『弱さ』
――暗がりの中、眠りから目覚めたスバルはゆっくりと上体を起こした。
体にかけていた薄い毛布を横に除け、声を漏らさないようにしながら軽く伸び。欠伸を噛み殺しながら首をめぐらせれば、多数の寝息が周囲から聞こえてくる。
雑魚寝する集団の一角で体を休めていたのだが、どうやら意識が覚醒しているのはスバルだけのようだ。それも当然――大聖堂の大窓から見える空の色は暗く、まだ日差しすら顔を出していない時間帯だ。
時計のない不便さ故に正確な時間はわからないまでも、今が夜半のまだまだ人類が活動するのに適した時間でないことぐらいはわかる。普段ならば夜明けまでもうひと眠りと体を寝かせるところだが、
「寝た時間が早かったせいで寝つかれねぇな……時間のある限り怠惰を貪ってた頃が懐かしいぜ」
乱暴に頭を掻き毟り、スバルは毛布を畳むとそっと寝床を抜け出す。
抜け出すスバルの寝床の周囲、そこに眠る多数の人々――アーラム村からの避難民たちであり、今はロズワール共々『聖域』で軟禁の環境にある身だ。
『聖域』で割り当てられた民家を辞し、スバルはここに足を運んでは彼らと枕を並べて夜を過ごしていた。理由は、それほど深いわけではないが。
大聖堂の中、スバルが住人たちから与えてもらった寝床は聖堂の前方壁際。それなりに居住性の高い位置を当てられたのは皆からの気遣いだろう。ただし、その代わりとでもいうように周囲をずらりと子どもたちで固められた点には一言物申したい。
もっとも、子どもたちが懐いているスバルの側がいいと駄々をこねた経緯もあるし、大人たちも制限された状況の中、できる限り子どもたちに負担にならないようにと配慮してのことだ。そのあたりの機微を察してしまえば文句の言いようもない。
「こんなこと考えるようになるとか、らしくねぇよ、俺」
配慮であるとか思いやりであるとか、そういったことを考慮している自分に苦笑。そんなややこしいことを考えながらでは、生き方が窮屈になるだけだろうに。
豪快に寝息を立てている子どもたちを踏まないように抜けて、スバルは泥のように眠る住人たちの間を通って大聖堂の外へ――湿った風が外に出たスバルを出迎え、温い大気が暖かさとも寒さとも無縁に不快指数だけを訴えかけてきた。
見れば空にも厚い雲が並んでいて、昨夜はけっこうな輝きで目を楽しませてくれた星空が覆い隠されてしまっている。風に乗る雲の動きは早いが、それ以上に雲の層が厚い。天候が崩れるかはわからないが、晴れ空がおがめる一日にはなりそうにない。
「そう考えると、こっちきてから雨らしい雨に遭遇してねぇな。みんなの話から想像するに、四季みたいなもんはありそうなのに」
魔法にも使われる属性に合わせて、季節を『赤日、青日、黄日、緑日』で区切っているらしいことは小耳にはさんだ。元の世界の四季にならば、そこに『梅雨』を加えて季節と言い変えていいだろう。
おそらくはこの世界にも、それと似たような変化がある。気温は今は暑くもなければ寒くもない。感じる風の感覚的に、まさに梅雨前後といった印象だ。
「梅雨時は洗濯物が乾かなくて困るのよね。ただでさえ万年床で布団の裏とか危ない感じになってるのに、たまのお休みにお日様に当てられないなんて困っちゃう。……まぁ、エブリデイホリデイだったけど」
基本、布団の上でごろごろしていたので布団を干すタイミングなんてまずナッシング。たまに痺れを切らした母が布団の上のスバルを転がして布団を奪い取り、無理やりに干してお日様の匂いに包ませるのが菜月家のデフォ。
懐かしき日々を振り返りながら、スバルはすっかり固くなっている体の各所をラジオ体操的な動きでほぐしていく。大聖堂はその名に恥じない広大な敷地を有する建物であり、雑魚寝とはいうものの手足を伸ばして眠るには十分なスペースを各人に用意できていた。毛布も人数分行き渡っており、それらに不満はない。
