『豚の欲望』


 

「妾はこう見えて、意外と本が好きでな」

 

豪奢な椅子に座り、肘掛けに片手を置いた少女がそう語る。

置いた腕と反対の手には凝った装丁の本を開いており、すでに後半に差しかかっているそれに目を走らせる姿は、どこかそれまでの彼女の雰囲気と異なっていた。

 

ネグリジェのような薄手の衣に袖を通し、肩に衣と同じ色の白い布をかけた姿。豊満な体の曲線が惜し気もなく目の前にさらされている状態だが、男の視線を前にしながらも少女にはそれを意識した様子はない。

来客を出迎えているとは思えないほど自然に、本の世界に没頭していた。

 

絨毯の敷かれた床をスニーカーで踏み、放置されるスバルは途方に暮れる。

中に通されたはいいものの、肝心の部屋の主はスバルに興味を払っていない。強引に話を始めようとすれば、冒頭の一言が返ってきたのみ。

まさか、もう少しで読み終わる本だから読み終わるのを待て、と言われているのではあるまいか。

 

「いくらなんでもそれは……」

 

と、胸中に芽生えた考えを否定してかかるが、ページをたおやかにめくる姿を見ているとイマイチ不安が払拭できない。

事実、彼女がそんな理不尽を言いかねない人物であることをスバルは知っている。

 

太陽を映したような橙色の髪に、目に映る全てを焼き尽くす炎のような紅の双眸。透き通る白い肌に女性的な起伏に富んだ肢体。

口を開かず、静かに本に視線を傾ける姿の美しさは表現する言葉を他に持たない。

それでその人柄が、他者の気分を害するために育まれたものでなければどれほど神は彼女に不公平だったことだろうか。

 

少女の名前はプリシラ・バーリエル。

王選の候補者のひとりであり、スバルが協力を求めて足を運んだ、次なる人物でもあった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

王都にラインハルトが不在である事実をスバルが知らされたのは、彼が王都にいる間の住まいとして利用していた邸宅でのことだった。

 

ラインハルトの生家でもあるアストレア家が使用する別邸であり、そこの管理を任されている老夫婦の話では、

 

「此度の王選に備え、主であるフェルト様とそのご家族を連れて今は本家の方へお帰りになられております。対話鏡でここと本家が会話することは可能ですが……」

 

肝心の王都とアストレア本家の道筋が、竜車の移動で四日近い時間がかかるとの話だ。ラインハルトが王都を出たのが二日前では、まだ本家に到着していない。

さらに彼の本家の位置情報を聞いたところ、メイザース領まで駆けつけるのには最短で五日――どう足掻いても、彼の参戦は絶望的だった。

 

「ロズワールもラインハルトも……肝心なところで役に立たねぇ……!」

 

老夫妻に別れを告げ、別邸が見えなくなったところでスバルは頭を抱える。

今回の彼らの間の悪さは神がかっている。無条件で力を貸してくれそうな候補が消滅したことで、スバルから本当の意味で余裕が失われた。

断られる以前に、彼がいないことを想定していなかったのが痛い。ましてや彼の出立が二日前とあっては、『死に戻り』の時点で間に合わないのだ。

仮に彼の協力を仰ぐのであれば、『死に戻り』以前の二日を過ごすことが可能だった、実質一度目の世界でしかできなかった。だがそれは待ち受ける惨劇を知らず、ただ日々を無為に過ごしたスバルには無理な話で、

 

「ないものねだりしててもしょうがねぇ……考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ、俺……力も数も時間も足りねぇんだ。頭ひねるしか俺にはねぇんだ」

 

必死に頭を回転させて、スバルは次善策を弾き出そうと懸命に考える。

クルシュがダメで、ラインハルトがダメとなれば、王都での既知の人物が少ないスバルには選べるカードがほとんどない。

魔女教出現の報に関して、クルシュが指摘した通りの信憑性を問われるのであれば、騎士団の詰所に押しかけるのも協力を得られる可能性が低く思える。

 

なにより現状、スバルの立場は王国の騎士団への直談判が可能な位置になく、それ以前に騎士たちからの覚えが非常に悪い状態にあることが予想される。

ユリウスとの練兵場の決戦で、スバルがボロボロになるまで打ち倒されるのを、歓声を上げてはやし立てていた奴らの醜悪さをスバルは忘れていない。あんな連中がスバルに手を貸してくれるとは思えなかったし、借りたいとも思わない。

 

――それまで、誠実に接してくれていると思っていたクルシュに見放されたことで、スバルの中には他者に対する疑心暗鬼が渦巻いていた。

 

