『混戦都市』


 

「――そいつの、心臓が動いてるか確かめてくれ!」

 

直観、スバルを突き動かした衝動はそれを起因とするものだった。

確信も根拠もない。ただあえて、無意味ではないと考えただけのことだ。

 

大罪司教、星の名前、元の世界の影響が残るカララギ、スバル以外の異世界人。

この世界に彼らが爪痕を残し、その痕跡が魔女教にも刻まれているとしたら、スバルの感じた星の名前と逸話への関連性も、投げ捨てるべき意見ではない。

 

レグルス・コルニアスの権能が単なる『無敵』で片付けられないのであれば、その殻を破るべき発想はスバルの中にしかない。

故に、無関係であってくれるなとスバルは願うように声を張り上げた。

直後のことだ。

 

「――っ」

 

濃密な圧迫感が押し寄せ、スバルは自分が天地を見失った錯覚を味わう。

空気がはっきり分かるほど、濁った。それは言葉にし難い不快感、嫌悪感の類だ。

カサブタを無神経に剥がされるような嫌悪に、生臭い吐息を吐きかけられたような不愉快さに、粘着質の舌で執拗に素肌を舐られたようなおぞましさ。

 

その濁りきった気配の発信源は、こちらを振り返った白髪の凶人だ。

彼と目が合った瞬間、スバルの体が知らず震える。

 

無表情に空っぽの眼が、まるで呪いのようにスバルの心に突き刺さる。錆びた針で掻き毟られるような感覚に、肺や心臓までもが恐怖に凍りついた気がした。

だが、スバルがそんな感慨に硬直する間にも、

 

「余所見とはいただけない。君の相手は僕のはずだ!」

 

スバルを振り向くという行為は、相対する剣聖に背を向ける行いに他ならない。

両腕を振り上げるラインハルトの手が握るのは、そこいらに落ちていたとしか思えない欠けた看板と鉄の廃材だ。生涯をただの不燃物として終えるだけだったそれらの廃材を、ラインハルトの両腕はどんな宝剣にも劣らない業物へと昇華させる。

 

宙を走る刃が斜めに、レグルスのタキシードの背中側から直撃した。

炸裂する衝撃波が空間に広がり、遅れて斬られたことに気付いた大気の悲鳴と、薄く薄氷の張っていた大水路の水が渦巻いて飛沫を上げる。

剣撃の余波でそれだ。凶人が粉々になっていたとて、何ら不思議はない。

しかし、それはなおも一歩及ばない。

 

「勘違いするなよ、剣聖。僕がお前と遊んでやっていたのは、僕の心の広さと余裕がそうさせていたからだ。でも、優しい僕にだって限度はあるんだからさぁ」

 

「――っ」

 

剣撃を受けた背中を軽く払い、レグルスは首を傾げる。

その仕草にラインハルトが警戒を発し、両腕の中で砕け散る破片を捨てながら大きく後ろへ跳躍――しようとして、足が止まった。

 

ラインハルトの超感覚。

自身に迫る脅威や、あらゆる攻撃を事前に察する凄まじい直観力。その鋭敏な感覚が後方への回避を許さない。即座に別の候補を探ろうとして、屈む膝が止まった。

 

「そこら一帯の空気はもう、僕が触ったあとだよ」

 

鋭すぎる感覚が硬直を生み、この瞬間のラインハルトは無防備であった。

後方を大きく、自分を囲うように存在する見えない罠。ラインハルトの判断は前進して凶人の横を抜けることだが、そのためには牽制の一撃が必要だ。

 

「しっ!」

 

放たれた一撃は本来、岩すらも貫通するほどの鋭さが込められたものだった。

龍剣の柄がレグルスの胸に突き刺さるが、当の凶人は涼しい顔でそれを受け止め、

 

「無駄な努力、ご苦労様。せいぜい、傷が少なくなるように祈るんだね」

 

「どうやらスバルの言う通り……君の心臓は、ここで活動していないらしい」

 

「――ッ!」

 

レグルスの余裕の笑みが凍りつき、自分の胸を見下ろす。

そこにはなおも剣の柄があり、ラインハルトはそこからささやかな生命の鼓動を聞き逃すまいと神経を張り巡らせていた。

一杯喰わされたと、激昂するレグルスの足が跳ね上がる。

 

直撃、それは先ほどの光景の焼き直しのようだった。

迫る爪先に龍剣の鞘を合わせ、ラインハルトの体は衝撃を散らすこともできずに背後へと吹き飛ばされる。ただし、ここからあとの展開が違う。

 

「ラインハルト!!」

 

宣言通り、ラインハルトの背後にはレグルスの張った吐息の罠が無数にあった。

そこに無防備な状態で飛び込めばどうなるか、それは結果が明らかにしている。

 

