『同盟交渉』


 

人生というものは、配られたカードで勝負するしかない。

 

それが生まれであれ、容姿であれ、才能であれ、努力で身につけた技術であれ、培った人徳であれ、全ての意味はひっくるめて同じだ。

 

そのいずれも自分には欠けていると、今のスバルはそれを自覚している。

まかり間違ってレムだけがスバルを全肯定してくれているが、彼女の肯定するナツキ・スバルの理想像に自分が遠いのは百も承知だ。

理想の中のナツキ・スバルと比較して、スバルの手の内にあるカードの枚数は少なく、その質もまた見劣りするものばかり。

 

だが、勝負の場面に向かい合えばそんな泣き言は誰も聞いてはくれない。

誰しも、配られたカードで勝負に挑むしかないのだ。

 

あとはカードの切り時と、切り方と、ハッタリのかまし方があるだけだ。

 

「――白鯨」

 

伏せたカードの中でも最大の効果を発揮するだろう手札。その単語を耳にして、室内にいる面々の顔色が各々変わる。

 

クルシュが興味深げに目を細めて呟き、フェリスはちらと横目に憂いを込めてその主を見つめる。商人肌のラッセルは忌々しい名前に嫌悪感を眉根の皺で表し、そしてなにより――。

 

「――――ッ!」

 

一瞬、暗く濃厚な剣気が室内を席巻したのを誰もが肌に感じ取っただろう。

武芸に秀でたクルシュ、鬼という種族に属するレム、近衛騎士団に所属するフェリス。武に携わる彼女らはもちろん、スバルやラッセルといった武に縁の少ない二人であっても、その肌を通して内腑に直接触れるような圧迫感を如実に感じた。

そして、その発生源は――、

 

「失礼しました。私もまだまだ、未熟ですな」

 

それまで瞑目していた目を片方開け、表情を変えずに謝罪を口にするヴィルヘルム。部屋の隅々まで研ぎ澄まされた剣気で撫でた老剣士は、全員からの注視に恥を感じたように腰の剣の柄に触れて、

 

「話の腰を折るような真似をして、申し訳ありません。この場を辞すこともいといませんが……」

 

「いや、卿は残れ。意見を聞きたい」

 

腰を折り、静かな提言をするヴィルヘルムに却下を告げて、クルシュはスバルの方へと意味ありげな視線を送る。

彼女は肘掛けに腕を立て、掌に頬を預けて「それで?」と前置きし、

 

「白鯨とは、またいささか唐突な単語が飛び出したな。卿の語る白鯨というのは、『霧の魔獣』のことで合っているか?」

 

「ああ、合ってるはずだ。霧をばら撒いて、空を泳ぐ巨大な鯨。――その白鯨だ。俺はそいつの次の出現場所と時間、それを知ってる。その情報を、同盟の取引き材料として判断してもらいたい」

 

どうだ?とクルシュに対して首を傾け、スバルは彼女に判断を委ねる。

クルシュは顎に手をやり、しばし熟考の構えだ。そして、彼女がとりあえずの判断を下すより先に、

 

「お聞きしてよろしいですか?」

 

と、手を挙げて質問の権利を求めてきたのはラッセルだった。

彼はスバルが視線で頷いて質問を許すと、「では失礼して」と指をひとつ立て、

 

「まず第一に確認しなければならない話ですが……スバル殿は白鯨、その出現を事前に知ることができる、ということの価値を正しく把握しておりますか?」

 

「……少なくとも、白鯨の出現に巻き込まれる行商人とかの数は減らせる。前もって荷物の運搬計画も見直しできるし、人的被害も減らせるんじゃないかと思ってるが」

 

「それはあまりにも、考えが浅すぎます」

 

スバルの自信なさげな答えに、ラッセルは語調を強めて言葉を被せる。

彼は大仰に手を振り上げ、広間の大窓の方へとその腕を振り、外を示しながら、

 

「魔女の手で生み出された白鯨により、これまでどれほど多くの命が失われたかご存知ですか?運悪く白鯨の霧に呑まれ、消息を絶った隊商。白鯨の討伐を志し、しかし道半ばで壊走させられたかつての王国騎士団。白鯨はただ巨大で、ただ恐ろしいというだけの存在ではないのです」

 

白鯨の恐ろしさを語るラッセルの態度には熱がこもっている。それは負の感情の共有を求める、弱さ故の克己心の表れであることが今のスバルにはわかる。

あまりに強大な『敵』を前にしたとき、人はその『敵』の強大さをいっそ賞賛するような態度を示すことで、自身の脆弱な心を守ろうとするのだ。

 

「出会わないことがなにより肝要なのです。少なくとも、商家にとって災厄の象徴である白鯨、その出現に先見することができるのならば、万金以上の意味が、価値がある!」

 

拳を固めて、ラッセルはスバルの持つ情報の価値を熱く語り切る。

だが、

 

「ですが」

 

と、彼はふいにそれまでの情熱的な光を双眸から消し、握り固めていた拳を広げてひらひらと手を振ると、

 

「その万金の価値も、あくまでその情報の確度が信頼できて初めて意味を持ちます。スバル殿は白鯨の出現場所と時間、それらを知っていると仰った。が、それを証明する手段をお持ちでないのなら、気を持たせるだけの言葉遊びです」

 

「おおよそ、こちらの言いたいことはラッセル・フェローが語った通りだ。卿の発言の根拠を、聞かせてもらいたいところではあるな」

 

嫌味のない笑みで肩をすくめるラッセルに追従し、クルシュがスバルの提示した情報の真偽について問いを発する。

 

それを受け、スバルは背中に冷や汗が伝うのを感じる。

が、不敵な笑みを浮かべる体の前面にはどうにかこうにか弱気が出ないよう堪える。堪えながら、乗ってきた彼女らに対し、伏せていた次なるカードを切る。

切り方を入念に、前もって、準備していた通りに。

 

「俺が白鯨の出現を知ることができるってのは、こいつが理由だ」

 

言い、懐から抜き出したそれを叩きつけるようにテーブルに置く。

広間の中央、全員が取り囲むテーブルの中央に滑らされたそれを見て、全員の表情がかすかに強張った。――直後、その瞳に一様に困惑が浮かぶ。

 

「ナツキ・スバル」

 

「ああ」

 

静かにスバルの名を呼ぶクルシュに応じ、スバルは怖じることなく胸を張る。

そんなふてぶてしいまでのスバルの態度に言及せず、クルシュはテーブルの真ん中に鎮座するそれを指差し、

 

「これはいったい、なんだ?」

 

と、万を辞して突き出された黒い光沢が鮮やかな異世界アイテム。

――ケータイ電話を指差し、スバルに首を傾げたのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

スバルが白鯨の出現時間を正確に知ることができたのは、いくつもの偶然が積み重なった運命の悪戯によるものだった。

基本的に運命の悪戯が引き起こす事態は、スバルにとっての致命的な状況を呼び起こす機会が多いのだが、今回に限ってはそれが良い方向へと働いた。

 

