『ヴォラキア帝国』


 

――何かが、おぞましい何かが渦を巻いている感覚があった。

 

渦、そう渦だ。

ぐるぐる、ぐるぐると、勢いよく回り、全てを呑み込んでゆく渦が渦巻いている。

それがどこかで、いいや、自分の中心で、ぐるぐると渦が渦巻いている。

 

何もかもを呑み込んでしまう、嵐のように強烈で、稲妻のように鮮烈で、マグマのように熱烈で、そんな凶悪な黒い渦が、渦巻いている。

 

それはあるいは、ずっとこの身の奥底に眠り続けていたおぞましき呪縛。

決してほどけることなく、延々と絡み合い、結び合い、繋がり合った『死』の呪縛。

この命は先約済みだと、誰にも売り渡すまいとする強欲なる呪印。

 

本来であれば命を蝕むはずの呪怨、それらが互いに干渉し、憎み合い、相手に引き渡すことを拒み、抗い、奪い合う。――結果、相反する答えへ至る。

 

呪いは、この器を死なせまいとする。

 

ぐるぐる、ぐるぐると、勢いよく回り、全てを呑み込んでゆく渦が渦巻いている。

獣に、龍に、呪われた器を中心に、ぐるぐる、ぐるぐると、渦巻いて――。

 

△▼△▼△▼△

 

赤い旗の天幕が、治療用。陣地にあったのは全部で五つ。

黒い旗の天幕が、備蓄用。陣地にあったのは全部で二十五。

白い旗の天幕が、幹部用。陣地にあったのは全部で三つ。

 

金の旗の天幕が、指揮官用。陣地にあったのはたったの一つ。

 

雑用係の名目で、あちらこちらを走り回る自由を与えられていたから、短い時間ではあったけれど、意外と各所に目を配ることができた。

本物の野営陣地というものを見るのは、スバルにとって帝国が二度目だった。

 

一度目は、ルグニカ王国での白鯨戦前後のことだ。

白鯨の出現に備えるため、フリューゲルの大樹の周囲に陣取ったとき、ここまで本格的ではないものの、野営陣地というものを設営した。

その後も、小規模のものなら何度か野宿の機会には恵まれたものだ。とはいえ、それらはあくまで簡易的なもので、帝国ほど本格的なものはそうそうなかった。

 

なので、物珍しさも手伝って、あちこちをよくよく観察していたと思う。

もちろん、一人を除いて帝国兵にはあまりいい印象を抱かれていなかったようなので、何か重要なものがある場所に出入りしようものなら、それこそスバルの首と胴は別れ別れになっていただろうから、ほんの上っ面の部分だけであるが。

しかし、その程度の知識であっても――、

 

「――十分、有用なものだ。情報があるのとないのとでは雲泥の差……何より、張った陣容を知れれば、おおよそ敵の兵力が割れる。あとは」

 

「我らの勇気と力を示すのミ。よくわかっている、同胞ヨ」

 

「ああ、見せてみるがいい。かつて、武帝と謳われた皇帝と轡を並べ、あらゆる敵を薙ぎ倒した勇敢なる戦士、シュドラクの民の誇りと武を」

 

うつらうつらと、まるで温い水の中を漂っているような倦怠感がある。

そんな最中に聞こえてくるのは、覇気に漲った男と女の声だった。

 

「――――」

 

その、声の主である男と女のもの以外にも、多くの息遣いが聞こえている。

大勢の、たくさんの人間の気配を感じる。

大勢の、たくさんの人間の熱い熱い、熱意のようなものを感じる。

 

それらがやけに、妙に自分を中心に高まっていくのを感じて――、

 

「――では、始めるぞ、シュドラク!ここから、反撃の狼煙を上げる!!」

 

「お、おおおお――っっ!!」

 

――凄まじい雄叫びが、世界を丸ごと噛み砕くみたいに響き渡った。

 

「――おぁ!?」

 

びしゃり、と顔に冷たく濡れた感触を被せられ、スバルの全身が驚きに跳ねた。

何があったのか、意識は急速に引き上げられ、ぱちくりと瞬きする視界は白く覆われていた。――否、これが濡れた感触の答えだ。

スバルの顔に被せられていたのは、濡らしてほとんど絞られていない布切れだ。

 

以前、何かの本で、顔にタオルを被せて、その上に水を垂らすという拷問があると読んだことがある。用意するのはタオルと水だけでよく、手軽に溺れる感覚を味わわせることができるという、まるで地獄のような水責めのテクニック――。

 

「お、俺が話せることなんて何もねぇぞ……!」

 

「おオ、スー、起きタ。元気になっテ、ウーも安心」

 

「あ、あ……?」

 

