『コイバナ』


 

「おう、ケンさん、朝から珍しいじゃんか。ついに仕事クビになったか?」

 

「馬鹿言えよ、俺がいなきゃどこもかしこも回らねえっつの。あんまり俺が働きまくってみんなの仕事奪っちゃ悪ぃから、俺のガス抜きみんなのやる気注入だよ」

 

自転車に乗った近所のパン屋の店主が親しげに声をかけてくるのに、賢一が中指を立てて悪態をつきながら返す。そのままゲラゲラと下品な会話をしばし続けると、そのまま手を上げあって別れていった。

 

「ったく、どいつもこいつもたまの休日に人の面見たら失業失業言いやがって。愛する家族を養わなきゃな俺がそんなヘマするわけねえだろっつの。仮にクビのかかるような行いに手を染めるとしても、ばれないようにやるってんだよ、へへっ」

 

「……養われる身としちゃ、ばれるばれない以前にそんな手段に手を染めないことを心から祈るよ」

 

ジャージのポケットに手を突っ込み、道の端に寄って会話が終わるのを待っていたスバルは肩をすくめる。日陰に入って風を浴びていた息子に、賢一は「おいおい」と両手と首を振りながら、

 

「冒険心を忘れちゃ男としても人としても成長がないぜ?それで悪いことしてたらお話にならねえけど、そのギリギリのラインの見極めが楽しいというか……」

 

「冗談で済む歳をとっくに過ぎてんだから落ち着けよ。四十過ぎていつまでもガキみてぇなこと言ってねぇでさぁ」

 

「男は大人になってもガキな部分がどっかしらにあると思うんだけどなぁ。っつか、本来こういった馬鹿話をするはずのお前が会話に加わらねえから、仕方なく父ちゃんがこんな馬鹿な話をしてるわけだよ。そこんとこ、どーよ」

 

「どーもなにも、見知らぬオッサンと親しげになんか話せねぇよ、俺」

 

「見知らぬなんてこともねえだろ。いつも俺がたまに帰りとかにパン買って帰ってくる店の店主だよ。ついでに言えば俺の高校のときの一個下の後輩」

 

そう言われてもピンとこない。

パンの袋などマジマジと見た試しはないし、おそらく自分で立ち寄ったこともない。

スバルが無言でその会話を終わらせたがっている雰囲気を出すと、賢一は「仕方ねえなあ」と舌打ちして、

 

「こうやってお日様がかんかん照りの陽気の爽やかな朝に、辛気臭い面してるなんてお天道様に悪いと思わねえのかよ。職質されそうな面してんぞ」

 

「仮に職質されるとしたら、こんな時間に俺を無理やり連れ出した父ちゃんのせいだろ……俺は嫌だって言ってんのに強引に」

 

「抵抗なんて形だけでほぼ素直に従ってた癖によ。なんだかんだで父ちゃん大好きなんだよな、昴は。安心しろい、俺もお前を愛してるぜ。母ちゃんの次だけどな!」

 

歩き出すのを再開しながら、機嫌よさそうに笑う賢一がスバルの背を乱暴に叩く。その威力に顔をしかめながら、スバルは賢一のテンションの高さに違和感を覚えていた。

いや、確かに平時から父はこんなテンションではあるのだが、気分屋なところがある賢一は先のようなやり取りをすればもっと長いこと拗ねていたはずだ。

それがどうしたことか、今朝はやけに気分に余裕があるように見える。

 

――こうして隣り合って外を歩いているだけで、胸が潰れそうに痛むスバルとは対照的に。

 

「それで……」

 

「うん?」

 

「それで、なんか話があったから俺を外に連れ出したんだろ。いつもならここまでしねぇのに……なんの話だよ。中だと、しづらい話だとか」

 

