『高め合う想い』


 

その場に膝をついて崩れ落ちることだけは堪えて、スバルは荒い息を吐いた。

周囲、エミリアやベアトリス。それにリリアナまでもがこちらを憂うような視線を送ってきている。プリシラは興味がない顔で、そよそよと自分の顔を煽いでいた。

 

彼女らの気遣いの声と視線を浴びるうちに、段々と意識が現実感を取り戻す。

そうして緩やかに思考が加速していくのを感じながら、スバルは自分が今しがた、何を味わったのかと少しずつ噛み砕いて理解していた。

 

唐突に、まるでテレビのチャンネルを変えたように移り変わる景色。

寸前まで感じていた臭い、味、光景、そういったものが粉々に砕け散って、まったく別のものへと挿げ変わる現実の喪失感――否、現実の唐突感だ。

 

目も耳も鼻も肌も、全てが新しい世界に適応してくれているのに、スバルの意識だけが前のチャンネルを引きずってしまっている違和感。

それを噛み殺し、噛み砕き、咀嚼して呑み込んで初めて、切り替えが終わる。

 

「――――っ」

 

歯を食いしばり、スバルは立ち上がった。

頭を振り、周りを見回す。そこは麗らかな日差しの降り注ぐ公園で、噴水と緑色の芝に、色とりどりの花壇が展開する憩いの場だ。

そしてスバルを囲う四人の美少女――エミリア、ベアトリス、リリアナ、プリシラの四人がいる。その上、先のリリアナの言葉には『二度』聞き覚えがあった。

 

「大丈夫、スバル?今、すごい顔色してたわよ」

 

「……エミリアたん。今、ひょっとしてリリアナの歌がまた歌います的なこと言ったりしてたりしてなかったりした?」

 

「そこからなんですか!?このリリアナ、そこまで話を遡って無視されていたことに動揺と衝撃と傷付いた心を隠しきれません!賠償!賠償してっ」

 

袖を掴んで訴訟問題を起こそうとするリリアナを振り払い、「あれー」と吹っ飛ぶ歌姫を無視してスバルはエミリアに視線で問う。エミリアも、スバルの態度からそれがふざけた質問でないと悟ったらしく、

 

「そうよ。今からまた、私たちが聞きそびれた歌をリリアナが歌ってくれるって。それなのに、スバルがリリアナとこしょこしょ内緒話を始めて……」

 

「この瞬間、ってことか。わかった、ありがとう。……ありがとう」

 

ありがとう、と口にした途端に、言いようのない嫌悪感が込み上げる。

思わず口に手を当てたスバルに、エミリアが戸惑ったように眉を寄せた。

 

エミリアが悪いわけではない。ましてや、感謝の言葉を苦く思う必要も。ただ、それが直前までの世界の、あの例えようのない悪意を思わせるだけだ。

 

「そう、か。俺……」

 

死んだのか、とは口にしなかったが、そこまで考えてようやく実感が湧いた。

 

――ナツキ・スバルは死んだ。

 

死して再び、この世界を失った時間からやり直して舞い戻ってきた。

そうして戻ってこれたことに安堵する一方で、悔しさが熱となって押し寄せる。

 

あれほど、あれほどまでに、スバルは覚悟していたはずなのに。

一年前のあの森で、『聖域』で、『試練』の中で、ナツキ・スバルはあれほどまでに『死』を拒絶し、生まれ出でる悲しみに抗うのだと決意していたのに。

 

死んだ。あれほどに呆気なく。抵抗するどころか、違和感すら覚えずに。

あれは何だったのか。異常であったことは事実なのに、何が起きていたのかスバルにもわからない。体感したのに、体験したのに、わからない異常事態。

 

あの明らかに異常な空間を、スバルはおかしいと感じていなかった。スバルだけではない。あの場にいた他の全員も、スバルと同様の狂気に身を委ねていた。

鎖で拘束されて、泣き喚く少年の姿を見ながら、それを笑顔で応援するなど頭がどうかしている。ましてや少年が投げ落とされ、墜落死するのを拍手で迎えるなど狂気の沙汰ということすら生ぬるい。

