『苦い酒の味』


路地裏でのリベンジマッチを果たし、スバルが貧民街の最奥――盗品蔵の威容の前に立ったのは、すでに日も大きく傾いた夕刻になってのことだった。

 

「や、やっと見つけた。……手間取っちまったぜ、チキショウ」

 

額の汗を袖で拭いながら、ようやく辿り着いた目的地の前でへたり込む。

なんだかんだ走り回り、ここにくるまでにゆうに二時間近くが経過している。ポケットの中の携帯電話で経過時間だけは確認できた。間違いなく二時間。

 

「行ったばっかなんだから余裕だと思ったんだけどなぁ……」

 

やはり案内板の文字が読めないのが、スバルにとって大きな障害となったのは事実だ。

似たような通りが多く立ち並ぶ王都において、土地勘のないスバルは地名や店名の表記にも頼ることができない。

結果、記憶を再現しながら道を総当たりするしかなかったわけだが、

 

「ところどころでサテラとかパックと会話してたもんな。そりゃ道もうろ覚えだっつの」

 

貧民街に入ってからはさらにその傾向は顕著だ。

特に数時間前と違い、誰かが丁寧にジャージをクリーニングしてくれたおかげで、住民からの反応も冷たいわ余所余所しいわで非協力的も甚だしい。

排他的な雰囲気に陽気に飛び込むなど、スバルの対人スキルでできるはずもなく、ここへきてもスバルは孤立無援だった。

 

なので、とりあえずここまで辿り着いた自分を褒めてあげたい。

そんなわけで、頑張った自分へのご褒美。

 

「ついに開けるぜ、コーンポタージュ味。そもそも、俺はこれが食いたくてコンビニまで行ったんだっつの。こいつが異世界召喚の原因と言っても過言じゃねぇぜ、罪深い」

 

言い訳を様々に口にしながら、スバルはそのお菓子の袋の口を開ける。

ふんわりと甘い匂いが解き放たれ、鼻孔を幸せな感覚に支配された。袋から菓子を取り出し、それを震える指先から舌へと投じる。――至福、それが味覚を蹂躙した。

 

「うめぇ……超うめぇ……!考えてみたらなんにも食ってなかった。超うめぇ」

 

もっしゃもっしゃ菓子を食いながら、これまでの道程を思い返す。

リンゴっぽい果物を食べ損ねたときから小腹は減っていたのだ。あれから約六時間、よく耐えたもんである。

 

そうして空腹を誤魔化す一方で、スバルは自分の感情を誤魔化し切れないことにも気付いていた。

心臓が高鳴り、拍動の速さは尋常ではない。さっきの路地裏での興奮状態とは比較にならない勢いで、全身を血が巡る感覚を感じ取ることができた。

手足が重く、唾液は菓子とは無関係に乾いている。頭を殴られたような鋭い痛みが、甲高い耳鳴りとともに何度も何度も走り回っていた。

 

――この盗品蔵の中に、スバルの求めている答えがあるのだ。

 

思わず息を呑み込んで、スバルの脳裏を思い出したくない光景が過る。

血の海となった室内、腕のない老人の死体。腹を切り裂かれて死に瀕する自分と、その自分のせいで巻き込んだサテラの力の抜けた肢体。

 

「ビビんな、ビビんな、ビビんなよ、俺。バカか……いや、バカだ、俺は。ここまできて答えを見ないでなんて帰れるかよ」

 

そもそも、帰る場所なんてどこにもないのだから。

意を決して前を向き、歩き出そうとして膝が笑うのにスバルは気付いた。

がくがくと震えて言うことを聞かない下半身。その膝がしらに拳を打ち込んで、無理やりに震えを落ち着かせると、今度こそ深呼吸してスバルは進む。

 

橙色の日差しの中、盗品蔵の扉は無言でスバルの来訪を拒絶しているようだった。

そんな自分の弱気による錯覚を押さえ込み、スバルは戸に向かって拳を向けて、

 

「誰か、いますか」

 

儚い希望だと思いながらも、その木造の扉を軽くノックした。

意外と鈍い音が中にも外にも響いたはずだ。が、返ってくるのは居た堪れなくなるほどの無音と無言。

その静けさがどうにも恐ろしく、スバルは無駄だと知りながら扉を激しく叩く。

 