三度目の世界で白鯨と遭遇したそのとき、スバルは携帯電話を手にしていた。

暗がりの竜車の御者台で地図を確認するために明かりを探し、ちょうど手荷物から探り当てることに成功した携帯を起動したのだ。

残電力わずかな携帯は闇を明るく切り開き、その目的を見事に達してくれた。

 

もっとも、その直後に白鯨と遭遇する結果となり、地図の確認はおろか、竜車や移動手段の確保すらも無駄な徒労となり果てたのだが――。

 

「あのとき、あの瞬間だ」

 

隣を走っていた竜車が消失し、闇に目を凝らすためにスバルは携帯をかざした。

そして闇の向こう、こちらを覗き込むように現れた巨大な眼と目が合ったのだ。

 

直後、レムの先制攻撃により、即座に戦闘状態に陥ったわけだが、白鯨の咆哮と尾の一撃に空をぶっ飛びながら、まるでコマ送りのように細切れにされた連続写真じみた世界の映像が、スバルの脳裏には焼きつくように残されていた。

そしてその連続写真の中に、宙を舞うスバルの手から離れた携帯の姿があり――こちらを向いた画面にはしっかり、『十五時十三分』と示されていた。

 

異世界召喚の時点で昼夜が一転し、その時間は純粋な意味で時間を知る指標にはなり得ない。だが、別の場面を区切りとして考えるのであれば、それは大きな意味を持っているのだ。なにより、

 

「知らなくても無理ないさ。これは俺の地元で出土した、いわゆる魔法器ってやつでな。こいつが、俺の発言の根拠になる」

 

――出所不明の携帯電話そのものが、交渉に有用な武器になり得る。

 

スバルの発言に目を見開き、最初に携帯に手を伸ばしたのはやはりラッセルだ。彼はその指が携帯に触れる寸前、気が逸りすぎていることに気付いたように「触っても?」とスバルに許可を求める。頷き、彼が手に取るのを見届けると、

 

「ずいぶんと、不思議な感触の物質ですね。金属のようでありながらそうではない。表面は滑らかで……ここは、開く?」

 

折り畳み式のスバルのガラパゴス携帯を開き、そこから光が漏れ出すのにラッセルは小さく驚きの声を漏らす。

画面に表示される待受けは普段ならばアニメキャラの絵だったが、この会談が始まる前にオーソドックスな時計盤のものに切り替えてある。適当に操作しても、出てくるのは登録数の少ないメモリ画面だけだろう。

 

「光って、絵が切り替わる……いえ、しかし、内容は判別できませんね。見たこともない文字が、いや、絵……でしょうか?」

 

ちかちかと、秒針が動くアニメーションを表示する画面だが、時計の姿形が概念から違うこの世界の人間には、表示される時計盤の意味が理解できない。画面下部に出ている時間を示す数字も同様で、幾何学的な紋様がのたくっているように見えるのが関の山だろう。

同じだけの感慨を日々、スバルも受けているのだから当然だ。

 

「特別な文字だし、誰にも読めないと思うぜ?」

 

「だが、卿には使いこなせる……というわけか?」

 

「全部の機能が使いこなせてる、ってわけじゃねぇけどな」

 

クルシュの問いかけに、細心の注意を払いながらスバルは言葉を選ぶ。

クルシュとの相対において――否、クルシュが同席している場面において、絶対に避けなければならない条件がひとつだけある。

その踏んではならない地雷を避けるために、スバルの脳は全霊を傾けながら言葉を選び出していた。

 

「つまり、卿はこう言うわけだ。――この魔法器とやらが、白鯨の接近を報せる『警報石』のような役割を果たすのだと」

 

「その警報石ってのが聞き覚えないけど、そうだと思う」

 

名前からして、おそらくはこの世界の警報機代わりを果たす魔鉱石の一種だろう。

音や気配、マナの動きに感応して、光を放ったり警告音を発したり、そのあたりをするための道具であると当たりをつける。

 

「白鯨の接近に際し、その存在を報せる魔法器……か。目利きはどうだ、ラッセル・フェロー」

 

「正直なところ、お手上げですね。魔法器に関しては個体差が大きく、同一のものが出土することも稀です。複製法まで確立されている対話鏡などは、あくまで例外の中の例外ですから。……したがって、この魔法器の使い道の真偽については難しい」

 

自分の知識にない道具への判断を聞かれ、しかしラッセルは根拠のない推測を口にすること避ける。現状、ラッセルの立場はいまだスバル側にもクルシュ側にもよって立っているわけではなく、あくまで善意の第三者の立場にある。

交渉の推移は彼自身の立ち位置にも大きく影響するのだ。自然、スバルとクルシュのどちらに与するのが自分の利になるのか、見極めの最中である彼の目は厳しい。

 

結果、ラッセルに回答を拒まれたクルシュは難しげに眉根を寄せ、

 

「そうなると、真偽のほどを確かめる手段は見当たらなくなるな。それでは卿の主張を鵜呑みにすることは難しい。さて、どうする?」

 

「確かに、困った事態だな。せめて、なにか証明する手段がありゃぁいいんだが」

 

両手を広げて、スバルはお手上げとでもいうような仕草でクルシュに向き直る。彼女はそんなスバルの態度と言葉に訝しげに片目をつむり、「ふむ」と小さく吐息を唇から漏らしたあとで、

 

「実際に魔獣に近づけて鳴らしてみるか?あるいは、その魔法器が魔獣に反応する道具であると、証明できるものがいるか?」

 

「一個、訂正するぜ」

 

指をひとつ立てて、スバルはクルシュへの意趣返しを込めて指を振り、

 

「魔法器は魔獣そのものに反応するわけじゃない。そうすると、あちこち生息してる魔獣に節操なしに鳴りまくっちまうからな」

 

「――つまり、魔獣の脅威に対してのみ反応すると?」

 

スバルの注意にクルシュが応答し、それから彼女は「そんな都合のいい話が」と続けて一笑に付そうとした。

が、その彼女の反応に先んじて、

 

「――あ」

 

と、小さく納得に似た感慨を込めた声を漏らしたものがいた。

誰であろう、それはいまだスバルの袖に指を触れたままのレムである。

 

彼女は会話の中に自分の意思が介在したのを恥じるように口元に手を当てたが、その彼女の謝罪を耳にするより先に、

 

「気になる反応をしたな、レム。心当たりでもあるのか?」

 

クルシュの追及するような声に、レムは一瞬だけスバルの横顔に目を走らせる。そこに謝意と懸念が浮かぶのを見取り、スバルは彼女を安心させるように頷くと、

 

「なにかあるなら話してくれていいぜ?」

 

「――はい。スバルくんがそう仰るなら」

 

許可を受け、一歩を前に出たレムがクルシュに向き直り、テーブルの上の携帯電話を手で示しながら、

 

