『愛の始点と終点』


 

背後には巨大な蝿の詰まった部屋。

横手の壁をぶち破って、外には黒竜が転落して身動きとれず。

 

そして眼前には、クルシュを足蹴にして高笑いする一人の少女。

禍々しい笑みに、嘲弄まじりの口上、そして何より名乗った内容をそのまま信じるのなら、そこにいるのは魔女教大罪司教『色欲』担当、カペラ・エメラダ・ルグニカに他ならない。

 

――頭がおかしくなりそうだった。

 

「なん、なんだよ、これは……っ」

 

「考えるだけ無駄なんじゃねーですか?てめーらクズ肉は余計な頭回してねーで、目の前の現実をそのまま受け入れるのが一番!恐怖に震えて小さくなっていた美少女、しかしそれは魔女教大罪司教でありやがったのでーす!」

 

頭を掻き毟るスバルの前で、舌を出して下品に嗤うカペラが踊る。その足の下に敷かれるクルシュは白目を剥いたまま、口から危険な勢いで血をこぼしていた。

目立った外傷は見当たらない。だが、明らかに命に別状があるレベルの被害だ。治癒魔法を使えるガーフィールと距離がある現状、最悪の事態になりかねない。

 

「そもそもてめーらっておかしいとか思わねーんですか?ここ、都市機能の中枢の都市庁舎。そんな場所になんでチビ肉がうろついてるとか考えられんですか?疑いもせずに『あ、困ってる子だ、助けなきゃー』って馬鹿丸出しで生きられる精神がアタクシにはむしろ謎!」

 

「う、るせぇよ。色々と言いたいことも聞きたいこともあるが、まずその足どけろ」

 

「はぁ?アタクシのおみ足が見れて嬉しくて汁ドバドバ出てるんじゃねーんですか?それともアタクシの足の裏を必死に舐めてるメス肉にご執心?エロい体つきしてやがりますからね。僕ちゃん辛抱たまらねーってんですか、きゃははっ!」

 

「――!その人は!てめぇが足の下に敷いてていい人じゃねぇって言ってんだ!」

 

踵で踏み躙るように、クルシュの胸骨を軋ませて愉しむカペラ。その暴挙と嘲りの言葉に、スバルは激情を吐き出して地面を蹴った。

姿勢を低くし、前に踏み込む。そのスバルを挑発したカペラは、まさに我が意を得たりと手を叩いて歓迎の素振りだが、無作為に突っ込むほど馬鹿ではない。

 

記憶をなくしたとはいえ、クルシュは武人だ。

それも、ヴィルヘルムがこの戦いに参戦することを許すほどには実力のある武人。そのクルシュが目を離した十数秒の間に、手も足も出ずに敗れていたのだ。

『色欲』の実力がスバルを凌駕し、はるか高みにあることは疑いようがない。

 

だからスバルがこの場で優先すべきは敵の撃破ではなく、状況の打破だ。

 

「――――」

 

命の危険にあるクルシュを回収し、ユリウスや他の味方との合流を急ぐ。

この場を放棄し、離脱するのが最優先だ。放送を止めたい気持ちはあったが、命を投げ出してどうなるレベルではないことははっきりしている。

そして助け出さなくてはならなかった、都市庁舎にいるはずの人々の姿は、少なくともこの階には見当たらない。

現時点で都市庁舎の奪還には、戦力が足りないのが結論だ。

故に、スバルは迷わない。

 

「おっとぉ?」

 

「しっ!」

 

とぼけた声を上げ、カペラがスバルの行動に目を丸くする。

握りしめた鞭を振るい、スバルが鞭撃を叩きつけたのはカペラではなく、走る横手に存在した壁に備え付けの棚だ。その棚の中にあった、金属製の人型の置物。何をモチーフにしたものかはさっぱりわからないが、両手で抱えるサイズのそれを鞭の先端で絡め取り、器用に手首をひねってカペラへ向けて投擲する。

 

高速縦回転する、金属製の凶器だ。

壁にヒビぐらいなら余裕で入れられる威力は、鞭の一撃よりもよほど威力がある。防ぐにしても避けるにしても、クルシュを踏んだ状態から動くのは必定。

その隙を縫って、彼女を取り戻す――。

 