母に聞かせたくない話でも、というニュアンスでスバルは問いかける。

どんな話を振られるのか、うすうすと嫌な予感は感じていた。どうせ、無気力に生きるスバルの現状へのお小言かなにかだろう。

常日頃なら布団を被って聞き流せているが、外ではそうもうまくいかない。あるいは大声を出しまくって遮ってもいい。外でそれだけの恥をかかせれば、さしもの賢一も態度を改めて、スバルのことを――そこまで考えて、首を振った。

 

「俺の親父なら、その恥すら面白がる可能性がある……っ」

 

「なにをとんでもな想像してんだか知らねえけど、そんな突飛で面白い話しねえよ?たまにゃ家族の日常会話ってやつをお日様の下でしたくなったんだよ」

 

「本当かよ、信用ねぇぜ。……いちおう、頷いとくけど」

 

「そうしろそうしろ。時に昴、お前……弟と妹ならどっちが欲しい?」

 

「十七にもなってその質問されるのは恐怖でしかねぇよ!!」

 

斜め方向からの話題振りが飛び込んできて、スバルは戦慄しながら声を上げる。肩を上下させて息を荒げるスバルに、賢一は「冗談、冗談」と歯を見せて笑い、

 

「確かに俺とお母さんはまだまだいちゃいちゃしてるけど、さすがにこの歳でもう一人みたいなことはしねえよ。つまり、俺と母さんの愛情はお前が一人占めだ。喜べ」

 

「あー、はいはい、嬉しい嬉しい。……ホントに冗談だよね?」

 

「おいおい、やめろよ。お前、そうやって嫌がられると前振りされてるみたいに感じて張り切っちゃうかもしんねえだろ?」

 

いよいよ冗談で済まない可能性も出てきたので、スバルは無言の注視でその話を終わらせる。苦笑し、その意思を受け取る賢一。

 

――スバルが父と歩いているのは、自宅からほんの十分ほどの散歩道だ。

近所を有名な川が流れる土地であり、土手伝いに桜の木々が植えられている春の観光スポットでもある。もっとも、今はそのシーズンも過ぎていて、桃色の桜の代わりに緑の葉が青々と日差しを浴びるにとどまっているが。

 

朝食を終えて、登校時間までを罪悪感と焦燥感に削られながら過ごしたスバルを、外へ誘った賢一が連れ出したのがこの場所だった。

最初、家を出た時点では学校へ連れていかれるのでは、と不安に思っていたが、

 

「学校の方向に歩こうとするとお前の警戒がジャキーンってなっからな。別にそれが目的なわけじゃねえんだし、遠回りして土手までいくべ」

 

と、こちらの意図を読み取った賢一にずるずると引きずられるままここへきた。

土手の上には草木の匂いを乗せた風が強く吹いており、少し背伸びすれば区切られた柵の向こうに穏やかに流れる川が見えることだろう。

 

「昔はあんな柵なんてなくってよ。しょっちゅう、ダチと一緒に川で水遊びしてはしゃいだもんだよ。ほら、池田のこと覚えてっか?台風の日に、すげえ流れになってるのを見にきてあいつが流されて……あんとき、たまたまライフセーバーの資格持ってるオッサンが通りかかってなかったら死んでたろーな」

 

「まさかこの柵、父ちゃんと池田さんとやらのせいでできたんじゃねぇだろうな」

 

「いくらなんでも……いや、待てよ?でも、微妙に時期的に一致してるような」

 

柵に寄りかかって川を眺めながら、思い出を振り返る賢一が首を傾げる。父親の後ろで手持無沙汰に突っ立ちながら、スバルはきょろきょろと周囲を見回していた。

平日の午前中、当然だが人気は少ない。というより、スバルと賢一以外には人影が見当たらない。もともと、人の寄りつき難い場所でもあるのだ。こんな時間にここをうろついているのなど、管理人かあるいは物好きばかりだろう。

と、そんな感想を抱くスバルの耳に、ふいに誰かの草を踏む音と、

 

