『三層タイゲタの書庫評』


 

周囲の白い空間が消え去って、眼前に出現したのは石造りの部屋と無数の書架。

触れていたはずのモノリスの存在が掻き消えたことを確認して、スバルは自分の辿った思考の帰結が、おそらく正しい答えだったのだろうと判断する。

判断するのだが――、

 

「やったわ!スバル、すご――」

 

「考えた奴、性格悪ッ!!」

 

「えええ!?最初にそんな反応!?」

 

三層『タイゲタ』が解放されるのを見届け、歓喜の声を上げたエミリアが目を剥く。盛大に顔をしかめて、塔の中に響き渡るようなスバルの罵声だ。

驚くエミリアや見守る周囲に振り返り、スバルは「ああ、ごめん」と言って、

 

「思った通りに解けたのは我ながらお手柄に違いねぇんだけど……これで解けたのは逆に大問題だと思うぜ。いや、実際、フェアじゃねぇよ」

 

「そう、なの?スバルが物知りでいてくれたおかげで謎解きができた……って、私はそう思うんだけど」

 

「俺が物知りで解けたっていうより、俺みたいなのじゃなきゃ解けなかったってことの方が大いに問題なんだよなぁ」

 

頭を掻くスバルだが、エミリアはわからない顔で首を傾げている。

どう説明したものか、と思うが、詳しく説明しても少々厄介な解法だろう。

 

三層『タイゲタ』に存在した『試験』であるが、その内容は解きながらスバルが語った通り、オリオン座の逸話になぞらえたものであった。それ自体は「考えた奴が星好きとかロマンチストかよ」と自分を棚上げして考えるところなのだが、大問題になるのは『オリオン座』関係の知識が、この世界では得ようがないこと。

 

オリオン座も、もちろんシャウラが星の名前であることも、星座の並び方から何まで全部、スバルのいた元の世界の知識であり天体だ。

この世界が実は、スバルのいた世界のはるかな未来であったり失われた過去の文明であったりするとんでも展開があれば可能性は残るが、この世界の星空の見え方がスバルの知る天体とまるで違うことはすでに確認済みである。

 

「まぁ、星空の並びが全然変わって見えるぐらい年月が過ぎてた……とかだったらお手上げだけど、それこそオリオン座なんて残らねぇよ」

 

夜空からオリオン座が失われるほど年月が過ぎたのなら、オリオン座の逸話などもっと早くに消えている。そうした事情を鑑みれば自ずと辿り着く答えは一つ。

この問題を考えた人間は、スバルと同じ星空を知る人間。

 

もっと悪く言えば、異世界の星空に詳しい人間以外は解けない問題を『試験』と言い張る性格破綻者だ。

そして問題文を考えたのは、ここまでの会話の流れからして、『賢者』フリューゲルで疑いあるまい。

 

「お前のお師様だけど、相当、性格悪い奴みたいだな」

 

「いやいやいやいや、何を言い出すッスか。自分で自分を悪く言うなんてお師様らしくないッスよ!それに性格悪いのは否定しないッスけど、解ける分だけ間違いなく有情ッス!レイドなら絶対に無理難題……自分の分身とか置いてって、勝てなきゃ通れないとかやるッスよ」

 

「それもおっかねぇけど、可能性はどっちの方がマシなのかね……」

 

いずれにせよ、過去に『嫉妬の魔女』を退けた英雄たちは性格に難ありの様子。

この面子だとまだ、異世界の知恵を試されただけマシだったのかもしれないが。

 

「それで、やけど」

 

弁明にならない弁明をするシャウラにスバルが嘆息すると、そこに割って入ったのは周囲を見回していたアナスタシアだ。彼女は襟巻きに忙しなく触れながら、本がみっしりと詰まった書架の一つ一つに目をやり、

 

「ナツキくんのお手柄で『試験』は突破……それはええけど、ここの書庫としての役割ってなんなんやろね。どんな本があるんか、興味深いわ」

 

「シャウラ嬢の説明では、知りたいことであれば何でも知れる知識の宝庫――といった説明でしたが」

 

アナスタシアの疑問に首肯し、ユリウスがちらりとシャウラの方を見る。が、シャウラは自分の過去の発言など忘れた顔で、その剥き出しの肌に遠慮なく触れているメィリィと戯れている。

期待度は最初から低いが、シャウラからこの『タイゲタ』の書庫の説明を受けることはほぼほぼ無理と考えてよさそうだ。

 

