『■■■・■■■』


 

無数の羽音に置き去りにされて、夜のバルコニーに深淵が降り積もる。

 

視界の悪い夜空へ飛び立つことを、作り物めいた鳥たちは恐れずに羽を広げた。

それはまるで、寄る辺のない空へ落ちることの方が、この場に残ることよりもよほど気が楽だ、とでも言うかのように。

仮にそれが事実なら、スバルも全く同意見――それほどに、息詰まるこの状況は想定外で、最悪の場面に等しかった。

 

「――――」

 

場所は監視塔、隠された夜のバルコニー。

その入口を塞ぐように立つユリウスが、端正な面に困惑を刻み、頬を硬くする。視線の先には、夜の密談を交わしていたスバルとエキドナ――彼にとってはアナスタシア、そんな二人の姿が映り込んでいて。

 

「――今の話は、どういうことなんだ?」

 

緊迫感の張り詰める空間、そこに一言違わずユリウスは言葉を繰り返した。

直前の、呆然とこぼれたそれと内容は変わらず、しかし声音にはわずかに力が戻っている。そのことがユリウスの、芯の強さを悲しく証明していた。

 

――どこから、話を聞いていたのか。

 

「――――」

 

ユリウスの問いかけに対して、スバルは停止しかけた思考を強引に動かし、その問題へと辿り着く。どこから話を聞いていたのか、それが重要だ。

直前まで交わされていた、アナスタシア=エキドナとの会話の内容は、決して心構えなしに聞かせていいものではない。そもそも、この監視塔攻略において、スバルとエキドナとの間に共有している秘密は根が深すぎる。

 

事は『人工精霊』、『強欲の魔女』、『暴食の権能』と様々な要因へ及ぶのだ。

それらを符合して生まれた状況、その詳細をスバルはユリウスに隠すと、話しても混乱を生み、苦しめるだけだと判断した。

その最たるものが、アナスタシアの精神が眠りにつき、今、彼女の体に宿っているのは人口精霊エキドナであるという事実だった。

それを――、

 

「――あー、もう、ナツキくんたらあかんよ、そんな見え見えの態度して」

 

「……あ?」

 

硬直したスバル、その胸を軽く指でつついて、エキドナがはんなりと微笑む。

その口調と態度、仕草は完全にアナスタシアのトレースであり、一瞬、スバルは何が起きたのかと目を丸くして呆気に取られた。

そんなスバルを置き去りに、エキドナは踊るようにその場でくるりと回ると、

 

「ごめんな、ユリウス。でも、仲間外れにしようとしてたわけと違うんよ。うちはただ、このプレアデス監視塔から戻ったあとのことで、ちょこーっとナツキくんと大事なお話してただけ」

 

「――――」

 

「緑部屋を出たんは、レムさんと地竜の子ぉがおったやろ?別に話が漏れる心配はないけど、なんや気分的に誰かのいるところで内緒話ってのも変やん?やから場所を変えて……たまたま、おあつらえ向きなここを見つけた。それだけ」

 

胸の前で手を合わせ、エキドナが「堪忍な?」と小首を傾げる。

その仕草は可憐で、いかにもアナスタシアがやりそうなものに思えた。だが、肝心の話の誤魔化し方が、アナスタシアではありえないほどに低レベルだ。

まるで、都合の悪い場面を見られた取り繕いに、形だけ体裁を整えたような上辺だけの言葉――実際、それは『まるで』でもないのかもしれない。

 

この状況を望まず、不意を打たれたのはエキドナも同じはずだ。彼女の方がほんのわずかだけ、スバルより早く行動を起こせただけに過ぎない。

そしてそれは――、

 

「――アナスタシア様、ではないのだね」

 

「――――」

 

「エキドナ、君の事情を話してもらいたい。事ここに至って、なおも私に隠し立てしようとするほど、君も往生際は悪くないはずだ」

 

微かな逡巡を挟んで、ユリウスがエキドナに正面から問い詰めた。その言葉に、エキドナは「そんなこと……」と、一瞬だけ反論の姿勢を見せたが、

 

「エキドナ」

 

もう一度、ユリウスに呼ばれて口を噤んだ。そのまま、彼女はアナスタシアの顔をスバルへ向け、浅葱色の瞳を言葉にし難い感情に揺らす。

しかし、ここから挽回する術はスバルにも思い浮かばない。

 

「ユリウス、どこから聞いてた?」

 

「……アナスタシア様のお体のことから」

 

