『砂海の王』


 

全会一致で分かれ道を左へ進むことになった、チーム『非戦闘員』。

 

右の道へ進めば瘴気に呑まれ、殺し合いに発展する不和が生まれることは明白。それだけに、左の道を選ぶのは極々自然なことで、間違ってはいない。

それはスバルにとって答えの出ている問答でもある。が、ならば左の道が安全策なのかといえばそういうわけでもないのだから出題者は意地が悪い。

 

右の道が精神的な罠だとすれば、左の道に待ち構えるのは物理的な罠だ。

あの炎を纏う異形の魔獣――ケンタウロスとの遭遇はできるなら避けたい。

 

それは戦っても勝ち目が薄い、というわかりきった戦力差だけが問題ではない。今の心境で魔獣と遭遇したとき、心からラムやアナスタシアたちと協力して戦うことができるかどうか、自分で自分に自信が持てないことが理由だ。

 

「実は砂丘で遠目にすげぇ魔獣を見たことがあってさ。パトラッシュみたいな体の首から上が人間の胴体になってて、その胴体の胸から腹にかけてでかい口が開いてる。んで、人の胴体の頭の部分はでかい角が生えてて……」

 

「えぇ、なにそれ……めっちゃ気持ち悪いやん……」

 

「正直、ひいたわ」

 

前回の魔獣話の流れを踏襲し、自然な展開でケンタウロスの生態の説明に入れた。それに対する女性陣二人――パトラッシュ含めて三名の嫌な反応はそのまま。

スバルとて、好んで説明したいわけではない。それでも、左の道に進み続ける以上、奴との遭遇は七割方避けられないと考えるべきだった。

 

「ひかれるのは予想してたけど、とにかくヤバそうな奴なんだ。一応、ケンタウロスって勝手に呼ぶけど、見た目がキモイだけじゃなく、背中に生えてる鬣とかがメラメラ燃えてて……すげぇ強そうだった。控え目に言って、勝てなそう」

 

「なんでそんな魔獣、見つけてそのまま放置したの?死にたいの?」

 

「ああ?」

 

できるだけ感情を波立たせずに説明したが、普段通りのラムの軽口にすぐに怒りが込み上げる。わざわざ注意してやったのに何様なのか。

いつも偉そうに人を見下して、と内心で憤懣が憎悪に変わりかけるのを感じ、スバルは大きく深呼吸。激情を静め、落ち着くのに躍起になる。

 

「クソ……!最悪だ、この場所」

 

「難儀ね。ラムも比較的、言葉は選んでいるつもりだけど」

 

「今ので選んでるつもりなら、たぶん、何の足しにもならねぇよ」

 

自分の感情を持て余すスバルに、ラムの声と視線が同情を帯びる。

もっとも、その態度が哀れまれているようでますますスバルを苛立たせるのだから、まさに何をしても逆効果と言わざるをえなかった。

 

「瘴気の影響……なんて話にするんは簡単やけど、それだけなんかは怖いとこやね。実際、うちやラムさんは影響受けてないわけやし」

 

「そりゃどういう意味だ?自分だけは大丈夫、なんてお花畑な思考してんならやめた方がいいぞ。一皮剥けば、俺もお前も同じ人間だよ」

 

「棘のある言い方やわぁ。うちかて、そこまで自分に自信があるわけやないよ。判断力や決断力云々と、心身の強さはまた別の問題やし。……たぁだ、何でもかんでも瘴気の怖さに押し付けるんは話が乱暴やなって」

 

もったいぶった言い回しで、アナスタシアはスバルの現状に苦言を呈する。

理性的な言葉だが、要領を得ないことにスバルは苛立つ。一行の先頭に立ち、通路の砂を踏みしめて進みながら、スバルは態度で彼女に言葉の先を促した。

それを受け、アナスタシアは小さく咳払いすると、

 

「瘴気に関しての話やけど……うちも詳しいわけやないから、聞きかじりの話になるんは勘弁してな?」

 

「本格的に詳しいのは、それこそ魔女教ぐらいでしょうね」

 

「そうやけど、世の中には好き好んで人の嫌がるもんに触れたがる人種もおるんよ。例えば瘴気について調べて回る変わり者とか、やね。うちの知識はその、又聞きの又聞きの又聞き、ぐらいの眉唾になるんやけど」

 

アナスタシアが例に挙げたのは魔女研究者、といったところだろうか。

意外な響きだが、考えてみれば完全にゼロとするのもおかしな話だ。この世界にも研究者のような存在はいるだろうし、そうした知識欲の持ち主の全員が理性的に、世界の流れに従って禁忌の探究は避ける――と、まともな精神性のはずもない。

どこの世界、どんな時代にも、型にはまらない好奇心の権化はいるものだろう。

 

「その又聞きした知識のそもそもの始まりやけど、まず『瘴気』とは何か?」

 

「それは……魔女や魔獣の放つ、汚染されたマナでしょう?魔女教徒も同じものを放っていると、そんな風に聞いたこともあります」

 

「ラムさんの答えが通説やね。瘴気は魔女が放ってるもんで、魔女に生み出された魔獣も同じように垂れ流しにしてる……やけど、こんな話は知ってる?」

 

「――――」

 

「魔女教徒と魔獣は、実はメチャクチャ仲が悪いんやってお話」

 

流暢に語り出すアナスタシア=襟ドナ。

作り手が作り手だけに、自分の知識をひけらかすのが好きなのかもしれない。アナスタシアのメッキが剥がれて、その下の白狐の本性が透けて見えるようだ。

 

そんな感想を抱くスバルと裏腹に、ラムはアナスタシアの言葉に目を丸くする。

魔女教徒と魔獣、それは共に『嫉妬の魔女』に味方する存在として考えられている者たちだ。その両者が実は険悪な関係、というのは驚くべきことかもしれない。

 

「俄かには信じられませんが……本当なんですか?」

 

「生憎、うちも魔女教徒と魔獣に知り合いがおるわけやないからホントのところはわからないんよ。せやから聞きかじりの話やって前置きしたわけ。せやけど、これがホントの話やとしたら、面白いと思わん?」

 

「面白い……?」

 

本来、用いられるべきではない単語が出た気がして、スバルが反応する。と、そのスバルの反応にアナスタシアは「そ」と短く頷いた。

 

「世の中、みぃんな『魔女』と魔女教徒と魔獣は仲良しやと思うとるやろ?それやのに、実際は魔女の下の二つは反目してるなんて知らんわけや。そんな勘違いが四百年もまかり通って……誰も真相を知らんのやもん」