ラインハルトの白い装いが血に染まり、全身を引き裂かれながら長身が飛ぶ。どれほど負傷を軽減できたのか、またしても廃墟の群れに突っ込み、その体で都市の崩壊を拡大するラインハルトを目で追うことができない。

ただわかることは、ラインハルトはスバルの求めに答えたということだ。

 

「よくやってくれたぜ、ラインハルト……!」

 

「スバル!」

 

「大丈夫だ。ラインハルトは、たぶん大丈夫だ!心配は後回しでいい!」

 

「それはわかってるわ!私、何をしたらいい?」

 

てっきりラインハルトの身を案じたと思っていたので、エミリアの返答にスバルは面食らう。しかし、スバルを見つめるエミリアの視線は真剣で、自分がこの場でどういう立場にあるべきかをしっかりと理解している。

それはラインハルトの強さへの信頼と、ひょっとしたらスバルへの信頼で。

 

「ラインハルトも、スバルを信じてるからあんな無茶なことも引き受けたのよ。レグルスのことが何かわかったんでしょう?教えて」

 

信頼が重い。期待が重い。信じられている事実が重くて、だからやる気になる。

ラインハルトにも感謝だ。あとで骨は必ず拾ってやる。

 

「ごちゃごちゃと二人で、少しはわかりやすく絶望ってものをしてみたらいいんじゃないのかなぁ。君たちは非道と卑劣な行いで僕を怒らせて、罰を受けなきゃいけない立場じゃないか。そうでしょ?そうなるでしょ?不貞と不届きで、どっちも万死に値する大逆だよ」

 

ラインハルトを蹴り飛ばし、邪魔者のいなくなったレグルスがせせら笑う。

水路を挟んで向かい合う凶人の鬼気は膨れ上がる一方で、本音を言えばこのまま顔を突き合わせていることだって遠慮したい。

ただ、ここで逃げているようではお話にならない。

ナツキ・スバルがエミリアと、ラインハルト・ヴァン・アストレアに報いれない。

 

「今世紀始まって以来の清純派ヒロインに、不貞の疑いをかけるとはそれこそお前がふてえ野郎ってな話だ、バーカ」

 

「あぁ?」

 

「勝手にこっちのビビり要素を並べてくれてるとこ悪いが、お前の方こそ少しは空っぽの頭働かせろよ」

 

唐突に強気な発言をするスバルに、レグルスが目を剥く。

スバルはこれ見よがしに自分の頭を指で叩くと、

 

「お前がこれまで、どんだけうまいこと人生の波乗りこなしてきたのかは知らねぇし知りたくもねぇが……気付いてるか?お前は今、確実に詰められてんだぜ」

 

「詰める?意味がわからなすぎて笑いも出てこないんだけど、君はいったい何が言いたいのかな。いや、別に何がどうとかって理解できる言語が出てこない可能性もあるから、何もないならないで言わないでもいいよ」

 

「まぁ、そう言わずに聞けよ。お前には聞く権利がある。お前の大好きな、権利だ」

 

「僕の権利……?」

 

眉を寄せるレグルスに、スバルは軽薄と嘲弄を等分に混ぜ合わせた笑みを作る。それから「ああ、なんせ」と言葉を継ぎ、

 

「自分がどうやって負けるのか、知らないで負けるのは悔いが残るだろうからな」

 

「――お前はもう、消えろ!!」

 

肩をすくめる仕草が引き金になって、レグルスの体が水路の縁から飛び立つ。跳躍力は足りないまま、彼の体は水面へ着水。しかし、水没した彼の体は水の中でも何ら行動力に影響なく、そのまま水の抵抗も何もかもを無視して飛び上がる。

間近で、水中に没した行動を確認し、スバルはエミリアの肩を叩いた。

 

「エミリア、今だ!」

 

「ウル・ヒューマ!」

 

スバルの指示に応じて、エミリアが練っていた魔力を氷柱に変えて放出。

見上げるほど巨大な氷の槍がレグルス目掛けて降り注ぎ、水面から上がった彼の周囲に突き刺さって氷の檻が形成される。

 

「何をするかと思えば、いくらやっても無駄なんだってことがいつまで経っても学習できないみたいだねえ!なんなの、開き直ってるの?その程度の知恵もないことに胡坐かいて、常に同じ徒労を他人に与えようって上から目線なのか?図に乗るなよ、不完全!」

 

レグルスが歯を剥きながら、氷の檻を薙ぎ払い、踏み砕き、圧倒的な力で粉々に粉砕する。砂の壁を崩すように容易く、エミリア渾身の氷牢はマナに還る。

だがいい。あれで構わない。

 

「ダメ、やっぱり時間稼ぎにもならない」

 

「違うよ、エミリアたん」

 