事実として、練兵場での一件では後半には歓声を上げる騎士たちなどおらず、むしろユリウスの行いに眉をしかめるものが多かったのだが――そんなことがあのときのスバルに伝わるはずもなく、またその後のエミリアとのやり取りを経て確かめる余裕があったはずもない。

 

騎士たちはスバルの中で変わらず悪しざまに罵られるべき恥知らず共であり、屈辱を噛み殺して頼み込んだところで、真摯に話を聞いてくれるとは思えない相手であった。

故にスバルは、自らのこれまでの行いで自らの選択肢を狭めていることに気付かないふりをしたまま、ひたすらに目を血走らせて次善策を練るしかない。

 

王国の騎士団が頼れないならば、スバルが王都で知る既知はもはや二人。そして片方には騎士団と同じ理由で、頭を下げるなど絶対に不可能。

そうなってしまうと、もはや候補はひとりしかおらず。

 

「スバルくん、これからどうしますか?レムは……」

 

「大丈夫だ。俺に任せておけ。レムはなにもしなくていい。しなくて、いいんだ。ずっと、俺の後ろにいてくれ」

 

考え込むスバルを見かねたレムがなにか言いかける。

それを遮り、弱々しい笑みを彼女に向けながらスバルは考え続けていた。

 

レムを、矢面に立たせることは危険だ。

彼女はスバルを守るためにならばその身を投げ出し、命まで捨て石に使うことを躊躇わないことがわかっている。

それが彼女を救い、依存心を抱かせてしまったスバルの行いの結果なのだから、それは甘んじて受け入れなければならない。受け入れた上で、彼女が失われるような結果が訪れることだけは回避しなくてはならない。

 

そのためにも、スバルはレムが前に出ようとするのを頑なに拒む。

スバルが、自分がやらなければならないのだ。そうでなければレムは守れず、エミリアや村の人々を救い出すことも意味がなく、ペテルギウスへの憎悪を晴らすことも――。

 

「あれ、なんか……」

 

一瞬、ひどく物騒なことが思い浮かんだ気がしてスバルはこめかみに触れた。

今のではまるで、エミリアたちが救われることよりも、ペテルギウスの殺害を優先するかのようだ。おまけに、エミリアたちの命が守られることが、自分の手で行われなければならないなんてどうかしてる。

一時の気の迷いだ。それを自覚できる以上、クルシュの発言は的外れだ。

 

「大丈夫。大丈夫だ。俺は、ちゃんと、正しいことを、してる」

 

自分に言い聞かせるように、噛み含めるように、見えたことを見なかったことにするように、深淵に蓋をするように、スバルは自分を肯定する。

肯定していなければ、正気を保てないのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

翌朝、宿で一夜を明かした二人は王都の端にあるプリシラの屋敷を訪れていた。

 

貴族街の外れに建てられたそれはバーリエル邸であり、もとはプリシラの亡夫であるライプ・バーリエルという老人が暮らしていた屋敷でもある。

王宮でそれなりの立場にあったらしい人物で、名前ぐらいはレムでも知っているほどの故人だったとのことだが――、

 

「少なくとも、これがその死んだ爺さんの趣味ってことはないだろうな」

 

遠目からでもはっきりと、朝日を乱反射している屋敷の絢爛さは目に焼きつく。

屋根が塗り替えられたのは極々最近のことなのか、金色に塗りたくられたそれらは金箔でもまき散らしたかのように豪奢で、瑞々しく光り輝いている。仮にこの輝きを維持しようとすれば、頻繁に塗り直しを行う必要性があるだろう。

 

門扉の彼方に見える屋敷の壁には屋根に劣らず派手な装飾がいくつも施され、こちらを向いた窓の数々はもれなく意匠の彫り込められた芸術品だ。

成金趣味など実際に見た経験があるわけではないが、これがそういった類の金の使い方であるのだろうと、視覚から押しつけがましく迫ってくるものがあった。

 

「ま、ま、ま、実際これは姫さんの趣味だけどな。けっこう突貫工事でやったんだぜ?領地から王都に出てきて、到着したのがほんの一ヶ月前だしな。夜通し働かされた連中にゃ同情するが、金貨袋で頬を叩かれちゃ文句も言えねぇ」

 

「いや、金貨袋でほっぺたいったら殴るのと変わんねぇだろ。札束と同じ雰囲気で流そうとすんじゃねぇよ」

 

巷に溢れるミステリーでは靴下に砂を詰めて鈍器にするものまである。金貨の詰まった袋で殴り殺されるなど、死因:成金もいいところだ。

 

「そんなもんかねぇ」と言いながら首を傾げ、兜の隙間からうなじあたりを掻いているのはアルだ。プリシラの雇った傭兵であり、どうやらスバルと同じで地球から異世界召喚されてきた同胞であるらしい。

