『祖母と、母と、姉と、孫で、息子で、弟で』
「エミリア様がやる気満々になったところ悪いんだけど、墓所には先にガーフが入るわ」
話し合いを終えて、ガーフィールを連れて戻ったラムが開口一番そう言った。
それを聞き、スバルは目を見開き、エミリアとオットーも驚きを露わにしている。
「ガーフィールが『試練』って……本気か?」
「本気も本気よ。ねえ、ガーフ」
恐々と尋ねるスバルにラムは頷き、自分の隣に立つガーフィールを見上げる。
それほど身長差のない二人だが、それでもわずかにガーフィールの方がラムより上背がある。ガーフィールは、今も乾いた血でパサつく前髪を指でいじくり、こちらの会話を耳に入れないように顔を背けていた。
その耳を、手加減抜きの勢いでラムが引っ張る。
「聞いてるの、ガーフ。無視だなんて、ずいぶんといい度胸しているじゃない」
「あだだ!だだァッ!?おい、ラム!?今、俺様の耳、根元がブヂッつったぞ、オイ!千切れる寸前……血ィ出てるッじゃねェか!」
「全員によってたかってタコ殴りにされたことの反省が活きていないようね?言っておくけれど、こっちにはまだ体力をまったく消耗してないエミリア様が残っているのよ。反抗的な態度をとったらどうなるか、わかってるの?」
「わ、私……そんな乱暴なことするつもりないんだけど……」
満身創痍はお互いさまで、消耗度も全員が限界値ギリギリ――だが、確かに戦いに参加していなかったエミリアだけは万全の状態だ。
それでも、彼女を巻き込まないことに意味のある戦いを終えたばかりなのに、すぐエミリアの力を頼りに示威行為に走るラムの胆力が恐い。
「わァってるっつんだよォ。今、この場で再戦したッとこで俺様に勝ち目はねェ。『地霊の加護』で力はだいぶん戻ってッきてやがッが……ケンカできるほどじゃァねェ」
「そう言ってもらえると、こっちとしちゃ安心だ。ぶっちゃけ、これ以上お前と殴り合いするのなんて願い下げだよ。死ぬかと思ったぜ。ここ一ヶ月で二番目か三番目に」
「ナツキさん、どれだけ修羅場ばっかくぐってるんですか?恐いんですけど」
ガーフィールとの殴り合いを思い出して身震いするスバル。そしてそのスバルの感想を聞いたオットーが壮絶さを想像して身震いする。
ちなみに死にかけた経験の中での二番目か三番目――実際に死んだ出来事を思えば、正しい意味での危険度はもっと下がるのかもしれない。
「……俺様ァ、二番目か三番目かよ」
「ああ。二番目か三番目か……そんなもんだ。表に出れば、もっと色々あるぜ」
「ハッ!その口車にゃァ乗らねェよ。『儲け話の陰にデリデリデあり』ってなァ」
スバルの挑発をガーフィールが鼻で笑い飛ばし、彼は額の白い傷跡に触れる。
それから、その鋭い金色の瞳をスバルたちの背後――悠然と佇む墓所へ向けた。
「口車と、実力行使と……二ッつまとめられてもまだ信じねェ。あとは俺様が、てめェの目で見て、判断する」
「何を、判断するの?」
声を低くするガーフィールに、エミリアが静かに問いかける。
ガーフィールは視線をエミリアへ向け、エミリアもガーフィールを真っ直ぐ見た。
あるいは、この『聖域』においてこの二人が、本当の意味で向き合ったのはこのときが初めてだったのかもしれない。
ガーフィールの、ひどく暴力的な視線を受けるエミリア。しかし、エミリアはその視線を前にしても、紫紺の瞳を弱々しく揺らめかせるようなことはしなかった。
互いの瞳の奥に何を見たのか、ふと二人は同時に唇を緩める。
ガーフィールは鋭い犬歯を噛み鳴らし、エミリアは胸元に指を伸ばしかけて、思い出したようにその手を止めた。
その仕草を見て、ガーフィールは自分の右肩に手を伸ばすと、
「ぬ、ずァ……ッ!」
右肩に突き立っていた青い結晶石が、鈍い音を立てて引き抜かれる。
一瞬、ガーフィールの右肩を血が伝ったが、彼は筋肉を締めて強引に止血。目を丸くするエミリアへ、引き抜いた結晶石を軽く拭って放り投げた。
「わ、あ……」
「きちっと受け取れや。そいつァ、てめェが……あんたが持ってんのが正しいだろうよ」
とっさに受け取った結晶石を見るエミリアに、ガーフィールがぶっきらぼうに言う。
エミリアはガーフィールの言葉を受け、手の中の結晶石の青い輝きに息を呑む。結晶石は薄ぼんやりと発光し、まるでエミリアの受け止められたことを喜ぶように点滅した。
横からそれを見ていたスバルは、喋れなくても変わらないなと腕を組む。
「ありがとう、ガーフィール」
「俺様からしたら忌ッ々しいもんをぶん投げッただけだ。感謝される謂れァねェよ」
感謝を告げるエミリアに言い捨てて、ガーフィールは何気なく空を見上げる。
視界の先、橙色に染まりゆく空は、じきに夜を迎えることだろう。そうなれば、『試練』を開始する準備が整う。
「――確かめてくるぜ。俺様が間違ってんのか、てめェらが間違ってんのかを」
決意を表明するように言い、ガーフィールは肩で風を切って振り返る。
踏み出す足が向かうのは墓所――ガーフィールにとって、幼い頃に刻み込まれた忌まわしい記憶と対峙する悪夢の場所。
時を経て、自分はそこで何を見るのか。
「おい、ガーフィール」
覚悟を決めたはずのガーフィールを、背後から呼び止める声。
舌を鳴らして振り返れば、こちらを呼び止めたのは手を上げるスバルだ。
「なんだァ?」
