『昨日の話』
ずっと以前から、疑念を抱いてはいたのだ。
忠誠を捧げる主であるロズワール・L・メイザース、彼の最終的な目的を達成するためには、ルグニカ王国を守護する『龍』を殺す必要がある。
ラムは、ロズワールのその目的に欠かせない重要な駒、他ならぬ彼からそう聞かされたのは、もう今から十年近くも前のことになる。
赤く燃える鬼族の村、そこでラムと■■を救ったロズワールは対価を求めた。
そして、ラムは鬼族の応報と引き換えに、その対価を支払うと決めたのだ。
そのために、『龍』を殺す計画だろうと何だろうと協力しようと。
ただ一点、ラムの中で答えが出ていなかったのが、肝心の『龍』の殺し方。
容易くはない。策を弄し、手段を講じたとしても、それは容易いことではない。そのときがきたとして、いったいラムに何ができるのか。
「時がくればわかる。――君の、君たち姉■にしか果たせない役割が」
そんな、どこか欠け落ちた言葉をかけられたような気がする。
それがどういうことなのか、不思議と今日まで深く考えることはなかったが――、
「ようやくわかったわ。ロズワール様の狙いが」
ロズワールの行動の全ては、彼自身の長い人生を懸けた最終目標のためにある。
そのためにルグニカ王国に深く潜り込み、そのためにラムと■■を救い出し、そのために『聖域』を覚悟の試金石して押さえ、そのためにナツキ・スバルを試した。
元々の計画の変更を余儀なくされたとしても、それまでの仕込みは無駄にはならない。――否、無駄にはしないのが彼だ。
故に、ラムの中でも答えが出た。
ロズワールが、幼い鬼の姉■を自分の最後の切り札として引き取った理由が。
■■は、ラムの失われた角の代わりとして引き取られたのだ。
ラムと■■の姉■は、二人で一人の鬼として、『龍』を殺すために手元に置かれた。
無論、『暴食』の権能の影響からロズワールも逃れられない。
結果的に彼も、■■がどうして自分の屋敷に置かれていたのかを忘れたはずだ。だが、忘れたとしても、すぐに自分自身の狙いには勘付けたはずだ。
そして、『暴食』の被害から■■を取り戻そうと奮闘するラムたちを見ながら、その事実は口外しなかった。まったく、どこまでも――、
「周到なところは変えられないわね」
一度はスバルの行動によって計画を頓挫させられながらも、虎視眈々と水面下で自分の目的を果たすための工作は進め続ける。
厄介な性質だ。今頃はラムの目がないところで、何をしているやら。
ただし、こうも思う。
――今回の旅、■■を連れてゆくスバルたちにラムが同行するのを許した時点で、ひょっとするとロズワールはこうなる可能性を予期していたのではないか、と。
考えすぎかもしれない。
そもそも、『暴食』の大罪司教がプレアデス監視塔に現れたのは不測の事態で、ラムや■■が危険な状況に置かれる確信があったはずもない。
これは、ラムが自分の慕う男を過大評価するあまりの妄想かもしれなかった。
だが――、
「――どうせなら、好きな男に信頼されていたと思った方が気分がいいわ」
ラムがいれば、■■や他の面々が守り通されると思っていたのだと。
いざとなれば、ラムがロズワールの隠していた思惑に気付いて、『龍』を殺すための切り札をめくることを自ら選ぶと、そう信じられていたのだと。
ラムという女の十年間を、ロズワール・L・メイザースという男が評価したのだと、そう考えた方が、ずっとずっと気分がいい。
だから――、
「――今、最高に気分がいいの。ぶちのめされなさい」
△▼△▼△▼△
『拳王』ネイジ・ロックハートの打ち立てた偉業は、神聖ヴォラキア帝国の『剣奴孤島』ギヌンハイブではちょっとした語り草だ。――否、語り草だった。
『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が剣奴として打ち立てた功績を知るものはどこにもいない。
ネイジは強さを見世物とされる剣奴孤島の興行で、唯一、徒手空拳だけを武器に何百回もの死合いを生き抜き、ついには解放奴隷の権利を獲得した。
練り上げられた闘気を拳に宿し、刀剣を受け止め、鋼を打ち砕く彼の拳の前にはいかなる障害も乙女の柔肌同然で、史上最も人間を殴殺した一人と言えただろう。
『肉食獣』ベリ・ハイネルガは、そのあまりに残忍な手口でグステコ聖王国を震え上がらせた稀代の連続殺人鬼だ。――否、震え上がらせたこともあった。