頻発する現代語と、奇抜なファッションセンスから言って整合性は高いが、彼の召喚が二十年近く前と聞いているため、ジェネレーションギャップは否めない。

 

ともあれ、そんなスバルの内心は余所に、門前で二人を出迎えたアルは無警戒もいいところな態度で欠伸を漏らし、

 

「で、こんな朝っぱらからなんの用だよ。見ての通り、オレってば低血圧だから朝とかマジ激弱だぜ?キングオブコイといい勝負だよ」

 

「レベル上がったらクラッシャービーム撃つ超ヤバい奴の話とかいいよ。アポなしで押しかけてきたのは悪かったけど、そっちのお姫様に話があって」

 

「姫さんに?」

 

弱々、と骨がないみたいな動きでゆらゆらしていたアルが背を伸ばし、スバルとレムの二人をジッと眺める。

黒い兜の向こう側、こちらからうかがえない視線の鋭さは不明だが、品定めされるような見方には不快感を覚えずにはいられない。ずいぶんと長いこと、それも気付けばレムの方ばかり見ていたらしきアルは兜の継ぎ目を鳴らし、

 

「あー、メイドさん成分補給したし、いっか。取り次いでやんよ」

 

「メイドさんぐらいこの屋敷にもいんだろ。そして軽いな反応」

 

「おいおい、お前は姫さんのことがわかってねぇよ。自分が最高に可愛いとか思ってる姫さんはメイドとか雇わねぇ。屋敷にいんのはショタ執事ばっかだ」

 

「聞くだに最悪だな……評価うなぎ下がりなんだが、とりあえず取り次いでくれ」

 

へーい、と気合いの入らないくぐもった声で応じ、アルが屋敷の中へ消える。

傍らのレムは一歩引いて無言を守り、表情は無表情を保ったままだ。しかし、ちょこんとスバルの裾を摘まんだ姿からは隠し切れない不安がはみ出しており、それを慰めてやりたくても同じだけの不安がスバルを支配していてどうにもならない。

 

他に頼るべき相手が思い浮かばなかったとはいえ、それでも本人が登場する前の従者とのやり取りだけでこれだけ不安を煽ることはそうはできない。

手段を選んでいる余裕のないスバルにとって、ここが最後の砦だというのに。

 

「でも、この時間にきたのは失敗だったかもな。プリシラの場合、妾の貴重な睡眠時間を邪魔して――とか普通に言い出しそ「おーい、会うってよー」

 

不安感に煽られるままに漏れていた言葉が、屋敷の玄関から半身を乗り出して手を振るアルの大声に遮られた。

一瞬、呆気に取られたあとでスバルはおずおずと門扉を押し開き、手招きしてくれているアルの方へ歩み寄ると、

 

「ず、ずいぶんとあっさりアポ取れたな?」

 

「意外だろうが、姫さん実は朝強ぇんだよ。そん代わりに夜はメチャクチャ早いけどな。ともあれ、こっちだこっち」

 

たじろぐスバルに兜の向こうからおそらく笑いかけ、アルが気軽な態度で中に誘導する。それに従って屋敷の中に踏み込むと、なるほど外観と同じで内装もかなりの修正が加えられているらしい。

芸術品がこれでもかと並べられた廊下はむしろ歩行の邪魔で、照明や額縁に至るまで貴金属で飾りつけられている有様にはいっそ狂気すら感じる。

 

「最初は目がチカチカすっかもしんねぇけど、あとは慣れだよ。今は朝だからマシだけど、夜の廊下とかマジで恐ぇぞ」

 

「子どもじゃねぇんだから夜の廊下が恐いとか言うなよ、いい大人が」

 

「石像の目とか夜光るんだぜ?」

 

「それはお前の主人の頭がおかしい」

 

見上げてみると、廊下を挟み込むように立つ石像の目にはなるほど宝石のようなものが埋め込まれている。暗くなると、それが光るのだろう。狂気だ。

静かにそれら芸術の冒涜を見過ごすスバルに、アルはなにか違和感でも覚えたかのように首を傾げたが、特にそれには言及しない。

スバルは後ろから続くレムが心細くないように配慮しようとしていたが、裾を摘まんでついてくるレムはさっきからしきりに鼻を鳴らしており、なにか不審なものでも見るかのように先導する背中に視線を送り続けていた。

そして、

 

「姫さんがいるのはこの屋敷の最上階。丸ごと、一室にしてる贅沢仕様だ」

 

「どっかのホテルのスイートみてぇだな。上がっていいのか?」

 

