『動き出す事態』
レムに連れられてスバルが応接間に飛び込んだとき、そこにいたのはクルシュとフェリス、そしてスバルより一足先に屋敷に入ったヴィルヘルムの三人だった。
息を切らし、肩を揺らして室内に駆け込んできたスバルを見やり、クルシュはその凛々しい面差しの中で瞳を細めると、
「その様子を見ると、すでに話は聞いているようだな」
不要な前置きの手間が省けたとでも言いたげに、クルシュは怜悧な面に感情をうかがわせない輝きを宿してそう告げる。
先手をとられた感が否めない中、スバルは小さく首を横に振り、
「詳しい話はまだ、だ。レムも漠然としたとこしかわかんないみたいだし」
首だけで振り返り、スバルは自分のすぐ傍らに佇むレムへ視線を向ける。その意を受けてレムは顎を引き、無表情の中にもわずかに緊張感の見える表情を浮かべ、
「レムが感じたのは、あくまで姉様の感覚を通じたものですから。――姉様からとは違って、具体的に見えたわけではありません。千里眼が使えれば話は別ですけれど」
悔しげに、眉をひそめるレムは自身の力足らずを唇を噛んで惜しむ。
が、その姿を見ながらクルシュは得心したとばかりに「ほう」と感嘆を漏らし、
「ロズワール辺境伯が預かる、双子の給仕の話は聞いたことがあった。なるほど、王都と領地ほど離れていてもある程度の情報交換が可能なのか」
「申し上げました通り、漠然としたものです。非才の身ではそれが精いっぱいでしたので」
腰を折り、クルシュの賞賛に対して謙遜してみせるレム。そんな彼女らのやり取りを横目に、スバルは一歩前に出ると「待った待った」と手を振り、
「今はそのあたりの話はどうでもいいよ。肝心な部分についてが聞きたい。さっきの感じからすると、もうちょい詳しい内容がわかってんだろ?」
「こっちのも情報の確度って意味じゃやや信頼に欠けるんだよネ。かにゃーり色んな人間の隙間を縫って通り抜けてきた情報だし?」
逸る気持ちが隠し切れないスバルに、フェリスはいつもの悪戯な眼差しを向けてくる。その視線に対して睨みつけるアクションを返すスバルに、彼は「たーだーし」と唇に指を当てながら愛らしく小首を傾げ、
「そのへんのぼんやりした感じが、さっきのレムちゃんの第六感と組み合わさるといーい感じにまとまりを見せ始めてくれたり?」
「先延ばしすんな、結論」
あくまでこちらをからかう態度を崩さないフェリスに、スバルは応接用の机に手をつき、顔を突きつけるようにして恫喝する。
しかし、そんなスバルの要求に対し、手を叩いて意識を引いたのはフェリスではなく、
「逸る気持ちは理解できるがな、ナツキ・スバル」
フルネームでスバルを呼び、緑色の髪を揺らしてこちらを見るのはクルシュだ。
その視線の鋭さを浴び、ふいにスバルは水を浴びせられたような錯覚に陥り、思わず息を呑んで身を引いてしまう。
長身のクルシュと、スバルの上背の差はせいぜい五センチといったところで、それでもスバルの方が高いことには違いない。にも関わらず、スバルはまるで平行に立っているはずの彼女に見下ろされているような圧迫感を覚えていた。
持ち得る器の違いこそが、そうした互いの感じ方の違いを生んでいるのだろう。生物としての格の違いを不必要な場面で思い知らされるスバルに、クルシュはこちらの内心など知らぬ存ぜぬといった態度で、
「我々が卿に情報を開示する理由がそもそもない、と突っぱねたらどうする?」
「な……?」
「予想して然るべき返答だろう?卿は今、当家が預かっている客人だ。その立場はそれ以上を保障するものではない。当家を含めた王選の進退に、ただの客人を関わらせることなどあるはずがない」
正論すぎる正論に真っ向から叩き潰され、スバルはぐうの音も出ずに唇を曲げる。
