『互いの提案』
『ボクとあの子の契約が途切れた場合、後のことは君に任せても大丈夫かな?』
『……それをする、理由によるな』
唇を舌で湿らせて、スバルは喉の訴える渇きを無視しながらパックと向き合う。
結晶石の中、姿を見せないパックの表情はこちらからは見えない。だが、彼の言葉の込められた感情の渦が、スバルにそれが軽い気持ちで紡がれた言葉でないことを信じさせる。
ただ、契約の話だ。
それも、何よりもそれを重要視するという、精霊と精霊術士の間に交わされる契約。
それを一方的に『破らせる』と断言する言葉――その真意は、易々とはスバルには推し量れるものではない。
『エミリアとお前の間の契約……ようするに、精霊と契約者の間の取り決めだろ?それを破らせるってことは当然、相応のペナルティがあるってことだよな?』
『もちろん、そうだね』
『俺の想像が正しいなら、契約者は契約を守ることで精霊から力を借りてる存在のことだ。その契約者が契約を守れないってんなら、当たり前だけど精霊は契約者に力を貸すための名目がなくなる。……つまり、契約を破らせるってことは』
『ボクとリアとの間にある、繋がりというものを失わせる結果を招くだろうね』
スバルの推論を、パックは否定も訂正もすることなく認めてみせる。
しかし、肯定されたそれが意味することは――。
『お前の力を借りれなくなるってことは……エミリアは戦う力をなくす。ただの一人の女の子に、あの子を追い落とすってことになるぞ』
『それは、君にとってはあんまり関係ないことなんじゃないの?たとえリアに力があろうがなかろうが、戦わせたくないって思うのが君なんだから。リア自身がどう思ってるのか、そのあたりの方針のすれ違いに凹んだりもしてたみたいだけど』
『ぐ……それは、間違いねぇよ。けど、俺の感傷とそれとはまた話が別だ。戦う力云々はこの際、お前の言う通り問題の根本じゃねぇ。この場合、重要なのは……お前が側にいなくなったら、エミリアがどんな風になるかってことだ』
パック不在の状況は、エミリアにとって心の支柱を失ったも同然の状況だ。
さっきまでのパックとの念話が事実なら、それでも彼女の心の深部はパックが本当は眠っていないことに気付いている。か細い繋がりが断ち切られているわけではない。
ただ、そんなかろうじて絆の繋がった状態でも、追い詰められたエミリアはあれほど憔悴する。側を離れないと口にする、スバルに心から依存してしまうほどに。
それが本当の意味で、パックとの繋がりを絶たれるようなことがあれば――。
『エミリアは、その場で心の均衡を失ってもおかしくない。そんなのはお前にとっても、見たくない光景の三本指に入るだろうが。どういうつもりだよ』
『どうもこうもないよ。ボクはリアにとって、一番いい形になるだろうって後押ししかしないことにしてるんだ。あの子が望んでないことを、ボクはやらないしできないからね』
『エミリアが、お前と契約を断つことを望んでるってのか?』
『違うよ、スバル。ボクとの契約が失われることは、リアの望みが叶うための副産物に過ぎない。リアの今の望みは間違いなく、墓所の『試練』を乗り越えることだ。それだけは疑う必要はないし、信じてあげていい』
その点に関しては、スバルだって疑っていない。
エミリアが自らの過去と向き合いきることができず、偽りの過去を見続けることで『試練』への挫折を繰り返している――という、パックの仮説を信じたとしても。
彼女が眼前に立ちはだかる障害を、乗り越えようとする『フリ』だけをするような卑小な性質の持ち主でないことは、誰よりスバルが信じている。
スバルの心の肯定は、言葉の形ではパックに伝わらなかったはずだ。しかし、かえってそれがありのままのスバルの心を伝えたとでもいうように、パックはその思念の音の調子をわずかに落として、
『ボクがいなくなったことを知れば、リアは確かに取り乱すと思う。それはもう、きっと子どもみたいに泣いて、喚いて、無茶苦茶になるぐらいに』
『――――』
『でもね、それでいいと思うんだ。ボクがいないと心の表側で思っていて、ボクがいることを心の裏側で知っている、そんな今の状態の方こそ不自然なんだよ。ボクがいないってことを、心の表も裏も理解して……過去を封じ込めるわかりやすい枷がなくなって初めて、リアは自分の心と向かい合えるんだ』
パックの言葉には、静かだが万感の思いが込められていた。
それは慈しみであり、悲しみであり、喜びであり、何より愛おしいものへ全てを捧げても構わないという、献身的なそれに溢れていた。
『その、自分と向き合うために……お前との繋がりをなくして、前に進ませるってのか?』