『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が殺人鬼として生んだ多くの悲劇や教訓の数々は、誰の記憶にも残っていない。
ベリは生まれながらに異常な成長を見せ、およそ人間では実現し得ない肉体強度を獲得した。そして、自分の好みの男たちを抱きしめて殺す、凶悪な犯行をいくつも重ねた。
巨体が実現する怪力と、刀剣で掠り傷一つ負わない強靭な肌。触れ合いと温もりを求めるこの殺人鬼は、『腸狩り』と並んで恐れられた最悪の犯罪者の一人だった。
『跳躍者』ドルケルの経歴は変わっている。元はカララギ都市国家で暮らす一介の商人であったドルケルは、人ならぬモノの声を聞いて道を外れた逸脱者――だった。
『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が逸脱者として大勢から笑い者にされた事実は失われ、誰もそれを覚えていない。
ドルケルはある日、突然に妻子ごと人生を投げ捨てた。そして、存在しない何かを信奉する道を選び、魔女教と接触することを選んだ変わり種となったのだ。
究極、ドルケルは魔法とは異なる力を発現したが、それは魔女教の教義とは異なるものであり、魔女教からさえ追放された異端中の異端であった。
つまりは、それらはいずれ劣らぬ怪人、奇人、狂人の類の超越者。
並大抵の人間では歯が立たない上、それらはそれらであるだけで完結せず、『暴食』の中であらゆる『記憶』と混ざり合い、より最上のモノへ仕上がっている。
ネイジ・ロックハートが、ベリ・ハイネルガの耐久力とドルケルの神出鬼没の能力を手に入れればどうなるか。
それは、史上稀に見る凶悪な一個の存在の完成だ。
これまで、『暴食』の大罪司教、ライ・バテンカイトスはそれをしてこなかった。
自分という大鍋の中であらゆる『記憶』を混ぜ合わせることで、自分という存在そのものが鍋の中身に取り込まれるのを恐れていたためだ。
だが、たとえ混ぜ込んだ鍋の中身を飲み干したとしても、自分が取り込まれることはない――少なくとも、バテンカイトスの主観ではそうなった。
そしてそうなった以上、これまであえてやろうとしなかったことを試し、自分自身の定めていた限界を突破することにいささかの躊躇いもない。
この世のあらゆる、優れたる才能、経歴、可能性――『美食』の限りを喰らい尽くし、己の内に溜め込んできた『美食家』こそが、ライ・バテンカイトスなのだから。
故にこの日、世界の東の果てにある砂海の塔で生まれたのは、先天性や後天性問わず、あらゆる技術や異能を高次元で融合した魔人だった。
魔人は全てを破壊する腕を持ち、あらゆる攻撃を受け付けない肉体を持ち、どんな術法をも跳ね返す魔技を持ち、万物を掌握する智賢をも有していた。
歴史上どこを見渡したとしても、これほどまでにあらゆる能力に秀でた存在はおらず、そして今後、何千年が経過しようと生まれることもない。
これは、魔女因子と呼ばれる忌むべき災厄が生み出した、世界の可能性の抽出。
優れたモノだけを煮詰めた大鍋から生まれた、至高の『美食』そのもの――、
「――三回、機会をあげるわ」
その、稀代の存在を前にして、桃髪の少女が指を三本立てて言った。
額から血を流し、薄紅の瞳に冷たい光を宿した少女。彼女は満身創痍の状態で、細い体のあちこちに行動に支障をきたす大ケガを負っていた。
それ以外にも、彼女が立ち続けられない理由は山ほどある。それを知っている。
最大の要因は傷や流血ではなく、その弱い肉体が彼女という存在を受け入れる器として機能していないこと。――おいたわしいと、そう思う。
「三回、先に殴らせてあげる。試したいことがあるのよ。破格でしょう?」
だが、そんな感慨などどこ吹く風といった様子で、少女は指を三本立てたまま、まるでこちらを挑発するように言い放った。
三回、それは致命的な宣告だ。そもそも、一度であろうと耐えられるはずがない。
そして、その申し出を撥ね除ける理由も、特にはない。
罠か、と考えることもなかった。
無意味に、こんな交渉を持ちかけるような少女ではないのだ。ただ、過剰な自信が身を滅ぼすこともあると、それは真摯に伝えなくてはならないと。
同じ大鍋の中に取り込めば、わかることもあるだろうと――、
