『神ならぬ身にて』
――ゆらゆら、ふらふら、ぐらぐら。
意識はゆっくりと揺らめいて。
まるで大海をゆく船の上にいるみたいに、右へ左へぐらぐら揺れる。
ふらつく意識が重たく感じて、瞼を閉じているのに目が回りそうだ。
足りない。何もかもが足りていない。
血が、肉が、骨が、安らぎが、怒りが、喜びが、人を構成する色んなモノが足りない。
ぽろぽろと、全部どこかでこぼしてきてしまったみたいに足りない。
拾い集めなくては、とぼんやり思う。
拾い直して、また詰め直して、それからもう一度、立ち上がらなくては。
いかなくちゃならない場所があって、いきたいと望む思いがあって。
生きなくちゃならない理由があって、生きたいと叫ぶ願いがあって。
だから、だから、だから。
何もかもが足りていなくて、欠けた不完全なままでも、進まなくてはならない。
そのために、ナツキ・スバルは――、
△▼△▼△▼△
「――うべ」
と、意識の覚醒の直後、ナツキ・スバルはべたつく自分の顔の感覚に唇を歪めた。
べったりと、顔から胸元にかけて濡れている感覚がある。ぬるく濡れた感触は、悪い夢を見た朝の寝汗の感覚に近い。
ボーッと頭が重たく感じるのも合わせ、熱を出していたのかもしれない。
「……知らない天井だ」
そう、お約束のように呟いた視界、そこにあるのは粗末な木造の天井だ。
しっかりした建築様式とは程遠い、かなり大胆に木材を組み合わせた掘っ立て小屋だ。未熟な技術面を力技で封じ込めた力作に、スバルの思考がしばらく戸惑う。
何があって自分が掘っ立て小屋にいるのか、それを思い出そうと、ゆっくりと自分の記憶を手繰り寄せていく。
「確か、コンビニを出て瞬きしたら異世界にいて、そこでエミリアたんと出会って――ちょっと長いから以下省略」
誰にも聞かせない独り言だが、軽口を叩いていると頭の回転が戻ってくる。
そう、異世界召喚されたナツキ・スバル少年は、銀髪の超絶美少女と出会い、その後にも様々な大冒険を遂げ、ついには砂の塔を攻略、隣国へ飛ばされたのだった。
「自分で言ってても、意味わからねぇ……」
ともあれ、嘆きたくなるぐらいには突飛な状況が続いているのが実情だ。
そして記憶を探ってみたものの、やはりこの粗末な天井に見覚えはなかった。
「かろうじて、可能性があったのは『聖域』ぐらいのもんだが、ガーフィールに監禁されたときも、建物はちゃんとしてたしな」
今でこそ大将、大将と慕ってくれる可愛いガーフィールだが、彼に手足を縛られて監禁された記憶は、失われた世界であってもスバルの中にはしっかり残っている。
別に恨んでいるわけではないが、監禁されるなんて貴重な体験なので、忘れようにもなかなか忘れられるものではないのだ。
ただ、あの劣悪な環境も、この天井の記憶とは重ならない。
なんだかんだ、それなりに文明レベルの高いところで自分は異世界生活を送ってきたのだと、現代人のスバルは数少ない幸運を実感する。
もっと、マシな環境で実感したかったものだとしみじみ思いながら――、
「――っ」
そうして、ぐちゃぐちゃになった頭の中身に一個ずつ整理を付けていくと、切っ掛けのないタイミングで雷のような衝撃がスバルを貫いた。
そう、ここはルグニカ王国ではなく、ヴォラキア帝国だ。
思いがけず放り込まれた隣国に、スバルたちは頼れるものがおらず――、
「レム……!」
何としても守らなくてはならない少女が、一緒にこの国へきてしまった。
おまけにスバルは彼女と離れ離れにされて、レムは今も危険な男たちの下に――、
「馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ俺は……!こんなことしてる場合じゃ……」
「――何を、バタバタと騒いでるんですか」
「――ぁ」
