『英雄幻想』
「ずいぶんと早いお戻りやったやんな?」
都市庁舎へ戻ったスバルたちを出迎えて、アナスタシアが微妙に引きつった笑みでそう言ってくれる。
威勢のいい啖呵を切って建物を出ただけに、出戻りする羽目になったスバルも正直言えばあまり顔を合わせたいタイミングではなかった。
ただ、状況はそのどちらの心情も慮ってはくれない。
「ああ、ただいま。だけど、用事を済ませたらまたすぐに出るよ。庁舎でちょっとやらなくちゃいけないことがあってな」
「またなんや思いついたん?あんま、いい予感はせぇへんけど」
「まぁな。……とりあえず、一つ目の避難所はひどい有様だった。それに関しては対話鏡でも伝えた通りだ。たぶん、『憤怒』の影響が色んな場所に出てると思う」
「感情の共有、やったよね。ウチもそれ、感じんでもないわ。一度、気持ちが沈むと際限なく沈んでく気ぃになる。……多少、個人差あるようやけど」
アナスタシアの推論に、スバルも顎を引いて同意を示した。
実際、それは道中でスバルも感じ取っていたことだ。シリウスの権能の影響は、本人たちの距離があるためか効果がまばらだ。
おそらく、権能の存在自体を知っているかどうかも影響を和らげられるかに関係してくるのだろう。経験上、スバルがガーフィールとアルをなだめることができたのがそれを証明している。
「避難所の有様が、何が切っ掛けかはわかんねぇけどな。オレとしちゃ、主戦力が集まってるここがおんなじ轍を踏まねぇか心配でしょうがねぇよ。戻ってきてみて血祭りに巻き込まれるなんざ、ご免願いたいからな」
「そら、いらん心配やね。幸い、理性的な面子が揃っとるから惑わされたりせんよ。ウチとしては、和を乱す発言をされる方がよっぽどやねんけど」
スバルと共に戻ったアルが、都市庁舎の一階を見回しながらそんなことを言う。それを聞いたアナスタシアが鼻を鳴らし、口さがないアルを皮肉で黙らせた。
それきりアルが肩をすくめて黙ると、アナスタシアはスバルに向き直る。
「それで、どないするつもり?考えがあって戻ったんやろ」
「ああ。……ところで、ユリウスはどうした?一緒にいないのか?」
「質問に質問重ねられるんはあんまり好きやないんやけど。……ユリウスも、ちょぉっと様子が変なんよ。ヨシュアがまだ見つかってないから言うんもあると思うんやけど、なんやそれだけやない気もする」
「様子が変……そういえば、ちょっと変だったか?」
都市庁舎攻略失敗の後、目覚めたスバルと会話するユリウスはどこか歯切れの悪い部分が目立ったのは事実だ。普段ならばしないような判断や提案、自分に自信の持てない素振りなどを見せていた。
責任感の強い男だ。おそらく『暴食』を取り逃がしたことを悔やんでいるものと思っていたが、あるいはそれだけではないのかもしれない。
「大将。なァんでもかんでも抱えッ込んじまうのは悪ィ癖だぜ。ユリウスが気になんのァわかッけど、やることがあんじゃァねェのかよォ」
「あ、ああ、そうだな。まぁ、あいつは心配しなくても自力でどうにかすんだろ。それよりこっちの話だ。アナスタシアさん。最上階にあった、放送用の魔法器ってのは使える状態なんだよな?ぶっ壊れてたり、説明書なかったりせずに」
ガーフィールにたしなめられて、意識を引き戻すスバルが問いかける。アナスタシアはそれを受け、丸い瞳をぱちくりとさせながら、
「壊れてへんし、おんなじものをウチも扱ったことあるから平気やけど……アレに用事があるやなんて、何を企んどるの?」
訝しげな目をするアナスタシアに、スバルは自分の頬を掻く。
まず、反対がくるだろうと思う提案ではあるのだが、スバルにはこれしか思いつかない。被害を軽減すべく、最大の効果を発揮する策が。