「領内でのことですので、あまり細かなお話はできませんが……先日、魔獣に絡んでの騒ぎがありました。その中で、いち早く事態の収拾に動いたのがスバルくんだったことは、主であるロズワール様もお認めになられるところです」

 

「魔獣に絡んでの一件――その前触れに、この魔法器で気付いたと?」

 

「なんの理由もなしに気付くには、勘が良すぎる類の問題でしたので」

 

恐々と、レムはかすかに首を傾けてスバルの方をうかがう。

内々で彼女なりに、スバルがジャガーノートの一件をどう察知していたのかに関して思いを巡らせていた部分はあったのだろう。

その彼女の疑念、というよりは純粋な疑問点が、スバルの提出した『魔法器』によって解消されつつあった。

 

「――――」

 

静かに、レムの答えを聞いたクルシュの視線が彼女に突き刺さる。

鋭い眼差しはレムの双眸に意識を注ぎ込み、その内部までつぶさに見透かそうとしているかのような錯覚を味わわせる。

時間にしてみればほんの数秒、しかしドッと体力を奪われるような威圧感を浴びせかける時間が過ぎ去り、

 

「――嘘は、言っていないな」

 

と、クルシュはレムの答えに対し、一定の理解と信用を示した。

その彼女の言葉を聞き、スバルは露骨な安堵が表情に出ないよう苦慮しつつ、心の内では拳を固く握りしめてガッツポーズを取るのを堪えられない。

 

魔法器『携帯電話』のその機能に関して、スバルが口にしたのはもちろん全てが全て出鱈目の大法螺に過ぎない。

ハッタリにハッタリを重ねまくった茶番であり、虚偽塗れである事実を知られれば対等の交渉と語った場面での無礼、叩き切られておかしくない蛮行であったといえる。

 

しかしスバルはこの悪状況を、懸命な言葉選びと話題の誘導で誤魔化し切った。

 

クルシュの質問に対し、スバルは一度たりとも嘘偽りを述べていない。

携帯は魔獣の存在に対して手当たり次第に鳴るような道具ではないし、メール機能すら無精していたスバルはその機能を使いこなせているわけでもない。

嘘を言わずに切り抜けられない場面は沈黙と話題のすり替えで誤魔化し、そしてもっとも難関と考えていた、第三者による『魔法器』の機能の肯定。

 

それは無自覚にスバルの味方となる発言をした、レムへとクルシュの興味を誘導することでどうにか成し遂げた。

『魔法器』が魔獣の脅威に反応すると話題にすれば、レムならばジャガーノートと結び付けてくれるものとスバルは予測した。事実、レムはジャガーノートの騒ぎの件と携帯を結びつけ、その反応はクルシュの興味を見事に引いた。

 

レムは事実として、自分の信じる内容を口にしただけだ。

イコールそれは真実とは異なる理解であったが――。

 

「まるで相手が嘘言ったかどうかわかるみたいな言い方だな」

 

「自慢させてもらうと、その通りだ。観察眼――といえば聞こえはいいが、実際には我が身に与えられた『風見の加護』の恩恵だな」

 

かまをかけるつもりでのスバルの物言いに、想像外の返答で応じてくるクルシュ。

スバルはクルシュが以前の世界で口にした、『嘘を見抜く能力』に関して、あくまで彼女の眼力の確かさによるものであるとばかり思っていたのだが、

 

「風を見るということは、目には見えないものを判断材料とするということだ。自然、私の目には相手の取り巻く『風』が見える。嘘偽りを口にするものの下には、当然ながらそういう風が吹くものだ。――レムにはそれが一切なかった」

 

「へ、へえ、そうなんだ。それは知らなかったなー」

 

「動揺の風が吹いているぞ、ナツキ・スバル。まあ、交渉の場で私の風見の加護を知らないのは不公平も甚だしいからな」

 

あっけらかんと言ってのけるクルシュの人の悪さに、スバルは内心の動揺を隠し切れないままひきつった笑みを浮かべる。

相手の言葉の真偽を否応なく見抜ける加護、一種の反則技だろう。YESかNO程度の見極めでも、それが交渉という言葉のカードを切り合う場面では極悪な手段となり得る。

ともあれ、

 

「今の卿の態度はどうであれ、レムの口にした内容に虚偽はない。少なくとも、卿が魔獣の脅威を事前に察する手段を持ち合わせている、という根拠にはなるだろう」

 

レムの言葉の是非を問い、自らの『風見の加護』に信頼を置くクルシュは、スバルの用意した姑息な抜け道を見過ごした。

高潔な相手に騙しを仕掛ける点にスバルは罪悪感を抱くが、表面上にその内心の痛みは微塵も出さない。根本的な部分で偽りをぶつけるつもりではない、というのが言い訳にもならないことを理解しているからだ。

 

互いに立場を明確にし、交渉の場面で相対すると割り切ったのだ。

ならば切れる手札を、相手に良く見えるよう切る方法を選ぶことに、罪悪感など持ってはならない。ましてや、『嘘』をつき切る覚悟もないなど無礼千万。

 

「魔法器の効果に関して、信じてもらえるか?」

 

「それも早計だな。あくまで、裏での繋がりがないのが見透かせたとはいえ身内の擁護に変わりはない。王選の今後――ひいては、王国の未来を左右するかもしれない判断だ。軽率には行えまい」

 

ここで口説き落とせれば、というスバルの目論見はさすがに流される。

白鯨の出現情報――そこに最低限の信用は得たようだが、あくまで笑い飛ばさずに継続して話題に使ってもらえる程度のレベル。

その信頼度を持ち上げ、スバルの望む答えを引き出すには――、

 

「――その魔法器の商談、ウチも混ぜてもらってええ?」

 

ふいに室内に響いたのは、それまでこの場にいた誰のものとも違う声音だった。

驚き、慌てて振り返るスバルの眼前、開かれた広間の扉に背を預けて、持ち上げた手の甲で戸を叩く素振りを見せる人物がいる。

 

「呼んだ張本人が一番驚いてるって、おかしいなぁ、自分」

 

彼女は唖然とした顔のスバルを見ると、その柔らかな面立ちを意地悪げにゆるめて笑い、己のウェーブがかった薄紫色の髪にそっと指を通した。

腰まで届く柔らかな髪は綿毛のようで、おっとりとした顔立ちは自然と他者へ安らぎの感慨を与える。しかし、笑みを形作る瞳の奥は油断ない輝きでこちらを睥睨し、その頭の内には数字が競い合うように並び立つ経済の世界の魔物。

 

「――アナスタシア・ホーシン」

 

静かに低い声で、その来訪者の名前をクルシュが呟く。

それを受け、名を呼ばれたアナスタシアは「おおきに」と微笑み、

 

「なんや呼び出されたから慌てて出てきたのに、ウチ抜きで商談始めてるやなんてずるいやないの。そんな面白そうな儲け話……ウチも混ぜたって?」

 