 

「それは、確かに……」

 

「これも又聞きで悪いんやけど、瘴気のことも誤解が多いらしいわ。例えば、魔獣と瘴気の関係も実は知られてるのとは真逆で、魔獣は瘴気が大嫌い。魔女のことも、本心では憎たらしく思うてるって話」

 

「――いくらなんでもさすがにそこまでは」

 

アナスタシアの物語りに引き込まれ、ラムは質疑の言葉を重ねている。

そんな彼女たちのやり取りを背後に、スバルはアナスタシア=襟ドナの言葉が、おおよそ否定できない要素で固められていることを理解していた。

 

魔女と魔獣の関係が実は険悪で、魔獣は魔女のことを嫌悪している。

その可能性はこれまで、何度も『魔女の残り香』を利用してきたスバルには非常に頷けるものだ。そうでなければ魔獣は何故、ああまで憎悪を滾らせて、魔女の香りを漂わせるスバルを躍起になって追いかけるというのか。

 

異世界召喚された当初の魔獣騒動に加え、白鯨すらも攻略に残り香を利用した。

ここまで証拠が揃えば、魔女の残り香と瘴気との関連性を無視することも不可能。

 

――スバルを取り巻く『魔女の残り香』こそが、瘴気そのものなのだろう。

 

「まさか魔獣全部がペテルギウスみたいなヤンデレ属性持ちってことはねぇだろ。魔女以外の奴から魔女の臭いがするのは許せない。他の女の臭いがする的な」

 

それはそれでおぞましい想像だが、筋を通すには前述の可能性の方が適当だ。

つまり、魔獣は魔女の瘴気を嫌い、強烈に敵視している。

そもそも、『嫉妬の魔女』が魔獣を生み出した、という風説が実は間違っているということを大抵の人々は知らないはずだ。

 

魔獣を生み出したのは『嫉妬の魔女』ではなく、『暴食の魔女』である。

 

そこが伝わっていないから、魔獣と瘴気との関係性にも誰も気付かないのだろう。

アナスタシアの知識の源――実際に、『魔女』のことを研究する研究者がいるかどうかは不明だが、実在するならいい目の付け所をしている。

 

「……なんて、白々しい茶番か」

 

そこまで考えて、スバルは自分のお気楽さに呆れて嘆息した。

そんないるかどうかもわからない研究者の有無を疑うより、単純にアナスタシア=襟ドナが最初から持っていた知識を出しただけと考えた方が自然だ。

 

そう考えると、次第にスバルの中で別の形の憤懣が湧き上がる。

 

何故、こうまでしてスバルはアナスタシア=襟ドナの事情を隠してやる必要があるのだろうか。ユリウスや『鉄の牙』への配慮、それはある。

特にユリウスは現状、世界の記憶からこぼれていっぱいいっぱいの状況だ。

出来得る限り普段通りを装おうとしているユリウスだが、やはり彼であっても行き届かない部分はある。それを思えば、余計な心的負担は避けるべきだ。

避けるべきだが、それでなんでスバルが代わりに負担を負う必要がある。

 

「――――」

 

どいつもこいつも身勝手だ。

そんな奴らの尻拭いに、どうしてスバルばかりが奔走しなくてはならない。

腹立たしい。忌々しい。いっそ、何もかも全部ぶちまけてやろうか。アナスタシアの精神のことも、スバルの『死に戻り』のことも、何もかも――。

 

「……バルス。いきなり砂に頭を突っ込むのは不審だからやめなさい」

 

「関係悪化を防ぐための、俺の自発的な防衛行動だよ。ぺっ」

 

憤懣が限界に達しかけて、スバルは罵声を吐く前に顔から砂の壁に突っ込んだ。砂の壁は思いの外脆く、意外にも手で掘り抜けてしまいそうだ。

そんな事実と引き換えに、スバルは口の中に入った砂を吐き出す。ラムの白い目に思うところはあるが、自分の行動の責任でもあるので反発は胸に秘めておいた。

 

「ナツキくんの奇行も瘴気の影響……かな?」

 

「いえ、バルスの行いは素です」

 

「素ではねぇよ。瘴気の影響の二次災害だよ」

 

「まぁ、そこのところの真偽はおいおいってところで話を戻すと……魔獣は実は魔女が嫌い。そうなると、魔女教徒と魔獣の仲の悪さは説明がつくやろ?」

 

意識的に軽口で間を作り、それから本題に戻ったアナスタシアは首を傾げる。が、彼女の言葉にスバルの同意は追いつかない。代わりにラムが頷くと、

 

「仲が悪いかどうかは別として、魔女教徒と魔獣が一緒に行動している……なんて話は聞いたことがありません。そもそも、魔女教の噂自体が広まらないのもあります」

 

「そうか……本当はあいつらって隠れて暗躍する秘密組織系統なんだよな。なんでだろ、全然そんな感じのイメージがないんだが」

 

「バルスとエミリア様はあんな連中とぶつかりすぎなのよ」

 

スバルの知る魔女教徒は、揃いも揃って自意識過剰で自己顕示欲が強い。

ペテルギウスもその活動が密やかだったとは言えないし、他の大罪司教に至っては大都市一つ乗っ取った上に、放送までするアピールぶりだった。

どの面下げて、奴らが水面下で活動する悪の組織などといえるだろうか。

 

「あ、でも待てよ。白鯨はどうなる。あれは魔女教と協力してた……かどうかは今になるとちょっと怪しいが、その節があったぞ」

 

「さあ?魔獣の方が魔女教を嫌うんが確かでも、魔女教が魔獣嫌いなんかはうちもよぅ知らんし……ま、違うくてもうちは拘らんけど」

 

「自分から話し出しといて……」

 

スバルの反論に適当な抗弁をして、アナスタシアは自説をあっさり投げ出す。その拘りの薄さは、なるほど他人の意見の又聞きというのは事実なのかもしれない。

ただ、話のタネとして使い潰した内容。その最後にアナスタシアは片目をつむり、

 

「結局、瘴気関係のこともよぅわからんってだけのお話。ラムさんの言う通り、汚染されたマナやなんて考え方もあるけど……じゃぁ、マナが汚染されるってどういう状況なんか説明できる人はおらんやろ?」

 

「――――」

 

「誰の体を通っても、マナはマナ。魔法や魔石細工で目的のために性質は変えても、マナそのものに色を付けるなんて誰にもできんことやのに」

 