不満があるとすれば贅沢な話だが、固い地べたで眠ることを余儀なくされるせいで、体のあちこちに負荷がかかっていることぐらいだろう。
「自分のぺったんこになった布団か、もしくは屋敷のふかふかベッドが恋しい。四、五日の俺でこうだと、ずっと雑魚寝させられてる他の人たちはもっとだろうなぁ」
スバルの前では気丈に振舞ってくれているように見えるが、やはり住人たちの負担が日に日に色濃くなっている面は否めない。食事時などもスバルがはしゃげば周囲も笑顔を覗かせてくれるが、そうでないときの言葉数の少なさはストレスが原因だろう。
望まぬ避難に、避難先での軟禁生活。それらの不満をぶつけるべき領主はその役割を果たそうとしたために負傷し、住人たちの感情は状況への不満より未来への不安が勝っているのが実情だ。
本来であれば領主側であるスバルに対して、彼らからもっと非難めいた感情がぶつけられてもおかしくはないのだが――、
「そんな風に当たり散らすような人たちでもねぇ、ってことか。領民の良識に寄りかかってるなんて、正直なとこ運営側としちゃ失格だぜ」
事実としては、アーラム村の人々がスバルに対して八つ当たりじみた行為に及ばないのは、ひとえに彼らの中にスバルへの恩義の情が強く残っているからだ。
もっとも、スバル自身はそんな自分の功績をあまり高く見積もっていないのもあって、ただ単に避難民たちの心のありようが真っ直ぐであるからだと思い込んでいた。
しかし、
「そうやってみんなの気持ちに甘えてられんのも、そんなにもたないだろうしな」
――スバルたちが『聖域』に辿り着いて、すでに『六日目』に突入している。
スバルたちより先に『聖域』入りした避難民たちはそこにさらに一週間近くが追加される形であり、事実上二週間近い拘束期間を味わっていることになる。
スバルの口から王都側へ避難した面々の無事を伝えたこともあり、家族が別れ別れになっていることへの不安はそこまで高くないが、それでもやるべきことのないまま二週間もこもりきりでは精神的な疲労感は否めない。
ロズワールの捨て身の自爆戦法による、同情作戦の効果が切れるのも時間の問題。
そうなってしまえば、待ち受けるのは『聖域』と領民のぶつかり合いであり、両方から支持を得たいこちらにとって望まない結果が待つだろう。
「実際、参ったな。どーしたもんか……」
「――そっから先、入るんじゃねェよ」
首をひねって悩みながら、踏み出そうとした足が恫喝に止められた。
スバルは足裏を地から離した半端な姿勢で固まり、首をひねった角度のままぐるりと巡らせる。視界の中、広がるのは薄闇に落ちた森の木々のみ。
大聖堂から離れて、少し周囲を散策していたところだった。そんなスバルに、
「こんな朝っぱらっから散歩たァ、いい趣味なんだか暢気なんだか。『赤色と青色の木の実に迷うムジゲムジゲ』って気分だわな」
もはや聞き慣れた聞き慣れない慣用句を口にしながら、頭上――木々の枝から飛び下りて、金髪の青年が舞い降りる。
短い髪を逆立てたガーフィールは音もなく草地に四肢をつき、片目をつむって自分を見るスバルをその姿勢のまま見上げると、
「あんっましおっどろいてねェなァ。脅かし甲斐がねェじゃァねェかよォ」
「全然想定しないで出くわしたらびっくり仰天するだろけど、このへんをうろついてればお前に会えそうな気はしてたしな。さすがに木の上からとは思ってなかったけど」
「俺様を探してたってのか?」
疑問を抱いた顔でガーフィールが立ち上がり、頭半個分低い背丈でスバルの正面に立つ。無意味に彼に対して胸を張り、スバルは「ああ」と応じると、
「早朝過ぎて望み薄かと思ってたけど、会えてよかったよ。……ちなみに、さっきの脅しはなんだったのか聞いても?」
「んな大した話じゃァねェよ。こっから先、森のこっち側は俺様の狩り場だ。うっかり迷いっ込んじまったら、噛みついて首の骨へし折るってだけだ」
「だけだじゃねぇよ!超大事じゃねぇかよ!」
