『聖域の始まりと、崩壊の始まり』


 

「断片的な記憶ではあるが、儂なりに時系列は整理しておる。おそらく、こういった流れに沿っておるものと思うが……」

 

「…………」

 

θの口から訥々と語られる内容に、スバルは沈黙で応じる。

沈黙を選ぶしかない。出された情報量が多すぎて、整理してからでなければおちおち言葉を作ることもできないのだ。

 

『聖域』の成り立ち、リューズ・メイエルという少女の生きた時代。つまりは四百年前の時代のことであり、その場所には当たり前のように『魔女』がいた。

『強欲の魔女』である、エキドナの存在が。

 

「正直、エキドナが普通にうろついてる時代ってのが、想像つかねぇな」

 

「あの時代を知らぬスー坊にとっては、魔女様の存在は遠いものかもしれんな。いや、儂にとっても、身近に感じられるというだけで、直接知っているわけではないんじゃが」

 

「聞きかじった内容をさも実体験みたいに語るのって、老化の第一歩って感じがするな。それで……エキドナは頻繁に、『聖域』にきてたってのか?」

 

「儂の本当の記憶というわけでもないからの。ただ、見えた光景と交わされていた言葉から察するに、頻度はそれなりじゃったように思える」

 

記憶を見てきたθと違い、又聞きのスバルには実感の薄い話だ。

そして、先のθの話で他に気にかかる点といえばもちろん――。

 

「ベアトリスとロズワールも、四百年前の『聖域』にいた……」

 

「ベアトリス様は、今話したようにエキドナ様の娘として。ロズ坊に関しては、今の話に出てきたロズ坊はメイザース家の初代……本当の意味で、メイザース家が大きくなる切っ掛けを作った初代ロズワールじゃな。ロズワールの名は、代々襲名式じゃからの」

 

「……ベア子とは、仲が良かったのか?」

 

「見たところでは、微笑ましい付き合いだったようじゃな」

 

θの語り口で脳裏に浮かんだのは、素直でないベアトリスそのままだ。

あの少女は四百年前から変わらず、他人に対して素直になれないつっけんどんな態度を取り続けているのだろうか。だから四百年経った今も、ああした態度のままなのか。

決して誰にも本心を見せないまま、小さい体に色んな思いを隠したまま。

 

禁書庫に佇む少女を思い出して、スバルの胸中に痛切の感情が過る。

胸に手を当てて、その感傷を堪えながらスバルは首を振った。

 

「エキドナがベアトリスを連れ歩いてたってのが意外だ。あいつの口振りじゃ、あいつにとってベアトリスは家族愛みたいなもんを抱いてる相手じゃなかったみたいなのに」

 

「儂も、魔女様と直接お会いしたことがあるわけじゃないからの。しかし、覗き見たリューズ・メイエルの記憶からは、魔女様には人間味らしいものが感じて見えた」

 

「それはなんとなく、俺も同感だ」

 

スバルの知る、エキドナ像と重ならないと言えばそれまでのことだ。四百年、生前と死後という隔たりこそあれ、それだけの時間を過ごしたのだ。

あの夢の城の中で、人生を達観してしまってもおかしくはないのだろうか。

 

「決定的に決裂した相手だったのに、まだ俺はあいつに期待したいのかよ……」

 

我ながら、度し難い弱さだと思う。

ラムやレムのときとは違う。エキドナはスバルの感情を、希望を、理解した上で踏みにじることをよしとしていたのだ。今さら、手を取り合う未来などあるはずもない。

 

「とりあえず、今のとこまでだと単なるほのぼのした過去回想だ。θさんがわざわざ他のみんなに押し隠すほど、おっとろしい展開があるようには思えないな」

 

「――――」

 

「続き、聞かせてくれ。表面上は穏当だった『聖域』に、何が起こる?」

 

スバルの低い声での要求に、θはすっかり冷めてしまったお茶をすする。

彼女は口の中だけで「マズイの……」と呟いて、

 

「何が起こる、か……」

 

「――――」

 

「破綻、じゃよ。そして、『聖域』の作られた本当の理由が知れる」

 

「本当の、理由……?」

 

その響きにスバルが息を呑み、θは顎を引いた。

そして、ぽつぽつと再び、記憶の蓋を開けるように、その瞼を細めた。

 

「そのときも、『聖域』には魔女様と、初代のロズワールがおった。何やら物々しい雰囲気で、普段と違う何かが起きるんじゃと、儂だけでなく、『聖域』の誰もがそれを不安に思っておったよ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――重々しい空気が張り詰め、喉の渇くような錯覚をリューズは味わっていた。

 

「今すぐ、この場から逃げるべきです。まだ準備が整っていない。――今、『聖域』の場所が奴に知られることは、計画の破綻を意味します」

 

「――――」

 

「先生!こうしている時間も惜しい!奴は……奴が、すぐそこまできているんです!」

 

