『VSレム』
「――うわ、言われた通りだったわ。なんだこれ、全然行き届いてねぇ」
傾けた棚の裏を覗き込み、スバルは自分の仕事ぶりに顔をしかめる。
執事服の上着を脱いで、シャツの袖をまくったスバルは掃除夫の構え――なのだが、それは頭に『見習い』か『ヘボ』を付けるべき内容だった。
生来の小器用さを発揮し、屋敷の仕事も要領よくこなせるようになってきた。
そんな風に考えていた矢先のことで、思い上がりを指差された気分だ。
そのスバルの反省を後ろから眺め、「ハッ!」と小さく鼻で笑う影が一つ。
「やれやれ、所詮はバルスね。成長したと思って、少しは手を広げさせてみようと思えばこの体たらく……恥を知りなさい」
「ああ、言い返す言葉も……あるわ!なんでそんなふんぞり返ってられんの!?お前だって、俺に説教できるほど仕事してねぇだろ!」
「ラムはバルスと違って要領が本当にいいのよ。だから、朝の仕事の割り振りの時点で、自分の担当が最小限になるよう誘導したわ」
「テキパキ進める能力じゃなく、仕事を避ける能力!?」
戦いに勝利するのではなく、戦わずして勝利するのが真の兵法。
いい言い方をすればそういう雰囲気で、悪い見方をすれば優れたサボり性能だが、実際に朝の段階で指摘できなかったスバルが何を言ってもあとの祭りだ。
とはいえ――、
「その皺寄せがレムのところにいくのは、俺も姉様も望んでないんじゃねぇんですかね」
「む……バルスのくせに生意気な。でも、一理あるわね」
情けなく頭を掻きながら、そう言ったスバルにラムが目を細める。そのまま、二人の顔が部屋の端へ向かうと、そちらでパタパタ忙しく動き回る人影がある。
メイド服のスカートの裾を揺らし、濡れた布巾で部屋の細々とした部分を拭き取っている青い髪の少女――、
「――レム」
「あ、はい、ごめんなさい。ちょっと夢中になってしまいました。棚の後ろはどうでしたか、スバルくん」
呼びかけに振り返る少女、レムが柔らかく微笑み、スバルに問いかけてくる。
その微笑を向けられると、情けない回答をせざるを得ないのが申し訳ない気分だが、隠し立てできる話でもないのでスバルはすぐに観念。
「ああ、レムの言った通りだった。見えないところもしっかりと……どうにも、上辺だけ綺麗にしてOKって姿勢がよくないわな」
「いえ、そんなことはありません。スバルくんは、上辺を取り繕わせたら右に出るものはいません。王国随一です!」
「名誉棄損で訴えられそうな表現!」
レムに悪気がないのはわかっているが、なかなか突き刺さる評価だった。
上辺を取り繕うのが上手とは、スバルも自覚のあるところであり、
「さすが、物事の本質を見抜くのが上手ね、レム」
「うるさいよ、姉様!ちょっと自覚あるんだからこれ以上凹ませるな!」
寝台に座り、己の腕を抱いているラムにスバルは険しい目を向ける。が、それ以上の切れ味の視線で見返され、すごすごと退散。
地位も権力も、ここで最下級なのがナツキ・スバル。
「クソ、先輩メイドのいびりが辛いぜ……その点、レムは優しいもんな!」
「はい、もちろんです。レムはスバルくんに厳しいことなんて言いません。レムが余計なことを言わなくても、スバルくんならわかってくれると信じてます」
「優しさに内側から食い破られる」
外側を姉の毒舌で切り刻まれ、内側をレムの甘い毒でボロボロにされる。
自分の置かれた環境が恵まれているのか、恵まれていると思い込んでいるのかわからなくなりそうだが、それもたぶん、自分の気の持ちようだろう。
「ええい、自分を棚に上げるな、ナツキ・スバル。姉様はともかく、レムの期待には応えてやればいいだけの話じゃねぇか。やってやるぜ!なぁ、レム!」
「さすが、スバルくん、その意気です!レムは感服しました!」
「へっ、この前向きさも俺の持ち味よ。じゃあ、何から始めたらいい?」