とっさに体を起こし、勢いのままにレムを探しにいこうとしかけたところで、横合いから投げつけられた硬い声にスバルは息を呑んだ。
起こした上体、どうやら天井と同じレベルの粗末な寝床に寝かされていたようだが、そのスバルの傍ら、じと目でこちらを見ている青い瞳と目が合った。
それは、青い髪を短めに切り揃え、綺麗な瞳を険しく細めてスバルを見る少女だ。
「れ、む……?」
「――。はい、と答えるのはあまり肯定的ではないです。まだ、私は自分があなたの言うレムという人間だと認めたわけではないので」
硬く、極力感情を凍えさせた彼女の物言いに、スバルは静かに目を見張った。
しかし、彼女は目の前にいて、喋っていて、夢や幻ではない証拠に温もりも、柔らかな匂いも感じることができる。そう、手の温もりも。
「って、手?」
「――――」
ふと、スバルはかけられたボロ布の下、自分の右手が少女の――レムの手を握っていたことに気付き、唖然とした。
いったい、何があったのか全く覚えていないのだが。
「まさか、起きるまで手を握っててくれたのか?」
「は?気持ち悪いこと言わないでください。見ればわかるでしょう。あなたが、私の手を握って離そうとしなかったんです」
「あ、ああ、そっか。そうだよな。俺が、手ぇ掴んでるもんな……」
期待と現実の区別がつかず、レムの不機嫌な様子に拍車をかけてしまった。
どうやら、意識のない間、スバルはレムの手を握りしめてしまっていたらしい。――それはそれで、振りほどかれなかったことに思うところはあるのだが。
「なんですか、その目は」
「い、いやいや、何でもないです。はい」
「そうですか。いい加減、離してください。手汗でぬるぬるします」
「思春期の男子に絶大なダメージ……!」
可愛い女の子に言われたら、人によっては生涯癒えない傷を負いそうな一撃だった。
幸い、スバルはタフだったので瀕死で済んだが、おずおずと手を離すと、レムが自分の手を胸元に引き寄せ、服で拭いていたので追撃を喰らった。
と、そんなスバルの心中はともかく――、
「レム、どこもケガしてないか?どっか痛いところとか、隠さないで教えてくれ」
「は?」
「え、何その顔……俺、なんかおかしなこと言った……?」
最初のやり取りはさておき、レムの無事を確かめておきたいスバル。そんなスバルの安否を気遣う問いかけに、しかし、レムの反応はひどく冷たかった。
思わず、スバルは自分がまた失言をしたかと焦ったが、心当たりがない。
普通に、レムの心配をしただけの内容だったはず。
「……あなたの方がよっぽど重傷でしたよ。あと少しで死んでしまうところだったのに、その自覚はないんですか?」
「自覚は、ええと、その……」
「なるほど、ないんですね。――やっぱり、あなたを信用はできません」
はっきりと、目を見て拒絶の言葉を投げかけられ、スバルは唾を呑み込んだ。
『記憶』を失い、スバルを取り巻く瘴気の香りが悪印象を手助けし、レムのこちらに対する態度は硬く、冷たいもののままで一貫している。
ましてや、今回はスバルとレムとの間で、溝を埋めるための機会も作れなかった。
ただただ、スバルは必死でレムを帝国の陣地から救い出そうと――、
「――ぁ」
また一つ、スバルの中で不足した記憶のピースが埋まり、脳が震えた錯覚を覚える。
今度の衝撃も、レムの存在に匹敵するぐらい特別なものだった。
帝国の陣地に囚われ、レムを助け出すために大博打を打ったのだ。
結果、森の中にいた部族――『シュドラクの民』と遭遇し、同じ牢の中にいた捕虜の男と一緒に、彼女たちの部族の儀式を受けた。
そして――、
「……黒くない、右手がある」
自分の右腕を持ち上げ、なくなった袖と、そこから覗く腕を見てそう呟く。
スバルの右腕に浮かび上がった、醜く黒い紋様。水門都市プリステラで、魔女教の大罪司教と遭遇した結果の後遺症だが、消えなかったそれが跡形もなくなっている。
