが、事態が鬼としての本能を揺さぶる状況へと変われば、角はその頭部より姿を現し、周囲のマナを食らい尽くす。

大気中のマナをねじ伏せて従わせ、自らの戦闘力を大きく高める。角はそのための器官であり、鬼族にとっては種としての誇りそのものといえる。

 

そして双子はあろうことか、その二本の角を分け合って生を受けるのである。

 

鬼族において、角を失ったものは『ツノナシ』と呼ばれ、種族としての立場を失う。一本の角の損失でさえその誹りを免れない。にも関わらず、双子はその大事な角を最初から欠損して生まれてくる。これが忌むべきことでなくてなんといえよう。

 

故に双子は忌子とされ、生誕直後に処分されるのが習わしだ。

彼女らの命運も、本来ならばそのときに尽きていたはずであった。

 

苦渋の決断を下した族長の手で、その処断が行われる瞬間、双子の片割れが発した絶大な魔力――その天賦の才が見出されていなかったのならば。

 

双子は姉をラム、妹をレムと名付けられ、鬼族の末席に名を残す運びとなった。

 

その彼女らの生活は、決して順風満帆だったとはいえない。

命を救われたとはいえ、双子であるという事実は拭い去れない。

最初から『ツノナシ』のレッテルを張られた彼女たちは、両親含めた一族のあらゆるものから冷遇されて育った。

自分たちと血が繋がっているにも関わらず、余所余所しい態度を崩さない両親。忌子である二人に嫌悪と侮蔑を隠さない同族。いまだ歩けず、言葉も悪意も理解できない彼女らにとって、それは最低の生育環境であったといえる。

 

もっとも、そんな悪環境での生活がどれほど続いたかといえば、それは彼女らが物心つくまで――正確には、双子の姉が自意識を確立するまでであった。

 

幼児期のラムを表現する上で、もっとも簡単なものは『神童』であろう。

歴代の鬼族の中でも比肩するもののいない才覚。年少にして彼女の扱うマナの保有量は飛び抜けていて、なによりその角の美しさが鬼族全てを魅せた。

 

己の才能に、実力に溺れず、額に宿した一本の純白の角そのもののように、真っ直ぐに自身を示すその姿に、同族の誰もが自然と頭を垂れた。

まだ十に満たない少女に対して、それはまさに別格の扱いであった。

 

余所余所しかった両親も、嘲弄を隠さなかった同族も、生誕直後の彼女らを殺めようとした族長ですら、彼女の威光の前には言葉もない。

列強の亜人族の中でも選ばれし鬼族、その鬼族の頂点となるべく生まれた存在。

 

強大な個を尊ぶが故に、強大である存在に対して礼を尽くすことを欠かさない。そんな鬼族であったればこそ、ラムへの献身に一切の打算は存在しない。

 

そんな姉の栄光の道を、ただただ拙い足取りでついていくのがレムの日常だった。

 

飛び抜けた才能はなにもない。扱えるマナの量は平凡。鬼としての力も角一本の身としての平均。姉と違って自信の欠片もなく、彼女の背に隠れて小さくなり、決して人目につかぬよう、話題に上らぬよう影として振舞う。

それこそが幼い彼女の処世術であり、未発達の心を守る防衛手段だった。

 

姉が嫉ましかったわけではない。

両親が憎かったわけではない。

同族が疎ましかったわけではない。

 

常に先を歩く姉はいつでも優しく、歩くスピードの遅い妹を何度も振り返って手を差し伸べてくれた。

余所余所しかった両親も姉の天分を知るにつれ、妹であるレムに対しても同様の愛情を注ぐようになってくれた。

村の同族たちも飛び抜けて優秀な姉の後ろを、懸命についていく彼女に期待と羨望を寄せた瞳を向けるものも少なくなかった。

 