「――姉様、参ります」
ぐっと、力を溜めた後ろ足を爆発させ、お望み通りに一撃を叩き込む。
それは拳王の技術と破壊力の粋が詰め込まれた、一人の少女を破壊するには過剰すぎる威力の一発、それが整った少女の顔に吸い込まれ――、
「まず、一回」
「――っ!?」
確実に捉えたと思った刹那、少女の顔が産毛を掠めるような至近で拳を避けた。そして伸びた腕に手を添えて、放たれる膝蹴りが右腕を肘でへし折る。
ありえない出来事。聖剣の斬撃さえ通さない強靭な肉体を、少女は伸び切った腕と、肘の関節――ここしか存在しないという定点へ膝を入れ、破壊した。
しかし――、
右腕を折られた衝撃をそのままに、左足が少女の顔へと跳ね上がる。
腕の仕返しではないが、顔を狙ったのはこちらも膝蹴りだ。すらりと長い足、白い膝が少女の柔らかい鼻面を叩き潰し、その美しい顔を台無しにせんと、
「二回目」
その薄い唇から紡がれた言葉、それを聞いて耳を疑う。
口を利けないようにするはずだった。だが、少女は横から迫る膝蹴りに対し、すっとなぞるように手を動かし、その軌道を柔らかく上へ逸らした。
放たれた膝は、まるで最初から何もない空をなぞるために放たれたように、すんなりと少女の頭上を通過させられる。
そして――、
「三回目」
右腕と左の膝蹴りを躱され、身を回す勢いで放った左の肘鉄、鋭く硬いそれは直撃すれば少女の頭蓋を果実のように潰し、その中身を塔の床にぶちまけたはず。
そう――はずだった。
少女のこめかみを狙った肘鉄は、その桃色の髪を数本舞わせるだけにとどまった。
そして、まるでくるのがわかっていたかのように肘を躱した少女が、その伸ばした手で再びこちらの顔を掴み、
「馬鹿ね」
と、これ以上ないほどに冷酷に告げ、豪快にこちらの頭部を床に叩き付けた。
△▼△▼△▼△
ぐねぐねぐねぐねと、目の前で姿を変えながら迫ってくるバテンカイトスを床に叩き付け、ラムはその顔に三本、指を突き付けた。
「三回チャンスがあると思って勝負する人間は三回とも負ける。本気で勝つ気がないまま勝負するなら、運にすら見放されるわ」
「ぶ、が……っ」
「ありがとう。証明できたわ。――もう、時の運ですらラムの敵ではないと」
最も恐ろしい敵は、ラムにとって不条理な運勢そのものだった。
だが、ラムは自らの手でそれを調伏し、それさえも自分の足下にひれ伏せさせる。
もはや、恐れるものなど何もない。
「――ッ」
地面に寝そべったバテンカイトスが、両足を振り上げ、振り下ろす勢いで立つ。そのまま折れた右腕を叩き付けてくる相手へ、ラムは躊躇なく踏み込んだ。
額から血が流れる。だが、その痛みと喪失感が、ラムの血を奥底から沸かせた。
ああ、なんと腹立たしい。この感覚、この昂揚感、煩わしいとずっと思っていた。
憎たらしい鬼の本能、戦うことを歓迎し、力を振るえることに高揚し、殺すべき敵を殺すために血を沸かせる渇望が、ラムはずっと嫌いだった。
だからあの夜、自分の額に生える角が折れたとき、解放されたと思ったのに。
「皮肉なものだわ」
そうこぼしながら、ラムは叩き付けられる腕を取り、そのまま相手を背負い投げる。床に投げ捨て、その頭部を蹴り飛ばして通路の奥へ。
背後、負傷した地竜と、壁に寄りかからせた少女へは近付けさせない。
「――――」
変わらず眠り続ける少女、その額では白い角が淡く輝きながら存在を主張している。
本来、自らの意思なく眠り続ける彼女には、たとえ鬼族であろうと角を機能させることはできないはずだった。
しかし、その実感は失われたままだとしても、ラムと少女は双子の姉妹――『共感覚』と呼ばれるそれは、時折、血の濃い存在の間に結ばれる実体のない繋がりだ。
その存在自体は、眠り続けるレムを世話してきたこの一年、ラムも感じてきた。
外見の相似性だけではなく、その感覚があるからこそ、ラムはすんなりと彼女が自分の妹であるという事実を客観的に受け入れることができたのだ。
だが、その『共感覚』も眠るレムとの間では何がどうということもなかった。
もし、レムが怖い夢の一つでも見ていれば、その恐怖がラムに伝わることもあったかもしれないが、そうしたことが伝わったことはこの一年で一度もない。
つまり、眠り続けるレムは夢も見ていない。――ずっと、瞼の裏の闇だけを見つめ、ただ何もない無の世界で息をしているだけなのだ。