――あの黒い紋様が、ボロボロになった右腕の傷を治療した。
おぞましい記憶の出来事だが、どうやらあれは夢でも悪夢でもなかったらしい。いや、悪夢ではあるのだが、現実の出来事だったようだ。
使い物にならなくなった右腕が癒され、スバルの枕元にレムがいてくれる。
つまり、スバルは死なずに『血命の儀』を終えて、レムの奪還を成し遂げたということだ。――代わりに、多くの犠牲を出しながら。
「――――」
「……顔色が悪いですよ。まだ、寝ていた方がいいと思います」
不自然に綺麗な右腕を見下ろし、押し黙ったスバルを見てレムがそう言ってくれる。
好意的に思えない相手でも、気分が悪そうなら気遣ってしまうのは、レムの生来の優しさの結果だろう。あるいは、それだけスバルの表情が死人のようだったか。
その優しさに甘えたしまいたい気持ちはある。
しかし、そんなわけにはいかない。確かめなくてはならないことが、あまりに多い。
「心配してくれてありがとな。けど、色々と聞かなきゃいけないことがあるんだ。……聞いておきたいんだけど、ここってシュドラクの誰かの家だよな?」
「彼女たちは、そう自分たちを呼んでいるみたいでした」
「そうか。……なら、ミゼルダさんたちと会いたいな。あと」
あまり聞きたくないことだったが、確かめないわけにもいかないことがあった。
帝国の陣地に囚われていたレムがこの場にいるのだ。ならば、彼女と同じように、あの場所に囚われていたはずの人物――ルイの、その行方が気掛かりだった。
有体に言って、心配だった。
ルイの安否がではなく、ルイを放置することで発生しうる被害の方が心配だ。
「正直に聞くけど、あいつは……ルイは?」
「――。苦々しい顔ですね。どうして、あの子を遠ざけるんですか」
「それは説明しづらいし、してもわかってもらえないかもな理由があるんだよ」
ルイに関するやり取りは、必ずレムの不興を買ってしまう。
そのことをスバルは苦しく思いながらも、話して通じるものでもないとも思う。
「とにかく、あいつは?まさか、陣地で……」
「――自分の左を見てみればわかります」
「あ?」
何を言われたのかと、スバルは目を丸くしてから、その丸い目を自分の左――右側にいるレムの反対側へと向ける。
と、そちらを見て、スバルは遅すぎる驚愕に顔を強張らせた。
そこにいたのは――、
「すぅ、すぅ……」
「な、ぁ……」
すやすやと、あどけない寝顔を晒しているルイがいたのだ。
彼女はスバルの左側、同じ寝床で同じボロ布にくるまって寝ていた。大きく開けた口から涎が垂れていて、はしたない様子にようやく理解が追いつく。
目覚めた瞬間の、スバルの胸元や顔のドロドロと濡れた感触の正体は――、
「――――っ!!」
声にならないスバルの絶叫が上がった。
△▼△▼△▼△
「おオ、スバル!どうやラ、無事に目が覚めたようだナ」
と、レムの案内を受け、広場に顔を見せたスバルを出迎えたのはミゼルダだった。
黒髪を赤く染めた『シュドラクの民』の若き族長、彼女は掘っ立て小屋から出てくるスバルの方へやってくると、上から下までこちらの様子を確かめる。
無遠慮というか、勢いが気持ちのいい態度にスバルはわずかに苦笑した。
「おかげさまで、どうにか生還したよ。ミゼルダさんにも心配かけたみたいだ」
「気にするナ。死ねバ、勇敢な同胞の魂を天に返シ、亡骸は土へ弔うだケ。そうならズ、お前の魂が留まったことは喜ばしイ」
「ミゼルダさん……」
たくましい腕を組み、褐色の長身の胸を張るミゼルダ。
彼女の飾らない言葉が胸を衝いて、スバルは静かな感動を覚えた。正直、『シュドラクの民』に捕まり、牢屋に入れられたときは再びの死も覚悟したものだったが。
と、そんな感動をするスバルに、ミゼルダは「ところデ」と目を細め、
「すでに相手がいるのが残念ダ。レムとルイ、もう一人くらい増やさぬカ?」