「いや、水を差すのはできればやりたくねぇんだけどさ。まだちょっと『試練』に入るまで微妙に時間がありそうなのと……」
水を差す以外の何物でもないことをしながら、スバルは頭を掻いて口ごもる。
言いづらそうな顔つきのスバルに、ガーフィールはその先を促すように牙を噛んだ。
それに後押しされるように、スバルはため息をこぼしてから、
「せめて、着替えてこいよ。今にも落ちそうな腰巻きだけじゃ、しまらねぇにも程がある」
スースーと、風を直接股間に感じる蛮人スタイル。
スバルの指摘にガーフィールは額に青筋を浮かべ、ラムは呆れたように吐息をついた。
「しまらない話だわ」
※※※※※※※※※※※※※
――着替えて墓所に踏み入った瞬間、ガーフィールは空気の感覚から『試練』の条件は満たされていることを悟った。
石造りの空間に湿った空気。ひやりと冷たい風が吹き抜け、埃臭さが鼻孔をくすぐるのに顔をしかめる。利きすぎる鼻を持つガーフィールにとって、閉め切られた空間の悪臭は堪え難い五感への攻撃だ。
「長居はしたくねェもんだな」
呟きは通路を反響し、応じる声はどこからも返ってこない。
足裏に地面の固さを感じるのを繰り返す内、体は墓所の奥へ奥へと侵入する。
知らず、心臓の鼓動が早まっているのにガーフィールは気付いていた。
『試練』に挑み、その結果を見届けてくる。その覚悟は決まっている。それでも心根が穏やかでいられないのは、待ち受けるものがガーフィールにとって、決して拭い去れない強い恐怖心を想起させる記憶だからだ。
もう一度、それに触れたところで何が変わる、と思う心は常にある。
あの情景をもう一度この目にしたところで、今のガーフィールにどんな変化があるのか。そもそも、片時だってあの記憶を忘れたことなんてない。
鮮明すぎるほどに鮮明に焼き付いた記憶。
改めてそれを見直したところで、記憶が補強される以外のどんな結果があるのか。
「……情けねェ。それを確かめるために、わざわざきたんだろッがよォ」
もっともらしい理屈を並べて、逃げたがっている自分を自嘲する。
ラムに怒鳴られて、小馬鹿にされるのも頷ける女々しさだ。自分がこんなに及び腰な男だなんて、知りたくも気付きたくもなかった。
――もしも、この女々しさと弱さに負ける男だったらどうするつもりだったのか。
「――――」
通路の石畳を踏みしめる足を止めて、ガーフィールは大地の存在を意識する。
足裏から湧き上がってくる力は、『地霊の加護』を持つガーフィールに、大地が力を貸してくれる温かな波動だ。
傷付き、痛めつけられ、消耗した肉体であっても、大地と接しているだけでガーフィールの肉体は回復し、力を増していく。
やられた直後はまだしも、一時的な休息と間を開けた今ならば、万全なときの四割程度の活動は可能だ。その気になれば、墓所だって崩すこともできるはず。
そして、ガーフィールを一人で中に送り出したスバルやラムたちには、破壊行為に及んだガーフィールを止める手立てはない。あれほど苦心してガーフィールを打ち倒したことの意味が完全に消失する。今なら、消失させることができる。
その程度のことに、頭の回らない連中だったのだろうか。
「クソったれが」
そんなはずがない。
人を疑うことを知らなそうなエミリアや、肝心な部分が抜けていそうなオットーはともかく、計算高く行動するスバルやあのラムが、その可能性を見落とすものか。
ガーフィールにその力が戻っても、墓所を破壊することなどないと思っているのだ。
それを腰抜けだと思われているのか、それとも信じ切られていると考えるか。
今のガーフィールには、どちらが正しいのかわからない。
その答えも、『試練』を乗り越えた先にあるのだろうか。
「……ッだらァ」
忌々しげに吐き捨てて、ガーフィールは歩くのを再開する。
ややこしいことを考えるのは得意じゃない。頭を使うのが苦手なのは、日常でも戦いの中でも同じことだ。それでも必死に頭をひねるのは、昔に誰かに言われたから。
『もっと考えて戦いなさい。ガーフ。そうしたら、ラムは嬉しいわ』
「――ァ」
考えて生きることを誰に指摘されたのか、ふいに思い出した。
だから自分は懸命に、呆れるほど愚直に、それに拘り続けていたのか。
そうなるとガーフィールは、考えて戦えと言った本人に、考えないで戦った方がマシと言われたことになる。理不尽にも、程があった。
「くッだらねェなァ、オイ……と?」
思わず、笑いが込み上げてくる。
その笑いを噛み殺そうとしたところで、ガーフィールは通路の終わりを見た。
通路が終わり、ガーフィールを迎える四角い空間――『試練』の間だ。
淡く揺らぐように、幽鬼めいた青白さで浮かび上がる小部屋。どこか緊張の和らいだ顔で部屋に踏み込み、ガーフィールは部屋の奥にある石造りの扉を見る。
『試練』を三つ、乗り越えた後で開くとされている扉だ。実際にそうなのかは、開いたところを見たことがないのでわからない。中に、何があるのかも伝えられていない。
このまま足を止めて待てば、『試練』が始まるはずだが――。
「――あァ?」
手持ち無沙汰に腕を組み、きょろきょろと小部屋を見回していたガーフィールは眉を上げた。夜目の利くガーフィールの視界に、小部屋の違和感が滑り込んだのだ。
それが何であるのか、目を凝らして確かめようとして――
『――まずは己の過去と向き合え』
声が聞こえた。