階段に差しかかり、親指で上を示すアルにそう尋ねると、彼は頷いて「兄弟は、な」と意味ありげに答えた。

その答えに訝しげな目をスバルがすると、

 

「いやいやいや、意地悪で言ってるわけじゃねぇよ。姫さんが、会うのは兄弟だけって言ってんのさ。お嬢ちゃんはお客様用のお部屋へご案内だ」

 

「さっきメイド成分補給とか言ってた奴に預けられると思うか……?」

 

「そこはオレも部屋の前で待機するように言われてっから安心しとけー。悔しいけど惜しいけど、お嬢ちゃんの案内はショタ執事だよ」

 

スバルの懸念に先回りして、優雅に道を譲るアルの向こうから金髪巻き毛に青い瞳の少年が現れる。美少年、という形容詞しか当てはまらないような少年は、その身を小さなサイズの執事服に包んでおり、どこか背伸びしているような微笑ましさすら見るものに与える。

 

「じゃ、お客様に粗相のないようにな」

 

アルが気楽に肩を叩いて指示すると、ショタ執事は「こちらへ」と流麗な仕草でレムをエスコートしようとする。レムは刹那だけ戸惑うようにスバルを見たが、

 

「ごめん、話が終わるまで待っててくれ。危険人物はそこの男含めてまとめて上に持ってっておくから、安心してくつろいでくれてていい」

 

「危険人物ってのはひでぇなぁ、兄弟。不審者とはよく言われるけど」

 

「それ、どっちかっていうと不審者の方がランク低いからな」

 

しらっと応じるアルに冷たい目を向けて、それからスバルは改めてレムに向き直り、彼女を安心させるようにその頭を撫でる。

撫でられるレムは髪を混ぜられる感触にこそばゆげに目を細め、小さな声で「わかりました」と渋々受け入れると、

 

「そちらの人に、特に注意してください」

 

と、わずかに身を寄せると囁くようにスバルにそう告げた。

彼女の目が一瞬だけ意識を向けたのはアルの方であり、今しがた危険を促した相手もまた彼のことなのだろう。見た目の怪しさは確かに異世界滞在中に遭遇した中でも群を抜いているが、それなりに信用している相手だけに眉唾な忠告だ。が、

 

「ん、わかった」

 

信頼度の高さでいえば当然だがレムの方が高い。

クルシュでの邸宅のやり取りを思えば、相手が同郷というだけで全面的な信用を預けることはできまい。ここも敵地であると意識して臨むべきだ。

 

頷くスバルを見届けると、ショタ執事に連れられてレムが通路の向こうへ消える。最後まで、スバルの方に未練を残しながらの退室に、

 

「ひゅーぅ、やーるね、兄弟。愛されてんじゃん」

 

「どうせやるならちゃんと口笛吹け。俺と一緒で吹けねぇのか」

 

口笛のエフェクトを口でやるほど寒いこともそうない。

昔からいくら練習しても口笛が吹けなかったスバルには親近感が湧く挙動だが、アルは「あー、唇が無事じゃねぇからよ」とわりとヘビーな返答でそれを引っ込めさせた。

ともあれ、

 

「嬢ちゃんを待ちぼうけさせんのもあれだし、姫さん待たせ過ぎて逆鱗に触れるのはもっとあれだ。とっとと上とか行っとくべ」

 

「話が早いのは助かるよ。……ちなみにプリシラの機嫌はどんなもんだ?」

 

重要な交渉を持ち込もうという段で、相手の機嫌が悪い状況は避けたい。これが他の人物の相手ならばさほど影響のない部分だと思うが、プリシラが相手の場合はその機嫌という見えないステータスが殊の外大きく作用しそうだ。

そんな懸念を抱くスバルにアルは「んぁー」と気だるげに首を傾げ、

 

「良くも悪くもねぇと思うけど、それこそあんま当てになんねぇぜ?姫さんの機嫌なんて会話の前後、間、上下左右でコロコロ変わるし。好きなトーク内容も決まってねぇから、アドリブ力でうまく乗り切ってくれや」

 

「出たとこ勝負か……俺の一番苦手なとこだな」

 

一の従者からの心強い助言を受け、スバルは不安に顔を曇らせたまま上階へ。

階段を上がり、踊り場を経て上り切った先に部屋の扉があり、

 

「この中が、姫さんの広すぎるプライベートルームだ。オレは中に呼ばれてねぇんで、ここで待ってっから行ってきな」

 

気楽な調子で言って、アルは扉の前の階段の段差に腰を下ろしてしまう。その際に、腰の裏に備えつけていた青竜刀を外して膝の上に乗せ、

 