「誰か……誰かいるだろ!頼むよ、返事してくれ……頼む」

 

ここで死んだなんて、絶望的な結果は見たくない。

認めたくない現実を否定したくて、スバルは戸が軋むほどに拳をぶつける。

スバルの激情を受け止めきれず、徐々に戸の角度が傾ぎ、古い蝶つがいが変形し始めた。

――そんな頃になってだ。

 

「――やっかましいわぁ!!合図と合言葉も知らんで、扉をぶっ壊す気か!!」

 

目の前の扉が勢いよく開いて、へたり込むように体重を預けていたスバルが吹っ飛ぶ。

盗品蔵の入口から五メートル近く後ろに飛ばされ、地面を無様に転がったスバルは目を白黒させて顔を上げた。

その驚愕に見開いた瞳の中に、入口で顔を真っ赤にさせた老人がスバルを睨んでいる。

 

大柄で、禿頭の老人だ。

元は白かったのかもしれない上着は、埃と長年の汗やらなにやらで茶色く変色し、見るからに不衛生な有様だ。ほんのり漂う香ばしい異臭は、アレが原因かもしれない。

その衣服の下には筋肉質な肉体が詰まっていて、その年齢を感じさせる見た目に反して弱々しさの一切を思わせない強靭さが見え隠れする。

つまるところ、体のでかいハゲの超元気そうなジジイが立っていた。

 

「なんじゃお前!見覚えのない面ぶら下げて、何しにきたんじゃ!どうやってここを知った、どうやってここに辿り着いた!誰の紹介じゃ!」

 

すさまじい勢いでジジイは距離を詰め、その巨大な掌でスバルを締め上げる。

足が軽々と浮かされる感覚を味わい、スバルは自分が調子に乗っていたと身の程をわきまえた。さっきの事例は特別だ。やっぱり自分は凡庸の凡俗の凡骨だった。

よほどのことがない限り負けない基礎体力も、よほどの相手が相手ではこれだ。

身長が二メートル近いジジイに担がれて、すっかり抵抗の気力もなく、

 

「――お近づきの印に、おひとつどうぞ」

 

憤怒の感情一色の顔に向かって、コーンポタージュ味の菓子をひと欠片――投げ込むのが精いっぱいだった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

互いに猛烈な悪印象だっただろう出会いのあと、スバルは盗品蔵の中に招き入れられていた。

入口から入ってすぐのカウンター、そこに備えつけられた来客用の固定椅子に座り、居心地悪く尻の位置を直す。

椅子の座る部分がささくれだっているせいで、いちいち尻に鋭い刺激があるのだ。肛門が暴発寸前のギリギリなら、間違いなく引き金になりかねない危うさである。

 

「なんじゃさっきからもじもじしおって……キンタマの位置がそんなに気になるか」

 

「別にチンポジ気にしてるわけじゃねぇよ。ってか、菓子袋返せ。全部やるとは言ってねぇ」

 

カウンターの向こう、本来なら店主の定位置となる場所に立つのは大柄の老人だ。

彼はその筋骨隆々な体からすると、遠近感狂ったのかと思うほど小さな袋を持ち上げ、

 

「なんじゃケチ臭い。こんなうまいもんをひとり占めなんぞ、地獄に落ちるぞい」

 

「そんなうまい他人のものを勝手に食うジジイは地獄に落ちないのか。自分のこと棚に上げて文句言うのは団塊世代の悪い癖だぞ」

 

「またわからん言葉使いおって。これだから若い奴は……うまうま」

 

「食うなっつの!!」

 

身を乗り出して腕を伸ばし、どうにか老人の腕から菓子袋を奪い取る。が、すでに中身の大半は老人の腹の中に収められたあとだ。

ほんの数個しか残っていない中を検めて、スバルは肩を落とす。

 

「ああ……貴重なコーンポタージュが。もう二度と味わえないかもしんないのに」

 

「なんじゃ、そんな貴重な食い物だったか。まあ、確かに見たこともない食い物じゃしな。なんじゃったら残りは複製魔法でも依頼したらどうじゃ」

 

「複製魔法?」

 