「おお?誰かと思ったら、ケン坊じゃないか?なんだなんだ、いい歳してまた川遊びしにきたのか」

 

「俺を呼ぶ声は誰って……管理小屋のおっちゃん、代替わりしてねえのかよ。逆にそれの方が驚きだし、今日は海パン履いてねえから川なんざ入らねえよ」

 

「抜かせ。トランクスなんてパッと見じゃ海パンと変わらないなんて言いながら、パンツ一丁で飛び込んでた奴の言うことじゃないぞ。しっかし、久しぶりだなあ」

 

土手を登ってきて、賢一と気安い様子で手を取り合っているのは年齢のいった背の低い老人だ。好々爺といった風情で、緑の年季の入った制服を着ている。会話の内容と背中の入ったロゴからして、おそらく土手の管理人かなにか。

それも、川遊びしてた頃の賢一を知っているとなると、かなりのベテラン。

 

久々の再会となったらしい二人は笑い合い、老人は手を叩くと、

 

「そうだ、お前がいるんなら池田はどうしてる?あいつ、本当にしょっちゅう流されてたおかげで、私が網で拾った回数はぶっちぎりだったんだが」

 

「池田の奴なら、十年くらい前に万馬券当てて、大金持ったままタイに飛んで消息不明だよ。年賀状と暑中見舞い、寒中見舞いとお盆にクリスマス、父の日と母の日には手紙がくるけどな」

 

「そんな頻繁に手紙送ってくる人間を消息不明とは言わねぇ……」

 

ぼそりと思わず突っ込みを入れてしまうスバル。すると、そんな小さな呟きを聞きつけた老人がこちらを見て、初めてスバルの存在に気付いたように眉を上げると、

 

「おっと、連れがいたのか……うん?ひょっとしてこの子は」

 

「ああ、そう、俺の息子。いや、愛息子と言い変えるべきだな」

 

「おお、やっぱりそうか!どことなく、若い頃のお前の面影が……いや、あんまりないな。お前には似てない。母親似……か?」

 

「はは。よくそう言われます。目つきとか、特に」

 

平々凡々とした顔立ちの中で、そこだけやたらと特徴的な三白眼。母の目つきの鋭さも筋金が入っているので、この部分には明確に母の影響が色濃く出ている。

そんな当たり障りのない返答をするスバルに老人は歩み寄り、

 

「そうかそうか、しかし驚いたな。あのケン坊にこんなでかい子どもがいるような時間が経ったか。そりゃぁ、私も歳をとったわけだ。もう溺れてる池田を泳いで助けにいくような体力も残ってないしな」

 

「さすがの池田さんも、もうこの歳で川遊びして溺れるとは思いませんけどね……」

 

「まったくそう願うが……なかなか落ち着かない奴らだったからな、こいつらは。特にお前の親父さんは方々で騒ぎばっかり起こしていたからな。そのあたり、町を歩いてるとわかるんじゃないか?」

 

「……ええ、まあ」

 

歯切れの悪いスバルの返答。それを受け、老人はいくらか怪訝に眉を寄せる。と、さらにその眉間の皺が深くなったのはその直後で、

 

「ん?ケン坊の子どもはいいが……確か、今日は月曜日だったよな。なんで、こんな時間に親父さんと土手なんかに?」

 

「――ッ!」

 

問われたくない質問を浴びせられて、スバルの表情が痛みに強張った。

次いで、訪れるのは自室でもあった突き刺すような鋭い頭痛だ。思わず頭を抱えてしまいそうになる痛みに目をつむり、スバルは「すみません」と切羽詰まった声で告げると、逃げるように老人に背を向けてしまう。

 

「あ、おい、こら、昴!悪いな、おっちゃん。また今度、ゆっくり寄らしてもらうからそんときに話そう」

 

「あ、ああ……なんか、すまんこと言ったみたいだな。あの子に、謝っておいてくれ」

 