「対話鏡で話した通り、今のこの町には『憤怒』の権能の影響が強く出てる。俺たちが出向いた避難所が……その、血生臭いことになった原因はイライラとかが蔓延した結果だ。ちょっとのマイナスな感情が最悪の被害を生む。そこが怖い」
「せやね。それはウチも思う。人数が増えれば増えるほど、打てる手がないって不安は加速度的に大きくなる。せやけど、避難所って仕組みがある以上……ううん、避難所がなかったとしても、人は寄り添う。せやろ?」
アナスタシアの問いかけに、スバルは無言で首を縦に振った。
シリウスの権能の恐ろしさは、人が多ければ多いほど効果を増す点だ。そして、放送によって魔女教の脅威が知らしめられれば、人は不安から寄り添わずにはいられない。弱さに対抗する人の心を、まさしく弄ぶ最悪の手法だ。
その連携を魔女教が狙ってやったのかはわからないが、結果としてその悪循環が生じているのは事実。そしてそれは、今この瞬間にも人々を脅かしている。
「それに対抗する、その手段が思いついたいうこと?」
「できるかもしれねぇレベルだけどな。やってみる価値はあると思うぜ。ただ……」
期待のこもったアナスタシアの目に、スバルの語尾が歯切れ悪く切れる。
アナスタシアが目を細め、その内心を読み取ろうとするように視線で突き刺してくるのを感じながら、スバルは深々と息を吐いた。
「いざ事を始めたら、魔女教の奴らの耳にも同じ内容が入る。だから奴らを刺激するって意味じゃ、別の危険が生まれる可能性はある」
「その代わり、今の潜在的な危険は遠ざけられる可能性が高いってわけやね」
「ああ、そういうことだ。都市庁舎を取り戻したばっかだし、シリウスの権能以外では避難所に手出しされてない今、天秤にかけるのは難しい問題だと思うが……」
こちらから大きなアクションを起こすことで、魔女教の奴らがどんな反応をするのかは想像ができない。火薬庫に火種を持ち込むような危険が、魔女教に対しては常に付きまとう。問題はその火薬庫が、火種の有無に関わらずいずれは爆発する場所であるという手のつけようのない部分なのだが。
「――ナツキくんが何をしたいんか、ウチも大体はわかっとるよ」
「本当か?」
考え込む素振りを見せていたアナスタシアが、長いため息とともにそう言った。彼女のその反応にスバルが驚いて眉を上げる。
「今の話の流れと、最初に放送用魔法器を確認したやろ。それがあってわからんようなら、そっちの方がよっぽど心配になるわ」
「ま、まぁ、そうだよな。それで、どう思う?やっぱり反対か?」
おそらく反対されるだろう、というのは事前に考えていた通りだ。
故にスバルはどうにか舌戦で、アナスタシアという強大な壁を言い負かさなくてはならないのだが――。
「はぁ、しゃーないな」
「……え、いいの?」
「理屈で考えたら、そうするんが一番やろ。いくらウチが勝ちに拘るいうても、魔女教全部やっつけた後で死体の山が残っとったら後味悪すぎるやんか」
思いもよらぬ答えがあって、しばしスバルは呆気に取られる。
その間、アナスタシアは色々と自分の中の消化し難い感情にどう対処すべきか悩むように唇を噛んでいたが、そこに割り込んだのはガーフィールだ。
「よォ、大将と姉ちゃん。つまり、なァにするって話なんだよ」
「察しの悪い子ぉやな。うちのリカードでも気付くぐらい話したやん」
イマイチ話に乗りきれていないガーフィールに、アナスタシアは容赦がない。そのアナスタシアにガーフィールが苛立たしげに牙を鳴らしたが、その肩を後ろから叩いたのはアルだ。振り返るガーフィールにアルが笑い、
「つまりだ。兄弟はこう考えてんのさ。この町中に広がってやがる『憤怒』の権能に対抗するにゃ、それを逆手に取るのが手っ取り早いってな」
「逆手にって、そいッつァつまりどういう……」