さらりととんでも発言が飛び出したせいで、驚くスバルの怒号が響く。
それは深夜と早朝の合間にあった森の静けさを切り裂き、眠っていた鳥や獣たちをそこから立ち退かせるには十分であり、
「……ちっ。おォい、今のでほっとんどの奴らが逃げちまったじゃねェかよ、どォすんだよ」
「臆病者めらが。貴様らのような軟弱共の肉など、口にするだけで貧弱が移るわ。――的な発想で一つ、大らかに見逃すのはどうよ」
「今日からてめェの皿の上から肉料理が消えてなくなっちまっていいってんならなァ」
「悪かったよ!そんなつもりじゃなかったんだよ!わかったよ!今日はオットーと一緒に川で魚釣りしてくるよ、それでチャラにしろやぁ!」
商人としてやることのないオットーは最近、もっぱら釣りにはまったらしく川へ足を向けては釣竿を垂らす日々らしい。ただし、釣果は残念ながら五厘刈りの坊主ばかり。餌だけとられるあたりが実に彼らしい。
ガーフィールはオットーの名前が出ると、その口の端を歪めて牙を見せ、
「ハッ、あの兄ちゃんはわけわっかんねェぐれェツキに見放されてやがんな。頭ァ回るしどんくせェわけでもねェ。だってのにあの様だ。『天も嘆くほど雨に弱いデンゼン』ってやつだぜ」
「賑やかし系というかユニークキャラというか、まぁ一家に一人、ああいう手合いがいると話が弾んでいいよねみたいなポジションなんだよ。俺も色々と救われてんだよ……主に気分転換用として」
本人が聞いていれば涙目で反論してきそうなほど、容赦のないオットー評価。
褒めているようで褒めていないそれを耳にして、ガーフィールは指で己の耳を掻きながら「気分転換ねェ……」と呟き、
「で、その気分転換とやらの効果はちったァあったのかよ」
「っていうと?」
「とぼけんじゃねェよ。大聖堂の連中も、そろそろ限界が近ェってのは見え見えじゃねェか。いっつまでも、てめェやあの兄ちゃんで誤魔化せるもんでもねェ」
「痛いとこ突いてくる上に、お前って案外ちゃんと周り見てんのね」
スバルの悩み事ズバリの追及。スバルの驚きまじりの賞賛を受け、ガーフィールはその鼻面に皺を寄せてみせながら、
「なんだっかんだで大聖堂の奴らと顔合わせてる回数は俺様が一番だしな。ババアも含めて他の連中はほとんど顔も出しやっがらねェ。当然の成り行きだろがよ」
「配給じゃないけど、飯の支度してくれてんのお前なんだもんな。最初、お前がそれやってんの見たとき俺の目がいかれたかと思ったけど」
「うめェもん食いたきゃァ、てめェでできるようになるってのが一番てめェの舌に合わせっられんだよ。と、話そらしてんじゃねェ」
一歩前に踏み、ガーフィールは立てた指をスバルの首に突きつけて、
「人質連中はそろっそろギリギリだろうがよ。――いつまで、悪足掻き続けんだ?」
「悪足掻き、ってのに心当たりがねぇけど……」
「ハッ。言ってくれやがるぜ。あれが、あの様が悪足掻きでなくてなんだっつーんだって話じゃねェか。――同じとこで、もう三日も足踏みしてやっがる様でよォ」
語調の弱いスバルにはっきりそれとわかる嘲笑をぶつけて、ガーフィールが歯を噛み鳴らしながらそう断じる。その彼の言葉を否定しようと口を開きかけ、しかしスバルは言うべき言葉をとっさに選べずに口ごもってしまった。
その様子にガーフィールはその細めた翠の瞳に落胆を宿し、
「なァよォ。実際のとこ、どー思ってんだよ。腹割って話そうぜ?」
「腹割るとか言われると、嫌な思い出がよみがえるから聞きたくないんだけど……って冗談が通じる雰囲気でもねぇよな」
小柄な背中をさらに猫背に丸めるガーフィール。その態度に敵意はないが、全身からは隠し切れない怒気による鬼気が溢れ出している。
即物的に直接的に、その暴力性をスバルに向ける心配はないだろうが――。
「まず、はっきり言っておくけどな。俺はエミリアの味方だ。俺はあの子がやってくれると信じてるし、疑ってもいねぇ。だから、時間はかかっても『試練』を突破してくれるもんだと信じて疑わない」