「それは……」

 

「どうして、『嫉妬の魔女』だけはマナが汚せるんやろね。そして、その汚されたマナに適応する魔女教徒は、いったい、何のためにおるんやろね?」

 

立て続けに疑問を投げかけるアナスタシアに、珍しくラムが口をつぐむ。

反論の言葉が浮かばず、沈黙を選ぶ彼女は珍しい。それと同時にスバルは、アナスタシアのその語り口にデジャブと嫌悪感を味わっていた。

 

その要領を得ない内容と、結論を有耶無耶にされる物言い。

煙に巻くような態度の全てが、エキドナとダブって思えて嫌な気分だった。

 

「ととと、無駄話が過ぎたみたいやね」

 

ラムの沈黙とスバルの感慨、それらを余所にアナスタシアがふいに言った。

それまでと声の調子ががらりと変わり、急な話題の転換に置いてけぼりにされる。そんな二人を置いて、アナスタシアは手にしたカンテラで通路の正面を照らした。

その動きに倣ってスバルも足を止め、カンテラを掲げながら、気付く。

 

「――――」

 

正面、通路は緩やかに左に向かって折れ、微かに風が吹いてくる。

どこもかしこも変わり映えのしない砂の壁だが、そのいきなりな曲線と、漂う風に混じる『焦げ臭さ』には強烈に覚えがあった。

 

「焦げ臭い、肉を焼いた臭いね」

 

わずかに熱気を孕んだ風に、ラムが端的な感想をこぼす。

焼きすぎなぐらいに火を通した、黒焦げの肉の臭いが通路の奥から流れている。

この香りが、炊事に勤しむ誰かがいる証拠で、友好的に接触することが可能かもしれない――などと、無知だったとはいえよく考えられたものだ。むしろ、今よりそのときの方がよっぽど頭がおかしかったのではないだろうか。

 

「エミリア様たちが迂闊にも火を焚いて休息中……その線はあると思う?」

 

「迂闊に火を焚きそうなのがエミリアなのは同意見だが、ケンタウロスの話をした俺がそんな想像する余地はないな。お前も、頭がお花畑じゃないと信じてるぜ?」

 

「その暴言、瘴気が抜けた後でどう言い訳するのか楽しみにしておくわ」

 

ラムの問いかけに必要以上に刺々しく返すと、彼女からも痛烈に毒を返される。

そのことに鼻を鳴らし、スバルは敵意を向ける相手が違うと自分に言い聞かせた。

 

もはやここに至れば疑うまでもない。

この焦げ臭い風の先には大空洞があり、そこには炎を纏う冒涜的な魔獣がいる。

 

ここまで辿り着くのにかけた時間は、前々回に比べればいくらか早かったはずだ。それでも遭遇するからには、おそらくあの場所は魔獣の巣穴なのだろう。

奴がわざわざ移動してくれる、そんな淡い期待は抱けない。ならば――、

 

「殺して通るしかない、か?」

 

「現存戦力でできる案を挙げる方が建設的だとラムは思うわ」

 

「切り札さえ切ったら戦えんことはないけど……うち、できれば身ぃ削るんは最終手段にしたいわぁ。取り返しがつかんのやもん」

 

物騒なスバルの方針に、ラムとアナスタシアが揃って反対する。

否定されたことに苛立つが、スバルも今の自説を推すつもりはひとまずない。

実際、無茶な話には違いないのだ。伊達にチーム『非戦闘員』を名乗っているわけではない。魔獣と渡り合う選択肢は無謀と割り切るべきだろう。

 

「かといって、戻って右の道ってわけにはいかない」

 

「バルスのここまでの百面相を見ていて、右の道に進める豪胆さはないわね」

 

「でも、それやと八方ふさがりやなぁ。まさか最初の場所に戻って、他のみんなが探しにきてくれるんを待つ……なんて殊勝なことはでけんやろ?」

 

ラムの軽口はともかく、アナスタシアの言葉はもっともだ。今さら魔獣を恐れて戻るぐらいなら、最初から言葉を弄してあの場に留まったはずである。

そうしなかった以上、スバルの結論はあの魔獣を越える一択だ。

そしてそのための方法は、全く探れないわけではない。

 

「まず、必要なのは相手の情報だ。推測通りなら、可能性はある」

 

方針に迷う二人に先駆けて結論を出し、スバルはそう言った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――魔獣ケンタウロスの生態について、スバルはほとんど何も知らないも同然だ。

 

なにせ、出くわしてものの十数秒で焼き殺されただけの関係である。

その外見の異形さに生理的嫌悪感を催したことと、火力が凄かったことだけが実体験として魂に痛々しく刻まれている。

通り一遍の考え方なら、無駄死にであったと捉えるのも仕方ない死に様だ。

 

だが、それでナツキ・スバルを推し量った気になってもらっては困る。

突発的な『死』に関して、ナツキ・スバルは百戦錬磨。もはや『死』という事象をただ『死』で済ませるような真似、しないで済むだけの経験則が培われている。

 

「まず、注目するべきなのはあのケンタウロスのビジュアルだ」

 

一度、目にしてしまえば忘れることのできない醜悪な外見。

見たのはほんの十数秒だが、その異様な見た目がかえって鮮烈に記憶に焼き付き、スバルの考察の手助けをしてくれる。

 

馬の下半身に人の胴体、角と化した頭部に胴体に開いた巨大な口腔。

いずれも子どもが適当に粘土細工で遊んだような不細工な有様だが、目を逸らさずに記憶を観察すれば気付く点がある。

 

「ずばり、目が付いてない」

 

本来、頭部があるべき場所に頭がないのだ。結果、あの魔獣の肉体に視覚を司る器官が見当たらなかったことは間違いない。

あるいはカンテラ無しでは光源らしいものがまるでない、この砂海の地下で活動することによる弊害――退化であったのかもしれない。

 

「モグラみたいなもんか。地下に適応するあまり、視力を失った」

 

それとも、最初から付いていなかったのか定かではないが、少なくともあの魔獣は視覚に頼って活動していたわけではおそらくない。

あのとき、魔獣はスバルの存在にカンテラの光で気付いた様子はなかった。魔獣がスバルに気付いたのは、あくまでスバル自身の無警戒に発する音と気配が原因だ。

即ち、あの魔獣が目の代わりに発達したのは、嗅覚か聴覚のいずれか。

 