「ひとつの物を二つに増やす魔法じゃな。生き物なんかだと真似できるのはガワだけじゃが、食い物あたりなら複製できるんじゃないかの」

 

禿頭を撫でながらの老人の言葉に、魔法の便利さをさらに思い知るスバル。

あらゆる意味で万能なんだな、と感心する気持ちもありつつ、スバルの視線はさりげなく室内をぐるりとひとめぐりしていた。

 

夕刻の盗品蔵――そこに、スバルが味わった惨劇の跡は一切感じられない。

相変わらず統一感がゼロの品々が所狭しと並び、蔵の中の広いスペースを無造作に覆い尽くしている。

そんなスバルの視線に気付いたのか、目の前の老人は意味ありげに目を細めて、

 

「なんじゃ小僧――盗品に、興味があるのか?」

 

と、こちらの核心を突いてきた。

 

大柄の老人――ロムと名乗った人物(ロム爺と呼ぶがいいと言っていた)との交渉は、怒声に対して差し出した金色のお菓子(この場合は比喩でなくそのままの意味で)によって思いのほかスムーズに進んだ。

口に放り込まれた未知の味にロム爺が夢中になり、結果的にスバルの身は速やかかつ安全に解放されたというわけだ。

その後は用事があって訪れたこと、貧民街の中年に話を聞いてきたこと、それらを伝えてロム爺に納得してもらい、こうして互いにカウンターについている。

 

カウンターの向こう、ロム爺はそのたくましい腕を台の上に乗せて、薄汚れたグラスに酒を注ぎながら小さく笑い、

 

「ま、ここにくる奴の目的なんぞ二つにひとつ。盗品を持ち込むか、盗品自体に用があるか――そのどっちかじゃからの」

 

「確かに、目的の一個はそれだ」

 

「一個、か。さて、んじゃ別の用件もあるってことじゃの?」

 

スバルの条件付きの肯定にロム爺の片眉が上がる。スバルは頷き、それから躊躇いがちに、馬鹿にされるのを覚悟で問いを作った。それは、

 

「馬鹿げた話なんだが……爺さん、最近、死んだことないか?」

 

首と右腕をぶった切られて。

その言葉を付け足すのはやめておいた。見たところ、首にも肩にも継ぎ目はない。

スバルの問いと視線を受け、ロム爺はしばしその灰色がかった双眸を見開き、それからふと時間が動き出したように破顔した。

 

「がははは、何を言い出すかと思えば。確かに死にかけのジジイなのは認めるが、あいにくと死んだ経験はまだないな。この歳になればもう遠い話じゃないと思うがの」

 

痛快なジョークでも聞いたように笑いながら、ロム爺は「飲むか?」とグラスをスバルの方にも勧める。つんと鼻を突くアルコール臭を手振りで遠慮して、スバルは「悪い」と言葉少なに今の発言を詫びる。

詫びはしたが、スバルの中で違和感は膨らむばかりだった。

 

今、こうして言葉を交わしているロム爺だが――スバルは彼の死体を見たのだ。

この場所で、暗闇の中、片腕と喉を刃物で切られて、物言わぬ躯と化したこの老人を。

しかし、目に焼きついたその光景を否定するように、ロム爺はスバルの目の前で大柄な体を窮屈そうにカウンターの中に押し込めている。

グラスを傾ける赤ら顔には確かに血の気が通い、大量の出血で病的に青白くなっていた死相とは明確な違いを生んでいた。

 

ロム爺は間違いなく生きている。そして、それは逆にスバルにも言えることだ。

振り返ってみれば、ロム爺と同じくスバルも死んでいるのが当たり前の傷を負った。にも関わらず、そんな痕跡も残らない体でこうしてこの場を訪れている。

白昼夢でも見たのではないかと、スバルは自分の頭の中身が信用できなくなってきていた。

 

「あの感覚の全部が、夢だってのか……?だったらどっからどこまでが夢で、俺はどうしてこんな世界にいるんだよ」

 

焦燥感が忘れさせていた泣き言が、腰を落ち着かせる場所を得て再びこみ上げてきていた。

あの自責の念が、焼けるような致命傷の痛みが、ほんのわずかに触れた少女の温もりが、全てが夢幻の中の名残に過ぎないのなら、どうして自分はここにいるのだろうか。

どうせなら、異世界召喚から全てが夢だと言われた方がマシだ。

異世界召喚後、体感したことが夢だと言われるよりよっぽど納得がいったに決まってる。

 