小屋の中でテーブルを叩き、声を荒げるのは細面の少年だ。

常に余裕と優雅さを欠かさずにいた少年の表情には、今は切迫した焦燥感が刻み込まれていた。

その訴えを聞き、静かに瞑目しているのは両手を組む魔女エキドナだ。押し黙るエキドナに少年は身を乗り出し、大きな手振りで再度訴えかける。

 

「迷っている暇はありません!奴の力は圧倒的です!僕はまだ、先生の力になれません……!盾になれと言われれば、喜んで盾になります。ですが、奴への対抗手段がまだ確立できていない以上、盾役を買って出ても無駄死にでは……」

 

「手段がないわけじゃない。――ある程度、目算は立っている」

 

少年――ロズワールの言葉を遮って、目を開けたエキドナが机の板目を睨みつける。

彼女の言葉に「え……」と呆けたようにロズワールが息を吐くと、エキドナは静かに首を横に振った。

 

「何度も『聖域』に足を運んで理論を構築した。結界の条件付けについても、かなり高い確率で作用するはずだ」

 

「で、でしたら……!」

 

「――ただ、結界を発動させるための『核』が足りていない」

 

「――――」

 

希望を見出した表情だったロズワールが、エキドナの苦しげな声に息を呑んだ。

 

「『核』がなければ結界は発動しない。結界なしで、奴をこの場から退けさせるのは不可能だ。安全圏を確保できなければ、やがて見つけて滅ぼされる」

 

「だから入念に時間をかけて、こうして『聖域』を準備して……なのに、ここまできて……あと一歩なのに!」

 

悔しげにうなって、ロズワールがテーブルに拳を叩きつける。

古びたテーブルの脚が軋み、ロズワールの手に血が滲んだ。

 

沈黙が小屋の中に落ちる。

時間が遅くなり、空気に粘液じみた重さを感じるような空気が蔓延した。

その中を、おずおずと手を上げる少女がいる。

 

「その、結界の『核』というのは……私ではダメなのでしょうか」

 

「――――」

 

「以前から、そうなる可能性は聞いていました。エキドナ様のお造りになる結界の条件として、合致しているのが私だとも。……だから、目をかけていただいているのだと」

 

「――ベアトリスから、かい?」

 

「はい」

 

静かな決意を宿して顎を引くのは、薄紅の髪を伸ばしたリューズ・メイエルだ。

少女は覚悟に頬を強張らせながら、表情を消しているエキドナを真っ直ぐ見る。

 

「ベアトリス様から、エキドナ様は私と条件の合致を確かめておられたと。この数ヶ月の間、何度かマナを抽出されていたのも、その関係だったのでしょう」

 

リューズの問いかけに、かすかに沈黙を挟んでエキドナは顎を引いた。

 

「確かに、結界の構築に君の存在の適合率は高い。君を『聖域』の内に留めておけば、結界を維持することは可能だ。その理論の構築はできている。もっと時間をかけて、『聖域』の土と君のマナを馴染ませれば、可能なはずだ」

 

「今はまだ、できないのですね」

 

「単なる結界じゃないんだ。今回の結界は破られるわけにはいかない。細心の注意を払って、慎重に事を進めてきた。数年がかりで集めてきたハーフたちを『聖域』の内に留めて、結界に条件付けをする。その決定的な後押しに、君の存在がいるんだ。だが……」

 

言葉を切り、ロズワールは歯がゆさを堪える表情だ。

リューズには詳しいことはわからないが、エキドナやロズワールのように頭のいい人たちが結託しても、その計画の達成に困難な障害が立ちふさがっているらしい。

本当にどうにかする手段はないのか。

 

――そうではないのだろうなと、リューズは短い人生経験の中でそう判断する。

 

「何か、決定的な方法があるのではありませんか?」

 

「――――」

 

「……私は、エキドナ様やロズワール様に救われた身です。この土地にきて、誰に蔑まれることも、疎まれることもない生活を送ることができて、幸せでした。その時間をいただけた恩返しができるのなら、私の生きた意味はそこにあるのだと思うんです」

 

ぽつぽつと、胸の内を明らかにする。

白い手がさらに白くなるほど握りしめてのリューズの言葉に、エキドナの黒瞳が凍りつくように温度を消していく。その代わりに複雑な感情に翻弄されるのは、エキドナの隣に立っているロズワールだった。

 

「せ、先生……」

 

それは、エキドナに判断を委ねる呼びかけではない。まさか、というようなニュアンスを含んだ呼びかけだった。

だがいずれにしても、引き金は引かれることとなる。

 

「――君のオドを結晶化し、『聖域』の『核』そのものとしてしまえば、土壌にマナを馴染ませる工程を短縮することができる。結界は、完成するだろう」

 

「それをすれば、『聖域』は救われるのでしょうか?」

 

「ここに迫っている脅威による蹂躙を避けることは、可能だろうね。時間稼ぎさえできれば、対抗措置を練ることもできるだろう」

 

「――――」

 

エキドナの答えは気休めではない。彼女は希望的観測も、気休めも口にしない。

エキドナができると判断したのであれば、それはできることなのだ。

 

