『月下の密談』
スバルとエミリアの約束が交わされた朝――時間はそこから半日ほど進む。
場所はロズワール邸最上階、中央の主の部屋である。
そこで夜の密談が行われるとき、参加者はいつも決まって同じ二人だ。
「まずは不在中の労をねぎらうことにしよぉかね。よくぞ、事態の収拾に努めてくれた。おかげで最小限の被害で済んだといえるとも」
やわらかな声には男性独特の艶があるが、その口調はどこまでも軽々しく、聞いているものに当惑の感情をもたらす類のものだった。
部屋の主であるロズワールのその言葉に、しかし相対するメイドは慣れているのか気にした様子もなく腰を折り、
「もったいないお言葉です。それに、最後にはロズワール様のお手を煩わせてしまい……」
「あぁ、いーぃからそういうことは。森の害獣を焼却処分するのぐらい、大した手間でも労力でもなぁいんだから」
手を振り、なんでもないことのようにそう語るロズワール。
その言葉が誇張でも見栄でも謙遜でもなく、ただただ歴然たる事実であることを少女――ラムは知っている。故に、なにも口を挟むことはしなかった。
「責任の追及はしても滅入るだけだぁよ。もっと建設的な話をしようじゃないの。――たとえば、スバルくんのその後の経過はどーぅだい?」
押し黙るラムにロズワールが問いを投げかける。
ラムはその問いに小さく首を横に振り、
「体の方はほとんど治っています。ベアトリス様が文句を言いながら、治療に全力を傾けてくださいましたので」
「ホントどうしたことだろね、珍しい。付き合い長いけど、あの子がそこまで誰かに肩入れするなんて初めて見たよ。一目ぼれとかかね?」
「ラムの見たところ、そういった感情には見えませんでしたが……」
ベアトリスの治療風景を思い浮かべながら答え、それから気を取り直すようにラムは「ですが」と手を前に出し、
「ベアトリス様の治療のおかげで助かりました。あの方がいらっしゃらなければ、バルスの命は今もあったものかどうか」
「そのあたりはスバルくんの強運とでもいっておこうかぁね。実際、ベアトリスほどの治癒魔法の使い手なんてそういない。私もラムも、そっち方面はとんと疎いからさぁ。――傷付けることばかり得意で、まったく嫌になる」
首を振りながらわずかに表情を俯かせるロズワール。
言葉の内容は自己嫌悪に近く、伏せる顔もそれに準じたものになっているだろうと誰もが思うだろう。
実際には彼はその表情を悲痛なものにも、自身への嫌悪に満ちたものに歪めるでもなく、ただただ透明な微笑を浮かべているだけなのだが。
そのままロズワールは「だけど」と前置きしてから上目にラムを見上げ、
「首を振る否定から入ったということは、命が助かったことを単純に喜べる状況ではないってことなんだろうねぇ」
「はい。いくつか問題が」
問いかけに首肯し、ラムはその後を続けるのに一拍の間を置いた。一度、自分の中で伝えるべき内容を整理してから改めて、
「バルスは短期間で二度、枯渇状態からゲートを無理やり活性化させていました。その上で命に関わる負傷を治癒魔法で癒しましたから……ゲートをこじ開けて酷使しすぎた影響で、まともに機能するまでどれほどかかるか」
「大精霊様とベアトリスの見立てなのかな?」
「はい」
己の手を組み、ロズワールは瞑目してその情報を噛み含める。
ゲートの損傷、それはマナとの生活を切り離すことができないこの世界を生きる上で、非常に厄介な障害を抱えたということに等しい。
宮廷魔術師という立場にあり、人より身近にマナを扱うロズワールだからこそ、今のスバルの状況の不便さが一際痛感できた。
せめて一日でも早い回復を望むが――、
「ゲートの修復は個人差があるとはいえ、それも何年がかりのことになるか。彼には酷な選択を強いてしまったことになるね」
重々しいロズワールの言葉にラムは頷きで肯定を示し、さらに続ける。
「そして問題は、呪いのこともあります」
「――発動の危機は去ったはずだね?」
「術者――この場合はジャガーノートになりますが、それらの一掃によって術者は不在。よって呪いが発動することはありませんが……術式はいまだにバルスの体の中に残されたままです」