「アレの反応からして、そもそも『タイゲタ』が開かれたのが初めてのことなのよ。見て回って確かめてみるしかないかしら」

 

「そうだな。……お前、心なしかウキウキしてない?」

 

「そんなこと……あるかもしれないのよ」

 

スバルのすぐ横にきて、裾を摘まむベアトリスはいつもより少し早口だ。

微妙に瞳が輝き、興味深げに書庫を見回す視線――その原因に思い至り、スバルは状況も忘れて何となく微笑ましくなってしまう。

 

「てっきり、お前は禁書庫に嫌な思い出しかないのかと思ってたよ」

 

「……いい思い出ばっかりじゃないのはホントかしら。でも、どんな場所でもあそこはベティーが四百年を過ごした場所なのよ。それに」

 

「それに?」

 

「スバルが『俺を選べ』ってベティーを口説いた場所かしら。忘れようとしても、忘れられる場所じゃないのよ」

 

「――――」

 

思わぬ言葉にスバルが目を丸くすると、ベアトリスはスバルから顔を逸らす。が、その背けた顔の耳が真っ赤に染まっており、恥ずかしがっているのが見え見え。

 

「自分で言って自分で照れて、何したいんだ、お前」

 

「ベティーの禁書庫の記憶はちゃんと、スバルって記憶で〆られてるってことの証明かしら。……別に、それだけなのよ」

 

「お前、可愛いなぁ」

 

「むきゃー、かしら!」

 

愛おしさが込み上げて、スバルはベアトリスの頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でてやる。途中でベアトリスが猫のような悲鳴を上げて遠ざかり、スバルはそれを満足げに見送ると、呆れた顔をしたアナスタシアたちに向き直る。

 

「と、雑談はこんなところにして、書庫の方を確認するか」

 

「ご馳走様、やね。見てて微笑ましいけど、親子のやり取りやなぁ……」

 

「せめて兄妹、だろ」

 

アナスタシアの感想に舌を出し、スバルは屈伸すると改めて周囲を見渡す。

スバルたちがいるのは、石造りで円筒形の部屋のど真ん中だ。構造自体は元の塔の延長上に戻り、果てが知れなかったほど拡張された空間が錯覚だったとわかる。

六層や五層は螺旋階段以外、目立った特徴のない広大な空間。逆に四層はいくつもの部屋に仕切られた、シャウラ的にいうと多目的なねぐら。

 

一方、三層は同じだけの広さの空間に所狭しと書架が並べられており、背の高い本棚には無数の本がぎっしりと詰め込まれている。部屋には円形の段差がいくつもあり、スバルたちのいる中央が一番低く、外に向かうにつれて段差が高くなる。

蔵書は気が遠くなるほど多く、ベアトリスの禁書庫も相当なものがあったが、単純に本の数だけでいえば物量ではこちらが圧倒しているだろう。

 

「目的の本を見つける、検索コンピュータが欲しくなるな」

 

「禁書庫の中なら、どこに何の本があるのかベティーは完璧だったのよ」

 

「すげぇな、お前。天才か」

 

ベアトリスの密かな自慢に感嘆しつつ、スバルは手近な本棚に近付く。

見れば、エミリアたちもそれぞれ本棚に歩み寄ってはいるのだが、なかなか手に取る勇気を持てずにいる様子だ。

 

「解いたのはスバルでしょう?だから、スバル以外が触っても平気なのかなって」

 

「あー、確かにどうなんだろうな。でも、正答者しか読めない形式にするなら、解くのを見てただけのエミリアたんたちまで書庫に入れるのがおかしくないか?」

 

「あ、そっか。ここに入れた時点で、許可が出たみたいに考えていいんだ」

 

「うん、そうだと思う――けど、エミリアたん!?」

 

警戒していたエミリアにスバルが推測を述べると、彼女は納得した顔で頷く。それから彼女は無警戒に、すぐ目の前の本棚から一冊の本を抜き出した。

そして言っておいて驚くスバルの前で、ぺらぺらと中身に目を通す。

 

「んー、普通の本……かしら。スバル、どうしたの?」

 

「いや、いいんだけど、エミリアたんのクソ度胸に驚き惚れ直しただけ。大丈夫じゃないかなーって言ったの俺だけど、むしろ俺だよ?」

 

「――?スバルが言ったから、大丈夫でしょう?え、変なこと言った?」

 

本気でよくわかっていない顔のエミリアに、スバルの方が言葉を無くす。スバルは言葉にし難い感情に掌で顔を覆って、「うあー」と呟いた。

 