つまり、この場で自分の命を捧げることには、この場所を守る確かな意味があるということ。恩返しという自分の献身は、必ず果たされるということ。

 

「……始めるのは、いつですか?」

 

「――できるなら、すぐにでも準備に入りたい。こちらの方で結晶化の依り代を用意して、それから術式を組み上げる。脅威に対する時間稼ぎは……」

 

「僕の役目、ですね。出来得る限りは、力を尽くします。……リューズくん」

 

悲壮な顔をしていたロズワールが顔を上げる。その表情にはもはや、弱々しい色は残っていない。彼は覚悟を固めたリューズの目を真っ直ぐ見つめて、

 

「すまない。先生を助ける、僕の力不足だ」

 

「いいえ、ロズワール様も、私にとっては代え難い時間を下さった恩人です。そのことを感謝しても、恨むようなことは何もありませんよ」

 

胸に手を当てて、リューズは首を横に振る。

ロズワールは小さく息を吸い、そして吐いて、エキドナを見た。

 

「僕はすぐに出ます。先生は準備と……ベアトリスを、呼んでください」

 

「……ベアトリスには、知らせない方がいいんじゃないかい?」

 

「今この場にベアトリスを呼ばなかったら、僕も先生も一生、あの子に恨まれ続けることになりますよ。……呼んでも、そうかもしれませんが」

 

「そうなのか。……わかった。あとで呼び出しておこう」

 

エキドナが頷くのを見届けて、ロズワールが小屋の外へと向かう。途中、彼はリューズの肩に手を置いて、一度だけ強く力を込めていった。

そのかすかな爪の力が、ロズワールが自分の存在を惜しんでくれた事実と噛みしめて、リューズは瞳をつむる。

 

「……ベアトリス様」

 

小さく、呟かれた言葉。

この場にいない、あの少女のことを思うと、リューズの胸はひどく小さく軋んだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

再び、場面は転換する。

 

「――――」

 

――それの圧倒的さを目の当たりにしたとき、リューズの胸の内には死を覚悟するよりも恐ろしいものが芽生えてならなかった。

 

「――が、ふっ」

 

苦鳴を上げ、血塊を吐き出すロズワールの体が地面の上を水平に飛ぶ。

肩から地面に落ち、土煙を立てながら転がっていく彼の姿に、リューズは呼吸すら忘れて呆然とする他になかった。

 

六色の魔法を操り、十代も半ばでおよそ人類種の到達できる魔導の最高位にまで上り詰めたロズワール・L・メイザース。

圧倒的な魔力で大地を焼き払い、風の刃で岩壁すら切り刻み、生み出す水流は大河の流れすら押し返し、土石を操って城をも作り上げる。

それほどの力を持つ彼をして太刀打ちできないほどに、圧倒的な力の存在。

 

「……まだ、やるの?」

 

気だるげな態度のまま、その少年はくすんだ茶褐色の頭を揺すって歩いている。

年の頃はロズワールと同年代。黒に近い茶褐色の髪は前髪が眉にかかる程度の長さで、顔立ちは女性と見紛うほどに整っている。とろんと眠そうに細められた瞳の色は黒で、白いシャツに黒のズボンを穿いた、ひどく簡素な格好をした人物だった。

 

――その彼が一歩進み、手慰みに小石を蹴るたびに、ロズワールの体が血飛沫を上げながら跳ねる。跳ねる。跳ね飛ばされる。

 

「が!ぐぅ!ごふっ!」

 

「うるさい。邪魔くさい。鬱陶しい。煩わしい。萎える。滅入る」

 

ぶつぶつと低いトーンで、ネガティブな言葉を並べ立てる少年。しかし、彼が一言呟き、一歩進むごとに、ロズワールの苦鳴は色濃くなり、骨の軋む音が離れていても届いてくる。

地面に倒れるロズワールの体が、まるで真上から空気に押し潰されるように大地にめり込んでいく。事実、四肢はすでに半ば地面に埋まっており、肉が裂けて、血走るロズワールの瞳からは血涙が流れ出していた。

 

「もう、やめていいんじゃない?頑張ったよ、お前。己には勝てないけど、頑張った頑張った。頑張っただけ、もういいじゃん。……頑張るのも、無駄なわけだし」

 

「ば、かなこと、を……ここで、僕がお前を、止めておかないで……どうして……ぐあ!ああ!がああぁっ!!」

 

「はーぁ……そういうのが一番、頭が重くなる。胸が悪くなる。気分が沈む」

 

降伏勧告に従わないロズワールに、少年は膝を折ってその場にしゃがみ込む。深々とため息をこぼし、撫でるように少年が地面に触れる。その指先の動きに従って、地面に倒れるロズワールの手足がひしゃげ、ねじれ、肉の千切れる音と絶叫が上がる。

 

「もう、本当に嫌だ。すごい下がる。己がこんなに下がるとか、すごい久しぶりすぎて本当に最悪だ。最悪、最悪、最悪の最悪の最悪の最悪だ。――本当に、憂鬱だ」

 