内容とは裏腹に愉しげに言い、広間を横切って中央へ進むアナスタシア。

その歩く彼女に息を呑み、スバルは一瞬だけ弱気の浮かんだ瞳を彼女の背後へと送る。開かれた扉はゆっくりと閉じ、彼女以外の来訪者は――、

 

「ユリウスならきーへんから、安心してな?」

 

「――っ」

 

そのスバルの内心の焦りを見抜き、スバルの横を抜ける際にそっとアナスタシアがこぼす。彼女はスバルの驚きの眼差しを横顔に受けると、「いやいやぁ」と困ったような態度で肩をすくめ、

 

「今、ユリウスは団長命令で謹慎期間中。主君の命令もなしに、余所の子ぉにおいたした罰の真っ最中やね。困った騎士様や」

 

「謹慎……」

 

知らなかった事実を知らされて、鸚鵡返しのスバルは驚きを隠せない。

あの練兵場での一件は近衛騎士団の総意であり、てっきりスバルの無様は表沙汰にならずに葬られるものと思い込んでいたのだが。

 

ちらと横目でフェリスをうかがえば、彼は素知らぬ顔でスバルに笑い返す。知っていて、それらの話をスバルに伝えていなかったとすれば――ずいぶん手厳しい。

あるいはつい半日前までのスバルであったなら、その話を聞いたところでユリウスの境遇をいい気味だと笑い、己への戒めになど一切考えなかっただろう。

それを、彼の騎士はわかっていたのかもしれないが。

 

ともあれ、

 

「呼び出された……ということは、卿を呼んだのはナツキ・スバルか?」

 

「そのお付きの可愛い女の子やけどね。ホントなら門前払いやけど……王選の関係者で、おまけに『白鯨』の情報を売るなんて話聞かされたら、こないわけにはいかないですもん」

 

クルシュの問いかけに応じるアナスタシアがスバルを見る。

その彼女の視線に顎を引いて頷きかけ、スバルは状況が大きく動くのを感じる。

 

――これで、この交渉の場に招きたかった全員が一堂に会したことになる。

 

対等な同盟の相手としてクルシュ。そのクルシュと渡り合うため、付け加えて王都の商人を代表してラッセル。さらにはクルシュの対立候補であり、ラッセルとも張り合う立場であるアナスタシアを加えれば――、

 

「失礼して、お聞きしたいことがあります、スバル殿」

 

「ああ、なんだ、ラッセルさん」

 

手を掲げ、アナスタシアを視界に入れながらラッセルが問いを発する。

スバルの頷きに彼は己の顎ヒゲに触れ、「まさかとは思いますが」と前置きし、

 

「この場にアナスタシア様をお呼びした真意をお聞きしたい。王選の候補者、そしてホーシン商会は王都の商家の集まりにも、新興ながら発言力がある。私としてはこの会での立ち位置が不鮮明になる以上、尋ねないわけにはいきません」

 

「天秤にかけるため、とか言ったら怒るか?」

 

片目を閉じ、そう応じるスバルに部屋の中の空気が一気に変わる。

ラッセルは懸念が的中したことに不快感を顔に浮かべ、クルシュも瞑目する表情に険しいものを感じさせる。アナスタシアだけはそれまでと雰囲気を変えないが、彼女が最初から持つ獲物を狙う肉食獣のような眼光は欠片も揺るがない。

 

「つまり卿はこう言うのか?――アナスタシア・ホーシンと当家と、どちらが『白鯨』の情報を高く買うか競わせ、その上で同盟相手を選ぶと」

 

「――――」

 

「だとしたらそれは、あまりにも浅慮な選択だぞ、ナツキ・スバル」

 

無言のスバルに覇気を叩きつけ、クルシュは椅子から立ち上がってアナスタシアの前に立つ。自然、身長差のある二人の立ち合いはアナスタシアが見上げる形になるが、

 

「ああ、ええなぁ、クルシュさん。上に立ってる人間が、下から追い落とされることに怯える……その顔、見ててゾクゾクするわ」

 

「いい趣味とは言えんな。もっとも、己の欲の欲するところを正道とする卿ならばあるいは当然の判断か。……だが、私のありようは変わらない」

 

アナスタシアの挑発めいた言動を真顔で受け流し、クルシュは彼女から視線を外すと鋭い眼光でスバルを射抜き、

 

「聞いての通りだ、ナツキ・スバル。もしも当家とホーシン商会の間で競りが始まることを期待しているのであるとすれば見当違いだと言わせてもらう。当家は商人勢ほど白鯨の情報に固執する理由がない。故に卿の思惑に乗る理由は……」

 

「ああ、早とちり早とちり、二人とも落ち着いてくれって」

 

ばっさりと、そのまま白鯨云々以前に同盟交渉すらも打ち切りそうな勢いのクルシュに掌を向けて、スバルは内心でかなり慌てながらそう告げる。

そのスバルの言葉に鼻白んで、思わず口をつぐむクルシュ。その彼女の後ろで、

 

「早とちり、ということは候補者同士に値段を釣り上げさせる目的ではないと?」

 

場を俯瞰し、あわよくば漁夫の利を得ようと目を光らせていたラッセルが首をひねる。その彼の疑問に「ああ」とスバルは頷きで応じて、

 

「誰かをそんな簡単に掌で泳がせるとかできると思ってねぇよ。俺の手が小さいことは俺がよくわかってらぁ。……誰かの手ひとつ、握るだけで精いっぱいだよ」

 

手持無沙汰に空っぽの手を揺らすと、その手がそっと横から温かな掌に包まれる。レムだ。彼女は震えが始まりそうなスバルの指を柔らかに包み、振り向くスバルの横顔にかすかに赤らめた頬をしたまま頷きかける。

 

「と、まぁこんな感じで誰かの手を握るのが精いっぱい……」

 

「あー、はいはい、ごちそうさまやね。で、お話の先はどうなりますの?」

 

「お粗末さまです。えっと、つまりだな……」

 

思いを打ち明けてから積極的に肉体的接触が増え始めたレムにドギマギしながら、スバルは掌の温もりに勇気をもらって話題を再開。

 

「白鯨ってカードを切って、王都を代表する商人を二人招いて、こうしてこんな大仰な状況を作り上げたわけだが……その上で、提案したい話があるのさ」

 

指を鳴らし、全員の意識を引きつけながらスバルは歯を剥いて獰猛に笑う。

強気に、勝気に、弱々しいところや及び腰の姿なぞ一切見せずに、スバルはゆっくりと鳴らした指をクルシュへと突きつけ、

 

「聞いて、もらえるか?」

 

「――卿の話を遮り、間違った結論を述べたのは私だ。ならば私には、卿の提案を考慮する義務があろう。述べよ」

 

立ったままの姿勢でクルシュは腕を組み、堂々たる姿でスバルに向き合う。

吹きつける威圧の風は強さを増しており、肌に粟立つように鳥肌が浮かぶのを禁じ得ない。アナスタシアまでも同じようにスバルを見ており、襲いかかるプレッシャーは単純に二倍――ひとりなら、茶化して笑い飛ばして逃げていたはずだ。