「当たれ!」

 

「いいですよー」

 

「なぁ!?」

 

気合いを叫ぶスバルに、カペラが余裕綽々の声で応じる。

直後、固いものが肉と骨を穿つ音がして、弾かれたカペラの頭部から血が散る。無防備に即頭部に打撃を受けた少女の額が裂け、髪の毛と皮膚がまとめて剥がれて凄惨な傷口が生じ、粘着質の血がどろりと頬を伝うのが見えた。

 

可愛らしい少女の顔が半分、見るも無残に潰れてひしゃげる。

左目が半ば潰れて、光を失う目が自分をぎょろりと見つめるのを見て、スバルは予想外の事態にとっさに心を空白に絡め取られてしまった。

敵の隙を作るための行動で、自分に動揺が生まれてしまう馬鹿な一瞬――その瞬間を、大罪司教が見逃すはずもない。

 

「てめーらって、どうしてこう愛おしいぐらいアタクシの掌の上でいやがるの?そういう救いようのない愚かさがダイチュキ。きゃはははっ」

 

思考が凍った隙間に、カペラの嘲笑が滑り込む。

硬直するスバルの目の前で少女が身を回し、次の瞬間に黒い旋風がスバルの体を真横から殴りつけて吹き飛ばしていた。

 

「ごぅぁっ!」

 

巨人の平手打ちを食らったように、右半身をいっぺんに殴りつけられ、スバルは床を弾んで部屋の机を薙ぎ倒しながら転がる。体のあちこちを打ちつけ、目を回すスバルは壁に寄り掛かってかろうじて体を起こし、見た。

 

「どうしやがりました?アタクシの美しさに声も出ねーってとこですかぁ?」

 

「……それ、なんだ」

 

「んーんー?あ、これですか。さーて、何に見えやがりますかねー?」

 

痛みも忘れて声が出ないスバルの前で、カペラが愉しげに尻を振って踊る。

そうして揺らされる少女の短いスカート、その裾からあるべきではないものが――黒く太い、竜の尾が伸びているのがわかった。

 

同時に、先ほどスバルの体を薙ぎ払ったのがその尾であることも、小柄な少女に強大な竜の尾が継ぎ接ぎされた光景の歪な醜悪さも意識に叩き込まれる。

アレは何だ。アレは何なのだ。何だと言うのだ。

 

「まさか、人に化ける竜……なのか?」

 

「はい、低脳丸出しの発想力貧困な聞くに堪えない暴論いただきました!クズ肉が、こんだけ優しいアタクシがヒントをばらまいても、まーだわかりやがらねーと」

 

「――ッ!」

 

カペラの正体の推論を呟くスバルに、ご機嫌を損ねた様子で少女が尾を振る。真上から振り下ろされる長い尾が床を叩き、亀裂を走らせるのを横っ跳びにかろうじて攻撃を避けたスバルは見届けた。だが、

 

「そこで安心しやがったら全部台無しーっと」

 

「うごっ!はぁ!?」

 

床を叩いて身を転がした先で、スバルが巨大な左腕に殴られる。弾かれた先で待っていた尾がその体を上へ跳ね上げ、天井に激突して落下するスバルを鳥の翼が刃のように切り裂いて地面へ叩きつけた。

 

背を撫で斬られる激痛に苦鳴を上げ、床を転がったスバルは打ちのめされた衝撃に咳き込みながら、自分を襲った恐るべき攻撃の正体を目の当たりにした。

黒竜の尾を避けた先に、毛むくじゃらの獣の巨大な左腕。弾かれるスバルを再び黒竜の尾が打ち上げ、そのスバルを切り裂いたのは刃のように鋭い羽根をいくつも備えた鳥の翼――そのいずれも、目の前の少女の肉体そのものだ。

 

「そろそろ、答えがわかりやがったんじゃねーですか?」

 

異形、そう呼ぶ他にない。

竜の尾を生やし、獣の腕を伸ばして、大鳥の翼を広げる人の少女。

その光景を目の当たりにして、他の言葉など浮かぼうものか。言葉以外に浮かび上がるものなど、本来あり得る形ではない生物を目にした生理的嫌悪感だけだ。

 