途端、ぐらりと視界が揺れて、意識が不鮮明なものに覆われる。
過去が、くる――。
※※※※※※※※※※※※※
「まさか、君がまたここにこうして足を運んでくれるだなんて思わなかった。――ワタシは今、とても嬉しく思っているよ」
意識が覚醒に導かれたとき、ガーフィールは自分が森の中に立っていることに気付いた。
首を巡らせ、見渡す視界に映るのは見慣れた森――ただし、ガーフィールの知る景色に比べると、幾分か『若い』森の景色だ。ほんの数年、しかし毎日のように接してきた場所だけに、その変化はガーフィールには手に取るようにわかる。
ここは過去だ。
そして、自分は『試練』に挑み、その夢の中にいる。
すんなりとそれを受け入れて、ガーフィールは自分の体の調子を確かめる。
手足、ある。首から上、目や鼻や耳も問題なく存在する。口を開け、思いきりに歯を噛みしめれば甲高い刃を噛み合わせる音が鳴った。
問題なく、無事だ。むしろ、墓所に入る前の負傷すらも癒えたような感覚。
「現実の負傷を中に引きずっていないのは、ここが精神だけを引き込んだ場所だからだよ。もしも君の精神が影響を受けるほどの負傷であったなら、夢の中であってもそれは癒えない。すでにこれは実証済みで、例えば現実世界で片腕を欠損した人間は、この世界に招かれたとしても腕は欠損したままで……」
「長々ッと口上垂れてんじゃァねェよ。無視してんのがわッかんねェのかよォ」
「わかっているとも。それでも、君はワタシと言葉を交わさなくてはならない。久々の再会を喜ぶワタシの気持ちを、尊重してくれてもいいと思うんだけどね」
どうだろう、と人形めいた笑みを張り付ける女が、ガーフィールの正面に立っている。
上から下まで黒ずくめの喪服めいた格好をした、髪と肌が真っ白な女だ。微笑みはあらゆる男を籠絡するほどに魅惑的なのに、中身が空っぽなのが向かい合うだけでわかる。
その姿も、ガーフィールの記憶の中と寸分も変わっていない。
「俺様の手足は伸びたってェのに、てめェは変わらねェんだな」
「残念なことに、ワタシは死者だからね。死後、魂だけでこの世に留まる身だ。いくら年月を重ねても、生者と同じ時間の歩みを得ることはできない。感傷的な話をするじゃないか。君らしくもない」
「俺様らしく、なんてなァ俺様をよくよく知ってる奴だけが言っていい言葉だぜ。てめェと俺様が面ァ合わせたのは、ずいぶん前に一回こっきり。それも、大した話ァしてねェはずだかんなァ」
「君が見たワタシは、そうかもしれないね。でも、それはワタシが君を見ていた時間と等しいかどうかはまた別じゃないかな?」
「――ちィ」
言葉で言い包められる相手でないことはわかっている。
ガーフィールは舌打ちしたい気持ちを堪えながら、悪気のない顔で佇んでいる魔女――エキドナを睨みつけていた。
『試練』の監督官のつもりか、エキドナは以前と同じように過去を見るガーフィールの隣に寄り添っている。それは『試練』に心を痛めるガーフィールを心配するだなんて人間的な考えからではなく、この光景が展開されることで影響を受ける『全ての事象』を見落とさないようにするためという、下賤な好奇心によるものでしかない。
それ以上の会話をする気力をなくし、ガーフィールは森を見やる。
過去という演目がすでに始まっているのなら、演者たちが姿を見せるのも時間の問題だ。
会話するだけでも喜ぶ魔女を、喜ばせてやるつもりなどガーフィールには微塵もない。
「つれないことだね」
そのガーフィールの態度すらも快いもののように受け入れ、エキドナはガーフィールの隣で自身の長い白髪を撫でつける。
彼女の仕草を横目に追う内、すぐに変化は訪れた。
「――――」
わかっていたはずの光景を前にして、ガーフィールはかすかに息を呑んだ。
森の境界――即ち、それは『聖域』の内と外とを分ける結界の分水嶺だ。
結界に囚われる存在は、その結界を目前にするだけでも意識が危うくなり、存在が掻き乱されるような不快感を味わうという。
そんな結界との境界を間近に臨む場所に、四つの人影が現れていた。
一つは薄赤の髪を長く伸ばし、今現在と見た目のまるで変わらないリューズ。
さらに別の一つは絹糸のような細く美しい金色の髪をした、十歳前後と思しき少女――フレデリカだ。
そして、リューズとフレデリカと向かい合って立つのは、一つにまとめた金髪を三つ編みにした、目元の下がる穏やかな顔つきの女性。
女性は腕の中に一人の幼子を抱いていた。金色の髪の、目つきの悪い子どもを。
「ァ……母、さん……」
その女性を目にし、抱かれている子どもが誰なのか見取った瞬間、ガーフィールの口から弱々しい声が漏れる。
母を呼ぶ声は、しかしその場に現れた四人の誰の耳にも届かない。
――当然だ。過去に干渉することは、誰にもできないのだから。
「仮に手を伸ばしても、触れられない。声をかけても、微笑んではもらえない。自分で言うのもなんだけれど、過酷な情景を見せられるものだと同情するよ」
まさしく、お前が言うなと怒鳴りつけてやりたい魔女の感慨。
だが、心痛に歪むガーフィールの横顔を見つめる魔女の瞳には、本心から悪意がない。この光景は魔女が悪意を持って用意したものではないのだ。
この魔女は真実、『試練』に挑む存在が心の内に抱く後悔を、どんな形で引きずり出し、どんな形で向き合うのか――その結果を求めているだけの、天災なのだから。