「そうですね。まず、窓のさっしのところが全然拭けていないのでやり直しましょう。棚の上も、背伸びするだけじゃなく、足場を使ってしっかり拭いてください。見てもらった通り、棚の裏も毎日じゃなくていいですが、たまにやらないと大変なことになります。それからベッドの足や、マットの裏ですが……」
「前のめりに倒れそうな集中砲火!」
立て板に水とばかりに溢れ出すレムからの指摘に、心のメモを取る手が追いつかない。しかし、上辺の取り繕いは王国随一と評判のスバルから見て、それなりに綺麗にされたと見える部屋にも、まだまだそれだけ改善の余地があるとは。
「ホント、レムは色々とよく見てるよな。それもメイドの嗜みか?」
「もちろんです。あ、でも、相手の立場になって考えれば、自然と見えてくるものもありますよ。レムはいつも、スバルくんのことを考えてますから」
「嬉しいけど、埃だらけの欠点を次々見抜かれてるんだよなぁ……」
ぐっと拳を固めたレムの返答は可愛らしいが、スバルはバツが悪い。
ただ、細かなところまで目が向けられて、きめ細やかな仕事ぶりができるというのは、レムが謙遜しようとメイドの基本が徹底された証だ。
まさしく、万能メイドの評判に偽りなしと言えるだろう。
「当然よ。だって、レムはラムの可愛い妹なんだもの」
「って、姉様が勝ち誇るのかよ!」
「ふてぶてしい態度がお似合いなのも、姉様の魅力ですから」
堂々とベッドの上でふんぞり返るラムに、スバルとレムのそんな声が飛び交う。
それもまた、ロズワール邸で働くメイドと使用人の日常の風景で――、
△▼△▼△▼△
「――ぐおわ!っだぁ!」
一瞬の浮遊感と、硬い地面に受け止められる痛み。
落ちるとわかっていて受け身は取ったものの、衝撃はそれなりのものだった。
特に、転がったところにあった太い枝の追撃が想定外だ。肩甲骨のあたりをぐりっとやられて、思いがけない痛みに涙目になってしまう。
「いちち……ああ、大自然以外の追撃がなくて助かった。ナイフ様々だぜ……」
涙目状態で立ち上がり、スバルは手の中のナイフを鞘に戻して一息つく。
ぐるっと振り返って見上げるのは、直前までスバルを吊り下げていた大樹の幹だ。
その幹の太い枝の一本から、長い蔦が地面に向かって伸びている。蔦は途中でナイフによって切断されているが、切断された蔦の先には――、
「輪っか……漫画とかで見たことあったけど、本当にこの手の罠って効果あるんだな」
そう言いながら、スバルは自分の右足首に結ばさった蔦の輪っかを取り除く。
地面に設置されていた罠で、ちょうどこの輪っかの上を足が通ると、その足を締め上げて宙へ吊り上げる仕組み――正直、自分で引っかかっておきながら、具体的にどうやってそれを実現しているのか、その答えがわからない。
そして、答えを知るためにあれこれと調べている暇もない。
「記憶はないものの、レムが持ってた知識と器用さは据え置きか……。こうして追いかける立場になってみると、レムも姉様の妹だな」
当たり前の話ではあるのだが、改めて実感させられる。無論、こうした形で実感させられたいものではなかったので、何とも苦々しい感覚だ。
――スバルがレムを追いかけ、森へ入って一時間以上が経過している。
反対側の森で出くわした覆面男、彼のアドバイスに従い、レムがルイを連れて逃げたルートの偽装は看破できた。
おかげで間違いなく、逃げる二人との距離は縮まっていると言える。しかし、その距離をゼロにできない最大の要因として、レムの警戒心が障害となる。
スバルを取り巻く魔女の残り香――瘴気を警戒したレムは、足跡の偽装だけにとどまらず、森のあちこちに足止めのための罠を施していた。
最初の強烈な一発をもらって以来、スバルが発見(痛い目を見たとも言う)した罠の数は十を下回らない。それだけの数、自由の利かない足で逃げながら、しかも足手まといを連れてやり遂げるレムには舌を巻くしかなかった。