「ミゼルダさん!」
やや悪戯っぽいミゼルダの申し出に、スバルの隣でレムが声を大きくした。
新しい木で作られた杖をつくレム、まだ足がふらつく彼女の表情は険しい。その腕には寝起きのルイがしがみついているが、レムの声に驚いて目を丸くしていた。
そんなルイの金髪を撫でながら、レムはもう一度「ミゼルダさん」と名前を呼び、
「お言葉が過ぎます。私はこの人のことを、信用も理解もしていません」
「ならバ、私がもらい受けてもいいのカ?」
「ええ、当然です。差し上げます」
「俺の意思が反映されてない!」
「あーうー!」
つんとした態度で、レムがスバルの譲渡案に賛成する。
慌ててスバルがストップをかけると、ただその場の勢いに合わせてルイも叫んだ。
それを聞いて、ミゼルダが「冗談ダ、冗談」と笑ってくれるが、その砕けた態度を目の当たりにして、スバルは驚きを禁じ得ない。
『血命の儀』の直後のことは、スバル自身にとってもかなり曖昧だ。
その後のことも、どこまでが自分の記憶で、どこからが自分の都合のいい願望なのかが区別できていない。ミゼルダの態度は、夢幻ではなかったようだが。
「珍しく、初対面からいい関係が築けたってことか。それはよかったけど……」
「ム、顔色が悪いナ。どこか調子が悪いのカ?悪いところは切り落としてやるゾ?」
「迂闊にお願いしますって頼んだらヤバそうな雰囲気だから、遠慮しとく」
おそらく、冗談ではなく、本気の申し出だろう。
うっかり「お願いします」と言おうものなら、取り返しがつかなくなりそうだった。
ともあれ――、
「前のときは、ゆっくりと見て回る余裕もなかったけど」
そう言いながら、スバルがぐるっと見渡したのは『シュドラクの民』の集落だ。
広大な森の奥深くに存在する集落は、スバルの目覚めた掘っ立て小屋を始めとして、いわゆる文明レベルの発達が止まっている世界観だった。
いわゆる、未開のジャングルで暮らす少数民族という印象にぴったりの光景だ。
男手が少なく、狩猟をしながら暮らしているアマゾネス――集落には文明の兆しが見当たらず、まさに未開の地という様子だった。
「少ない人数だから、毎日の狩りで暮らしていける……でも、俺は」
「――――」
唇を噛み、苦しげに眉を寄せて呟いたスバル。
そんなスバルの横顔を、無言のレムが難しい様子で見つめている。彼女の青い瞳の奥、それが何を思っているのか、今のスバルには読み取れない。
読み取れないことが怖い。笑ってくれたミゼルダにも、易々とは笑い返せなかった。
だから、その状況を打開するために――、
「ミゼルダさん、話がしたい。――あいつとも、話さないといけないと思う」
「……そうだナ。ちょうどいイ。奴なら今、タリッタたちと集会場にいるだろウ」
スバルの言葉を聞いて、頷いたミゼルダが顎をしゃくった。
彼女が示したのは、広場の奥にある大きな建物――集会場と、そう呼ばれた場所だ。おそらくは名前通りの役割を果たす場所で、集落で一番立派かどうかはともかく、一番大きな建物が役割を宛がわれているようだった。
「――いこう」
目的地を見定め、スバルはそちらに足を向ける。
一応、レムに手を貸すために手を差し出したのだが、彼女はそれを拒否。ルイを引き連れ、自分だけの力で歩くことを態度で示した。
その変わらないレムの対応に苦笑して、表情を引き締める。
それから、スバルたちは集会場の入口をくぐり、中に入った。
そこで――、
「ようやくお目覚めか。いいご身分だったではないか、ナツキ・スバル」
そう、集会場の地べたに膝を立てて座る、面を被った男に出迎えられたのだった。
△▼△▼△▼△
集会場の中央、焚かれた火を囲んでいるシュドラクの中、男が一人紛れている。
その男の歓迎に、スバルは頬を引きつらせ、言葉を失っていた。
「――――」