誰よりも優しい姉。期待をかけてくれる両親。姉のように立派になれと応援してくれる同族の皆――その全てが、レムにとっては身を切り刻まれるような苦行だった。

 

なまじ、見た目が姉と瓜二つだったことも少なからず影響したのだろう。

身長や顔立ちにいたる容姿全てが似通っているのに、その身に宿す『鬼』としての資質だけが大きく食い違う。

 

無論、レムもその状況を変えようと努力をした。

幼い子どもの浅はかで稚拙な試行錯誤に過ぎなかったが、レムはあらゆる手段を試して姉に一歩でも近づこうと、なにかひとつでも姉に勝ろうと努力したのだ。

 

しかし、全てにおいて姉は彼女の上をいっていた。

なにをしても届かない領域があることを、それが誰よりも身近で、誰よりも愛おしい存在であることを、レムは幼児期の時点で悟らされてしまった。

 

姉に並ぶことはできない。

いつでも前に立ち、世界を照らす光を先に浴びる姉。その姉の背中からおっかなびっくりと顔を覗かせ、眩い輝きに体を小さくするのが自分の立ち位置。

そんな風に諦めてしまえば、日々の苦難も全てを草木が風を受け流すように認めてしまうことができた。

 

――そんな諦めを甘受した日々が、どれほど続いたことだろうか。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

ある夜、レムは暑さによる寝苦しさを感じて目を覚ました。

 

木造りの寝台に横たわり、汗だくの体から掛け布団を引き剥がす。あたりを見回して彼女はふと、隣の寝台で寝ているはずの姉の姿がないことに気付く。

 

すぐに、姉を探しにいかなくてはならないと思った。

彼女が目覚めているのなら、威風堂々と歩くその後ろに付き従わなくてはならない。たとえそれが単なる小用による一時の目覚めであっても、それを欠かしてはならないという強迫観念がこの頃のレムを支配していた。

 

部屋の外に出て――そう考えたとき、彼女は遅まきに失してようやく気付く。

 

暑さの原因、それが住み慣れた我が家が炎に包まれているからだと。

触れたドアノブの熱さに手を離し、レムはその事実に思い至る。眠っていた嗅覚が目覚めて焦げ臭さを感じ取り、額をむず痒さが走ると角が表へ顔を出す。

 

即時、強化された肉体を振るって戸を破り、業火に覆われる家屋を駆け抜ける。理由はわからない。しかし、本能の命ずるままに外へ、外へ。

 

脆くなった壁を蹴りひとつで破壊し、レムは家の外へ飛び出した。

この瞬間においても彼女の脳裏を支配していたのは、『家の外へ出て、姉の指示を仰がなくては』という一種の狂信めいた思考だった。

その思考が、家の外で目の当たりにした光景を前に一瞬で塗り替えられる。

 

集落の中央、そこにうず高く積まれた黒焦げの死体の山。

燃え盛る家々、焼き払われる木々、見慣れた世界が一晩で赤い地獄へ変わっている。

 

炎にあぶられ、ねじくれた死体の中に親しんだ顔が並んでいるのが見えて、レムは即座に思考を放棄し、その場に崩れ落ちた。

そんな彼女をゆっくりと取り囲む、黒いローブを羽織った人影。深々とフードをかぶった影の顔は間近にくるまで見えず、見えた顔にも見覚えがない。しかし、そこに友好的な光は一切感じ取れず、レムの頬は似合わない微笑みを浮かべていた。

 

それは幼い少女が作るには達観しすぎた、諦めを何度も噛み殺した顔だった。

 

その痛ましささえ伴う表情に、影は微塵も取り合わない。

手を振り上げ、その掌の中に輝く銀色の刃を少女へ向けて振り下ろし――直後、影の首が一斉に吹き飛ぶ。

 

鮮血、同時に四つの命が奪われ、飛ばされた首は自らの絶命にすら気付かないほど鮮やかな手並み、悲鳴すら上がらない。

感じ慣れたマナの波動、それを肌に直接得て、姉の仕業だとレムは確信する。

 