拷問官にしては幼い声が聞こえて、スバルは驚きながら顔を横に振る。すると、被せられた布がズレ、普通に視界を確保することができた。

どうやら拷問ではなかったらしく、開けた視界にはうっすらと大きな木々の葉っぱに遮られた空が見える。そして、その空を隠すようにひょいと顔を覗かせたのは――、

 

「お前、は……」

 

「ウタカタ!ウー、スーの護衛!看護!子守役!目覚めてよかっタ!」

 

「……イマイチ、ピンとこねぇんだが」

 

けらけらと笑い、そう甲高い声で主張してきたのは、黒い髪の先の方を桃色に染めた少女――そう、ウタカタだった。

シュドラクの民の一人であり、集落でも顔を合わせた少女だ。――スバルを一度、毒矢で殺したことがある相手でもある。

もっとも、この笑顔を見るに、現在は友好的な関係を築けているようで、ああして毒矢で息の根を止められる心配はなさそうだ。

 

「もちろん、水責めされる様子もなし……か?ええと……」

 

「スー、『血命の儀』、終えタ!エルギーナ、勝っタ!ウーもミーもホーも、みんなみんな驚いタ!」

 

「……段々と思い出してきたぞ。そうだ、『血命の儀』をやらされたんだ」

 

シュドラクの民に自分たちを認めさせるため、『血命の儀』へと挑んだ。

シュドラクに伝わる成人の儀であり、一人前であると認めさせるための行い。それにスバルと、同じように捕まっていたアベルの二人がかりで臨んだのだ。

その儀式の敵となったのが、バドハイム密林に生息する巨大な蛇の魔獣エルギーナ。

スバルとアベルは命懸けで、どうにかその大蛇の角を折るのに挑み――、

 

「……ダメだ。無我夢中だったせいか、後半が全然思い出せねぇ。生き残ったってことはアベルがうまいことやってくれたのか……?」

 

「――?スー、覚えてないカ?ミー、大爆笑してタ」

 

「大爆笑って、俺の無様さにか?勘弁してくれよ……って」

 

首をひねったウタカタに顔をしかめ、スバルはぐっと体を起こそうとする。その途中、右手を床についたところで、スバルは妙な感覚を味わった。

それは手をついた床が濡れていたとか、そこに硬いものが置いてあったとか、そういう類の違和感ではない。もっと、原因は根本的なところにありそうな感触。

有体に言えば、床ではなく、スバルの腕の方に原因がありそうな感触だった。

 

「――。あの、ウタカタさん?俺のその、右手ってなんかなってます?」

 

「スーの右手?ア、すごかっタ!ぐしゅぐしゅってしテ、ブワーってなっタ」

 

「ぐしゅぐしゅってして、ぶわーっ!?」

 

嫌な予感しかしない擬音を並べられ、スバルが目を剥く。

それから深呼吸を繰り返し、まず心の準備の方を済ませてから、意を決しようとする。まずは首を左手に向けた。指が三本折れている。痛いが、安心した。

そうしてゆっくりと、右手の方に視線を向けて――、

 

「……なんじゃこりゃ」

 

一瞬、見えたものが何かの間違いかと思うほど、それは異質な状態だった。

元々、スバルの右腕には黒い斑模様のおぞましい紋様が走っており、それは水門都市プリステラで『色欲』の大罪司教と一戦交えたときの後遺症だった。

『色欲』のカペラは自らの血を龍の血とのたまい、スバルとクルシュの二人にそれを浴びせかけた。その結果、クルシュは癒えない傷を負い、スバルは彼女の肉体に走るおぞましい血を引き受けるかのように、右腕に黒々とした紋様を刻んだ。

 

とはいえ、見た目以外には悪影響を及ぼさない代物だったため、スバルは普段は長い袖の服を着ることでそれを隠し、特段、引きずる素振りを見せてこなかった。

しかし、その黒い紋様が――、

 

「――――」

 

びっしりと、紋様どころの話ではなかった。

スバルの右腕、その指先から手首、そして手首から肘に至るまでの前腕の半分くらいまでが、まるで黒い手袋を嵌めたみたいに真っ黒に染まっていた。

 

ごくりと唾を呑み、スバルはおそるおそる、その黒い右手に左手で触れてみる。

ぶよぶよと弾力のある感触が左手にあり、逆に右手の触れられた感覚は乏しい。右手はゴムの手袋を嵌めているような状態で、動きも緩慢としていて――、

 

「……いや、これ、もしかして」

 

覚えた違和感、それを形にするために、スバルは左手の爪を黒い右手に強めに立てた。ぐっと指を押し込み、引っ掻くように動かす。

すると、右手の黒い部分がボロっと、土の壁を剥がすみたいに剥がれ落ちた。

「うえ!?」と驚きながら、スバルは剥がれた部位に指をねじ込み、憑りつかれたように剥がすのに集中、やがて指先から前腕までの黒い模様が全て剥がれて、その下から綺麗な新品の、ナツキ・スバルの右手が出てきた。