「――――」
震えるガーフィールの目の前で、四人の会話が交わされている。
その内容、言葉の数々、声の調子、全てがガーフィールには届いてこない。
口は開かれ、音は紡がれている。
しかし、それが大気を通ってガーフィールの鼓膜を揺らすとき、確かな意味を形作らないのだ。
リューズが悲壮な表情を浮かべ、フレデリカが涙を我慢するように唇を噛む。母は困ったように目尻を下げ、腕の中のガーフィールは無邪気に笑っていた。
その痛ましい光景に音が伴わないのは、これがガーフィールの記憶だからだ。
幼いガーフィールは、このときのやり取りを記憶の中に留めていない。それ故に、交わされる言葉はガーフィールの耳に届いてこないのだ。
ただ、記憶の端々に薄く淡く引っかかる記憶。
その光景を再現しているから、情景ばかりはこちらを煽るように上演される。
「何を言い合っているんだろうね。想像はつくかい?」
「話しかけんじゃァねェ。――どうせ、つまらねェ押し問答に決まってらァ」
この後に起きることを思えば、交わされる会話の内容は想像がつく。
外の世界へ向かおうとする母と、それを引き留めようとするリューズやフレデリカ。幼いガーフィールは話し合いに参加することもできず、ただ母に抱かれていることの喜びを噛みしめている。
「――ぐッ!」
ふと、堪え切れない衝動が襲い、ガーフィールは前に足を踏み出した。
エキドナが眉を上げる前で、のしのしと森を踏みしめるガーフィールは四人のすぐ傍へ。傍らへきてもガーフィールに気付きもしない四人。自分よりも背の低い姉や、変わらないリューズの前に出て、母と自分を真っ向から見据える。
母に抱かれて、無邪気に笑っている幼いガーフィール。
それがあまりにも癇に障る。この後、何が起きるのかも知らないで、母を引き留めるための話し合いに参加する資格すら持たず、自分はただ笑っている。
このときにただ笑っていたことが、どれだけの後悔を、絶望を生むのか。
「あァ!がァッ!ああァッ!!」
腕を振り上げ、伸ばした爪で大気を切り裂く。
無邪気な笑顔を浮かべる幼児の顔面に爪を突き立て、その表情を絶望に塗り替えてやりたい。それほどまでに愚かな選択をしているのだと思い知らせてやりたい。
なのに、振り下ろされた爪は幼子の顔を素通りし、それを抱く母の腕すらも透過する。
大地を踏みしめて、加護の力で吹き飛ばそうとしても何も起こらない。次第に腕の振りは大きくなり、母の幻影すら破壊の衝動に巻き込んで、しかし何も変わらない。
「なんッで!俺様ァ!俺様に、こんな光景を見せッやがる!!」
届かない腕を振り上げて、地面に叩きつける。
だが、記憶を再現された世界に破壊の衝動は伝わらず、世界は確固としてそこにある。
怒りをぶちまけることも、過去を吹き消すこともできず、声を震わせるガーフィールは振り返り、自分を見ている魔女へと牙を剥く。
「一緒だ!何も変わらねェ!母さんを引き留められなかったことも、この後に母さんがどうなるのッかも全ッ部一緒だ!これで満足かよ、えェ!?」
「闇雲に当たり散らすのは勝手だけど、それをワタシが悪いと断ずるのはいささか身勝手が過ぎるんじゃないかい?『試練』として過去が展開されるのは間違いなくワタシの意図した結果だけど……この場所がそういう場所だと知っていて、それでも再び足を運んだのは君自身だ。何かが変わっていると、そう期待していたんだとしたら、変わっていないことを責められるべきはワタシじゃない。君の方さ」
「俺様の方、だと……?」
「そうだとも。ここが変わっていないのは、君が変わっていないからだ。過去が以前と違うように受け止められないのは、君が変わることを受け入れていないからだ。自分が変わることを受け入れたか、あるいは変わらないことを選べば『試練』は越えられる。事実、変わることを選んだ一人の少年は、自分の過去を乗り越えることができたよ」
成功例を口にするエキドナに、ガーフィールは二の句が継げない。
それをエキドナの虚言であると、そう切り捨てることは簡単だった。しかし、もしもそれが虚言でなかったとしたら――そう考えたとき、ガーフィールは恐怖を知る。
過去を、乗り越えたものがいる。
『聖域』は解放されていない。以前に過去を乗り越えた誰かは、その後の『試練』までは突破できていない。それでも、この過去を乗り越えたのだとすれば――。
「い、いや……騙されねェぞ!『試練』に挑む資格ァ、亜人の血が混じってんのが条件ッだろが!ハーフより血の薄まった奴が『聖域』に入ったことなんざ、俺様と姉貴以外にあるわきゃァねェ!つまり!資格がある奴ァいまだに『聖域』の中だ!そして、『聖域』で『試練』を受けたことがある奴で、過去が突破できた奴なんざ……」
いない、と断言しようとして、ガーフィールは最後の言い切りを躊躇った。
魔女の挑発に引っかかり、危うく自分の考えを疑いかけたところで、それを否定する要素にガーフィールは飛びついた。だが、それは本当に正しいのだろうか。
ガーフィールの反論に、魔女はどこか嬉しげに口角をつり上げている。
それは嘘を看破されたことを歓迎するわけでも、ガーフィールが自論を並べ立てることを歓迎するわけでもない。
何か、もっと彼女の好奇心をそそる何かを待っているような表情で。
「突破できた奴なんか、なんだい?」