同時に思ったのは、自身のあまりに短慮で浅はかな甘さへの怒りだった。
つい先日にも自覚したばかりだったではないか。ここはあくまで『敵』の懐であり、なにかあればこちらに否応なしに牙を剥かれる場所なのだと。
当然、クルシュやフェリスもそれに準じた姿勢をこちらに向けるに決まっている。
のこのこと顔を出し、情報をくださいなどと甘えた論理が通るはずがない。
「クルシュ様、フェリス殿――お戯れはそこまでに」
内心に敵意の炎と、どうやって情報を聞き出すか思考を巡らせていたスバル。その回転に待ったをかけたのは、この場でそれまで沈黙を守っていたヴィルヘルムだ。
彼は咎めるような目を主とその従者に向けると、
「平時なればその余裕もありましょうが、今は互いに火急とわかっている次第。無用な言い合いは後々に禍根を残すこととなりましょう」
「後々があればー、だけどネ」
「フェリス殿」
「わかりましたー、静かにしてますー。むぅ、恐いんだからー」
唇を尖らせてソファに弾むように座り、フェリスはそのまま耳と目を塞いで黙り込む。その子どもじみた態度に吐息を漏らすヴィルヘルムと、含み笑いのクルシュ。
そんな彼らの態度についていけないスバルは目を瞬かせるが、
「非礼を詫びよう、ナツキ・スバル」
「へぁ?」
「今のは少し、卿を試させてもらった。大した意味はない。だが、ここが卿にとってはそう意識せざるを得ない場であるという点は留意してほしい」
抜けた声で応じるスバルに謝意を示し、しかし警告を欠かさないクルシュ。その言葉にスバルは改めて己の立ち位置を自覚し、目の覚めるような意識の覚醒を得る。
つまるところ、スバルは望むと望まざるとに関わらず、与えられた環境に甘んじるだけでは許されない位置に今やいるのであると。
気を引き締め直す、というには些か心が落ち着いていないが、それでも意識を切り替えるスバルを見てクルシュは我が意を得たりといった様子で顎を引き、
「ロズワール辺境伯の領地、その付近で少々厄介な動きが見られる。領内は辺境伯の命令で警戒態勢に入ったとのことだが……」
「厄介な動き?警戒態勢?」
物騒な単語が飛び出したことに、スバルは眉を立てて疑問を口にする。
その疑問を受け、クルシュは頷きながら腕を組むと、
「もともと、これらの事態は予想されていたものだ。辺境伯がエミリアを王候補として擁立――つまるところ、ハーフエルフを支援すると表明した時点でな」
「なんだよ、スト――領民勢から不満の声でも爆発するってのかよ」
「当然、それもあるだろう。嫉妬の魔女の悪名が広がっている以上、ハーフエルフであることはそれらの偏見と戦っていくことを避けられない」
とっさに浮かんだ懸念を口にすると、それをあっさりと肯定されてしまう。
ここでもまた、エミリアの出自が彼女の枷となることがスバルには許せなかった。彼女自身が悪いわけではないというのに、世界はどれほど彼女の足を引くのか。
そして、当の彼女本人の人柄も知らず、偏見だけで物を語る『領民』という顔も見えない連中が憎たらしくてしょうがない。
「当人も覚悟の上で歩んだ道のりだ。卿が憤るのは筋違いだろう」
「違ってるわけねぇだろ。本人が悪口言われるのを覚悟してるとか言われ慣れてるとかそんな話じゃねぇよ。そもそも、悪口言われなきゃならねぇ理由がないっつってんだ」
クルシュの言葉に険しい顔つきで言い返し、スバルは「とにかく」と話を元の方向へと引き戻すと、
「そのくだらないことが理由で、ロズワールの領地でいざこざが起きてるってのか。下手したらボヤ騒ぎじゃ済まない、大火事になるって?」