「シリウスの能力は感情の共有だ。不安に怯えてる今だから、たくさんの人たちの感情が膨れ上がって、ちょっとしたことが苛立ちとかに繋がって爆発する。なら」
「不安と怯えを別の感情……希望で塗り潰せば、その心が共有されるって寸法やね」
ガーフィールの疑問を、アルとスバル、最後にアナスタシアが解きほぐす。
それを聞いて、ガーフィールは目を見開きながら「あ」と納得の呻きを漏らし、
「そッいうことかよ!確ッかにそれなら殺し合いは起きねェ。それにうまく話が進めば、戦う気力が折られた連中も戦う気持ちになる」
「周りの雰囲気に呑み込まれると、たぶん戦い慣れてるような人でも腰を上げられなくなってるはずだ。その不安から解放すれば、問題になってる戦力の不足にも対抗できると思う」
「いいッじゃァねェか!やろうぜ、大将!魔法器ならあるんだ。すぐに始めてそれで……」
「待ち待ち!事はそんなに簡単な話やないんよ。ウチかて、それを考えんかったわけやないんやから」
逸るガーフィールを引き留め、アナスタシアが手を叩いた。
そのアナスタシアの素振りにガーフィールが牙を剥き、
「あァ?んで止めんッだよォ。てめェもさっき、それしかねェって賛成してたッだろォが、直前でビビんじゃねェ」
「腰が引けてこないなこと言うてるわけやない。考えてたって言うてるやろ。この作戦には単純なメリットとデメリット以外にも問題があるんよ」
「メリットとデメリットは、さっき言ったことだよな?」
「メリットは、この作戦の目的そのもの。都市にいる人たちの不安を払って、後顧の憂いをなくすこと。デメリットは都市中に声を届けることになるから、当然、魔女教の耳にも入る。奴らがどう出るか、全然読めんいうことや」
噛みつくガーフィールと落ち着いたスバル、二人に応答するアナスタシアは腕を組みながら「けど」と言葉を継ぎ、
「このデメリットに関しては、あんまり気にせんでええと思う。そもそも要求を突きつけたときの、奴さんらの放送が反抗することを禁じてへんかった。というより、意に介しておらんのやろな。邪魔されることも、反抗されることも」
「……それを言い出したら、俺たちが都市庁舎に攻撃を仕掛けたことにだって、それ自体を罰する意味でペナルティは発生してねぇもんな。庁舎にいた人たちがあんな目に遭ったのは、ただのあいつらの趣味だ」
「趣味、か。ええ言葉や。奴さんらの悪趣味がよう伝わるわ」
アナスタシアが嘆息し、スバルも大罪司教の顔ぶれを思い出して反吐が出る。
だが、互いに放送自体の危険性はないと考えているのは同意見だ。ならば、アナスタシアが問題にしているのは――、
「放送すること自体にウチは何の反対もない。せやけど、問題があるんは別のところ……それこそ、誰が何を放送で話すんってところや」
「誰が何をって……」
アナスタシアが何を言い出したのかがわからず、スバルは眉を寄せる。
放送で都市にいる人々の希望を煽り、心にまとわりつく不安を追い払う。その目的を果たすために、誰が何を言うのかなど――。
「そりゃ、ここはアナスタシアさんの出番だろ。王選候補者で、知名度もある。アナスタシアさんの口から戦うって気概を示せば……」
「こんなん言うたらアレやけど、ウチの言葉にそこまでの効果を期待するんは難しいと思う。自分の力不足、認めるようで癪なんやけど」
「――――」
スバルの早口の提案を、アナスタシアが首を振って否定する。
その意味がスバルにはわからない。だって、アナスタシアの立場は王選候補者。当然、このプリステラに住まう人々も公的にされた王選の事情は知っている。
彼女の知名度は、そんじょそこらの人間をはるかに上回っているはずだ。
「力不足なんてこと、どうして。だって、アナスタシアさんは」