「その時点で俺様からすりゃァ眉唾って話なんだけどよォ。あの箱入りお姫様が――もう三日連続で泣きじゃくって連れ出される弱虫が、本当にやれんのかってな」
真っ向から対立するスバルとガーフィールの所見。
その侮蔑を隠しもしないガーフィールの視線の鋭さに、スバルは負けじと三白眼を限界まで鋭角にして対抗――エミリアを思う気持ちが、負けるわけにはいかない。
スバルたちが『聖域』を訪れて、今が六日目の朝。そして『試練』が始まって、スバルが第一の『試練』を突破した日から、すでに三日が経過していた。
その間になにが起きていたかといえば――、
「まさか、一個目が突破できない連れがいりゃァ、二個目の『試練』が始まらねェたァ思いもよらなかったわな。おかげでここ三日、『試練』に関しちゃ進歩なしだ」
「――――」
「これならてめェ一人の方がマシだったんじゃねェか?それなら少なくとも、足手まといに引っ張られて、乗り越えたはずの石で躓く必要なんざなかったはずなんだからよォ」
苛烈な切れ味を隠さないガーフィールの言葉――それは正しく、スバルたちに訪れた現実を表している。
墓所の『試練』――三日前にスバルが第一の『試練』を突破してから、それはなんの進展も見せていなかった。理由は簡単だ。
エミリアがいまだ、第一の『試練』。即ち、己の『過去』を突破できていないから。
「ケリつけなきゃならねぇ過去は人によって違う。のうのうと生きてきた俺と違って、あの子が色々と抱え込んでんのは当たり前だ。それで足手まといだなんて思っちゃいねぇよ」
「そうかい。惚れた相手となりゃお優しいこった。っけどな、誰も彼もがてめェとおんなじに見守ってやれるわけじゃァねェんだぜ?正直、俺様はこうしてる間もお姫様の評価をどんどんどんどん下げてくっしかねェ」
「それは……」
「いい加減に認めっちまえよ。お姫様がいなけりゃ、少なくともてめェは二つ目の『試練』に挑めるんだ。その方が、この場所の解放って条件を突破するのに現実的な目なんてェのは誰が見てもわかり切ってることだろがよ」
ガーフィールの甘い提案――だが、それはエミリアの覚悟を踏みにじる決断だ。
この状況を作り上げたロズワールの思惑の大事な部分を裏切り、スバルが信じたエミリアの高潔さに対しても泥を塗る。断じて、肯定するわけにはいかない。
だが、はっきりとその言葉に首を横に振ることをスバルに躊躇わせるのは、
「時間をかければ、絶対に乗り切れる。急かして焦らせたってなんの意味もない。だってのに……」
「その時間がねェってのもお前あたりにゃァわかってんだろ?俺様筆頭に『聖域』の気の短い奴らは痺れを切らし始めてっし、人質連中も閉じ込められてる期間が長引いて我慢の限界。――膨らんだ不満が割れんのも時間の問題だぜ?」
――けっきょく、全ては限られた時間の問題なのだ。
エミリアの相対する『過去』がどんなものであれ、最終的に彼女がそれを乗り切ることをスバルは疑っていない。だが、根深いそれを彼女が克服し切るには時間が必要だ。仮にスバルが手助けできるのであれば、どんな辛苦にも惜しまず挑む気概がある。
しかし、すでに過ぎ去った『過去』は彼女の中にしかなく、そこにいなかったスバルが手を差し伸べる機会はない。スバルが『過去』と向き合う覚悟をレムのおかげで得られたように、スバルがエミリアのそれになれればと思わずにはいられないのに。
時間をかければ『試練』は突破される。そのための時間が今はない。
ガーフィールが口にしたように、『聖域』の中にある二つの集団は限られた時間を削り続けて限界に達しようとしている。
これ以上、時間はかけられない。故に、スバルは一つの結論を下していた。
「――提案が、ある」
顎に手を触れながら、スバルは絞り出すようにそう口にした。
そのスバルの表情の変化を見て、ガーフィールは片目をつむりながら口元を笑みの形に歪めると、