「が、あ――ッ!」

 

聞くだけで気分が滅入っていくような少年の言葉の最後、決定的な単語が呟かれた瞬間に、ロズワールの胴体が加圧に耐え兼ねたように潰れた。

胴の真ん中がぺしゃんこになり、内臓が口から吐き出されたのではと思うほど大量に吐血する。白目を剥き、手足を痙攣させるロズワール。最後まで戦意を萎えさせることのなかった代償は、若き魔導士の命脈をすり潰させる結果を生んでいた。

 

「あー、あー、あーぁ。なんだよ。なんだーぁよ。この様か。こんな様か。あー、本当に嫌だったのに。胸が悪い。気分が沈んだ。頭が重い。憂鬱だ。憂鬱、憂鬱、鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱――」

 

血の滴る音を立てて、もはや苦鳴すら上げないロズワール。その打ち据えられた体を退屈な眼差しで眺めて、少年は陰気な苛立ちを呟きに乗せている。

ロズワールの壮絶な最期と、それをやってのけた少年の埒外さ。ただそれを見ているしかできなかったリューズは、事ここに至って自分が呼吸を忘れていたことを思い出す。

 

「――は」

 

限界まで絞られた肺が、脳と体中に酸素を求めて活動する。一呼吸、体に酸素を取り込んで、再び沈黙の内に隠れなくてはならない。その大気の振動一つすら、あの少年の意識の端を刺激してしまいそうで恐ろしかった。

恩人を目の前で無残に潰されておきながら、仇を討つどころか保身を選ぶ。そんな自分の浅ましい生への執着心にすら、今は理解が及ばない。

 

「あー?ひょっとして、そっちの方に誰かいるの?」

 

「――ッ!」

 

そのリューズの懸念を証明するように、首を傾けた少年の視線がこちらを見た。

広場で交錯していたロズワールと少年の戦いを、リューズは少し離れた小屋の中から覗き見ていた。壁の節目に瞳を合わせ、わずかな隙間からうかがう形だ。

そのささやかな隙間を、遠目に把握したような少年の発言に戦慄する。見つけられるはずがない。節目は猫の額より小さい。到底、捉えられるはずがない。

なのに、少年は迷うことのない足取りでこちらへ歩み寄ってきて、

 

「別にさーぁ、己はそんなにやりたいわけじゃないんだよ。皆殺しにしたところで、なーぁにかいいことがあるわけじゃなし。……手間、省いてくれると助かるんだけどさ」

 

「……ひ」

 

「ふーぅん。まあ、大体そこらへんか……いいや、根こそぎいけば。もう、本当に今すぐ何もかも投げ出して帰りたい。胸が悪い。気分が沈む。憂鬱だ」

 

少年がリューズのいる小屋の方に掌を向けて、陰鬱な台詞で死刑宣告を告げる。

瞬間、リューズの背筋を寒気が駆け上がり、頭のてっぺんに針が突き刺さるような鋭い痛みがひた走る。目尻に涙が浮かび、堪え切れない悲鳴が喉を塞いだ。

そのまま、不可視の加重にリューズの小さな体は骨ごと押し潰されて――。

 

「アル……ゴーア!!」

 

血を吐くような――否、文字通り血を吐く怒号が上がり、爆炎が広場を紅に染める。

離れていてもなお、顔を炙られるような膨大な熱量が瞬時に出現し、それは地面に倒れるロズワールの掲げた掌を起点に、少年を焼き焦がさんと背中から狙う。

 

「――――」

 

さしもの少年も、その圧倒的な熱波を前に動揺を浮かべて振り返る。しかし、その業火を振り返ったところで、それは人智の及ぶような次元の暴威ではない。

そのままなすすべもなく、少年の体は赤い光の中に呑み込まれる。

 

「汗が不快だ。――鬱陶しい」

 

直前で呟かれる言葉に、集束した真紅のマナすらも大地へと叩き落される。

少年を焼き、影すら残さずに世界から消失させるはずだった赤熱の球体は、その熱波を周囲に拡散することもなく、丸く小さな赤い塊となって地面の上を転がる。

 

「あ、う、ふ……」

 

「まだ消えないとか、どんだけ力込めてんだよ。あんまり己に力使わせるなって。やればやるほど、死にたくなるってんだから」

 

ぼやきながら、少年は持ち上げた掌をグッと握り固める。その仕草に従うように、地面の上で縮められていた赤い球体が一気に爆縮。

熱が空気を弾く渇いた音が一度高く鳴り、それきりエネルギーは完全に霧散した。

 

火のマナの最上級魔法である、アルゴーアの一撃すらも届かない。

瀕死の身で起死回生を狙ったはずのロズワールも、その結果を見届けて愕然としている。死力を振り絞った結果が、目の前のそれだ。

間一髪、死のタイミングをそらされたリューズにも、ロズワールの死が、そして自分の死が、ほんのわずかな時間、先送りになっただけであることを痛感する。

 