「草を結ぶとか、浅く掘った落とし穴とかなら可愛げもあるけどな……」
スバルを転ばせたり、足を挫かせるのが目的の小トラップ。その手の罠ならば被害も少なく、追跡を続けるにもさしたる支障にはならない。
ただし、その数が尋常ではなく、逐一、草むらや落ち葉の多いエリアを歩くときには警戒が必要になるのが困りものではあった。
「レムの腕力なら、片足嵌めるだけの落とし穴なんて一発で作れんのがネック……生まれ持ったフィジカルの差が強く出てやがる」
そうした小トラップの合間に交えられるのが、先ほどスバルを吊り上げたような、蔦や倒木を利用した本格的な足止め狙いの中トラップだ。
たまたま奇跡的にスバルがナイフを入手する機会に恵まれていなかったら、あの蔦のトラップから抜け出すのにどれだけ時間がかかったことか。あるいは頭に血が上って、その後の追跡の再開がずっと遅れる可能性もあった。
そして、焦る気持ちが先立つスバルを最も逡巡させるのが――、
「しっ!」
腰の裏から抜いたギルティウィップを振るい、その先端で怪しげな地面を強く打つ。
次の瞬間、その地点目掛けて、強烈な反動を伴った枝の一撃が二発、三発と殺到した。直撃されていれば、腕の一本や二本は折れても不思議のない威力。
完全にスバルの行動力を奪うための大トラップ――数は多くないが、これが仕掛けられている事実が、スバルの進軍の速度を遅れさせていた。
森の入口に仕掛けられていた太い枝の一発、あれも大トラップの一環と言える。
こうして森深くへ進むごとに、発見される大トラップの危険性と威力は増していた。それは追われるレムが容赦を失っているというよりは、成長しているのだ。
「追いかけられて罠を作るうちに、どんどん学習して罠の腕が上がってやがる……クソ、さすが勉強熱心だぜ、レム。今、それ発揮されたくなかったけど」
レムが頑張り屋の努力上手なのは知っていたし、記憶の戻らない現状でもそうした気質が失われていないのは嬉しいが、それとこれとは話が別だ。
早い話、レムは戦いの中で成長しているのである。スバルの成長がほぼほぼ頭打ちなことを考えれば、ただでさえ厳しい実力差がより顕著なものとなってしまう。
この差が決定的なものとなる前に、レムの身柄を押さえなくてはならないが――、
「――――」
目の前の大トラップを解除し、スバルはしばし息を潜める。
きょろきょろと辺りを見回して探し求めるのは、これを仕掛けたレムの次なる逃げ道。それを知るためには、彼女が残すまいとした少ない痕跡を辿る必要があった。
もちろん、痕跡を全く残していない場合も考えられるが、現状のレムにそこまでの能力と余裕はない。故に――、
「――あった」
罠の仕掛けられた木々の隙間に、小さく木の皮が毟られた痕跡を発見する。
大トラップと無関係のそれは、まるで猫が家の柱を引っ掻いたようなささやかな傷。しかし、こうした児戯のような傷跡が、ここまでスバルを導いてくれていた。
つまるところ、その正体は『足手まとい』の痕跡だ。
「――――」
皮肉な話だったが、レムの足を引っ張り、スバルに追跡を許している要因は、彼女が連れて逃げている大罪司教――ルイ・アルネブの存在だ。
レムとルイ、二人の相性のほどはわからないが、ルイがレムの行動に利口に協力的でないことはこれらの痕跡からも窺える。
レムがどれだけ懸命に足跡を消したとしても、ルイがそれを台無しにしていて。
「クソ……っ」
その朗報を目に留め、追いかける手助けとするスバルの内心は晴れない。
当然だろう。結果的にルイの存在がスバルの手助けになってくれているなど、あの邪悪な大罪司教との関係を思えば手放しに喜べるはずもない。
直接的にレムの『名前』や『記憶』を奪ったのがルイでなかったとしても、『暴食』の大罪司教たる三兄妹の罪は同等だ。一人だけ罪が軽くなることなどない。