 

一体、何がどうなればあんな事態が引き起こせるというのか。

そしてスバルは、あれを見届けながらいつの間に死んでいたというのか。

 

『死』の気配は直前まで何もなかったはずだ。いや、もはやなかったとは言い切れない。あったにも拘らず、それを危険と認識していなかった可能性がある。

自分の感覚が何も信用できない。『死』に至るまでの異常事態と、何が起きたのかは事実自体は明白であるのに、そこに至るまでの解法が一つも明快でない。

 

どうやって死んだのか。

あの墜落死した少年の体に、爆薬のようなものでも取り付けられていたのか。それが地面に墜落した瞬間に炸裂し、周囲を吹き飛ばした。あの一瞬、即死の記憶はそれに近いものがあるような気がする。

鮮明でない。『死』の瞬間の記憶は、そのときのスバルの精神状態に大きく影響を受ける。冷静に整理しようとしても、冷静でなかったときの記憶があやふやに引き継がれること自体はどうにもならない。

 

スバルが仮に狂っていたのだとしたら、死亡時の狂っていた記憶をそっくりそのまま解明することは事実上不可能なのだ。

 

「ホントに大丈夫なの、スバル?リリアナも、なんだかすごーく拗ねた顔してるけど」

 

「拗ねてなんていませんよぅ。べっつにー、ナツキ様にどんな風に思われたって私はちっとも気にしたりしませんしぃ。べ、別に悲しんでたりなんてしないんだから、誤解したりしないでくださいよねっ」

 

「ほら、あんな風にすごーく気にしてほしそうにしてる」

 

天然のエミリアにすら見抜かれるリリアナの強がりだが、スバルはそのやり取りで自分に求められている立場を思い出した。

この時点でリリアナとスバルは、リリアナが歌で時間稼ぎをしている間に、和解のための甘味を補給しに走っていたのだ。そしてその買い物を終えた直後に、あの『憤怒』の化け物と遭遇した。

 

――あの悪夢の演説が始まるまで、十五分も残っていない。

 

「嘘だろ……」

 

かつてこれほど、『死に戻り』と死亡時間が近かったことは記憶にない。

数時間から数日、スバルに与えられる時間があったのがこれまでの『死に戻り』だ。しかし、今回はあまりにも、極端に短すぎる。

たったの十五分で、スバルに何ができる。

 

悩む間にも時間は過ぎる。

今回の場合、単純に死亡を避けるだけならば簡単な話だ。スバルがあの演説の届く場所にさえ行かなければいい。あの異常、あの死亡が爆弾なりなんなりによるものであるのなら、あの場に行きさえしなければ巻き込まれない。

まさか、都市一つ丸ごと吹き飛ばすような爆弾を用いたわけではないはずだ。

だから自分が助かることを優先するなら、あそこに行かなければいいだけの話。シリウスは、スバルに標的を定めてあそこに現れたわけではないはずだ。

 

純粋に無差別な悪意、そこにたまたまスバルがいたに過ぎない。

故にスバルがいなかったとしても、シリウスの犯行現場は変わらない。ただしそれは、スバルの有無と関係なしにあの演説は始まり、終わるということだ。

その結果がどうなろうと、少なくとも投げ落とされた少年は確実に死ぬ。

 

「止めなきゃ……クソ、止めなきゃ……!」

 

頭を掻き毟り、スバルは決断する。

見捨てられるはずがない。あの少年に、ルスベルには何の罪もないのだ。生まれてくる兄弟を楽しみにしていて、幼馴染の少女の身代わりにあんな立場に置かれた可哀想な少年だ。それを救わずして、自分だけ助かる卑怯ができるものか。

 

「ベアトリス、俺と……!」

 

一緒にきてくれ、と声を上げる寸前で、スバルは躊躇った。

 

「スバルと、何かしら?」

 