 

「――――」

 

きゅっと、握られた掌へ感触が蘇る。

名前を呼ばれたわけでも、ましてやなにか符号を互いに通じ合わせていたわけでもない。ただ純粋に、レムの気持ちがスバルは嬉しかった。

それだけで、スバルは魔女とだって戦える。

 

目をつむり、息を一度止めて、脳に思考と酸素がめぐるのを感じ取る。

乗ってくる、はずだ。考えに、考えて、考え抜いた。一度、二度、三度の世界を幾度も頭に回想し、得てきた情報を寄り集めて、形作った予想絵図がある。

確定ではない。誰かの口から聞いたわけでもない。しかし、この交渉の場からも得られる情報はあり、その絵図はひとつの可能性を示唆していた。

それが自分の都合のいい幻想なのか、それとも三度死んだことを無為にせずに済むような奇跡なのか――いざ、勝負だ。

 

「クルシュさん、あんたが」

 

「――――」

 

「あんたが目論んでる『白鯨』の討伐に、俺の情報は絶対に有用なはずだ」

 

――スバルの持つ未来の情報と、クルシュが抱いていた目的。

 

互いに『白鯨』を狙うもの同士の符号、それこそがスバルが彼女を――クルシュ・カルステンを同盟相手に相応しいと、そう判断した根拠であった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――刹那、広間に落ちた沈黙は思考の時間をそれぞれに与えた。

 

クルシュに、アナスタシアに、フェリスに、ヴィルヘルムに、ラッセルに。

各々、今のスバルの発言を受け、その内容を吟味するように瞑目する。

 

その沈黙の間、時間にすれば数秒に過ぎなかっただろう時間は、すさまじいプレッシャーとなってスバルの精神を絞り上げにかかった。

胃が軋み、内臓が絶叫し、頭蓋を直接鉄の棒で叩かれるような高い音の痛みが歯の根を震わせる。

 

勝負に出た。打って出た。

ここからはこれまでの会話の流れと違い、明確にシミュレートできた部分ではない。相手の反応が想像できず、場の流れに適応していくしかない流れだ。

出鼻にまず、クルシュがどう出るか――。

 

「ひとつ、考えを問い質そう、ナツキ・スバル」

 

沈黙を破り、最初の一言を放ったのはやはりクルシュだった。

彼女は組んだ腕を解き、その中から立てた指をひとつだけスバルの方へ向け、

 

「その突飛な発想はどこから出てきた?なぜ、当家がそのようなことを目論んでいるのだと、判断する?」

 

抑揚のない声音には動揺も戸惑いも見受けられず、感情が伝わってこない。

為政者としての貫禄が重々しい態度に溢れていて、自然と畏まる態度になるスバルは目を泳がせ、「えっと」と前置きし、

 

「レム」

 

「はい」

 

「ちょっと背中、思いっきり叩いてくれ」

 

「はい」

 

言ったあとで、「あ、思いっきりは言い過ぎた」と思ったのだが遅い。

すさまじい衝撃が、激しく渇いた音が炸裂し、スバルは突き抜けた威力で腹から内臓が全部落ちたのではないかと錯覚した。

 

もちろん、彼女なりに手加減はしてくれていたのだろうが、スバルの背中には彼女の小さな掌の形がくっきり、赤い斑紋となって刻まれたことだろう。

さて置き、スバルはその痛みと熱に気を引き締め直し、何事かと今のやり取りを驚きで見守る周囲に向き直ると、

 

「見苦しくて失礼。ちょっと、喝を入れてもらったところだ」

 

「……挑む前に尻込みする己の気を正す、誰しも心当たりのあることだ。責めはしまい。私も大きなものに挑む前には昔教わった、掌に『敵』と書いて呑み下し、相手を逆に呑み込むという迷信に頼ることもある」

 

「クルシュ様、クルシュ様。それ、かなり前にフェリちゃんが適当に教えたおまじないです。まだ覚えてらしたんですか?」

 

歩み寄って小声で過去の悪戯を告白するフェリスに、クルシュは「なに……」と少しばかりの驚きを眉根に表し、

 

「嘘、だったのか?」

 

「他に類を見ないというだけで、クルシュ様の心の迷いを払う力になっていたんなら嘘じゃないですヨ。フェリちゃん、クルシュ様のお力になれて嬉しい」

 

「そうか、私を思ってのことか。なら許す」

 

あっさりフェリスの口車に乗ってしまうクルシュを見ていると、なんだか交渉の難易度が下がったような気がして少し勇気づけられる。

ともあれ、そんな主従のどこか抜けたやり取りを横目に、アナスタシアも「うーん」と唇に指を当てて小首を傾け、

 

「ウチも大事な商談の前にはおまじないするな。金銀銅貨を袋に詰めて、耳元でじゃらじゃら鳴らしてると勇気が湧いて……なに、その顔」

 

「改めて国のてっぺん競う同士の会話じゃねぇよこれって思っただけだよ」

 

大事の前の小事と割り切り、スバルは彼女らの発言に目をつむる。

アナスタシアはそんなスバルの反応に不満げに唇を尖らせ、今日も王選の場でまとっていたのと同じ毛皮の肩掛けを指でいじりながら、

 

「ま、息抜きはそのへんにして……さっきの続き、ウチも聞きたいな。お話、よろしくしてもらってええ?」

 

「ああ……気ぃ遣ってもらって悪いな」

 

ぼそりと、後半は聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。アナスタシアは小さく手を振るだけで応じ、それが聞こえたかには言及しなかった。

今の彼女とのやり取りが、スバルが考えをきっちりまとめるだけの時間を稼ぐための計らいであったのは明白だ。クルシュたちに関しては素の可能性が高いが、その厚意に甘えてスバルは一度考えを整理し、口を開く。

 

「最初に妙な感じを覚えたのは、鉄製品――つまるとこ、武具が高値で売買されてるって話を聞いたときだ」

 

ゆっくりと、噛み含めるように、スバルは散らばる情報を拾い集める。

それは一度目の世界で、二度目の世界で、三度目の世界で知り得た情報の数々。

 

「それまで二束三文だった武具やら防具やらを大量に集めてるところがある。それがクルシュさんのとこだってのは、まぁ商い通りとかうろついてればそれなりにな」

 

戦争の準備でもしているのか、と笑ったのは同道した行商人の誰かだったか。

事実、クルシュは戦争の準備をしていたのだとスバルは読んでいる。

 

その相手が人間ではなく、強大な魔獣である点が彼らとの考えの違いだ。

 

「市場に影響があるくらいだからけっこうな勢いで集めてたみたいじゃねぇか。そんなに急いで、おまけに自分の領地じゃなくて王都で武器をかき集めてる。なにかあるんじゃないかって、そう考えるのが人情だろ?」

 