「面白い表現だが、的を射ている。事の仔細は別として、大筋はそれで正しい。卿の従者の感覚にも、それで説明がつくのではないか?」
問いを投げかけられ、室内の視線がレムに集まる。
表情をうかがわせないポーカーフェイスのまま、レムはもっとも身近な視線――スバルのものに目を合わせると、その視線の意図に応じるように頷き、
「姉様から伝わってきた感覚は、いくらかの焦りとたくさんの怒り……でした。伝えようとしたものではなく、堪え切れずに漏れ伝わってしまったのだと思います」
「その共感覚ってのは、そんな頻繁にお互い感じ合ってるもんなのか?」
「いいえ。ある程度、意識して制御しています。それでもあまりに強い感情の場合、それを乗り越えてお互いに伝わってしまうこともあります」
後半にいくに従い、レムの言葉からは力が失われていく。
彼女の言を整理するならば、ラムからレムに伝わった今回の感情の波はイレギュラーなものだ。もしもラムがレムに救援を求めるのが理由で共感覚を用いたのであれば、もっとわかりやすい形で、それも断続的に届くのが自然だ。
にも関わらず、今回の共感覚は漏れ伝わったものが一度だけでその後が続いていない。これはつまり、
「関わらせないようにでもしてる……ってのか」
口の中だけで呟き、スバルは自分の想像に身を焼かれそうな感情を覚える。
もしもラムの意図がこちらの想像通りであるとするならば、ラムにそう命じた人物が誰であるのか、あるいは誰の思惑によるものかは想像に難くなかった。
スバルは今、カルステン家で治療を受けている身だ。レムはそれに付き添う形でいる。レムに伝わるということは、スバルに伝わるということと同義。
――それほどまでに、彼女はスバルを己の道に関わらせたくないというのか。
「でも、困ってるんだろ……?」
事が王都に居を構えているクルシュにまで伝わってくるほどだ。
そして、自制心という意味ではレムより数段勝るはずのラムが、その感情を堪え切ることができずに零してしまうほどの状況。
頼れるものは相変わらず少なく、敵は彼女にとって理不尽なほどに多い。そんな状況下で、なんの裏表もなく味方になれる存在がどれほどいようか。
そう、そうなのだ。
だから――、
「助けにいかなきゃいけないよな」
顔を上げて、ぽつりとそう呟いたスバルに今度は視線が集まる。
クルシュは片目をつむり、フェリスはその悪戯な眼差しをわずかに細め、ヴィルヘルムは変わらず皺の深い顔立ちに感情の波を浮かべず、そしてレムは、
「い、いけません、スバルくん……!」
袖を引き、レムは小さく唇を震わせながら大きな瞳を押し開く。
瞳に浮かぶのは焦りと戸惑い、そして決死なまでの懇願の色だった。
「エミリア様の、ロズワール様のお言いつけは守らなくては。スバルくんはクルシュ様の邸宅で治療に専念するようにと。レムも、レムも同意見です。傷付いた体を癒すことこそ、今のスバルくんにとって最優先で……」
「そうこうしてる間に取り返しのつかないことになったらどうするよ。そうなったら目も鼻も耳も当てられねぇ。どっちを取るかってことさ」
縋りつくようなレムの態度を押しのけて、スバルは前に出るとクルシュの顔を見る。静かに見つめ返してくる琥珀色の双眸を受け、居住まいを正すと、
「聞いての通りだ、クルシュさん。俺とレムはロズワールの屋敷に……エミリア様のところに戻らせてもらう。事が片付くまでは治療はお預け……」
「――ここを出るのであれば、卿は私にとって敵ということになるな」
後々の話をしようとするスバルを遮り、クルシュはあくまで冷然とそう告げた。
その言葉の切れ味のあまりの鋭さに、スバルは事実身を斬られたような錯覚を覚える。そして、切り傷から痛みが伝わるように意味が広がり始めると、