目の前の怪物に対して抱ける感慨など、嫌悪感以外の何物でもない――。

 

「変異、変貌……っ」

 

「アタクシは大罪司教『色欲』担当のカペラ・エメラダ・ルグニカ。この世の愛と尊敬は全て、アタクシに一人占めされるためにある。最も愛されるべきアタクシは、誰のどんな変態的な欲求にも応えられる、あらゆる価値観の美意識の究極を体現できやがるってわけです。てめー好みの美少女にだって、ぐにゃぐにゃ変身してやりますよ?アタクシ、尽くす女ですから!きゃははははっ!」

 

言いたい放題に言いながら、スバルの前でカペラの姿が本当に自在に変わる。

異形の姿が小柄な少女のものに戻り、すぐに手足が伸びて豊満な体を持つ成人女性へと。かと思えば瞬きの間に純朴そうな村娘といった風情の少女へ変わり、次の瞬間にはあどけない顔に淫靡な笑みを浮かべた幼い童女に。

 

「ね?てめーはいったい、どぉぉぉんなアタクシが好きぃ?」

 

「――――」

 

絶句する。言葉が出ない。ひたすらに、最悪であることだけを痛感する。

価値観の冒涜だ。単純明快な能力でありながら、『色欲』の権能はありとあらゆる価値観を冒涜し、踏み躙り、自身へ視線を浴びせることを強要する。

 

見れば置物の一撃で傷付いた顔の傷もとっくに塞がり、傷の痕跡すら残っていない。凄まじい再生力は、あるいは変身能力による傷の隠匿か。

いずれにせよ、黒竜が少女に化けたカラクリは解けた。当初はペテルギウスのように、他人に憑依するような類の能力を疑ったが、そうでないなら――。

 

「――ぁ?」

 

そうでないなら、放送室の蝿と、さっきまで部屋にいた黒竜はなんだ?

 

「気付きやがりましたか?」

 

「……ま、て。待て、待て待て待て、待てって。待ってくれ」

 

スバルの表情の変化から、こちらの内心を読み取ったようにカペラが嗤う。

その姿は長い髪を揺らす淑やかな女性へ変わり、その声音すらも全く違う。もはや自分が誰と会話しているのかも見失いそうな変化の合間、スバルは首を振った。

 

まさか、違うと、そう信じたい。

だが、そう考えれば説明も辻褄も合うし、そうでなければ説明がつかない。

 

自在に自分の肉体を変異・変貌させるカペラの『色欲』の権能。

それがもしも、自分の肉体以外の対象にも効果を及ぼせるとしたら――。

 

「蝿とトカゲの正体、血の巡りの悪い頭でも理解できたんじゃねーですか?」

 

「あれは……あの人たちは」

 

「んーんー、さ、答えをどうぞ。聞いてやりますよ。きゃはっ」

 

口元に手を当て、高慢に嗤うカペラ。

その振舞いに心底からのおぞましさを堪え切れないまま、スバルは歯の根を震わせて言った。

 

「――あれは、この建物の中にいた人たちをお前が変化させた姿か」

 

「はい正解、でも遅すぎやがりました。賞品はなし。アタクシからのお褒めの言葉もなーし。愚かで不細工なクズ肉って、何のために存在してやがりますやら、アタクシには理解ができねーですね!」

 

「それはこっちの台詞だ!!」

 

あまりにも残酷な行いを、なんら呵責のない顔で肯定するカペラ。

薄暗い部屋に押し込まれた、もの言わぬ人々のなれの果て。赤く光る複眼が一斉に自分を見たのは。飛び立つこともできない羽根を羽ばたかせて鼓膜から消えないほどの羽音を鳴り響かせたのは。

――きっと、スバルに助けを求めていたからだ。

 

「理解できねぇ!頭がおかしいんじゃねぇのか!?なんで……なんで、あんな真似をした!?なんでできる!?人を蝿にっ……蝿に変えて、何の意味が!?」

 

「おぞましいと?」

 

「身の毛がよだつ!お前は……お前は、お前らは……ッ」

 