「解除に関しては専門家の意見が聞きたいところだぁけどね」
この場合、専門家というのは呪術の類にも精通したベアトリスのことを指す。彼女の意見を、と求められてラムは首を横に振り、
「複雑に絡んだ糸を外すのは、ベアトリス様でも困難とのことです」
スバルの体を蝕む呪いの魔手は、想像以上に根深く息づいてしまっている。
術式は解体が困難なほど彼の肉体を縛り付けており、あのベアトリスをして挑ませることを躊躇わせるほどだ。
とはいえ、術者を失った術式自体には脅威というほどの問題は存在しない。
通常、組まれた術式の発動は術者本人の認識なくして発動は不可能であり、特に今回の呪いは対象から術者へマナを移譲する類の術式だ。その移譲先が存在しないために、呪いの発動は前提条件からして整うことがない。
故に、スバルの肉体に残る術式は放置していて問題になるものではない。
ただし、
「そこを問題にする以上、頼んでいたことの確認は取れちゃったわけだ」
ロズワールの主語のない問いかけに、しかしラムは迷いなく頷く。そうして返答を待つ彼に、ラムは己の額に触れながら、
「死骸の確認ができた個体に限りますが、発見されたジャガーノートは全個体が『ツノナシ』にされていました」
と、ヘッドドレスの下の傷跡に触れながら、ラムはかすかに疼く古傷を無視して、淡々とロズワールにそう報告する。
ロズワールは彼女のその態度に吐息、それから背もたれを軋ませ、
「私が見た限りでもそぉだった。おそらくは群れ全てがそうだったんだろう」
「でも、可能でしょうか。あれだけ多数の魔獣の角を折るなんて……」
「なぁに、幼体のときに折っておくか、あるいは先に十匹ほど折っておいて、その十匹に命じて少ない数の相手を襲わせて折ればいい。同じことを繰り返せば、あとは勝手に群れ全体の角がなくなってるってぇありさまじゃぁないの」
ロズワールの説明にラムが納得を示し、それを目にしながらロズワールは片目をつむって彼女を見る。オッドアイの黄色が閉じ、透き通る青い目がラムを見据え、
「しぃかし、だとすると事情が変わってきちゃう。ましてや、スバルくんは二度にわたる我々の恩人だというのに」
物憂げなロズワールの声にラムは「ええ」と同意を示し、
「角を折られた魔獣は折った相手に従う。――屋敷を、あるいはロズワール様の領地を意図して荒らした愚か者がいることになります」
「まーぁた王選絡みになっちゃうかなぁ。ガーフィールのところへの誘い出しといい、よほど私たちが邪魔だとみえる」
「ガーフィール……彼はなんと?」
既知の名前が出たことに眉を上げ、ラムはおずおずと問いかける。それに対してロズワールは苦笑しながら肩をすくめて、
「もち、呼び出しをかけた覚えはないってつっぱねられちゃったとも。符丁は新しいものに変えて、連絡の取り方もざっと変えよう。まーぁ、元々、彼らの手を借りれるかどうかはかなぁり微妙なところでもあったしねぇ」
顎に触れながらそう思案するロズワール。
飄々とそのことに触れるが、簡単に流せる内容でないことはラムも重々承知している。もとより、勝算が薄いことは明白な戦いなのだ。ならば勝算を高めるために、持てるカードは一枚でも多い方がいいに決まっている。
自らもカードの一枚である自覚があるラムは、そのロズワールの懊悩を見ているだけしかできないことが歯がゆくて仕方がない。
が、彼女のその思考は「違う違う」と手を振ったロズワールによって中断され、
「話を戻そう。その魔獣の『親』になるかな。目星はついてるのかな?」
「一応。ただ、足取りは完全に途絶えてしまいました」
「逃げられたか……あるいは消されちゃった?」
「どちらとも言えません。わかっていることは、バルスとレムが森から連れ帰ったはずの子どもが、翌日からひとり姿が見えないということだけです」
レムとスバルが森から連れ帰ったという、『お下げ髪の少女』について、村民は口を揃えて見知らぬ少女であったと答えた。彼女と行動を共にした子どもたちも、ふらっと輪に加わった人物であると証言している。
大人たちはスバルと同様の余所者であったと判断し、子どもたちはそもそも相手の素姓を疑わしいと思わなかった。二つの心理に潜り込まれてしまい、遅れてその存在に気付いたこちらは後手に回る形になってしまった。