「知名度、それだけの話をするんやったら確かにウチやね。それで物事が好転するいうんなら、ウチも喜んで放送したる。けど、そうはならんよ。ウチの名前は現状、魔女教を退けるだけの力とは繋がらん。有名な誰かが魔女教と戦おうとしてる――ひょっとしたら、どうにかなるやもしらんなぁってなもんや」
「それでも」
「それじゃ、意味ないんや。必要なんは、希望。不安に支配された人たちの心が、一気に突き動かされるような希望」
アナスタシアの断言に、スバルは二の句を継ぐことができない。
本音を言えば、彼女の弱腰を弾劾し、考えを正したい。しかし、他の誰でもない。アナスタシア自身が今の意見の情けなさに、悔しさを感じている。
アナスタシアとて、考えなしにこんなことを言っているわけではない。逆だ。
考えに考え抜いたからこそ、自分ではこの役目に不足していると判断した。
「口八丁手八丁で、騙せ誤魔化せ言うんやったらやれないことない。十人の五人ならウチが騙したってもええ。けど、それは縋る希望としてやない。風が吹けば千切れかねない命綱として、ほんのわずかに気持ちを変えるだけの話」
「じゃ、じゃあ……クルシュさんは?武名もあって、ルグニカ貴族のクルシュさんなら」
「……そやね。クルシュさんの言葉なら、きっと力があった。でも、それも以前のクルシュさんの話。今のクルシュさんにその力はない。ましてや、今のクルシュさんは命の瀬戸際や。誰かを勇気づける以前の問題」
「命の瀬戸際って、そんなに悪いのかよ!?」
聞かされていた以上の状況の悪さに、スバルがアナスタシアに詰め寄る。
身長差のあるアナスタシアは、スバルを見上げて唇を引き結んでいた。とっさにスバルはガーフィールを振り返るが、彼は弱々しい表情で首を横に振って、
「猫耳の姉ちゃんが、絶対に死なせッやしねェたァ思う。あんッだけ生命力を注ぎ込んで……けど、魔法器の前に立たせて話させるってなァ俺様も反対だ。できる状態じゃァねェよ。それァ、声にも出ちまう」
「クソ!なら、ユリウスだ。ユリウスにならその資格が……」
「確かにユリウスは近衛騎士隊の優秀な騎士や。王国最高峰の騎士、ウチの自慢でもある。でも、ユリウス自身の知名度がどこまで都市で役立ついうん?事の成功率はウチとどっこい。口の上手さならウチのが上」
クルシュを連れ出す案を否決され、ユリウスを立たせることも跳ね除けられる。
ならば都市庁舎に居残る面子で他に希望を奮い立たせられそうなのは、ヴィルヘルムやリカードの存在だろうか。リカードにそこまでの牽引力も知名度もない。
そして今のヴィルヘルムに、そんな話を持ちかけられるか。近衛騎士団前団長という肩書きが、どこまで優位に働くものか。
「だったら、どうすれば。他に誰が……」
「あのよ」
せっかく、『憤怒』に対する有効的な対策が思い浮かんだと思ったのに、実行段階で適役が見つからないという事態に阻まれてしまった。
そうして考え込むスバルに、ふいにアルが軽々しい調子で手を挙げ、
「その放送する奴って、兄弟じゃいけねぇのかよ?」
「――は?」
あまりにも当たり前の調子で言われて、スバルはとっさに反応が遅れた。
ぽかんと口を開けて、アルが何を言い出したのかを考慮、するまでもない。
こんなタイミングで笑えない冗談や悪ふざけ、何を考えているのか。
「あのな、アル。今、真剣な話し合いの最中なんだよ。それも時間もない類の話し合いだ。お前のボケにも対応しきれねぇ」
「おいおい、待てって。確かにオレは発言の半分以上が不真面目ってのが理由で姫さんから採用をもぎ取った男だが、今のに関しちゃ別にふざけちゃいねぇって」
「ふざけてなくて、どうして俺にやらせようなんて考えが出てくるんだ?ふざけてるんじゃなくて、血迷ったとかトチ狂ったとかなら聞かねぇぞ」