 

「な、なんじゃこりゃああぁぁぁ――っ!?」

 

「うきゃんっ!?」

 

我が身に起こった衝撃的な事態を目の当たりにして、スバルが悲鳴を上げる。と、その声に驚いたウタカタが尻餅をついた。

だが、スバルも余裕がなく、転んだ少女に手を貸してやることもできない。

 

「な、な、な……どうなってんだ、俺の手!俺の、手……だよ、な?」

 

唖然としながら、スバルはその綺麗な右手の拳を閉じたり開いたりして、それからおそるおそる自分の顔に触れてみたり、床についてみたりする。

感触も、動かし方も、何もかもが問題ない、平然とした状態だ。

その右手に、元々残されてしまっていた黒い紋様も失われ、スバルの右手は綺麗な、それこそ異世界生活で一年間揉まれてきた、『幼女使い』の右腕だった。

 

「って、誰が『幼女使い』だ!」

 

「――声がしたと思ってみれば、貴様は何を言っている」

 

健在な右手を確かめ、混乱するスバルの下へ誰かがやってくる。――否、誰かということもない。この傲岸不遜とした物言いの心当たりは二人しかおらず、心当たりは男女で分かれているため、区別は容易だ。

これは男の声、すなわち――、

 

「アベル、か。お前、生きてたんだな」

 

「当然であろう。貴様よりよほど平然としたものだ」

 

そう言って鼻を鳴らしたのは、変わらぬ覆面姿も見慣れてきたアベルだった。

スバルと一緒に『血命の儀』に挑んだ彼だったが、どうやら死なずにエルギーナとの戦いを生き延びたらしい。むしろ、スバルが生き残ったのが彼のおかげというべきか。

たぶん、エルギーナを倒してくれたのも彼だろうから。

 

「――む。貴様、その右腕はどうした。あのおぞましい見た目はやめたのか?」

 

「俺が自分の意思で、右手のカラーリングを変えられるみたいに言うのやめてくれる?洋ゲーのキャラクリ画面じゃねぇんだから、そんな自由度ねぇよ。……黒い部分は、引っ掻いたら綺麗に剥がれたんだよ。なぁ、ウタカタ」

 

「そうそウ。スーの右手、ボロボロ剥がれタ!気持ち悪イ!」

 

「わかるけども!」

 

率直なウタカタの感想に頬を引きつらせ、スバルはアベルに右手を突き出す。その無事な右手を矯めつ眇めつ確かめて、アベルは「そうか」と呟いた。

 

「いずれにせよ、元通りになったのなら構わぬ。まさか魔封石の指輪ごと殴りつけるとは思わなんだ。手首から先がなくなって、助からぬと思ったがな」

 

「待った待った待った、怖い話されてる?誰の手首から先がなくなったって?」

 

「貴様だ」

「スー!」

 

腕を組んだアベルと、元気よく右手を突き上げたウタカタ。

二人の答えにゾッとなり、スバルは自分の綺麗な右手を見る。吹っ飛んだどころか、新品同然の状態の右手だ。

 

「ま、またまた、そんなこと言って。なくなったんなら、この右手はなんだよ」

 

「それがおぞましくも奇妙な事象よ。腕がなくなり、瀕死の貴様の言葉を吐き出させた。その後は死ぬものと思っていたが……貴様の手から、黒い澱みが溢れたのだ」

 

「よ、澱み……?」

 

「それが瞬く間に腕の形を取り、黒い腕となった。何があったのかと問うのであれば、貴様の方こそ何のつもりだと問い返さねばなるまいよ」

 

鋭い視線に射抜かれ、スバルはうぐっと息を詰める。

そのまま右手に視線を戻すが、アベルにどう言われようとも、スバルにだって何が起こった結果なのかはわからない。ただ、右手にずっと刻まれていた黒い紋様――見えなくなったあれが無関係ではないこと、それは間違いないだろう。

あるいは本当に龍の血が働いた結果なのかもしれないが――、

 

「それならそれで、なんで今までは発動しなかったって話になるからな……」

 

こう言ってはなんだが、龍の血を浴びたのが三ヶ月近く前の出来事だ。

その後のアウグリア砂丘を越える旅路、そしてプレアデス監視塔での死闘の最中、スバルはこれまで以上の死線を掻い潜り、挙句に帝国入りだ。

その間、文字通り、死ぬような事態には幾度も出くわし、しかし、その際に傷が治るような都合のいい出来事は起こらなかった。

それが何故、ここでは――、

 

「……考えてもわからねぇことはいい。それに、右手以外の傷は、ちっとも治ってやがらねぇんだから」

 