それを見取った瞬間、レムはその場に立ち上がる。

姉がどこかにいるのならば、その背中に従わなくてはならない。

 

視線をめぐらせる必要もなく、すぐに彼女の姿は見つかった。

自分と瓜二つの顔を今は悲愴に歪めて、彼女は妹に駆け寄ると抱きしめる。腕の中のレムの体に傷がないのを確かめ、安堵したように弛緩する体。

その体を抱きしめ返しながら、レムはこれ以上ない幸福と哀切を噛みしめていた。

 

――その後のことは、よく覚えていない。

 

全てを姉に任せていたのだとは思う。

それが最善で、なにより正しい。姉のすることはいつだって、全ての可能性の中でもっとも尊ばれるものであるのだから。

 

なのに、気付いたときには周囲を取り囲まれていた。

人影の数は視界を覆い尽くすほどで、それらをぼんやりと眺めながら、レムはそれでも姉が何とかしてくれると信じ切っていた。

 

目の前の背中が、懸命になにかを叫んでいる。

涙を流し、身を縮めて、必死でなにかを訴えかけている。

 

地に伏せられると、レムが困る。姉を見下ろすことなど、彼女の生き方においてあってはならない事態だからだ。

姉の後ろで、姉より身を小さくして、そうすることが存在意義。

 

姉が叫ぶ。立ち上がり、自分の前に両手を広げている。

マナがほとばしる。姉の常軌を逸した力が展開され、周囲ことごとくを切り刻む見えない刃が世界を蹂躙する。

 

だが、それが走る前に、姉は振り返ってレムを抱きしめて――衝撃。

 

そして、レムは見た。

姉の頭部を横殴りにした鋼によって、その白い輝きが赤い空を舞うのを。

 

くるくるくるくると、折られた角が回転する。

根本から折れた角、噴き出す鮮血、そして甲高い誰かの絶叫。

 

それを目にしてなにを思ったのか、今でも鮮明に覚えている。

 

自分を庇って、暴行を受けて、角を折られた敬愛する姉の悲鳴を聞きながら、羨望し続けた美しい白い角が宙を舞うのを見ながら、

 

――ああ、やっと折れてくれた。

 

と、そう思ったのだ。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――レムが意識を取り戻したとき、彼女の足は地に着いていなかった。

 

腹のあたりにがっしりとした腕が回り、誰かに抱え上げられている。乱暴でがさつな扱いは、とても女性に触れることを意識しているとは思えない。

それもそのはずで、その腕の持ち主は今は駆け抜けることに必死で、それ以上のことに気を回している余裕など欠片もなさそうなのだった。

 

「――バルス、正面の折れた木を右へ!足が遅い!」

 

「無茶、言うな……っ。はぁ、全力、疾走だ……っつんだよ!」

 

聞き慣れた声と、聞き慣れてきた声が間近で怒鳴り合っている。

激しく上下に揺さぶられながら、レムは茫洋とした意識を頭を振って揺り戻す。そして、その唇を震わせて、

 

「……スバル、くん。なにを」

 

「――!目ぇ、覚めたか、レム!」

 

走りながら歓喜の声を上げて、スバルの顔がこちらを見下ろす。

虚ろな瞳でそれを見上げて、レムは彼のその状態の酷さに思わず喉をひきつらせる。

 

額が割れたのか、滴る血が顔を朱で縦に割っている。体中のあちこちには昨晩の傷跡が白く残り、その上から新たに生じたいくつもの傷が積み重なって血をにじませている。満身創痍の上に、さらに無茶を重ねた結果がそれだ。

 

「……よかった、レム。本当に、手間のかかる子だわ」

 

桃色の髪を揺らし、並走しながらかすかに微笑むのはラムだ。

彼女はその唇をほんのわずかだけ、見知った相手にだけわかる程度に笑みの形に崩し、伸ばした手でレムの青い髪をそっと撫でる。

その直後、

 

