『相性の悪い相手』
「俺と相性悪いっていうか、この状態で相性が良い奴ってたぶん存在しねぇよ!」
完全拘束状態の少女を前に、スバルはそう心からの突っ込みを繰り出した。
『暴食』の魔女――そういう触れ込みで眼前に現れた人物。
斜めに立った棺の中に横たわる少女は、身長はおおよそ百五十センチ前後。灰色がかった肩ぐらいまでの髪を、二つくくりにしている。色白で華奢、胸は小さい――というより、まだ十三、四歳ぐらいの子どもに見えるのだが。
「拘束具でガッチガチな上に、両目も封じられてるし……見た感じの歳的にもまさかとは思うが……」
少女ぐらいの年代だと、誰しもが『凡人にはない超常的な力』や『自らの意思を封じ込められて、他者から脅威に思われる潜在能力』といったものに憧れる。
思い返せば中学の頃、スバルも当時、読んでいたマンガに影響されて暗器使いへの憧れを抱き、学生服のあちこちに裁縫針を仕込んだりしたものだ。
「まぁ、最終的には転んだときに全身に針が突き刺さって泣く泣くやめたけどな」
見せびらかす相手もいなかった黒歴史を振り返りつつ、スバルは目の前の魔女に対する態度を決めかねる。
そもそも、これまでの魔女はスバルがアクションを起こす前に、魔女たちの方から勝手に濃すぎるファーストアタックを仕掛けてきたものだが。
「――――」
正面、棺の中の魔女は黙り込んだままなんら反応を見せない。
出だしが肝心と、珍しく初対面の相手に初手を決めかねているスバルに沈黙が重い。せめて向こうが友好的か非友好的か、それだけでもわかれば馴れ馴れしくいくか煽りながら入るか選べるのだが。
「…………」
互いに出方をうかがったまま、静寂が小高い丘の茶会を支配し続ける。
そんな状態でありながら、スバルを蝕むのは目の前の魔女の圧倒的なプレッシャー。全身の動きを封じられ、双眸はこちらを見ることすらできずに封じられているというのに、小柄な彼女から発される威圧感はさすがは魔女というべきか。
あれだけ気楽な態度で『傲慢』『憤怒』『怠惰』の三魔女と絡ませたくせに、エキドナが会わせるのを躊躇しただけのことはある。
『暴食』の魔女ダフネは、これまでの魔女たちとはどこかが決定的に違う。
「…………ん」
「――――!?」
と、緊迫感にスバルの額から汗が伝い、それが目に入らぬように手の甲で拭った瞬間、ふいにダフネの方に動きが生じてスバルは戦慄する。
棺の中で、拘束具に包まれる少女がかすかに首をよじり、その息遣いがこちらに届いた。すわ、そこからどんな行動が生まれるのかと、スバルは全身を警戒させる。
そして、
「……すぅ、むにゃぁ」
「――寝てんのかよぉ!!」
「――ふにゃぁ!?」
寝息らしきものが聞こえた瞬間、スバルは踏み込みを入れて突っ込み。
丘の緑の上で足裏がいい音を立てて弾けると、声とその音に驚いた魔女が棺の中で跳ねて驚きの声を上げる。
彼女は両目を封じられて視界確保できないまま、首を左右に振って、
「なん、なんですかぁ?人がぁ、せぇっかくぐっすりしてたのにぃ……」
恨み言のような内容が、異常にとろ臭い口調で吐かれる。
語尾がふわっとしているのは寝起きだから、それとも彼女の癖なのかは不明だが、少なくとも先ほどまで感じていた圧倒的なプレッシャーは消失している。
こちらの思い込みだったのか、とスバルは脱力感を隠せないまま、
「あ、ああ、悪い。俺も思わず熱くなっちまってさ。大声出すつもりはなかったんだ」
「えぇー、そんなことでびっくりさせられてもぉ、ダフネも困るんですけどぉ」
「ぐ……謝るって。だから機嫌直してくれい。怒っちゃやーよ」