呟くスバルの全身、左手の指が折れているのは確認した通りだが、肩甲骨付近の背中の傷や、首筋あたりの知らない火傷、その他多数の打ち身も治っていない。

真面目に、右手の傷しか治してくれていないので、下手するとあの黒い紋様があったのが右手だから、右手の傷だけは治したという可能性が浮上してくる。

 

「そんで、右手のあれも消えたからもう治らなそう……試すためにもう一回、右手を吹っ飛ばせって言われてもできねぇし」

 

「結局、語れぬ事情というわけか。ずいぶんと隠し事が多いようだな」

 

「顔隠してる奴に言われたくねぇよ……」

 

と、渋い顔をしながら答えたところで、スバルは「あ」と息を吐いた。

のんびりと、右手の異常について思考を走らせたり、アベルの無事を確かめたりしていたが、それよりも優先すべきことがあったのを思い出したのだ。

 

『血命の儀』に参加したことと、儀式を終えたことが死なずに進行したのなら、つまりは時間がスバルの意識のない間も流れていたことになる。

ということは、またあれから数時間が経過したということで――、

 

「――レム。そうだ、レムだ!こうしちゃいられねぇ、レムを……」

 

元々の目的、取り残してきてしまったレムを連れ戻す。

そのために『血命の儀』に挑んだというのに、時間経過で彼女を救えなくなれば、ああして命懸けの戦いに臨んだ意味が失われてしまう。

 

「あ!スー、無茶するノ、ダメ!死ヌ!」

 

「馬鹿言え!俺が死ななくても、レムが死んだら意味が――ぐッ」

 

焦る心情に押され、スバルは寝床から降りようと姿勢を入れ替える。

今さら気付いたが、どうやらスバルは奇妙な寝床――丸太を組んで作った神輿のような箱の中に寝かされ、建物の外に連れ出されていたらしい。

そこから勢いよく降りたところで、スバルは全身をつんざく痛みに呻いた。

 

「が、は……っ」

 

「戯けが。右腕が生え変わったくらいで、瀕死の肉体が復調したとでも思ったのか?言ったはずだぞ。貴様は死ぬものと俺は見たと。俺の見立てが過つと思うか?」

 

「それ、は……」

 

痛みに蹲ったスバルを見下ろし、アベルの冷たい声が降ってくる。

そのアベルの言葉を肯定するように、スバルは自分の体の奥底から、じわりと何かが沁み出してくるような、そんな感覚があることに気付いた。

 

致命的な痛みをいくつも知るスバルには、これが危険信号だとわかる。

まるで、開いてはいけない場所に穴の開いた風船かバケツのように、中の水やら空気やら、膨らませている要因がこぼれ出していくような感覚――、

 

「でも、レムを……」

 

「――。この状態でもなお、自分ではなく、女の方を気にするか。まぁいい。わかっていたことだ。右手がなくても望んだことであるからな」

 

「……あぁ?」

 

「こっちだ」

 

自分の命より、この場にいないレムの安否が気にかかる。

そんなスバルの言葉に呆れた吐息をこぼし、アベルが顎をしゃくった。そのまま、彼はスバルを一顧だにせずに歩き出す。ついてこいと、そう言わんばかりに。

 

「スー、いけル?肩貸ス?」

 

「いや、いけるよ……ウタカタの肩借りると、身長差で余計しんどそうだ」

 

顔を覗き込み、気遣ってくれるウタカタに苦笑い。

それからスバルは深呼吸して、どうにかこうにか立ち上がった。足を引きずるようにして、前を歩いているアベルへ追いつく。

 

「――――」

 

アベルは少し先で、スバルが追いつくのを待っていた。

緑の草に覆われた岩を足場に、彼は見晴らしのいい崖際から向こうを眺めている。えっちらおっちらと、スバルも大岩をよじ登り、彼の隣に並んだ。

そして――、

 

「――見ろ」

 

今一度、小さく顎をしゃくった彼に従い、スバルは顔を上げた。

そうして上げた視界、スバルは高台から一望できる光景を目にし、口を開けた。

ぽかんと、呆気に取られたように。何故ならそこには――、

 

「――ぁ?」

 

黒煙が上がり、炎に包まれる陣地――帝国兵の野営地が、火の手に呑まれていた。

 

△▼△▼△▼△

 

――聞こえてくるのは鬨の声、大気を震わせる勝利の凱歌。

 

「――っ!!」

 

雄叫びを上げ、あるいは聞いたことのない歌を高らかに歌っているのは、褐色の肌に弓を背負い、戦場を縦横無尽に駆け抜ける女戦士たち。

シュドラクの民の奇襲により、帝国兵の陣地は壊滅状態へ陥り、帝国兵たちは抵抗する術を失い、逃げ惑い、次々と討たれていくしかなかった。

 