自分の力が通用しないことに顔を曇らせるエミリアに、スバルは首を横に振る。

見方の違いだ。スバルの目的は、あれで十分に達成される。

 

「あいつの陰険な性格上、他人を踏みつけにして見下さなきゃ気が済まない。壊す必要のない障害も、踏み越えなきゃ勝った気がしないんだよ」

 

完結を謳い、満たされていると豪語するレグルス。

その心の荒れようと、器の小ささと、肥大した虚栄心は見ての通りだ。

 

「本来、あいつは障害を突破するのに何かをする必要なんてない。ないのに、ワンアクション余計な行動を起こす。一秒でもコンマでも、それは成果だよ」

 

「その一秒で、レグルスに勝てる?」

 

「積んでいけば必ず、俺が君を勝たせてみせる。化けの皮、剥いでやるよ」

 

そのための布石はラインハルトが打ってくれた。

レグルスの鼓動を確かめ、その響きがないことをスバルに知らせてくれた。

熱も通わず、心臓の鼓動もなく、呼吸もしておらず、周囲から影響を受けない。

 

それは『無敵』に間違いないが、その本質は『無敵』ではない。

 

「エミリア!こっちだ!」

 

エミリアを腕を引いて、スバルは彼女と共に穴だらけの街路を駆け抜ける。エミリアはスバルに速度を合わせながら、背後を振り返りながら氷柱でレグルスを狙う。

レグルスは逃げる二人を見て、ますます怒り心頭の顔つきで猛然と追ってくる。

 

「あれだけ大口叩いてさぁ!逃げるってどういうことなんだよ!人を馬鹿呼ばわりしておいて、人を追い詰めたなんて言っておいて、どこまでもコケにしてくれるじゃないか、何様のつもりだ!卑怯者め!」

 

身体能力がそれほどでもないため、こちらを追うレグルスの速度はスバルの走る速度とさほど変わらない。むしろ、スバルよりも遅いぐらいだ。

ただ、スタミナの切れない権能に恵まれている以上、全力疾走を続ける凶人にはいずれ追いつかれる。

 

「スバル!どこに向かうの!」

 

「場所は教会!目的は、レグルスの嫁だ!その中に……」

 

エミリアの呼びかけに、声を裏返らせながらスバルが答える。

ちらりと、言いながら途中で後ろを気にして、

 

「――余計なこと勘付くなよ、お前」

 

「おおわぁ!?」

 

先ほどまでの距離はどこへ消えたのか、振り向いた眼前にレグルスが現れた。

一足跳びに距離を詰めたレグルスが、その掌を叩きつけてくるのをかろうじて頭を下げてかわす。髪の後ろ足が持っていかれた気がして、スバルはエミリアを一気に抱き寄せると横の壁に接近、踏み切って一気に壁を這い上がる。

 

「わ、わ、わ、スバルすごい」

 

「エミリアたんはギュッとしがみついてて!」

 

スバルの軽業にエミリアが目を丸くし、そのまま首に腕が、腰に足が回る。柔らかくていい匂いがする。やる気が出た。とっかかりを踏みつけ、さらに壁を越える。

修練したパルクールの成果が出ている。このまま、距離を取って――、

 

「だからさぁ、そういう凡人の空白を埋めようって努力は無駄なんだよ」

 

言いながら、レグルスがスバルの這い上がる壁の下部を掌で撫ぜる。

石臼を挽くような重々しい音がして、石壁が豆腐か何かのように容易く抉れた。石壁は支えを失って倒れる。無論、壁を掴んでいたスバルたちも同じだ。

 

「うっだらぁ!」

 

転落の途中で鞭を引き抜き、目当てもなしに適当に上へと放り投げる。先端が何かに引っ掛かり、スバルは力任せにそれを頼りに体を引き上げた。

足を振り、壁に靴裏が触れた瞬間に強く蹴る。反動を得た鞭の遠心力で体をさらに大きくよじり、エミリアを抱いたままスバルは驚異的な登攀を達成した。

 

見れば、二人が辿り着いたのは半分ほど敷地を失った倉庫だ。

屋根から突き出した見張り台でへたり込み、スバルは自分の掌を見る。

 

「うおお、まさかの火事馬鹿力が出た……!」

 

「スバル!とにかく、教会に行けばいいのね!?方向は!?」

 

ずるりと皮の剥けた掌を痛ましく眺めて、スバルはエミリアの声に周りを見る。幸い、見張り台の高さとレグルスの功績で周囲の見晴しは最高だ。

遠く、ラインハルトの初撃で崩壊した教会らしき残骸が見えた。いつの間にかずいぶんと遠くまできてしまっていて、

 

「マズイ!逃げたのが逆方向だった!どうしよう!」

 

「あっちでいいのね?」

 