「どうした?まさか、命からがら生還した代償に声を失ったとは言うまい?そのぐらいの対価、支払って然るべき結果だったかもしれんがな」
「いや、声はなくなってない。なくなってないけど、言葉をなくしたんだよ。……お前、そのお面なんなの?」
そう言って、スバルは不遜な話し方をする男の顔を指差す。
その指が指し示した男の顔、そこに被せられているのは赤と白に塗られた『鬼の面』のように見えた。もっとも、この世界には『鬼族』が種族として存在するため、実際に鬼の面というわけではあるまい。
ただ、何か恐ろしげなモノの形相を模した面、それを男が被っていたのだ。
そのスバルの指摘に、男は「ああ」と退屈そうに応じると、
「献上された品だ。元より、今後も顔は隠しておくつもりだった。ちょうどいいと言えばちょうどいいだろう。俺も、顔を洗うたびに巻き直すのは面倒だった」
「汚れると痒くなりそうだしな……って、そんな話をしてるんじゃねぇよ」
「ほう?」
淡々とした男の態度に頬を歪め、スバルはつかつかと彼の前に歩み寄る。
すると、男と一緒に車座になっていた一人、タリッタが「おイ」と止めようとした。
だが――、
「タリッタ、やめよ。そのものは俺に用があるらしい」
「は、はア……ですガ……」
「俺がいいと言ったらいい。他に必要な言葉があるのか?」
他ならぬ男にそう制され、タリッタが首を横に振って引き下がった。
短時間で、ずいぶんと『シュドラクの民』からの信頼を勝ち取ったらしい。――否、あの態度は信頼というより、支配の方が適切だ。
タリッタの態度には恐怖や信頼ではなく、敬服があった。それは少なからず、同じ場を囲んだ他のシュドラクにも同じだ。
いったい、どんな手段を用いたのか想像もつかないが。
「とりあえず、あんたとサシで話がしたい。――ヴィンセント・アベルクス」
「――――」
正面に立って、座る男を見下ろしたスバルの発言。それを聞かされ、男の表情がどう変化したのか、面の向こうの顔は見えない。
だが、微かに集会場の空気が引き締まり、体感する温度が下がった錯覚があった。
思わず息を呑みそうになる圧迫感だが、スバルはそれに気合いで耐える。
そして――、
「一度目は朦朧としていたから許すが、俺に同じことを語らせるな。故に、三度目はないと知れ。俺の名を、軽はずみに口にするのは慎むがいい」
「……嫌だと言ったら?」
「相応の罰を与える。貴様に音を上げさせる方法など、いくらでも知っているぞ」
男がその場に立ち上がり、スバルと真正面から睨み合う。
発言の雰囲気と佇まいからして、男の言葉に嘘はない。ブラフの可能性もないだろう。手数と手段が限られていても、きっと男は口にした必罰を成立させる。
「お前、ムカつく奴だな……」
「ならば、三度目を言わせてみるか?」
「――。いいや、それはやめとく。言い争いにきたんじゃねぇよ。――アベル」
意固地になっても意味はないと、スバルはそこで先に折れる。
そうして面の男――彼の呼び方を、ひとまずは忠告に従ってアベルとすると決めた。そのスバルの判断に、アベルは「賢明だ」と顎を引いた。
「貴様が引かねば、血を見ることになっていただろうからな」
「は、言ってろ。こう言っちゃなんだが、俺とお前がやり合ったらギリギリのいい勝負になっちまうと思うぜ」
「ならば、貴様の方こそ後ろを見ることだな」
「後ろ……?」
挑発されたと受け取り、鼻面に皺を寄せたスバルにアベルが言った。それに従って後ろを振り返ると、スバルは「うえ」と肩を震わせる。
そこには、男二人の言い合いを白い目で見ているレムの姿があった。
「あ、あの、レムさん?そのお顔は……」
「いいえ?ただ、死にかけて三日も眠っていたくせに、つまらない意地を張って体を大事にしないみたいでしたから。そのまま、野垂れ死んだらいいんじゃないですか?」
「ごめん、悪かった、もうしないから!」