「これ、は……」

 

「攻勢に回り、武器を奪い、薬品を焼いて、指揮官を穿つ。手指と頭を失えば、あとはなりふり構わず背を向けて逃げるしかない。――剣狼たるものが無様なものよ」

 

「――――」

 

眼下、黒煙と強弓に追い立てられ、這う這うの体で逃走する帝国兵が見える。

だが、森の中で獣を狩ることを生業とするシュドラクの民からは逃げられない。はるか彼方までも見通す彼女らの矢は、背を向けて逃げる兵の心臓を正確に撃った。

 

何人が逃げ延びただろうか。何人が生き延びただろうか。

いったい、何人が死んだのだろうか。

 

「こんな……っ」

 

「何を呆けている、ナツキ・スバル。貴様が望み、貴様がもたらした情報で以て、貴様の同胞たちが成し遂げた戦果だ。これを笑わず、何を笑う」

 

まさしく戦場と化した野営地の光景を見下ろし、スバルは意識が遠くなった。その上、現実を強く押し付けてくるアベルは、この所業をスバルが望んだと言い放つ。

それが耐え難くて、スバルは勢いよく立ち上がり、アベルの胸倉を掴んだ。

治ったばかりの右腕でアベルを掴み、その目を間近で睨みつける。

 

「俺が望んだだと?こんな、こんな光景をか!?馬鹿を言うんじゃ……」

 

「――ならば、流血なく願いが叶うとでも思ったのか?」

 

「――っ」

 

しかし、怒りのままに噛みつこうとしたスバルへと、アベルは噛みつき返した。その舌鋒の鋭さに切り刻まれ、スバルは何も言い返せない。

 

「――――」

 

流血なく、願いが叶うと思ったのかと言われ、何も言えない。

流血なしで、叶えられると思っていた。できると、考えていた。

だって――、

 

「言い換えてやろう、ナツキ・スバル。――貴様は、自分自身以外の流血なしに願いが叶うとでも思っていたのか?」

 

「――ぁ」

 

「ふざけた考えだ。愚かで度し難い思い込みだ。自分自身が血を流せば、争う第三者たちを止められるとでも本気で考えていたのか?それは貴様の掲げたくだらぬ英雄願望などよりなお性質の悪い、英雄幻想だ」

 

「――――」

 

「貴様は人間だ、ナツキ・スバル。英雄でも賢者でもない。故に、貴様がいようと人は血を流し、命を落とし、奪ったり奪われたりを繰り返す」

 

胸倉を掴まれたまま、アベルは力の抜けていくスバルを滅多打ちにする。

言葉に打たれ、スバルは歯の根を震わせ、嫌々と首を横に振った。

 

それは、そうなのだろう。

否定できない事実なのだ。それはわかる。でも、スバルはそれを呑み込めない。

それを当たり前のものと、そう呑み込める世界を生きてこなかった。

 

異世界にきてすらなお、ナツキ・スバルの倫理観は日本の高校生のままだ。

戦場の流儀や常識を、当たり前のものとしては受け止められない。

 

「俺は英雄を望まぬ。奴らに縋り、頼り、委ねることなどない。あらゆるものを背負い、豊かな方へ進める。――英雄に、それはできん」

 

「なん、なんだよ……お前、何をどうしたいんだ……」

 

力が抜けて、その場に再び膝をつくスバルはアベルがわからない。

『血命の儀』に共に挑み、勝利をもぎ取っただろう相手だ。意外と会話のテンポが合い、相性は悪くないのだと思う。だが、何を考えているのかわからない。

当然だ。――顔も見せない相手と、どうしてそんな風にわかり合える。

 

「顔も、見せない奴と何を……」

 

「顔か。――ならば、見せてやる」

 

「え?」と、疑問の声を投げかける暇さえ与えられなかった。

苦し紛れの、蚊の鳴くようなスバルの訴えを聞いて、アベルが自分の顔に手をかける。そして彼が顔に巻いた覆面、そのボロの結び目を指で解くと、風が吹いた。

強い風になびいて、勢いよく覆面が外れ、飛んでゆく。

飛んで、飛んで、それは戦場と化した陣地を飛び越え、はるか遠くへ向かう風に乗ってどこまでも、どこまでも、遠く飛んで――、

 

「あるいは帝都まで行くだろう。――俺が座るべき、玉座のある都まで」

 

「――――」

 

風に飛ばされるボロ切れを眺め、大仰なことを言い放ったアベル。

その露わになった男の顔を見て、スバルは静かに息を詰め、目が離せなくなる。

 

それは、切れ長な瞳が印象的な黒髪の美青年だった。

年齢はスバルよりいくつも上で、二十代の前半から半ばといったところか。目を奪われるほど整った顔立ちをしており、しばらく森や集落で過ごしたことが原因で髪の乱れや頬の汚れが目立つものの、それすらも持ち前の美貌を際立てる役目を果たしている。