スバルの問いに、ユリウスは押し殺した声で応じた。

その部分だけで十分、感情的になって取り乱して当然の内容だ。それでも、少なくとも表面上は平静を保てるユリウスはさすがと言うべきだった。

あるいは境界線を飛び越え、感情的になるどころではないのかもしれない。

 

「――プリステラでの魔女教との戦い、あれ以降、アナの精神は体の奥底で眠り続けている。そのため、今、彼女の体を動かしているのはアナではない。ボクがアナを演じることで、今日までずっと過ごしてきた」

 

エキドナも、ここまでくれば誤魔化せないと考えたのだろう。

淡々と、前置きすることもなく、ただ事実を並べるような口調で説明を始めた。

 

プリステラで起きた魔女教との攻防、その最中、アナスタシアに代わり、魔女教との対決に臨んだエキドナ――その後、アナスタシアの精神が目覚めないこと。

そのことをユリウスやリカード、『鉄の牙』の面々にも隠し、戻る手段を求めてプレアデス監視塔を目指したこと。

――そしてそれらの事実を、スバルだけがエキドナと共有していたこと。

 

「何故、スバルだけはその情報の共有を?」

 

「彼が大罪司教の権能の影響も受けず、最も状況の混乱の外にいた人物だった。それに人工精霊であるボクと、そのルーツを同じくするベアトリスと契約を交わした精霊術師でもある。もっとも、ボクも打ち明けようと最初から考えていたわけじゃない。ただ……」

 

「――。ただ?」

 

「ただ……彼に、ボクがアナを演じていることを見抜かれたから、話さざるを得なかったんだ」

 

スバルだけが、アナスタシアの肉体にエキドナが宿っていたことを知っていた経緯、その説明にユリウスの瞳に強い動揺が走った。

エキドナが言葉に詰まったのも、その動揺を予期していたからに他ならない。

当然だ。スバルが、エキドナの演技に気付けたということは――、

 

「関係の薄い、外部の人間にも気付けるはずのことを、一の騎士を自任する男が気付けずにいたということか……」

 

「待て、馬鹿!お前、そんな言い方はねぇだろ!」

 

「――――」

 

「状況が……状況が悪かったんだよ!あんな大事件があって、お前はお前で切羽詰まってた!お前だけじゃねぇ、リカードとか、ミミたちだってそうだろ?俺が気付いたのは……なんか、とにかく、たまたまなんだよ!」

 

自嘲するようなユリウスの発言に食って掛かり、スバルはなんとか彼の言葉による自傷行為を止めようとした。しかし、それに相応しい言葉が、一の騎士としての務めを果たせなかったと、そう自嘲するユリウスを慰める言葉が見つからない。

 

だが実際、ユリウスに何ができた。責められるような立場だろうか。

 

忠誠を捧げた主君からも、共に主君を盛り立てようと誓った仲間たちにも、長く騎士としての時間を過ごした戦友たちにも、その他多くの、彼がこれまで騎士として生きて積み上げてきたものを砂山のように崩されて、なおも立てと何故言える。

毅然としていろと。優美であれと。一の騎士らしくあれと、何故言える。

騎士であることが、人間らしく傷付くことすら許されない生き方であるなら、騎士であることこそが、ユリウス・ユークリウスにとっての呪いだ。

 

「その、偶然を常に確かなものに昇華することが、一の騎士の務めだ」

 

「――ッ!何が、一の騎士……だったらそんな面倒な肩書き……」

 

「捨ててしまえ、などと言わないでいてくれ。私は……今の私は、私から何か一つ、取りこぼすことさえ恐ろしい」

 

スバルの勢い任せの慰めなど、ユリウスの奉じる騎士道の前には容易く弾かれる。紛糾する感情に喉が詰まり、何も言えないスバルにユリウスは首を横に振った。

 

「話を戻そう。――エキドナ、あなたの目的は?」

 

「……この肉体を、アナに返すことだ。この、プレアデス監視塔へボクが君たちを案内した理由は、『暴食』や『色欲』の被害より、それを優先してのことだった」

 

「つまり、現状はあなたにとっても望まぬ事態であると。そして、アナスタシア様を元に戻す術は見つかっていない。……仮に、あなたを斬っても」

 

腰の騎士剣に手を当て、目を細めたユリウスが剣呑な問いを投げかけた。

それを受け、エキドナはその目を伏せると、そっと自分の胸に触れて、

 

「ボクが悪い精霊で、あれこれ理由を付けてアナの肉体を乗っ取ろうとしている……その推測を否定する証拠をボクは出すことができない。だから、仮に君がボクの言い分を嘘であると断じ、ボクを消滅させようとしても止めることはできないな」