スバルの声と形相に、ベアトリスが真剣な顔でそう問いかけてくる。

危急の事態が目の前にあるのがわかっている以上、ここでベアトリスを連れていくのはスバルの戦力を充実させるという意味で当然の選択だ。

ここで連れていかない、という選択はスバルの戦力が半減することを意味する。しかし、それでもスバルは躊躇った。

 

何もベアトリスを戦わせたくない、などという感傷的な理由ではない。

無論、スバルの本音の部分でそういった考えがないとは言わないが、この場においてはそれは理由ではなかった。

 

――エミリアだ。エミリアが、ここにいる。

 

「――――」

 

魔女教が、この都市にいるのだ。

奴ら――まだ複数かはわからないが、少なくとも『憤怒』の大罪司教がいる。大罪司教が単独で行動しているものなのか、魔女教の実態が知れない故にわからない。

だが、魔女教が暗躍しているとわかっている都市に、エミリアを放置していくことの不安がスバルの脳裏を掠めて離れない。

 

自分のいない場所に、大切な人間を残していくことの恐怖。

自分の目の届かない場所で、魔女教の魔の手が大切な誰かへ届く恐怖。

 

それはナツキ・スバルの心の根底に、ひどく濁りながら残り続けている恐怖。

 

ならば、エミリアを連れて『憤怒』の下へ向かうか。論外だ。魔女教とエミリアを遭遇させることは悲劇しか生まない。それだけは確実なのだ。

ペテルギウスのときのことを思い出せばわかる。スバルは、エミリアと魔女教を近づけてはならない。それはどうしてかではない。そうなのだ。

 

「ベアトリス、俺と……」

 

「スバルと?」

 

「同じ甘いもので、大丈夫か?」

 

「……?」

 

ベアトリスがスバルの言葉に眉を寄せる。勢い込んでまで言うほどの内容と思えなかったからだろう。思い切りずっこけるリリアナにスバルは頷き、エミリアに目を向けると、

 

「ちょっとひとっ走り、軽く摘まめる甘いものを買ってくるよ。エミリアたんは優雅に穏やかに、リリアナの歌を聞いて待っててね」

 

「えっと、わかったわ。でも、私も一緒に行かなくて大丈夫?」

 

「大丈夫、信じて。君は俺が守るから」

 

大きな瞳をぱちくりさせて、エミリアはスバルの言葉に顔を赤くして頷いた。それからスバルは訝しげにこちらを見るベアトリスを手招きし、そっと耳に唇を寄せ、

 

「エミリアを守ってくれ。お前の力が必要になったらすぐに呼ぶ」

 

「……また、ベティーにも言えないことだと見たのよ」

 

「呼ばれたら否応なしにヤバい場面だと思ってくれていい」

 

不満げなベアトリスの鼻を指で押して、スバルは軽く手を上げるとそこから走り出す。見送る四人の視線を背に感じながら、スバルは振り返らずに全力疾走。

 

道なりに走り、先ほどの広場までは五分もかからない。

ただ、そもそものスタートが前よりも少し遅れている。わずかな時間しか許されていない今回、そのささやかな時間の違いが致命的になる可能性があった。

 

「それでも、今回は買い物してねぇんだから、まだ十分近くあるはず……っ」

 

石畳の上を滑るようにして足を止めて、スバルは到着した広場であたりを見回す。

さっきは上ばかりを注視していて周りを窺う余裕がなかったが、少なくとも見え見えの位置に怪しい黒装束の団体や個人は見当たらない。

大罪司教単独の行動、そう捉えてもいいのだろうか。

 

「問題はこっからどうするかだ。あの演説が始まったら、またわけわかんねぇ状況に追い込まれる可能性が高い」

 

あの異常空間の原理がわかっていない以上、再びあれに取り込まれたときに正気を保っていられるかどうかなどわからない。異常を異常と感知できなくなっていたからこそ、あの洗脳空間は恐ろしいのだとスバルは考える。

 

「みんな、ここから避難させる……?ペテルギウスのときと同じで……いや、手も足りねぇし、下手に騒ぎにしたらシリウスが動き出すかもしれねぇ」

 