すらりと長い手足と、細身の胴体の上にその顔が乗っているのだから、おおよそ美丈夫として完成された存在感と言えよう。

だが、やはり彼の人物の最も特徴的なのは、その黒い瞳にあると言える。

 

見るもの全てをひれ伏させるような、凄まじい覇気と威圧感を伴った眼光。

それを真正面から向けられ、すでに膝をついているスバルは、自分がその姿勢から傷や疲労感とは異なる理由で動けなくなるのを感じた。

わかるのだ。魂が、目の前の人物に対して屈服しているのだと。

その、凄まじい存在感の理由は――、

 

「――ヴィンセント・アベルクス」

 

「……は?」

 

「俺の名だ。少なくとも、再び玉座に座るまではこの名を名乗る。もっとも、今後もアベルの方で通すのが賢明だとは思うがな」

 

そう言って、唖然となるスバルにアベルは口の端を歪めた。

それがひどく凶悪な、野性味さえ感じさせる笑みであるのだとスバルは遅れて気付く。

その名前が意味するところはわからぬままに――、

 

「――アベル!スバル!」

 

「――っ」

 

スバルの硬直を解いたのは、投げかけられた鋭い声だった。

とっさにそちらへ顔を向けると、手を振りながらスバルたちの方へやってくる人影が見える。それは髪を赤く染めた女傑、シュドラクの長たるミゼルダだ。

ミゼルダは好戦的な表情を親しげに緩め、

 

「陣の制圧は完了しタ。こちらの被害は最低限デ……おお?アベル、お前の顔を初めて見たガ、ずいぶんと色男……」

 

「ミゼルダさん……」

 

「こほん……スバル、お前モ目覚めていてよかっタ。あのまま死んでハ、同胞としても浮かばれなかったからナ」

 

一瞬、アベルの素顔に見惚れたミゼルダが咳払いし、スバルに優しい目を向ける。

それは死を目前とした生者へ手向ける優しい微笑で、スバルの心と身が竦む。アベルと同じように、彼女もスバルが長くもたないと判断している。

その上で、ああして明るく接せられるのは死生観の違いとしか言えない。

ただ、その死生観の違いのみがミゼルダを微笑ませたわけでないことは、そのあとの彼女の行動ですぐにわかった。

 

「ホーリィ、こっちに連れてこイ」

 

「はいはい、わかったノ~!」

 

振り返るミゼルダが誰かに声をかけると、元気のいいのんびりした返事がある。

そのまま、のしのしとこちらへ歩んでくるのは、大岩さえも軽々と運んでみせた黄色く髪を染めた女性――ホーリィと、そう呼ばれた娘だった。

そして、そのニコニコと微笑んだホーリィの腕に抱かれているのは――、

 

「暴れちゃダメなノ~。ぶっ飛ばされたクーナがまだ起きなくて可哀想なノ~」

 

「勝手なことを……っ!離してください!何をするつもりなんですか!」

 

「もう、人の話を聞いてくれない子で困っちゃうノ~」

 

困り顔のホーリィ、彼女の腕の中で身をよじってもがいている少女がいる。

それは青い髪に、愛らしい顔立ちを怒りで染め上げた、スバルが今、この場で最も見たかった、声を聞きたかった、会いたかった少女であり――、

 

「――レム!」

 

その瞬間、スバルは自分の体調の不良も、アベルに対して感じた畏怖も、眼下の炎に包まれる戦場への拒絶感も、何もかもを忘れて走り出していた。

その速度が遅い。うっかり死にかねないから大岩を飛び降りられず、引きずるように足を動かして子どもの駆け足よりも遅い速度で走った。

そして、スバルはホーリィに抱かれるレムの下へ向かい――、

 

「あなたは……」

 

「レム!よかった、お前は無事で……」

 

「あなたが、これをやらせたんですか!最低です!」

 

と、その体にスバルが腕を伸ばした途端、レムの振るった手がスバルの頬を打った。

バチンと強めの音が響いて、ホーリィとミゼルダ、ウタカタまでも驚きに目を見張る。結構な威力だったから、スバルも吹っ飛びそうになったぐらいだ。

でも、吹っ飛ばなかった。殴られて、どうしてと不満を訴えることもなかった。

 

不満なんてどこにもなかった。

だって、レムがこうして生きていて、喋ってくれて、それだけでいい。

 

「レム……」

 

「――っ、あなたはどこまでも」

 

結構な威力で頬を叩かれ、しかし、スバルは構わずレムの体を掻き抱いた。ホーリィから奪うようにスバルの胸に迎えられ、レムが驚いたあと、怒りに顔を赤くする。

そのまま、強烈な一撃を叩き込まんと拳を固めて――、

 