「聞かせてもらおうじゃァねェかよォ」
「お互いに、問題視しなきゃならない部分は時間だって合意はとれてるはずだ。俺はエミリアが『試練』を突破するって信じてるから、あの子に必要なのは時間だと思ってる。一方でお前らは、均衡が崩れるまでの時間制限のアップアップ。ここまでは問題ないよな?」
「間違っちゃァいねェだろうよ。一個だけ付け加えんなら、俺様は本当にあのお姫様が『試練』を達成できるか疑ってるってのも押さえとけや」
「……そこに関しちゃ俺とお前は平行線だと思うよ。ともあれ、時間がネックになってくる部分で合意が取れてるんなら、俺の提案を考慮する気にもなるはずだ」
スバルの言い分に、ガーフィールは己の額の白い傷跡に触れたまま声を出さない。その態度がこちらに先を促すものだと察し、スバルは頷きを一つ入れてから、
「現状、軟禁されてる避難してきた人たちの状態は限界だ。そう遠くない内に決壊して、最悪は『聖域』の内側で集団が割れることになる」
「俺様は別にそうなったって構やァしねェんだぜ?そこいらの村の人間が百や二百束になったとこで、俺様にひっくり返されるだけの話なんだっからよ」
「四十二人だよ。……お前がどうあれって問題じゃねぇんだ。望まない衝突が起きることと、それで被るダメージの話だ。お前だって別に、いつも飯の支度までしてやってる人たち相手に暴力が振るいたいわけじゃないだろ?」
「まァ、そりゃァな」
視線をこちらから外し、ばつが悪そうに舌打ちするガーフィール。彼の素振りにスバルは流れの良さに内心で頷きつつ、
「だからその衝突を避けるために、軟禁されてる人たちの解放を要求したい。現状、あの人たちに人質の価値はあってないようなもんだと思ってるが、どうだ?」
「オイオイ、待てよ。それとこれとは話が違うんじゃァねェか?あの連中に人質の価値がねェってのがまず、どういうこったよ」
「もともと、あの人たちを軟禁してたのは俺たち……というより、エミリアをここに誘き出すための手段だろ?その狙い通りに俺たちは『聖域』に入って、望まれた条件に従って『試練』も受けてる。人質の食料や世話、見張りだってどこからか際限なくわいてくるわけじゃない。実際、お前がこんな夜だか朝だか区別もできないような時間にまで狩りに励んでるのも無関係じゃないだろ」
スバルの見た限り、『聖域』は森含めてやたらと広大な土地のわりに、使われている部分は極一部――極端なことをいえば、『聖域』で暮らすハーフたちの数はアーラム村の避難民たちと大差ないという予測だった。
つまり単純に考えて、『聖域』の消費食料は以前までの倍。土地の特性上、それらの入手に行商人などを介している可能性は低いと見積もり、食糧事情は主に狩猟や自家栽培に頼っているものと思われる。――故に、
「懐を圧迫するだけの人質連中なんて、もう抱え込んでおく必要はないはずだ。別に人質がいなくなっても、俺たちはもう『試練』を中途で抜けるなんてできねぇし」
「そうだろうよ。なにせ『聖域』に入った時点でハーフ……お姫様は土地の呪いに縛りつけられてんだ。お姫様がここから出ようとしたら、どの道、『試練』を突破しなきゃならねェって……あァ、そういうことか」
言いながらスバルの提案の意味が呑み込めたのか、ガーフィールは酷薄に頬を歪めながら何度か頷く。その様子に、スバルは彼の頭の回転が決して鈍くないことを理解。普段がポーズとまでは言わないが、条件が揃った上での判断ならば、
「人質連中を解放すれば、食い物にしろ内部分裂にしろ、避け難い破綻は避けられるってェ考え方なわっけだな。実際、人質連中が『聖域』を突破できない障害は俺様たち以外にゃァねェわけだしよォ」
「ここまでの状況がお前らの目論見通りなら、最後までそう運ばせるべきだろ?お前らの目的は自分たちを『聖域』から解放させることで、共倒れしたいわけじゃないはずなんだからさ」
「ババアの意見を頭っから尊重すっとそうなんだが……まァ、細けェことはいいか」