背後で交わされるそんな会話も耳に入らない。

とにかく、スバルは頭蓋の軋むような痛みから逃れようと、胸を打つ鼓動が鎮まる場所を求めるように、土手から逃げるように走り去る。

その後ろを追いながら賢一は、

 

「謝られるようなことねえよ。――あとは、あいつの問題なんだからよ」

 

と、小さく口の中だけで呟いていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ほれ。冷たくておいしい愛情のこもったコーラだ。おいしくなるようにしっかり振っておいた……って言いたいとこだが、それどころじゃなさそうだからな」

 

「……愛情込める場面が自販機のどこにも存在しねぇよ。ありがとう」

 

受け取った缶の冷たさを掌に味わいながら、スバルはブルトップに指をかける。と、それから少し考えるように目をつむり、缶の口を誰もいない方向へ向け、指に力を入れた――途端、開いた口からすさまじい勢いで中身が噴出。見る間にスバルの手の中で缶の重みが三分の一ほど減って、

 

「おいおい、なんだよ、引っかかれよ。やると思わせておいてやらないと発言して実はやってたっていう二段構造の引っかけ技だったっつーのに」

 

「パターン見えてんだよ、俺が何年、父ちゃんと付き合ってると思ってんだ。やらないわけがねぇというある種の信頼だよ。あー、手がべたべたする」

 

溢れたコーラを浴びた手を振って、スバルは口をつける前に軽くなってしまったコーラを傾ける。口の中を炭酸の弾ける味わいが通過し、からからに渇き切っていた口内が潤っていくのを感じる。

どこか、胸の奥にせり上がっていた嫌なものまでそのまま流されてしまってくれれば助かったのだが、残念なことに重いしこりはいまだにそこに留まったままだ。

 

「で、落ち着いたか?」

 

「……微妙なとこ」

 

問いかけに答えながら、スバルは腰掛けたベンチにさらに尻を深く置き、長いため息をこぼして肩を落とす。そのスバルの正面に立ったまま、同じくコーラを口に運ぶ賢一は片目をつむって考えごとでもするような態度だった。

 

土手での会話から逃げるように立ち去ったあと、スバルと父が訪れたのは土手からほど近い児童公園だった。当然、ここにも人気はなく、長い夏休みに突入してしまったお父さんがブランコを揺らしているようなこともなかった。

 

「ある意味、俺が今、ブランコに乗ってゆらゆらしてたらそれを笑えなくなりそうな気もするな。どうする、昴。コンビニ帰りに父ちゃんがブランコ揺すってたら」

 

「とりあえずケータイで写メして、ツイッターで拡散する。ツイートは『俺の父ちゃんが重力から解放されてなう』で」

 

「あー、ツイッターな。父ちゃんもやってるぜ。片っ端からフォローしたりされたりしてるせいで、もはや画面がわやくちゃになってんけどな」

 

楽しげに語る賢一を横目に、スバルは物憂げな吐息をこぼして話題を探す。どうにか、さっきの土手での態度とは別の話題へ――またしても、頭蓋が軋む。

段々と間隔が狭くなる頭痛に不安を覚えながらも、弱気に反応しているようなそれを噛み殺す気分で頑と無視。

 

「……自販機でジュース買うだけだったのに、ずいぶんかかったけどなんかあったの?」

 

「ん?大したことじゃねえよ。そこの自販機の前までいったら、どうも学校サボってるらしい女子高生がいたからな。学校行くように説教して、ジュースおごってメアド交換して送り出してきた」

 

「その短期間でメアド交換まで持ち込んでるあんたが信じられねぇよ」

 

ちょっとトイレ寄ってきたぐらいの感覚で女子高生のメアドを入手してくる手腕に言葉もない。そんなスバルに賢一は「そうか?」と首を傾げ、

 

「メアドぐらいすぐ教えてもらえるだろ。俺のケータイのアドレス帳、なんだかんだで女子高生のアドレスとかも三ケタ近いぞ」

 