『うん、そうだね。きっと苦しいこともたくさんあると思うけど、リアならそれを我慢できる子だって信じてるんだ』
『側に、いられなくなるんだぞ。心配じゃねぇのか。あの、底なしのお人好しで、なのに自分のことはいつだって後回しにしちまって損してばっかりのお前の娘を、側でずっと守ってやりたいって、お前はそうは思わないのかよ』
自分が何を言っているのか、スバル自身にすらわからなくなり始めていた。
パックの申し出は、それが望んだ通りの結果をはじき出すのであれば、正しくスバルにとっては期待通りの展開を招いてくれるはずだ。パックも言った通り、エミリアの戦闘力の有無は彼女を戦場に立たせまいと苦心するスバルにとっては何の関係もない。
だから、スバルはパックの提案を歓迎こそすれ、止めようとする理由などないのに。
『最近の君は、ボクがリアの側にいるのを快く思ってなかったと思ったけどね』
『その考えは間違ってねぇよ。……ここしばらく色々あった関係で、俺の中のお前の株価は最悪だし、そう簡単に上向きになるもんでもない。エミリアのために犠牲になるみたいな選択一つで、ここまで募った不信感が拭い去れるもんでもねぇ』
『ずいぶんな言いようで、ちょっとだけ悲しくなるよ』
『けど』
互いの印象のすり合わせに間違いはない。今のスバルはパックの言葉を鵜呑みにすることも、彼への悪印象を簡単に変えられるとも思えていない。
口にした言葉に偽りはない。しかし、
『お前がいなくなって、悲しむエミリアの姿は目に浮かぶ。お前がエミリアにとって、何より大きい存在なのは俺が一番、痛いほどわかってる。そんなお前だから俺は……』
『――――』
言葉が続かず、スバルの中で不明瞭な思いだけが吹き溜まり続ける。パックもまた、思念の中で無言を貫き、こちらの曖昧な意思が形になるのを静かに待っていた。
ただ、焦れば焦るほどに、答えは確かさを失って不確かの中に移ろってしまう。
『俺は、俺はお前が……』
『ボクがこんな風に決断できるのは、君の存在が大きいんだよ、スバル』
まとまりを得ないスバルの言葉に先んじて、ぽつりと呟くようなパックの声。頭蓋に直接響き囁きに顔を上げ、スバルは緑の結晶石を呆然と見やる。
『君の言う通り、ボクはリアが何より大事だ。あの子のことをずっと見守っていたいし、傍で力を貸してあげたい。こうしてボクが傍にいない方があの子のためになると、そう判断した今でもその気持ちは変わらない』
『それなら、どうして……』
『君が、いるからかな』
『――――』
ふと、息が止まったような感覚にスバルは支配される。
『この場所で……ううん、この世界で、君だけはボクと同じようにリアのために命を懸けられる。これまで過ごした時間の中で、君はそのことを証明してきた。リアも……ボクを除けば、一番頼りにするのは君だろう。それは間違いない。信じていいよ』
『だ、としても……俺は、お前みたいにすげぇ力があるわけでも、あの子の前に立ちふさがる障害を力ずくで吹っ飛ばせるほど圧倒的なわけでもない。俺にできることはせいぜい一緒に頭抱えて悩んで、辛いの吐き出させて……そんな程度だ。そんな程度の俺に、お前は後のこと任せられるのかよ』
『勘違いしてるみたいだけど、ボクはボクの代わりを君に求めるわけじゃないよ。ボクにしかできないことはボクにしかできない。その逆も同じことで、その君にしかできない部分でリアの助けになってくれると、そこに期待してるんだ』
押し黙るスバルに、パックは言葉を止めずにさらに重ねる。
スバルの逃げ場を塞ぎ、エミリアにとっての決断の時を失わせないように。
『仮にボクがいなくなっても、リアは君よりずっと強い。それこそ、君が言った『強さ』という意味では間違いなくね。でも、君も知っての通り、あの子は弱い。ボクが言う『弱さ』の部分では間違いなくね。だから、その弱さを君に支えてほしいんだ』
『……契約が切れて、繋がりが絶たれたらお前はどうなるんだ』
『ボクをこうして現界させているのはリアとのパスのおかげだからね。その繋がりが絶たれるなら、常にボクは実体化していないと存在を保てない。……でも、ボクが実体化し続けるってことは、無尽蔵に周囲のマナを食らい尽くすってことでもあるんだ。ボクの本当の姿を見たら、スバルはきっとビックリするんじゃないかな』
パックの口にする『本当の姿』というのは、あの見上げるほどの巨体となったときのことだろう。四足獣の頂点、怒れる吹雪の猛獣。終焉の獣。
なるほど、常にあの状態でなくてはならないというのなら、確かに存在し続けることなどできるはずがない。
『じゃぁ、お前……消えちまうってことなのか?』