「なんだろ、信頼の眼差しが痛い」

 

「それが君が積み上げてきたもの、ということだよ。それに事実、君は誰にも解けなかった『タイゲタ』の謎を解き明かした。その功績、もはや否定できないはずだ」

 

「こんなもんまぐれ当たりみたいなもんだよ。たまたま俺だっただけだ」

 

スバルの困惑にユリウスが肩をすくめるが、騎士の言葉にスバルは目を逸らした。

エミリアの信頼、ベアトリスの親愛、ユリウスの誠意――いずれも、スバルの望んだものに違いないのに、それが与えられることに違和感が晴れない。

そうされるだけの価値を、スバルは常に自分に疑い続けている。

 

「エミリアさんの言う通り、普通の本やね。別に触った瞬間に体が燃える、なんておっかない仕掛けはないみたい」

 

「本の材質は……やや不透明ですね。年代もわからない。ですが中身は……?」

 

エミリアの毒見的積極性があって、他の面子も次々と本に手を伸ばす。とはいえ、膨大な本の一冊二冊で全てが知れるほど、世の中簡単にはできていない。

アナスタシアやユリウスは中身、装丁などを確かめつつ、首をひねり合っている。

 

「ベア子、どうだ?」

 

「見たところ、本の規格は統一されてるかしら。でも、タイトルは全部違うのよ。これは『ノア・リベルタス』。こっちは『リブレ・フエルミ』。……並べ方も無茶苦茶な風に見えるかしら」

 

司書の血が疼くのか、本の適当な並べ方にベアトリスは不満げだ。あまり禁書庫で彼女が整理整頓していた記憶はないが、分類はされていたかなと思う。

そんなベアトリスの憤慨はさて置き、スバルは本の背表紙を見ていて気付く。

 

「この本のタイトルだけど……ひょっとして、全部、人の名前か?」

 

「ん……と、そうみたい。これは『パルマ・エウレ』、こっちは『コヨーテ』」

 

「知らない名前ばかり、と見受ける。あまり見識の深いとは言えないが、私の知る限りで見知った名前はないな。無論、ちゃんと見回れば別と思うが……」

 

「お前が知らないんなら、たぶんここの奴は誰も知らねぇよ」

 

本気なのか謙遜なのか不明だが、最近、歴オタっぽさが露呈しつつあるユリウスだ。その彼の知識にないのであれば、人名タイトルが適当なモノなのは事実だろう。

スバルも適当な本を手に取って中を見てみるが、羅列する文字は普通に『イ文字』や『ロ文字』に『ハ文字』など、この世界特有の言語だ。

 

これが福音書になると、正式な所有者以外には読めない幾何学的な文字で描かれていたりするが、これらの本にはそういった小細工はされていない。

文字が細かすぎるのと、文章自体が退屈すぎるせいか、読んでも読んでも頭に内容が入ってこないが、それは興味のない本によくある問題だ。

 

「一応、アナスタシアさんにも確認するけど……知ってる名前とかあるか?」

 

「――んーん、ないよ?」

 

一応、の名目でスバルはアナスタシアにだけ確認を取る。無論、アナスタシア本人というより、その肉体の制御権を握る襟ドナへの確認だ。

ユリウス以上の知識を保有する可能性は、襟ドナには十分にある。ここで襟ドナが嘘を言う必要性は、あの精霊が最初から敵対意思がある以外ではあるまい。

ひとまずその報告を信じて、スバルはどうしたものかと途方に暮れる。

 

「途方に暮れるには早いか。木を隠すには森の中……ひょっとしたら重大な情報の詰まった本が、この書架のどっかに埋まってるかもしれねぇとしたら嫌だなぁ」

 

「途中で諦めないの。解けない謎解きよりずっと前向きじゃない。頑張らなきゃ!」

 

膨大な量の本を前に、早くも先々の不安にスバルの心が折れかける。そんなスバルにエミリアが小さく拳を固め、気合いを入れるように呼びかけてきた。

そのエミリアのガッツポーズを真似しつつ、スバルは書架に向き直る。並ぶ人名タイトルはいずれも記憶にないものばかり。せめて、知っている名前にでもぶつかれば確かめる欲求も――と、背表紙に指を当て、本をなぞっていると。

 

「……?」

 

なぞる途中、ふいに掠めたタイトルにスバルは指を止めた。

その本の背表紙に指を掛け、ぎっしりを詰まった書棚から傾けて引き抜く。本のタイトルにあるのは知った名だ。

なんとなしに手に取って、スバルは本を開く。そして、知人の名前が入った本の中身に目を通し――直後、それがきた。

 