手を振り、ガーフィールはスバルの意見をとりあえず耳に入れる。
それから彼はしばし顎に触れて熟考し、
「そもそも、なんでその話を俺様に持ってきた?この場所の頭は俺様じゃなくてババアなんだぜ?納得させて話運びてェってんなら、ババアに持ってくのが確実だろが。自分で言うのもなんだが、俺様じゃ話をややっこしくするだけだったかもしれねェんだぜ?」
「その話をややっこしくさせないためにお前から、なんだよ。ちゃんとメリットデメリットを説明すれば、リューズさんなら説得できるって話してて思ってたしな。でもその場合、お前の出方がわかり難い」
良識と実利の判断ができるリューズならば、スバルの提案を無碍に断ることもないだろう。実際、彼女と話をすれば合意を得られる自信がスバルにはあった。
だが、そうしてトップとの話し合いを済ませてからガーフィールに向き合う場合、
「なんぼなんでも、お前の説得が骨だ。生憎、力ずくでこられたら手も足も出ないってのが俺の自己評価なんでな。懸案事項を先に片付けておいた方が、後々のことを心配しなくて済むだろうと」
「小賢しい考え方してやがんなァ、オイ。つまりアレだろ?今の提案をババアに持ってくにゃァ、俺様の存在が邪魔臭くてしょうがねェと。文句あんなら腕ずくでこいやァ、おォ?」
「さっきまで理性的に話せてたのにどうしてそっち方向に転がるんだよ……」
「俺様が頭使って話せる時間はせいぜい三分だ。もうその制限時間を越えた、今さらなにを言っても無駄だぜ」
「自信満々になにを言い出してんだよ」
握った拳をちらつかせるガーフィールに両手を掲げて降参の構え。無論、ガーフィールの側も本気というわけではない。彼は退屈そうに吐息をこぼすと、
「ハッ、朝っぱらからくだらねェ。いいぜ、好きにしろよ。ババアの説得さえできるってんなら、俺様の方が口出しする気はねェ。どっちにしろ邪魔な連中だ。連れ出すってんなら好きにしやがれ」
「そうか、じゃあお言葉に甘えて……」
「――ただし、条件があんなァ」
最大の懸案事項を乗り越えられそうで、スバルがホッと胸を撫で下ろそうとするところに冷や水。眉を寄せるスバルに、ガーフィールは立てた指を突きつけ、
「てめェのご提案とやらを受けてやんだ。ちったァ、こっち側の話も受け入れてもらわにゃ話になんねェな」
「……そっちにもメリットはあるだろ。食料と、内紛が避けられて」
「べっつに俺様はどっちでも構わねェんだぜ?本格的に食い物が足りなくなるってんなら、人質連中から間引きしてきゃァいい。暴発して奴らが暴れ出しても、片付けるのにも俺様一人で十分に足りる。立場ァ、対等じゃァねェんだぜェ?」
「……条件って、なんだよ」
歯軋りしそうな顔でスバルが絞り出すと、ガーフィールは「話が早ェ」と再び犬歯を噛み鳴らす。そのまま彼はスバルの姿を上から下まで眺めると、
「俺様……いや、『聖域』から出す条件は簡単だ。『試練』はてめェが受けろよ。その方がずっと、話が早ェ」
「――!待て、それは違うだろ。それやったら前提から……」
確かにそれは、スバルの頭の中を何度も過った考えではある。
しかし、それはあくまで最終手段であり、なるべくならば避けたい選択肢。なによりそれをしてしまえば、これまでのエミリアの努力が――。
「勘違いしてるみたいだから教えてやっけどよォ……別に俺様やババアたちは、『聖域』から解放されるってんならそれをやるのが誰でも構やしねェんだよ」
「――――」
「お姫様に乗り越えさせて、人質連中からもババアたちからも評価されたいってのはてめェらの事情。過去だかなんだか知んねェが、くよくよと引っかかってる過ぎたこととケリつけさせたいってのもてめェらの事情。全部が全部、てめェらの問題だ」
ガーフィールの言葉に反論ができない。