白々しい声で問いかけてくるエキドナに態度に、ガーフィールは悟る。
魔女が何を求めているのか。エキドナは、ガーフィールが自分の差し出した情報の中から、提示する答えに辿り着けるか辿り着けないのか、その結果を待っているのだ。
そして、ガーフィールは気付いた。
魔女が、エキドナが、いったい誰のことを口にしているのかを。
「まァさか……ッ」
ガーフィールが口にしたものが、墓所に挑むための条件だ。
だが、例外は存在する。
魔女の口から直接語られたわけではない、あくまでガーフィールの推測ではあるが。
おそらく、『強欲の魔女の使徒』ならば、『試練』に挑む資格を兼用することが可能だ。
そしてそれに該当する存在を、ガーフィールは一人だけ知っている。
そも、彼はガーフィールに言ったではないか。
――自分は、『試練』を受けて、過去を見てきたと。
「ッけど、あいつァ過去は乗り越えられなかったって、『試練』は越えられなかったって自分でそう言って……ッ」
「それを口にすることで、無用な軋轢を生むことを避けたんじゃないかい?あるいは自分が『試練』を乗り越えたことが知れると、不都合なことがあったとか」
「黙れ、てめェと話してなんかいねェ。割り込んでくるんじゃァねェよ!」
エキドナの言葉が頭にちらつき、ガーフィールの思考が混乱する。
彼が、ナツキ・スバルが『試練』に挑んだことを認めたことは間違いない。ガーフィールが何を言うより先に、彼は『試練』を過去であると理解していた。
越えられなかったと、そう言った彼のことを思い出す。あのときはガーフィールも、スバルが資格を持つものだと知って動揺していたため、聞くべきことを聞くこともせずに会話を切り上げてしまったが――。
「――――ッ」
あのときのスバルの表情は、越えられない過去に打ちのめされた男の顔だったろうか。
何かに届かないことを悔やんだ顔ではあったものの、それは己の内側に問題を抱えた男の顔ではない。その顔ならば、毎日のように水浴びする水面に映るのを見てきたのだ。
そして、ガーフィールを叩きのめした彼の姿は、『過去に足止めを食らう男』の顔でも、声でも、主張でもなかった。
「あいつァ……過去を、乗り越えてた……?過去は、越えられる……?」
「もし仮に、外で君に彼が偉そうに説教をするような場面があったのだとしたら、それをできるだけの何かが当人にあったから――というのが、筋の通る考えじゃないかい?」
朦朧とする意識の中、スバルと拳を交えた記憶を回想する。
スバルも、ガーフィールも、互いに意識を保つのが限界だった。そのときに叫ばれていた言葉が何だったのか、全てを拾い集めることはできない。否、諦めてはならない。今ここで、取り落としたそれを拾い集めて、自分を穿たなくてはならない。
何を言われた。何を叫んでいた。
過去は、立ち止まったことは、変わらないこととは、結界は、『聖域』は、家族は。
立ち止まって、どうしようもなくなったものはどうなると言った。
始めたいと、そう思いさえすれば、何を始めるのも自由だと言ったのではなかったか。
「――どうしても、行くというのか?」
ふいに、ガーフィールの耳朶を聞き慣れた声が打った。
しかし、それはこの場で聞こえるはずのない声だった。
なぜならそれは、この場でガーフィールに干渉できるものの声ではなく、この場でガーフィールが干渉できるものの声でもなかったからだ。
「ええ、行きます。リューズ様には、ご迷惑をおかけしてしまうんですけど」
「別にそんなこと気にしやせん。問題は、この子らの気持ちの方じゃ」
交わされる言葉は、聞き慣れた家族のものと、聞き慣れない家族のものだ。
渋い顔をしたリューズの口が動き、向き合う母の口が動き、音が滑り込んでくる。
記憶の中になかったはずの母の声を、ガーフィールは初めて耳にした。
「――――」
息を呑み、ガーフィールは目の前の光景に意識を奪われる。
母は腕の中のガーフィールを愛おしむように見つめて、その体を揺すってあやしていた。その母を見上げて、スカートの裾を掴むフレデリカが声を絞る。
「お、お母様……わ、わたくし……わたくしは」
「ごめんね、フーちゃん。あなたに、たくさんの心配をかけちゃうわよね」
「いいんです。わたくしは、大丈夫。でも、ガーフが可哀想で……」
「一緒に連れてったら、お母さんドジだもの。きっと、ガーちゃんが大変な思いをするわ。フーちゃん、お母さんの子なのにしっかりしてるから、お願いね」
寂しがりながらも、母を見送る言葉を投げかけるフレデリカ。
母親が『聖域』を離れることを、姉が肯定していたことをガーフィールは初めて知る。リューズも、震えるフレデリカの肩を抱いて、その意思を尊重する様子だ。
「ガーちゃん。お母さん、行ってくるわね」
呼びかけながら、母はガーフィールを持ち上げる。
掲げられたガーフィールは、母の決意も知らぬ顔で無邪気に笑っていた。母はそのガーフィールを抱き寄せると、額にそっと口づけする。
その場所は、今はガーフィールの白い傷跡があるのと同じ場所で。
「きっと、あなたのお父さんを連れて戻るから。それまで、待っていて」
「――――ッ!」
慈愛に満ちた瞳と、思いやりに溢れた言葉。
離れ難い思い出を手放さないために、母は何度も何度も、ガーフィールに口づけする。
そうしてからようやく、幼いガーフィールをリューズへ手渡した。