「あんまし、ご機嫌損ねねぇでくれな?当たり散らされるのご免だし、機嫌悪いと無茶振りばんばかされっからさー」

 

「……悪いが、俺もけっこうな無茶振りしにきたんでな」

 

アルの陳情にそっけなく応じ、スバルは息を呑んでから扉を押し開く。

そして――、

 

※※※※※※※※※※※※※

 

そして、時間は冒頭のプリシラとの対峙に戻ってくる。

 

アルに見送られて入室したスバルは、しばらく進んだ先の広間で待ち構える彼女に遭遇した。が、彼女は一段高い場所に置いた椅子に腰掛け、優雅に本を読んだままスバルを一瞥もしない。

追い出されない以上は来客であると認められているはずだが、彼女の方からアクションがないのではイマイチ行動方針に迷いが生じる。

 

だが、そうこうしてまごついている間にも時間の経過は刻々と進む。

躊躇いが生むのは停滞だけであると決断し、スバルが意を決して話題に切り込もうと息を吸い、

 

「――さて」

 

最初の一言を先制しようとした途端、本を閉じる渇いた音が室内に響いた。

目の前、掌の中で本を閉じたプリシラは両目をつむり、本を閉じた際に生じた痺れを掌で味わいながら、読後感を楽しむようにしばし沈黙。そして、

 

「つまらん話じゃった」

 

「そのわりに、没頭して読んでた気がするが……」

 

「読んでいる間は本の世界に埋没するのが正しい読み方じゃろう。そして物語を読み切った上で感想を吐き出す。読まずにつまらないなどと言えるものか」

 

スバルの弱々しい突っ込みに、思いのほかプリシラがまともな読書家として応じる。

本好き、と称したことに偽りはないらしい。読まずに批判することはないと断言した彼女は、読み終えた本を乱暴に宙に放り投げると、

 

「――あ」

 

呆気に取られるスバルの眼前、放られた本が浮遊の頂点に達した瞬間、ふいの高温に炙られて一気に燃え上がる。

すさまじい火力で装丁から中身まで焼き尽くされた本は一瞬で焼失し、瞬きのあとには黒い灰だけがパラパラと舞い落ちるのみ。

 

「さて、妾の貴重な朝の読書時間を奪うんじゃ。――せめて、今の本よりは妾の興味を惹いてくれる話を持ってきたんじゃろうな?」

 

淫靡に悪辣に笑い、細い足を組み替えるプリシラが白い指をこちらへ向ける。

その指先から熱が額に突きつけられているような気がして、スバルはドッと背中に脂汗が浮かぶのを感じながら、

 

「――候補者のエミリア、彼女を取り巻いてる今の状況と、その状況を打破するために力を貸してほしい」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「魔女教、か……」

 

肘掛けに置いた腕で頭を支え、もう片方の手の指で膝を叩くプリシラ。

クルシュにしたものとほぼ同じ内容を語り終えたところで、感慨深げにそう呟いて彼女は瞑目している。

なにか、魔女教に対して思うところがあるらしき態度にスバルは目をつけ、

 

「放置しておけば奴らは領民に危害を加える。そうなる前に奴らを討っちまいたいんだ。そのために力を……」

 

「くく、ふ」

 

「――?」

 

たたみかけるような投げかけで同意をもぎ取ろうとするスバルの前で、俯いて顔を隠したプリシラの肩が震える。なんだ、と眉を寄せるスバルの前で、彼女は弾けるような勢いで顔を上げると、

 

「はははは!面白い!面白いな、貴様。なるほど、さっきの本などよりよほど妾の心を震わせた。道化もここまでくれば一種の妙技じゃな」

 

笑い、笑い、スバルを嗤う。

それが決して好意的な類の笑顔ではなく、凶暴な肉食獣が浮かべる類の、猫がネズミを爪でいたぶり殺すときに見せる類の笑顔であると本能が察し、

 

「なにが面白いんだよ」

 

「それがわからぬ滑稽さがじゃ。おいおい、貴様。自分が今、どれだけ支離滅裂な行いに出ているのかわかっておらんのか?」

 

己の橙色の髪に指を差し込み、肩口までのそれを人差し指で巻きながらプリシラは実に楽しげに問いかける。

その、こちらのことを見透かしたような言い方には聞き覚えがある。クルシュの屋敷でも何度となく、理解力が低いとでも言いたげにスバルに向けられたものだ。

知らず、視線が厳しいものになるスバルにプリシラは鼻を鳴らし、

 

「頼る相手がおらんのかなんだか知らぬが、貴様がやっているのは自分の陣営の弱味を他の陣営に教えて回っておるだけの行いじゃ。これこれこういうわけで力が足りないんですぅ……ずいぶんとめでたいおつむをしておるんじゃな」