「悪魔……いや、魔人め……!」

 

「嫌な呼び名だ、気分が滅入る。己が好きで、こーぉんな風になったと思ってるのか?」

 

「何に、どんな風に生き方を曲げられようと……限られた、選択から……今を選んだのは、お前だ。被害者のような顔を、するな……『憂鬱』のヘクトール!」

 

「正論に耳が痛くて、バツも悪い。本当に、どーぅも己はお前が苦手だ」

 

倒れるロズワールの傍らにしゃがみ込み、少年は掌をロズワールの頭へ伸ばす。

触れずにいて、圧倒的なあの破壊だ。そのまま指先が触れ合い、そこから少年の不可視の破壊が伝われば、ロズワールの肉体は原型も残さず圧潰する。

 

「ぐ……ウル……」

 

「遅いし、間に合わないし、やらせないし」

 

マナを練り、魔法を発動しようとするロズワールに先んじて少年が淡々と言った。

そして、死の指先がロズワールに届き、その瀕死の体に確実な死を送り込む。

 

「――る、ぶぅっ」

 

「骨、ガタガタ。内臓、ぐちゃぐちゃ。心、バキバキ。そーぉんなとこでどーぅよ」

 

短い苦鳴。それが、ロズワールの断末魔だ。

完全に動かなくなったロズワールを見下ろして、少年は膝を払うと立ち上がる。それから今度こそ、動けずにいたリューズの方を振り返った。

今度は警告も何もなしに、掌をこちらへ向けて、あの不可視の加重を放つ。

 

「――っ」

 

耐えることなど、一秒もできなかった。

真上から圧し掛かる、自重をはるかに上回る圧力。前のめりに地面に倒れることができたのは幸運で、仮に姿勢が違えば、関節を曲がるはずのない方向に折り曲げてでも地面に伏せさせられたはずだ。

 

「抗えないなら、エキドナじゃない。あの子じゃーぁないなら、もうどうでもいい」

 

「――ぁ、ひ」

 

「このまま潰れて、土に埋もれろ。墓穴を掘る手間も省け――」

 

全身の皮を見えない手に引っ張られて、地面に剥がされそうになる錯覚。遠巻きに聞こえる少年の声が、この世で最後の言葉になるかと思った直後、ふいに荷重が消える。

荒い息を吐き、大量の涙と涎に顔を汚しながら、リューズは何があったのかと顔を上げた。そして、その視線の先に、

 

「間に合った、とはとても言い難い状況だね」

 

「いーぃや。お前の弟子は己を足止めして、健気に時間稼ぎは果たしたよ。おかげでちっとも思い通りにいかなくて、ずいぶんと気分を害したもんだ」

 

「その言いよう、あなたは本当に変わらないね。別れたときと、そのままだ」

 

「お前の口の利き方も、相変わらずなってない。どうして、そんな可愛くない喋り方をするよーぅになったんだ?昔はあんなに、可愛かったのに」

 

嘆くように少年が首を横に振る。その彼の正面、少年とリューズとの間を遮るように立っているのは、黒衣をまとった白い女性――エキドナだ。

魔女は倒れるロズワールに目を向けて、かすかにその瞳を細める。

 

「存外、胸の痛くなる光景だ。見届けた結果に対し、客観的になれないのはワタシにとって恥ずべき混同だというのに」

 

「淡々と感情で処理される方が、この場合は浮かばれないんじゃーぁないの。知らないけど。泣きたいならその時間ぐらいはとろうか。己も、そこまで冷酷じゃない」

 

「どの口で、そんなことを言うやら」

 

交わす言葉は刺々しく、二人の間には面識がうかがえるものの、その関係性が決して友好的ではないことが傍目にも知れる。

じりじりと、距離を測りながらの対峙。エキドナの強さをリューズは疑っていないが、そう信じていたロズワールすらも圧倒的な力を前に容易く握り潰された。

そのことを踏まえれば、彼女の肩書きすらも決して安心材料と断言はできない。

 

「――いつまで、そんなところで無様に伏せっているかしら」

 

「……え?」

 

唐突に、うつ伏せの状態で頭を持ち上げていたリューズを、背後から引っ張り上げる手があった。その力に引き寄せられて、驚きの声を上げるリューズが振り返る。

そこには、見慣れた仏頂面を浮かべた愛らしい少女がいた。

 

「べあ、とりす様……」

 

「呆けた声を出している場合じゃないのよ。お母様がああして時間稼ぎをしてくれている内に、早々にここから離れるかしら」

 

「で、ですが……ロズワール様やエキドナ様は、ここで私に待つようにと」

 

「そのロズワールがヘマしたせいで、奴に嗅ぎつけられたのよ。いいから、ベティーについてくるかしら。お前を連れていくよう、お母様の言いつけなのよ」

 

「エキドナ様の……」

 

苛立たしげに眉を寄せるベアトリスだが、さすがにその表情も強張っている。普段は強気で自信満々な彼女であっても、得体の知れない少年に気圧されているのだ。

それでも、ただここでこうして、小さくなって震えている自分よりずっと強い。

 