巻き込まれないよう、この場にいる群衆を避難させるべきか。が、どうやって。そもそも、シリウスのあの演説に特殊な意味を求めないのであれば、シリウスは場所をここに限定する必要すらないのかもしれない。

ここで演説を聞く人間がいないなら、別の場所で行えばいいだけの話だ。被害者を移動させるのでは、別の被害者が生まれる流れを作るだけ。

 

「なら、元凶を排除するしかねぇじゃねぇか……!」

 

むしろ、シリウスの出現場所がここであるとわかっている今こそがチャンスだ。

これはペテルギウスを討伐したときにも考えたことと一致する。魔女教は放置してはならない。魔女教の被害を未然に防ぐことばかりではなく、その根本の原因を根絶しなければ奴らは繰り返すだけなのだ。

 

この考えに辿り着くまでが遅かった。

すぐに結論を出していれば、スバルは単独でここにくるようなことはしなかった。否、そもそも公園に舞い戻った時点で間違っている。

せめて旅館まで戻してくれれば、ヴィルヘルムやユリウスの力を借りることだって――。

 

「無いものねだりしててもしょうがねぇ。とにかく、今は俺しかいねぇんだ。演説が始まれば、確実に居場所は割れるが……いや、それよりもっと話は早い!」

 

結論を出して、スバルは刻限塔――忌まわしき演説が行われる、白い塔のその根本を睨みつける。そこから内部に入り、窓を抜けてシリウスは演説を行った。

ならばほんの数分後に行われる演説に備えて、奴はすでに中に入っているはずだ。仮にまだ入っていなかったとしても、拘束されたルスベルを救い出すことができるかもしれない。

 

スバルは周囲に監視の目がないか探りながら走り、刻限塔の根元へ辿り着く。ひっそりと路地の側に目立たないよう作られた扉に手をかけ、スバルはその鉄扉を押し開けて中へと体を滑り込ませた。

 

刻限塔の中は薄暗く、冷え切った埃っぽい空気で満たされていた。

音という音を感じないのは、時計塔などと違って内部に歯車などの仕掛けを用意する必要がないからだ。刻限塔の時間を報せる仕組みはあくまで魔刻結晶の輝きだけの話であり、結晶は大気中に満ちるマナの時間によるわずかな変化を、結晶の色に反映している自然のものでしかない。

 

――故に、刻限塔の中から聞こえる音は、何者かが意図的に出す音に他ならない。

 

「……んっくぅ」

 

「泣かない喚かない騒がない。君は本当にいい子ですね。強い子ですね。ムスランパパもイーナママも、まだ見ぬあなたの弟さんか妹ちゃんも、きっと強いお兄ちゃんのことを喜んでいると思います。素敵ですよ」

 

聞こえてくる、おぞましい声が。

聞こえてくる、そのおぞましさに怯える少年の呻き声が。

 

螺旋状に連なる階段の、その上階の方からすすり泣くような声が聞こえてくる。それは怨嗟のようで、祝福のようで、憎悪のようで、愛情のようでもある。

歪なのだ。まともではないのだ。正気ではいられないものなのだ。

 

「――――」

 

いることを確信した時点で、スバルは深々と息を吐いて呼吸を殺した。

高鳴りそうになる心臓の真上、胸に手を当てながら、心音を数えてスバルは階段へと足を伸ばす。幸い、石造りの階段だ。細心の注意を払っていれば、足音を立てることは避けられる。ましてや相手は、手元の子どもに集中しているはずだ。

 

ベアトリスをいつでも呼び出せるようにしながら、スバルはゆっくりと足音を殺しながら階段を上る。上階、聞こえてくる声は少しずつ近づき、緊張が高まる。

刻限塔自体は見上げるほど高いが、そこに届くまでの内側には目立ったものは何もない。塔の中心には支えとなる大きな柱が伸び、螺旋階段は建物の壁に沿って頂上を目指している形だ。

 