「ロム爺さん、ここで銀髪の女の子を見てないか?」

 

「銀髪……?いや、見とらんな。そんな目立つ見た目なら忘れんし。いくら儂の頭にガタがきてたっての」

 

がはは、とロム爺は豪気に笑い飛ばすが、それを受けるスバルの表情は優れない。

その態度に真剣さを感じ取ったのか、ロム爺はぴたりと笑いを止めると、

 

「飲め」

 

ずい、と再びスバルの前にグラスが突き出されていた。

空のグラスに酒瓶を傾け、なみなみと琥珀色の液体が注ぎ込まれる。それを黙って見守るスバルに対し、ロム爺はもう一度「飲め」と短く言った。

 

「悪ぃけど、そんな気分じゃねぇよ。それに酒飲んで悪ぶるほどガキじゃねえんだ」

 

「阿呆が。酒飲んで悪ぶれんのをガキと言うんじゃ。グイッと飲んで、腹の内側を燃やしてみろ。熱さに耐え切れなくなって、色んなもんが吐き出てくる」

 

「だから飲め」とロム爺は三度、グラスをスバルの方に押しやってくる。

その強硬な態度に気圧されるようにグラスを手に取り、琥珀色の液体に鼻を近づける。濃厚なアルコール臭が鼻孔を鋭く叩き、思わずむせそうになってスバルは渋い顔。

だが、そんな否定のスタンスを作る一方で、ロム爺の言葉に従ってしまいたい衝動にも駆られていた。

酒に逃げる、なんてのは格好悪い大人の代表格だと、そんな風に思っていたにも関わらずだ。

 

「ええい……ままよ!」

 

グラスを傾けて、酒を一気に喉に向かって流し込む。

度数がどれほどの酒だったのかわからないが、飲み干した直後に全身が発火したように熱くなるのをスバルは感じた。

酒の通り道が火傷したように絶叫し、勢いのままにグラスをカウンターに叩きつける。

 

「っぷはぁ!があ!マズイ!熱い!クソマズイ!んああ、マズイ!」

 

「何回も言うな、罰当たりが!酒の味がわからん奴は人生の楽しみ方の半分がわからん愚か者じゃぞ」

 

こみ上げる熱を吐き出すスバルに、ロム爺は怒鳴りながら同じく酒を口にする。豪快に、グラスに注がずに酒瓶をひっくり返してラッパ飲みだ。

スバルが飲んだ量のゆうに三倍以上を喉に通して、荒っぽいげっぷをして老人は笑う。

 

「じゃが、いい飲みっぷりじゃった!ちったぁ吐き出せそうな気がするか?」

 

「……ああ!ちっとだけな!爺さん、もう一個の目的の方を果たすぜ」

 

笑いかけてくる老人から顔を背けて、スバルはこぼれた酒を袖で拭いながら蔵の奥を指差す。そちらにはそこらに転がる粗悪品と違い、値の張る盗品が置かれているはずだ。

ロム爺の顔が真剣味を帯びる。それを見ながら、スバルもまたはっきりと、

 

「宝石が埋め込まれた徽章を探してる。――それを譲ってもらいたい」

 

己の目的を言葉にして告げた。

 

当初の目的――サテラの安否の確認とは別に、ここへ訪れた本来の理由だ。

サテラが盗まれたという宝石入りの徽章。理由こそ教わってはいないが、彼女にとっては危険を冒してでも取り戻す必要のある一品。

貧民街に持ち込まれた盗品ならば、必ずここを通ると聞いてきたのだ。

せめて徽章が実在してくれれば、スバルは自分の見た白昼夢を肯定できる。

そんな縋るような思いを込めたスバルの要求に対し、ロム爺はしかし難しい顔をして、

 

「宝石の入った徽章……いや、悪いがそんな品物は持ち込まれておらんぞ」

 

「……本当にか?よく思い出せよ。ボケてんじゃねぇのか、ガタがきて」

 

「酒が入って今が絶好調じゃ。この状況で出てこんのなら、知らんとしか言えん。が」

 