「モグラは確か耳が良くて、代わりに鼻が馬鹿だって聞いたことがある」

 

先ほどのアナスタシアではないが、これも聞きかじりの知識には違いない。

ただ、何の根拠もない考えに縋るよりかは、よほどスバルの推測のアシストにはなる。ケンタウロスの強みは聴覚、そう考えてスバルは行動することにした。

故に――、

 

「――――」

 

無言のまま、スバルはできる限り静かに、無音で、腕を振り上げ、振り下ろす。

砂を踏みつけた瞬間、粒子が擦れる音がしないように細心の注意を払い、その上で振り下ろした腕の先端から投じられるのは、非常用持ち出し袋の中に入れてあった水の容器の一つだ。

それは狙い違わず、真っ直ぐに大空洞の端へ飛んでいき――空間の真ん中で赤々と燃え上がる魔獣の意識を、落下地点へと引きつけた。

 

「――――ッ!!」

 

水の容器が軽い音を立てて砂の上に落ちると、その音に気付いたケンタウロスは劇的な反応を見せる。燃える鬣を振り乱し、馬の胴体で飛び跳ねる魔獣は真っ直ぐに音の発生源へ駆け寄り、そこに猛然と躊躇なく体当たりをぶちかました。

 

「――――ッ!!」

 

壮絶に砂が舞い上がり、火の粉がチロチロと空洞の中に飛び散っていく。

激情に振り回されるケンタウロスは飛び回り、その開いた巨大な口の中の牙を擦り合わせ、無数の赤ん坊が泣き喚くような耳障りな咆哮を上げ続けた。

そしてそのまま、炎に包まれてひしゃげた水の容器を何度も踏みつけ、原形がなくなるほどに破壊させると、鬣から溢れる炎を砂の上にさらに垂れ流す。そうしてようやっと、乾いた砂以外が焼き尽くされ、魔獣は満足げに動きを止めた。

 

どうやら満足したらしい。

その行いを横目にしながら、スバルは腰に付けた紐を揺らし、移動を促す。魔獣の甲高い鳴き声が埋め尽くす空間の中、注意深く砂を踏む音は細切れにされる。

そうして細心の注意を払いながら一歩、また一歩と進んで――、

 

「――――」

 

止まれ、という意を込めて紐を引き、進む地竜の足を引き止める。

人語を解さぬはずの地竜はその指示に驚くほど律儀に従い、その巨躯に見合わない慎重な足取りでゆっくりと砂に足踏みした。

 

――闇色に塗り固められた空洞の中、スバルたちは決死の行軍を行っている。

 

空洞の広さはおおよそ、学校の体育館ほどと考えれば近いだろうか。

そこかしこに魔獣に焼かれた生き物の黒焦げ死体が転がる空間で、その端をスバルたちは足音と息を殺して縦断し、魔獣をやり過ごそうとしていた。

 

「――――」

 

静まり返った、というほど静寂だけが落ちる空間ではない。

ケンタウロスの、馬鹿に大きな口腔は荒い呼吸を繰り返しており、その音は風船に込めた空気が抜けるような不細工な音のそれに近いものだ。

外見だけでなく、その生態までも醜悪な魔獣――ただ、今はその単純明快な在り方がありがたい。おかげで、戦わずに済む算段も立った。

 

「――――」

 

再び、スバルは手の中に握った別の水筒を掲げ、ケンタウロスの背後へ投げる。単細胞の魔獣はその音に反応し、またしても猛然と空の筒に攻撃を仕掛けた。

炎と赤子の鳴き声が空間を埋め尽くし、盛大な火力に水筒は爆ぜ、乾いた音を立てて黒い炭へと姿を変える。

ただ、その間もスバルたちは歩みを進め、通路への距離を縮めることに成功した。

 

――ケンタウロスの生態を観察し、スバルの出した結論がこの単純な陽動だった。

 

視覚の存在しないことを理由に、スバルはケンタウロスの頼りは聴覚と判断。ラムやアナスタシアを置いて、物を投げる同じ手法で魔獣の気を引き、何度かそれを繰り返して確信を得た。

ケンタウロスは聴覚を頼りに獲物を見つける魔獣で、その上、同じ手法に何度となく引っかかる単純な頭の作りをしている生き物だと。

 

それを確かめることができれば、あとのことは簡単な話だ。

陽動するための素材を掻き集め、魔獣をやり過ごした後で逃げ込むための通路の位置をラムに風で読ませる。あとは入念にパトラッシュに隠密行動を言って聞かせ、緊張感と不安に負けないように心を強く持って、勝負に臨むだけのこと。

 

「――――」

 

実際、スバルの立てた作戦は拍子抜けするぐらいうまくいっている。

すでに空洞から通路への道のりは半分ほどまでクリアしており、緊張感に反して費やした時間はそれほど多くはない。学習能力のない魔獣は、同じことの繰り返しでクリアすることは十分に可能だろう。

 

「――――」

 

無論、カンテラの明かりは落としており、スバルたちの目に確かに見えるのは遠間で大いにはしゃいでいるケンタウロスの燃える鬣だけだ。

おそらく、視覚に頼らない魔獣にはカンテラの明かりは気取られないはずだが、それでも刺激する要因はできるだけ絞るのが小市民的な判断だ。

 

「――――」

 

紐が引かれる気配がして、スバルは物思いに耽っていた意識を引き戻される。

陽動を実行するスバルには二本の紐が持たされており、片方はパトラッシュに、もう片方はパトラッシュに騎竜するラムに持たせてある。

パトラッシュへの指示は『進め』と『止まれ』だが、ラムとの繋がりはこれといって明文化されてはいない。お互いに呼びかけ合う程度のものだ。

 

ただ、顔も合わせず、言葉も交わさず、意識だけを伝える紐の繋がりは、今のスバルには意外なほど落ち着くものだった。

これならばひとまず、スバルはラムに対してもアナスタシアに対しても悪感情を抱かずにいられる。誰かと顔を合わせないことがここまで楽だとは、という心境だ。

 

一方で、そんな孤独に安らぐ自分の心に不安がないわけでもない。

瘴気の影響である――と半ばスバルは自分を納得させているが、アナスタシアの先ほどの話で『瘴気』とは何なのか、それが不透明になった部分も大きい。

この場所を出れば治るものなのか、今はそれも疑わしいのが事実だ。

 

もしも治らなかったとしたら、エミリアやベアトリスにさえも、こんな疎ましい感情を抱かずにいられなくなるのだとしたら――。

 