「嫌悪しやがると。気持ち悪くてたまらねーと。そう言うわけで?」

 

もはや言葉も出てこない。

唾を吐き、奥歯が割れかねないほど噛みしめ、スバルは血走った目でカペラをひたすらに睨みつける。視線で奴を殺せれば、本気でそう思う。

人を蝿に変えて、その命を弄ぶ。ただ殺すよりも性質が悪い。最悪だ。

 

スバルはこの数時間で、これまで遭遇の機会を逃した四人の大罪司教を見た。

『憤怒』のシリウスは他人の感情を弄び、身勝手な愛を強要する怪人だ。

『強欲』のレグルスは己の価値観を押し付け、独りよがりを押し通す凶人だ。

『暴食』のアルファルドは人の『記憶』と『名前』を奪い、人間の生きてきた道筋を踏み躙る冒涜者だ。

そして『色欲』のカペラは、人間の尊厳と価値観を弄ぶ怪物だ。

 

どいつもこいつも、救いようがないほど、呪わしいほど、狂っている。

 

「――――」

 

頭の血管が千切れそうなほど怒り狂うスバルに、カペラは白けた顔で問いを重ねたかと思えば黙り込む。そのまま、次なる戯言として何が飛び出すか。

激情に視界を真っ赤にするスバルの前で、カペラの表情が、

 

「――そう、おぞましくて気持ち悪くて嫌悪する。それなんですよ」

 

スバルの負感情を真っ向から浴びて、これ以上ないぐらい嬉しそうに笑った。

彼女は手を叩き、蝿となった人々のいる部屋を指差し、

 

「馬鹿でかい蝿が集まってるのを見て、てめーは生理的に嫌悪した。おぞましいと思った。それで正解、そう思うのが当然。それが誰であれ、ああいう醜い生き物を疎む気持ちは堪えられねーんです。そう、それが正しい」

 

「なに、を……」

 

「誰が見てもわかる醜くて気持ち悪いもの。グズグズのクズ肉を、見るも無残なクソ虫に変えてやった。あんなもの、誰も愛せねー。当然ですね」

 

「だから!お前は何が言いたいんだよ!」

 

「人は誰か愛さなきゃ生きられねー生き物で、でもあんな生き物ばっかりだったらとてもじゃねーですけど愛せねー。なら、別のものを愛するしかねーじゃねーですか。消去法で。どう足掻いても、薄汚いものは愛せねーんですから」

 

頭が白くなった。

小首を傾げて、名案とでも言いたげに発言する怪物の思考が理解できない。

 

ぱちぱちと渇いた拍手が鳴るのを聞きながら、スバルは今すぐにここから逃げ出したい気持ちに支配される。

今すぐに、一秒も待たずに、目の前の怪物の存在を感じる場所から消えてなくなりたい。視界に入りたくない。肌に感じたくない。声を聞きたくない。存在を記憶に留めておきたくない。これを、生理的な嫌悪感と呼ばずして何と呼ぶ。

 

生理的に無理とは、本当はこういう輩に対してのみ使っていいのだ。

本能的に無理な相手とは、これほどまでに存在が恐怖を与えるものなのだ。

 

「慈悲深く優しいアタクシは、恋多き女でもあるわけですよ。この世の愛と尊敬を一人占めすると決めてるわけで、でも愛されるための努力を欠かすなんて怠けた真似も決してしねーんです。愛されるために、あなたの好きなアタクシになる。あなたにアタクシを見てもらうために、アタクシ以外のものからあなたの興味を奪う。もともと誰を愛してても構いやしません。最後の最後に、アタクシを選んでくれるなら。アタクシはそのための努力を欠かさない。アタクシ自身の魅力を上に上に上に上に上に上に上げて!アタクシ以外のクソ肉の魅力を下に下に下に下に下に下に下げて!この世の最も尊く美しいアタクシを、誰もが愛するようにする」

 

「……いっそ、殺せよ」

 