 

ただ、とそこで言葉を切り、エキドナは一拍置いて続ける。

 

「おそらくその場合、意識の戻らないアナの抜け殻が残されるなら御の字……最悪の場合、生命維持に支障をきたし、命を落とす可能性もある」

 

ユリウスの仮説、エキドナを斬るという意見にエキドナが所感を述べた。そうして述べたあとで、彼女は両手を軽く掲げ、

 

「無論、これはボクが命惜しさに苦し紛れで言った戯言の可能性もある。ボク自身、ボクが死ぬことが解決法でないとは断言できない。ボクが死ぬことでアナが長らえるなら、それでも構わないと思う気持ちもある。死にたくはないけどね」

 

「どうして、あなたはアナスタシア様のためにそこまでできる?」

 

「ボクとアナとは不完全な関係だ。だから、一般的な精霊と、精霊術師の在り方に当てはめるのは正しくないかもしれないが……」

 

そこで一度言葉を切り、エキドナはユリウスを、スバルを、交互に眺めた。

形は違えど、精霊術師として、精霊と正しく契約関係にあった二人を羨むように。

 

「ボクはアナが好きだよ。この子がまだ幼かった頃から、ずっと傍にいた。だから見捨てたくなんてないし、幸せになってほしい。――それが、ボクの理由だ」

 

「――――」

 

「ユリウス、君に事実を明かさなかったのは、余計な混乱を招きたくなかったからだ。可能であればアナはボクの存在を隠し通そうと考えていたし、事実、プリステラの一幕があるまでボクのことは隠し切れていた。したたかなあの子のおかげでね」

 

プリステラでも、ユリウスはアナスタシアがずっと隠していたエキドナのことを公表したとき、相当にショックを受けたはずだ。

あのとき、彼の胸中にどれほどの嵐が吹き荒れていたのか、エミリア奪還を優先したスバルにはわからない。

 

ただ、短いスパンで主君の隠し事――それも、アナスタシア自身の根幹に関わる秘密をいくつも、明かされるはずでないタイミングで明かされたことは、ユリウスにとってどのぐらい不本意なことなのだろうか。

 

「……アナスタシア様と、あなたの関係は理解できた。何もかもを信じ切ることは難しい。だが、信じるしかない。少なくとも今、あなたをどうこうするのは軽率だ」

 

「そう、か。君が理性的に判断してくれて嬉しいよ、ユリウス。アナも、そうしてくれてきっと喜んでくれているだろう」

 

「――――」

 

騎士剣の柄から手を放し、ユリウスはエキドナの言葉に応じず、沈黙を守った。

だがそれは納得とは程遠い、忸怩たる思いを残したものだったはずだ。しかし、ユリウスはその無念を瞬きだけで追い払い、

 

「確認したい。アナスタシア様のオドを対価に、あなたが顕現し続けるなら……当然だが、無理をすればするほど、アナスタシア様のお体に負担がかかる。それは間違いないはずだ」

 

「そうだね。その認識で正しいよ。よく食べ、よく眠り、程よく体を動かす……健康志向のような手法だが、それがオドの消費量を抑えるにはちょうどいい」

 

「そうか、それならば……何故、二層であんな無茶な真似をしたんだ?」

 

ほんの少し気持ちを立て直し、軽口めいたものを口調に交えたエキドナに、ユリウスが不意打ち気味に切り込んだ。

その内容は二層での出来事、彼の指摘する無茶とは当然――、

 

「二層の試験官である、レイド・アストレアと私が戦っている最中、アナスタシア様は……アナスタシア様の体を預かるあなたは、魔法を行使し、援護に入った」

 

ユリウスとレイドの、最初の激突のときのことだ。

圧倒的な剣力を誇るレイドの前に、ユリウスが為す術なく打ちのめされたとき、エキドナは膨大な魔力を駆使し、レイドへ向けて魔法を放った。

それは決定打になるどころか、逆に負荷のかかったアナスタシアの体が限界を迎え、昏倒するような事態になったのだが、問題は結果ではない。

何故、それをしたのか。その一点だ。

 

「あの一幕が、アナスタシア様の体にかけたご負担は決して軽くないはず。ここまで話していて、あの行いだけがあなたの主張と食い違う。それは何故だ?」

 

「それは……」

 