「あっちでいいけど、それでどう……」

 

「こうするの!」

 

スバルの返事にエミリアが手を叩き、直後に見張り台に氷の橋が掛けられる。

神秘的な青白い輝きをまとう橋は見張り台を起点に、教会に続く街路までを大きくショートカットする形で宙に形作られた。

 

「なんだと!?」

 

その氷の橋を見上げて、てっきり二人が落ちてくるものと構えていたレグルスも度肝を抜かれる。強引な力技で解決しようとするエミリアの判断に、スバルは手を打ちながら立ち上がり、氷の橋に続く階段に足をかけた。

だが、その二人の逃避行を真下から凶人が邪魔をする。

 

「行かせるわけ、ないだろ!!」

 

氷の橋の下に回り込み、レグルスが拾った石を氷橋に投げつける。急造の橋はただその一撃だけで大打撃を受け、即座にひび割れが橋全体に走った。

崩壊のひどい箇所から砕け散り、橋は無残に光の結晶に変わる。それを見届けて、レグルスが残忍に笑った。

だが、

 

「本命はこっちだから、橋は壊されてもいいの!」

 

「な――!?」

 

砕け散る氷の輝きが乱舞する上を、エミリアの撃ち出した氷柱に乗ったスバルたちが滑空する。

橋の斜度を発射台に、スキージャンプのような要領で飛ぶ二人は一気に水路を、街路を、飛び越えてレグルスを置き去りに教会へ向かう。

 

「エミリアたん、小賢しくなったね!」

 

「スバルのがうつっちゃったのかもしれないわね」

 

「その言い方、褒めるときの言い方じゃないよね!」

 

遠距離攻撃の手段はあれど、レグルスのそれはあくまで彼の肩の届く範囲だ。

怒りに染まる形相を遠巻きに、ぐんぐん近付く教会を睨み、スバルは目を細める。

 

「教会の、あの女の人たちと会ってどうするの?」

 

「脅されてるか、心酔してるのかわからないけど……」

 

エミリアの質問に対し、顎に手を当てるスバルは言葉を区切る。

脳裏に浮かぶのは、教会でレグルスの行為に震え上がる女性たちだ。あのときに見せた恐怖の形相が、演技ではないものであればいいと心から願う。

もしも、そうでなかったとしたら――。

 

「心ならぬ、心の臓を奪うってことになんな。――文字通りの意味で」

 

ぐんぐんと風を浴びながら、氷柱の高度が下がり、教会が迫る。

背後にはレグルス。ラインハルトの安否は不明。勝機はかすかに見えて、しかしなおも窮地は続いていて――。

 

他のみんなはうまくやっているのか。

そんなことを考える余裕はないのに、そう思わずにはいられなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『暴食』担当制御搭前広場、ユリウス・リカード組とアルファルドの戦闘。

 

「――エル・クラウゼル」

 

六色の準精霊の力を借りて、突きつけた騎士剣の先端から虹色の輝きが放たれる。

先制攻撃の形で繰り出されたのは、手加減抜きの必殺を期した一撃だ。

 

『クラウゼル』は、ペテルギウスの本体にすらダメージを与えた『クラリスタ』と同系の魔技であり、破壊の極光を剣に纏わせる『クラリスタ』と異なり、剣先から破壊の極光を放出する遠距離攻撃の技法だ。

 

ユリウスの脳内にある大罪司教の印象は、やはりペテルギウスのものが強い。

『怠惰』の大罪司教たる狂人に対してユリウスが抱く感情は、長年にわたって世界を苦しめてきた大罪人であると同時に、まったく違う思考形態の存在――すなわち、得体の知れない外敵としての戦意が大きい。

 

『最優の騎士』と謳われるユリウス・ユークリウスは、その振る舞いと言動から誤解されがちではあるが、いわゆる人間の性善説を信じている青さがある。

どんな人間の行いにも訳があると考えるし、悪行の原因にも当事者以外に環境の影響を考えるなど、人道的な見地からも甘すぎるところがあった。

そのユリウスをして、ペテルギウス・ロマネコンティという大罪司教や、自意識なき人形のような魔女教徒は手に余る。

 

理解できない、その努力すら放棄するのもやむなしとされる敵。

ユリウスにとって魔女教は、彼の『騎士らしさ』すら揺るがす最悪の害意だ。

 

故の切り札、故の奥の手。

最初の一手から、ユリウスは鬼札を切ることを躊躇わなかった。

 

六体の準精霊の力を借りて、六色の魔力を同時に操る超技術。

わずかな魔力量の差異も許されない。精霊術師としての準精霊との絆と、ユリウスという天才の才気と努力があって初めて成立する。

これとまったく同じことは、魔導の頂点であるロズワール・L・メイザースとて容易くは行えまい。ユリウスが編み出した、ユリウスだけのオリジナル。

 