「準備が整った。お母様は、そう言っていたかしら。そう言えば、お前はわかるってことだったのよ」

 

「――わかり、ました」

 

エキドナからの言伝に、リューズはかすかに息を詰めて頷く。ベアトリスはそのリューズの反応に訝しげに目を細めたが、それに言及している暇はない。

二人の背後で高まりつつあるマナの奔流。エキドナとあの少年と、ぶつかり合うのも時間の問題だ。予想できない戦いの結末。それを確実に勝利に手繰り寄せるためには、リューズの決断が何より重要だった。

 

「行きましょう。ベアトリス様、準備はどちらに?」

 

「……この奥手の、古臭い石部屋の中かしら。お母様に言われたから運んできてやったけど、ベティーの扉渡りでもしんどい作業だったのよ」

 

言外に自分の功績を語りながら、ベアトリスはリューズの手を引いて移動を始める。

弾むベアトリスの髪を追いかけながら、リューズは最後にエキドナを振り返り、こちらを意識していない背中に頭を下げた。

――きっと、もう言葉を交わすことも、二度とないはずなのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

青く透き通る、震えるほどに美しい結晶だった。

 

「魅入られて、うっかり触るんじゃないのよ。触ったところから呑まれて、この結晶の一部にされてしまうかしら」

 

状況も忘れて、思わず熱のこもった吐息をこぼすリューズ。その隣で、腕を組んだベアトリスが迂闊な行動に出ないよう忠告してくれる。

うっかり、と称されたそれをしてしまいかねなかったリューズは、彼女の警告に慌てて伸ばしかけた指を引いて、「あ、申し訳ありません」と謝罪を口にした。

 

「別に、謝られるようなことじゃないのよ。……それで、ここからどうするのかしら。ベティーはこの結晶を運ぶことと、ここにお前を呼ぶことしか言いつけられてないのよ」

 

「ベアトリス様は、この結晶をどうやってお運びに……?」

 

「ベティーくらいになれば、このぐらいのものを触れずに動かすぐらい容易いことかしら。扉渡りの精度も距離も、お母様に褒められるぐらいなのよ」

 

いつも通りの澄まし顔だが、どこか誇らしげに見えるベアトリスに思わず頬が緩む。

こうして彼女と言葉を交わすことにも、ずいぶんと慣れたものだ。最初の頃はベアトリスの発言を言葉通りに受け止めて、何度もひどく恐縮していたものだと思う。

しばらく付き合う内に、この横暴に見える少女の本心は意外とわかりやすくて、そしてそれがわかれば見た目通りの可愛らしい少女だと笑い合うこともできたのだけれど。

 

このまま、こうしてベアトリスといつものように話し続けられたらどれほどいいだろう。

『聖域』に降りかかる災いのことも、リューズを待ち受ける運命のことも、全部忘れてこのまま――そんなこと、できるはずもなかったけれど。

 

「……?お前、今、すごく嫌な顔で笑っているのよ」

 

感傷が表に出たのか、目ざといベアトリスがそれを指摘してくる。

普段との笑顔の質の違いを見極められるぐらい、彼女は自分のことを見てくれていたのだ。それに気付いた途端、リューズの眦に涙が浮かんだ。

ベアトリスが目を見開く。リューズは慌てて、それを袖で拭い、

 

「も、申し訳ありません……っ。少しだけ、目にゴミが……」

 

「べ、つに気にしちゃいないかしら。――不安がるなって、そう言う方が難しい状況なことぐらい、ベティ―にもわかってるのよ」

 

見当違いではあるが、それは間違いないベアトリスの思いやりの言葉だ。

胸の奥が温かくなる。彼女の言葉に、これほど力がもらえる。そのことが今、誇らしい。

 

「ベアトリス様」

 

「何かしら。お前の準備が手間取るなら、ベティーもお母様に加勢してくるのよ。ロズワールの奴も、もう死ぬ手前みたいなことになってたし、あんな奴でも助けてやらないと……」

 

「大変長く、お世話になりました。ですが――ここで、お別れです」

 

「――ぇ」

 

掠れた声を上げて、ベアトリスが無理解を示すようにその瞳を瞬かせた。

冷たい石造りの部屋の中で、ベアトリスとリューズ――二人の少女が向かい合う。

 

ベアトリスは何度も瞬きして、自分を真っ直ぐ見るリューズを睨みつけた。視線の鋭さに、しかし温かさを知るリューズは身じろぎ一つしない。

 

「お別れって、どういう意味なのかしら。逃げる、ってこと?」

 

「いいえ、違います。逃げた先で、生きていたのならベアトリス様との再会も叶うかもしれません。ですが、このお別れは今生のものになります。二度とこうして、ベアトリス様と言葉を交わせる機会は得られないことでしょう」

 

「…………」

 