「――!?」

 

ふいに強く紐を引かれ、スバルは思わずその場につんのめる。引かれたのはパトラッシュに繋がる紐であり、地竜から強引に止まるよう下された判断だ。

それにとっさに何事かと顔を上げれば――、

 

「――う」

 

スバルの一歩前を、投げつけられる炎の塊が通過する、

サッカーボールほどの炎の塊だが、それは熱波を周囲に振りまきながら飛び、そのまま数メートル先の砂の壁に激突し、そこで爆音を上げて激しく爆ぜた。

膨れ上がる熱風に冷えた体を炙られ、スバルは危うく悲鳴を喉で抑え込む。

 

パトラッシュに呼び止められていなければ、間違いなく直撃を受けた。

死ぬほどの威力かはわからないが、負傷は免れない火力には違いない。命拾いした事実に歯を噛み、同時にスバルの背に戦慄が駆け上がる。

 

何故、火球がスバルの方へ投じられたのか。

 

「――――」

 

思わず、スバルは背後に振り返る。

陽動に引っ掛かり、ケンタウロスは今も空洞の反対側で水筒と戯れていたはずだ。しかし今、魔獣はその角と化した頭部をこちらへ向け、低く唸っている。

まるでスバルたちがここにいることに確信があるかのように。

 

「――――」

 

そんなはずはない、とスバルは頭を振った。

スバルは投擲用の水筒を腰から外し、改めて陽動を仕掛けるために手に馴染ませる。ラムと繋がる紐が頻りにスバルを呼んでいるが、取り合わない。

今はまず、魔獣の注意をこちらから引き剥がすのが最優先だ。

 

振り上げ、水筒は放物線を描いて、ケンタウロスから大きく左へ逸れて砂へ落ちる。当然、魔獣の注意はそちらへ向き、不細工な猛獣は見え見えの陽動に飛びついた。

再びの炎、響き渡る赤子の泣き声。そして、甲高い音の反響する空洞の中、スバルはパトラッシュに指示して、通路への進行を急がせる。

繰り返し、繰り返し、決まった工程をやるだけでいい。

それだけで突破できるはず、だが――、

 

「――っ!」

 

またしても歩くスバルのすぐ傍を、ケンタウロスの投じる火球が通過した。

それは先ほどよりもさらに近く、あわやスバルの肌を掠めるほど正確な一撃だ。とっさに息を詰め、スバルは火球の爆裂による熱波に煽られる。

 

「――――」

 

正面に新たに生まれたオレンジ色の光源に照らされながら、スバルは遠間に佇む魔獣と睨み合った。目は合わない、睨み合ったとは語弊がある。

しかし、魔獣の注意は明らかにこちらを向いている。音でしかこちらを判別する手法を持たない魔獣が、何故、自分の鳴き声の中でスバルたちの存在に――。

 

「自分の、鳴き声……」

 

「バルス、反響――」

 

スバルの中で疑問と答えが連結し、紐を引くラムの呼びかけがついに音になる。

そして二つが同じ解答に辿り着いた瞬間、ケンタウロスが砂を蹴った。

 

蹄が砂の地面を蹴り、見上げるほどの魔獣の巨躯が軽々と冷たい空を飛ぶ。燃え盛る鬣の火力は走行中に増し、それは一気にスバルたちへと迸った。

馬の体と接続された人間の胴体が腕を掲げ、自らの燃える鬣を引き千切る。それが魔獣の掌の中で火球へと転じ、瞬きの後には炎の炸裂弾が完成だ。

 

「――ッ!走れ走れ走れ走れ!!」

 

事ここに至れば、もはやケンタウロスとの激突は避けられない。

足音を殺した隠密はかなぐり捨て、スバルはパトラッシュの臀部を叩いて即座に通路へ駆け込むように命じた。

現在、スバルたちがいるのは空洞のちょうど真ん中――元の通路とも先の通路とも距離的には遠く、よもや謀られたのかと思われるほど魔獣に有利な位置。

 

「遊ばれたのか……!?」

 

「――――っ!」

 

驚愕に塗り固められるスバルの意識だが、魔獣はそれに取り合わない。ケンタウロスは生み出した火球を投じ、逃げ惑うスバルたちを弄ぶように砂を吹き飛ばした。

真っ直ぐ、通路へ逃げ込むことは奴にも読まれている。かといってジグザグに走って困惑させようにも、音を捉える奴の聴覚はこちらの小細工より正確だ。

 

「うお!わっ!」

 

下げた頭を掠めて、火球が次々と投げ込まれてくる。

目の見えぬ魔獣はそれに逃げ惑うスバルを弄ぶように、その足で大きくスバルの周囲を駆け回り、炸裂弾を連続して打ち込み、吹き飛ばす。

 

「ごぉ――!?」

 

足下が炸裂し、スバルの体は軽々と熱波に揉まれて吹き飛ばされた。

とっさに顔を両腕で庇ったものの、噴き上がる熱風は呼吸器官に侵入して鼻腔と喉が淡く焦がされる。呼吸に痛みがあり、粘膜が溶けて嗅覚が一時的に死んだ。

 

顔の中心に発生した激痛の狂騒に転げ回り、スバルは涙目になって顔を上げる。

ケンタウロスの胴体に存在する口が大きく開き、牙だらけの口腔は耳障りな音を立ててまるで笑っているように聞こえた。否、笑っているのだ。

 

魔獣との知恵比べにすら敗北し、力で弄ばれる弱者である人間を。

 

「クソ、がぁ……!」

 

憎悪、それが沸き立ち、スバルに立ち上がる力を与える。

疑心暗鬼や不必要な不和に比べれば、こうして敵対する害獣に抱く敵意のなんと健全なことだろうか。激情を煮詰めたようなどす黒いモノに呑まれながら、スバルは勝ち誇っている魔獣の、その自惚れた考えを鼻で笑った。

 

勝った気になっているのならお笑いだ。

瘴気嫌いの魔獣の分際で、ナツキ・スバルにどうして勝てると考える。

 

「――――」

 

腰に手をやり、鞭を抜く。

柄の感触を手に馴染ませ、その先端で軽く砂を弾くスバルにケンタウロスは哄笑を止めて、その風を薙ぐ鞭の音に興味深げに耳を澄ませた。

 

おそらく、魔獣にとって初めて聞く音なのだろう。

だが、スバルの本命はそちらではない。鞭はあくまで、陽動だ。

 