「……あなたは」

 

スバルの体にトドメを刺す前に、その満身創痍ぶりに気付いたようだった。

 

「――――」

 

安堵に力が抜けて、その場にへたり込むスバル。その腕に抱かれたまま、レムはスバルの体の負傷――肩や胴体、足に左手と様々な傷に言葉を失う。

 

「……いや、左手はレムに折られたんだけどね?」

 

「そんなのわかっています!でも、それ以外にこんな傷……こんなの、死んでしまいますよ!すぐに治療しないと……」

 

「無駄ダ」

 

力ない笑みを浮かべたスバルを見て、レムが必死にそう訴える。だが、その訴えはミゼルダの短く明瞭な答えによって却下された。

その言葉の切れ味に、思わずレムも「え」と顔を上げる。

そんなレムの視線に、ミゼルダは首をゆるゆると横に振って、

 

「スバルの傷は深ク、手当てしても治るものではなイ。今は精神力がもたせていたガ、それももうすぐ途切れるだろウ」

 

「途切れるって、そんな、急にどうして……!」

 

「――?自分の女を取り戻したからに決まっていル」

 

首をひねり、ミゼルダが当たり前のことのようにそう言った。

それを受け、レムが「は」と息を詰め、顔を上げていられないスバルが苦笑する。

 

「ミゼルダさん、言い方……」

 

「間違ったことを言ったカ?同胞の最後の願いともなれバ、我々も全霊を尽くしタ。そうする価値がある男ダ、お前ハ」

 

「はは、恐悦至極……」

 

ミゼルダの真っ直ぐな信頼の言葉が嬉しい反面、憎らしい。

だって、彼女らの見立てや言葉が間違いないことは、スバル自身がわかっている。だから、この場のレムに余計なものを背負わせ、足を重くしてしまう。

ただでさえ動かしづらい足を、重たくしてしまう――。

 

「なんで、なんでなんですか……」

 

首を持ち上げておく力もなくなったスバルに、そんなレムの声がかかる。

そのレムの声が震えているのと、いつの間にか、レムを抱きしめていたはずのスバルが逆にレムの腕に体を支えられていたのに気付いた。

レムが薄青の瞳を揺らめかせ、疑念と不信、それと悲しみの目でスバルを見ている。

 

「どうして、あなたはそうまでするんですか?私を、どうして……」

 

「――――」

 

「どうしてなんですか」

 

問われる。何故、そんなことをするのかと。

こうして問いかけを、以前にも受けたことがあったのを覚えている。

大事な子に、やっぱり同じように問いかけられ、スバルはなんと返したものだったか。

 

記憶が曖昧になりかけ、意識が落ちそうで、思い出せない。

だから、目の前の泣きそうな女の子に、心が赴くままに答えを返す。

 

「どうして」

 

と、そう問われたから。

 

「――君に、幸せになってほしいんだよ」

 

「――――」

 

「笑って、ほしい。……それだけで、俺はいいんだ」

 

たくさんの愛に囲まれて、大好きな人たちと同じ場所で、笑ってほしい。

花が咲いたみたいに、雲一つない青空みたいに、遠く遠く空の彼方で眩く輝いている星々のように、笑ってほしい。

 

ただ、笑ってほしいんだ。君に。

 

「――――」

 

「――え?ちょっと、待って、待ってください……っ」

 

ぐったりと、スバルの体からゆっくりと力が抜ける。

頭が下がり、首がそれを支えられなくなり、上体がだらりと倒れかける。それをとっさに強く引き寄せ、レムは自分のすぐ隣に頭がくるスバルに呼びかける。

答えは、ない。

 

「――同胞ヲ、戦士の御霊の安らぎヲ」

 

ミゼルダが背筋を正し、その唇から敬意と、それを後押しする歌が紡がれる。

そのミゼルダの歌に従い、ホーリィとウタカタが、他のシュドラクの民たちが、戦場で勝利の凱歌を歌っていたものたちが、合わせて歌い始める。

 

それは最後まで戦い、己の誇りを全うした戦士を送る鎮魂の歌――、

 

「待って、ください。そんなの、だって、私はこの人が……っ」

 

鎮魂の歌に送られ、ゆっくりと命を手放そうとしているスバル。そのスバルの安らかな顔を見ながら、レムが嫌々と首を横に振る。

 

「――――」

 

理由はわからない。意味もわからない。

言われた言葉も、結局はレムの聞きたい疑問の答えになっていない。

だけど、このままではそれが永遠に失われるとわかって――、

 

「お願い、こんなところで、死なないで死なないで死なないで……」

 