「フーラ!」

 

風の刃の詠唱が行われ、巻き起こる風刃が森を裁断――途上にあった魔獣の肉体を輪切りに切断し、飛びかかろうとしていたその身を肥やしへ変える。

途端、目眩を起こしたように足取りを狂わせ、ラムはスバルの体に軽く衝突。

 

「――いっってええええ!!ラム、お前、おい……俺が右肩、外れてるってのわかって……!」

 

「……うるさい。ラムが無理しなきゃ呪いの上塗りだったわ。少しぐらい、寄りかかる壁になるのを享受しなさい」

 

「せめて反対の肩に……いっだぁぁぁぁああ!!」

 

激痛に半泣きになりながら絶叫するスバル。

彼の体に体重を預けながら、『なくした角の痕跡』から血を流すラムの姿。

 

それらを見つめていて、レムは唐突に今の事態に思い至った。

自分がなんのためにこんな場所にいて、どうして二人によって抱きかかえられているのか。それは――、

 

「どう、して……」

 

「ああ?」

 

「どうして、放っておいてくれなかったんですか?」

 

揺られながら、そんな疑問が口をついて出ていた。

胡乱げな顔つきでこちらを見下ろすスバルに、レムは立て続けに唇を震わせ、

 

「姉様と、スバルくんがきてしまっては意味がない。レムが……レムがひとりでやらなきゃ……傷付くのは、レムだけで十分で……」

 

「じゃあもう遅ぇよ、俺もラムもズタボロだよ!下手したらお前よりひでぇよ!」

 

誇張でもなんでもなく、事実としてそうだろうことをがなるスバル。ラムはなにか思うところがあるのか、その会話には参加してこない。

レムはそんな姉の態度に突き放されたようなものを感じ、必死でそれに縋りつくように途切れ途切れの言葉を作る。

 

「レムの、レムのせいなんです。レムが昨晩、躊躇したから……だから責任はレムがとらなくちゃ……そうでなきゃ、レムは姉様に、スバルくんに……」

 

「今だいぶキツイんだけど、うまく話まとめてくれっかな!?気が散ってるとマジ昨日の夜のリフレインで全身がガブガブ……」

 

「スバルくんは本当なら、噛まれずに済んでいたんです――」

 

こちらの言葉を聞く体勢にないスバルにも、その声ははっきり届いたらしい。

顔を強張らせ、こちらを見る彼に、レムは自らの罪を告白する。

 

昨晩の森での攻防の中で、己の中の『鬼』を解放し、魔獣の群れと向き合ったレム。彼女の意識はそのとき、『鬼』としての本能に身を委ねた部分と、自分自身を保った意識の半分が共存していた。

負った傷の具合はひどいが、本能に全てを委ねてしまえば離脱が困難になる。

そういった判断をした上での限定的な『鬼化』の行使。しかしそれは彼女の未熟な戦闘技能を露呈し、あまつさえ守るはずのスバルに身を投げ出させる選択肢を取らせてしまった。

 

だが、本当にレムが謝罪しなければならないのは、その状況を作ったことではない。

 

スバルがレムを庇い、魔獣の牙にその全身を食らい尽くされた瞬間――本当ならばレムは、スバルを守ることができたはずなのだ。

 

突き飛ばされたといっても、『鬼化』したレムの膂力とスバルのそれでは比較対象にすらならない。軽く身をつんのめさせられただけの衝撃など、振り返って腕を伸ばせば届く位置からずらされてすらいなかった。

なのに、レムは手を伸ばすことを躊躇して、スバルに瀕死の重傷を負わせた。

全ては彼の身から濃厚に漂う、全てが燃え尽くされた日の臭いが原因で。

 