初見ではこの魔法の恐ろしさはわからず、そしてわからないまま消滅する。

ユリウスは自分の胸に確かに残るしこり――その原因を確かめることよりも、違和感の根本を根こそぎ吹き飛ばすことを優先した。

 

破壊の極光が石畳をめくれ上がらせ、だらりと両腕を下げる小さな影を塗り潰す。

焦げ茶の長髪が、薄汚いボロが、鈍い短剣の輝きが虹に呑み込まれ――、

 

「兄様は意外とこれで、嫌なことから目を背ける弱いところがありますよね?」

 

「――なんや!?」

 

こちらにも聞こえる声でそう呟いて、アルファルドの体が地面に倒れ込む。ほとんど床に腹這いになるほど低い姿勢で、長い舌を出した冒涜者が地を蹴った。

放たれた極光の速度は、光には届くまいが決して遅くなどない。矢に迫る速度の不意打ちを回避するのには、ラインハルトに匹敵する身体能力かあるいは――。

 

「僕たちの憧れだったんですよ、兄様は。努力を人に見せることを嫌う兄様が必死になって編み出した魔技、俺たちが知らないわけないじゃないかッ」

 

「何を言っている!」

 

「わからないなんて、ユリウス兄様は本当に薄情だ。でも、僕たちはそんなところが大好きッ!ぎゃははははッ!」

 

切り札が放たれるのがわかっていたような動きで、地面を跳ね回るアルファルドが魔法を回避する。魔力に続いて、逃れるアルファルドを叩こうと走り出していたリカード、その追撃すらも見越した動きだ。

 

短剣が翻り、リカードの振り下ろす鉈と真正面から火花を散らす。膂力ではリカードの方が圧倒的に勝る。その力の差をアルファルドは、想像を絶するほどの巧みな剣捌きで受け流した。鉈が冒涜者の横を流れ落ち、石畳が砕かれる。

同時に、アルファルドの斬撃がリカードの毛むくじゃらの胴を薙いだ。

 

「ほぉら、犬肉に一刺しッ!固くて筋張ったお肉は、グサグサ突き刺して柔らかくして食べやすくして噛み千切りやすくしてお腹に優しくしてクソにしやすくして肥料にしやすくして肥やしにしやすくしてお野菜になってお肉に食われて循環循環循環循環食物連鎖ッ!あァ、素晴らッしいッ!!」

 

「ぬっ、がっ、ぐぉ!?」

 

早口に戯言を並べ立てながら、両腕に括り付けた短剣を振るうアルファルドの速度は尋常ではない。成長期も終えていない背丈に、さして鍛えてもいない肉体、それら見た目をはるかに裏切る運動能力が、防御に回るリカードの肉体を切り裂いていく。

 

「リカード!!」

 

針金のような毛皮と分厚い筋肉。人体に比べれば鎧を一枚まとったようなリカードの肉体が、アルファルドの攻撃の前には為す術もなく傷を負う。

目を見開くユリウスは、血を流すリカードの傷を見て唖然とした。

 

高速で攻撃するアルファルドの攻撃、その一つ一つが的確に毛皮の薄い箇所と、関節部分を狙い撃ちにしている。いかにリカードといえど、急所を突かれれば傷付きもする、血を流しもする、命を損ねもするのだ。

 

「――っ」

 

初撃が外れたのを見て取った瞬間、ユリウスは砲撃を中断して準精霊を呼び戻す。二色の準精霊――『火』のイアと『風』のアロに命じるのは、炎と風を剣に纏わせる炎熱の斬撃だ。赤々とした火炎を伴う斬撃が、側面からアルファルドへ向かう。

 

「はい、そのパターンも俺たち知ってましたッ!」

 

「な!?」

 

「その驚き方、芸がないッ!腹ごしらえにもならないッ!」

 

しかし、アルファルドはこれもまたあっさりと、背中に目があるかと思うほど正確に片腕で受け止めていなし、空いた胴へ蹴りを叩き込んできた。

腹筋が踵に貫かれ、苦鳴を上げるユリウスがくの字に折れる。正面では反撃に出たリカードの攻撃がいなされ、その下顎を跳ね上がる爪先が打ち上げていた。

 

「いいねえいいねえ、楽しくなってきたッ!あの兄様と!あのリカードさんと!二人を相手にして僕たちが大健闘!体の弱い俺たちには絶対にできない、届かない、見ることができない、知ることのできない、そんな場所だって諦めきっていたはずだったのにッ!あァ!こんな楽しいこと、ズルいズルいズルいなァッ!」

 