「なんで?アタクシは博愛主義でやがりますから、殺すなんて野蛮な真似できやしませんよ。それにどんな頭の悪くてどーしようもないクズであっても……アタクシを愛する可能性は、生きてる限り残る。アタクシは承認欲求が強いんですよ。ですから一人でも多く、一秒でも長く、一言でも高く、アタクシを評価してほしい。それができねーってんなら、そこで初めて死ね!とっとと死ね!以上、アタクシのありがたーい訓示でありやがりまーす」

 

――。

――――。

――――――――。

 

「わかった」

 

「お、わかってくれやがりましたか?だってんでしたら、アタクシを賛美する言葉を並べ立てて、愛でグズグズに溶けてアタクシ好みの肉の塊に……」

 

「死ね」

 

思考が浮かばない。思考する必要すらない。

目の前のコレは敵だ。それも最悪の敵だ。それ以上の情報、欲しくもない。

 

鞭を振るう。虚を突かれた顔をする怪物が下がり、クルシュの体からようやく薄汚い化け物が離れた。そこへ踏み込み、スバルはクルシュの体を確保。

抱き寄せると軽い彼女の体を担ぎ、一気に後ろへ飛びずさる。

 

「ほーら、結局そうやってオス肉はメス肉が欲しくて汁滴らせてやがるんじゃねーですか。否定すんじゃねーってんですよ。綺麗事並べてんじゃねーってんですよ。綺麗なもんが好きだろーが。可愛いもんが好きだろーが。柔らかくて気持ちいいもんが好きだろーが。気取ってんじゃねーってんだよぉ!!」

 

「――――ッ!」

 

飛びずさるスバルを追いかけて、カペラが唾を飛ばしながら両腕を伸ばす。

その両腕が片方が蛇の頭に、もう片方が獅子の頭へと変貌――歪な首を伸ばしてスバルに追いすがり、その牙を突き立てようと大部屋の床を這い回る。

 

右足、再出血。痛みはない。千切れても構わない。腕の中にある人の温もりと重さを守ることに全霊を傾け、スバルはカペラの追撃を全運動力を注いで回避する。

 

「番のメス肉がそんなに大事だってんですか!だったら後生大事に抱え込んで、抱きしめたまま離すんじゃねー!男を誘う体が!同情を誘う目つきが!甘えた声を出す唇が!気持ちいい肉が肉が肉が肉が!たまらねーから必死なんだろーが、クズ肉が!死ね!死ね!今すぐに死ね!」

 

「勝手抜かすなクソ野郎!俺はこの人とそんなんじゃねぇ!」

 

「うるせーんだよ!メス肉からメスの臭いがして!オス肉のてめーからオスの臭いがすりゃー一緒なんだよ!何も思ったことねーってんですか?やらしいこと考えたこといっぺんもひとかけらも一秒たりともねーって胸張って言えるってんですかよぉ?一秒考えたらそれはもうオス肉とメス肉の関係じゃねーですか。何が違う!何が違う!何が違うか言ってみろやぁ!!」

 

蛇が、獅子が、興奮するカペラの意思を反映するように部屋の中を荒れ狂う。

牙が噛み合う音が、木製の机が噛み砕かれる音が、腕とも首とも胴体とも言い切れないのたくる部位が内装を薙ぎ倒し、時にスバルの体を打ち据える。

 

苦鳴を上げ、破壊に巻き込まれながら、スバルはクルシュを庇って回避を続ける。部屋の出口側にはカペラが立っている。隙を窺って抜け出そうにも、カペラの本体は膨張したり縮んだり、女性・少女・童女の境をめまぐるしくさまよい、近付くことすら忌避させる異常性を醸し出していた。

 

「髪が撫でてーんじゃねーんですか?唇に触れてーんじゃねーんですか?体を抱きたいんじゃねーんですか?その薄汚い汁ダクの思考を、てめーらは愛だなんだって綺麗事で飾るんじゃねーですか。勘違いするんじゃねーってんですよ。愛が綺麗なもんだとか勘違いしてんじゃねーってんですよ。劣情を勝手にてめーらが美しい言葉で飾り立てて悦に浸ってるだけじゃねーですか!」

 

「――ぐっ、おぁ!」

 