「――インビジブル・プロヴィデンス」

 

魔獣の暴挙を発端に、スバルの胸の中にわだかまるどす黒い感情。

それに指向性を与え、ケンタウロスの手足を引き千切るための力に変換する。馬鹿の一つ覚えのような使い方だが、構わない。誰にでも通用するワンパターンだ。

 

「――――」

 

鞭を頭上で振り回し、高速で風を切る音を聞かせてやる。

初めての音に興味津々の魔獣に気付かれないよう、不可視の魔手は暗がりの中を滑るように進み、魔獣の影に忍び込んで、その人間の胴の角へ狙いを定めた。

人の胴体に馬の胴体、どちらに重要な器官があるのかわからない。頭部が角である以上、そこに脳が詰まっているかも謎だ。それでも、致命的な重要器官がそこに存在することは違いあるまい。そう当たりを付け、角を不可視の掌で握り潰す。

もしも角の欠損で言うことを聞くようになるなら、自害させてやればいい。その方がずっと愉快なことで――。

 

「――!?ぎ、あ、がぁ!?」

 

そこまで考え、いざ誅罰を実行しようとした瞬間だった。

ケンタウロスを見据え、その頭部に『見えざる手』を伸ばしたスバルの頭部に、想像を絶する痛烈な衝撃が走る。頭皮を剥ぎ、頭蓋に直接錐を打ち込むような痛みに一瞬で白目を剥き、スバルは黄色い泡を吹いてその場に膝を突いた。

 

「が、ぁぁ!?ぐ、あぎぃ!」

 

膝を突いたまま両手を頭に伸ばし、鋭い痛みに対抗するためにこめかみを殴る。擦っても押さえても痛みは安らがない。痛みに対抗するために、より鋭く強い衝撃を与える。そのために殴り、殴り、殴っても殴っても痛みは越えられない。

頭蓋の中に生じた棘だらけの地獄が脳を刺し貫くように転げ回り、スバルは砂の上で悶絶し、訳もわからず砂を噛んだ。

 

「痛ぇ!あぁがぁ!痛い痛い痛い!痛いィ!!」

 

叫ぶ、血を吐くように。

口の中に大量の砂を入れて、奥歯でそれを噛みながら、意味不明の激痛に喉が塞がらないよう、スバルはのた打ち回って痛みに抗う。抗えない、負けている。

 

当然、インビジブル・プロヴィデンスは一瞬で掻き消えている。

霧散したそれはケンタウロスに何ら干渉することはできない。魔獣はスバルの様子に拍子抜けしたように、そのまま火球でスバルを焼死体へ変えようとする。

 

生み出される大火球が空間の冷気を追い払い、小規模の爆熱が世界を熱くする。

それはそのまま、ナツキ・スバルを消し炭に変質させ――、

 

「――――ッ!」

 

その直前に、猛然と飛びかかる漆黒の地竜が魔獣の腕を噛み千切った。

 

「――――」

 

闇に同化する体色の地竜は、音もなく魔獣に忍び寄って痛烈な一撃を加えた。腕を無くしてバランスを崩した魔獣は、頭上へ掲げていた火球をその場に取り落とす。

即ち、魔獣は自らが生み出した火球の熱を足下で爆ぜさせ、超至近距離の爆風を浴びて吹っ飛ぶこととなった。

 

爆裂を浴びて魔獣が爆ぜ、腕の傷から血をこぼしてケンタウロスがひっくり返る。それに目もくれず、砂の上を疾走するパトラッシュはのた打ち回るスバルの衣服を口にくわえ、即座に撤退するために走り出した。

腰のあたりを噛まれたまま、ぶら下げられるスバルは左右に揺らされ、血の巡りの悪さと消えない頭痛に苛まれながら背後を見る。

 

パトラッシュの後ろで、よろよろと起き上がるケンタウロス。

その人間の胴体の傷口が泡立ち、噛み千切られた左腕が瞬時に生えるのが見えた。化け物じみた再生力は他の傷口にも有効で、今しがたの爆発の余波で生じた体中の傷は次々に塞がり、魔獣はものの数秒で健在な姿へ舞い戻った。

 

そうなれば、障害になるものはもはや何もない。

ケンタウロスは不意打ちをくれたパトラッシュに嬌声を上げ、猛然と走る地竜に追い縋るように加速し、鬣を燃え上がらせて飛びかかる。

 

あらゆる悪路に適応するパトラッシュの走りは見事だが、それでも生息地をここと定めたケンタウロスの速度には一歩及ばない。元々の体躯の違いもあり、スバルをくわえるパトラッシュのすぐ横に魔獣が並走した。

魔獣の手の中に燃え上がる火球が生まれ、それは今度は縦に長く引き伸ばされる。何事かと目を見張れば、火球は魔獣の手の中で長柄の得物に姿を変え、瞬きの後に作り出されたのは頭から尻まで炎に包まれる槍だ。

 

「――――ッ!!」

 

炎の槍を振り上げ、ケンタウロスはその先端をパトラッシュへ叩きつける。漆黒の地竜はその槍の旋回に合わせてダッキング――砂に潜るような低さで一撃を回避し、ほんのわずかな隙を掻い潜るように加速。

しかし、駆け抜けると見えた瞬間、魔獣の蹄が真横から地竜の胴を蹴りつけた。固い皮膚の内側に威力が浸透し、パトラッシュが内臓を絞られる苦鳴に喉を鳴らす。それでも、牙に引っかけたスバルは落とさない。腰のあたりに感じる熱は、内臓を損傷したパトラッシュが吐く血によるものだ。

 

それだけで深手を負ったことが伝わる。

しかし、パトラッシュはスバルを手放さないし、スバルには愛竜の負傷を気遣う余裕も今はない。あるのは終わらない頭痛による、永遠に思える責め苦だけだ。

 

「――エル・フーラ!!」

 

「ジワルド――!」

 

明らかに速度の鈍るパトラッシュに、炎の槍の二撃目が放り込まれる。しかし、それが地竜の体を捉える前に、横槍が二方向から同時に入った。

片方は不可視の風の刃、片方は白く収束する高温の熱線だ。

 

いずれの詠唱も聞き覚えのある声だが、子細はスバルにはわからない。

ただ、その両方が魔獣を直撃し、その胴に風穴を開け、人間の胴体を斜めに切り取ったことはわかった。――その傷も、瞬く間に塞がったことも。

 

「バルス……!ああ、もう、死んだのならそう言いなさい!」

 