自分の体が存在しないであるとか、生き方を誤ったなど関係ない。
それが、あの白い世界で喚き散らすルイ・アルネブに対するスバルの結論だ。
だから、このまま首尾よくレムに追いつけたとして、彼女を説得する段階になっても、ルイの扱いを譲歩するつもりはスバルにはなかった。
そもそも――、
「どうして、俺はレムとこんな追いかけっこしなきゃならないんだよ……!」
レムに追いついて、ルイの扱いを話し合うことを考えて、スバルはぶり返してくる理不尽への怒りに唇を噛んだ。
目覚めたレムが『記憶』や『名前』を失っている可能性は考えていた。
もちろん、元の万全なレムが戻ってくれるのが一番だったが、クルシュやユリウスの前例がある以上、レムが元通りの状態で目覚めてくれる期待は大きく持てなかった。
その不安が的中し、結果、レムは自分自身のことも、スバルのことも忘れてしまった。
そうだったとしても、スバルは踏みとどまり、レムを支えてやれると思っていた。
エミリアやラム、ベアトリスたち――陣営の仲間と助け合い、みんなで一緒にレムを支えられると、それがスバルを踏みとどまらせる根拠だった。
それなのに今、スバルは頼れるもののいない森で、逃げるレムを追いかけている。
「なんで、こうなるんだよ……どうしていつも……」
すんなりと、何もかも綺麗に落着させてくれないのか。
何もかも思い出したレムが目覚めて、過ぎ去ってしまった時間に驚きながらも、これから先の物語を一緒に紡いでいく。それでいいのに。
もし仮にレムの状態が今と同じでも、周りに一緒に頑張ってくれる仲間がいてくれたらこんな災難に苦しめられずに済んだ。それでもいいのに。
運命はいつも、ナツキ・スバルに最も過酷な道を用意する。
そしてそれをスバルだけでなく、スバルの周りの大切な人たちへ向けるのだ。
「――泣き言は、もう十分かよ、ナツキ・スバル」
ぐっと奥歯を噛みしめて、スバルは自分の頬を両手で強く張った。
鋭い痛みと衝撃が意識を揺らし、直前までの弱々しい思いを一時的に置き去りにする。
そう、運命はいつも過酷な道を示した。
だからこそ、ナツキ・スバルは幾度も苦難という鞭に打たれ、そのたびに血反吐を吐きながら立ち上がり、前を向いてきたのだ。
「ついには立ち塞がる苦難を自分の鞭にした男、それが俺だ」
厳密には鞭の原材料となったギルティラウは言うほど立ち塞がった壁ではなかったし、立ち塞がった苦難の中では低難易度の方だったが、そう嘯く。
嘯いて自分を盛り上げ、感情を昂らせて、小賢しい頭に熱を注いで、戦い方を見出すのがスバルのこれまでのやり方だ。
愚直に貫いてきた。それ以外のやり方はない。だから、今日もそうする。
「考えろ考えろ考えろ、俺。このまま追いかけてても、いずれはレムもルイがやらかしてることに気付いちまう。そうなったら痕跡が途絶える。そうなる前に……」
――レムたちに追いつくか、先回りする方法を見つけなくてはならない。
「――――」
彼我の戦力差を分析し、相手の強みとこちらの強みを一生懸命に考え抜く。
現状におけるレムの強みは、記憶がなくても失われていない小器用さと気配り。作るうちに熟達していく成長度と、顔と声が可愛いこと、動いているところをもっと長くじっと見守っていたいが、そのところは後回しだ。
それに反してスバルの強みは、鞭とナイフの扱いと、忌々しくもルイが残してくれている手掛かり、目つきの悪さはご愛敬として――記憶のないレム以上に、レムがどういう子なのかを知っていること、これが挙げられる。
「……レムは、俺が追いかけてきてることに気付いてるはず」
無数の罠の存在が証明しているが、レムはスバルの追跡を察している。
そうでなければ、ここまで過剰な数の罠を用意する理由がない。最初にいくつか、念のために置いておく程度で逃げるのを優先したはずだ。