最後の望みを断ち切られそうになるスバルに、ロム爺は意味ありげにニヤリと笑い、

 

「今日は大口の持ち込みがある、と前もって聞いとる。――宝石入りの徽章とやらなら、十分にその可能性があるじゃろうな」

 

「持ち込むのはひょっとして……フェルトって子か?」

 

「なんじゃ、盗った相手の名前までわかっとるのか」

 

拍子抜けしたようなロム爺の言葉に、スバルは思わずガッツポーズをとる。

ぷっつりと切れたかと思った線がここへきて繋がった。

徽章を盗んだと思われる少女、フェルトの名前がここで出たのだ。ならば当然、徽章を盗まれたサテラという少女の実在を証明することもできる。

少なくとも、あの銀髪の少女がスバルの妄想が生んだ都合のいいイベントキャラクターという可能性は薄れたと言っていいだろう。

 

「俺の銀髪ヒロイン好きが反映されたのかと思って焦ったぜ……」

 

「妙な安心しとるとこ悪いが、持ち込まれてきたもんをお前さんが買い取れるかどうかはまた別の話じゃぞ?宝石付きの徽章となれば、それなりの値でさばけるだろうしの」

 

「ハッ!いくら足下見たって無駄だぜ。なにせ俺は一文無し!」

 

「話にならんじゃろうが!」

 

いざ交渉で値を釣り上げようとでも思っていたのか、肩すかしを食ったようにロム爺が怒鳴る。が、スバルはそんなロム爺に対して立てた指を左右に振り、

 

「ちっちっち。確かに俺は金はない。だ・け・ど!世の中、物を手に入れる手段はお金だけじゃない。物々交換って手段があんだろ?」

 

口を閉じるロム爺から反論はない。続きを促す沈黙に頷きで応じて、スバルはズボンのポケットをまさぐった。そして、抜き出すその手が握るのは、

 

「――なんじゃこれ。初めて見るの」

 

「これぞ、万物の時間を切り取り凍結させる魔器『ケータイ』だ!」

 

コンパクトなサイズの白い携帯電話。初めて見るその姿に目を白黒させるロム爺に対し、スバルは素早く操作を入力し――直後、薄暗い店内を白光が切り裂いた。

パシャリ、と効果音が鳴り響き、光を向けられたロム爺が大げさに驚いてカウンターの向こうに転げる。そのリアクションの大きさにスバルが思わず笑うと、

 

「なんじゃ今のは!殺す気か!怪しげな真似しおって、あまりジジイを舐めるでない」

 

「まあ待てまあ待て。深呼吸して落ち着いて、そんでこれを見てみろ」

 

酒とは違う原因で顔を赤くするロム爺に、スバルはずいと携帯の画面を押し付ける。

胡乱げな目でロム爺は下がり、その小さな画面に目を凝らして――その目を見開いた。

そこに映っているのは、今しがた撮影したロム爺の顔だ。携帯電話のカメラ機能、それを使っての撮影。当然、そんな技術はこの世界には存在しまい。

スバルの予想通り、ロム爺は食い入るように画面を見据えながら、

 

「これは……儂の顔、じゃな。どういうことじゃ?」

 

「言ったろ?時間を切り取って凍結させるって。この道具でさっきのロム爺さんの時間を切り取って、この中に閉じ込めたんだ」

 

言いながらカメラの向きを変えて自分を撮影。

結果を知りたがるロム爺に再度画面を見せると、今度はピースサインを決めるスバルの顔が画面に表示されている。

 

「こんな感じで時間を切り取れるわけだ。こんな無駄遣いじゃなくて、本当はもっと記念になるような絵を残すのに使われるんだけどさ」

 

「なるほど……確かに、これは……ううむ」

 

顎に手を当てて、ロム爺は考え込むように携帯を覗き込んでいる。

その予想以上の食いつきに、スバルは交渉における手ごたえを感じ取った。

そんなスバルの確信を後押しするように、ロム爺は携帯電話を手に取って眺めながら、

 

「初めて見るが……これが話に聞く、『魔法器』というやつかの」

 

「魔法器?」

 

聞き慣れない単語の出現にスバルが首を傾げる。ロム爺は「うむ」と頷き、

 