そして、悪魔と勇者の声は階段の終点。外壁に繋がる唯一の窓――おそらく、そこから刻限塔に設置された魔刻結晶の調整や点検などをするための出入り用のものなのだろう。その窓の前のスペース、そこから声は聞こえてきていた。

 

ロフト、よりかは屋根裏部屋のような印象の方が近いか。

そっと階段の下から様子を窺うと、その空間の奥の暗がりで、もぞもぞと動く人影が二つ、言葉を交わしているのが確認できた。

他の人影はない。魔女教徒が無言で潜んでいるという、ホラー的な展開もどうやらないと見て間違いない。

 

――あとは隙を窺い、一撃をぶち込む。

 

「――――」

 

生け捕りにしようなどと考えるべきではない。

結果的に生き残られるのと、最初から捕らえようとするのでは難易度が違う。ましてや相手が、生かしておけば何をしでかすかわからない相手ならばなおさらだ。

 

スバルはしゃがみ、その場で腰の裏に手を回す。

そこに備え付けられた柄をしっかり握り込み、得物を腰のホルダーから外した。

 

スバルの手に握られるそれは、両手で握ってもやや余る長さの柄に、特殊な繊維で編まれたしなる先端が伸びる武器――鞭だ。

俗に牛追い鞭とされるタイプのもので、世界的に有名な映画考古学者が遺跡荒らしをするときに用いていたことで知られる一品である。

スバルの鞭は考古学者の教授が持っていたものよりもさらに射程が長く、扱いが難しいタイプのものだ。それをスバルは一年間の習熟で、クリンドから皆伝の資格をもらうまでに腕を上げていた。

 

あらゆる武器の中で、スバルが鞭を主力の装備として選んだのは他でもない。

剣や槌、槍や弓といった武装と異なる様々な用途が考えられること。何より剣においてはたったの数年でスバルが到達できる領域などたかが知れている。

すでに剣の道で尋常でない高みにあるものたちの戦いを知るスバルは、そこに自分が付け焼刃で割り込むことができないことを十分に実感していた。

故にスバルは剣でも槍でもなく、鞭を選んだ。

 

元より小賢しさと立ち回り、創意工夫でしか戦えないのだ。

ならば武装も思いっきりに、自分らしいものにした方が使いようもある。

それに鞭ならば――中距離攻撃も可能だ。

 

「――――」

 

階段の終わりから、もぞもぞとうごめく人影までの距離はおおよそ四メートル。スバルの射程の限界がそのあたりだ。確実に当てるのなら一歩。否、半歩でいいから踏み込んで鞭を振るいたいところではある。

どちらにせよ、鞭の殺傷力では一撃必殺は見込めない。その武器で一撃必殺しようとすれば、他の要因に頼るのが求められる。

今回の場合は当然、高さを利用する他にないのだ。

 

――それならば、確実に当たる距離しかない。

 

「――――」

 

小さく息を吸い、わずかに吐く。そして、息を止めた。

 

立ち上がり、スバルは鞭を持つ右手を引きながら階段を上がる。上階へ到達した瞬間、こちらにまだ奥の人影は気付いていない。先手が取れる。

半歩、踏み込み、頭の上で回すようにして腕を振った。

 

風を切り、鞭の先端が音を裂きながら獲物を目掛けて飛びかかる。

横に腕を振り抜くサイドアームは、威力を度外視して先手の早さと今回の鞭の攻撃による目的を優先している。

 

宙をのたくる蛇の頭が、無防備を晒す背中へ向けて食らいつく。その首を絡め取り、悪意の具現を奈落へと叩き落とすために。

だが、

 

「どうしてそんなに怒っているんですか?」

 

こちらに背中を向けたまま、ぼんやりとした声が放たれた。

直後に影は凄まじい速度で右腕を振るい、その腕に絡まる鎖でもってスバルの投じた鞭の先端の威力を相殺する。

 

のたくる蛇を、銀色の蛇が迎撃する光景。

一瞬、スバルはその光景に呆気にとられたが、先端が確かな感触を得たと判断した瞬間に腕を思い切りに斜めに振り抜く。

 