「ど、どういう……」
「ひとつ、卿の考えを正しておこう。私が卿を客人として扱い、フェリスの治療を受けさせているのはひとえに契約があってのことだ」
「契約……?」
聞き返すスバルに「そう」とクルシュは頷き、彼女は組んだ腕の先で指をひとつ立てて、
「結ばれた契約はエミリアと私……フェリスを介してのものだが、内容は卿の治療を行うこととその見返り。互いの同意をもってそれを成立とし、私は卿を客人として迎え入れている。だが、私がこの契約を守るのには理由がある」
「――――」
「私がエミリアとの契約を守るのは、これが王選以前に結ばれたものだからだ。王選以降の私とエミリア、互いの関係は政治的な敵同士。故に、エミリアの陣営のものに手心を加えてやる温情など本来はない。だが、契約は契約だ」
たびたび繰り返し、クルシュは『契約』という言葉を用いて事を強調する。
聞きながら、スバルはその単語が『約束』の二文字に聞こえ、そしてその単語がエミリアと交わした最後の会話に繋がってしまう居心地の悪さを覚えていた。
『約束』を守らなかったスバルに、『契約』の履行を優先するクルシュ。
彼女は内心の罰の悪さを表情に出すまいとするスバルに、殊更その視線を鋭くし、
「卿が当家を離れるというのなら、その契約も中途で手放されたものとする。互いに遺恨なく、あとは私とエミリアは完全な敵同士だ。そしてそのエミリアの陣営として動く卿も当然、私にとっては敵となる」
「だから出ていくなら、それで治療は打ち切りってわけか……ずいぶんと、せこい真似するじゃねぇか。ようはピンチになってるエミリアを助けられたら困るから、俺たちを行かせたくないってわけだろ?」
「勘違いしにゃいでほしいんだけど」
と、スバルが挑発めいた軽口で己の内心の誤魔化しを行ったときだ。
それまで黙って事の成り行きを見守っていたフェリスが、わずかに険のこもった眼差しと、栗色の毛並みが鮮やかなネコミミを立てて割り込んでくる。
「クルシュ様がスバルきゅんたちに今してるのは、意地悪じゃなくて温情にゃんだから。別にスバルきゅんたちがエミリア様を助けに戻ったって全然こっちに損なことにゃんてないんだよ?それでも引き止めてあげてるのは」
「フェリス、よせ」
「いーえ、言います。ちょこーっと勘違いが酷過ぎるから、そのあたりのところを正してやんなきゃなんですよぅ」
短い言葉で引き止める主に首を振り、フェリスは改めてスバルを見る。
それから彼はゆっくりと噛みしめるように、
「スバルきゅんが行ったって、状況が変わるわけじゃない。行くだけ無駄。エミリア様が対価を支払ってまで結んだ治療の約束も無駄になる。そんなことするぐらいだったら、大人しく成り行きを見守りながら、体を治してた方が身のためってこと」
――音が、した。
ぷつりと、頭の中でなにかがはち切れるような音がしたのをスバルは聞いた。そしてそれが癇癪を押さえ込んでいた袋の口だったのだと気付いたとき、スバルは想像を絶する屈辱に唇を噛み切りかけるほどだった。
「決めたぜ」
それらの感情の全てを面に出さず、スバルは静かにそう言葉を紡ぐ。
激情はいまだ胸中で炎を上げているが、その熱は外に噴き出すことを選ばずにスバルの内面を焼き焦がし、ひとつの結論を導き出すに至った。
「俺は屋敷に……エミリアのところに戻る。短い間だけど、世話になった」
「スバルくん!」
はっきりと決別を口にするスバルに、取り縋るような声音でレムが叫ぶ。が、スバルはその彼女に掌を向けて黙らせると、正面にいるクルシュ陣営を見下ろす。
スバルの言を聞き、しかし瞑目するクルシュの内心はようと知れない。しかし、彼女の隣で深く長いため息を漏らすフェリスはわかりやすく渋い顔だ。