ユリウスの指摘した事実は、スバルも気になっていたことだった。

あの場で、打ち倒されるユリウスのために決死の表情で行動を起こしたエキドナ。そこに嘘があったようにも、打算があったようにも思えなかった。

あったのはきっと、純粋な憂慮。それを、エキドナがユリウスに向けることは、アナスタシアとずっと共に過ごした彼女ならありえる――それだけだろうか。

 

しかし、そうしたスバルの疑問、そしてユリウスの言葉にエキドナは「すまなかった」とその場に深々と腰を折って、

 

「あれは、ボクも失敗だったと感じている。なんというか、素人目でお恥ずかしいが、戦略的な観点からの判断だったんだよ」

 

「戦略的な判断?」

 

「あの時点で、二層の試験官の殺意の有無はわからなかった。下手をすれば、ユリウスという戦力を失いかねなかったわけだ。それは避けたかった。無論、アナのためにもそうだ。それに、こちらに背中を向けるレイド・アストレア……それも、ボクの目には好機に映ったんだよ。うまくいかないどころか、迷惑をかけてしまったが」

 

すまない、と最後にもう一度だけ付け加えて、エキドナはゆっくり体を起こした。

その説明に矛盾点はない。素人判断で、迂闊な行動をしてしまったと言われれば、それを否定する根拠はスバルにはなかった。感情的なものを除けば。

 

そんな話が、簡単に受け入れられるものか。

だが、スバルがその点を追及しようと、そう詰め寄る前に、

 

「――わかった。今後は軽挙は謹んでほしい。他でもない、アナスタシア様のために」

 

「心得たよ」

 

「なっ!?」

 

わかったと、納得した素振りをするユリウス、それに頷き返したエキドナ。二人のやり取りに目を剥き、スバルは冗談じゃないと床を蹴りつけた。

 

「今の話で、なんで納得が……」

 

「スバル、私は納得した。エキドナも、今後は軽挙は慎むと約束した。これ以上、何を言えばいい?――これはアナスタシア様とエキドナの問題であり、私とアナスタシア様の問題でもある」

 

「――――」

 

「奇妙な行き違いから君を巻き込んだようですまない。だが、これはあくまで、アナスタシア様の陣営である私たちの問題だ。君が心を痛めることではない」

 

問題から遠ざけようとするユリウス、その言葉にスバルは奥歯を噛んだ。

スバルが心を痛めることではない、などと勝手なことを。

 

「俺が、何をどう受け止めようと俺の勝手だろうが!」

 

「そして君が受け止め、私に私の問題は受け止めさせまいと?……アナスタシア様とエキドナのことを、語らずにいたように」

 

「――っ」

 

「すまない。言葉が過ぎた。……だが、事実だ」

 

押し殺したような声で、視線を逸らしたユリウスが言い放った。

その声を、頑なな態度を見て、ようやくスバルは気付く。

 

ユリウスは全く、平静を保ってなどいなかった。

その胸中の荒れ模様どころか、表面上さえ取り繕うことなどできていない。

 

己の存在を見失わせ、唯一、残っていたはずの主君への忠誠もまやかしだったと結果に示され、慮って告げられたはずの約束も破られて。

それでも感情的になれないことが、ユリウスという男の在り方だった。

 

「言い合うつもりはない。アナスタシア様のためにも、早急に事態を収拾する術を見つけ出す必要性がある。エキドナ、あなたにも本格的に協力してもらいたい」

 

「……そうだね。君に隠し通せなかった以上、ボクがアナを演じ続けることの理由はないと言っていい。もちろん、アナの姿で喋るボクを君が許容できるなら、だが」

 

「それは構わない。アナスタシア様を取り戻さなければならないと、その姿を見ることでより強く自分を戒めることになるだろう」

 

ひどく苛烈に自分を傷付ける覚悟、その意思にエキドナが悲しげな顔をした。しかしその顔を、空を仰ぐユリウスは見ていなかった。

彼はそこで初めて、バルコニーから見る夜空に瘴気がかかっていないことに気付いた様子で、煌めく星々の光にそっと目を細めている。

 

「長居する理由も、もはやない。中に戻ろう。アナスタシア様のお体と、エキドナのことは明日……改めて、エミリア様たちにもお話しなければ」

 

「ああ、わかったよ。ボクも、覚悟はしておこう」

 

そう言って、歩き出したエキドナの手をユリウスが優しく取る。それはきっと、彼がアナスタシアにするのと寸分変わらない所作。

中身がどうあっても、アナスタシアへの忠節は変わらない。――たとえ、体の奥底で眠る彼女が、そのユリウスのことを忘れていても。

 

「ユリウス!」

 