「俺は全部合わせても二ケタいくかどうかってとこなのに、女子高生だけで三ケタとか文字通りにケタが違ぇよ。……父ちゃん、女子高生と悪い付き合いとかして新聞沙汰になったりしないよな?」

 

「なにを言ってんだか、お前」

 

賢一はスバルの懸念に両手を上げると、呆れたと言いたげな仕草で肩をすくめて、

 

「女子高生みたいなガキにいやらしい気分になったりしねえよ。俺の愛情の向かう先はとっくに決まってんだから、俺は家族以外に欲情したりしねえ」

 

「そのカテゴライズだと俺まで対象に入るじゃねぇか!」

 

「……まあ、愛はあるからな。ギリ、ワンチャンあんじゃね?」

 

「ねぇよ!なにを言ってんだはあんたの方だろが!!」

 

スバルの怒声に賢一がゲラゲラとまたしても笑う。

その耳に残る笑い方は下品でありながら、なぜか人に不快感を与えない。否、賢一の行動の数々は全てがそうだ。

あらゆる行いがどこか常識外れで、オーバーで、演出過多で、どん引きされる類のものであることに間違いないはずなのに、なぜか誰もがそれを好意的に受け止める。

 

今日、久しぶりに父親と一緒に散歩をしてみて実感した。

ただ道を歩いているだけで、賢一が人に話しかけられた回数は片手で足りない。挙句にはどこへ行っても賢一と思い出話ができる誰かがいて、初対面の相手とですら気楽に気軽に親交を深めている。そしてそのことを、隠しもしない。

 

ずきずきと、こめかみが疼く痛みにスバルの息が少しずつ荒くなっていく。

鋭い頭痛の間隔はもはや狭まるというレベルでなく、断続的なものになっていた。

頭蓋の内側を針で突き刺すような痛みは、放置しておけば治るという類のものではないだろう。だが、病院にいってどうにかなるものでもない。

 

痛む理由はわからなくても、痛みの原因はわかっているつもりだ。

そしてそれは、この胸を圧迫する感情や、息詰まる感覚と同じところにあることも。

 

「体調悪そうだな、昴。あれだったら、おんぶしてやるから家に戻るか?」

 

「おんぶいらねぇし、戻んなくていい。……戻っても、一緒だから」

 

むしろ、家には母である菜穂子もいる分、スバルの調子はもっと悪くなる。

この痛みがなにを思い、なにをしようとしたときに増すのかわかりかけてきている。その想像通りならば、賢一と一緒に菜穂子の前に戻ったときこそ、その痛みは極限のものへと変わるだろう。つまり、

 

「ついに、自分の体にまで説教されてんのかよ、俺」

 

逃げ続けることへの罪悪感に、ついに体が悲鳴を上げたということなのだろうか。

 

部屋で膝を抱え込み、時計の秒針を睨みつける時間の恐ろしさ。それを乗り越えたにも関わらず、収まることのない焦燥感とふいにわいた鋭い頭痛。

まるで頭蓋の内側から、今のスバルにどこかの誰かがなにかを大声で喚き散らして訴えかけてきているような不快感。

――どこの誰だか知らないが、お前に俺のなにがわかる。

 

「あのさあ、昴。――好きな子とか、いる?」

 

押し黙っていたスバルに、唐突にそんな話題が振られた。

自室でも問いかけられた一言で、面白くもない軽口の始まりだ。一度目は苦笑いとともに言い返せたそれが、二度目の今はなぜか妙に癇に障る。

止まらない頭の痛みも手伝って、ひたすらに不機嫌さを込めてそれに同じ返答をしようとして――。

 

『――スバル』

 

ふいに、どこかから銀鈴の声音に心を揺さぶられたような錯覚を得た。

 

「――へ?」

 