唇を引き結んで、ベアトリスはリューズの真意を探るように瞳を覗き込んでくる。

リューズはベアトリスの、初めて見せる困惑に際し、静かに言葉を選んだ。

 

「エキドナ様のおっしゃっていた準備は、この『聖域』に結界を張り巡らせるためのものです。本来なら時間をかけて、『聖域』の土壌に結界を根付かせる必要があったそうなのですが……今回のことで、その時間が足りなくなってしまいました」

 

「時間不足……結界が、間に合わない?その結界が、あの男を遠ざけるために必要な手段だったということかしら」

 

「そうです。あの男の危険性は、私もはっきり見てわかりました。あれは危険です。エキドナ様が、万難を排してでも倒そうとする理由がわかります。ロズワール様のご献身も、ああまでしなくてはエキドナ様を救えないとわかっていたからなのでしょう」

 

それほど、あの少年は圧倒的だった。

結界が発動した場合、究極的にそれがどういう形でエキドナに利して、あの存在を根絶する結末に結びつくのかはリューズにはわからない。

ただ、一つだけエキドナが確約してくれたことがある。

 

「結界さえ発動すれば、この『聖域』を守ることは可能であると、エキドナ様は私に確約してくださいました。……ですから、私はそのためにこの身を捧げます」

 

「ば、馬鹿なこと言うんじゃないのよ。お前の身を捧げるって……何の魔法の素養もないお前が、どうやって……」

 

焦燥感を瞳に宿して、ベアトリスは早口にそう言いかける。だが、聡明な彼女は自分の言葉を形にする途中で、図らずも己の問いかけの答えに辿り着いてしまった。

彼女は愕然と目を見開いて、二人の傍らに佇む青い結晶を見やり、

 

「お前の存在を、この結晶の核と結び付けて……中核のオドとして、『聖域』全体に張り巡らせる……そうすれば、時間をかけて馴染ませる必要がなくなる……?」

 

「はい。エキドナ様も、そう仰っていました」

 

襲撃がある前に、エキドナやロズワールとの話し合いで合意に達した結論だ。

ベアトリスはもはや言葉もなく立ち尽くしている。リューズはベアトリスの視界に自分が入るよう回り込み、彼女に向かって微笑みかけた。

 

「私と『聖域』のマナとの親和性……それは、ベアトリス様が保証してくださったんですよ」

 

「――――ッ!」

 

リューズの言葉に、弾かれたようにベアトリスが顔を上げた。

彼女は桃色の唇を噛みしめ、その肌にかすかに血をにじませながら、

 

「ちが……っ。ベティーは……ベティーは、そんなつもりでお母様に……待って、違う、待つかしら。待つのよ。べ、ベティーがお母様に直談判してくるかしら。お母様はアレでベティーに甘いから、きっとお話を聞いて……」

 

「今、そんな時間はありませんよ。この瞬間に、決断が必要なんです」

 

「それなら、ベティーが今すぐにお母様に加勢してくるのよ。お母様とベティーが協力したら、あんな奴ぐらいイチコロかしら。ロズワールだって、ささっと治して三人がかりで……」

 

嫌々と首を横に振るベアトリスの言葉が尻すぼみになる。

その発言の説得力のなさに、ベアトリス自身が気付いてしまっているのだ。

 

ベアトリスは確かにすごい。リューズは自分と同年代の彼女が、これほどまでに巧みに魔法を使いこなし、日々研鑽を怠っていない事実を心から尊敬している。

彼女が母を敬愛し、ロズワールといがみ合いながらも、リューズの周りでちょろちょろと魔法の修練に打ち込むところを、洗濯や裁縫、料理の片手間にずっと見続けてきたのだ。

 

そんな濃密な時間を過ごし、自分の実力を正しく把握しているベアトリスだから、彼我の戦力差のことをはっきりと理解している。

気休めにもならない気休めで、母の命を危険にさらす決断は彼女にはできない。

 

「――ベティーの扉渡りで、みんなここから逃げてしまえばいいのよ」

 

「…………」

 

「ね?そうするかしら。少しだけ無理をしなくちゃならないけど、ベティーならそれぐらいやってのけるのよ。お母様が時間を稼いでる内に、『聖域』の連中を集めてお母様の屋敷に逃がすかしら。隙を見てロズワールを回収して、お母様とベティーが扉をくぐればそれであいつからは逃げられる。……うん、これでいくべきなのよ」

 

「そうして逃げた先で、またあの人に追われることに怯えて生きるんですか?色んな人に疎まれて、その果てに辿り着いたこの安寧の場所を捨てて……また新しい場所に、こんな風に過ごせる時間を作るのに、どのぐらいかかるんでしょうか」

 

代替案を練るベアトリスに、首を横に振るリューズの言葉は穏やかだが厳しい。

少女の顔に傷付いた色が広がるのを見て、リューズの胸には痛烈な痛みが走った。

自分たちのことを、リューズのことを、ここまで案じてくれる少女の思いやりを踏みにじって、蹴りつけて、リューズは我を通さなくてはならない。

それはなんと残酷で身勝手で、これまでの日々を裏切るような行いなのだろう。

 