その姿に痛切なものを感じて、スバルはとっさに声を上げていた。

思い出に置き去りにされて、でも自分の中にだけは相手のことが残っていて、その想いだけを頼りに必死で足掻く――その在り方は、痛いほどわかるのだ。

たとえ忘れられても、忘れられない。その想いだけが、突き動かすこともある。

 

「――――」

 

足を止めたユリウスは、エキドナを連れたまま振り返らない。

やけに真っ直ぐと伸びた背筋、どんなに心がへし折れかけていても真っ直ぐに、それが無性に腹立たしくて、

 

「お前、俺に何か言いたいことねぇのかよ」

 

エキドナのことを、アナスタシアの体のことを、黙っていた。

この夜だって、緑部屋で過ごす時間を交代すると約束し、しかしスバルはその約束に反して、こうしてバルコニーでエキドナと密談を交わしていた。

 

言い訳はできる。理由はある。悪意あって、そうしたわけではない。

それでも、悪意の有無で、理由の有無で、言い訳の有無で、心は自由にならない。

 

だからいっそ、声高に悪罵を吐き出せばいい。罵り、怒りをぶつければいい。

それがスバル自身の罪悪感のためなのか、それとも本当にユリウスのためを思っての考えなのかはわからない。

そしてきっと、ユリウスはそれをしない。

声を荒げたり、恨み言を吐き出したり――、

 

「――あるさ」

 

「――――」

 

「わかっている。君が何を考え、私に事実を隠していたのかはわかっている。悪意があるはずもない。あるのは配慮と、心遣いだけだ。君の懸念にも同意見だ。仮に逆の立場であっても、やはり私は君に黙っていただろう」

 

「――――」

 

「――だが、それでも」

 

空を仰ぐ。絞り出すように、声が。

 

「私はアナスタシア様にも、君にも、騎士足り得ぬなどと思われたくなかった」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

塔の中に戻るのに、何か特別な手順が必要だったりはしなかった。

バルコニーへ出たときと同じく、腰より低い位置にある隠し通路を潜り、塔の中にゆっくりと戻る。膝をついて床を這いながら、ふと、ここを通って出てきたユリウスも同じように這いつくばったのだろうか、と益体もなく考えた。

 

生憎と、先に戻った彼が這いつくばっていたかどうか、スバルは覚えていない。

直前のユリウスの言葉に打ちのめされ、少し唖然としていたためだ。

 

「――――」

 

何も言われないと、正直思っていた。――否、そうではない。

ユリウスはおそらく、罪悪感に揉まれるスバルに悪罵をぶつけ、楽になどしてくれないだろうと勝手に思い込んでいた。彼の高潔さがそれを許さず、怒りも恨み言も投げつけられることなく、あの場は静けさに呑まれるものと。

 

だが、そうはならなかった。

最後にユリウスが残していった言葉、それが棘となって心臓に突き刺さる。

 

恨み言を言われれば、楽になるものと思っていた。楽になりたいわけではなかったが、何も言われないよりよっぽどマシだと。

しかし、現実はそうではなかった。ユリウスの残した棘は痛みを主張し、突き立ったままの傷口からは血が流れ続ける。棘を抜くことを躊躇うほどに、深く。

 

「緑部屋には……戻れない、よな」

 

おそらく、エキドナを連れたユリウスは緑部屋まで彼女をエスコートしたはずだ。その後、下層に残してきた竜車まで、寝床を求めて下りてくるとも思えない。

スバルがそうであるように、ユリウスだってスバルに合わせる顔はあるまい。

根深い問題――それを根深くしたのは、スバルが判断を誤ったからとも言えるが、これは一朝一夕に片付く問題ではなくなった。少なくとも時間をかけ、冷静に話し合えるだけの間を開けなければ、決して解決には向かわない。

 

そう考えれば、おめおめと竜車に戻るのは気が引けた。ユリウスが戻らないとわかっていても、ぬくぬくと布団にくるまるのは何となく気が咎めたのだ。

 

かといって、この遅い時間にスバルの内心の吐露に付き合ってくれる相手はいない。

眠りにつくレムも、あるいはスバル贔屓の強いパトラッシュも、どちらも緑部屋にいるため、エキドナやユリウスとのバッティングを恐れて近付けない。

エミリアやベアトリスを起こし、話を聞いてもらうのもワガママが過ぎた。

だからスバルは当て所もなく――、

 

「――バルス?」

 