彼は首を振り、呆れた様子を隠す素振りもなくスバルを見ると、
「忠告を素直に受け入れるのも、その人の器を測る要素だと思うけど?」
「お前の忠告のおかげで決断できたよ。ありがとよ」
はっきりと皮肉でもって返すスバルに、肩をすくめるフェリスはそれ以上の言葉を作るのを諦めた様子だ。代わりに会話を引き継いだのは、
「ナツキ・スバル」
名を呼び、見開いた双眸でスバルを見上げるクルシュだ。
その凛とした眼差しに見据えられ、スバルはその眼光に屈すまいと意識を引き締める。たとえなにを言われたとしても、一度吐いた言葉を曲げるつもりはない。無力で愚かと誹られたとしても、それが何ほどのことがあろうか。
だが――、
「悪いが、当家の長距離移動用の竜車は全て出払っている。貸し出せるのは運搬用の足の遅いものと、中距離間で地竜を取り替えながら走ることを前提としているものしかない」
そうして内心で息巻くスバルを余所に、クルシュが口にしたのはまったく別の話題――否、スバルの決断をある意味では肯定するような言葉だった。
一瞬、なにを言われたのかわからずに目を白黒させるスバル。そんな彼をクルシュはわずかに怪訝そうに見て、傍らのフェリスを振り返ると、
「フェリス、私はなにかおかしなことを言ったか?」
「クルシュ様の切り替えの凄まじさにはフェリちゃんいつもクラクラにゃんですけどぅ……今回はほら、スバルきゅんも竜車を貸し出すお話までしてくれるとは思ってなかったんじゃにゃいですか?」
頬に手を当てて身悶えするフェリスの答えに、クルシュは「ああ」と納得したように顎を引く仕草。それから彼女は改めてスバルを見ると、
「卿の決断を尊重する。いかな判断であろうと、己で決めたことを通すことは重大な責任を伴う。そしてどうせ責を負うのであれば、己の為したいことを為すべきだ。自身の魂に恥じぬように。――そうだろう?」
「……ああ、そうだ。その通りだよ。魂が恥知らずになりたくないって騒いでんだ。あの子がピンチだってのに、のほほんと療養生活なんてしてんじゃねぇってな」
スバルの意を肯定するクルシュにそう応じ、スバルは己の内心の変化を享受する。思わぬ援軍を得て、スバルの判断はもはや翻ることはない。
そのことがレムにも伝わったのだろう。彼女は一度だけ己を責めるように、瞳を閉じて沈黙を選び、そして目を開けたときにはいつもの無表情を取り戻していた。
「主に代わり、今日までのご厚意に感謝を申し上げます」
「構わない。こちらにも利があってのことだ。領地までの足の話をしたいが」
「厚顔ながら、お力添えをいただければと。今は一刻も早く、領地に戻って主のお力になりたいのです」
頭を下げ、クルシュが差し出す厚意に与ろうとするレム。
先の会話内容から、どうやらそれが行き来に利用する竜車の話なのだろうと思い当たり、スバルは手を上げて思わず口出しする。
「ちょっと聞きたいんだけど、王都からだとロズワールの屋敷までどれぐらいだ?」
スバルの記憶が確かならば、屋敷から王都までの道行にかかった時間はおおよそ七、八時間前後であったように記憶している。早朝に出発し、昼過ぎよりさらに遅いぐらいの時間に辿り着いたのだからそのはずだ。
ともなれば、移動にかかる時間は長く見ても半日のはずだが、
「竜車を乗り継ぐことも考えると……二日、ないしは三日かかるはずだ」
「三日!?でも、くるときは半日かからなかったぞ!?」
長距離移動用の竜車がない、という話はあったが、それが理由にしてもかかる時間の差が大きすぎる。昼夜問わず走り続ければ、そこまでの差がつくことなど考え難い。
しかし、スバルの当然の疑問はレムの首振りに否定される。彼女は端正な顔立ちの中で、ほんのささやかに眉を寄せて難しい顔を作り、