「大っぴらに吐き出せねー劣情を!愛なんて言葉で飾るんじゃねーってんですよ。それとも言うか、言っちまいやがるんですか?お決まりの反論を。――僕が彼女を愛するのは、彼女の心根に惹かれたからだ!彼女の気高さに、優しさに、慈悲深い心に、器の大きさに、空を映したような瞳に、誰かのために自分が傷付くことができる生き方に、不平を訴えない強さに、僕だけに見せてくれる弱さに、一人きりで頑張ろうとする姿がほっとけないところに、心を安らがせる声に、慈愛に満ちた瞳に、心を奪われる眼差しに、愛しいと僕を呼ぶ唇に、繋いだ掌の温もりに、触れ合うたびに高鳴る鼓動に、風に揺れる美しい髪に、運命に結びつけられたって信じられるから、彼女だけが僕を認めてくれたから、辛いときに傍にいてくれたから、本当に大事なものを教えてくれたから、ずっとずっと一緒にいたから、これからも同じものを見て同じものを感じて生きていきたいから、約束したから、誓いを忘れないでいてくれたから、他の人と違う自分を見つけてくれたから、本当の僕を知ってるのは彼女だけだから、彼女の前でだけは自分を偽らずにいられるから、本音は寂しいってことをずっと誰かにわかってもらいたかったから、最初の想いを思い出させてくれたから、人を好きになるってことを教えてくれたから、流れる涙をあなたが拭ってくれたから、たくさんの中から私を見つけてくれたから、壊れそうなぐらい強く抱いてくれたから、誰にも叱られたことのない私を初めて叱ってくれたから、お仕着せじゃない言葉を初めてかけてくれたから、知らないことをたくさん教えてくれたから、見たことのない景色を見せてくれたから、鳥籠の中にいた私を外に出してくれたから、息苦しい世界から腕を引いて連れ出してくれたから、たった一人でも私の味方になってくれたから、私をわかってくれるのはあなただけだから、一緒にいることが当たり前だから、あなたがいないと生きていけないから、あなたといることが私の全てだから、あなたが私を愛して私があなたを愛しているから、あなたが胸を熱くするから、あなたといると全てが色鮮やかに見えるから、君なしじゃ幸せを感じられないから、もう一人じゃ生きていけないから、嘘だらけの生き方の中でこの気持ちだけは本物だから」

 

呪詛のように言葉を並べ立て、カペラの表情が一言ごとに死んでいく。

だが、長々長々とひたすらに幾重もの愛の動機を口にして、顔を上げたカペラは美しさと可愛さと淫靡さが入り交じる複雑怪奇な面貌を形作り、叫ぶ。

 

「――全部全部、綺麗事じゃねーか!」

 

「――――」

 

「耳心地いいことばっか抜かしてんじゃねーってんだよ!内面がどーたら性格がどーたら気が合うだの相性だのグダグダうるせーってんですよぉ!外面だろーが、外見だろーが、見た目がてめーの肉を刺激するからその肉に惹かれてんだろーが!心に愛を感じるってんなら、そのキラキラした言葉で飾って、キラキラした目で見つめ合って、キラキラした口触りのいい寝物語を語ってた相手が、蝿になっても愛せるか試してみろってんですよぉ!愛せるか、愛せねーだろ!?おぞましいもんなぁ!?気持ち悪いもんなぁ!?嫌悪感しか湧いてこねーもんなぁ!?てめーがてめーでさっきそう言いやがったんだもんなぁ!?」

 

荒れ狂う暴言と妄言と被害妄想と、嫉妬と憎悪と妄執と自己保身。

唾を飛ばしてがなりたて、正気をなくしたようにカペラがヒステリックに喚き散らしながら部屋を破壊していく。

 

大蛇の威嚇も、獅子の咆哮も、カペラの叫びももはや聞こえない。

騒音は嵐となり、部屋のあちこちが崩落する。衝撃に呑み込まれ、自分がどう動いているのかすら、立ち込める煙に紛れて見ることもできない。

まだ地に足は付いているのか。千切れかけていた足は無事なのか。確かなことは腕の中にいる女性の鼓動が、スバルの全身に力を送り込んでくれることだけ。

 

だがその奮戦も、打ち止めだ。

 

「クズ肉が、アタクシを見てろ!」

 