――意識が、暗転する。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――女、一人の女がいた。

 

女、と呼ぶことを躊躇するほど、まだ幼い女だ。

痩せた体に粗末な服、日に焼けた褐色の肌に緑の髪。

 

童女と呼ばれるような年代の女は、しかし尽きぬ悩みに心を支配されていた。

それは決して答えの出ない、女にとっては生まれながらの命題であった。

 

「――――」

 

延々と頭を悩ませ続け、尽きることのない至上の命題。

それは世に存在する理、その白と黒――即ち、善と悪にあった。

 

正しきこと、誤った行い。

世に無数の選択肢があれど、全ての行いには両極いずれかの評価が下される。

 

まだ童女であった女には、その理に悩み続ける理由があった。必然があった。

女の世界を白と黒、善と悪、善因と悪因、二つに割ったのは女の父だ。

 

「――――」

 

女の父は罪人の首を刎ね、咎に相応しい罰を下す行いを生業としていた。

罪を犯した罪人に、罪に相応しい罰を、人生の最期を与えることが父の生業。

 

「――処刑人」

 

そう呼ばれる父の所業を、処刑場の在り方を、女は幼い日より目にしてきた。

おぞましき残酷な行い、落命する咎人の断末魔、血と死に支配された処刑場。

 

――そこで女に『死』を見せ続けたのは、他でもない女の父親の意思だ。

 

犯した罪に罰が与えられ、悪果には悪果で以て報いがある。

世に存在する善悪の、己が処刑人として信じる在り方を、父は女に伝えようとした。

 

父の意思は崇高なものであり、高潔な思想に違いなかった。

だが、女の幼さを思えばそれは独りよがりであり、理想を求めるには早すぎた。

 

女は幾人もの死を見届け、血の香りを嗅ぎ、罪人が罰されるのを焼き付けた。

結果、女は命の尊さを、人の死生の理を学ぶ以前に、罪に相応しき罰を学んだ。

 

善行が善因を生み、悪行が悪因を呼び、罪人の魂は罰に相応しく穢れてゆく。

父の教えをそう理解し、女は『罪に相応しき罰』の在り方を欲する。そのための指針となり得るものを、悪業を悪と定める善の天秤を求めた。

 

「――――」

 

しかし、女の求める天秤は、女の探し求めた範囲に存在しない。

事の善悪に単純な答えはなく、正誤は、罪と罰は、多くの要素に左右される。

 

「――――」

 

だが、まだ幼く、妥協と諦めを知らぬ女は止まらない。

答えを得なければならない。善悪に相応しき天秤を心に宿さなければならない。

消えない胸の内の問いかけに、答えを差し出さなければならない。

 

「――――」

 

懊悩する日々が続き、しかし答えが天の恵みのように授けられたのは突然だ。

 

父の酒杯を割り、女は自らの犯した罪に大いに怯えた。

あるいは首を落とされることすら覚悟して、女は己の罪を父に告白した。

 

「――自分の間違いを打ち明け、謝ったことは正しい」

 

女の父は過失を許し、笑みすら浮かべて女に言った。

その父の微笑みと頭を撫でられる掌の感触に、幼い女は理解した。

 

――犯した罪を計る天秤は他でもない、罪人自身の心の内にあるのだ。

 

たとえ誰が見ていなくとも、罪人の罪は己の心が知っている。

善悪は、わからない。難しい。正誤は、確実な指針がない。見つからない。

 

しかし、罪の意識は己の中にある。

罪に相応しい罰の基準はない。だが、罰に相応しい罪の意識は己の中にある。

 

女は理解した、満足した、天秤をようやく手に入れた。

幼い女は命の尊さを、人の死生の理を知らぬまま、罰に相応しき罪を暴いた。

 

「――――」

 

処刑人の父を見習い、罪に相応しき罰を下すため、女は日の下に歩き出す。

罰されるに値する罪人の、その心を暴くために。

 

「――――」

 

それは善悪を、正誤を、実と不実を二分にする、女にとっての人生の集大成。

幼い女の問いかけに、ある者は笑い、ある者は困り、ある者は戸惑う。

だが、女の問いかけに答えた結果は、全員が同じだ。

 

――罰に相応しき罪は、己の心の中にある。

 

周りを見る。誰もいない。ここにはもう、罰を受けた罪人しかいない。

粉々に砕け散った破片の人々と、最後に父の破片を踏み越えて、女は自分に与えられた宿願を果たすために、罰に相応しい罪を求めて歩き出す。

 