「それで事を『白鯨』を結びつけるのは突飛すぎるな。白鯨の『は』の字も出てこないではないか。当家が武器を、鉄を集めているのは事実だが、それが白鯨討伐を目的としているとは考えられまい?純粋に戦力を集めて、王選の成り行きなど無視して武力による国家制圧を目論んでいるかもしれんぞ」

 

「そんな暴挙に出る理由がねぇし、そんな人間じゃないことぐらい俺だってわかる」

 

向かい合う人が大きいのなら、それを見誤らない程度に見る目はあるつもりだ。

クルシュほど、遠目から見ても人物像がぶれない人間もそういるまい。誠実、高潔、それらの単語を具現化したようなありように、そんな疑問など抱けるものか。

 

そのスバルの返答にクルシュは「そうか」と短くこぼし、それから興味深げな視線でスバルを眺めると、

 

「それにしても、少しばかり驚かされるな。てっきり卿が日中に下層区に降りているのは、手持無沙汰を誤魔化すための手慰みなどと思っていたのだが――見る目がないのは私の方か。侮ったことを許せ」

 

「ん、ああ、そうなんだよ。俺もほら、別に遊び呆けてたわけじゃねぇんだ」

 

感心したと吐息を漏らすクルシュの姿に罪悪感がちくちくと芽生える。実際、彼女の見立ては非常に正しい。後出しで正当化しているスバルの人間性は、彼女がそれまで判断していた侮りで十分に肯定されよう。

 

首を振り、気を取り直し、スバルはクルシュを見つめながら続ける。

 

「武器を集めてるってわかったとき、考えたのはもちろん戦争準備だ。問題はなにと戦おうとしてたかって部分だが……そこは、さる商人が口を滑らせた」

 

「さる、商人」

 

さっきまでの下層区をうろついていた流れを受け取り、スバルはヒントを得た部分についてを軽くぼかす。そのスバルがぼかした部分に関してクルシュは片目をつむり、開いている方の目で意味ありげにラッセルを見やる。

その視線にラッセルは恐れ多いと言わんばかりに身を引き、手と首を振って疑惑を否定する。クルシュはその態度に嘘が見当たらなかったのか、いくらか納得のいかなげに吐息を漏らすばかりだ。

 

事実、現状のラッセルから嘘の気配を感じ取ることは不可能だろう。

だが、その疑惑は間違っていない。スバルにクルシュが『白鯨』を狙っているのではないか、と思わせた言葉を発したのは、誰であろうラッセルだからだ。

 

ラッセルと以前の世界で初めて対面したのは、彼がクルシュの邸宅から話し合いを終えて帰るときのことだった。

そのとき彼とクルシュとの間の会談は破談したようだったが、去り際の彼がヴィルヘルムの質問になんと答えたのか、スバルは忘れていない。

 

――クルシュの目論見が成れば、それは商人である自分たちにとっても喜ばしい話であると。

 

クルシュが王になることを見越しての発言であったのなら、会談が破談に終わった体であることが腑に落ちない。かといって、他の可能性でクルシュとラッセルの――ひいては王都の商人に利することがあるとすれば。

 

「王選でほぼ単独トップをひた走るクルシュさんなわけだが、どうも商人連中からの受けはそんなによくないみたいだな。馴染みの果物屋がこぼしてたぜ」

 

「否定はしないな。金はあるところから引っ張るのが一番利に適っている。私の領地での商売に、税収がかかるのは認めるところだ」

 

もっとも、と彼女はスバルの言い分を認めた上で言葉を継ぎ、

 

「その分、治安の保障で還元しているつもりではあるが――傍目から見ればその恩恵が伝わり難いのは承知の上だ」

 

「実際、クルシュさんとこの領地でその恩恵を受けてる連中と違って、王都にいる商人勢は上っ面の情報でクルシュさんの人となりを判断するしかねぇしな」

 

彼女が為政者として、自分の領地をうまく切り盛りしているのは事実だろう。

が、その手腕を実際に目で確かめることができる立場の人間以外は、その彼女の評価を上辺だけの見聞きした情報で決めるしかない。

 

エミリアがただ、ハーフエルフであるという事実だけで疎まれるように。

彼女もまた、その苛烈な生き方の負の側面だけを見る人間には疎まれるのだ。

 

「そこで俺はこう考えた。クルシュさんはそういう人を上っ面だけで判断するような連中は好かないと思うが、そんな連中でも味方につけなきゃならないこともある。そうなると、そんな連中の評価を好転させるにはどうすりゃいいか……」

 

「人の上っ面の悪い話で判断するんやったら……その上っ面、良い話で塗り替えたったらええってことやな」

 

スバルの言葉の最後を引き取り、アナスタシアが結論を述べる。それから彼女は今の話を振り返るようにわずかに上を見て、その唇を綻ばせると、

 

「まぁ、都合のいい話やんな。事はそんな簡単にはいかないし、そもそもの見込み違いの可能性も高い。だいぶ、都合のええ曲解とかしとるのと違う?」

 

「否定は、できねぇ。クルシュさんが武器集めてんのと、なにかしらでかいことやって商人味方にしようとしてるってのは間違いない。けど、それが白鯨と結びつくかどうかってのは希望的観測だ。俺が白鯨が近い内に現れるのを知ってるから、それと関連付けてるってだけの話かもしれねぇ」

 

だが、と言葉を継ぎ、スバルはクルシュを真っ直ぐに見る。

スバルの視線を受けるクルシュの表情には感情が浮かばず、その内心を透かし見ることはできない。しかし、否定の言葉は出てこない。ならば、

 

「改めて言う。エミリアとクルシュの同盟に関して、エミリア陣営から差し出せるのはエリオール大森林の魔鉱石採掘権の分譲と、白鯨出現の時間と場所の情報。つまるところ、長いこと世界を騒がしてきた魔獣討伐――その栄誉だ!」

 

「――――」

 

「俺の言葉が的外れで、全然意に沿わないってんならばっさり切り捨ててくれ。もし違ってんなら、純粋に白鯨の出現情報だけの取引きにしてもらってもかまわない」

 

あるいはその情報だけでも、この場にいる商人二人ならばうまく利益に繋げ、クルシュの面目を保つことはするだろう。王都の商人たちの見る目も、クルシュに対して好意的に変わる可能性は十分にある。

だが、

 

「けど、もしもあんたの狙いと俺の望みがかち合うなら――」

 

手を広げて前に差し出し、スバルはクルシュへと求める。

その手を取り、スバルが見てきた未来の価値を証明し、壁を取り払うことを。

 

「白鯨を、討伐しよう。――ひと狩りいこうぜ」

 

あの異形の存在を、悪夢めいた強大な魔獣を。

行商人たちにとっての災いの象徴を、スバルにとって忌まわしき記憶の種を。

霧の魔獣の討伐を、スバルはクルシュに提案する。

 

「ひとつ、問いを発そう」

 