そうせずに罠を仕掛け続けるのは、スバルの追跡を確信しているから。そして、レムがスバルの追跡を確信できている理由は、やはり魔女の残り香だろう。
「いったい、どれだけ臭ってんだ、今の俺の体は……」
自分の腕の臭いを嗅いでみるが、砂っぽさと汗臭さを感じつつも、悪臭を振りまいているというほどではない。もちろん、自分の臭いには気付きづらいという話もあるが、この場合、魔女の残り香は感じられるモノにしか感じられないのが問題だ。
以前、レムやベアトリスからは日ごとに薄れる、という話は聞いていたが、それも『死に戻り』の直後や頻度で大きく増大するとのこと。
そしてスバルはこの半日、監視塔の中で『ナツキ・スバル×2』の回数を重ね、そのままこんな場所へ飛ばされてきている。
つまり――、
「――異世界生活史上、最も魔女臭い男が今の俺」
魔女の残り香に際限があるのか不明だが、今のスバルなら相当な臭いを発していると考えられる。そうなると、こちらの追跡はまずバレている。
逃れても逃れても距離が開かないとなれば、レムも焦れてくることだろう。
普段なら焦らせて相手のミスを誘うのはスバルの常套手段であるのだが、レムとは友好的な関係を新たに築きたい分、それが極まるのも避けたい。
「あちらを立てればこちらが立たず……」
それを地でいくのが現状の最悪ぶりを端的に表している。
そう考えながら、スバルはその間も二つ、三つと小中のトラップを解除し、ルイが残した手掛かりを辿りながらレムの足取りを追いかける。
まさしくパンくずを拾うヘンゼルとグレーテルの気分。ただし、スバルは一人ぼっちであり、二人組は逃げている方という違いはあった。
「と、今度はわかりやすいところにあったな。次は……」
剥がされた木の皮を発見し、スバルは次なる道を定める。
ルイにスバルに場所を知らせる意図がないため、手掛かりとなる痕跡には統一感もなければ、見つけにくいことも非常に多い。
おそらく、レムが罠を作る作業をしている間、置いておかれているルイが勝手にやっているというのが事の真相だろう。
しばらく見つけにくい手掛かりが続いたが、わかりやすいものがあって助かった。
「残ってくれてて助かった。レムに見つかって消されると、手掛かりが……」
途絶える、と言いかけたところでスバルは言葉を止めた。
それから、今しがた通りすぎた木のところへ戻り、皮を剥がされた木を見やる。大きくたくましい木であり、剥がれたのはなかなか目立つ位置。
はたして、これをレムが見落とすことがあるだろうか。
「――――」
草原の足跡で攪乱されたこと、それから徐々に熟達していくレムの罠の腕、そして目の前のこれ見よがしに大きく剥がされた木の皮。
それらがスバルの頭の中で組み合わさり、違和感というパズルを完成させていく。
やがて、スバルの中で一個の答えが導き出された。
「俺の知ってるレムなら……」
目端が利いて、気配り上手のレムであれば、あからさまな痕跡は消したはずだ。
それが残っていた以上、レムがよっぽどの視野狭窄に陥っているのでない限り――、
「――そら!」
進もうとした道の先、スバルは足下から抜いた太い草の塊を投げ飛ばす。
根に土の絡んだそれは放物線を描き、背の高い草むらへと飛び込んでいって――、
――直後、壮絶な音を立てて草むらが沈没し、大穴が大地を呑み込んだ。
「うお……!」
これまでの小トラップの穴がなんだったのかと思うほど、大きな穴がスバルの目の前に出現する。しかも、罠はそれだけにとどまらない。
その出現した大穴目掛け、周囲の木々が悲鳴を上げながらへし折れ、倒れ込む。倒木が次々と大穴の中へ落ちていき、開いたばかりの穴がすぐ埋め立てられた。
もしもスバルがその大穴に落ちていたら、今頃は身動きのできないまま埋もれ、生き埋めになっていただろう。
ここへきて、これまでの罠を心理的な引っかけに使った大技が放たれた。