「くるときに使えたリーファウス街道が今は使えません。時期悪く『霧』が発生する期に入ってしまって……ですから、街道を迂回しないと」
「霧がなんだってんだよ。そんなもん突っ切っちまえば……」
「霧を生むのは白鯨にゃんだよ?万一、遭遇したら命がにゃい。そんなこと、言われるまでもない常識じゃないの」
口を挟むフェリスが当然のような口ぶりでそれを却下する。
『白鯨』とまたしても知らない単語が出たことにスバルは顔をしかめるが、理解の及ばないスバルを置き去りに彼女らの話し合いは順当に進む。
結果、クルシュとレムの交渉は『カルステン家から竜車を借り受け、移動途中の村々で竜車を乗り換えて帰路を行く』ということで落ち着いた。
休まず走り続ければ、とスバルは歯がゆくも思ったのだが、車体を引くのが生き物である以上、それが疲労するという現実からは逃れられない。
燃料を入れれば走り続けられる自動車とは違うのだ。こういった点で、元いた世界とこちらでの利便性の違いを痛感させられてしまう。
いずれにせよ、事態は動き出したのだ。
まごついて時間を浪費してしまう余裕など、そこにはもうありはしなかった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――一度、そうして方針が決まってしまえば動きは早かった。
もともと、スバルとレムがカルステン家に持ち込んだ荷物は少ない。ほぼ着の身着のままで上がり込んだ邸宅をあとにするとき、二人の手荷物はスバルが両手で抱えて十分な程度のものでしかなかった。
手早く荷物をまとめて二人が屋敷の外へ向かったとき、並ぶ鉄柵の中でゆいいつ外と中を隔てる門扉の側にはすでに竜車が到着していた。
御者台に座っていたヴィルヘルムが二人の接近に気付くと、手綱を握ったまま身軽に台から飛び下り、同じ高さの地平に着地。身嗜みを手櫛で整え、
「こちらが当家に残った竜車の中で、もっとも足の速い地竜になります。それでも辺境伯が利用される地竜とでは大きく格が下がりますが、お許し願いたい」
「貸し出してもらえるだけで御の字ッスよ。必ず返します……ってのは、このあとはもう難しいんですかね?」
声の調子を落とし、スバルは差し出された手綱を受け取ってヴィルヘルムを見る。
すでに門扉の前で二人を見送るのは老人ただひとり――クルシュとフェリスは屋敷の玄関ホールを出た時点で別れを告げられており、そこにははっきりとした決別の色が見受けられた。
少なくとも、ことが片付いたあとですんなり、借りた地竜を返しにいくのがはばかられるような姿勢であったことは間違いない。
そんな不安が表に出たスバルの言葉に、ヴィルヘルムは皺の深い顔を俯かせ、「そうですな」と前置きしてから、
「私も立場上、クルシュ様のご判断に従うより他にありません。屋敷を出てしまったあと、私の主とスバル殿の主の関係は先刻の発言通りとなるでしょう。――竜車は治療と、剣の指南が中途で終わることを含めてせめてもの餞別です」
「そんなこと……屋敷出るときは一言も言ってなかったと思ったけどな」
屋敷を出る二人にあの主従がかけた言葉は、らしいといえばらしすぎる挨拶だった。
「健闘を祈る。努々、己の誇りと魂に恥じぬ選択をするように」
「こんなにクルシュ様が優しくしてくださるのを遠ざけるんだから、とっととエミリア様と仲直りしてくんないと困るよ、ホントに。早く行っちゃえ」
印象強いのは最後のその一言ずつだろうか。
そこにはヴィルヘルムが言ったような配慮の気配は感じられなかったのだが。
「私もクルシュ様に仕えている身です。主のお考えの多少はわかるものですよ」