だから、ここでその『共感覚』の悪用に気付いたのも偶然でしかない。
腹立たしいことだが、スバルの発想のおかげだ。彼が妙な力でラムの負担を引き受け、戦う力を与えてくれたから、同じことをする発想が生まれた。
『共感覚』で繋がった同士は、強い感情や、時にケガや痛みさえ共有する。
原理はわからないが、以前、ベアトリスの禁書庫で一読した本にこんな仮説があった。
――『共感覚』とは、異なる個人二人の間でオドが繋がって作用していると。
オドとは、その人間の深奥に存在する力の源――魂とも言い換えられる。
マナの代わりに魔法を使うための力として使われることもあるが、本来、オドとはその人間をその人間たらしめる純粋な性質そのもの。
何者にも侵されざる領域、それが同じ胎から生まれたモノ同士、繋がってしまった結果が『共感覚』なのではないか、という説だ。
結局、それは俗説として片付けられ、証明された話ではない。
だが、禁書庫に置かれていた以上は眉唾な話でもなかったのだろう。何より、ラムはその説を個人的に気に入っていた。
生まれながらに、自分と誰かが繋がっているなんて、素敵な話だ。
「あの煩わしい角のせいで、面倒が多かったもの」
白い角から伝わってくる破壊衝動、あれをラムは嫌悪した。
周囲がラムを鬼神の再来と持て囃すのも忌々しかった。そんな、何とも知れない古臭い存在と、ラムの間に繋がりなど一片もない。
そんなモノではなく、ラムにこそ価値を付けるべきだろう。
故に、そんなモノと無関係に、誰かと繋がっていたのなら、素敵な話だ。
そして、そんな誰かとの繋がりが本当にあるなら――、
「――きっと、ラムは生まれながらにその子を愛してやまないでしょう」
たとえ赤子であったとしても、その絆を守るためなら手段を問うまい。
守るために、愛でるために、慈しむために、愛するために、全てを与えるだろう。
だから――、
「許してちょうだい。こんなときに、あなたにも荷を背負わせる悪い姉様を」
『共感覚』を通じて、ラムは己の肉体へかかる負担を眠る妹へ共有させる。
一度、スバルの権能を自分で体感したおかげだ。一度見れば、ラムは大抵のことは同じように実現できる。
スバルのアレも同じ仕組み――アレはおそらく、他者のオドと自分のオドを強制的に繋いで、かなり一方通行な『共感覚』を引き起こしているのだ。スバル側の負担を送ろうと思えば送れるだろうが、スバルは馬鹿なのでそれはしない。
逆に、一方的に引き取ることで、味方の負担を減らそうとする。
「――馬鹿ね」
先ほど、バテンカイトスへかけたものと同じ言葉。
しかし、それは同じ言葉でも、同じ響きではなかった。
スバルが権能でやったことを、ラムは『共感覚』で繋がるレムとのみ再現できる。
スバルの方に何があったかはわからない。だが、これで多少はマシになるだろう。ラムも、スバルとずっと繋がっているなんておぞましい状況から脱せる。
代わりに、ラムの負担はレムの方へ流れ込んでいるが――、
「――――」
眠り続けるレムは、何も言わない。
ただ健気に、その重ねた両手に持たされた白い角――杖の中に仕込まれていた、ラムの折れた角を触媒に、自身の角へと流れ込むマナをラムへ送り続ける。
その、ラムの必要とする莫大なマナを介するのは、レムの肉体にどれだけの負担をかけてしまうか計り知れない。
――故に、短期決戦だ。
「ねえ、さ、まぁぁぁ――っ!!」
吠えながら、蹴り飛ばされたバテンカイトスがラムの下へ舞い戻る。
『跳躍者』とやらの力を利用し、瞬く間に存在した距離を掻き消す魔技――しかし、その神出鬼没の技も、完全に相手に見切られていては意味がない。
「遅いわね、ウスノロ。これじゃラムが老婆になるわよ」
『千里眼』で相手の視界を盗み取る。
相手の焦点、目の動き、力の入り方、それらの統合で狙いは心を読むより容易く読むことができる。
突き出される掌を避け、すり抜け様に五指を全て反対側へ捻じ曲げた。
絶叫を上げかける喉に肘鉄を入れ、鋭い後ろ回し蹴りで相手を壁へ叩き付ける。
「か……っ」
「もっとも、ラムは老いても可愛いけどね」
言いながら、相手の服の襟首を掴んで引き下げ、再び後頭部から地面へ落とす。その顔面へ踵を叩き落とし、鼻面を粉砕。
掴みかかってくる両腕を下がって躱し、風の刃を無数に叩き込んだ。