「――がぁぁ!!」

 

煙を突き破り、猛然と突っ込んでくる獅子の頭。

くわっと開かれた牙が伸ばされたスバルの右足に食らいつき、すでに半分ほど肉を失っていた足が大出血して腿から吹っ飛ぶ。

傷にかけられていたフェリスの魔法の限度を超えて、スバルの脳が足を失った激痛に沸騰し、喉が声にならない絶叫を上げた。

 

当然、体を支えていることもできない。

倒れ込み、クルシュも目の前に転がる。のた打ち回り、血がどんどん溢れ出す。太い血管云々の話ではない。バケツをひっくり返したように血が流れ、スバルの命の残量が凄まじい勢いで失われていくのがわかった。

 

「はぁ、頭痛い。なんか興奮しちゃいましたね。失礼しやがりました。きゃはっ」

 

「――――」

 

仰向けの状態で、スバルは傷口に手を当てて痙攣している。

掌で傷を塞いではいるものの、出血が弱まる気配はない。否、気配はある。だがそれは、スバルの体の中から溢れるものがなくなりつつあるからだ。

もうすぐ、終わる。よく知った『死』の感覚が、すぐ近くにきている。

 

数時間の間に、二度も足を失うほどの傷を負ったのだ。

顔色は蒼白を通り越して土気色になり、血走った目を剥いて呼吸が荒い。

 

「あらら、死にそーじゃねーですか。クズ肉が悶え苦しむ姿を見るのは、人の心の痛みがわかるアタクシには辛すぎる光景ですよ」

 

「……ぁ、ぁー」

 

「メス肉の方も、きっと死にますよ。残念すぎやがります。アタクシ好みだったから……試してやりたかったのに。血に負けるかどうか。あ、そーだ」

 

しゃがみ込み、カペラが悶えるスバルの顔を覗き込む。

それから怪物は微笑み、そっとスバルの右足の傷口の上に手を伸ばし、

 

「てめーがどんな見苦しい肉の塊になるか、試してやろうじゃねーですか」

 

「……ぉ」

 

そう言って、カペラは伸ばした自らの手首を、反対の手を刃のように変質させて抉り、出血させる。流れる血がスバルの右足にぼたぼたとかかり、どす黒い血と新鮮な赤い血が入り交じり、背徳的な光景が生み出された。

 

その直後だ。

 

「――ッ!?ぉ、あぁぁおおあお!?」

 

「アタクシの血は、そんじょそこらの血とは違いやがりますよ。なにせ、龍の血が混じってやがりますからね。血の呪いに、負けるとすげーことになります。そこのメス肉より、てめーはもちますかね?」

 

愉しげに喉を鳴らすカペラだが、スバルは何も答えられない。

半死半生で痛みすら緩慢になり、死ぬ寸前だったスバルの体に浴びせられた血。それが右足の傷口から体内に侵入し、スバルの体を蹂躙し、侵食する。

意思を持つ異物が流れ込み、自分という存在が全く異なる存在に上書きされる感覚は痛みとも苦しみとも異なる、次元の違う恐怖でナツキ・スバルを凌辱する。

 

理解できない。ただ死ぬことも許されない。

クルシュとどちらが、と怪物は言った。ならばクルシュも同じだけの苦しみを、こうして味わっているというのか。死にたい。死にたい死にたい。死にたくない。

 

「きゃはははっ!さてさて、侵入者も無事に排除できやがりましたし。そろそろお時間も近いと思われやがりますので、アタクシは……」

 

悶絶するスバルとクルシュを代わる代わる見て、カペラは満足げに立ち上がる。

その姿が再び少女のものへ変わり、尻を払いながら放送室の方へ歩むカペラが、ふと何かに気付いた顔を横へ向けた。

そこには、部屋にいた黒竜が投げ出された崩落した壁があり――、

 

「あらら、やるじゃねーですか」

 

「――――ッ!」

 

転落した階下から這い上がり、仇敵を見つけた黒竜が雄叫びを上げ、その開かれた口腔から黒炎がカペラへ目掛けて放出される。

 

――瞬間、都市庁舎最上階は漆黒の炎に包まれていった。