「べぇつにぃ、怒ってないですよぉ?怒ったらぁ、その分、お腹が空いちゃいますもんねぇ。それよりぃ、あなたって誰なんですかぁ?」
謝罪をすればそれを拒否され、その上でマイペースな問いかけを作るダフネ。
ほんの二言、三言の会話しか交わしていないのだが、すでに会話のリズムに乱れが生じている。そして、エキドナの発言の意味がスバルにもなんとなくわかった。
――この魔女、スバルと会話のペースが完全に噛み合わないタイプだ。
先行き不安な走り出しにため息をこぼし、スバルは軽く頭を振ってからその嫌な表情を消すと、彼女に向かって極めて友好的な笑みを浮かべ、
「俺の名前はナツキ・スバル。わけあって、エキドナに魔女の茶会にお招きされた……あー、まぁ、茶飲み友達だ。うん、そんな感じ」
「へぇー、ドナドナって友達いたんですねぇ。すばるんも、お友達は選んだ方がいいんじゃないですかぁ?魔女とお友達なんて聞いたらぁ、本当のお友達とか家族とかに嫌われちゃうかも、しれません、よぉ……?」
スバルの自己紹介を受けて、余計なお世話を働かせるダフネ。後半の方で言葉が途切れ途切れなのは、なぜか喋りながら息が続かなくなったからだ。
棺の中で肩を上下させて、明らかに疲労困憊な彼女にスバルは「おいおい」と声をかけて、
「なんでそんな疲れ果ててんだ?その棺桶って、入ってるだけで中にいる人間の生気を奪う的な効果とかあんの?」
「いぃえぇ、別にぃ?ただぁ、ダフネが疲れやすいっていうかぁ、ぐーぐーお腹が空いてるので力が出ないっていうかぁ……なにかぁ、食べるものってぇ、ないん、です、かぁ……はぁはぁ」
「会話するだけで息切れ起こすって、虚弱児体質ここに極まれりって感じだな……食い物つっても、テーブルの上にドナ茶と茶請けっぽいクッキーしかないけど」
実際には茶請けはクッキーっぽい謎のお菓子だ。茶がエキドナの体液という前置きを踏まえると、これも下手するとエキドナの体細胞でできている可能性がある。
茶と違って一瞬で済まないそちらはあえてスバルは手をつけていなかったのだが、「クッキー!?」と聞いたダフネの反応はわかりやすいほど明るいもので、
「そ、そ、そ、それでいいですぅ。いいですからぁ、ダフネに、ダフネのお口にくださぁい。はやくぅ、ねぇ、はやくぅ……っ」
「なんかこの場面だけ切り取ると誤解受けそうな発言だから自重してくれる!?まぁ、そんだけ欲しがってる相手にお預けするほどドSじゃないけど」
茶請けの皿を取り、スバルはダフネの棺に近づいて、動けない彼女の口にクッキーを運んでやろうとする。が、その直前に、
「あ、でもでもぉ、すばるんちょっとぉ、待ってくれますかぁ?」
「んあ?なんだよ。言っとくが、味はたぶん一種類だぞ。チョコとか入ってる気配ないからプレーンタイプ。これが嫌いだって言われたら、お残しは許しまへんでーとしか俺には言えねぇけど」
「そうじゃなくてぇ……食べさせてくれるときなんですけどぉ、すばるんはダフネにあんまり近寄らないでほしいんですよぅ」
「食べさせてあげようってときに難しい注文だな、それ!?」
近づくのを拒否されて、クッキーの皿を持ったまま途方に暮れるスバル。
そんなスバルに彼女は棺の中で少しだけ体を起こし、
「誤解しないでぇほしんですけどぉ、別にすばるんが嫌だとか嫌いだとか生理的に無理とかそういうお話じゃぁなくってですよぅ」
「その念押しでかえって信頼度下がったよ!理由!理由を教えてください!」
「すばるんの臭いがぁ、あんまりダフネに近づいちゃうと、毒かなぁって」
「体臭が毒物扱い!?」