「あらら?」

 

がくん、と姿勢を崩された人影――シリウスがたたらを踏んで後ずさる。

その右腕から垂れ下がる鎖は確かにスバルの鞭の一撃を相殺したが、その鎖の連結の一部に鞭の先端を噛んでいた。それを引かれて、シリウスは姿勢を崩したのだ。

 

「う、らぁ!」

 

下がるシリウスに対して、スバルはさらに腕を引きながら一気に駆け寄る。半身を引かれて半回転する包帯巻きの人物に、スバルは肩から飛び込んで体当たりをぶち当てた。意外にも軽いその体が、スバルの質量を受けて軽々と吹っ飛ぶ。

 

「う、きゃんっ!」

 

か細い悲鳴を上げ、床を弾んだシリウスの体がそのまま足場を乗り越え、スバルの最初の目論み通りに階下へと放り出された。この高さから一階までは十メートル以上――少なくとも、一人の子どもが頭から落ちれば果物のように潰れる高さだ。

 

「大丈夫か、ルスベル!」

 

転落したシリウスの顛末を見届けず、スバルは奥に残るもう一つの人影へと駆け寄る。小柄な影はやはりルスベルで、彼は両手に鎖を持ったまま怯えた顔でスバルを見上げた。

彼の持つ鎖は、どうやら少年の下半身に巻かれている鎖と繋がっているらしく、それだけでシリウスの悪趣味な趣向の内容が知れる。

 

「あいつ……!自分で自分に鎖を巻かせてやがったのか……!」

 

じわじわと、文字通り自分で自分の首を絞めるような行いをさせられて、ルスベルがどれだけ恐怖を味わったことだろうか。半ばで中断された今であっても、その表情には消えないだろう恐怖の刻印が刻まれている。

 

その悪意を察したとき、スバルは無性に腹立たしさを感じる。即座に少年の肩を叩いて、握っている鎖を強引に奪い取り、

 

「もういい!もういいんだよ。こんなことする必要ない。俺と一緒にここから出るぞ!」

 

「で、も……ぼ、僕が約束をまも、守らないとティーナが……ティーナが……!」

 

涙目で、ルスベルが唇をわななかせる。

それを目にして、スバルは思わず喉が詰まった。

 

少年は幼馴染の無事と引き換えに、この悪魔の取り引きに乗ったのだ。これほど恐ろしい思いをしながらも、ルスベルは自分の身より少女のことを案じている。

足が震えて、歯の根が合わなくなり、視界がうっすらと涙でぼやけて、言葉すら真っ直ぐままならなくなりながらも。

 

「大丈夫、だ。この町には今、頼りになる人が、いっぱい……いて……っ」

 

掠れた息が邪魔して、思うように言葉が出ない。

少年を安心させるために、力強い言葉を伝えなくてはならない。この町には今、剣聖がいる。最優の騎士もいる。王国最高の治癒魔法の使い手だっているし、ちょっとした都市なら滅ぼせそうな面子が味方に揃っているのだ。

 

だから、何も怖がることなんてない。悪の栄えた例なし。そうだ。その通りだ。

怖がる必要なんて、何もないのだ。だから、

 

「だから……止まれよぉ、足の震ええええ!!」

 

恐怖のあまり、焦点が合わなくなっているルスベルの前で、スバルは自分の崩れ落ちた膝を叩いて必死に声を上げていた。

その声も裏返り、悲痛な響きを伴っていて怖気が立つ。得体の知れないものを背負っているような嫌悪感が、全身に絡みついてスバルを離さない。

 

「――ごぇっ」

 

目の前で泡が破裂するような音を立てて、ルスベルが黄色い嘔吐をこぼす。引きつけを起こしたように体を痙攣させ、自分の吐瀉物の上に倒れ込むルスベル。その少年を抱き起こそうとして、スバルもまた内臓全てを引っかき回されるような不快感に屈して胃の内容物を吐き出した。