顔を上げて、耳元で囁かれたような声の発生源を探す。が、視線を巡らせても声の主は見当たらず、スバルの他に公園にいるのは正面に立つ賢一だけだ。

その賢一も、急なスバルの首振り運動に眉を上げて驚いていて、

 

「どした?まるでいるはずのない美少女に突然名前呼ばれたみたいな顔して」

 

「まさにその通りでなにも言い返せないんですけど……。今、俺の名前を誰かが呼ばなかった?父ちゃん、美少女の声色とか習得してないよね?」

 

「父ちゃんも色々小技持ってるけどそれは会得してねえなぁ。よし、次のネタ振りまでに練習しておくから、一ヶ月ぐらいあとでまた聞いてくれ」

 

「ネタ振りじゃねぇし……ホントに、なんなんだ」

 

毒気を抜かれるような父の言葉に視線をそらし、スバルは先の声を脳内に反芻させる。銀鈴の声音はひどく穏やかに、しかし熱をもたらす響きでスバルを打ち、その瞬間にだけ断続していた頭痛を忘れさせるほどだった。

 

どこからかわからない救いの声――女神の美声に頭痛を和らげられて、スバルの表情からわずかに険が抜け落ちる。と、ほんのささやかに呼吸を整えるスバルへ、

 

「で、さっきの質問どうよ。好きな子、いんの?」

 

「……さっきからなんなんだよ。それ聞いてどうしたいんだよ。仮にいたとして、名前言ったってわかんねぇだろ」

 

「それこそわからないじゃねえか。ひょっとしたら、お前の好きな子のアドレス、俺のケータイに入ってるかもしれないんだぜ?」

 

「仮に好きな子でも親父にメアド渡してたら百年の恋も冷めるわ」

 

ぴしゃりと言い捨てると、賢一が「なんだよー」と唇を尖らせてぶーたれる。そんな中年に似合わない仕草を目にしながら、スバルは残りのコーラを一気に飲み干し、

 

「遠回しなことしなくていいんだよ。率直に聞けばいいじゃねぇか。……なんで、学校行かないんだよってよ」

 

「人が珍しく気ぃ遣ってやってるっつーのに、空気の読めねえ息子だな」

 

スバルの言葉に苦笑しつつ、しかし賢一は「まあ」と言葉を継いで、

 

「その話がしたかったのは本当だから、間違っちゃいないけどな」

 

「悪いとは……思ってるよ」

 

「思う必要は別にねえよ。考えあってのことだとぼんやり思ってるし、考えなしのことでもまあある程度はしゃぁねえなと見過ごす体でいるしな」

 

目をそらして小さく言い訳するスバルに、賢一は自分の分のコーラを飲み干すとベンチの隣に腰掛けた。木製のベンチが軋み、二人の間を風が通り抜ける。

そのまま互いに同じ方を眺めたまま、視界に相手の顔を入れることなく、

 

「世間一般がどうとかはわからんけど、俺は別に学校が全てとは思ってねえしな。大体、それ言い出すと俺も学校なんか真面目に行ってなかった口だ。高校の卒業式もサボっちまって、あとで妹に卒業証書持ってきてもらったぐらいだぞ」

 

「その話、何度も聞いたよ。二個下の叔母さんが同じ学校だったから、卒業するときに父ちゃんの分も一緒に渡されたってんだろ。耳にタコだよ」

 

「じゃ、イカもできるまでついでに聞いとけ。そんな俺だから、別に学校行きたくなきゃ行かなくてもいいと思う。この歳になってみると、学校真面目に行かなかったのも損だったなぁーなんて思うこともあるけど、それはお前にはまだわかんねえだろうしな」

 

どこか遠いところを見るような眼差しの賢一。真剣なその横顔をちらと視界に入れて、スバルはやはりこの父親は卑怯なのだと思う。

普段はとぼけたところばかり見せている癖に、こういう場面でその道化ぶりをどこへ置いてきたのだと思わせるからだ。

 