かえってダメージを受ける発言をされて、スバルは慌てて自分の腕を持ち上げて臭いを嗅ぐ。これといって鼻を突くような悪臭は感じないが、そもそも人間は自分の臭いというやつには鈍いものである。
スバルは自分の体に上から下まで目を走らせながら、
「臭う?臭うか?ちゃんと『聖域』きてからも水浴びはしてんだぜ?さすがに石鹸みたいなもんは屋敷戻んなきゃ充実してねぇけど、エミリアと接すること考えて最低限の身支度ぐらいは……いや、そもそもここって精神世界なのに、そんな表の劣悪環境の影響引きずったりとかあんの?」
「いぃえぇ、そーゆーんじゃなくってですぅ。ほぉらぁ、あのぉ、わかるじゃないですかぁ、すばるんってばぁ」
「わかんねぇよ!俺が意地悪みたいな言い方すんな!わかりやすく、セイ!」
痺れを切らしてスバルは呼びかけながら手招き。と、それを受けたダフネは首を左右にゆっくりと揺らし、棺を軋ませながら「なんていうかぁ」と独特のテンポで言葉を継ぎながら、
「すばるんの臭い嗅いでてぇ、クッキーよりすばるんの方が食べたくなっちゃったらぁ、困っちゃうじゃないですかぁ」
「……え?ごめん、ちょっとなに言ってるのかわかんないです」
「ダフネってぇ、お野菜よりもお肉の方が好きっていうかぁ、柔らかいお肉よりも固いお肉の方が好きっていうかぁ、そんな感じなんですよぅ」
ふいに、スバルの背筋をぞくりと寒気が駆け上るのを感じた。
息を詰めてダフネを見つめる。彼女の様子は最初から今まで一度も変わっていない。変わらず棺に詰められて、身動きできない拘束具に封じられたまま、その双眸はスバルを一度も見ることなく闇に閉ざされている。
それがファッション緊縛でないなら、なんのために――。
「臭いで感じる限りぃ、すばるんって筋肉いっぱいでお肉とか筋張っててぇ、骨も太そうですごぉく、すっごぉく……ダフネの好物な気がするんですよぉ。だからぁ、近づかれたらぁ、食べちゃいたいくらいいい臭いがしてるんですぅ」
「た、食べちゃうって……性的な意味で?」
「生的な意味でぇ……」
発音が違う単語が繰り出されて、スバルは息を呑む。
そして素早い動きで彼女から大きく距離を取ると、少しばかり離れた距離から皿の上のクッキーを一つつまみ、
「こ、こっからお前目掛けて投げるけど、口に入らなかったらごめんな?」
「いいですよぉ、すばるん。棺に当たるぐらいのぼんやりな感じで投げてくれてぇ。こっちで勝手に取りにいきますからぁ」
「響きが不穏すぎるけど……ええい、ままよ!」
振りかぶり、スバルは軽いオーバースローでクッキーを放る。
五百円玉サイズのクッキーは放物線を描き、想像以上の正確さでダフネの口に綺麗に飛び込む。極限の集中力が、かつてないコントロールをスバルにもたらしていた。
まさに針の穴を通すコントロールでダフネの口にクッキーがシュート。舌の上に乗ったそれをダフネは一息に口内に運び込むと、
「むにゅむにゅ……んー、おいしー。ドナドナの味がするぅ」
「それがエキドナの手製って意味なのか、やっぱりあいつが黒魔術的な雰囲気でクッキーに自分の体の一部入れてんのかわかんないけど……続々いくぞ」
「はいぃ、待ち切れないんですぅ。もっとぉ……ねぇ、もっとぉ……」
「狙いが外れるからちょっと黙ってて!?」
やたらと性的な想像を掻き立てるダフネのおねだりを封殺し、スバルは連続してクッキーを投擲。食べ物で遊ぶなと怒られそうな光景だが、投げ込むスバルの真剣さはそんな叱りを受ける範疇にない。
微妙にダフネが首を動かす必要こそあるが、クッキーはことごとくが彼女の口の中へ。そして、そのまま皿の上のクッキーが一掃できるかと安堵に緩んだときだ。