よって、一番の容疑者は姿を消したという少女になる。
この場合、見た目が幼いということはなんと反証にもならない。それこそ、そんな世界でしか育つことができなかった存在など、掃いて捨てるほどいる。
ラムの報告を一通り聞き、ロズワールは「参ったね」と髪の毛を弄りながら、
「王都では腸狩り、領地では魔獣使い。変なレパートリーに絡まれたもんだよ」
「イロモノがどれほど集められたところで、それで挫けるロズワール様ではないのでしょう?」
「あらま、ナマイキ言うようになっちゃって。嬉しいもんだね」
笑うロズワールがラムを手招き。それに従い、ラムは部屋の中央から奥へ――黒檀の机を横切り、ロズワールのすぐ傍らへ向かう。
と、腕を伸ばしたロズワールが彼女の小柄な体を抱き寄せ、膝の上に乗せる。
そして、
「一晩、こちらの都合でかまってあげられなかったかぁらね。ずいぶんと辛い思いをさせただろう?」
「ロズワール様がご多忙なのは承知しています。ラムのことなど、最後まで後回しにしていただいて結構ですから……」
「ラム、いつも言っているじゃぁないの」
目を伏せるラムの顎に指を這わせ、気持ち上を向かせてロズワールは微笑み、
「君とレムは私の中で、指折りの大切な存在なんだよ?そう、仮に今回の件で君たちにもしものことがあれば、私は自分を押さえられたか自信がないほどに」
空いている方の手を天井に伸ばし、芝居がかった仕草でロズワールは語る。ラムはそのロズワールに熱に浮かされたように陶然とした顔をして、
「ラムとレムは、ロズワール様にとって大切――」
「そう、君とレムは私にとって大切で、大事で、なにより重要な」
言葉を重ね、気持ちを積み、一拍を置いてロズワールは輝くように笑いかけ、
「――欠かすことのできない駒だとも」
堂々と、ロズワールはラムに対してそう言葉を投げかける。
そこには一切の罪悪感などの負感情は込められておらず、ひたすら純粋に己の中の事実を羅列しているに過ぎない響きだけがあった。
そうして、己の存在をはっきりと駒だと言い切られたラムはそれを受けて、
「――はい」
と、頬を染めてうっとりと頷いて返した。
従順とも心酔ともいえる彼女の態度に、ロズワールは満足げに頷く。
膝の上のラムをさらに引き寄せ、小さな体をすっぽりと腕の中に抱き入れると、
「さぁて、じゃーぁ始めようか。ラムもだいぶ無理をしてしまったろう?控えるように言っていたのに、かなりマナを流出させたね?」
「申し訳ありません……お願いします」
ロズワールの言葉を受けながら、ラムは桃色の髪を彩る白いヘッドドレスを外す。
その装飾の下、桃色の髪を掻き分けてロズワールの指が入ると、額の少し上のあたりにかすかな白い傷跡が存在している。
――かつて、彼女を鬼族にして、神童と言わしめた時代の名残だ。
傷跡にはマナの行使による損傷があり、血がかすかに今もにじんでいる。ロズワールはその傷を痛ましげに指でなぞると、
「――星々の加護あれ」
四色の輝きがロズワールの腕を伝い、彼の指先に集中した途端に白い光へと変貌――そのまま指先を渡り、触れるラムの傷跡へと光が注がれる。
――直接、他者へマナを移譲するのは、非常に高度な扱いが要求される術である。
各属性のマナの配分が完全に均一でない限り、マナは力へと変換されて対象の肉体を傷付けてしまう。四色のいずれのマナにも適合し、それらを高い領域で使いこなせるロズワールだからこそ可能な『治療行為』である。
鬼族にとって、額の角はマナを内外に通すためのラインを意味する。
ゲートの役割に近しいそれは、しかし実体のある分、ゲートよりより濃密にそれを行う機関であり、肉体もまたそれに準じたものとなっている。
だが、ラムは外的要因によってその角を失い、マナを取り込む量も、排出する量も肉体を満足させられていない。
放置しておけば衰えていくだけの肉体――それを維持するために、こうしてロズワールとの夜の密会は日課として行われているのだ。
角の傷跡を通してマナを注がれ、ラムは小さく肩を震わせると、
「あっ、んっ」