その声に、スバルは微かに喉を鳴らして足を止めた。驚きと共に振り返れば、四層の通路――石造りの床に靴音を立て、姿を見せたのは桃髪の少女、ラムだ。

ラムは薄紅の瞳をわずかに見開くと、スバルの様子を上から下まで眺めて、

 

「ずいぶんとしょぼくれた顔ね。みっともない」

 

「……会うなりいきなりだな。っていうか、ラムはこんな時間に何してんだ?」

 

「それはそっくりそのままお返しするわ。……といっても、バルスがこんな時間までしてたことなんて想像がつくけど」

 

すぐ真ん前までやってきて、自分の肘を抱くラムの言葉にスバルは頬を硬くする。

何があったのかは想像がつく、と言われて表情を曇らせるスバル。そんなスバルにラムはやれやれと肩をすくめて、

 

「どうせ、またレムに聞かせても仕方のない愚痴をこぼしていたんでしょう?いくらラムの妹が可愛くて寛容でも、無理難題ばかり押し付けるのはやめなさい」

 

「……ああ、そっちか。まぁ、そうだよな」

 

「――?」

 

ラムらしい物言いに軽く目を見開き、それからスバルは苦笑した。

内心を言い当てられたわけではなく、スバルの日々の行動予測からの言葉だ。確かにラムの言う通り、普段からスバルはレムの傍で夜を過ごすことが多い。

実際、今夜もそうしていた。その帰りだと、ラムが思うのは当然のことだ。

しかし、今日はそれだけでもなくて――、

 

「情けない顔するのをやめなさい」

 

「あでっ」

 

「しょぼくれた顔で、情けない顔で、ただでさえ低い男が下がるわよ。そんなだと、バルスを騎士にしているエミリア様の品格が疑われるわ。改めなさい」

 

俯く額をラムに指で弾かれた。

その威力にスバルは涙目になるが、退屈そうに鼻を鳴らすラムの姿に文句は封じられる。それどころか、安堵する自分がいて。

 

「……なんつーか、ホント、姉様って姉様だよね」

 

「ハッ。気色悪い感想はやめなさい」

 

額を撫でながらのスバルのコメントに、ラムは心底嫌そうに顔をしかめる。その態度に救われるのが、自分で自分が情けない。

別に話を聞いてくれるわけでも、何が起きたのかを親身になってわかろうとしてくれるわけでもないのに。

 

「ラムは、こんな時間まで何してたんだ?」

 

「いやらしい」

 

「ノータイムで話終わらせようとするなよ。ちょっとした取っ掛かりだろうが……」

 

取り付く島もない態度に肩をすくめ、スバルは軽く一息ついて、ラムの後ろ――彼女が歩いてきた方の通路へ目を向ける。

それなりに広い四層だが、これといって目立った施設があるわけでもない。あるのは緑部屋と、竜車から運んだ荷物の数々。そして――、

 

「……二層への階段、か?」

 

「――――」

 

「まさか、上にいってたんじゃねぇだろうな。一人で」

 

「安心なさい。そこまで無謀じゃないわ。この目で見たわけじゃないとはいえ、レイド・アストレアを一人でどうにかできると思うほど自惚れてもいないしね」

 

嫌な想像に唇を曲げたスバルへ、ラムは鼻で笑うかのように疑念を否定した。

その過程で、微妙に隠し切れないユリウスの独断への言及が見えたが、今ここでそこに触れるのはスバル自身にとっても棘が痛い。

 

「そう、騎士ユリウスと何かあったのね。ケンカ?」

 

「俺ってそんなにわかりやすい?」

 

「バルスがわかりやすいのと、ラムが聡明すぎるのよ。後者の比重の方が大きいから心配しないでいいわ。……いえ、やっぱり前者も気にしなさい。拷問されたとき、すぐに相手に内情が知れるから」

 

「その拷問されたパターンの想定が怖すぎるんですけどね」

 

自分の頬をぐねぐねと弄り、そう応じるスバルにラムは目を細めるだけだ。わりと冗談ではない、と言われた気がして、スバルは身震いする。

確かにスバルの立場上、王選あるいはエミリアに敵意ある人間が、そうした乱暴狼藉を働く可能性もなくはない。気には留めておこう、と考える。

 

「それはそれとして、お前はそれならなんでここに……」

 

「――二層に上がってはいない。上がろうと、してみただけよ」

 

「……無謀じゃないって言ったのにか。まさか、寝込みを襲おう的な?」

 

手段を選ばず勝ちにいく、という姿勢であればスバルも嫌いではない。ラムがそうするために、レイドが寝入っている時間を狙って忍んだのならば理解はできた。

問題は、過去の記録からの再現のように思われるレイドが眠るのかということと、そもそも寝ていたとしてもアレをどうにかできるのか、だ。

 