レムの白い目に押し負けて、スバルが必死でそう謝る。
結局、レムの白けた顔を崩すことはできなかったが、ふとスバルは気付く。
今さらだが、死にかけたスバルが生き延びられた理由は、特別な霊薬でもあったのでないなら、治癒魔法によるものである可能性が高い。
だとしたら、それをしたのは――、
「その扱いも含めて、貴様とは話さねばなるまい」
「アベル……」
息を呑んだスバルの様子から、こちらの心中を読み取ったらしいアベル。彼は軽く肩をすくめると、ミゼルダの方へと顔を向けた。
「ミゼルダ、全員を下がらせろ。俺と、この男だけでいい」
「やれやレ、勝手だナ。色男でなければ怒っているところだゾ」
「姉上、色男相手でも怒ってくださイ……」
アベルの指示にミゼルダがすんなり従うと、その姉の様子にタリッタが肩を落とす。
もっとも、タリッタも直前の経緯があるので、あまり説得力はない。
族長のミゼルダが説得されてしまえば、他のシュドラクが留まることもない。
ぞろぞろと、全員が集会場の外へ向かう。問題は、その波にレムと、ついでにルイを乗せてしまうかどうかだが――、
「貴様のしたい話をするのに、その女がいるのは都合が悪いだろうよ」
「ぐ……」
逡巡の理由もお見通しかと、スバルはアベルの言葉に息を詰まらせる。
しかし、結局は彼の言葉が正しい。このあとの話を、レムに聞かせたくはない。
「レム、みんなと一緒に出ててもらえないか?すぐ……かどうかはわからないけど、あまり長くはかけないつもりだから」
「その言い方だと、まるで私の方がわがままを言っているみたいに聞こえますが」
「そんなつもりはなかったんだけど……じゃあ、出ててくれる?」
「……嫌だと言ったら、どうしますか?」
「え!?」
アベルの相手で手一杯のつもりだったスバルは、そのレムの言葉に仰天する。
それが、先ほどのスバルとアベルとのやり取りを揶揄したものだとはすぐわかったが、レムに食い下がられるとスバルは弱い。
できるなら、レムのしたいことや望みは何でも叶えてやりたいと思っている。
しかし――、
「――。――――。これは、聞かせたくない、かな」
「無理やり、踏みとどまることもできますよ」
「だったら……だったらズルいけど、走って逃げるよ」
杖をつくレムの速度では、スバルが走ったら追いつけない。
そこだけは明確に、今のスバルがレムより勝れるポイントだ。他がパッと思いつかないのは、何とも情けないと言わざるを得ないところだが。
「うー」
と、そう苦悩するスバルの前、レムの腕をルイが唸りながら引いた。どうやら、集会場の外にレムを連れ出そうとしているらしい。
そのルイの様子を見て、レムは小さく笑い、
「ごめんなさい、心配かけてしまいましたね。ただ少し、この臭い人に嫌味を言いたくなっただけですから」
「あうー」
「臭い人……」
どんな嫌味よりも、その一言の方が深く鋭く突き刺さるが、今はいい。
ルイに聞かせた言葉通り、レムは「では」とあっさりと引き下がると、杖をつきながらルイと一緒に集会場を出ていった。
振り返りもしない背中を見送り、スバルは自分の頬を掻く。
レムが、本気でスバルに関心を払っていないのか、それとも気遣ってああ言ってくれたのか、判断に困る。
もちろん、後者であってくれた方が嬉しくはあるのだが。
「印象最悪のままきてんだ。高望みはしない、それが俺のライフスタイル……」
「くだらぬ忍耐と思い上がりだな。――座れ、貴様の話を聞いてやる」
そうして、二人きりになった集会場、スバルはアベルに言われ、地べたにどっかりと腰を下ろし、胡坐を掻いた。
正面、アベルも同じように地べたに座り、膝を立てて面越しにこちらを見る。
真ん中に燃える焚火を置いて、炎越しに二人が対峙した。
「まず聞きたいのは、どっからどこまでが夢で、本当のことだったのかだ」