「――ぎ、ああああ!!」
「可愛い顔で、ずいぶんと不細工な悲鳴ね」
全身を風刃に切り刻まれ、血飛沫を撒きながらバテンカイトスが吹き飛ぶ。
相変わらず、その肉体は落ち着きなく変化を繰り返しているが、徹頭徹尾、その首から上だけは見知ったそれから変えようとしない。
反吐が出そうだ。品がないので、ラムはそんなことをしないが。
「――――」
おびただしい血を流しながら、芸もなく飛びかかってくるバテンカイトス。
正しくは、おそらく神業めいた技術を駆使しているのだろう。様々な超越者の力を掛け合わせて、どだい、誰にも再現できない技を編み出しているはずだ。
その、あらゆる方向に特化した優秀な攻撃を、ラムはそれを上回る暴力で潰す。
百の、千の大技を、億の力で捻り潰す。これは、もはやそういう戦いだった。
バテンカイトスに触れさせもしない。調子がいい。
スバルと違い、やはり馴染む。枷を、さらに二つほど外した。
おそらくは全盛期の五割――否、当時のラムは幼かったから、成長した分、あのときよりもよほど今のラムの方が強い。
そして、その強さに溺れないことがラムの強みだった。
「やっぱり、角を折られて正解だったわ」
あの夜がなければ、いつか角の誘惑に屈していたかもしれない。
ありえないと言いたいところだが、ありえなかったことの答えはわからない。だから、ラムは今があって正解だったと、歩んだ道の清々しさを誇る。
角をなくしたおかげで、ラムは自分の嫌った『鬼』にならずに済んだ。
「そもそも、あの夜がなかったらロズワール様にもお会いできないのだから、比べるまでもなかったわね」
これ以上ない結論、それを答えとしてラムは掌を正面に差し出した。
その掌の目と鼻の先に、空間を跳躍したバテンカイトスが出現する。出現場所を読まれたことに驚愕する顔面、それを鷲掴みにして、
「連続して飛べないんでしょう?手品は見飽きたわ。その顔も」
「ま――」
「待たない」
冷たく言い捨て、ラムは相手の顔面を掴んだ掌に風の刃を発生させる。
瞬間、目を、鼻を、唇を、耳を、顔のありとあらゆる部位をいっぺんに切り刻まれ、バテンカイトスが血を吐きながら絶叫した。
このまま、顔がなくなるまで風の刃で抉らせる。
と、それを実行したラムの手の内から、一瞬でバテンカイトスの姿が消えた。
しかし、逃れても、傷からも痛みからも、現実からも逃げられない。
「あ、ああ、あああああ――ッ!!」
泣き叫びながら、涙の代わりに大量の血を流すバテンカイトスがのた打ち回る。
それを見ながら、ラムはゆっくりとそちらへ足を進めた。
近付いてくるラムの足音を聞いて、バテンカイトスの姿が変わる。
長身の、たくましい肉体の持ち主。――迫る拳を叩き落とし、膝をへし折った。
蹴倒され、ラムから逃げるためにバテンカイトスの姿が変わる。
髭面の巨漢、丸くなって防護を固める。――その体を蹴り上げ、拳の連打で天井へ釘付けにし、自慢の皮膚の下をグズグズの肉塊に変える。
終わりのない責め苦を与えるラムを殺すため、バテンカイトスの姿が変わる。
禿頭の老人、神出鬼没の魔技。――もはや種の割れた手品を憐れみながら捕まえ、その顔面を壁に押し付け、全身を削るようにして走る。
「あ、ばばばばばばばばァァァ――っ!!」
ラムの剛力に押さえられ、逃げ場のないまま全身を削られるバテンカイトス。その姿がラムの手の中でグネグネと、最適解を求めるように変化する。
そのことごとくを封殺し、ラムは百の、千の、万の犠牲者を力ずくで弔う。
『暴食』に取り込まれ、鍛えた技を、歩んだ道を、愛した想いを、踏み躙られ、蔑ろにされた彼ら、彼女らのために、力で以て供養とする。
もう、技を、道を、想いを、利用されることはない。
何一つ、ラムには通用しないのだから。
「自分の責任は、自分で取りなさい」
腕を振り抜いて、ラムはその全身を激しく削られた冒涜者を投げ捨てる。
監視塔の通路に転がり、ビクビクと震えるバテンカイトス。その姿がゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと変化していく。
数多の『記憶』を頼りにしたその姿が変貌し――、
「あら、久しぶりね。会いたかったわ、その顔に。上から三番目くらいだけど」
「――ぁ、か、ぁ」
額の血を拭いながら、唇を緩めたラムの視線の先にバテンカイトスがいる。