しっかりとガーフィールの体を抱き、頷き合うリューズと母。母はそれからフレデリカと抱き合い、ガーフィールと同じように愛娘の額にも口づけの雨を注ぐ。
「――は、ァ。あ、ああァ……あァァ……ッ」
それを目にしながら、ガーフィールはいつの間にかその場に膝をついていた。
自分が、何を見ているのかわからない。
こんな光景は知らない。こんな光景は、見た覚えがない。
まだ小さかった頃、何もわかっていなかった頃、過去に挑んだとき、ガーフィールが見たのはもっと救いようのない、身を切られるような絶望の記憶だったはずだ。
ガーフィールはそんな記憶であっても、そんな風に打ち捨てられたような思いを噛みしめた記憶であっても、大切なものであると信じ込んで頑なさを育ててきた。
それが、これまでの日々が、鬱屈と惨めさを覆い隠すように張ってきた虚勢が、剥がれ落ちて、崩れ落ちて、まったく別のものへと塗り替えられる。
なんなのだ、この記憶は。
母は、自分と姉を捨てて、自分の幸せだけを追い求めて出ていったのではないのか。邪魔な自分たちを人生から切り捨てて、自分の道を歩もうとしていたのではないのか。
これでは、あべこべではないか。
母は自分と姉を捨てて出ていった。だからこそ、ガーフィールは『ガーフィール・ティンゼル』という存在を、強固に形作ることができていたのだ。
それが見当違いのまやかしだったと気付いたとき、強固な防壁は脆い土壁に変わり、ガーフィールの世界は足下から崩壊する。
もはや真っ直ぐに立っていることすらできないガーフィールの前で、過去の自分たち家族の別れが終わりを迎える。
存分に別れを惜しんだ母は、フレデリカとガーフィールに最後に触れて、リューズに全てを任せると鞄一つを持って森の外へ向かう。
途中で、何度も立ち止まる。振り返り、見送りの手を振るフレデリカを。リューズに手を持たれて、母を見送る手を振らされるガーフィールを見て、手を振り返す。
また、気を取り直して歩き出す。立ち止まってしまう。振り返り、手を振る。
そんなことを何度も、何度も何度も繰り返して、母は森の外へと――。
「――な、ァ!?」
その母の後を追いかけようと、立ち上がりかけた視界がふいに歪んだ。
世界の輪郭がぼやけるのは、ガーフィールの瞳に涙の雫が溜まっていることばかりが理由ではない。もっとはっきりと、明快な理由で世界は曖昧になりかけている。
視界の端から白い光に包まれて、森が消失していくのだ。
まるで世界の終焉――展開されていた物語の意図せぬ終わりに、ガーフィールは背後に佇んでいる魔女を振り返り、叫ぶ。
「なんでだ!なんで、こんなッとこで終わろうとする!まだ、肝心なとこが……」
「いいや、終わりだよ。これ以上を見る必要はない。夢の終わりを認めたのは、ワタシじゃない君の方だ。おめでとう、ガーフィール。君は、君の過去を塗り替えた」
「何を……ッ!?ッざッけんじゃァねェ!俺様が一番、どうにかしなきゃァなんねェのはこっから先で……!」
「この先を見ることは必要ないし、仮に君がこの先に起きる何かを思い描いていたとしても、そこに君が干渉する余地はない」
「ァ――」
それは、過去は変えられないという魔女の答えなのか。
血の気の上っていたガーフィールの顔色が変わり、立ち上がりかけた膝が落ちる。
母の、本当の気持ちがわかったのに。
この場を去った、母のその後の運命は変わらないということなのか。
母は、ガーフィールやフレデリカのために、父を捜しに『聖域』を立った。しかしその旅は、始まってすぐに潰えることになる。母の命と、一緒に。
――救いようのない記憶が、もっと救われない結果に落ち込んだだけではないのか。
絶望に、絶望を上塗りするだけだった記憶が、希望が、絶望に塗り潰される記憶に切り替わっただけではないのか。これで、自分の何を変えろというのだ。
「お母様は、わたくしのことも、ガーフのことも、愛してくれていましたわ」
弾かれたように顔を上げて、ガーフィールは正面を見る。
跪く自分を見下ろして、幼い姿の姉がそう言っていた。瞳は、ガーフィールを見ている。見えないはずの、干渉できないはずの過去が、干渉してくる。
「家族のために、お母様は『聖域』を出た。そのことに、不満があるというの?」
「ふざ、ふざッけんな!愛されてたから、なんだってんだ!よ、余計な記憶がぶら下がっただけじゃァねェか。俺様ァ……!」
「愛されていない方が、気が楽だったですものね」
幼いフレデリカが、反論するガーフィールを小馬鹿にするように言い捨てる。
身長差は文字通り子どもと大人ほどもある。なのに、姉はまるで背丈のことなど気にも留めずに、相手は手のかかる弟だとでも言いたげな顔で真っ向からぶつかってくる。
「一方通行の愛情だと思っていれば、自分のことを正当化できる」
「違う……ッ!」
「愛していて、愛されていて……そうだったと思い知ってしまったら、外に飛び出していかなかった自分を、『聖域』にこもった自分を正当化できなくなりますものね」
「違うッ!違う違うッ!なんにも知らねェくせに……母さんが、どうなったか!」
「――知らないはず、ないでしょう」
怒りに任せて叫ぼうとしたガーフィールに、それは殴られるような衝撃を与えた。
眼前のフレデリカは表情を消して、感情を堪えるように自分を見ている。
――今、姉はなんと言ったのか?