彼の意見は至極まっとうで、彼らの事情を汲み取っていないスバルには言葉を差し挟ませる余地がない。彼の言う通り、エミリアに『試練』を受けさせるのも、それを彼女に乗り越えてほしいのも、全てはこちらの事情と思惑によるものだ。
そしてさらに彼は、
「――そもそも、本当に過去なんざ乗り越える必要があんのかよ」
「え?」
「三日だぜ、三日。俺様もてめェらと一緒に墓所で、あのお姫様が『試練』を受けてぐっだぐだになるのは見届けてきてんだ。正直、もう見てらんねェよ」
「見て、られないってのは……」
「気負い過ぎの傷付きすぎだろ?やらなきゃやらなきゃって前のめりになって、それであの様で帰ってきちゃァできなかったのをうじうじと謝ってやがる。それでどうして、てめェらはまだあのお姫様に『試練』なんざ続けさせたがんだよ」
ガーフィールが語るのは、ここ三日間の『試練』を受けたエミリアの姿だ。
『試練』が始まった翌日の夜、再び『試練』に挑んだエミリアは、しかし再度の『過去』を前にそれを乗り越えることが叶わなかった。なにより、彼女の隣で同じく『試練』に臨もうとしたスバルは、『試練』を受けることさえ叶わなかったのだ。
最初、墓所に取り残されてわけのわからなかったスバルだったが、『試練』から中途で舞い戻ったエミリアの言葉――『試練』の中で何者かに告げられた、スバルの『試練』が始らない理由を聞いてからは納得ができた。
曰く、第二の『試練』は第一の『試練』を越えた先の間で行われる。
墓所の中、第一の『試練』が行われる空間。四角い部屋の奥には閉ざされた扉があり、スバルは全ての『試練』を越えればその扉の向こうにいけるものと思っていたのだが――実際にはその先で第二の『試練』が待っており、そこに行く資格は第一の『試練』を乗り越えなくては得られないということだった。
つまり、スバル単独でならば第二の『試練』に挑むこともできるのだ。それがわかっていてなお、これまでその先に一人で進まなかったのは――、
「エミリアは、必ず『試練』を乗り越えてくれる。だから俺たちは……」
「その期待ってやつが重たすぎっから、お姫様はあんなに苦しんでんじゃねェのかよ。あんな様になるまで傷付く記憶と、無理やりに向き合わせんのがてめェらの望みで、お姫様のやりてェことだってのか?頭の悪ィ俺様にはわかんねェなァ」
「エミリアの……意思……」
ガーフィールの頭を掻きながらの言葉――だがそれは、スバルにとっては寝起きの顔に冷水を浴びせられたような衝撃をもたらしていた。
ことここに至るまで、スバルは『試練』に挑むエミリアの気概を尊重し、そんな彼女を誰よりも献身的に支えるつもりでいた。たとえどれほど苦しい道のりであろうと、彼女が膝を屈しない限りは手を差し伸べ続けようと思っていた。
そうして立ち上がり続ける彼女の意思が、どこを向いているか確かめないまま。
思えばスバルは、エミリアがどうして王様になろうとしているからすら知らない。
王選の広間で聞いた彼女の宣言は、あくまで周囲に対して対等であろうとする意思の表明であり、彼女が王になろうとする理由では決してなかった。
不当な扱いを、評価を受け続けてきた過去を感じさせるエミリアの生い立ち。その中で彼女はなにを思い、なにを感じ、なにを信じて――王位を目指すのか。
彼女の支えになりたいと強く願い続ける傍らで、しかしスバルはそんな最初に問うておくべきことすら怠っていた。
そもそも、エミリアとロズワールはどうして出会った?ロズワールはなぜ、ハーフエルフである彼女を王にしようとする?彼女に王の資格――龍の巫女である資格があることは徽章の宝珠が証明している。だが、ロズワールはどうしてそれを彼女の手に触れさせる切っ掛けを得た?エミリアとロズワールはどんな利害が一致したことで、協力関係にあるというのか――スバルは、何一つ知らない。
知らないまま、ここまできてしまった。
「なにに衝撃を受けてやがんだか知らねェが、話がねェってんなら俺様はいくぜ、オイ。狩りの途中だ……さっきの提案については、俺様の条件を受ける気になったんなら好きにババアに通しやがれよ。俺様ァ、あとのこたァ知らねェ」