――『傲慢の魔女』は罪を問い、罰を与え、罪人を裁き続けた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

見知った『魔女』の始まりを見届け、スバルの意識が痛みとともに回帰する。

 

「づぁ――ッ!!」

 

べりべりと、音を立てながら意識が本から引き剥がされる。血が乾いて張りついたような感覚に支配されながら、外側が剥がれることも構わず強引に引っ張る。

 

痛みがあるのは頭でも体でもない、魂だ。

魂が本に引っ張られ、そこから引き剥がすのに痛みを伴っているのだ。

 

「スバル!」

 

「――はっ!」

 

横合いから声が突き刺さり、同時に腕に鋭い一撃が打ち込まれる。踏み込み、エミリアが手刀でスバルの手首を叩いたのだ。

衝撃にスバルの手は弾み、そこから握りしめていた本が落ちる。本は開かれたまま逆さに床に落ち、スバルはよろよろと本棚に寄りかかった。

 

「お、おぉ?」

 

「だ、大丈夫?今、すごーく辛そうだったけど……」

 

「なんとか、持ってかれずに済んだ……か?いや、わからないけど」

 

不安げな目のまま支えてくれるエミリアに頷きかけ、スバルは息を整える。走ったわけでもないのに心臓は弾み、息は落ち着かずに荒れたままだ。

バクバクと心臓の鳴り続ける胸に手を当てて、スバルは深呼吸を繰り返す。その瞳はあちこちにさまよい、最終的にエミリアに留まって落ち着いた。

 

「平気?」

 

「エミリアたんの顔見てると落ち着く。もうちょい手ぇ貸してて」

 

「それはいいけど、何があったの?」

 

甘えたスバルの発言を素直に受け取り、エミリアは肩を支えたまま問いかける。彼女の言葉にベアトリスが動き、床に落ちた本に手を伸ばした。

 

「今、この本に触って変な顔になったかし……」

 

「待て、ベアトリス!触るな!」

 

「――?」

 

本を拾おうとするベアトリスを止めようとするが、それより先に少女は本を拾い上げ、抱えてしまう。中にまで目を通さなかったベアトリスは、そのスバルの剣幕に訝しげな顔のままタイトルを読み上げる。

 

「――テュフォン。スバルは知ってる名前なのかしら?」

 

「あ、ああ……お前こそ」

 

ベアトリスの質問に、スバルは「お前こそ知らないのか?」と聞き返そうとした。しかし、彼女の返答が肯定でも否定でも答えに詰まりそうで、スバルはどう言ったものかと眉を寄せる。

その間にベアトリスは本を開き、中を確認してしまう。

 

「馬鹿――!」

 

「馬鹿とは失礼なのよ。別に、他の本と変わらないかしら」

 

スバルが味わったものと同じ衝撃がベアトリスにも突き刺さる――かと思いきや、少女は本の内容に何も反応しない。他の本と同様の扱いで、彼女は不満げな顔つきのまま、その本をスバルに突き付ける。

 

「でも、スバルには他の本と同じには見えなかった……そういうことと見たのよ」

 

「……そうだ。けど、なんで俺だけ?」

 

「まさか、部屋の問題と同じでスバルにしかわからない?もしくはやっぱり、問題を解いたスバルだけしか効果がないとか……」

 

「だとしたら、ますます性格が悪ぃけど……」

 

考え込むエミリアの言葉に、スバルは嫌な予感を覚えながら首を振る。ともあれ、突き付けられた本だが、もう一度、目を通そうという気力は湧かない。

 

――脳裏を過るのは、いやに鮮明な感覚で体感した『女』の記憶だ。

 

臭いがあり、空気に味があり、足裏に大地の感触があり、砕いた命の重さがあった。

それだけ濃密に『誰か』の記憶を追体験して、引き返せたのが奇跡だ。

 

あるいはあのまま、他人の人生に呑み込まれる。

そんな埒外の恐怖と嫌悪感が、あの体験には確かに存在したのだから。

 

「スバル、このテュフォンって人とどこで?」

 

「説明がムズイ……いや、エミリアたんには難しくないのか?知らないってことは会ってないんだろうけど、墓所にいたんだよ」

 

「墓所――」

 

その響きに、エミリアとベアトリスが同時に動きを止める。

『墓所』はスバルだけではなく、エミリアにとってもベアトリスにとっても因縁のある場所だ。ただ、あの墓所で繰り広げられた『魔女の茶会』を思えば、二人がテュフォンを知っていてもおかしくないと思うのだが。