同時に膝を着いたユリウスとリカード。その二人をおちょくるように、追撃の手をゆるめるアルファルドが石畳の上で宙返りを繰り返す。

石畳の上を晴れやかな顔で跳ね回る姿は、見た目相応の子どものようだ。

 

その信じられない技量と、無邪気な残虐性さえ考慮しなければ。

 

「話が、通じんのはわかりきってたことや。せやけど、なんやあいつ気色悪い。言い方話し方、全部まとめて薄気味悪い!」

 

浅からぬ傷を全身に負い、息を荒らげるリカードが腕の傷を舐めながらぼやく。呼吸を正しながら立ち上がるユリウスも、そのリカードの怒りに同感だ。

 

「都市庁舎のときと同じ……いや、あのとき以上に意味のわからない言動だ。こちらを翻弄しようとしているのかもしれないが、逆効果なだけだ」

 

「とは言いつつも、気になっちゃうのが人情派のリカードさんと、実は人情派なのを隠してる兄様でしょ?俺たちちゃァんとわかってるってッ!」

 

「貴様……」

 

手を叩いてアルファルドがけらけらと笑い、ユリウスは『水』の準精霊クアをリカードの下へ遣わし、傷の簡単な治療を行いながら前へ踏み込む。

 

「あ!こら、ユリウス!抜け駆けすんなや!」

 

「君はそこで少し、血が止まるまで大人しくしていたまえ!」

 

騎士剣を正面に構えて、ユリウスはアルファルドへ吶喊。しかし、その踏み込む速度が先ほどのそれとは明らかに異なる。

鋭い踏み込みと斬撃に、初太刀を受けたアルファルドが軽く眉を上げた。

 

「これって……」

 

「『陽』の準精霊、インの力だ。そして同時に」

 

「う?」

 

応じる声に、アルファルドの戸惑いが重なった。

頬の強張る冒涜者を鍔迫り合いで押し切り、ユリウスの長い足が跳ね上がり、アルファルドの側頭部に叩きつけられる。今度の防御は間に合わない。上がるのが遅れた腕が垂れ下がり、目を回すアルファルドが転がるようにして必死に逃れる。

 

「うわっきゃ!今のって、ええ?」

 

「私には『陽』の準精霊。剣を合わせたそちらには『陰』の準精霊。相互に身体能力の向上と低下をもたらす連携だ。これは、初見だろう?」

 

「……うひひ、さっすがァ!ユリウス様素敵!僕たちも俺たちも知らない魅力が、まだまだ満載でいらっしゃるのねッ!」

 

「――!?」

 

頬を赤く染めて、アルファルドが陶然とした眼差しでユリウスを見つめる。

その熱のこもった視線にユリウスが顔をしかめた瞬間、アルファルドが腕に括り付けた短剣を外して捨てた。甲高い音が、石畳に叩きつけられた反響する。

直後、踵が石畳を砕いた。

 

「剣じゃ驚かせられないみたいだから、今度は拳打で魅せちゃうつもりッ」

 

「ぐ――ッ!」

 

瞬きの合間に距離を詰めたアルファルドが、腰を捻りながら掌底を放つ。とっさにユリウスは空いた左腕でそれを受けたが、衝撃は腕と胸を貫いた。

地面の踏み込みと腰の捻りが、放たれる掌打に常識外の破壊力を上乗せし、ユリウスの細身が冗談抜きにひしゃげて跳ねた。

 

もしもスバルがその光景を目撃していれば、彼は車の事故現場を思ったはずだ。

それもノンブレーキの暴走車が、無防備な人間を撥ね飛ばす暴力的な光景を。

 

「色男ばっかり、八十八人も殴り殺した僕たちの拳打……兄様の骨の髄にずしんと響いてくれたかしらん?」

 

狂気的な微笑を浮かべるアルファルドに、ユリウスは応じる余裕がない。

胸骨が軋み、内臓が押し潰され、血塊を吐き出して長身が吹き飛ぶ。それをとっさに受け止めたのは、治療されていたリカードだ。

 

「ユリウス、あかんぞ!!」

 

無防備に頭から壁に激突しかけるユリウスを、リカードが抱え込んで守り切る。衝撃に犬人の巨躯までも呑み込まれ、二人は石材を砕いて建物中に叩き込まれた。

もうもうと噴煙の立ち込める中、頭を振るリカードがユリウスに駆け寄る。血を吐きこぼす頭を横へ向け、喉が塞がらないように血を吐き切らせた。

 

「精霊!聞こえてるかわからんが、お前のご主人様のピンチや!気張れ!ワイのことなんざ後回しでええ!」

 

リカードの決死の呼びかけが通じたのか、青い光はユリウスの体へその力を注ぎ込む。苦しげに咳き込むユリウスから死相が消えて、リカードは安堵も束の間、大鉈を担いで大慌てで外に飛び出した。

 