「知らないはずがないでしょう。仮にお母様が『聖域』の外に出て、すぐに何か不幸に見舞われたとしたら……それを、聞かされていないはずがないでしょう」
「だ……ッたら、なんで……!?」
「それをあなたに伝えられるはずがないことも、わかるでしょう。ガーフ。もう、あなたは幼い子どもじゃないのですから」
母に何が起きたのか、フレデリカは知っていた。
そして、幼いガーフィールにそれが話せなかった理由は、ガーフィールにもわかる。
誰がまだ幼い少年に、母親の残酷な最期のことなど伝えられる。
墓所で『試練』を垣間見ることがなければ、ガーフィールは知らないままだったはずだ。そうならなかったのは、そうさせないための多くの思いやりを踏み越えたからだ。
「お母様に愛されていたこと、本当は覚えていたでしょう」
「…………」
「だから、お母様に口づけされた場所を、最後に触れ合った場所を、自分で傷付けて、なかったことにしようとしたのでしょう」
額の、白い傷跡に触れる。
この傷は、幼い自分の額には存在しない。
この傷ができたのは、ガーフィールが墓所の『試練』に挑んだ直後のことだ。錯乱状態に陥ったガーフィールは、壁に、地面に、頭を割れんばかりに打ち付けて、消えない傷を負うほどに自らを痛めつけた。
そのときの傷が、この傷跡だ。そして、その傷をつけた真意は、きっと今、フレデリカが口にした通りのものなのだ。
「もう、終わりがきますわね」
フレデリカの呟き。
気付けば、すでに過去の世界はそのほとんどの形を失っていた。
森はすでにどこにもなく、歩き去った母も、立ち尽くしていたリューズの姿もない。事態を見守っていた魔女の姿も見当たらず、世界にはガーフィールとフレデリカの姉弟だけが取り残されていた。
「傷で隠しても、過去はなくなりませんわ。あなたが愛されていたことも、そう」
「俺様ァ……どうしたら、いい?」
弱々しい声で、ガーフィールはフレデリカに問いかける。
「母さんの、最後が変わらないってんなら、俺様にとって外は恐いもんのまんまだ。そんな世界に俺様が出ることも、婆ちゃんやみんなを出さなきゃいけないことも、恐い」
「こんな小さいお姉ちゃんにまで、頼らなきゃ答えも出せませんの?」
「情けッねェのはわかってる!けど、頼れる相手が姉ちゃんしかいねェ。なァ、教えてくれ……姉ちゃんは、どうして外に……」
「ガーフは、どうしたいんですの?」
言葉を遮り、フレデリカはガーフィールに首を傾けて聞いてくる。
一瞬、ガーフィールは言葉に詰まった。自分が何をしたいのか、そんな話じゃない。自分が何をしたらいいのか、しなくちゃならないのか、それが聞きたくて。
「ガーフは、どうしたいんですの?」
口ごもる弟に、姉は仕方なさそうな顔で、同じ問いかけを繰り返す。
だから、ガーフィールは息を呑んで。
「求められてることを、してェ」
「誰の、求めることをですの?」
「俺を……俺様を、必要としている奴らの、求められてることをやりてェ」
「どうして、そんな風に思うんですの?」
「そいつらが……思い出させてくれたからだ」
何を、と姉は言葉にしなかった。
でも、自分と同じ金色の瞳が、そう問いかけてきていたから。
「――母さんが、俺を愛してくれてたことを」
――次の瞬間、夢の世界は粉々に砕け散り、過去は遠く彼方へ消えた。
※※※※※※※※※※※※※
墓所から出てきたガーフィールの表情は、憑き物が落ちたようにスバルには見えた。
腕を組み、貧乏ゆすりをしながら結果を待つこと約一時間。
やきもきしながら待つスバルたちは、お互いに顔を見合わせることも、言葉を交わすこともなく、ただ結果が出るのを沈黙とともに待ち続けた。
「まさか、約束を反故にして遺跡を破壊されちゃったりしたらどうしましょうか」
と、場を和ませるジョークのつもりだったのか、かえって空気の読めない発言をしたオットーがラムに跳び蹴りを食らう一幕などあったが、おおむね状況は静かに見守られた。
「……ガー坊」
不安げな面持ちで手を合わせ、忙しなく墓所に目をやるのは合流したリューズだ。
今、この場に参じているリューズはθのはずだが、どのリューズであろうとガーフィールを思いやる気持ちは変わらない。
三人と二匹がかりでガーフィールを袋叩きにした件と、そのガーフィールが心機一転して墓所の中に入っていった件。どちらの話も、リューズの心に少なからず衝撃を与えたはずなのだから。
「…………」
気が気でない様子で墓所をそわそわ見ているのは、スバルの隣にいるエミリアもだ。
彼女の場合、ガーフィールの結果ももちろん気になるだろうが、ガーフィールが出てきた後には自分の順番が回ってくるというのもある。
墓所の中での口論と、その後のスバルとガーフィールとの戦い。
その二つを経て、彼女の中でどんな心境の変化があったかはわからない。ただ、不安げに見える表情は、ガーフィールの心配の色が濃く、自分が『試練』に挑むことを忌避する様子は垣間見えない。それは、悪い兆候ではないはずだ。
「――あ!」
そんな風に考えていたスバルの耳に、墓所を指差すオットーの声が届く。
またぞろ空気の読めない発言を、とスバルが顔をしかめ、ラムが拳の骨を鳴らして立ち上がる。しかし、どうやら今度はこちらの早とちりだったようで。
「ガー坊!」
立ち上がり、墓所の方へ駆け出すリューズ。
彼女の視線を追いかけて、スバルは墓所の入口に人影が現れているのに気付いた。
短い金髪に、額の白い傷跡。鋭い眼光に、刃のような白い犬歯。
猫背に丸めた小柄な体躯と、それに反比例するように放たれる物々しい鬼気。
ガーフィール・ティンゼルだ。
「ほら、ちゃんと僕の言った通りで……びゃん!」
早とちりしたラムの膝蹴りの直撃を受けて、オットーが草むらを転がっていく。
だが、被害に遭ったオットーのことは話題に上らず、スバルたちが駆け寄るのは『試練』を終えてきたガーフィールだ。
石段を飛ぶように上り、スバルはガーフィールの下へ。すでに辿り着いたリューズが彼の前に立ち、何を言っていいのかと口ごもっているのを見る。
「が、ガー坊。その、儂は……」
「似合わねェ面してんじゃァねェよ、ババア。心配、かけて悪かった」
「ガー坊」
ぶっきらぼうに言って、ガーフィールは小さなリューズの頭に手をやる。