「残念だけど、寝込みを襲うのは無理ね。階段の途中で引き返したわ。そのぐらい、あれは規格外の化け物よ。ガーフが可愛く見えるわね」

 

「懐いたあとのガーフィールは、わりあいいつでも可愛げあるけど……」

 

「振る舞いじゃなく、危険度の話よ」

 

それだと、振る舞いに可愛げがある部分の否定になっていなかったが、大事な話の最中なのでそれには触れず、スバルは眉を顰めた。

 

「確信したわ。手段を選ばなくなれば、あっちも手段を選ばなくなるだけ。やっぱり話し合った通り、攻略には本気にさせない程度に満足させる必要があるわね」

 

「……それだけ確かめに、わざわざ一人で二層にいったのか?」

 

「何度も言わせないで。二層へは上がってない。今のラムには厳しすぎるもの」

 

純粋な力不足を認め、ラムは二層への挑戦には準備が肝要だと戒める。時間をかける必要があると言われると、先のエキドナやユリウスとのやり取りが蘇り、スバルとしては難しい顔をせざるを得なかった。

 

「バルス?」

 

「ん、や、なんでもない。……なんでもなくはないんだが、とりあえず今はだ。たぶん、明日になったらちゃんと話がある」

 

「ひたすらに思わせぶりな発言ね」

 

「あれだけ引っ張ってなんだが、俺から話すのは違う気がしてな。さすがにここでも不義理なんてしたら、ちょっと取り返しがつかねぇよ」

 

今でも十分に、修復可能かどうか怪しい亀裂だ。そこにさらに楔を打ち込み、亀裂を広げるような真似はしたくない。

そんな弱腰なスバルに、ラムは納得したわけではないだろうが引き下がる。

 

「いずれにせよ、二層の……レイドの攻略には手間暇がかかるわよ。せめて、シャウラがもう少しためになることを知ってればよかったけど」

 

「まぁ、あいつが当てにならなかったのは事実だが、あんまり言ってやるな。そもそもあいつが手助けしてくれなきゃ、俺たちは揃って砂の下で黒焦げだったんだし」

 

そもそも、シャウラを欠いては二層の『試験』まで辿り着けなかった。それを思えば、塔に入ってからの彼女のガッカリ賢者ぶりには目をつぶっても、と思う。

試験官の手を借りて『試験』を突破する、その方がよっぽど例外的なのだし。

 

「綺麗事ばかり並べていても、どこかで行き詰まるときがきっとくるわよ」

 

「俺だって、別に何でもかんでも清廉潔白が正しいって思ってるわけじゃない。ケースバイケース……今回は、特にそれに当たらないってだけ」

 

「気楽なことね。……ラムは、そんな悠長には構えられないわ」

 

スバルの受け答えに不満げにこぼし、ラムはやれやれと肩をすくめた。そして、彼女はゆっくりと背を向けると、

 

「そろそろ寝ないと明日に差し支えるわね。竜車に戻るわよ」

 

「あー、うん。その、俺は……」

 

戻りづらい理由の説明、それもしづらい。ただ、そんな風に言葉を濁したスバルに首だけ振り返り、ラムは小さな吐息をこぼした。

 

「好きになさい。もし、寝不足が理由で足を引っ張るようなことがあったら、ねじ切るわよ」

 

「ああ、悪い……ねじ切るって何を!?」

 

「ご想像にお任せするわ」

 

ひらひらと手を振り、ラムが下層へ下りる階段の方へと足を向ける。触れたくないところに触れず、立ち直りを自助努力に任せてくれるのは彼女なりの気遣いか。

そんな遠ざかる細い背中に、スバルは見えないとわかっていて手を上げた。

 

「姉様、お休み。また明日」

 

「……ラムはバルスの姉様じゃないわよ。その呼び方、やめなさい」

 

最近は断り文句にも力がなく、なし崩しに認めるのだけは拒むような抵抗だ。

そんな言葉を残し、ラムの姿が見えなくなると、スバルは首の骨を鳴らして「さあ、どうしたもんか」と呟いた。

 

竜車には戻れない。緑部屋にもいきづらい。となると、朝までの時間をゆっくり休めるか、あるいは有意義に過ごせる場所が必要なのだが。

 

「ただ寝るだけなら、適当な部屋でいいんだが……」

 