「おーかえんなさい!ご飯にする?ご馳走にする?それとも、ば・ん・さ・ん?」

 

「舐め腐りおって、クソガキが……大人を馬鹿にするとどうなるか、うちのチビ共とおんなじで尻叩いて泣かせて教えたるわ」

 

「やーだやだ、やめにしましょ。僕たち、犬面にまで欲情する趣味とかないし。剣も拳も遊び足りないなら……こういうのはいかがです?」

 

薄笑いを浮かべたアルファルドが両手を広げると、途端にリカードの体毛が逆立った。何事かと目を剥けば、リカードは忌々しさに歯を噛み鳴らす。

 

――アルファルドの背にする水路、その水流が渦を巻いて持ち上がり、まるで水竜の首のようにリカードを見下ろしている。

 

「剣技に、武道に、今度は魔法か。おんどれ、なんやねん」

 

「俺たちはしがない無名の魔法使い、家族にも誇れない日陰者です。なんてねッ!」

 

アルファルドが舌を出した直後、水流の頭がリカードに向かって降り注ぐ。

たかが水とはいえ、その勢いと質量は生き物の肉体ぐらいは容易く押し潰してしまう。背後にはユリウスがおり、回避の選択肢はない。

 

「やったるわ。わ、は――ッ!!」

 

大鉈を地面に叩きつけて体を固定し、大口を開けたリカードが咆哮波を放つ。

『鉄の牙』副団長の三姉弟、三人の内の二人が協力して起こす咆哮波のオリジナルだ。もともと、リカードの編み出したそれを真似たのがミミたちの咆哮波であり、元祖は自分にあるというのがリカードの主張だ。

 

ただし、砲口を分散して負担を減らしたミミたちのものと比べて、一人で行う咆哮波は肉体への負担が大きい。

大鉈にしがみつく体が軋むのを感じながら、リカードは喉から破壊の鳴動を炸裂させて流れ落ちる水の濁流を迎え撃った。

 

「わーお、すごいッ」

 

感嘆の響きも聞こえないまま、リカードの咆哮波が濁流と激突する。

水の飛沫を正面から波動が打ち据えて、数トンの重みが霧状に散りながら蒸発させられていった。数秒後、押し切られた濁流が雨のように広場を叩き、水浸しの石畳の上で、リカードが大鉈に体重を預けて崩れ落ちる。

 

「ひさ、びさのにきっつい……口の端、切れとるやんか」

 

ブランクと長時間、両方の負担が咆哮波を放ったリカード自身にもダメージを残す。肩で息をするリカードは、しかし根性を振り絞って立ち上がった。

アルファルドは健在のまま、疲れも見せずにその場で踊っている。

 

「すごいすごいッ!しのがれたのは久しぶりだよ。僕たち俺たちの記憶にはとんとないぐらい久しぶりだ。いいね、いいさ、いいよ、いいとも、いいかも、いいじゃない、いいだろう、いいじゃないか、いいだろうとも、いいだろうからこそッ!」

 

「――御託はそこまでだ」

 

「おっと、兄様のお戻りだ。こわーい、かわいーい、ねたましーい」

 

首を振るアルファルドの正面、リカードの隣にユリウスが並び立った。

顔は蒼ざめ、騎士の装いは血に塗れている。吐息にもかすかな震えがあり、万全の状態とは到底言いようがない。言いようがないが、それでも、

 

「世話をかけたね、リカード」

 

「かけられたわ。あとでお嬢にワイがどんだけ頑張ったか、ちゃんと報告して臨時ボーナスもらわなわりに合わんぞ」

 

「その点、私の方からもしっかりと口添えさせてもらおう」

 

騎士剣を握り直し、ユリウスはリカードの肩を叩いてからアルファルドを睨む。その視線に冒涜者は微笑み、頬を染め、忌々しげに唇を歪めた。

表情も、言動も、戦い方すらも、ちぐはぐのツギハギだらけの不気味さがある。

あるいはそれこそが、『暴食』の権能に関わるのかもしれない。

 

「剣も武術も、魔法すらもそれだけのものを修めていながら、どうして貴様は悪に染まった。その力の使い道はもっと別に、他のところに見つけられたはずだ」

 

「他のところねえ。たとえば、兄様的にはどんなところが候補に挙がるんです?」

 

兄様、という呼ばれ方にも嫌悪感が伴う。

アルファルドが舐めるような目で、媚びるような口調で、粘つくような態度でそれを口にするたびに、ユリウスの中でその言葉の価値が汚される。

それもおかしな感覚といえば感覚だ。

――自分には、自分をそう呼ぶ家族などいないはずなのに。

 

「たとえば騎士だ。たとえば傭兵だ。たとえばそれは、英雄だ。信念のない力は簡単に悪に染まり、強い能力は暴力に姿を変える。だから……」

 