追跡のヒントとなっていたそれが、スバルを生き埋めにするための罠として大口を開けて待っていたということだ。
レムらしい手段と、そう称賛したいところだが――、
「――俺の知ってるレムは、これで終わらない」
心理的な罠を仕掛けて、それに追手がかかって動きを止められれば最善。
しかし、スバルの知っているレムは気配り上手で頑張り屋、顔と声が可愛くて、健気に動いてくれているだけで胸が温かくなり、そして――、
「痺れを切らしたら、自分から仕掛けてくる。――そうだろ、レム!」
そう言って振り返り、皮の剥がされた木をスバルが見上げる。
ちょうどそのときだった。
「――っ!!」
歯を食い縛ったレムが、その木の枝からスバルへ飛びかかってきたのは。
△▼△▼△▼△
追手を引き剥がせず、罠も足止めにならない。
そんな状況下に置かれたとき、スバルの知っているレムならどうするか。
相手の位置は臭いでわかり、相手が頼りにしているパンくずの正体も判明したなら、それを逆手にとって罠にかけ、直接原因を絶とうとする。
そして、スバルのその読みは的中した。
問題は――、
「――はああぁぁぁ!」
飛びかかってくるレムを止められない、スバルとの戦力差にあった。
「ぐおあ!」と苦鳴を上げ、落ちてくるレムの腕にスバルが吹き飛ばされる。
正直、不自由な足でここまで動けることも、自分の体がとっさにレムを受け止めようとしてしまったことも、スバルにとって想定外だった。
「どこまでもどこまでも、しつこい人!」
「ま、待て、レム、話を聞いて……」
「くどいです!」
振り回した腕が当たり、鼻血のこぼれるスバル。その血染めの訴えだが、怒り心頭のレムには聞いてもらえない。
彼女は森の地面に這いつくばり、その青い瞳でスバルを睨みつけていた。
「あの場で私たちを諦めてくれれば、それ以上のことはしないつもりでした。なのに、あなたは私たちを追いかけて……やめてください!」
「そんなシンプルに言われると、すげぇ傷付くんだが……」
「鼻が曲がりそうなんですよ!あなたが近付いてくると、すぐにわかります。それも、さっきの草原のときよりも、それが増して……」
鼻血の滴る鼻を押さえながら、スバルはよろよろと立ち上がる。
立ち上がれるスバルと、這いつくばったレム。状況はスバルの方が有利に思えるが、それも腕力一つでひっくり返されるアドバンテージでしかない。
ましてや、レムが腕だけで、それこそテケテケのように機敏に動き出したら、今度こそスバルは大穴に叩き落されて一巻の終わりだ。
じりじりと互いの距離を測りながら、ここで誤解を解くしかない。
「レム、話を聞いてくれ。お前にとって、俺は相当臭うらしいが……」
「……はい、臭いです」
「懐かしい言い方……!臭うらしいんだが、そしてそれがよからぬものに感じるってのもわかってるんだが、俺はお前に敵意はないんだ!」
両手を上げて、スバルは自分が彼女と敵対するつもりがないことを示す。
だが、そう主張してもレムの警戒の色は薄れない。それだけ、魔女の残り香が空っぽの彼女を追い詰める要因になっている。
本当に、どこまでいっても魔女関係は碌な状況をもたらそうとしない。
「臭いのこともあるし、俺の第一印象が悪いのは自覚がある。これでも十八年、自分って存在と付き合ってきてんだ。だから、やり直させてくれ」
「……やり直す?」
「俺が悪かった。何もかも忘れて不安なお前に、一個も説明してやれなかった。全部、俺の事情で、お前の気持ちを汲んでやれてなくて……」
逸る思いと焦る気持ち、それらがレムを慮れなかった要因だ。
それらのせいだったと、そう自分を弁護することは容易にできる。しかし、ここでうそ寒い自己弁護に何の意味があるのだ。
必要なのは、自分を守る言葉ではない。
レムを、その頑なな心を解きほぐすための、訴える言葉だ。