本当の意味で、バテンカイトスだ。それまでの、他人の顔や技を借りた小手先の存在ではなく、自分の顔と姿に戻ったバテンカイトスが。
誰になろうと、頼ろうと縋ろうと、自分からは逃げられない。
角を折られようと、ラムが鬼であることが変えられなかったように。
『記憶』を奪われようと、ラムがレムの姉であることが変わらなかったように。
「せめて最後ぐらい、自分の力で抗ってみる?」
「――――」
「そう言えば、螺旋階段で気になることを言っていたでしょう。――あなた、弟や妹がいるようね。弟妹のために、意地を見せたらどう?」
倒れ伏したバテンカイトス、その痛々しい呼吸が不意に収まった。
命を落としたわけではない。ラムの言葉に反応したのだ。
弟と妹、その響きを聞いた途端、バテンカイトスの呼吸がわずかに落ち着く。そして、バテンカイトスはゆっくりと、その場で体を起こし――、
「おれ、たちの……ぼく、たちの……妹、に……」
「手を出すな、とでも?生憎だけど、そんな主張ができる立場だと思うの?一度でも誰かの訴えに耳を貸したことがある?」
「それ、れもぉ……」
「――――」
血塗れの顔をぐしゃぐしゃに歪め、バテンカイトスが涙声で懇願する。
その悲痛な響きの訴えに、ラムは微かに目を細めた。それから、吐息と共に目を伏せ、
「考えて――」
「――姉様は、優しすぎます」
刹那、視線が逸れた瞬間、バテンカイトスはそれだけ言い残し、姿を消した。
『跳躍者』ドルケルの空間跳躍――痕跡すら残さず、冒涜者は視界から掻き消えた。
――逃げたのだ。
△▼△▼△▼△
「ははッ!あはははッ!あはっははははァ!」
『跳躍者』ドルケルの異能を駆使し、バテンカイトスはラムの領域から逃亡した。
もう、ラムを喰らおうなんて暴挙は考えない。なりふり構わず、逃走を選ぶ。
勝てない。勝てない。あれには勝てない。
考えた通り、あれは怪物だった。時間を稼いだところで、より強くなって戻ってくるなんて規格外もいいところだ。
あれは、美食の皿にも悪食の皿にも載らない、そういう存在だった。
「ルイとロイ、二人には悪いけどさァ!美食には下拵えが重要なんだ」
全身の負傷を押しながら、バテンカイトスは同じ獲物を狙っていた弟妹を嗤う。
ルイは早々に戦線離脱し、ロイも別なところで暴れている頃合いだ。いっそ、あの鬼が二人の方を狙ってくれれば、悠々と離脱することもできる。
『悪食』のロイは引き際を知らないから、いよいよ死ぬかもしれないが、仕方ない。
むしろ、ロイの『悪食』には辟易としていた。奴が好き放題に餌場を荒らすモノだから、こちらに回ってくるはずの美食が奪われることもあっただろう。
――否、これまでの自分の食したモノは、本当に『美食』だったのか。
「どいつもこいつも、役に立たない……あァ、クソ!クソ、クソ、クソ!あんな、あんなモノがあるなんてさァ!知らなきゃよかったのにさァ!!」
それは、姉を慕う妹の気持ちが引き起こした感情ではない。
あれは計り知れない、絶大なモノへ焦がれる想い――バテンカイトスの内から生まれ、本当の本当に、心の底から欲しいと願う強烈な感情だった。
あれを、喰い尽くしたい。全身全霊で味わい尽くしたい。
『美食家』を標榜し、あらゆる感情や、優れた逸材を喰らってきたつもりだった。だが、この世に『本物』があると知ってしまった今、全ては色褪せていた。
ライ・バテンカイトスという存在が、『暴食』の大罪司教として価値あるモノと信じて集めてきた全てが崩れ去り、塵芥へと変わってしまった。
あれほど煌めいて見えた豪勢な食卓が、泥団子を乗せた砂場遊びと成り果てた。
「アレが、欲しい」
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい――、
あれを味わうためなら、何もかもを投げ捨てても構わない。
あれを喰らうそのためなら、これまで溜め込んだ全てを失って後悔はない。
あれ以外を味わいたくない。あれ以外で己を満たしたくない。
「おぶっ、うえっ」
走りながら、バテンカイトスの口の端から吐瀉物が漏れた。
痛みや苦しみが原因ではない。ただ、耐え難かった。最上と信じていたモノがそうではなく、至高を知ってしまったことで、自分を満たす全てが汚らわしい。
何故、あれ以外を素晴らしいなどと思ったのか。称賛したのか。堪能したのか。