差し出されたスバルの手を見下ろし、クルシュはこちらに指をひとつ立てた。

その問いかけが、彼女を乗り越える最後の関門であるとスバルは直感する。

 

ここまで、スバルは彼女の『風見の加護』の力を掻い潜ってきた。そしてその上で目的を、交渉の重要な場面を引き出すことに成功した。

あとは、最後の一番勝負――彼女がなにを問うのか、スバルは息を呑み、

 

「卿が――白鯨の出る時間と場所を知っているのは、確実か?」

 

――ああ、ダメだぜ、クルシュ。

 

内心で小さく呟き、スバルは呑んだ息に言葉を添えて喉を通し、

 

「ああ、本当だ」

 

――それじゃ、俺に、嘘はつかせられない。

 

「白鯨の出る時間と場所は俺が保障する。命、懸けてもいいぜ」

 

文字通り、自分の命懸けで他人の命を支払って得た情報だ。

その確実性に疑うところはないし、ここは引け腰になる場面でもない。

 

「――いくらか疑問点はあるが、こちらの思惑を見抜いたのは見事、というべきか」

 

小さく吐息し、クルシュが観念したように目をつむってそう答える。

その答えに最初、スバルはどういった意味があるのかを掴みかねた。が、その言葉がゆっくり脳に沁み込み、形を作るにつれて輪郭が明快になり、

 

「それじゃ……」

 

「疑惑はある、疑念はある。腑に落ちない点も多く、即座に頷くには難しい。が」

 

クルシュは指を立てていた手を握ると、その手をそのままスバルの方へ。差し出していた手が彼女の手に上から握られ、

 

「この状況を作った卿の意気と、この目を信じることとしよう」

 

交渉は、成立だ。

その二人の交わす握手を見て、盛大に肩の力を抜いたものがひとり――ラッセルだ。彼は大げさに息をつくと、やれやれとばかりに首を振り、

 

「いくらかひやひやさせられましたが、成立したようでなによりです。スバル殿も、会談の前のお約束は確かに」

 

「ああ、貧乏くじばっかで悪かったな、ラッセルさん。白鯨の討伐が済んだら、約束通りにケータイはあんたに譲るさ」

 

握手する二人に頬をゆるめるラッセルに、スバルもまた人の悪い笑みで応じる。その会話を聞いて、眼前のクルシュは露骨に顔をしかめると、

 

「やはり、通じていたか」

 

「ここに呼んだの俺だぜ?夕方にクルシュさんとラッセルさんの話し合いが決裂したあと、ラッセルさん訪ねたときにある程度の話は通してあったさ」

 

「悪く思わないでいただきたいところです。実際、私共としては不自然に肩入れはしていないつもりでしたよ。あくまで、同盟成立後を見据えての関係ですので」

 

しれっと語るスバルとラッセルに、クルシュは瞑目して鼻を鳴らす。

 

レムとの交渉前の情報交換を終えたあと、スバルはその足でラッセルとの連絡を取った。話し合いが決裂し、彼がクルシュの邸宅を出て自宅へ戻るところを捕まえ、今回の話を持ちかけたというわけだ。

嘘を見抜かれる心配のない相手に、スバルは最初から『クルシュの白鯨討伐』を知っている体で話を進め、王都でも数少ないクルシュ陣営以外でその目論見を知る人物の消極的協力を取りつけた。

 

携帯を利用しての、魔物警報機トークも事前打ち合わせ通り――もっとも、携帯が事実として警報機の役割を果たさない点に関しては、ラッセルにも報せていないが。

 

それらの答えを受け、クルシュは今度はゆっくりとアナスタシアへ視線を向ける。彼女はクルシュの視線に対し、はんなりとした笑みを向け、

 

「どないしました、クルシュさん」

 

「ラッセル・フェローとナツキ・スバルの繋がりは理解した。だが、そうなると卿の立ち位置が不鮮明だ。何故、卿はここへ呼び出された?」

 

「まあ、ひとつは説得力の水増しやろね」

 

楽しげに部屋の中を見回し、アナスタシアは襟巻きの毛に触れながら、

 

「王選の候補者が二人と、王都有数の商人がひとり。同盟交渉の場にそれだけの関係者を集めて、不用意な情報やら発言ができるもんやないもん。せやから、ウチがここにおるだけで、その子の言葉に重みが出るやろ?」

 

違う?とアナスタシアはスバルの思惑を読み取って首を傾げる。

内心、冷や汗かきつつスバルは無言で愛想笑いして誤魔化すしかない。実際、その線を狙っての呼び出しではある。

王選の候補者を集めて、まさか嘘八百をぶちまけるような真似はしまい、と少しでも思ってもらえていたのならば思惑通り。そのあたりを読み切って参加されるあたり、アナスタシアもよほど一筋縄ではいかない相手らしいが。

 

「ならば、別の理由はなんだ?」

 

「そっちはもっと簡単やん。――ウチ、商人やから」

 

口元に手を当てて嫌らしく笑い、アナスタシアは弾むように前へ出る。

それからいまだ、手を取り合っているスバルとクルシュの手の上に自分の両手の掌もそっと被せると、

 

「白鯨の討伐、大いに応援しますわ。ウチら商人にとって、白鯨の存在は死活問題やし、討ってくれるなら大助かりや。おまけで準備その他、ホーシン商会をご贔屓してくれるんなら言うことなしやし?」

 

「お待ちください。その点に関しては王都の商業組合が優先されるはずです。アナスタシア様も、割り込まれるのならば筋を弁えていただきたい」

 

割って入り、アナスタシアの商魂に物申すのはラッセルだ。

商人同士が視線を見合わせ、そこに火花を散らせる中、彼女らの発言を耳にしたクルシュがいくらかの疑念を瞳に宿してスバルを見る。そして、

 

「待て。卿らの話を聞くと、かなり時間の猶予がないようだが?」

 

「肝心なとこまでは聞いてないけど、話の振り方がその感じやったから。実際、ちょい焦っとるのと違う?」

 

細めた流し目に見られて、スバルは思わず息を詰まらせる。

が、事ここに至って、これ以上に情報を隠匿するのも問題が発生しよう。それぐらいならばと割り切り、

 

「ああ、そうだ。――魔法器によると、白鯨が出るのは今から約三十一時間後。場所は……フリューゲルの大樹、その近辺だ」

 

「三十一時間……!」

 

「フリューゲルの大樹」

 

クルシュが残り時間の少なさに歯噛みし、アナスタシアが出現場所に首をひねる。

そう、時間との勝負なのだ。白鯨の出現時間と場所の情報は、その存在が出現する寸前までしか価値を持たない。

白鯨を討伐するのを目的とするならば、

 

「三十一時間以内にリーファウス街道に討伐隊を展開し、出現した直後の白鯨を一瞬で仕留めなければならない」

 

「そのために必要なものは……」

 

素早く状況を呑み込んだクルシュにスバルが応じ、部屋の中の人員を見渡す。と、スバルの言葉を引き継ぐように前に出たのは老齢の剣士――ヴィルヘルムだ。

彼はこれまでの沈黙を破り捨てると、

 