朝、胃の中に詰め込んだダイスキヤキが原型を失って、内臓と胃液の酸っぱい臭いを漂わせながら溢れ出す。ごぼごぼと、吐瀉物に溺れそうになる苦しみを味わいながら、スバルはひたすら盛大に吐き続けた。

 

吐いても吐いても、目が回り、歯が鳴り、全身が震えるのが止まらない。寒さを感じているわけではない。胃を見えない手に握り絞られ、内臓の全てを止めることなくシャッフルされるような感覚をスバルは知っている。

これは、紛れもなく、

 

「――あなたがそんなに恐怖するのは、あなたが優しい証拠なのです」

 

穏やかな声が背後からかけられて、スバルは再び嘔吐した。

溢れる胃液に溺れそうになりながら、吐瀉物で汚れた床にスバルもまた頭から落ちる。頬に粘っこい液体の感触。床に溜まった汚物に顔をつけて、浅い呼吸を繰り返すたびに黄色い気泡が音を立てて弾ける。

 

そんな目を逸らしたくなるような惨状を、シリウスは微笑ましげに見ていた。

互いに頭を並べて、自分の吐いた反吐の中で必死に呼吸し、今も止まらない震えに全身を侵されているスバルたちを見ながら。

 

「人は、分かり合える。人は、一つになれる。優しさは、自分のためにあるのではありません。他人のためにあるのです。優しさは他人に施すからこそ輝く。自分に優しいのは単なる身勝手であって、優しさとはあまりにも違うもの!故にこうしているあなたの優しさは、他者を思った本物の輝き!ああ、『愛』なのです!」

 

「う、ぁ、び……」

 

「存分に感じてください。存分に見せてください。あなたの『愛』を。その際限ない優しさを。ルスベルくんを救いたいと思った、あなたの尊さを!」

 

吐瀉物塗れで白目を剥く二人の前で、シリウスは軽くタップを踏んだ。

それから怪人は自らの両腕を交差させ、互い違いの手でスバルとルスベルをそれぞれ指差し、腰を揺する。踊るように、称えるように。

 

「ルスベルくんの恐怖を、優しいあなたが一緒に感じる。あなたの感じたルスベルくんの恐怖を、ルスベルくんがあなたを通して感じる。ルスベルくんがあなたを通して感じた恐怖を、今度はあなたがルスベルくんから再び感じ取る。あなたが再び感じてくれた恐怖を、ルスベルくんはまたしても自分の恐怖に上乗せする。ルスベルくんが上乗せして感じたあなたの恐怖を、あなたはルスベルくんが上乗せした分に今までの下敷きした分を合わせて感じる。あなたが一緒くたに丸ごと感じた恐怖を、ルスベルくんが新しい新鮮な恐怖と一緒に感じ取り、ルスベルくんの鮮度感に溢れる恐怖をあなたが引き継いで真の恐怖を感じる。あなたが感じる真の恐怖を、ルスベルくんが抱え込むことで第二第三の恐怖が誕生してルスベルくんを恐怖させ、ルスベルくんの中で生まれた次なる恐怖をあなたは自らの恐怖で包み込むことで最大の恐怖とし……」

 