真に素晴らしいモノ以外を愛して、いったい何が『美食家』なのか――。
「あァ、そうだ、そうだよ、そうだね、そうだろう、そうだろうさ、そうだろうとも、そうだろうからこそ、そうであってほしいからこそ!暴飲ッ!暴食ッ!」
湧き上がる食欲、満たされる飢餓感、そして、欲しいと乞い願う心からの叫び。
一つになりたいと、混ざり合いたいと、食欲が外なる存在を取り込むことなら、自分を突き動かす『暴食』は、究極の愛だ。
「愛してる、愛してる……そう!愛してるッ!姉様を……いいや、ラム!俺たちはお前を愛して――」
自らの内に芽生えた極大の感情、それを叫ぼうとした言葉が唐突に途切れる。
原因は痛み、それは新たに発生した痛苦によるものだった。
「――ぁ?」
頬を押さえ、べったりと血に濡れた掌をバテンカイトスは確かめる。
新たに生じた切り傷、それは逃げるために塔の外へ向かっていたバテンカイトスの頬を引き裂いた傷――原因は、何もない空間。
「――――」
そこに無言で指を伸ばし、バテンカイトスは自分の指先が切れるのを見た。
何もない空間に、見えざる刃がある。
「は」
それは、バテンカイトスが螺旋階段でラムに披露したモノと同じ技だ。
空間に不可視の刃を設置する技は、伝説的なシノビの技であったが、それが誰の『記憶』であったのかは捨ててしまったからもうどうでもいい。
問題は、バテンカイトスが置いた覚えのない刃がここにあることだ。
「まさか……」
指を浅く切った刃を避け、バテンカイトスはさらに奥へ足を進めようとし――その爪先が吹っ飛び、「あひっ」と悲鳴を上げてのけ反った。
そして、のけ反った後頭部をも浅く削られ、顔を強張らせて立ち尽くす。
――見えざる刃に、囲まれている。
「……はは、本気で?」
一度、見せただけだ。
戦いの中で一度、それも不可視の技なのだから、見えたわけでもなかっただろう。
しかも、彼女は実際にこの場に足を運んですらいない。にも拘らず、彼女はこちらの逃げ道を捕捉し、先んじて見えざる刃を設置した。
「――――」
バテンカイトスは、風の刃に切り裂かれて潰れた左目ではなく、かろうじて健在の右目に手を当てた。――『千里眼』で、ラムがこの目を共有している。
彼女は、バテンカイトスを逃がさなかった。この目に重なって、逃がさない。
「ひはっ」
バテンカイトスは嗤った。もはや、嗤うしかない。
愛した。初めて、何かに強く強く焦がれた。その規格外さに、惚れ惚れする。
そして――、
「あァ!待って、待ってくれ!待った待った、あと少し!あと少しだけでいい!あと少しだけでいいからッ!」
『千里眼』にどれだけ訴えようと、声は届かないのは知識の通り。
だから、必死の呼びかけは相手に聞かせるためのものではない。自分を突き動かすためのものだった。
大慌てで、バテンカイトスはすぐ脇の壁に取り付いた。
喰らったモノを放り捨ててしまって早まったことをした。『拳王』の異才さえ残っていれば、苦労しないで済んだものを。
そんな感情も後回しに、バテンカイトスは見えざる刃に腕を叩き付ける。両手の手首が吹っ飛び、傷口から血が噴き出した。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛いが、痛みは、今はどうでもいい。
「受け取ってくれ、僕たちの想いッ!見届けてくれ、俺たちの願いッ!」
ただ、血の噴き出る腕を壁に押し付け、力一杯に、文字を書く。
どす黒い血で、小さな体を目一杯使って、砂の塔の壁に大きく大きく文字を書いた。
「ぶはァっ」
そして、自ら後ろに下がり、右目を見開いてその文字を見る。
壁に描いたその血文字が、心の底から求めてやまない相手へと届くように。
彼女ならばきっと、最後の最期まで、自分と重なり合ったまま見届けてくれるから。
「あァ、愛して――」
――言い切る前に、『暴食』の大罪司教の首が風の刃に斬り飛ばされていた。
△▼△▼△▼△
「――フーラ」
指を振るい、風の刃を放ったラムは一言だけ呟く。
魔法の大小は効果範囲に影響しても、その威力自体はさして変わらない。まして、風の刃の切れ味で、細い首を飛ばすだけなら最小の威力で事足りる。
逃亡した『暴食』の背を追いかけ、ラムは風の刃を一枚だけ飛ばした。