「どうしても何も、そんなに不思議なことかよ?周り見てみたらどうだ?」
あくまで不真面目を貫くアルだが、ふいに声の調子を落として顎をしゃくる。その動きにつられて、スバルは視線を別の二人――アナスタシアとガーフィールへと移した。さぞや二人も、このやり取りを呆れて見ているかと思ったのだが。
「……おい、二人とも?」
「――――」
その二人の視線は真剣で、決して呆れても嘆いてもいない。
二人は真摯な眼差しを宿して、スバルを見つめていた。
まるで、アルの意見に自分たちも肯定的であると言わんばかりに。
「冗談だろ?俺が話して、それでどうして納得って話になるんだ?アナスタシアさんやユリウスが届かないのに、どうして俺が!」
「そりゃ、さっき外で話してたじゃねぇか、兄弟。ここまで、兄弟が積み重ねてきたことの結果だよ。ガーフも言ってただろ?大将、大将ってな」
「それとこれとがどう関係する!」
「一緒だよ!ガーフに大将って呼ばせるだけのことを、兄弟が示してきた。それがあっての信頼だろ?んで、兄弟はどうやら自分の手柄を大したことじゃねぇと勘違いしてるらしいが、言ってやるよ。魔女教の『怠惰』を撃破したなんて肩書き、今この都市どころか、この世界で持ってるのは兄弟だけなんだぜ?」
「――――」
声を荒げるスバルに、アルが詰め寄って顔を近付ける。
冷たい兜の額がスバルの額にぶつかり、固い感触と冷え切った熱が伝わる。すぐ間近から、見えない目力が突き刺さり、スバルは息を呑んだ。
「魔女教に占拠された都市に、魔女教の大罪司教を殺した男がいる。さっきの条件の中で、これだけ人の希望と期待を煽れる奴が他にいるか?いるとしたら、剣聖ラインハルトと兄弟だけさ。そしてここには今、兄弟しかいねぇ」
「――っ」
一度、強く額をぶつけられてスバルはのけ反る。
打ち合った額に手を当ててスバルが下がり、アルは隻腕の肩をすくめた。
「ウチも、同意見やった。誰かにやらせる言うんなら、ナツキくんしかおらんと」
「アナスタシアさん……」
額に手を当てたまま振り返るスバルに、アナスタシアが目を伏せていた。
それは先ほど語った自分の力不足を引きずったままの表情で、しかし誰かに希望を託さなくてはならない責任を感じている表情でもある。
事ここに至り、その表情を見てようやく、スバルは自分の背に負っている大きな期待の存在に気付いた。
「ガーフィールも、同じか?そう思うのか?」
「俺様ァ、大将が大罪なんちゃらの『怠惰』をぶっ殺した話なんざ、そんッなに詳しく知ってるわけじゃァねェ。けど、考えッてるこたァ同じだ」
低い声で問うスバルに、ガーフィールが短い髪の毛の頭を掻き、
「この都市にいる誰かの声が、誰かの希望になるッてんなら……俺様にとって、そりゃァ大将の声だ。大将がやってやるって、手伝えってそう言ってくれッなら、俺様ァそれができそうな気がする。そういう風に、思ってる」
「――――」
それは、途方もないほど重い信頼だった。
驚き、息を詰めて、スバルは自分に寄せられる期待の大きさをはっきり思う。
首を巡らせ、アナスタシアを見た。彼女が頷く。
そのまま今度はアルを見る。彼もまた、肩をすくめてみせる。
ガーフィールは変わらずスバルを見ている。向き直れば、頷いた。
「――――」
それら三者からの反応を受けながら、スバルは首を上へ向ける。
一階ロビーの弱々しい結晶灯の光に目を細めて、長々と深い息を吐いた。
――とんだ、過大評価だ。
ヴィルヘルムにも、ユリウスにも、ラインハルトにも、感じたことがある。
彼らはあまりにも、スバルの存在を思い違いしている。勘違いしている。
彼らの方がずっと立派で、ずっとずっと努力していて、ずっとずっと気高いのに。