「厄介やなぁ、あの魔獣……うちと相性、悪いなんてもんやないよ」

 

声音の調子は普段のままなのに、どこか切羽詰って聞こえる少女の声。

逆に切羽詰った状況でありながらも、どことなく緊張感に欠けた少女の声。

愛竜の息遣いと吐血の熱を肌に感じながら、スバルの意識はもはや手放される寸前だ。こんなに痛みと苦しみに苛まれるぐらいなら、いっそ死んだ方が――。

 

「死ぬんじゃない、バルス!レムが泣くわ!」

 

「――ぉ」

 

耳元で怒鳴りつけられて、その声はスバルの痛みを越えて脳に届いた。

ただ、その声によって呼び起こされるのは、魔獣に抱いた憎悪に負けない怒りだ。

 

忘れているくせに。

誰も彼も、あの子のことを覚えてもいないくせに。

 

――わかったような口で、俺とレムのことに口出しするな。

 

「――インビジブル・プロヴィデンスぅ!!」

 

怒りのままに感情を解放し、スバルは涙で掠れた視界の端、そこを過った魔獣へ八つ当たりに近い勢いで漆黒の魔手を叩きつける。

途端、生じる頭蓋を噛み砕く激痛の荒波――それに呑まれて意識が食われる前に、スバルの『見えざる手』が魔獣の槍を正面から叩き折り、一矢報いる。

――だが、か細い抵抗が届くのもそこまでだ。

 

「――――ッ!!」

 

怒りの反撃への返礼は、さらなる憤激による痛烈な一発だ。

ケンタウロスは前足を砂の大地に突き立て、それを軸足にその巨躯を強引に旋回させ、後ろ足がカタパルトの如く射出される。

鉱物めいた蹄の硬度が重量と速度を得て、砂をぶちまけながらスバルたちへ――パトラッシュと、おそらく付近にいたラムやアナスタシアを巻き込んで炸裂する。

 

空洞の一部が吹き飛ぶほどの脚力が爆発し、砂の暴力に巻き込まれて全員がバラバラに吹き飛んだ。ついにスバルもパトラッシュの顎から外れ、為す術もなく砂の上へと転がり込み、衝撃の余波で崩れた何かの焼死体に激突する。

 

「ぁ、ぅ……」

 

言葉にならない頭痛と、ケンタウロスの蹴りを浴びた体。

肉体の内外から襲いかかる痛みの連続に、スバルはもはや意識が保てない。ただ、漫然と転がっている間に、『死』の気配が色濃く迫るのがわかる。

 

壊滅、全滅、無駄死に討ち死に。

そんな無情の言葉が脳裏を駆け巡り、しかし――、

 

「――――」

 

呼吸することも肺が忘れた状況で、スバルは自分の前に誰かが立つのを見た。

小さく、華奢な影だ。光源に乏しい世界で、その外見は判然としない。だが、見慣れた姿だからすぐにわかる。ラムだ。彼女が、ふらつきながら立っている。

スバルを庇うように、両手を広げて。

 

――馬鹿、無理だから、無駄だからやめろって。

 

そう声をかけようとしても、声を出す喉が死んでいる。砂が詰まったみたいに。――否、事実として砂が詰まっている。馬鹿みたいに砂を呑み込んで、頭痛を殺そうとしたことが原因で、今のスバルにはまともな声も出せない。

 

「……ど、ぅして」

 

ただ絞り出すように、スバルはか細い声で鳴いた。

あんなにもスバルの中には、身内であるラムたちへの不満や怒りがわだかまっていて、それは彼女らも感じていただろうに。

 

「――レムが、泣くもの」

 

そのスバルの言葉に、ラムが静かにそれだけ答える。

記憶にないはずの妹のために、記憶にない妹の想い人を守るために、ラムは立つ。

何がそこまで彼女をそうさせるのかスバルにはわからない。

 

わからなくても、わかることがある。

このまま、ラムは死ぬ。そして、スバルも死ぬ。それは避けられない。

 

「――――」

 

ケンタウロスが唸り声を上げ、その両腕に新たに二振りの炎の剣を作り上げる。あるいは剣の外見をしていないため、槌や斧のつもりなのかもしれない。

いずれにせよ、炎を纏った二つの武器だ。それで、自分と比べてあまりにも小さいラムを寸断し、スバルをも焼き焦がさんという構えだ。

 

「……こい、こいよ。何か、あるだろ」

 

来たる『死』の気配を目前に、スバルは痛みの奥底に手を伸ばす。

痛みに対して逆行し、潜行するそれは自分の中へと潜り続ける行いに近い。自分の外側――ラムやパトラッシュ、アナスタシアに助けを求めるのは現実的ではない。

ならば夢や妄想の類と罵られようとも、スバルは自分の内側に手立てを求める。明らかに現実的でないこの手法の方が、まだ現実的な手段であるのだから。

 

内側に潜り、濁り切った体の中へ手を伸ばし、蠢く黒い妄念を掻き分け、スバルは自分の中に打開策を求める。酷使しすぎた『見えざる手』ではない。もっと別の、何か、新しい手段を、この場を乗り越える方法を。

しかし、スバルのその決死の求めは――、

 

「――ぁ」

 

何も見つからないまま、スバルの正面で魔獣が両手の剣を振り上げた。

炎は魔獣の頭上で交差し、それが一瞬の停滞の後にラムへ向かって放たれる。大気を焼き焦がし、迫る斬撃は無情にも少女の細い体を焼き切り、吹き飛ばし、彼女の歩んだ道も、抱えてきた想いも、何もかもをなかったことにして、黒い炭に変える――。

 

その光景を幻視し、スバルは無力さに絶叫を上げて――、

 

「――――」

 

次の瞬間、恐るべき速度で放たれた白い光が、魔獣の上半身を消し飛ばしていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

炎の剣を掲げた魔獣の肉体が、恐るべき光によってこの世から消失する。

それは切断や圧潰といった生易しいものではなく、文字通りの消滅を意味した。

 

「――――」

 

ケンタウロスは馬の胴体と、その頭部部分に人の胴体を繋いだ化け物だ。

そして光はその人の胴体に当たる部分の、胸から上を吹き飛ばしていった。当然、肩から先の腕はもちろん、人の頭部に当たる角や胸に空いた牙だらけの口もだ。

 