 

もっとも、エキドナが素直にエミリアを招いたのかはわからないし、ベアトリスにとってのエキドナはスバルの知るそれと異なる可能性が高いのだが。

 

「テュフォンは、過去にいた『魔女』の一人だ。『傲慢の魔女』で、見た目はベア子ぐらいの褐色ロリ。ただ、無邪気の残酷って言葉が具現化したみたいな子だった」

 

スバルの説明に、エミリアとベアトリスは心当たりがないと首を横に振った。

どうやらエキドナの魔女博覧会は、スバルにだけの特別な措置だったらしい。自分の目的に利用するためだったとはいえ、なかなか趣向を凝らしてくれたものだ。

 

「無邪気の残酷……か」

 

口に出してみて、スバルはわずかな時間だけ接したテュフォンを思い出す。

実際、精神世界でのこととはいえ、彼女に手足を砕かれたことは忘れ難い。直後に治ったとはいえ、四肢を失うことの衝撃は薄れるものではないのだ。

ただ、そうした彼女のどこか異常性の垣間見えた根幹に、どういった理由があったのかは今の『読書』によって表層を知れた気がする。無論、それが即座に理解に繋がるかといえば、それは全く別次元の問題だが。

 

「ともあれ、今、俺はその本を読んで、そのテュフォンって子の……記憶?人生?ルーツか?とにかくそんなところを追体験した。気持ちいいもんじゃなかったけど」

 

「それはスバルの反応を見てたらわかるけど……人の記憶を、追体験。それってなんだかますます、墓所の『試練』みたい」

 

「アレの場合、自分の記憶と真っ向勝負だったけどね。まぁ、楽勝だったけど」

 

「そ、そうね。楽勝だったけど」

 

鼻水ボロボロになるまで泣き喚いたことや、何度も何度も失敗して心が折れかけたことなどなかったことにして、スバルとエミリアは頷き合う。

そんな二人の態度に白けた目を向けつつ、ベアトリスは本の汚れを払った。

 

「他人の記憶を追体験する本……言い換えれば、過去を手繰る手段でもあるかしら。だとすると、知りたいことを知れる図書館って考えは……」

 

「ベア子、何か思いつい――」

 

ぶつぶつと、スバルの身に起こった出来事と内容に何事か考え込むベアトリス。だが、スバルがその横顔に問いを発する途中、またしても声が飛び込んだ。

 

「――っ」

 

声がしたのは、スバルたちとは別の書架を調べていたユリウスたちの方だ。聞こえた苦鳴のような音に目を向ければ、本を手に膝を突くユリウスの姿が見える。

傍らに寄り添うアナスタシアが驚き顔で騎士の肩を揺すり、本を奪った。

 

「ユリウス?ユリウス、しっかりしぃ!ウチの声、聞こえるやろ?」

 

「……アナスタシア、様」

 

「そう、それでええ。ゆっくり、深呼吸して。……ん、大丈夫やんな?」

 

先ほどのスバルと全く同じ素振りで、ユリウスの意識が現実に帰還する。疲弊した姿すらどこか絵になるユリウスに、アナスタシアは安堵の表情を覗かせた。

その二人の方へ駆け寄り、スバルは「無事か?」と声をかける。

 

「難しい本の読みすぎで知恵熱か?気持ちはわかるぜ」

 

「確かにこのところ、書物に目を通す生活からは遠ざかっていた。武に文にいずれも精通していなければならない騎士として恥ずべき姿勢だ。容易く謎かけを解いた君の見識の深さを見習わなければならないだろうね」

 

「よくもまぁ、すらすらと……」

 

味わったものがスバルと同じなら、魂が受けた負担は相当なもののはずだ。にも関わらず、直後に優雅に強がれる姿勢が憎たらしい。

そんなスバルの内心を余所に、エミリアが黒髪の後頭部に手刀を入れる。

 

「あた」

 

「条件反射みたいにイジワル言わないの。ユリウス、ホントに大丈夫?」

 

「ご心配をおかけして申し訳ありません。大袈裟に反応した我が身が恥ずかしいぐらいですよ。……とはいえ、心臓に悪い体験ではありました」

 

心労を隠して、エミリアに優雅に応じるユリウス。ただ、隠し切れない衝撃は彼の額に薄く浮いた汗が証明している。背伸びするアナスタシアが手にしたハンカチを額に当ててやると、ユリウスは恐縮といった様子で頭を下げた。

 