「――あ」
一陣の風が強めに丘を抜けたとき、軽いクッキーがその煽りを受けて放物線が乱れる。それは狙いを大きく外し、テーブルをまたいで丘の斜面に向かってしまう。そのまま落下し、あわや蟻の餌か――と、思った直後だ。
「やぁだぁ……もったいなぁい」
異常な嗅覚でクッキーの狙いが外れたと気付いたダフネ。彼女が放物線を描くクッキーの末路を見えない視線で追い、次の瞬間、スバルは見た。
「――――!?」
激しい音を立てて、鋭い爪が丘の土を抉って破壊を生む。
土砂が巻き上がり、連続する音が被害を押し広げながら、風に乗り損ねて落下しかけていたクッキーの下へと辿り着き、
「あ、むぅ」
首を伸ばしたダフネがクッキーをその赤い唇の間に挟み、幸せそうな顔つきでそれを口の中へ。音が聞こえないほど静かに咀嚼し、腹に収めたあとで彼女の桃色の舌が唇をゆっくりと、舐めて湿らせて「ほぅ」と艶っぽい吐息。
それら全てを見届けたスバルは無言。
押し黙るスバルに気付いたダフネは、その小さな鼻を鳴らして、
「すばるん……まだ、二枚残ってますよぅ?意地悪しないでぇ……」
頬を赤らめて、唇を小鳥のように震わせる少女の姿は愛らしい。
それが両目を塞がれて、全身を拘束具にがんじがらめにされて、黒い棺の中にいて――。
「……いや、これは動揺しない方が無理だろ」
その棺から蟹のような足が生えて、宿主の肉体を運ぶ非常識さの中になければ。
※※※※※※※※※※※※※
「そ、れが……なにか、聞いても大丈夫か?」
最初の衝撃から立ち直れないまま、スバルは求められるがままに残り二枚のクッキーも投擲。指先の震えから狙いを外したその二枚も、棺の素早いフットワークによって難なくダフネの口の中へ。
甘味を心行くまで堪能したダフネは幸せそうな顔で「んー」などとうなっていたが、どうにか絞り出したスバルの質問に気付き、
「それってぇ、なんのことだかぁ、見えないダフネにはわからないんですけどぉ」
「その……ものすごい、造形美がきらりと光る移動型棺桶だよ。俺の狭くて浅い知識の中だと、棺桶ってやつには足もないし、虫みたいな動きで高速で動いたりしないんだ」
ぎちぎちと音を鳴らし、棺は中にダフネを収めたままゆっくりと最初の位置へ戻る。音を立てて棺の下部を草原に落とすと、吸い込まれるように再び蟹の足は棺の中へと消えていった。亀が甲羅の中に手足と頭を隠す、ああいった動作に近い。
そんな感想を抱くスバルに合点がいった様子でダフネは「あぁ」と笑い、
「百足棺のことですかぁ?この子はぁ、ダフネが動けなくて不自由したのでぇ、そのために作った子なんですよぅ。普段は静かにしてるし、いい子なんですよぉ?」
「作ったって……それは、生き物……なのか?」
生物的な動きと器官があるとはいえ、その存在が生物の範疇に入る確信が持てない。もちろん、機械的なものでないのも間違いないが。
「食べたりぃ、飲んだりしたりしませんけどぉ、百足棺もちゃぁんとマナ吸収して生きてますよぅ?お腹が空かないのってぇ、うらやましいですよねぇ」
「マナを食う……いや、そのあたりに関してはうっちゃっていいか。それより、お前が作ったって言ったのか?お前、生き物を作れるのか?」
「生き物っていうかぁ、魔獣……ですよぅ。ダフネの意思とかぁ、気分とかぁ、ふわふわーっとしたそういうのでぇ、生まれちゃうみたいなぁ」
棺の中で身をよじるダフネの口からは、具体的なものをイメージさせる言葉は出てこない。だが、その曖昧な雰囲気からでもとんでもないことをしているのだと感じ取れる。