「ちなみにここで働き始めてどれぐらい?」
「およそ半年ほどになりますかな……」
「思ったより職歴短いよね!?主従の間でちゃんとコミュニケしてる!?」
ヴィルヘルムの言を真に受けて竜車を拝借し、それが切っ掛けでクルシュとエミリアの対立関係を深めたとなったら笑い話にもならない。『借りパク戦役』の始まりである。歴史の教科書にその名が刻まれるのはとてもしのびない。
そうしてスバルとヴィルヘルムが話している間にも、竜車に駆け寄ったレムは車体と地竜そのもののチェックに余念がない。
スバルから奪うように手綱を握ると御者台に飛び乗り、それからすぐに降りると車を引く地竜の状態を確かめるなど忙しく駆け回っている。
ちらっと見た限り、貸し出された竜車の地竜はロズワール邸から出発した際のものより一回り近く小さいだろうか。その分、移動用の竜車自体も小型のものなので馬力には問題はないだろうが、やはり足の速さの違いは気にかかるところだった。
「――わかったら、言うことを聞いて。そう、いい子、いい子です」
「レム、どんな感じだ?」
レムの指示に従って頭を下げる地竜。彼女はそのトカゲの鼻面に手を伸ばし、硬質な爬虫類の肌を優しく撫ぜながらスバルを振り返ると、
「少しだけ気性の荒い子でしたけど、今はどちらが上なのか教えてあげたので問題ありません。レムの指示に従ってくれると思います」
「そ、そうか……上下関係きっちりしたったんだな。案外、体育会系だよね」
スバルがヴィルヘルムと話している間に、レムも地竜と『お話し合い』をしていたらしい。内容に踏み込む勇気がないので詳細は不明だが、これから扱き使われる形になる地竜に対しては同情心のようなものが芽生えないでもない。
もっとも、それで行軍のスピードをゆるめるような慈悲の余地もない。
「霧を避けて平原を迂回した場合、辺境伯の領地までには二つの村を通過するはずです。その内、領地側に近いハヌマスという村でなら乗り換えの竜車が手配できるかと」
「ちなみに、そのハヌマスって村までは?」
「おおよそ十四、五時間といったところでしょうか。乗り換えた竜車を潰す覚悟で飛ばせば、そこから約半日ほどで領地に辿り着くこともできると思いますな」
どちらにせよ、一日半以上がかかるもどかしい道のりになるのは間違いない。
スバルは頭を掻き、その口惜しさに歯噛みしながらも、ヴィルヘルムに頭を下げ、
「なにからなにまですいません。そういや、せっかく稽古つけてくれてたのにそれも中途半端で……」
「一番大事なことは伝えたつもりです。それ以上に剣の腕を上げたいと思われるのであれば、あとはひたすらに振り続ける以外にありません。ご健勝で」
差し出される手を握り返し、スバルとヴィルヘルムは固く握手を交わす。
それから一足先に御者台に乗り込むレムにならい、スバルも竜車の荷台の方へと身を乗り上げた。荷台の上から屋敷を見ると、庭園を挟んで門扉を覗けるテラスに二人の人影が立っているのが遠巻きに見えた。
シルエットからして、クルシュとフェリスの二人であろうと思う。
見えないだろうと思いながらスバルは二人に対して手を振り、それから最後にもう一度だけヴィルヘルムに声をかけ、
「じゃあ、行きます。また縁があったら仲良くしてください」
「木剣で滅多打ちにするような歓迎がお気に召したのでしたら、いくらでも」
紳士的に笑い、それから丁寧に腰を折ってヴィルヘルムがこちらを見送る。
地竜がいななき、ゆっくりとした初速を得て竜車が地を噛み動き出した。少しずつ遠ざかり始める屋敷と住人たち。
こちらが見えなくなるまで律儀に頭を下げ続け、遠くなる白髪の人物に「次は絶対に一発ぐらいは入れてやろう」とスバルは心に決めた。