「レムがスバルくんに手を差し伸べるのを躊躇ったから、スバルくんは死にかけたんです。そして、あまりに多くの呪いを一身に浴びてしまった。だから――」

 

「その罪滅ぼしに、てめぇひとりで片をつけようって腹だったのか」

 

レムの告解に、荒い息ながらもスバルは納得したように頷いた。

その彼の納得を肯定するように、レムもまた自分の罪を見つめながら顎を引く。

 

罵倒され、軽蔑される、その覚悟が彼女にはあった。本来ならば森に入るより前に、彼の口から浴びせられなければならなかったはずの言葉。

それを先延ばしにしたのは、一刻も早く彼を救わなくてはと思っていたからか、それとも己の弱さと向き合う覚悟がなかったからか――きっと後者なのだろうな、と弱い自分の心を自嘲してレムは思う。

 

「レム」

 

「はい」

 

名前を呼ばれて、覚悟を決めながら上を向く。

どんな厳しい言葉をぶつけられても、甘んじてそれを受けなくてはならない。

それが自分が犯してしまった罪であり、与えられるべき罰なのだから。

 

そんな彼女に、

 

「ちょーぱん」

 

「――!?」

 

がつん、と骨と骨がぶつかり合う固い音がして、レムの視界を火花が散った。

鋭い痛みに一瞬だけ視界が点滅し、レムは意味がわからずに額を押さえる。『鬼化』していない今の肉体は、人間の強度とさほど変わらない。

打撃を受けた額はかすかに腫れ、外から見れば赤くなっているだろう。

そんな意味不明の事態に目を白黒させるレムを見下ろして、

 

「とりあえず、バカかお前は。いや、バカだお前は」

 

「バルス。割れた額がまた割れて再出血してるわよ」

 

「俺もバカだよ、知ってるよ!でも、お前の妹はもっとバカな!」

 

口を挟むラムにそう言ってから、スバルは流血する頭を振る。それを見て、レムは自分がスバルに頭突きされたのだと気付いた。

意味がわからない。

 

「色々とお前はバカだけど、特にバカなことが三つある。わかるか?」

 

「なにを、言って……」

 

「まず一つ目のバーカ!俺を助けられなかったとか言ってることー!」

 

唾を飛ばしながらレムを遮り、スバルは抱えるレムを持ち上げると目の前に顔を突き合わせ、息がかかるほどの距離で黒瞳を見開き、

 

「目ぇかっぽじって超見ろ。俺の元気な益荒男っぷりが見えるか?ちょびっと体のあちこちに白い傷跡が残っちゃいるけど、傷は男の勲章だから問題なし。よってお前の負い目はそもそも間違いだ、バーカ!」

 

「でも、だから、そもそもレムが躊躇しなかったら、手を伸ばすことをすぐにしていれば、そんな傷を負うことだって……」

 

「はい、『たられば』で物事を語んな!そして二つ目のバーカ!全部自分で抱え込んでたったひとりでやろうとしたことー!」

 

強制的に黙らされ、スバルの罵倒を甘んじて受けるしかない。

助けを求めに姉を見るが、ラムは事態を静観するつもりなのか動きがない。

スバルはそんなレムの顔の方向に顔を動かし、舌を出しながら、

 

「いいか、俺の故郷には『女三人寄らば姦しい』って言葉がある。それは関係ないんだけど、『三人寄らば文殊の知恵』って言葉もあってな」

 

言いながら、スバルは「文殊ってなんだ……」と小さく呟き、首をひねってから「ああ、いいや!」と投げやりに言って、

 

「とにかく、ひとりで考えるより三人集まった方が矢が折れ難いみたいな話だ」

 

「想像ですけど、本来の使用法と違ってるような……」

 

「と・に・か・く!ひとりで考えるんじゃなく、色々と周りを頼れよ!口がきけないわけじゃねぇだろ。俺みたいに心臓握ら――」

 