その衝撃に魔獣は音もなく傷口から血をこぼし――直後に、傷口が泡立って、これまでと全く同じ超再生が行われる。

蠢く肉が盛り上がり、失われた人の胴体が再形成。即座に人体が作り上げられ、その両腕には早々と炎の炸裂弾が生まれている。

 

「――――!!」

 

ケンタウロスが吠え、無数の赤子の嬌声が冷たい空間に響き渡る。

そのまま身を翻す魔獣はスバルやラムに目もくれず、自らの上体を消し飛ばした害敵に向かって真っ向から飛びかかっていく。

腕に数多の火球を生み出し、魔獣は疾走に合わせて次々とそれを投げ込み、爆熱に紛れて自ら吶喊を仕掛ける構えだ。だが――、

 

「――ッ!?」

 

魔獣の生み出す火球は、そのことごとくが正面から迎撃される。

それを成し遂げるのは、恐るべき正確さで火球を真っ向から穿つ白い光だ。光の速度は尋常ではなく、威力は明らかに火球を上回る。

炎の塊はその中心を光に打たれ、その光の威力に引っ張られて魔獣自体の体に着弾、白い光のハリネズミのようになったかと思った直後、魔獣の全身で炎が爆裂する。

 

腕が消し飛び、口腔が千切れ、馬の胴体部分が焦げ、ケンタウロスが転倒する。砂の大地に猛然と転がり、魔獣は怒りに任せてけたたましく叫ぶ。

しかし、傷口は蠢き、魔獣は死なない。抉られ、消し飛ばされ、及ばないのであれば、強度を増し、用途を変え、殺し方を進化させればいいとばかりに。

 

「――――」

 

失われた部位を再生する、魔獣の外見が変貌する。

人間部分の形が変わり、二本の腕は四本に増え、胴体にあった口腔からは鋭く長大な牙が覗く。馬の下半身も脚を増やし、八本の脚力は単純計算で倍だ。

さらに焦げた肌は黒光りする硬質なものへ変化し、一見すれば鎧を纏った存在に見えるかもしれない。

そして増えた腕のそれぞれに、炎の剣を、槍を、槌を、斧を構え、魔獣は短期間で信じられない進化を遂げ、白光の主だけのために自らを変えた。

 

「――――」

 

四本になった前足を上げ、ケンタウロスは轟然と雄叫びを上げる。掲げた前足の蹄を噛み合わせ、甲高い音を立てて、勢いを駆って走り出す。

その姿、巨躯も合わせ、鋼で武装した列車に等しい。重量と加速度は直撃した相手を容易く挽き肉に変え、見るも無残な死を迎えさせることだろう。

トドメに炎を振る舞えば、魔獣に恥を掻かせた存在は完全に消滅することになる。

 

「――――ッ!!」

 

砂が蹴散らされ『白光が突き刺さる』、炎の熱波『白光が突き刺さる』をたなびかせ、魔獣は猛然と『白光が突き刺さる』突き抜ける。『白光が突き刺さる』炎の熱はこれまでと『白光が突き刺さる』比べ物にならない『白光が突き刺さる』ほどに火力を増し、地獄の業火『白光が突き刺さる』さえもかくや『白光が突き刺さる』と言わんばかりであった。一瞥する『白光が突き刺さる』だけで『白光が突き刺さる』どんな存在であろうと『白光が突き刺さる』震え上がる『白光が突き刺さる』ことは避けられない『白光が突き刺さる』異形と異貌は『白光が突き刺さる』まさに砂海の王『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺』『白光が突き刺』『白光が突き刺』『白光が突き』『白光が突き』『白光が突き』『白光が突』『白光が突』『白光が』『白光が』『白光が』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』――。

 

――。

 

――――。

 

――――――――。

 

――――――――――――――。

 

「――――」

 

そうして、凄まじい量の光が迸った直後、そこにはもはや何も残っていない。

あれほどの猛威を振るった魔獣は、その肉片まで含めて全てが光に消し飛ばされ、この世非ざるどこかへ吹き飛ばされてしまったのだ。

 

砂の上に残るのは、魔獣を掻き消すために放たれた無数の光――その源である、白く細長い針だけ。それも、すぐに風化するかの如く粉になる。

 

「――――」

 

それを愕然と見届け、スバルは頭痛も忘れていた。

気付けばスバルの腕の中、熱く細い体が飛び込んでいる。ラムだ。スバルの記憶の中にもないが、どうやら最後の瞬間、その体を抱き寄せていたらしい。

もっとも、何の意味もないことだったはずだし、ラムの意識もない様子だが。

 

「――――」

 

そのスバルの耳に、誰かの砂を踏む音が聞こえる。

それはゆっくりゆっくりと、確かにこちらへ、スバルたちの方へやってくる。

 

相変わらず、空洞の中には冷たい静寂と、暗闇が落ちている。

かろうじて光源になるのは、先ほどまで魔獣が盛大に吐き出していた炎の残骸が散らばっているのみ。ちょうど、スバルのすぐ脇にも燻る炎の片鱗があり、ほんの数メートル程度なら見渡すことができた。

 

その視界ギリギリのところに、誰かの足が入り込んだ。

 

「――――」

 

顔を上げ、スバルはその足の持ち主――おそらく、光の正体に目を向ける。

緩やかに視界を持ち上げ、霞む目に映り込んだのは、人間だ。

 

「――――」

 

女、だった。

奇妙な雰囲気を持った女だ。

 

砂の上に立つ足は大胆に腿まで剥き出しで、女の下腹部を守るのはギリギリまで切り詰めた裾の短いズボンだけ。そのすぐ上にはやはり露出した女の腰とへそがあり、細くくびれた胴の上には乳房を隠す胸当てのように布が巻かれるばかり。

ただ、肩からはマントのようなものを羽織っており、それが白い肩と露出する体の大部分をかろうじて風から守っている。

 

髪は闇に同化しそうなほど黒に近い褐色で、長く伸ばしたそれを一つに纏めたポニーテールにしている。

そしてスバルたちを見据えるのは、ひどく濃密な感情に濡れる双眸だ。

その薄い唇が横に裂け、女は獣性を帯びた笑みを浮かべ、言った。

 

「――見つけた」

 

少なくとも、言葉は通じるのだな、とスバルは思った。

思ったところで、スバルの意識は限界を迎える。

 

砂の感触に受け止められ、スバルは無言のままに意識を手放した。

せめて、腕の中の少女だけは手放さぬよう、強く抱いて。

 

その程度の意地を張るだけの、根性だけは残っていた。