坂を下り、貴族街の入口を抜けて詰め所を横切り、下層区の大通りを直進して王都と外界を繋ぐ大正門を抜ければ目的の街道へ出る。
地竜の加護によるものか、ささやかすぎる震動を尻の下に感じながら、スバルは逸る気持ちを堪え切れず、小窓の外の光景に視線をさまよわせていた。
王都に到着する際には意識を失っていたため、王都近辺の様子を目にするのはこれが初めてだ。とはいえ、王都の周囲といっても街道ともなればさほどロズワール邸を出たばかりの光景とそれほど変化はない。
せいぜいが整備された街道の幅が大きく、はるか後方に存在感の強い王都の街並みが見える程度。それも、ほんの十数分の行軍で完全に見えなくなった。
視界が広がる緑の平原と青空だけに支配されてしまうと、途端にスバルはやることを失って車内の壁に背を預けているしかない。
行きの竜車内には同乗者がいたため退屈は少なかったが、今回の同乗者は御者台に座るレムがただひとり。地竜を操るのに集中している彼女の気を散らせるわけにもいかず、スバルにできるのはただ思案に沈んでいることだけだった。
公爵家の人間が利用する竜車にしては、スバルの座る荷台の座椅子の感触は良くはない。小型のそれはおそらくクルシュのような身份の高い人間が乗るものではなく、彼女の手足となる人間が利用する類のものなのだろう。
ひっきりなしに出入りのあった彼女の屋敷を思えば、長距離用の竜車などが出払っていた理由にも相応の納得がある。
王選への参加はそれだけ、周囲との間に関わり合いを生むのだ。
公爵家ともなれば付き合いの数は相当数に上るであろうし、王位を目指すのであればさらに広く大きな交友関係を求める必要もある。
そういった政治的な問題に、今後はエミリアも踏み込んでいかなくてはならないのだ。そして、彼女にはその苦難の前に不必要なはずの試練が待ち受けていた。
「だから早く、俺がいかないと」
無論、政治的な問題や有力な支援者を得るといった課題に自分が携われると思うほどスバルは自分を過大に評価していない。
元の世界でも政治経済といった分野に欠片の興味も持たなかった身だ。日本の首相が変わるような事態にあっても、スバルは「これだけ頭コロコロ代わってたら誰がやっても一緒だろ……」と思っていたタイプで、それ以上の関心はなかった。
故に、スバルがエミリアの下へ駆けつけるのには具体的なビジョンはなにもない。
ただ、スバル自身も気付かないようなささやかな焦燥感が、それらの考えて然るべき問題から目をそらさせていた。
「俺がいなきゃ、駄目なんだって……そうしたら、わかってくれる」
根拠のない確信――否、願望だけがそこにはあった。
エミリアが窮地に陥っている。その場に自分が駆けつけさえすれば、全てはどうにかなるのではないかと、そんな風に吹き消されそうなか細い希望があった。
価値を証明したい、しなければならない。
エミリアが困難にぶつかっているのならば、それがスバルにはできるのだ。
否、そうでなくてはならない。スバルが自分の価値を見つけ出すためにも、知らしめるためにも、彼女は窮地に――。
「そうだろ……俺がいなきゃ、駄目なんだって。絶対」
呟きながら、ひとりスバルは思案に沈む。
脳裏に浮かぶのは銀色の髪をした愛しいはずの少女。彼女の笑顔が、得体の知れない闇に覆われ、その気高い心を挫こうとする悪意に埋もれていく。
その光景を幻視し、スバルは口元を噛みしめて瞳をつむった。
荷台でひとり、静かにスバルは時を待ち続ける。御者台にいるレムを除き、自分以外の存在を感じることのない場所でひとり。
俯き、瞑目するスバル。
その口元がかすかに歪んでいたことには、ついに本人すら気付くこともなく。