――生物を作り出す、というのはまさしく神の所業だ。
元の世界では人間が、品種改良やクローンなどでそういった禁忌の科学に手を出していたりもするが、無から有を生み出すそれは完全なる神の所業。
それを命への冒涜と考えるか、神秘の到達者と見るかは人それぞれだろうが。
「まさ、か……ダフネの負の遺産って……魔獣を生み出したって、そのまんまの意味なのか?」
「んーんー?」
「白鯨、黒蛇、大兎……これ全部、お前がその棺桶カニみたいに、生み出したものだってのかよ……?」
「んーふぅ……うん、懐かしい名前ばっかりですねぇ。そうですよぉ。鯨もぉ、蛇ちゃんもぉ、兎もぉ、ダフネが作った子たちですよぅ」
「なんで!!」
肯定の言葉に牙を剥き、スバルは開いた距離を踏み込みで埋めて唾を飛ばす。
怒気に顔を赤くして、スバルはダフネに指を突きつけると、
「なんで、そんな化け物を作りやがった!そいつらが外の世界で、お前が死んだあとも四百年!どんだけ暴れ回ったかわかってんのか!?何人、何十人、何百人がひでぇ目に遭ったか……!」
脳裏に浮かぶのは、白鯨と激突したリーファウス街道の激戦。
妻を殺されたヴィルヘルムの叫びと執念、そしてあの戦いに参列した騎士たちの嘆きと怒り――全て、白鯨を発端とし、その白鯨を生んだ魔女が生んだ悲劇だ。
『聖域』を襲う大兎のことも、スバルの今後の動きが実を結ばなければ、エミリアを始めとして『聖域』の住人全員が食い荒らされることになる。
大兎はそんなことをずっと繰り返し続けてきた天災。それも、原因が目の前の魔女であるのなら。
「なんのためにだ!言ってみろ!あれだけたくさんの人たちが苦しむ理由を、苦しめる化け物を、なんのために作ったんだ!!」
「……?大きい生き物の方が、食べがいがあるじゃないですかぁ?」
「――ぁ、う、ああ?」
勢い込んだスバルの発言に、ダフネは困惑した顔でそう応じる。
その彼女の言葉に思わぬストップをかけられて、スバルは舌が回る速度が追いつかないまま呻き声だけを漏らした。
そんなスバルにダフネは不思議そうな顔つきになり、
「白鯨、おっきかったですよねぇ?あの子、食べたらたくさんの人、お腹いっぱいになると思いませんかぁ?」
「なに、を……」
「大兎もぉ、いくらでも増えるんですよぉ。だからぁ、あの子がいればぁ、放っておいても増えるんだしぃ、永遠に食べ物に困ることとかないかなぁって」
「増え……は?」
ダフネの言葉が耳に入ってくるが、その意味がうまく脳を震わせない。
仮にこの震わせている言葉の群れがそのままの意味だとしたら、目の前の魔女がなにを言っているのかがわからない。
本当に、心の底から、なにを言っているのか、意味が――。
「じゃ、あ……なにか?お前は食糧問題でも解決するために、魔獣を生み出してたとでも?白鯨も大兎も、飢餓に苦しむ人々を助けるために作ってやったとでも?その思いやりのおかげで、何人もそいつらに食い殺されてるってのにか!?」
「……?相手を食べようとするのにぃ、自分が食べられる可能性を考慮しないのってぇ、ちょっと勝手すぎませんかぁ?」
「…………」
「それにぃ、人間も亜人もみんなまとめてぇ、ちょっとこの世界には多すぎるんじゃないかって思うんですよぅ。あの子たちがそれを少しでも減らして整理してくれるんならぁ、それでもいいかなってダフネは思うんですぅ」
「は、白鯨が存在を消す霧を吐いたり、大兎が思うままに集落を食い荒らすのは……?」
「狩りの仕方までダフネは知りませんよぅ。あの子たちがどうやって育って、どれだけ食べてぇ、どこで食べられちゃうのかぁ……そんなこと知っても、ダフネの空腹は満たされたりしませんからぁ」