祖母の頭を撫でる、という形は甚だ不謹慎な気もするが、この二人の背格好からすれば自然なやり取りだ。何より、リューズが咎めないのならこちらから指摘するのは無粋の極みといったところだろう。
「ガーフ。どうだったの?」
スバルたちに遅れて階上へやってきたラムが、ガーフィールにそう声をかける。
ガーフィールが『試練』に挑む直接的な切っ掛けを与えたのはラムだ。背景事情に至るまでを知る彼女の表情には、スバルの前では珍しい憂慮の色が垣間見えた。
そのラムの問いかけに、ガーフィールは考え込むように少し唸り、
「目に見えて、どうだッつー成果はねェな。こんなもんか、って気はするけどよォ」
「なんか万引き自慢する中学生みたいな発言に聞こえるけど、そういうこと言い出すってことは……やったのかよ?」
「――区切りァ、付けてきたッつもりだ」
スバルにそう応じて、ガーフィールは深々と鼻から息を吐く。
その言葉に一瞬だけ全員が息を呑んだが、すぐに別の感動が支配した。
つまりガーフィールは、『試練』を越えて、過去に決着をつけたということだ。
それは『聖域』の解放への一歩前進を意味し、『試練』が決して越えられない無理難題ではないということを証明したということでもある。
「じゃぁ、お前。このままの勢いで残りの『試練』も……」
「ッざッけんな。俺様が受けてやる『試練』ァ、この一個だけだ。残りをやるのァ俺様のやることじゃァねェ。そうだろッが」
「ええ、そう。あとのことは、私のお仕事だもの。取ったらダメなんだから」
調子に乗らせようとするスバルの言葉を、ガーフィールとエミリアが否定する。
ガーフィールはエミリアを睨み、エミリアはその眼光を真っ向から受ける。
「魔女は相変わらずの性悪ぶりだぜ。せいぜい、気ィ付けるこッたなァ」
「あれ?助言してくれるの?ありがとう。肝に銘じておくわね」
ガーフィールなりの激励と、皮肉のつもりだったのだろう。エミリアはそれの激励部分だけを受け取って、皮肉に関しては気持ちよくスルー。
肩透かしの顔のガーフィールにスバルが頬を緩めると、ガーフィールの視線が今度はスバルを向いた。
眉を上げるスバルの前で、ガーフィールは自分の頬を掻き、
「あー、それと……よ」
「どうした?もじもじとかされてもキャラに合ってねぇぞ。お前はそういう逡巡とか考え込むとかってステータスが死んでるタイプなんだから、蛮族プレイでいこう」
「何言ってやがんだッかわかりゃァしねェが、俺様を馬鹿にしてやがんのァわかんだぞ、オイ。思い知らせてやろ……あァ、いや、そりゃいい」
腕を振り上げかけて、何もせずに下ろすガーフィール。
挙動不審というか、イマイチ要領を得ないガーフィールの態度にスバルは首を傾げる。ただ、その場でラムだけは何もかもわかっているような微笑を浮かべて、
「ガーフ」
と、ガーフィールの腰のあたりを小突いてみせる。
そのラムの攻撃にガーフィールは息を吐き、観念したように首を振った。
「中の『試練』、越えられたのはたぶん、てめェのおかげだ。ありがとうよ」
「……お前、お礼言った?」
「二度は言わねェ。ただ、思い出したいことは思い出せた。だから、入った甲斐は……あった。クソッ!」
言っている間に羞恥心が高まったのか、ガーフィールは苛立ちに顔を赤くして、目を丸くするスバルに指を突きつけた。
「いいか?確かに俺様ァ負けたし、『試練』の結果も変わった。ッけッどなァ!てめェらの全部が全部、正しかったって認めて白旗掲げて腹ァ見せて降伏したわけじゃァねェ!大口叩いて、この『聖域』を変えるッて言いやがったんだ!その変わった後が、中にいる連中にとって辛かったり苦しかったり、そんなんなるんだったら容赦しねェ!」
「お、おお……それは、もちろん……」
ものすごい剣幕で言い募られて、スバルは気圧されながらもどうにか声を出す。
ガーフィールの意見に対して、絶対の保障はない。だが、必ず良くなるように努力することだけは約束できる。それだけは確かだと、言葉にしようとして。
「だァから、てめェらが口だけ野郎にならねェかどうか、きっちり近くで見届けッてやらァ。――うまくやれや、『大将』!」
「――――」
乱暴にスバルの肩を叩き、ガーフィールはこちらを見つめてそう言い切った。
予想外の呼び方と、彼の態度にスバルは愕然として反応が遅れる。
その間にガーフィールはさっさとスバルの横を抜け、リューズを連れて墓所の石段を下へ下っていってしまう。まるで、顔を見られるのを怖がるように。
「今、ガーフィールってばすごーく赤い顔してた」
通り抜ける寸前の顔が見えていたのか、エミリアが笑いを堪えた表情で言ってくる。
彼女がそんな風に言ってくるということは、今のは聞き間違いじゃないということで。
「大将って……この集団のてっぺんは、俺じゃなくてエミリアなんだが」
「ガーフィールをやっつけたのはスバルたちだもん。男と男のぶつかり合いの結果で認めてもらったんだから、ガーフィールの大将はスバルなのよ。すごいね、大将」
悪気のない顔で微笑まれて、スバルはエミリアになんと応じていいのかわからない。
そんな困った顔のスバルの脇腹を突き、ラムが「観念しなさい」と肩をすくめる。
「本人も、気持ちが高ぶっていてどうしたらいいのかわかっていないのよ。好きにやらせてやりなさい」
「っつってもなぁ。俺の方が全然弱いわけだが、そこんとこは……」
「ケンカの強さは別として、バルスの方が年上なんだからそれぐらいは大目に見なさい。ガーフも、ああ見えて子どもだから。男兄弟ができた気分でいるんじゃないの?」
「ちょっと待て」
呆れたような顔で、階下のガーフィールの後頭部を眺めているラム。
その彼女が口にした言葉の一部が引っかかり、スバルはストップをかける。
「なに?」
「今、なんて言った?」
「どこのこと?」
「ガーフィールが、俺より年下って言った?」
スバルの質問に、ラムは「ああ」と合点がいったように頷いて、
「知らなかったの。ガーフ、バルスより年下よ」
「いくつ」
「確か、今年で十四」
「じゅうよんっ!?十四って……お前、中二じゃねぇか!?」
想像の外側からの情報に、スバルは声を裏返らせて驚きを露わにする。
そして、自分が『大将』と呼ばれることにも、ガーフィールがあまりにも子どものように頑なであったことにも、なんだか納得がいった気がして。
「反抗期真っ盛りの中二……そりゃ、手懐けるのに苦労するわ……」
と、戦い終わったときよりも疲れた声で、そう呟いたのだった。