そこまで言いかけて、ふいにスバルの表情が苦いものに変わる。

自然と身を前屈みにして、苦しげに息を整えながらスバルは、

 

「今のでダメとか……は、判定厳しくねぇ?」

 

「なんの話を……いえ、スバルくん。急に、魔女の、臭いが濃く……」

 

鼻を摘まみ、レムは自分の嗅覚が嗅ぎ取るおぞましい感覚に身をよじる。

すぐ間近、すぐ隣に、唾棄すべき悪臭が、彼女に手を伸ばすことを躊躇わせた原因たる残り香が濃密に漂っている。

それがどうして、急に発生したのか――、

 

「まぁ、それについては気持ち切り替えろ。俺も切り替える」

 

が、レムの疑問はあっけらかんとしたスバルの物言いに取り下げられた。

唖然となり、レムは口をぽかんと開けてスバルを見る。その横顔には言葉以上の感情はなにも見えず、本気で問題を先送りにしたのが伝わってきた。

 

「それで三つ目のバカだが……クソ、時間がねぇな」

 

走りながら前方を見るスバル、その視線が強い緊張に細められる。

同時、隣を走るラムもまた、痛む頭に手を当てながらマナを展開し始め、

 

「ラム、村の方向……いや、この際、結界の方でいいや。どっちに走れば抜けられる?」

 

「前の群れさえ抜けば、あとは左に向かって全力疾走だけど、どうする気?」

 

ラムの問いにスバルは「うーむ」と長いうなり声をこぼし、

 

「レムをラムに突き飛ばし、俺はひとりで結界の彼方まで無情にも逃げ去る――というシナリオはどうだ?」

 

「魔女の臭いでジャガーノートを引きつける囮になるから、その間にレムを連れてラムたちに逃げろと。わかったわ」

 

「俺のツンデレをあっさりと暴くのやめてね!?」

 

走る速度を緩めないまま、そんなやり取りを交換するスバルとラム。

その二人の会話を耳にしながら、レムは「そんな……」と絶望を口にし、

 

「助かるわけが、ないじゃないですか。……やめ、やめてください。それじゃ、レムはなんのために……」

 

「一個追加でバーカだ、レムりん。これが全員が助かる最善の策だぜ?結界抜けてどうにか合流できりゃ、あとはレムりんが知らない方法で、ジャガーノートを狩り尽くす名案があんだよ。そのアプローチで大団円、楽勝だろ?」

 

スバルが用意している名案とやらがなんなのかはわからない。正直、実在すら疑わしいその場しのぎなのではないのかとさえ思う。

なぜならそれ以前に、スバルが単身で包囲網を抜けるということがレムには達成不可能な事柄に思えてならないのだから。

 

「そんなことしなくても……レムが魔獣なんて、蹴散らして……」

 

そんな無謀をさせてはいけないと、レムは己の全身に力を入れる。

だが、だらりと下がる四肢は何ひとつ彼女の意思に従わない。闘志は伝わらず、彼女の言うことを聞いてくれるパーツは体のどこにも見当たらなかった。

 

指先が震えている。顔の筋肉がどうにか動かせる程度。使い慣れた獲物も、その手の中のどこにも見当たらず、

 

「レムの、武器は……」

 

「あんな重いもん落っことしてきたよ!片腕脱臼してる学生に、お前とアレ担げって言われても無理だぜ、実際!」

 

そして武器もない、と明言されて、今度こそレムは絶望を知る。

そのままレムは為す術もなく、その体を姉の方へとゆっくり渡され、

 

「落とすなよ」

 

「片腕のバルスより、まだ力はあるつもりよ」

 

「じゃあなんで俺がレム担いでたの!?」

 

「バルスが自分が担ぐ、と言って聞かなかったからでしょう」

 

「まさかのマジ返し!」

 

顔を掌で覆って、自分の発言をなかったことにしようとするスバル。

そんなスバルを見上げ、レムは信じられないものを見るように彼を見る。自分がこれだけ彼を蔑にしたと口にしているのに、どうしてそうまでして、

 