「は。それこそ、貴様以外に知りようのない問いかけよな。俺に何を答えてほしい。何もかもが泡沫の夢で、事態は平和裏に進んだと聞ければ満足か?」
「ウタカタって子がいたから、その泡沫と紛らわしいな……」
『シュドラクの民』の中、幼い少女が一人いて、彼女がウタカタだったはずだ。
言葉としての泡沫と紛らわしいが、アベルの言葉はそれが本質ではない。――否、スバルは本質がわかっていて、今の軽口に逃げたと言える。
そして、そのスバルの弱腰をアベルは見逃さない。
「貴様の臆病に付き合うつもりはないぞ、ナツキ・スバル」
「……ああ、わかってる。――あの、帝国の陣地を攻撃したのは、現実のことか?」
「無論、そうだ。バドハイムの外に展開していた帝国の陣は、シュドラクの力で以てことごとく打ち滅ぼした。貴様の見たものは、幻でも何でもない」
――改めて、アベルの口からあれが現実のものだったと語られる。
それを聞いて、スバルの胸の奥にずっしりと重いものが差し込まれた。ぎゅっと唇を噛みしめ、その痛みで白みかける意識に待ったをかける。
そんな都合のいい逃げなど、ナツキ・スバルには許されない。
「……話は、わかった。お前が『シュドラクの民』を率いて、帝国の野営地を攻撃した。それで、奴らを追っ払った。そういうことだな」
「ああ。だが、それだけでは不十分だ。俺が直々に補足してやろう」
「補足?」
「俺が指揮し、シュドラクが陣地を滅ぼした。それも、こちらの被害は皆無だ」
「――。つまり、お前の指揮能力がすごいって自慢話か?」
「いいや、そうではない。――これは、貴様の功績だ」
首を横に振って、そう言ったアベルにスバルは「あ?」と目を丸くした。
思いもよらない一言だった。アベルがスバルの功績を認めたということ自体もだが、そもそもスバルが称賛される理由が思いつかない。
いったい、何を言っているのかと――、
「わからぬのか?俺やシュドラクが無傷で勝利できたのは、相手の陣容を子細に知ることができたからだ。他ならぬ、貴様の口から聞き出してな」
「――は?」
立てた膝の上、頬杖をついたアベルの話にスバルの思考が停止した。
思いがけぬどころか、完全に予想の外からぶん殴られた形の言葉。その意味がよく呑み込めず、スバルは何度も口をパクパクと開閉し――、
「陣容と配置、相手の人員がおおよそわかれば、攻め落とす策の確度は上がる。現に、こちらは被害なく勝利した。それが、貴様の貢献だ。褒美も取らせた」
「ほう、び……」
「無事、貴様の女は救い出した。俺は、働きには報いる。死者には報いる術がない。貴様の息があるうちにと思ったが……ふん、悪運の強い男だ」
悪運が強いなどと言われも、スバルは呆気に取られたままだ。
あるいは、アベルにとってそれは誉め言葉や称賛の類だったのかもしれない。しかし、生憎とスバルにはそれを受け取る器も、そういう文化も根付いていない。
当然だろう。――何故、戦争の道具として役立ったことを喜ばなくてはならない。
「どうして、俺が、野営地の話なんて……」
「薬草の副作用だ。『血命の儀』を終え、貴様は瀕死の状態だった。野営地を落とし、女を救い出すまで命をもたせる必要があった。そのために与えた薬の効能が、貴様の頭を朦朧のまま固定した。故に」
「聞かれたことに、ペラペラ答えた……?」
愕然と、スバルは自分の顔を両手で挟み、声を震わせた。
確かに、スバルは野営地の中のことを大雑把に把握していた。一度は小間使いとして、数日をあの野営地で過ごしたのだ。
どこに何があり、どのぐらいの人数がいたのか知っていた。武器や道具の在処もわかっていたから、先制攻撃でそこを潰せば圧倒的有利になるのもわかる。
わかるが、わかったからなんだというのだ。
「薬なんて、冗談じゃねぇ!そんなもん、勝手に使いやがって!お前は……」