必死で逃げる『暴食』の足取りは、『千里眼』で容易く追えた。狙いを正確にするために足止めの小細工をしたが、急造のわりにはうまく働いたようだ。
そして、最後の刃が届く寸前、『暴食』は異常な行動に出た。
己の腕を斬り飛ばし、その血で壁に血文字を書いた。
汚らしく、ひどく一方的なそれは、見る価値もない悪質な嫌がらせだったが――、
「――――」
最後の最期、その血文字がくるくると回転して飛ぶのを見届け、瞳を閉じる。
そうしなくては安堵できなかったから、そうしたまでだ。見届けなくてはならないといった義務感など、微塵もない。
冒涜者は、最後の選択を誤った。
弟妹のために命を懸ければ、ラムも慈悲を与えないではなかった。だが、奴はそれを餌にラムを謀り、自らが生き残るための道具とした。
喰らったモノを返す術も、知らないのだろう。知っていれば、それを取引材料として命乞いしたはずだ。――それもなかった。だから、報いを受ける。
「剣を握るものは剣に、魔に縋るものは魔に、炎に委ねるものは炎に。――そして、鬼に願うものは鬼に、拠り所にしたそれに滅ぼされる」
――それが、ラムの信じる応報の摂理だ。
腕を下ろし、長く息をついた。
それから、ラムは振り返り、ずいぶんと荒れた通路を戻る。近くで戦うわけにはいかなかったから、あえて距離を開いた。
それがもどかしい距離感で、ラムの足取りは自然と逸る。
「――ッッ」
崩れた壁を乗り越えて戻れば、ラムを出迎えたのは高い地竜の鳴き声だ。
漆黒の地竜はその体を使い、器用に背後にレムの姿を隠していた。最悪、戻ってくるのがラムでなかったとしたら、盾にでもなるつもりだったのだろう。
これだけボロボロになってなお、スバルの言いつけを健気に守ろうとするなど、本当にスバルにはもったいのない地竜――、
「――いいえ、違うわね。あなたも、レムを守りたいと思ってくれたの?」
「――――」
「そう。……いい子ね、パトラッシュ」
そっと、その地竜の首を撫でる、
傷だらけの彼女のことも、早々に『緑部屋』へと運び込む必要があろう。さすがの忠誠心を示す地竜も、この傷では無理はさせられない。
ラムも、妹の恩人――恩竜に無体な真似はしたくなかった。
そうして地竜をねぎらい、ラムは彼女の背後に庇われていたレムの下へ。
すでに『共感覚』を用いた角の力の共有は解いており、その額に角はない。ただし、鬼神同然のラムの力を肩代わりした反動は確実にその体を蝕んでいる。
ラム自身、遠からず訪れるだろう反動を思うと、気が重くなってくるほどだ。
だが――、
「今、このときは野暮なことは考えない」
ゆっくりとその場に跪いて、ラムは眠り続ける妹の頬に手を添えた。
実感のなかった姉妹としての絆、それは以前と比べてはるかに確かな実感を伴い、愛おしさと大切さが溢れてくるのを感じる。
角を折られ、鬼神の再来としての力を失い、今日までを過ごしてきた。
あの炎の夜が何のためにあったのか、これまでラムは、自分が自分になるためにあったのだと結論付けてきたし、それを間違っていたとも思っていない。
ただ、今日この瞬間から、それは変わった。
あの日、ラムの角が折れたのは――、
「――今日、ここで、ラムがレムの姉様だってわかるためにあったのよ」
『共感覚』を通じて、魂と魂の触れ合いで、一つの世界を分け合った双子だと、かけがえのない姉と妹なのだと、そう実感することができたから。
「今まで以上に、あなたと話をしたい。あなたとラムが、どんな時間を過ごしたか。どんな昨日を重ねたのか、足りない思い出を一緒に埋めましょう」
時が止まらず過ぎ行くから、未来の思い出なんていくらでも降り積もる。
だから、何も知らないまま、忘れられたままで全てが消えていかないよう、夜毎、何度でも思い出に花を咲かせよう。
「たくさんの、昨日の話をしましょう」
『眠り姫』は答えない。
けれど、その沈黙に胸を締め付けられず、温かなもので満たしながらラムは微笑む。
微笑んだまま、もう、自分の気持ちを疑うことなく、唇を動かせた。
「――愛してるわ、レム」
きっと、どんな時間を二人で重ねたとしても、この想いだけは裏切れない。
奇しくも、歪んだ大罪司教の最期の言葉と同じモノを口にしながら、それはやはり同じ音であっても、同じ響きにはならない。
愛を知らぬモノと、愛に生きるモノとでは、決して同じ響きには、ならない。
決して、同じ響きには、ならないのだ。