「まず討伐隊の編成。これ自体はすでに数日前より、滞りなく。そも、白鯨の出現時期に合わせての準備です。王選の開始とほぼ同時になったのは、クルシュ様の強運の為せる業だと思いますが」

 

「話が早いな!白鯨の出る時期って……」

 

パターンがあるのか、とスバルは驚きを口にする。

以前までの世界で、オットーなどの口ぶりからすると、白鯨の出現は場所も時期も完全にランダムで、それ故に神出鬼没の怪物と恐れられているようであったが。

 

「ヴィル爺の執念の賜物にゃの。もう十四年も、そればっかり考えて色々とやってきてたんだからネ」

 

言いながら、スバルの疑問の声に答えたのはフェリスだ。彼はヴィルヘルムの隣に並ぶと、その肩幅の広い老人の腕に触れて、

 

「錬度と士気はヴィル爺がいるから心配にゃいけど、準備不足は否めにゃいかにゃーって。クルシュ様が軍勢率いて王都にきたなんて聞いたら、色んなところが騒がしくなっちゃうからこそこそ集まってもらったしネ」

 

「確かに。いまだ、武器や道具の準備は万全とは言えませんが……」

 

フェリスの言葉にヴィルヘルムが頷く。が、老人はその鋭い瞳をスバルへ、それからアナスタシアとラッセルの二人へ向けると、

 

「そのための、お二人の同席というわけでしょう。スバル殿」

 

「いやまぁ、こういうこともあろうかとってやつ?」

 

頭を掻き、ヴィルヘルムの言葉に弱気ながら謙遜で答えるスバル。

そのスバルの消極的な肯定の返事を受け取り、ラッセルが己の顎に触れて、

 

「すでに組合を動かし、準備を進めております。明日の昼過ぎまでには、王都中の商店から必要なものをかき集めてみせましょう」

 

「ホーシン商会も同じく、やね。組合所属以外のとこはウチらの領分やし、他にも売り物ならぎょうさん用意したってるから、期待しててえーよ」

 

ラッセルに続き、アナスタシアも力強い協力を宣言。

彼女はそれから物言いたげなクルシュの方へ視線を送ると舌を出し、

 

「商機を見逃さんのが商人言うもんや。これがウチが呼び出しに応じた理由。ああ、やっぱり人に物を売り付ける瞬間はたまらんなぁ」

 

身震いを隠さず、恍惚とした表情でアナスタシアは頬に手を当てて笑う。

紅潮した頬と可憐な容姿も相まって、それは非常に絵になる姿であるのだが、根底にあるのが守銭奴根性なのだから微笑ましいとも言っていられない。

 

「物もそうやけど、売るならやっぱり恩が一番。形ないし、損ないし――値札もついてないし」

 

「今味方だからアレだけど、改めて聞くとマジおっかねぇな、この商人!」

 

悲鳴を上げるスバルに、「ええやんええやん」とアナスタシアは上機嫌。そんなやり取りを見て、クルシュは毒気を抜かれたように吐息すると、

 

「交渉の前に道を塞いでいた、か。なるほど。この場面において、覚悟が足りていなかったのは私の方だというわけか。感服したよ、ナツキ・スバル」

 

「予習復習がうまくいったってだけの話さ。ぶっちゃけ心底ホッとしてるぜ、俺」

 

交渉の第一段階、即ち、乗り越えなければならない壁のひとつの突破だ。

事前に準備を張り巡らせた結果とはいえ、それでも紙一重の成立だとしか思えない。イレギュラーがスバルに味方したことも、反省点のひとつといえるだろう。

それでも、

 

「なんとか、王都に残った面目は保てただろ、レム」

 

「――はい。さすが、スバルくんは素敵です」

 

言って、クルシュたちに差し出すのとは反対の手を、握られっ放しだった方の手をやわらかに握り返して、交渉の勝利をレムと分かち合う。

思えば、この交渉の成就を誰より喜んでいるのは彼女だろう。

 

王都に残った当初、スバルに打ち明けられない彼女は孤独の中、クルシュとの交渉に臨んだはずだ。許された権限いっぱいで交渉に挑み、それでもなお同盟を維持することはできずにいた。不成立となればエミリアの陣営の窮地は変わらず、スバルの治療も目処が見えれば先はどうなるかわからない。

あらゆる不安が、彼女の心身を疲弊させていったことは疑いようがない。

 

その不安と、これまでかけてしまった心配に報いるだけのものを、少しは彼女に返せただろうか。

そうだったとしたら、今はそれだけがスバルには嬉しかった。

 

そして――、

 

「――スバル殿」

 

レムと喜びを交換するスバルに、ふいに声がかけられた。

見れば、すぐ近くまで歩み寄ったヴィルヘルムが、真剣な眼差しでスバルを見ている。自然、背筋を正される感覚にスバルが彼を見上げると、老人は一呼吸の間を置いて、

 

「感謝を」

 

と、短く告げて、その場に膝をついて礼の形を取った。

その突然の振舞いに、スバルは驚きを隠せない。が、その反応をするのはスバルだけであり、他の面々はそれぞれがヴィルヘルムの行いに一定の理解を示した顔をしていた。レムですら、アナスタシアですらだ。

 

「我が主君、クルシュ様へのものと同等の感謝を。この至らぬ我が身に、仇打ちの機会を与えてくださったことを感謝いたします」

 

「えっと、その……え?」

 

「すでに賢明なスバル殿は見抜いておいででしょうが、改めて」

 

ヴィルヘルムはスバルの戸惑いを無視し、腰から剣を鞘ごと外す。

そして剣を床に置き、その上に手を添える最敬礼の形を取ると、

 

「以前に名乗ったトリアスは、昔の家名です。先代の剣聖、テレシア・ヴァン・アストレアを妻に娶り、剣聖の家系の末席を汚した身――それが私、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアです」

 

息を継ぎ、ヴィルヘルムはその双眸に覇気に満ちた輝きを宿し、

 

「妻を奪った憎き魔獣を討つ機を、この老体に与えてくださる温情に感謝を」

 

深く深く、沁み入るようなヴィルヘルムの言葉。

その言葉に室内の全員が聞き入り、ただスバルの応じる答えを皆が待つ。

 

その期待に背中押されて、スバルは小さく息を吸うと、

 

「あ、ああ。も、もちろん知ってたけど。当然、それ込みでクルシュさんが白鯨討伐に乗っかってくるって思ってたわけで――」

 

「ナツキ・スバル」

 

微妙に噛みながらの答えにクルシュが割り込む。

彼女はたじろぐスバルを見据えて、いまだ手を取り合った姿勢のまま小声で、

 

「嘘の風が吹いているぞ、卿から」

 

と、初めて繕い切れなかったスバルの嘘を見抜いて、『風見の加護』の効力を証明してみせたのだった。