――これまでの日々の積み重ねで、これまでの日々の想いを裏切るのだ。

 

「ベアトリス様。私は、『聖域』が好きです。この場所で暮らせて、本当によかったと思っています。ここで暮らすみんなの笑顔が、大好きです。なくしたく、ありません」

 

「――――」

 

「私はもう、十分に温かな時間をいただきました。こんな汚れた血の流れた私には、不相応な幸せだったと思います。ですから、もう満足なんですよ」

 

「そんなはず、ないかしら……。お、お前たちが、ここをどんな風に思っていたところで、この場所の本当の意味は、お前たちが思っているような……」

 

「はい。わかっています」

 

「――――っ」

 

思わず、口からこぼれ出したそれを後悔する顔のベアトリスに、リューズは頷きかける。

 

わかっていた、この『聖域』の本当の意味を。

エキドナやロズワールが、ただの善意で自分たちのような、多種族からのはみ出し者を集めたわけではないことぐらい、わかっていた。

疎まれ、蔑まれたものたちも、胸を張って暮らせる楽園を――そんな風に、上辺だけの希望に縋って生きていたわけではないけれど、そう信じたい気持ちもあった。

 

今この瞬間になってはもはや、ただ光輝くものばかりを見つめていても仕方ないのだと、諦念とともに理解してしまった感傷だ。

 

「この場所は、エキドナ様を追うあの人をどうにかする目的の場所なんですよね」

 

「…………」

 

「そのための場所なんだって、そのための私たちなんだって、今はわかっています」

 

「それなら……それがわかってるなら、どうして」

 

理解できないと、首を横に振るベアトリス。

そのベアトリスの懇願のような視線に、リューズは唇を緩めた。

 

「いいんです。始まり方は、そうだったかもしれません。でも、ここで私たちが過ごした時間の全部が、そのエキドナ様の思惑に絡め取られていたわけではないんです。私がここで過ごした時間、ベアトリス様とお話したことも、全部が全部、そうだったわけじゃありません」

 

「――――」

 

「大事なのは、始まり方じゃないです。終わり方と、そこまでに感じる何かです」

 

「――――」

 

「ここでの時間は幸せでした。だから私は、その時間を守るために逝きます。ベアトリス様には何度も、今も、数々のご恩情、感謝を申し上げます」

 

遠く、石部屋の彼方から轟音が響いてくる。

地面を揺るがし、大気を震わせるそれは、『聖域』の中心で行われているエキドナと少年とのぶつかり合いの余波だ。

かすかに、しかし確かに、徐々に近づきつつあるそれは、この場に近づけまいと戦うエキドナが劣勢である何よりの証拠だった。

 

「――――っ」

 

瞑目し、静かな決意を固めるリューズ。彼女の正面で、ベアトリスは肩を上下させながら、必死に頭を働かせて言葉を探している。

リューズの意思を挫き、気持ちを翻させ、意見をひっくり返す魔法の言葉を。

だが、そんな都合のいい魔法は、この世界のどこにも存在しない。

 

「ベアトリス様」

 

「……何かしら」

 

「甘いもの、食べ過ぎないように注意してくださいね」

 

「――――」

 

お茶の時間に、お茶菓子に手が伸びるのが止まらない子だったから、せっかく可愛いのに太ったりしたら台無しだ。歯も、ちゃんと綺麗にしていてほしいと思う。

滅多に見せたりしないけれど、笑うと本当に愛らしい少女なのだから。

 

振り返り、リューズは無言で青い結晶――クリスタルに近づく。

クリスタルの魅入られそうな深い輝き。触れれば、それこそ本当に呑まれてしまう光だ。

 

痛みや、苦しみはないだろうか。

自分の終わりを覚悟していても、それがどういった形で訪れるのかはわからない。

恐い、と端的に言ってしまえばそれだけの感情がある。

 

この光の中に呑まれたとき、自分はこの『聖域』を本物にできる。

その本物の世界で、みんなが優しい気持ちで、穏やかに過ごすことができるなら。

 

そんな『聖域』を、これからもエキドナやベアトリスが見守り続けてくれるなら。

 

「――――」

 

ふと、袖を引かれる感触があった。

リューズが振り返ると、すぐ傍らにベアトリスが立っている。

 

彼女はリューズが初めて見る顔で、頼りない指先でこちらの袖を引いている。

摘まむ指先の力は弱く、触れてどうしたいのかきっとベアトリス自身にもわかっていない。それでも思わず伸びてしまったそれが、素直に感情を言葉にできないこの少女の、本当の気持ちを表しているように思えて、

 

「――――」

 

優しく、リューズは袖を摘まむベアトリスの指を外す。

触れ合った指先から、互いの熱が伝わり、最後にリューズは微笑みを浮かべた。

そして、

 

「ありがとう。――さようなら、ベティー」

 

――その言葉を最後に、リューズの意識は青い光の中に呑まれて。

 

消えた。