一番候補に上がりやすいのは、荷物が置いてある部屋だ。

竜車の積み荷、食材などが運び込まれた部屋だが、枕になるものも探せばあるだろう。硬い床に少し体が痛くなるかもしれないのがネックで、そのぐらいなら竜車で寝ろという話であることを除けば。

あとは――、

 

「二層の攻略、レイドの攻略について考える」

 

正直、これが一番建設的な判断ではある。

現状の問題の多くは、この監視塔を攻略することで解決に向かう。それも確実とは言えないが、状況を好転させる大きな要素には違いない。

レイドの攻略は、夕餉のときに皆で話し合った通り、彼の本気を出させずに、彼を本気で満足させる手段を見つけるという、かなりアバウトな内容だ。

せめて、そのアバウトさを少しでも減らせる可能性があれば――、

 

「――そうだ」

 

と、そこまで考えたところで、スバルは指を鳴らした。

ふいに電撃的に脳裏を過った考えに、スバルの足の向く先がバシッと決まる。

 

「これがうまくはまれば……」

 

確実とは言えないまでも、状況を大きく進める一手になり得るはず。

その思いつきに心を逸らせ、スバルは急ぎ足にその場所を目指す。

 

――夜の監視塔に、逸るスバルの靴音だけが高く響く。

――たった独りの、靴音だけが。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――目覚めの感覚は、水中から水面に顔を出す瞬間に近い。

 

夢という無意識に沈み込む体を引き上げ、呼吸という形で現実を全身に巡らせる。そうすることでゆっくりと意識は蘇り、水面を割って、生まれ出でるのだ。

眠りは死で、目覚めは生誕――気取るなら、そんな言い方もできるかもしれない。

 

ともあれ、そんな詩文的な感慨を余所に、意識は徐々に覚醒へ――、

 

「――スバル!ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

 

「って、うおわぁ!?」

 

目を開けた瞬間、すぐ間近にあった美貌に驚かされ、スバルは横に転がった。

と、転がってすぐに地面がなくなり、そのまま短い距離を落下、肩を打ち付ける。

 

「んぎゃぁ!」

 

「きゃっ!スバル、平気!?なんでそんなにいきなり転がったの!?」

 

「い、いや、俺も別にいきなり転がろうと自主的に判断したわけじゃ……」

 

ぶつけた肩をさすり、軽く頭を振りながらゆっくりと体を起こす。それから目をぱちくりと瞬きして、スバルは困惑した。

 

そこは緑色の部屋だった。

部屋中、育ちすぎた蔦がのたくるように覆い尽くし、壁は完全に隠れている。仮に蔦でできた部屋だと言われたら信じそうなぐらい、突飛な外観の部屋だった。

 

そしてスバルはどうやら、その部屋の真ん中、蔦で編まれたベッドに寝転がっていたらしい。そこから転がり落ちて、この様、と現状を分析する。

そんな冷静ぶった判断をするスバルだが、それには理由があった。

 

「ん、どこか強く打ったりはしてないみたい。ホントによかった。でも、すごーく心配したんだから、あんまり驚かせないでね」

 

「エミリア、そんな言い方だとスバルは反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの心配ぶりがスバルには伝わらんのよ」

 

「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言ってるでしょ?スバルが見当たらないって大慌てで、倒れてるところを見つけて泣きそうだったんだから……」

 

「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」

 

すぐ目の前で、コントのようなやり取りが繰り広げられる。

その微笑ましく思えるやり取りにうんうんと頷きつつ、スバルは振り返った。地べたに座り込むスバルのすぐ後ろに、何か巨大な生き物の気配。

 

「――――」

 

それは、大きなトカゲだ。黒い鱗の肌をした、馬ほどもでかい大きなトカゲ。それがあろうことかスバルにすり寄り、鼻先を首筋に擦り付けてきている。

ずいぶんと人懐っこい、とスバルはそのトカゲの頭を優しく撫でた。

そして、ため息をつく。

 

「つまり、これはあれだな」

 

冷静に、落ち着いて、ゆっくりと、息と共に言葉を吐き出した。

そんなスバルの様子に、正面にいた二人の少女が首を傾げる。

 

「――スバル?」

 

と、姉妹のように息を合わせて、二人が同時にスバルの名前を呼んだ。

目が潰れそうなほどに美しい銀髪の少女と、妖精のように可憐なドレスの幼女が。

 

銀髪美少女と、縦ロール幼女、巨大なトカゲ、蔦でできた部屋――。

スバルは大きく口を開け、叫んだ。

 

――だって、これは、つまり、あれだ。

 

「異世界召喚ってヤツ――ぅ!?」