何かを耳元でささやかれている気がする。圧倒的な勢いで迫る妄言、戯言。それを理解する余裕が今のスバルにはない。何故なら今のスバルにとって耳に入るものも目に入るものも何もかもが恐怖の対象でしかないからだ。呼吸することも恐怖であれば、瞬きすることすらも恐怖としか思えないだが瞬きをしなければ眼球が渇く痛みに耐えきれずその痛みすらも今のスバルにとっては恐怖の象徴でしかない痛みを感じるということは次なる痛みを感じる可能性を思うことでありそれは延々と終わらない無限の恐怖をスバルに感じさせるのだならば瞬きをしないわけにいかないが瞬きをしてしまえば一瞬でも世界が闇に閉ざされることになるその何も見えない暗闇の瞬間に何が起きているのかがわからない何も起きていないのが当然であるがそれを断定する手段が何一つない確かめられないということは恐怖そのものであり理解できないことが本能に恐怖を呼び起こす要因であるとすれば生きることは即ち理解することによって恐怖を克服することであるのだそもそも恐怖とは生き物が生命を脅かされるような極限状態でこそ発露する弱さを発端とした感情でありそれを持ち得るということはイコールその生き物が恐怖を感じる対象を有するという意味でもあるこの恐怖を感じるという機能は痛みを感じるという機能にも通ずる部分がありつまるところ生命を維持するためには危険を察知する本能を切り離すことができないということにもなる恐怖に鈍感であるということは命の価値に鈍感であるといっても過言ではなく「あら?どうやら発狂してしまったみたいですね。愛情深く感受性が強い人は時おりひどく脆弱になってしまう。ああ、『愛』故に人は苦しむ。でも、『愛』があるから人は生きられる。とても難しいのですね。では、ティーナちゃんに協力してもらいましょう。ルスベルくんはお疲れ様でした」命に価値に鈍感であるということは生き抜くという生物生来の機能に反するものであるつまり恐怖は必要なものなのだ故に今こうして恐怖していることは誇ることであっても恥じるようなことではないむろんそのようなことはなんらいみをもたないかていでしかないのだがこうしたしこうじっけんをくりかえすことでいまをもってぜんしんをしはいしているきょうふにあらがいそしてうちかとうとどりょくすることこそがこのじょうきょうをだかいするためのさいごにしてさいだいのていこうなのではないかとすばるはかんがえているめのまえにいるるすべるのけいれんがじょじょにおさまりしろめをむいたしょうねんのすがたからいのちのともしびがじょじょにうしなわれつつあったがむねんにおもってもけっしてこころをおられることだけはあってはならないこころはくじけないたたかいつづけるとすばるはちかったのだあのいちねんまえのおそろしくつらいかなしいしれんのなかでだってそうでなきゃすばるはなんのためにこうしてくるしんでかなしんでそれでもけんめいにいきているのかこわいこわいなにもかもこわいすべてがこわいいきるのがこわいまばたきがこわいこきゅうがこわいくさいこわいきもちわるいうべべうべべべべばばばばばばばばあばばばばばばばばばばばばばらだっがばっばあばばばば。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「歌の後でのご歓談に向けて、ナツキ様にはオヤツなど用意していただいてはいかがでしょうか。きっと甘いお菓子なんかも用意しちゃったりなんかすると、心も弾んで互いの距離も一気に近づくと思いませんか?思いませんか?」

 

瞬きの直後に世界が入れ換わり、スバルは声を聞きながら体勢を崩した。目の前で下手くそなウィンクをしていた少女の顔が近付き、その額に額が激突する。

 

「がっつぉ!?」

 

「っだぁ?」

 

固い音が鳴り、目の前を火花が散った。

鋭い痛みにスバルはのけぞって後ずさる。正面、草の上に何かが倒れ込む音がしていたが、額を撫でるスバルはとっさにそれを確認できない。

 

「な、何が……?」

 

「何がじゃないわよ。スバル、いきなりリリアナに頭突きしたのよ。ダメじゃない、相手が気に入らないなら最初に言葉で注意しなきゃ」

 

「そうなのよ。暴力を振るう前に、まずその不細工なウィンクをやめないとブッ飛ばすぞって注意する方が先かしら」

 

「そんなに不細工でしたか私!?」

 

心外そうな声を上げ、リリアナが跳ね起きる。

そのリリアナの言葉に、なんとも言えない視線を交わすエミリアとベアトリス。リリアナがショックを受け、その場に崩れ落ちた。

 

「馬鹿馬鹿しい茶番よの。凡夫、あまり妾の小鳥に無体をするでない。次はないぞ」

 

リリアナに対して暴行を加えられたのが気に入らないのか、プリシラが珍しくスバルの行いに対して物言いをつけてくる。

スバルはそれに曖昧に頷きながら、自分がどこにいるのか改めて確認し、

 

「……気持ち悪い」

 

二度舞い戻って、なんら評価の変わらない怪人への感慨をこぼしたのだった。