そんな彼らが当たり前のように、当然のことのように、スバルを称賛し、手を差し伸べて、親しげに声をかけてくれることが、スバルをずっと苦しめていた。
尊敬する相手に、負けたくない相手に、決して届かない相手に、そんな風に認められていることが、喜びばかりを呼び起こすわけではない。
不安だった。いつか本当の自分が暴かれたとき、きっと彼らを失望させる。
本物のスバルが情けなくて、弱くて、どうしようもないと気付いたとき、きっと彼らに悲しい目をさせ、これまでの言動を後悔させてしまう。
ずっと、そう思い続けてきた。なのに、
アルも、ガーフィールも、アナスタシアも、なおもスバルにそれを期待する。
重みに潰されそうになって、いつだってスバルは必死なのに、必死なだけじゃ足りないのだとばかりに、スバルへ次から次へと重石を乗せ続ける。
これが、ナツキ・スバルの歩く道。
――かつて、たった一人の少女に誓った、彼女だけの英雄であった道。
いずれは、彼女だけの英雄ではいられなくなり、スバルが背負うべきは――。
「――もしもやるなら、兄弟。兄弟がこれから背負うのは、英雄幻想だ」
押し黙ったスバルに、アルがふいにそんな言葉をかける。
ゆるゆると視線を下ろすスバルを、アルはどこか力の抜けた声で、
「負けちゃいけねぇ。勝たなきゃならねぇ。希望を担い、期待を背負い、未来を示して戦うんだ。ここで決断したら、そうならなきゃいけねぇ」
「……負けちゃいけねぇのは、いつだってそうだろ」
「重みが違ぇ。兄弟の負けは、兄弟の負けだけじゃ済まなくなる」
アルの、言葉の意味がよくわからない。
スバルの戦いはいつだってそうだ。スバルが負けたとき、失われるものはスバルだけではない。スバルが守りたい全てが、スバルの敗北で失われる。
いつだってそうだ。そうでないときなんてない。
だって負けて失わないで済むのなら、戦うことだってしたくない。
それでもスバルが戦うのは、戦わなくては守れないものがあるからだ。
そしてそれは、今日このとき、とてつもなく大きく、多い。
「なんだ、じゃあ、いつもと変わらねぇな」
「――――」
息を吐き、心を決めた。
さっきまであれだけざわめいていた胸が落ち着き、やけに視界がクリアになる。
目の前でアルが息を詰めて、呆然としているのが顔が見えないのにわかった。
「アナスタシアさん、やるよ。俺の声でどうにかできるなら、俺がやる」
「……ええの?一度、希望になるんを選んだら」
「俺のやることは変わらない。英雄、いいじゃねぇか。いや、正直、照れ臭いにも程があるし、そう名乗るのはちょっとアレだが」
アナスタシアの憂いの顔に、スバルは自分の鼻の頭を軽く指で擦ると、
「ヒーローやることだけなら、もう一年前から決めてたんだ。そうしないと、見られてる子に恥ずかしいし、見てる子の背中に追いつけねぇから」
「――さよか。したら、ええよ。男の子は、かっこつけやから」
アナスタシアが仕方なさそうに笑い、スバルの胸を軽く小突いた。
その反応に少しだけ驚く。
無防備に、アナスタシアが本心からの表情を見せてくれたのが、ひょっとしたら今のが初めてだったように思えたからだ。
その感慨も、すぐに突かれた胸の中にしまい込み、スバルは顔を上げた。
「ありがとよ、ガーフィール。アル。お前らのおかげで、覚悟できた」
後ろにいる二人にそう言って、歩き出すアナスタシアの後ろに続く。
放送用の魔法器の前に立ち、何を言えばいいのか、頭の中で考える。
まだ、何を言えばいいのかも、何を言うべきなのかもまとまらない。
だけど、戸惑いも不安もないのが何故か不思議だった。
いつもと同じ、そう思えているからだろうか。
――いつもと同じように、格好つけなきゃならないとわかっているからだろうか。