 

指でこめかみのあたりを叩き、スバルの行いを嘲笑するプリシラ。

そのこちらを見下し切った態度に、スバルの方は思わず思考が真っ白になる。ここまであからさまに罵倒されるとまでは予想していなかった。

そして、感情の整理ができずに押し黙るままのスバルをプリシラは見下ろし、

 

「なりふり構わず、はけっこうじゃが、考えが足りん。足りなすぎる。助けようとして窮地に追いやる。貴様の行いは無能な働き者そのものじゃな。始末に負えん、死んだ方がマシじゃ」

 

言いたい放題に言ったプリシラが椅子から立ち上がり、腰を折って身を傾けながら、目を見開くスバルの瞳を真っ向から見据え、「いっそ」と前置きし、

 

「妾がそっ首を叩き落としてやってもよい」

 

次の瞬間、プリシラの胸から抜かれた扇が、スバルの首筋に軽く当てられていた。

 

踏み込みの瞬間が見えず、いつ腕を振るったのかすらわからない超速。

右の頸動脈に、プリシラの体温で温められていた扇の端が触れる感触。それは決して鋭い刃物ではないのに、動かされた瞬間に首が落ちる錯覚をスバルに与えた。

 

思わず息を呑むスバルに、プリシラは「目でも追えんか」と退屈そうに呟き、

 

「愚かな上に愚鈍とくればいよいよ救いようがない。……が、こうまで手酷い扱いを受けながら、それでも主を思って行動する貴様の忠義だけは見上げたものじゃ」

 

語りながら、プリシラはスバルの首から扇をどけると、それを開いて自分の口元を覆い隠し、目を細めながら「そこで」と言葉を継ぎ、

 

「貴様の行いを笑うだけで追い返すのはさすがの妾もしのばれる。じゃから、機会を与える」

 

「……き、機会?」

 

「そう、機会じゃ。ちゃんす、というやつじゃな」

 

アルから聞いたのか、現代語をあやふやな発音で操りながら、プリシラはこちらへ畳んだ扇を伸ばしてくる。真っ直ぐ、静かに向かってくるそれをなぜかスバルはかわすことができず、額を押されるとそのまま上体が揺らいで尻餅をついてしまう。

そうして、視線の高さが逆転した二人。引っ繰り返された形のスバルは驚きと抗議を込めてプリシラを見上げようとして、

 

「――――」

 

「舐めろ」

 

目の前に差し出された、靴を脱いだプリシラの素足を間近に見た。

 

言葉の意味がわからず、彼女の顔と目の前の足との間をスバルの視線はさまよう。そんな迷子のようなスバルの様子に鼻を鳴らし、プリシラは出来の悪い子どもに言い聞かせるように、奴隷をいたぶるように悪辣に、

 

「床に這いつくばり、羞恥と屈辱を噛みしめて、無様で滑稽な野良犬のように、妾の足を舐めろ。――それができれば、貴様の提案を考えてやる」

 

「な――!?」

 

「嫌ならいいんじゃぞ?自分のちっぽけな矜持を優先し、尻尾を振った主人を見捨てるというのならそれもよい。妾にとってはそれも愉悦よ」

 

どちらに転んでも自分は楽しめる、とプリシラは口元を隠してせせら笑う。

そのプリシラの悪意しかない態度に、スバルの臓腑が怒りで煮えたぎった。が、声を荒げて感情のままに振舞うのは寸前で堪える。

ここで感情に任せて突っ走ってしまえば、交渉の場は破綻する。

なにより、相手から譲歩する姿勢を引き出したことには違いないのだ。

 

目の前に出されたままの足と、こちらを嘲笑するプリシラの顔を見る。

目をつむれば、銀色の髪の少女と、桃色の髪のメイド。そして村の子どもたちや大人たちの顔が次々と浮かび、煮えたぎるマグマが少しずつ鎮火していく。

そして、

 

「わ、わか……った」

 

屈辱を堪えて、スバルはプリシラの足を手に取った。

エミリアや、村人たちが受ける苦痛に満ちた死を思えば、この場でスバルが味わう屈辱などどれほどのことだろうか。あの未来を回避し、辿り着くべき世界を見られるのであれば、犬にでもなんでもなっても構わない。

 

震える唇が白い足の甲に迫り、その吸いつくような肌に触れる――寸前、

 

「ああ、本当に貴様――つまらん男になり下がったんじゃな」

 

鼻面が正面から蹴り潰されて、スバルは軽々と宙に吹っ飛ばされていた。

 