「いつ聞いても、目にも耳にも毒な光景だぁね」
息を弾ませ、艶っぽく頬を染めるラムにロズワールは微苦笑。
ラムはそんなロズワールに流し目を送り、
「毒とお思いなら、いっそ片付けていただいてもかまいませんのに」
「娘も同然の相手をかい?それはそれは、変態悪徳貴族の面目躍如といったところじゃーぁないの。わくわくするねぇ?」
ラムの誘惑をさらりとかわし、ロズワールはマナを注ぐ行為を続ける。
肉体に活力が満ち、ゲートが温もりに膨らまされるのを感じながら、甘美な感覚に身を委ねるラムはふと、
「そうだ。ロズワール様にご報告しなくてはならないことが……」
「なんだい?」
「レムのことですが」
「お咎めとかは特にないよ?もぉちろん、ちょぉっとしたお小言はあるけど、それ以外は罰するつもりはないとも」
遮り、話を先回りしてくるロズワール。が、ラムは「いえ」と小さく否定を入れ、どう伝えるべきか迷うように唇を悩ませてから、
「レムが、バルスになつきました」
「んん?」
「バルスのなにかが、レムの弱いところに触れてしまったようです」
双子の妹のことだ。
彼女がどんな心理状態にあるのか、姉のラムにはよくわかってしまう。その逆が、思慮の浅い妹には絶対にできないということも。
最初は戸惑いを覗かせたロズワールだったが、ラムの説明に次第に納得の表情を見せ、「うーむ」と難しげにうなると、
「レムが、か。まーぁ、不思議なことでもないのかな。あの子はラムと違って、忠誠心から私に仕えているわけじゃぁ、ないしね」
主のあんまりといえばあんまりな妹への評価、それに対してラムはしかし反論など一切せずに沈黙で応じる。それはつまり、無言の肯定だ。
無償の忠誠心でロズワールに身を捧げるラムと違い、レムのそれは自己防衛の感覚が大きく勝っている。
レムにとってロズワールは、『姉であるラムを庇護してくれる存在』という側面が強い。姉の存在が自身の存在意義、とまで凝り固まったレムの依存心からくる考え方であり、そのコミュニティを守るためのレムの行動は、浅慮で早計なものになりがちだ。目を離してしまえば、害になりそうな存在の勝手な始末などやりかねない。
そういう意味では、襲われるより先に信頼を立てたスバルは命拾いしたと言えるのではないか、というのがラムの正直な見立てだった。
もちろん、そんな評価を下していながらも、ラムにとってのレムは世界一可愛い妹であり、その存在の優先順位は己自身と比較してもなお高い場所にある。
――ただし、一番であるかと問われれば、今は素直には頷けない。
「レムの心情がどうあれ、ラムは私の手の中に残り続ける。なぁらば、必然的に彼女もそうせざるを得ない。ほーぉら、これまでと同じ、なーぁにも変わらないとも」
「そう、ですね。レムの大切なものが増えた結果、あの子が早とちりする可能性が広がっただけともいえますし」
「前もって釘は刺しておこう。これ、明日の重要な仕事だぁーからね」
冗談めかして言うのと同時に、ロズワールの掌から光が失われる。
治療の終了だ。己の内に活力が満たされているのがわかり、ラムは名残惜しげにロズワールの膝から地面の上へ降りる。
身を回し、振り向く彼女の前でロズワールはその長身を椅子から立たせ、
「なーぁんにせよ、これからまーぁた忙しくなる。苦労をかけるけど、ラムもレムもよろしく頼むよぉ?」
「仰せのままに。この身はあの炎の夜からずっと、ロズワール様のものです」
スカートの裾を摘まみ、その場で膝を折って小さなお辞儀。
彼女の忠義を受けながら、ロズワールは後ろ手に手を組んで窓際へ歩み寄る。隣にラムが控えるのを受け、カーテンを開く。
空――丸々と肥え太った月影が浮かぶ空を見上げ、ロズワールはその色違いの瞳をわずかに細めると、
「此度の王選、なんとしてでも勝たないといけない。私の、目的のために」
呟き、そして伸ばされる腕がラムの肩を抱き寄せる。
再びその長身の温もりを身近に感じて、ラムは静かに目をつむって俯く。
傍らの男の、自らの主の、魂を預ける相手の声を聞きながら、
「――龍を殺す、その日のために」
――夜は静かに更ける。
激動の日々も押し流し、なにもかもを洗い清め、新たな世界を歓迎するように。