「いいんじゃねーの?今の人間、大体平均して八十年は生きんだ。八十年もあんだから、一年か二年ぐらいだらだら浪費しても構やしねえよ。若い内なら取り返しだって適当につくだろ。幸い、俺の稼ぎはそれなりだしな」

 

指で輪っかを作って下品な笑みを浮かべる賢一。

先ほどから相槌を打つこともないスバルの姿を目に入れないまま、彼はその腕を組んで何度か頷くと、

 

「生きてりゃ答えのなかなか出ない問題にぶつかることもままあらぁ。俺はそういう問題にぶつかったときは、とりあえず答えが出るまで動き回ったもんだが、部屋の中で転がり回って答えを出す方法もあるかもだしな。悩んでる間は文句言わねえ。諦め出したら、まあさすがに口出しすっかもだけど」

 

「……なんで」

 

「うん?」

 

「なんで、今日は急にそんな話する気になったんだよ。……別になにも、特別な日だったりしねぇじゃんか。今日はただの、グリンピース記念日だ」

 

「皿いっぱいに盛ったから、な」

 

今さっき、コーラを飲み干したばかりの口の中が急速に渇いている。

スバルは喘ぐような呼吸をしながら、問いかけの答えを待ちわびた。そのスバルの焦れる様子を横に、賢一は「うーむ」と首をひねり、

 

「なんで、だろな。たまたま俺が休みだったし、なんとなく朝の乾布摩擦の最中に思いついたし、朝の占いで水瓶座が絶好調だったし、今朝のお前の面構えが……なんでかちびっとばっかし、マシなもんになってた気がしてよ」

 

「面が、マシ?」

 

「面構えの話な。面は相変わらず、目つきだけ母ちゃんに似て悪人面だよ」

 

自分の目尻を両手で釣り上げてみせながら、賢一は「そうでなくて」とその変顔に使っていた指をそのままスバルの方へ向け、

 

「なにがあったのかだけど、部屋の中にこもってただけの奴の面に見えなかったんだよ。母ちゃんの話じゃ昨日も出かけてないっぽいから、部屋の中にこもってただけの奴のはずなんだけどな」

 

「……その、はずだけどな。広大なネットの海に漕ぎ出してはいたけど」

 

「それで成長するならツイッター上で俺に悩み打ち明けてくる、迷える女子羊ちゃんは増える一方じゃなく減る一方のはずなんだが……」

 

「そんなことまでやってんのか……」

 

父親の手の広さに驚嘆しつつ、しかし賢一の視線は本題から逃げることをスバルに許さない。

一方で、賢一の言い分がスバルにはピンとこないのも事実だ。

実際、母の証言が示す通り、昨日のスバルもまたそれまでのスバルと同じように怠惰を貪って時間を浪費していただけのはずなのである。

そんな一日を送っていただけなのに、急に今日になって雰囲気が変わるなど、

 

「父ちゃんの思い込みか勘違いか、あるいは俺をちゃんと見てくれてない説」

 

「最後の一つは特に突き刺さるな!これでもケータイの待ち受け、幼い頃のお前のラブリーデビルな笑顔で固定してんだぜ?」

 

「ラブリーはいやさ、デビルつけるとこに幼少のみぎりからの目つきの悪さを感じられるよ」

 

ともあれ、賢一の言葉が見当違いであることは間違いない。

昨日も昨日なら、今日も今日。スバルはなにも変わらないまま時間を過ごす。

それでいいと思っているし、そうしようと思っている。そうし続けていればきっといつか、賢一や菜穂子も気付いてくれるはずだ。

――スバルが本当は、なにを望んでいるのかを。

 

「――っづぁ!」

 

思った瞬間、目の前を火花が散ったかと思うような痛みがスバルを殴りつけた。

本気で誰かに殴られたのかと錯覚する衝撃。脳が外へ飛び出そうとしたような頭蓋の軋みに目がくらみ、スバルは座ったまま体勢を崩す。

 