立ち尽くすスバルに肩をすくめて、ガーフィールの姿が朝焼けの森の中に消える。
気付けばすでに夜の帳は朝の日差しを受けて後退し、鬱蒼とした夜闇に落ちていた森には朝の静けさ――葉に朝露が乗るような、そんな時間になっていた。
取り残されたままスバルは空を見上げる。
頭上、木々の隙間から覗く分厚い雲間に、ほんのわずかだけ顔を出した太陽――それはすぐにまた雲に隠されて、世界に刹那だけの光を落として消える。
その一瞬だけの光に目を細めて、スバルは歩き出した。
「俺が見てたものは。俺は『過去』と向き合って、ケリつけて、それでよかったって思ってる。けど、エミリアは……」
誰もがそれに決着をつけて歩いていけるものだと、スバルは思い込んでいた。
過ぎてしまったそれに別れを告げることで、人は歩き出せるものだと、自分が得た温かな記憶に癒されるあまり、そう思い込んでしまった。
自分の周りにいた人たちが、自分には過ぎるほどに優しい人たちばかりだったから、スバルは『過去』は振り返るべきものだと断じてしまっていた。
その、スバルの考えは――、
「――す、ばる?」
部屋の隅で膝を抱えてうなだれる、この銀髪の少女にどれだけ重かっただろうか。
与えられた家屋で、寝台の横に体を落とし、冷たい床の上に座り込みながら、エミリアはただ静かに静かに時間を過ごしていた。
朝が弱いはずの彼女が、この早朝に目を覚ましていることに驚きはない。こちらに目を向けた彼女の瞳は充血し、美しく凛々しい面貌には疲労と涙の跡が色濃く残っていた。――一睡もできていないのは、火を見るより明らかだ。
彼女は来訪したスバルに気付くと、その涙顔を見られないように顔を背けて、
「あ、ごめ……ごめんね。も、もう時間?時間になった?は、早いのね……でも、やらなきゃ。頑張らなきゃ……し、『試練』の時間、だもんね?」
「エミリアたん」
「だ、大丈夫。今日こそは、今度こそ、きっと……うん、きっとうまくやるから。も、もうそろそろ『試練』でなにが起こるのか、わかってきたもの。ほら、ぱたーんだっけ。スバルが言ってた、うん、その、それが、ほら、わかって……うん、だから、私は、だ、大丈夫だから……」
「エミリアたん、大丈夫だ。まだ夜になってないどころか、昨日の夜が終わってない。これから朝だよ。時間なんて、まだまだ先だ」
「う、嘘言ってもわかるんだから。だって、ほら……お外、暗いじゃない。朝なら、明るくなきゃ……あ、でも、私、今日は微精霊の子たちとお話……」
スバルを見上げ、口早に言葉を投げかけるエミリアの瞳が大きく震える。そこには契約を順守できなかった自分への驚きと憤りがあり、それを危うく彼女が己への叱咤で解消してしまいそうな素振りが見えたところで、
「エミリア」
「あ……」
振り上げかけた手を掴み、スバルは彼女の指と己の指を絡める。
結ばれた手を見てエミリアは唖然とし、それからゆっくりとスバルの黒瞳に自分の姿を映して、
「わ、私……」
「今、ここには俺しかいない。だからどんなに弱音を吐いたって大丈夫だ。焦る必要もないし、気負うことだってない。俺は君の味方だ。どんなときでも」
「すばるぅ……」
差し伸べた手に縋りつき、エミリアはか細い声でスバルの名を呼びながら顔を俯かせる。そのまま腕ごと座る彼女に引き寄せられ、その隣に腰を下ろすスバル。
空いた手で彼女の銀髪をゆっくりと撫でると、次第に彼女の体から力が抜けていき、しばらくしたところで安堵したような寝息が届いてきた。
疲れ切っているのだ。それでも夜を一人で越えることができず、スバルに頼りきりになってしまうくらい。
すぐ隣で小さな寝息を漏らすエミリアを横目に、スバルは愛おしい彼女の頬を掠めるように指で触れて、その涙のあとを確かめる。
――そして、もう限界だろうなと、そう決断した。