「お前が大事なんだ。守りたいだけなんだ。だから、話を聞いてくれ。俺を拒まないでくれ。――俺に、もう一度チャンスをくれ」
「――――」
両手を上げたまま、スバルはその場に深々と腰を折り、訴える。
全身全霊、誠意が尽くせたかはわからないが、想いだけは込めた。それが少しでもレムの心を揺らしてくれたなら、説明する猶予を与えてくれたなら。
「――それだけ、ですか?」
「……え?」
「あなたが私に弁明するのは、それだけなんですか?」
その、レムからもたらされた返答に、スバルはおずおずと顔を上げる。
声に込められた感情が、スバルの望んだそれとは違っていた。しかし、悪い予想とも違っていて、それが困惑をもたらした。
レムの声は静かな怒り、堪え難い怒気に彩られていたのだ。
「れ、レム……?」
「あなたが、私たちを追い回したことや、その体からとてつもなく邪悪な臭いを漂わせていることは、もちろん怪しいし、おかしいと思っています。でも」
そこで言葉を切り、レムはきゅっと唇を結んだ。
それでもまだ、その先の答えがわからずにいるスバルを、心底許し難い悪漢とでもみなしたように、彼女の青い瞳が敵意に光る。
「その、どんな理由よりも、あんな小さな女の子を見捨てようとしたことは拭えません。そんな非情で卑劣な相手を、どう信じろと言うんですか」
「――ぁ」
邪悪を糾弾するその眼差しに、スバルは言葉を失った。
叩き付けられた言葉が脳に浸透し、スバルは自分が初手で、魔女の残り香とは全く異なる形で、レムのその信頼を得る選択を誤ったのだと理解する。
親譲りの目つきの悪さも、勝手になすりつけられた残り香も、本当の意味でレムから信頼を損ねた理由ではなかった。
元々の持ち物ではなく、スバルは自らの行動で彼女の信頼を毀損した。
それがたとえ、邪悪の具現である大罪司教であったとしても、何も知らない彼女の目から見れば、幼くか弱い少女であったのだと、見落とした。
「――――」
何を言えばいいのか、とっさにスバルの中で答えが見つからない。
幾度も苦難を乗り越え、時には乗り越えられずに命を落とし、また別の角度からの解決策を探ってきたスバルだったが、この瞬間の答えは自分の内にない。
謝罪と、言い訳と、真実と、どれを優先すべきなのか。
子どもを見捨てようとした事実を謝る?
あれには理由があったのだと言い繕う?
奴は幼い怪物なんだと事実を激白する?
どれであったとしても、目の前のレムの不信の眼差しを変えられる気がしない。
そしてそれはすでに、『死に戻り』で確定してしまったスバルの行いの結果。
「――何も言わなくなりましたね」
視線が泳ぎ、頬が硬直し、言葉の出ないスバルにレムが痺れを切らした。
彼女はぐぐっと自分の上体を持ち上げ、スバルから距離を取ろうとする。――ここでスバルを打ち倒し、後顧の憂いを断つつもりはないようだ。
打ちのめされたスバルが、自分たちを追ってこないと思ったのかもしれない。
もちろん、そんなことはない。ここで振り払われたとしても、スバルはレムが取ってくれるまで手を差し出し続ける。
お別れなんて、そんなことはない。そんなことはないのだが――、
「――れ」
体の向きを変え、その場を去ろうとするレムを呼び止めようとする。
まずは名前を呼び、その後に続く言葉は何も考えないまま、彼女を呼ぼうとした。
そして――、
「――――」
身をひねった彼女の背に手を伸ばしかけたスバル、その視界に変化が生じる。
それは、鬱蒼とした木々の向こう、わずかにちらついた影――見覚えが、あった。
「――レム!!」
くる、と思うよりも早く、スバルはとっさにレムの背へ飛びつく。そのスバルの動きに驚いて、レムの小さな体が硬直した。
その小さな体をくるむように抱きしめた瞬間だった。
――強弓から放たれた矢が頭上を通過し、大木がど真ん中を射抜かれて吹き飛ばされたのだ。