「スバルくんは、なんでそこまで……」

 

「――そうだな」

 

問いかけにスバルは一瞬だけ瞑目し、それから指を一本立てて笑い、

 

「俺の人生初デートの相手だ。見捨てるような薄情はできねぇな」

 

言って、その指を立てていた手でレムの髪をそっと撫で、

 

「んじゃま、ちょっくらやってくるとするわ。――レムを頼んだぜ、お姉様」

 

「バルスも、無事に合流できるのを祈っているわ」

 

そんな短いやり取りを置き去りに、スバルとラムの走る方向が急速に別れる。

ラムは右へ、スバルは左へ。正面にいた群れが散らばる獲物のどちらを追うか刹那の間だけ迷い――即座に、左のスバルを追い立てる。

 

「――姉様!」

 

「バルスが命懸けで作った時間よ。有効利用しましょう」

 

鬼の力を失った姉にとって、レムの体を支える膂力はその肉体が本来持っているだけの力でしかあり得ない。故に、彼女の走る速度は決して速くない。

 

それを感じながら、レムは自分の不甲斐なさに唇を噛みしめる。

 

『鬼化』さえできれば、スバルを守ることも、姉を代わりに担いで走ることだって、簡単にできる。全部できる。

なのに肝心なところで、自分の中の『鬼』は表に顔を出すことさえしようとしない。

 

ラムのこの場の優先順位は『レム>スバル』で確定している。だからスバルが自らを囮にする方法を提示したとき、それが欠片でも自分たちの生存率を高めると判断すれば、躊躇なくそれを決断することができる。

 

そんな姉の決断力を尊敬する一方で、レムは涙ながらに訴えずにはいられない。

どうして、もっと果敢に挑んでくれないのかと。

どうして、もっとすごいところを見せてくれないのかと。

 

そんな理不尽を、幼かった頃の全幅の信頼を預けるように、レムは泣きじゃくりながら、

 

「スバルくんが……スバルくんが……!」

 

「振り返ってはダメよ、レム。傷になる」

 

尊敬する姉の言葉だ。いつだって正しかった姉の言葉だ。

それに従っていれば、きっと心は守られる。なぜならいつだって、彼女は正しいのだから。

 

――ならば、正しいことなんてなんの価値もない。

 

「――お姉ちゃんっ!!」

 

「――ッ!!」

 

心が訴えかけるままの叫び声に、ラムの表情を激震が走った。

唇を引き結び、目を押し開くラムの足が止まる。とっさに身をよじって姉の腕から逃れ、地面に落ちたレムは体を転がし、後ろを見た。

 

遠く、駆けるというにはあまりに遅すぎる疾走。

黒い髪、傷だらけの格好、力の入っていない脱力した右腕を揺らし、色んな感情をひっくるめて噛み殺すような形相を浮かべるスバル。

 

そんな彼の正面に立ちはだかる、強大な肉体で壁を作るジャガーノート。

他の同種に比べて一際大きなその体は、あるいは群れの頭なのかもしれない。

 

そんな存在を正面に、そして背後と横を無数の魔獣に囲まれて、スバルは猛然と走り続けている。

その背中に手が届かない。指を伸ばしても、心を震わせても、届かない。

 

ただただ、それでもレムは届かせるように叫ぶ。

あの夜に届かなかった指先を、あの夜に届かなかった想いを、今度こそ届いてほしいと願いに願って。

 

「――スバルくん!!」

 

その声が届いたのかどうかはわからない。

 

ただ、まるでその声に応じるかのように――走るスバルが左手で、鈍い輝きの剣を抜き放ったのだけがかろうじて見えた。

 

魔獣の雄叫びが森を震わせる。

そして、それに覆いかぶさるように、スバルの喉も雄叫びを張り上げていた。