回転し、視界がぐるぐると回る中でスバルはなにが起きているかわからない。すさまじい衝撃に頭部が揺すられて意識がまとまらず、訪れた浮遊感は直後にやってきた全身に固いものが叩きつけられる感触に途絶させられた。

地面に大の字になっているのだと、しばしの沈黙のあとでようやく気付く。どろりと、粘着質の液体が鼻孔から大量に滴っていた。

 

「貴様のそれは忠義でも忠誠心でもない。もっと薄汚い、犬のような依存と豚のような欲望じゃ。欲しがるだけの怠惰な豚め。豚の欲望がもっとも醜い」

 

絶え間ない耳鳴りと嘔吐感が頭蓋の中を縦横無尽に跳ね回る。

どこからかプリシラの声が聞こえるが、内容が頭の中に入ってこない。

ただ、

 

「仮に魔女教を退けたとしても、貴様のような下種を擁する陣営など、疲弊したところを妾が打ち滅ぼしてやる。貴様の軽率な行いが妾にそう決定させた」

 

寝転がる胸倉を小さな手が掴み、乱暴に引っ張り上げる。

上体を起こされたスバルの鼻からさらに血が流れ出し、息苦しさに咳き込むスバルへさらに容赦ない言葉が浴びせられる。

 

「――誇るがいい。貴様があの女を、エミリアを破滅に誘うのじゃと」

 

思い切りに突き飛ばされて、スバルの体は床を滑って入口の扉前まで到達。転がったあとには点々と血の跡が残るが、プリシラはその痕跡よりもスバル自身を見ている方が不愉快だとでも言いたげな顔つきで、

 

「――アルデバラン!」

 

鋭い声でプリシラが叫ぶと、外と繋がるゆいいつの扉が向こうから開かれる。

呼び声に誘われて顔を出したのは漆黒の兜の人物だ。

彼は室内を見回し、扉の前で血まみれで転がるスバルを見るや頭に隻腕をやり、

 

「おいおい、こりゃどうしたってんで……」

 

「その不愉快なボロクズを放り出せ。なんなら、斬り捨ててもかまわん」

 

「そら構うだろ、色々と……ほら、行くぜ、兄弟」

 

憤慨する主に抗弁することなく、アルは倒れるスバルの体を掴むと、片手で軽々と持ち上げて肩に担ぎ、

 

「そう怒んなよ、姫さん。可愛い顔が凶暴さで価値落とすぜ?」

 

「貴様の崩壊顔をより破壊してほしくないなら、とっとと連れてゆけ。二度は言わんぞ、アルデバラン」

 

「その名前で呼ぶなっつの」

 

投げやりに言い置いて、アルはスバルを担いだまま部屋を出る。

扉を静かに閉めると、足早にアルは階段を駆け下り始め、

 

「とりあえず、早めに逃げといた方がいいぜ。姫さんのことだ。すぐに気が変わって首を落とせとか言い出しかねねぇ。斬らなくてもいい内に逃げとけ」

 

「あ、ああ……?」

 

「ダメだ、こりゃ。連れの嬢ちゃん呼んでくっから、あとはどうにかしてくれ」

 

いまだに意識が朦朧としているスバルの様子に、腕の欠けた肩をすくめてアルは嘆息し、さらに速度を上げて階段を飛ぶように降りていった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――スバルくん!」

 

門扉に寄りかかるように座らされたスバルの惨状に、レムがその顔色をさっと変えて駆け寄ってくる。

彼女はだらりと脱力して動かないスバルに触れて、その負傷の度合いを確かめながら、「水のマナよ」と治癒魔法を詠唱し始め、

 

「なにがあったんですか?」

 

淡い光でスバルの顔に触れながら、傍らに立つ隻腕の不審者に問いかける。

その問いを受けてアルは罰が悪そうに爪先で地面を叩きながら、

 

「あー、アレだ。どうも、うちの姫さんのご機嫌を損ねちまったらしい。そうならないように注意しろっつったんだが……まぁ、人間に猫の機嫌を完璧に予想しろっつっても無理があるしな」

 

罰が悪そうではあるものの、アルの物言いには罪悪感が欠片もない。

やられたスバルに対する同情はあっても、主の暴挙に対する謝罪の念はないのだ。それを見取ったレムは唖然とし、それから抗議の声を上げようとしたが、

 

「――レム、いい」

 

「スバルくん。意識、大丈夫ですか?」

 

脳震盪が癒されるに従い、意識がまとまり始めたスバルがレムに声をかけた。そのことに顔を明るくするレムは、さらに集中するように両目をつむり、

 

「スバルくんは本当に目の離せない人です。ほんの小一時間離れていただけなのに、こんなケガをして戻ってくるんですから」

 