耐え難い、おぞましい、本能的に忌避したくなる臭いを纏ったまま、どこまでもレムを慈しむような目で見た男を、ここで失ってはならないと魂に訴えられる。

そうするがままに、レムは唇を噛みしめ、救いを欲し――、

 

「あーうー?」

 

ふっと、子どもの唸る声と共に、自分の肩に手が乗せられたのを感じた。

 

「――ぁ」

 

涙を溜めた瞳で振り向けば、レムの肩に手を乗せたのは金色の髪の少女だ。彼女はぽけーっとした顔をしたまま、意識のないスバルを眺めている。

そのまま、少女は「うあうー」と唸ると、

 

「……これって」

 

じんわりと、温かな感覚が少女に触れられた肩からレムへ流れ込んでくる。

それは柔らかく、胸の奥がじくじくとこそばゆくなるような感触で、レムは自分の呼吸が苦しくなり、いつしか頬から涙が流れるのを堪えられなくなる。

 

少女の掌から流れ込むそれは、レムの内側にある奇妙な感覚を触発している。

膨れ上がるそれを、このまま抱えてはいられない。どこかへ吐き出さなくてはならないと、そう本能が命じるままにレムはそれを全身から吐き出した。

そしてそれは、触れ合った少女の掌を伝い、レムを溢れ、そのまま――、

 

「――――」

 

抱きすくめている、今にも命を手放す寸前のスバルの体に流れ込んで。

 

「――なるほど、治癒の魔法か。これは俺も想定せなんだ」

 

「え……?」

 

何が起きているのか、自分で自分がわからずいたレムの耳を男の声が打つ。顔を上げれば、腕を組んだ黒髪の男が目を細め、こちらを見ている。

その顔に問いかけようと唇を開きかけ――、

 

「口を閉じていろ、女。貴様にも無意識のそれは、条件が整ったが故に発動している一種の奇跡だ。気を抜けば、発動が途切れて効果を失うぞ」

 

「――――」

 

「疑問も怒りも、目の前のことを片付けてからにせよ。機会をふいにするな」

 

男の言葉には否定し難い重みがあって、レムは言い返すための口を閉ざした。

そして男の言う通り、腕の中のスバルの体に熱を送り込むのに集中する。

これが、いったいどんな効能のある熱なのかはレムにもわからない。ただ、腕の中で消えていくだけだったはずの息がわずかに力を取り戻している。

それだけで、今のレムには十分だった。

 

「……今は、まだ、あなたが何なのか私にはわかりません。でも」

 

でも、と言葉を区切り、その先の言葉を躊躇って、レムは目をつむる。

幸せになってほしいと、そう言われた言葉は嘘でないように聞こえたから。

 

「生きていなくちゃ、私が笑うところも見られませんよ」

 

と、そう囁くように呼びかけたのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

――治癒の光が発動し、ナツキ・スバルの致命の傷が癒えていく。

 

「――――」

 

腕を組み、それを見下ろしながら男――ヴィンセント・アベルクスと名乗った人物は、途切れかけた命を繋いだスバルに嘆息する。

何とも、悪運の強い男だと思う。死にかけの状態でシュドラクの民の心を掴み、その上で取り戻したいものを取り戻した挙句、自分の命まで拾ったのだ。

 

まさか、あの青い髪の娘――レムを取り戻せば、自分の命が助かると打算的に考えていたのかとも推測できるが。

 

「そのように器用なら、まずは折られた左手の指を治していようよ」

 

レムに折られた指もそのままに、血と泥に塗れて彼女の奪還を願った男だ。

そんな打算を可能とするならばまさに神算鬼謀というべきだが、そうした知恵者としての凄みや佇まいは一切が感じられない。

それこそ、風説で語られる『英雄』としての片鱗など微塵もない男だった。

 

「落命する男への手向けのつもりだったが……生き残るなら、それはそれでいい」

 

顔を覆う感覚を失い、久々に風に当てた素顔に触れながら男は目を細める。

ナツキ・スバルは命を拾い、シュドラクの民との血盟は結ばれた。どうやら陣の帝国兵たちは何も知らされていなかったようだが、それも予測の範疇だ。

 

まだ、この地の――否、この帝国の大半の人間が気付いていない。

 

強国である神聖ヴォラキア帝国に訪れた、未曾有の政変の一大事に。

だが――、

 

「宰相ベルステツ、寝返った九神将、そして頂を知らぬ愚かなる帝国兵共よ」

 

熱を孕んだ風の吹く丘の上、男――アベルははるか西、帝都の方へと向き直る。

神聖ヴォラキア帝国の中心、帝都ルプガナ、奪還すべき玉座のある地――、

 

「――俺の帰還を震えて待つがいい」

 

そして――、

 

「せっかく生き延びたのだ。付き合ってもらうぞ、ナツキ・スバル。――我が手に、ヴォラキア帝国を取り戻すために」