心臓の鼓動が再び早鐘に変わり、流れる血脈の音がはっきりと耳朶に伝わってくる。目の前がぼやけ、世界がかすみながら二つになったり三つになったりしている。

こみ上げてくる嘔吐感と、胸の奥から存在を主張してくる得体のしれない熱源。

 

それぞれが違うやり方でスバルという存在を苦しめながら、まるでなにかを訴えかけるように絶叫してくる。

 

「おいおい、本気できつそうだぞ。大丈夫なのか、昴?」

 

さすがにその不調の様子が目に余ったらしく、賢一が心配そうな顔でこちらの肩に手をかける。その感触にどうにか顔を上げて、額に汗を浮かべながらも、

 

「あぁ……いや、大丈夫だって。ちょっと、眩暈がしただけで……」

 

『――大変、だったね』

 

「――!?」

 

再び、耳朶を震わせる銀鈴の声にスバルの全身が総毛立った。

慈しみ、思いやる感情に満たされた声。張り詰めた心を溶かすような声がスバルの苦しみに直接的に干渉し、痛みが、軋みが、熱が一斉に叫びを弱めていく。

 

この声はなんなのか。この痛みや苦しみはどうして、声に退けられるのか。

この声を、知っている気がする。ずっと求めていた気がする。焦がれて焦がれて、追い求めて追い求めて、縋りついて、手放して、でもまた取り戻して――。

 

『ありがとう、スバル』

 

「君は……」

 

銀色の髪が風に踊るのが瞼の裏に焼きついていた。アメジストの輝きが真っ直ぐにスバルの顔を見つめていて、唇から紡がれる響きの全てに愛おしさがこみ上げる。

 

『私を助けてくれて』

 

なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、なんなんだ。

誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰なんだ。

 

――苦しみの原因がこの子なのだろうか。自分が痛めつけられて、苦しんで、吐きそうなぐらい辛い思いをするのは、この子のせいなのか。

 

『――スバル』

 

息が詰まる。喉が熱い。目の奥に、なにかが溜まっていく。

 

『仕方ないんだから』

 

指先が震える。足に力が入らない。肺が痙攣でもしているように喉が引きつる。

 

『スバルはいっつも、そうやって誤魔化して……』

 

震える手で顔を覆って、引きつる喉で嗚咽を堪えて、こみ上げる熱さを瞳からこぼして、スバルは――。

 

『どうして、私を助けてくれるの?』

 

――その答えは、今はもう自分の中にあった。

 

それを見つけた瞬間、スバルの中を渦巻いていたあらゆる不快感が消えてなくなる。

頭蓋の軋みが、こみ上げる嘔吐感が、世界を曖昧にさせた眩暈が、選択を迫るように急かす心臓の高鳴りが、全てがナツキ・スバルを導くように収束していく。

 

顔を上げて、こぼれそうになる涙を袖で拭った。

じっと、濡れた袖を眺めて、そこにだけ残る涙の名残を振り切るように手首を返して拳を握る。そして、

 

「心配かけて、ごめん。もう大丈夫だ」

 

「そうか?落ち着いたんならいいんだが、あんまり心配かけんなよ」

 

「うん、悪かった。それと、さっきの質問だけどさ」

 

こちらの肩にかかっていた父親の手を解き、スバルはそちらへ顔を向けた。

ベンチに隣り合って座りながら、スバルは父の顔を真っ直ぐに見上げる。そういえば、こうして今日は何度も言葉を交わしていたのに、一度もこうやって真っ直ぐ父の顔を見ていなかったなと、そう思う。

そんなところでも逃げっ放しだったのかと、自分の弱さに内心で苦笑して、疑問符を浮かべている父親に向かってスバルは、

 

「――好きな子、できたよ。だから俺はもう、大丈夫だ」

 

瞼に焼きついた銀色の面影を描きながら、ナツキ・スバルは過去と相対する覚悟を決めていた。