微笑みながら言うダフネを見て、スバルはあまりに遅すぎる理解を得た。
エキドナの言った言葉の意味が、ようやく理解できた。
スバルとダフネの相性は最悪である、と彼女は言った。
スバルはそれがマイペースすぎる彼女と、せっかちなスバルの性分が噛み合わないためだと判断していたが、なんという楽観的で見当違いな考えだったのだろう。
――スバルとダフネは、価値観が合わないのだ。
否、スバルだけに限った話ではない。彼女と価値観が噛み合う人間などいない。
彼女は人間とも亜人とも別次元の視点で物事を見ている。それは彼女自身が生み出した魔獣にすら肩入れするものではない。
弱肉強食――彼女の中にある考え方はその一点のみであり、食べるものの存在を認める、増やす、食らう以外の思考が全て瑣末なこと扱いなのだ。
言葉が出ない。精神構造が根本から違う。
ここまで、スバルの遭遇してきた魔女がそれぞれ、問題はありつつも会話の成立する相手ばかりだったから思い違いをしていた。
彼女は魔女。彼女たちは魔女。世界にたった七人しかいない、本物の魔女なのだ。
「すばるんもそうですけどぉ……みんなぁ、『暴食』を安く考えすぎてないですかぁ?」
「…………」
「そもそもぉ、食欲ってぇ、生きる上で一番大事な欲求なんですよぅ?だって、それが満たされなかったらぁ、生きていけないじゃぁないですかぁ」
「…………」
「安らぎがなくてもぉ、愛されなくてもぉ、感情を吐き出せなくてもぉ、自我を保てなくてもぉ、欲しいものが手に入らなくてもぉ、なにに憧れることがなくてもぉ、人は死んだりしないじゃないですかぁ。でも……」
「…………」
「食べれなかったら、人は死んじゃうんですよぉ?」
七つの大罪の中で、『暴食』だけが直接命に関係する。
正しい意味での『暴食』は、必要以上に食欲を追い求めることだ。だが、この場合のダフネの言葉の真意は、生きるために必要な食欲のことを指している。
そしてスバルにはそれを否定することができない。彼女の発言は確かに、生きる上での真理の一端を指してはいるからだ。だが、それだけが全てと考えるそれだけは間違っている。
「お前の言ってることは一部正しい……けど、そんな考え方は……」
「すばるんも一度、限界まで飢えてみたらいいんじゃぁないですかぁ?そうしたらぁ……ダフネの言ってることの意味もぉ、きっとわかりますよぅ」
それはあまりにも、魔女らしすぎる態度と提案だった。
ゆらりと、棺の中からダフネが身を起こす。紙が破れるような音が鳴り、ダフネを拘束していた拘束具の交差するベルトがあっさりと外れた。くすんだ白い拘束具を煩わしげに腕でどけて、ダフネが棺から裸足で草原の上に降り立つ。
小柄な体の手足を揺らし、彼女は固まっていた体の調子を確かめながら、
「お腹が空くからぁ、自分の足で動いたりするのって嫌なん、ですよ、ねぇ……」
たったそれだけの準備運動で息切れするダフネ。
だが、そんな彼女を前にしてスバルは一歩も動けない。呼吸すら、封じられる。
小さな魔女――その全身から放たれる圧迫感が、スバルを掴んで離さない。まるで、巨大な掌に全身をがっちりと握りしめられているようなプレッシャー。
「このままぁ、すばるんを食べちゃってもいいんですけどぉ、ドナドナやメトメトが怒りそうなのでぇ……んー、左目だけでいいですかねぇ」
言いながら、ダフネがスバルの前で自分の目を塞ぐ眼帯に手をかける。
拘束具を解くな、体に触れるな、目を見るな――いずれも、ダフネを降ろす前にエキドナがスバルに忠告した内容だ。