「強がるんは男の子の本能やからしゃぁないけど、辛いときは辛いって言うんよ?無理してアカンことになったら、周りに迷惑かけるんやから」

 

「はい。お気遣いありがとうございます」

 

「うんうん、アナスタシアさんの言う通りよね。ね、スバル」

 

「なんで俺に念押ししたのかわかんないけど、そうだね!」

 

両陣営の主従がそんな会話を終えて、主眼はアナスタシアの腕の中の本へ。

ユリウスが内容に目を通して、おそらくスバルと同じ体験をしたモノだ。背表紙に目を向けると、記されたタイトルは――。

 

「――バルロイ・テメグリフ。知ってる?」

 

「俺は聞き覚えないぜ。たぶん、間違いなく」

 

読み上げたエミリアに横目にされて、スバルは自信を持って頷き返す。

これでも、わりと記憶力には自信がある。この世界の知人関係であれば、アーラム村から王都の果物屋のオッサンまで完璧だ。

その記憶の名簿に、バルロイなる人物の名前はない。だが、その名前に首をひねり、思い当たる節がある顔をしたのはアナスタシアだった。

 

「その名前、ウチは覚えあるなぁ。確か……うん、そう。ヴォラキア帝国の将軍にそんな名前の人がおらんかった?」

 

「――正しくは、元将軍です」

 

うろ覚えの記憶を辿って答えを口にしたアナスタシアに、ユリウスが補足する。そのやり取りを聞いただけで、ユリウスに所縁のある人物と伝わった。

ただ、その肩書きの縁遠さにスバルは眉を寄せる。

 

「ヴォラキアって、南の国だよな?そこの将軍とお前が知り合いなの?」

 

「二度目の訂正だが、元将軍だよ。なにも意外な話ではないだろう?私はこれでも近衛騎士団の人間だ。ルグニカ王国とヴォラキア帝国は隣国でもあるし、一方的に名前を知っているのもおかしな話じゃない」

 

「なるほど、一方的に知ってる相手……ね」

 

ユリウスの説明を受け、スバルはふんふんと頷いた。それから小さく吐息し、さっと手を伸ばしてアナスタシアからその『バルロイ』の本を奪う。

 

「ナツキくん?」

 

「驚かせてごめん。でも、確かめたいことがあってさ」

 

本を奪われたアナスタシアが目を丸くし、スバルは回収した本の表紙をなぞる。それからパッと本を開いて、その内容に目を走らせた。

一瞬だけ、スバルはあの『追体験』がくるのではないかと覚悟する。だが、おそらくこないだろうという考えもあり、正しかったのは後者の方だ。

 

「俺も、一方的に知ってる名前になったから読んでみたけど、何もこない」

 

「……スバル」

 

「今、俺たちの間に大事なのは信頼関係だろ?俺とお前の間にそれがあるかどうかってのは……ないわけじゃないって、思ってたのは俺だけか?」

 

「――それは卑怯な物言いだ」

 

自分を睨みつけるスバルに、ユリウスは目を伏せてそう答える。

彼は自分の前髪に触れながら、

 

「この場にいる君たち以上に、私が信を置くべき相手は今はいない。ラインハルトにすら抱けない精神的な支えを、アナスタシア様や君に貰っているとも」

 

「……その言われ方、なんか気持ち悪いな」

 

「私も言っていて舌が痒くなったよ」

 

鼻の頭をスバルが掻くと、前髪を摘まんだままユリウスが瞑目する。それから彼は嘆息し、すぐにアナスタシアやエミリアに向かって一礼した。

 

「非礼をお詫びします、アナスタシア様。エミリア様。今、私は些末な私情を答えに交えました。本の内容を共有すべき場で、許され難いことです」

 

「それを許すかどうかは、ウチやエミリアさんの器量やね。どう思う?」

 

「私の言いたいこと、スバルとアナスタシアさんに言われちゃったかな。だから、それがどうしたって今は思ってます。まる」

 

エミリアとアナスタシアが早々に謝罪を受け入れると、ユリウスはさらに一度、深く腰を折った。その彼の内心がスバルには手に取るようにわかる。

悪いことをしたと、気合いを入れて謝った人間は許されることに弱いのだ。スバルもよくよく味わう感覚だけに、わりと他人事ではない。

 

「バルロイ・テメグリフ。ヴォラキア帝国の元将軍ですが……すでに亡くなった人物です。そして、彼の命を奪ったのは他でもない、私でした」

 

「他国の将軍を死なせた。なかなか、驚きやね」

 