「俺も、したくてしてるわけじゃ……」

 

血の巡りが正常になり始めると、再び鼻孔から血が流れ出す。とっさにかざした手で滴る血を受け止めると、レムが懐から出した手拭いをそっと顔に当て、

 

「押さえていてください。傷口が治ったら、出血は流れ切ったら止まりますから」

 

「――あぃ」

 

レムの言いつけ通りに鼻を押さえて、スバルはじんわりと熱が沁み入っていく感覚を味わいながら癒しを受け入れる。

と、その様子を見下ろしていたアルが「大丈夫そだな」と言い、

 

「いてもしょうがねぇし、オレも戻るわ。なんの話してたんだか知らねぇけど、あの様子じゃうまくいかなかったみてぇだし。あんまし戻るのが遅ぇと、姫さんが本気で兄弟をぶった切れとか言い出しかねねぇ」

 

「スバルくんを斬る……!?」

 

「おっかねぇ顔すんなよ、嬢ちゃん!言い出しかねねぇって話!だから言われる前にどっか行っとけ。オレもやりたかねぇよ、んなこと」

 

過剰反応のレムに大仰に片手を振って否定し、それからアルはだらりと肩の力を抜いて、だらしのない姿勢で一歩下がり、

 

「んじゃ、養生しろよ、兄弟。そっちの嬢ちゃんも……あー、確かラムっつったか。よろしく頼むわ」

 

「――ラムは姉様の名前です。レムの名前はレムですわ、アル様」

 

軽い口調で別れを告げて、背を向けかけたアルにレムがそう名乗る。

途端、アルの足が止まった。

 

足を止めた彼はかすかに上を向き、それからゆっくりとこちらを振り返って、

 

「バカ言うんじゃねぇよ。ラムだろ?」

 

「レムです。……失礼ですが、アル様はどこかで姉様と?」

 

瓜二つの姉と間違われたことにレムはそんな質問を投げたのだが、それを受けた側のアルからの答えはない。

彼は持ち上げた隻腕で己の頭部を覆う兜に触れて、「どういうことだ……」と呟き、

 

「嬢ちゃんはレムで……姉ちゃんがラム」

 

「はい、そうです」

 

「こんなこと聞くとあれだが……嬢ちゃんの姉ってのは、生きてんのか?」

 

「……?質問の意図がわかりませんが、姉様は当然存命です」

 

レムがそう応じた瞬間、黙ってその会話を聞いていたスバルの肌が粟立った。

肌に生じたその謎の反応に、スバルは驚きを禁じ得ず肩を震わせる。

そして、

 

「――冗談じゃ、ねぇ」

 

低く、冷たく、その言葉は重々しい響きを伴って鼓膜を叩いた。

 

兜越しに額に触れながら、俯くアルの喉から絞り出すように呟かれた言葉だ。

同時に、スバルの肌を襲った悪寒の正体がアルから発される、得体の知れない鬼気によるものであるとスバルは気付く。

この場にいてはならない、と本能が警鐘を鳴らすその気配。それはどうやらレムにも同じように感じられていたらしく、

 

「スバルくん、肩を貸せば立てますか?」

 

治療を中断し、腰を屈めたままのレムが警戒も露わにそう聞いてくる。

その言葉に顎を引いて頷き、スバルはレムの動きを待つ。彼女が逃げ出すのに合わせて、ここから連れ出してもらわなくてはならない。

が、そんな二人の警戒は、

 

「安心しろよ、なにもしねぇから」

 

頭を振り、発されていた鬼気を押さえ込んだアルによって杞憂となった。

途端にそれまでの悪寒が消失し、スバルは自分が息をするのも忘れていた事実を理解する。レムもまた、安堵にその無表情をわずかに和らげたほどだ。

そして、そんな二人の反応の原因であるところのアルは、

 

「緊張解いたところで悪いが、とっとと行ってくれ。今のでわかったと思うが、オレもどうやらあんまし機嫌がよくねぇ感じだ」

 

「――わかりました。お時間をいただき、ありがとうございましたとお伝えください」

 

「あい、了解。気ぃつけて」

 

どこか寒々しい社交辞令を交わし、レムはスバルに肩を貸して歩き出す。

小柄な彼女に体重を預けながら、スバルはバーリエル邸から遠ざかる。坂を下り、屋敷の門扉と距離が開き、ふとスバルは背後に一瞬だけ視線を向けた。

 

――アルはまだジッと二人を、スバルの背を睨み続けていた。

 

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「ふざけるなよ。アレが、そうだってのか……反吐が出るぜ」

 

くぐもったその呟きは、漆黒の兜の中にしか響かない。