「言うと思ったッ!そう言うと思ったよ、兄様!僕たちの知ってる兄様なら、俺たちの信じる兄様なら、そう言うと思ったさ。思ってたよッ!」

 

唐突に会話を打ち切って、アルファルドが跳躍してユリウスへ迫る。

騎士剣を縦に構えて、飛び込んでくる蹴撃を撃ち落とす。靴裏に鉄板でも仕込んでいるのか、固い感触が刃を受け止めて斬撃は通らない。

その場でくるくると踊るように、アルファルドは矮躯を鋭く回して蹴りを繰り出し続け、見る見るうちにユリウスの足場を押し込んでいく。

強烈な猛攻に、リカードすら割り込むタイミングを見失う。

 

「覚えているかい、子どもの頃のことを!病気がちな僕たちが調子を崩して、兄様に庭の木に生ったリンガをねだったときのことをッ!」

 

「勝手なことを……!覚えているはずがない。身勝手な妄想を他人に押し付けるような真似はよせ!」

 

「まだ俺たちも兄様も小さかったし、兄様は最初は無理だって、諦めろってそう言ったんだよッ!覚えてる?覚えてないかなァ?でも僕たちは、兄様が拒否したら拒否した分だけもっとリンガが欲しくなったッ!兄様が無理だって言ったことができたら、俺たちの方がすごい!自信が持てる!そう思ったからさァ!」

 

「何を、何を言ってる!?そんなこと、私は知らない……知らない!」

 

爪先を、踵を、回し蹴りを、直蹴りを、水面蹴りを、半月蹴りを、サマーソルトを、バックスピンキックを、騎士剣を軋ませながらユリウスは受け止める。

腕が痺れ、傷の残る内臓が痛み、口内に血の味を感じる。否、血の味を感じるのは吐血とは別だ。今、唇を噛んでいる。自分が、なぜか、今。

アルファルドの妄言から、どうしても耳を遠ざけることができないまま。

 

「そのあとのことがあったから、僕たちはッ!俺たちはッ!兄様はッ!」

 

「――っ!」

 

「ずっとずっと思ってたよッ!ずっとずっと感じてたよッ!違うってことを!お荷物なんだってことをッ!それがどうだ!今はどうだ!いい気分だ!こんな気分だったのか!あァ、気持ちよかったろうさ!やっとわかったよ!」

 

「私には何も、貴様のことはわからない!!」

 

言いたい放題に押し付けられて、ユリウスの方が激発した。

騎士剣に力を込めて押し返し、アルファルドの体勢が崩れた隙に攻撃を差し込む。斬り下ろし、突き刺し、蹴り込み、叩きつけ、巻き込み、薙ぎ払う。

 

怒気と敵意に染まった斬撃が宙を走り、見切りに遅れるアルファルドの長髪が幾房も断たれて地に落ちる。その上、注意を払うべきは斬撃だけではない。

 

「イア!クア!アロ!イク!メア!イン!」

 

魔法の詠唱のように紡がれるのは、精霊騎士と絆を結んだ準精霊の名前だ。

名を呼ばれる六体の準精霊が輝きを増し、自らの存在を肯定されたことを力に変えて騎士の敵へと滅びを注ぎ込む。

 

――六方向からの、六色の光が逃げ場なくアルファルドを囲い込む。

 

「これで、最後だ――!」

 

必勝を確信し、ユリウスが逃れようのないアルファルドへ刺突を繰り出す。

それはまっすぐにアルファルドの、その胸のど真ん中に突き進み、

 

「絶掌」

 

胸の前で合わされる黒い掌が、騎士剣の刀身を挟み込んで粉々に砕いた。

破片が散らばり、必殺の刺突は効力を失う。

だがしかし、まだ六方向の死角から迫る魔法が――、

 

「逢魔術師」

 

迸る魔力がアルファルドの背後で膨れ上がり、迫る六種の魔力をことごとく撃墜。

同色の魔法に同色の魔法が直撃し、魔法は一切が相殺される。

その上で最後に、攻撃手段を封じられたユリウスの目が見開かれた。

 

「双剣の蛇」

 

アルファルドの爪先が跳ね上げたのは、彼が捨てたはずの短剣だ。

ユリウスの攻撃を受けて下がる素振りで、まんまと短剣の位置へ誘導された。回転する刃を両手で受け取り、アルファルドの体が回転する。

斬撃の嵐が吹き荒れ、ユリウスは刀身の砕けた剣をとっさに掲げた。

 

「――――」

 

「兄様はリンガを取ってくれた。だから僕たちは、兄様が憎かったのさ」

 

きりきりと、肘で切断された腕が宙を回り、音を立てて石畳に落ちた。