「魔法使いのようにゲートが開いていないものでも、魔法を使えるようにできるという道具のことじゃ。とはいえ希少品じゃから、儂も見たのは初めてじゃがの」

 

ロム爺は感心したように呻き、しげしげと舐めるように見ていた携帯をカウンターへ。

それから改めてスバルに向き直ると、

 

「こいつの価値は確かに計り知れん。儂も長いことこの商売しとるが……魔法器を扱うのは初めてじゃからの。じゃが……これまでにない値がつくのは間違いない」

 

魔法器を初めて見たことと、それを商売品として扱えることに興奮があるのだろう。ロム爺はわずかに声を震わせながら、「それだけに」と前置きし、

 

「物々交換にこれを出すのは、少しお前さんに損が大きすぎる。その探しとる徽章の価値はわからんが、この魔法器以上ということはあるまい。単純に金額だけで比べるなら、この魔法器自体を売りに出した方がよっぽど得じゃぞ?」

 

貧民街の奥で、盗品を取りまとめてさばく裏稼業。そんな稼業の元締めをしている人物とは思えないロム爺の忠告だ。

それはスバルにとって、魅力的な忠告であることは間違いない。

この世界におけるスバルの価値は何もない。

魔法も使えなければ、飛び抜けた強さがあるわけでもない。知識も皆無な上に字すら読むことができず、さらに最悪なのは無一文であるという事実。

そんな最悪の八方ふさがりを、この携帯電話を売ることができれば少なからず打開することができるのだ。少なくとも、金銭面での心配は当面なくなるだろう。

明日の食事にも当たり前のように困る未来が見えているだけに、それはスバルにとって喉から手が出るほどに欲しいもので、コーラを飲んだらげっぷが出るのと同じくらい当然に選ぶべき選択だ。だが、

 

「ああ、それでいい。この魔法器は、フェルトって子が持ち込む徽章と交換する」

 

「なんでそこまでする?この魔法器より値が張るのか?それとも、金に代えられん価値があるとでも言うのか?」

 

意固地なスバルの態度にロム爺は呆れ気味だ。徽章の価値を問い質す一方で、後者の言葉には嘲弄めいた感情すら見え隠れする。

こんな場所で暮らす彼のことだ。金より大事な物の存在など、概念的にはわかっていても実際にそれと認めることは容易くはできないのだろう。

そんな価値観があることを認めながら、スバルは「いいや」と首を横に振り、

 

「ぶっちゃけ、俺はその現物を見たこともない。金に換えても正直、この魔法器より高いってことはないだろうし、俺は丸損間違いなしだぜ」

 

「そこまでわかっとるなら、なんでそんなことする?」

 

「決まってんだろ。――俺は損がしてぇんだよ」

 

ロム爺が三度、目を白黒させるのをスバルは痛快な気持ちで見届ける。

そうだ、それが答えだ。

明日の食事に困ったとしても、未来がお先真っ暗なものになったとしても、バスタブを札束で満たすような展開が遠ざかったとしても、損をするだけの価値がある。

 

「俺は恩返しがしたい。貸し借りはきっちり返す。そうでなきゃ気持ちよく寝られねぇ。俺は神経質なんだよ、現代っ子だから。――だから、大損してでも徽章を手に入れる」

 

「ふむ……今のを聞くに、つまり徽章はもともとお前さんのもんじゃないんじゃな?」

 

「俺を助けてくれた銀髪美少女の持ちもんだ。なんでか知らないけど大切なもんなんだと」

 

「その恩人は?一緒じゃないのか?」

 

「目下、捜索中!っていうか、ひょっとしたら助けてもらったのも、その美少女の存在自体も俺の夢が見せた妄想かもしんない!」

 

グッと拳を握りしめて、先ほど否定した不安を口に出して笑い飛ばす。

ここまで状況が繋がったのだ。サテラ、あの少女が存在しないなんてことはあり得ない。

徽章を手に入れて、きっともう一度、あの少女に出会おう。

 

そんな決意を固めるスバルを見下ろしながら、ロム爺は心の底から珍妙なものを見るような目で、

 

「――お前さん、相当なバカじゃのぉ」

 

と、あらゆる感情を吹っ切って、ただ楽しげに笑ったのだった。