『消えるのとは違うよ。ボクはリアと契約する前の、小さな存在に戻るだけさ。ボクにとって縁の深い……たぶん、エリオール大森林になるかな。そこで依り代となる何かの中で眠って、起こされるときを待つことになると思う』
『起こされる……ってのは』
『もちろん、リアにだよ。――ここで、ボクとあの子の間の契約は終わる。でも、またあの子が新しい契約を必要とするときがきて、その相手に精霊を選ぶんだとしたら……きっとまた、ボクを選んでくれる。そう、信じているんだ』
晴れやかな声で言われた気がして、スバルは息を呑んでいた。
自分が消えてしまうかもしれない決断をしようというのに、パックの声には不安など欠片もない。生来の彼の性格が楽観的である、ということとは無関係に、その声が不安を帯びることなどきっとなかっただろう。
彼にとって、エミリアがもう一度、自分を選んでくれることは疑いのないことなのだ。
パックとの契約を失い、自分の過去と見つめ合わざるを得なくなるエミリア。彼女がその過去を受け入れ切れず、潰れてしまうことなど想像もしていない。
エミリアは過去を乗り越えるし、再び契約を求めるときは自分を選ぶ。
パックの中で、それは決定事項なのだ。
エミリアの強さを疑わず、エミリアと自分が過ごしたきた時間の積み重ねを疑わず、それ故に彼は自分と彼女との繋がりを断ち切る選択肢を選ぶことができる。
「――――」
それは揺れているばかりのスバルにとって眩しいほどに、強く固い絆。
エミリアに対する深い愛情と信頼は、パックの鋼の心のなせるものなのだ。
『それで取り乱すエミリアを慰めるのは、俺に押し付けるってんだろ』
だからスバルは苦し紛れに、恨み言をぶつけるような気持ちでそう声を投げる。それを受けてパックは喉を鳴らすような、笑みを含んだ調子で、
『それだけは心苦しいと、本当に思うよ。でも……大切な娘を預けるんだから、そのぐらいのことは一緒に乗り越えてあげてほしいね』
『……それって、暗に俺のことをエミリアたんの伴侶として認めて』
『今ここで君を消し飛ばすと、色んな問題を考え直さなきゃいけなくなるなぁ』
『意趣返しがいちいちおっかねぇんだよ、このクソ猫!!』
過激な発言に口さがない言い返しをして、スバルはほんの少しだけ相好を崩す。
パックの、エミリアに対する想いの深さに免じて、少しだけではあるが、色々と溝ができる前のやり取りを交わせるぐらいには、心持ちが楽になった。
そしてエミリアとの契約を絶ち、この場を彼が離れると聞いて思いついたこともある。もしも仮に、それがうまくいくのであれば――賭けの天秤は少なからず、傾くはずだ。
『お前の目論見はわかった。実際に思い通りに運ぶかどうかは微妙に不安なとこがあるけど……そこは素知らぬ顔で俺も誘導を手伝えってんだろ』
『好きな女の子の意識を操るのって、どんな気分なんだろうね』
『罪悪感に押し潰されるからやめろ。それにエミリアが本心では色んなことを理解してるってんなら……終わった後で、そう仕向けられたってことにも気付くだろうぜ』
『そうなったら、ボクと君は共犯で嫌われるかもね。怖気づいたかい?』
『そりゃな。お父さんの洗濯物と一緒に洗わないでよ!って嫌われる思春期の女の子のそれとは、俺とお前じゃ嫌われるベクトルが違うんだからな』
パックが嫌われるのがあくまで家族間の問題なら、スバルが嫌われるのはもっと根深く致命的な部分だ。誠心誠意話せば、エミリアはわかってくれるとは思うが。
真意を納得されたとしても、自分の心をいいように誘導されたと知れればエミリアだって良い気がするはずもない。――その点はきっと、許してはもらえないだろう。
『今さら、だな。――許されないようなことなんて何度も重ねて、あの子を何回も泣かせてきた俺が、今さらそれを背負う覚悟がないなんて言えるかよ』
『――――』
『条件、呑んだぜ、パック。お前の尻拭いは俺がしてやる。明日の朝、エミリアが泣き崩れるんだとしたら……それは俺の腕の中でだ』
『――うん。それじゃ、お願いするとしようか。色々とこれ以降の大変も、いくつも押し付けることになりそうだけど』
自分の提案を受け入れるスバルに、パックの言葉がわずかな慙愧を得る。
その響きに片目をつむり、スバルは「それなら」と前置きした上で、
『お前の方も、俺の提案を考慮する余地はあるな?』
『……提案』
『そう、提案だ。心配するなよ。お前と同じで俺だって、エミリアにとっていい形になる未来がくるようにって、そう思って行動するのは一緒だ』
己の胸を叩き、スバルは沈黙で肯定の意を表するパックに向かい、言った。
『いくつか聞きたいことと、それを聞いた上で試したいことがあるんだ。――エミリアが起きるかもしれないから、長く時間をかけないようにしよう』