「だが、それがなければ貴様は女と再会することもなく死んでいた。つまり、女の治癒魔法が貴様に届くこともなかった。死人を生かし、罵られる謂れはない」
「あ、あるに決まってんだろ……!俺は、俺は戦争に加担なんかしたくなかった!あんな、大勢の人が、死んで……なのに、お前は!」
「――貴様、何か勘違いしているな」
息を荒らげ、邪悪を糾弾する構えのスバルにアベルが言い放つ。
その冷たい声音に突き刺され、スバルは頬を強張らせた。
「勘違い、だと?俺が、何を勘違いしてるってんだ」
「仮に、貴様の意識が薬で朦朧としていなかったとしよう。それでも、貴様はあの女を助け出すため、シュドラクの力を必要としたはずだ。当然、貴様の持てる知識を吐き出し、最善を尽くすこととなる。……ならば、野営地の陣容のことも話したはずだ」
「あ、う……」
「わかるであろう。結果は同じだ。貴様が瀕死であろうとなかろうと、結局は貴様の知識によって野営地の秘密は暴かれ、奴らは死に絶える」
アベルの指摘を受け、スバルは抗弁の方法を探そうとした。
だが、彼の言うことは正しく、スバルにもそうなった場合の流れが自然と浮かんだ。
事実、仮に『血命の儀』をもっといい形で生き延びたとして、レムを助けるための策を練ろうという話になれば、スバルは帝国の陣地の話をしたはずだ。
配置や人員について伝えて、レムを助ける方策を考えるための材料としたはず。
「けど、その場合は俺が作戦会議に加わってる。人死にが出るような作戦は、俺だったら絶対に反対した。だから……」
「貴様に説得できたと?殺す以外の術と持たず、知らないモノたちを説得し、よりよい方法を見つけ出して、人死になく円満に女を救い出すことが可能だったのか?」
「それ、は……」
「教えてやる。――それを、夢物語というのだ」
アベルの言葉に突き刺され、スバルの魂が血を流して絶叫する。
違うと、そう叫び、アベルの言葉を否定したかった。だが、出てくる言葉は根拠のない感情論ばかりで、それはアベルの面を割り、その表情を動かすことはできない。
見ているものが違う。生き方が異なっている。
隔絶した死生観の違いが、スバルとアベル、『シュドラクの民』の間に横たわっている。そしてその壁を取り払い、突破することはできなかった。
少なくとも、レムが失われるまでの短時間では、絶対に。
そう、スバル自身も確信してしまっていた。
「……だからって、俺は諦めたくなかった」
「貴様が諦めぬ代わりに、貴様以外の誰かが死ぬ。それは貴様と縁もゆかりもない他人であるかもしれぬ。あるいは、貴様の半身のような誰かかもしれぬ。立ち止まり、愚考に耽るということは、それを許容するということだ」
歯を食いしばり、許し難い現実を呪うスバルに、なおもアベルは突き付ける。
その苛烈さと引き換えに、アベルは結果を引き寄せたのかもしれない。だが、代わりに失われる命を選別する権利が、いったいどうして彼にあるというのか。
「お前、何様なんだよ。神様にでもなったつもりなのかよ……」
「たわけ。神でも英雄でもない。無論、この世界を見下ろす邪悪な観覧者とも違う。――俺は王だ。王の中の王」
「――――」
「民草は、頂に立つそれを皇帝と呼ぶ。――俺が、それだ」
堂々と、自分の胸に手を当てて、アベルがそう宣言する。
仮面の向こう、隠された表情は見えない。しかし、一度だけ見たアベルの素顔、それが大胆不敵な笑みを浮かべ、瞳を爛々と燃やしているのが目に浮かんだ。
皇帝と、そう言われてスバルは息を呑むことさえ忘れた。
あまりにも威風堂々と、彼は自らの存在を言葉によって証明した。
そして、固まってしまったスバルに対し、アベル――ヴィンセント・アベルクスは、その声の威厳そのままに続けた。
「――神聖ヴォラキア帝国、七十七代皇帝、それが俺だ」
「――――」
「もっとも、今は頂から降ろされ、野に下った身だがな」