だが、拘束具は彼女が勝手に解いたし、こちらに触れてくる様子はないが身動きはプレッシャーで封じられた。そして最後の忠告も、
「――――」
金色の、左目。
なんの変哲もない、丸い少女の瞳だ。
左目側の眼帯だけをめくり、その瞳をこちらに見せつけてくるダフネ。
その瞳に射抜かれたように動きを封じられるスバル。やがて、彼女は何度かその瞳を瞬きさせたかと思うと、
「もう、十分ですよぅ」
言いながら、彼女は相変わらず疲労した動きで棺の方へ。そのまま倒れ込むように飛び込む彼女を、動いた棺が柔らかに受け止める。
身じろぎして棺の中で、一番楽な体勢を探すダフネ。動けないままスバルは、黙って口の中のものを噛みながらそれを見ている。
欠伸をするダフネは、さっきまでめくっていた眼帯を戻して両目を塞いでいる。やがてゆっくりと棺の内側の皮が剥がれて、それが彼女の小さな体に巻きつくように蠢き、その体を絞め上げる。
なんのことはない、彼女の拘束は、彼女自身の意思によって行われていたのだ。
「今、のはいったい……っていうか、お前はそれ、なんのために」
「まだ気付かないんですかぁ?」
自ら拘束されるのはなんのためなのか、と問いかけようとするスバル。その言葉を遮り、ダフネは棺の中で自分の拘束具合を確かめるように身を揺らす。
その彼女の言葉にスバルは一瞬、眉を寄せてふいに気付いた。
「あ、う……?」
痛み。それは痛みだった。
スバルは自分の腹部に発生した、穴が開くかと錯覚するほどの痛みに身を折る。
胃袋を絞め上げ、渇きと空腹感を訴えるそれは圧倒的な飢餓感だ。堪え難い痛みに呻き、身をよじり、スバルは草原の上で膝をつく。
口の端からよだれをこぼしながら、必死で懸命にその痛みに耐える。空腹、空腹、空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹空腹。
「あ、ぁ、あぁ……くる、し……」
猛烈な空腹感、意識が飛びそうなそれは思考を乱し、現実を認識させない。
スバルは喘ぎ、身悶えしながら、地面の上を転がり回る。その動作にすら空腹感を助長させるものがあり、やがてスバルは虫のように草原の上で小さく震える。
飢餓、気が狂いそうな飢餓。飢える。命に関わる。穴が開く、腹に穴が開く。死ぬ死にかねない、今すぐに満たされないと死ぬ。死ぬ。死ぬ。
「まだ、気付かないんですかぁ?」
苦しみ悶えるスバルを見下ろし――実際には彼女の目にはスバルは映っていないが、ダフネは声と嗅覚でスバルの状態を把握しているらしい。
ダフネの言葉の意味がわからない。気付くもなにも、飢餓感は頭がおかしくなりそうなほどに感じている。これが彼女の働きかけによることは理解しているが、それを憎むよりも飢餓感の方が勝っている。どうにかこの飢餓感を満たさなくては耐えられない。今、こうしてかろうじて意識が繋いでいられるのも、さっきから口の中で咀嚼しているなにかのおかげで――。
「――――」
今、スバルは、なにを、食べて、いるのか。
「気付いたんですかぁ?それが、『暴食』ですよぉ」
ダフネの言葉に、スバルは自分の右手――小指と薬指の欠けた、手に気付いた。
消えた指はどこにいったのか。探すまでもない。口の中で、今、奥歯が小指の欠片を噛み潰したところだ。
食い千切られた傷跡から血が溢れ出し、それが草原の緑を朱に染める。
こぼれ落ちるその滴を見て、スバルの脳を空白が支配。
そして空白が時間の経過とともに満たされていく。浮かぶ感情、それは、
――ああ、こぼれる血がもったいない。
喉の渇きを潤すための、純粋な飢餓感からの落胆のみだった。