「アナスタシア様は……いえ、今はお忘れでしたね」

 

「――――」

 

観念して話し出したユリウスの述懐に、アナスタシアは目を細める。

ユリウスの今の態度からして、おそらく記憶から消える前のユリウスと、襟ドナに乗っ取られる前のアナスタシアの間では共有された情報だったのだろう。

もっとも、条件的に初耳に戻ったはずのアナスタシアは大して驚いていないが、スバルとエミリアの驚きはかなりのものだ。

 

「えっと、私の勉強した本が正しかったら、ルグニカとヴォラキアってすごーく仲が悪いって聞いてたんだけど……」

 

「そんな帝国の将軍とか死なせて、戦争とかにならないもんなのか?」

 

素直で素朴な二人の疑問に、ユリウスは少しだけ安堵の表情で頷いた。

 

「複雑な事情が入り組んだ結果でね。ラインハルトやフェリスとも無縁の話ではないんだが、端的に言えば元将軍は帝国でクーデターを企んだ。私が彼と相見える結果になったのは、ちょうどその折に帝国に滞在していたからだよ」

 

「あの二人も、か。ラインハルトって輸出禁止じゃなかった?」

 

「特例で許可が出た。帝国の皇帝が彼に会いたがった、という事情だ。……いくら君でも、ラインハルトに輸出という言葉はそぐわないと思うが?」

 

「とっさに言葉が出なかったんだよ。なんて言えばよかった。密輸?」

 

運び込んじゃいけないもの、という意味では間違った表現ではあるまい。実際、プリステラで改めてラインハルトの規格外さを実感した身としては、他国の主戦力にラインハルトがいることの悪夢は想像に難くない。

国境付近にくるな、と国際条約に盛り込まれるのも納得である。

 

「とにかく、その元将軍の名前がバルロイ・テメグリフだ。すまない。原則、事情を明かすことは禁じられていたのと、私自身にとっても苦い記憶でね」

 

「大っぴらに言えない事情なわけか。わかった。お口にチャックしておく」

 

「ん、わかったわ。私もお口にちゃっく?しておく」

 

ユリウス側の事情が判明して、スバルとエミリアは秘密の共有に合意する。

そうして、ユリウスの『追体験』した本の人物が明らかになったことで――、

 

「わかった気がするのよ。つまりここにある本は、読んだ人間が『見知った相手』の過去を追体験する本かしら」

 

「俺が『魔女』で、ユリウスが元将軍か。それが妥当、っぽいな」

 

「なんや、聞き逃せない単語が聞こえた気がするんやけど、ナツキくん、魔女とも知り合いなん?いややわぁ、その交友関係。完全に魔女教やん」

 

「俺も自分で超怖いけど、あそこまでキャラ濃くないから安心して。無個性なのが最近の悩みなんだ」

 

アナスタシアの言葉にスバルが肩をすくめる。と、エミリアやベアトリス、挙句の果てにユリウスまで酸っぱいものを食べたような顔をする。

その心外な反応にスバルが顔をしかめていると、アナスタシアが嘆息して、

 

「おおよそ、書庫の本の意味はわかった。わかったけど、ウチの怖い話してええ?」

 

「あんまり聞きたくねぇけど、なに?」

 

「この書庫にある本、全部に人名が書いてあるわけやろ?」

 

わかりきったことを言って、アナスタシアがスバルに同意を求める。その設問に答えたあとの、次なる言葉が怖いと思いながらスバルは頷いた。

そして、アナスタシアは『バルロイ』の本と、ベアトリスが持つ『テュフォン』の本を指差して、

 

「帝国将軍さんと、ナツキくんのお友達の『魔女』の本」

 

「友達ではねぇけど」

 

「オトモダチの『魔女』の本まであるってことは、故人の本があるわけや」

 

「――――」

 

テュフォンの状態を故人、と呼ぶことには違和感が残るが、墓所から茶会の空間が消失した今、彼女らは完全に死亡したと考えるべきなのだろう。

エキドナに関しては、襟ドナ含めて怪しい点が多すぎて安心できないが。

 

そんなスバルの内心のささくれは別として、アナスタシアはその場で両手を広げると、ぐるりと回りながら書庫の全域を示して、言った。

 

「ここにある本、過去から今に至るまでの世界中の人間の名前があるんとちゃう?そうやとしたら……目的の誰かの本を探そなったら、どれだけかかるんやろね?」

 

――訂正。この書庫の創造主、性格が悪いわけではない。

――性格、最悪なのだ。