『はじめてのさつい』
洪水のような濁流の音が聞こえる。
激しい水音。上から下へ、重力に従って流れに従って激しい飛沫を上げる瀑布。
耳元で、あるいは頭蓋の内側で響くとめどない轟音に脳を揺さぶられながら、スバルの意識は喪失から覚醒へと導かれていく。
光が見えて、そして――。
「――ぁ、ふ」
喉の詰まるような感覚があり、呼吸のリズムに狂いが生じてスバルがえづく。
吐くのと吸うのと、規則正しいはずの呼吸の間隔が曖昧になり、酸素を見失った体を跳ねるように震わせて、涎をこぼしながらスバルは目を開けた。
「がふっ、あはっ!」
地面に横倒し、うつ伏せの態勢。地面に腕をついて土下座のような姿勢で、スバルは右腕を胸の上に当てながら痛む肺をなだめるように呼吸を繰り返す。
痛みが和らぎ、行き場を失っていた唾を口から吐き捨てて、体が落ち着きを取り戻すと酸素も脳に染み渡り、一息つく。――そして、思い出した。
「ぅああ、ああ!?」
自分の胸に空洞が開き、体の中身が全部外に流れ出すような喪失感を得たのを。
胸に当てたままだった掌で己の胸部に触れて、そこに喪失感の原因となった空洞がないことを確かめて全身の強張りがひとまず消える。
驚愕に手足が痺れるような感覚を味わいながら、スバルは地に額を擦りつけるようにして摩擦を得て、擦過の痛みに自分の肉体が確かに存在する実感をもらう。
「なに、が……最後……」
地面に倒れ伏した体から血が抜けていき、同じ穴から魂が外へと吸い出されていくのを感じたような終わりの感覚が確かにあった。だが、スバルの肉体を蝕む喪失感の源はそれではない。本当の恐怖はその直後、死に辿り着いて、そして死に導かれるまでのほんのわずかな命の残り火のことだ。
意識すら曖昧になり、記憶もおぼろげであるのに、それだけははっきりと覚えている。
――なにか、得体の知れないなにかに、『貪られた』ことだけは。
「ざ、斬殺、撲殺、凍死、転落死と色んな死に方してきたけど……な、なにかに最後に食わ……食われたのは、初めて……だ」
口にして改めて自分の肉体が最後、どうなったのかを意識して怖気が立つ。
直接的な死因こそ胸の空洞の失血死であり、『死』そのものを軽んじるつもりではない。だが、その『死』で終わらない可能性の一端を実際に味わったのだ。
自分の肉体がなにかに貪られる実感は、あれほどの喪失感を伴うものなのか。実際に指や足を失った経験のあるスバルだが、それらとも一線を画す嫌悪感が――、
「ゆび……!?」
そこまで考えて、唐突にスバルは自分の頭の血の巡りの悪さに怒りを覚えた。
『死に戻り』が発生したことはすでに疑う余地はない。助かるはずのない傷を得て、『死』の実感を覚えた上での現在だ。ナツキ・スバルほどこの世界で、『死』に対して造詣の深い存在はまずいない。死んで、戻った、それは確かだ。
不確かなのは、死んだスバルがどの時間軸に戻ってこられたのか。
もしも仮に、なにもかもが取り戻しのつかない時間がリスタート地点になっていたとするならば、スバルの覚悟や誓いの行き場はどこへ――。
「あ……」
血走る目を周囲に向けて、自分の位置情報と今の時間を確認しようと躍起になる。が、血相を変えて逸るスバルを引き止めたのは、額から伝う汗を乱暴に手で拭ったときの手指の感覚だ。――失くしたはずの指が三本、右の掌に確かに付いている。
「指……ある、ってことは」
確認するように持ち上げた右腕を、指から肘へと視線を落とす。手首を抜け、肘を通り、二の腕にかかるまでつぶさに見ても欠損はおろか傷跡も見当たらない。もっとも、魔獣騒ぎの際の傷は白く今も残っているが、それとこれとは別の話だ。
腕の無事を確認し、次いでスバルは肩と腰――それぞれ、エルザの投擲を受けた部分に触れて確認。皮の突っ張るような感覚もなく、それらをもってスバルは自分が少なくともエルザとの接敵前に戻れた事実だけは確信、安堵に崩れそうになる。
「とり……っとりあえず、は」
不幸中の幸い、死んだ上に絶望を上塗りされるような目には遭わずに済んだ。
そのことに安堵で脱力感を得るスバルは目を伏せ、自分の悪運に感謝する。それからふと、視線を横に向けて気付いた。
――暗がりの部屋の片隅で、苦しげに身をよじるエミリアの姿があるのを。
「エミリ……ア」
とっさにその体に駆け寄ろうとして、スバルは自分と彼女のいる場所が、カビ臭い上に薄暗い穴蔵であることに気付いた。そしてスバルと彼女が二人きりでそんな時間を過ごした経験は、思い当たる限り一つしかない。つまり、
「リスタート地点、変更なし……!」
『試練』突破直後の墓所――それが今回の死を得たスバルが舞い戻った、まだなにも得ていない代わりに、なにも失っていないやり直しの場面だった。
※※※※※※※※※※※※※
――まだ、なにもかもをどうにかする手立てはきっと残されている。
自分がどこに戻ってきたのかを確信したスバルの脳裏を過ぎったのは、先ほど己の最期の瞬間に震えていた人物とは思えないほど前向きな考えだった。
現在は『聖域』に到着してから二日目の夜。一度目のループと前回のループ、それらの情報を加味し、条件やイベント内容を整理して解決手段を模索する。
もはや恒例行事といっていいぐらいいつもの殺伐とした内容だが、手を付けられないと最初に思うことも、どうしようもないほど詰んでいると頭を抱えることも、それら含めてまったくもっていつものことだ。
「しかし、今回はこれまでみたいに一筋縄じゃどうもいかねぇ」
なにせ、どうやらまだスバルを取り巻くループの全容すら把握できていない。そしてわかりやすいほど明確な脅威に対し、未だ有効的な解決策の糸口も見つかっていない状態だ。
目下、脅威として明確な上に純粋戦闘力での対抗手段がないエルザ。搦め手で抗する手段が通用しない以上、その厄介さはペテルギウスを凌ぐかもしれない。
ロズワール邸に襲撃をかけてくる彼女への対処は、未だ最重要の案件であることに変わりはない。しかし、問題はどうやらそれだけでは片付かず、
「前回の最後……『聖域』が空だったのって、なんで……」
ベアトリスの手ずから『聖域』まで転移させられたことも不可解ではあるが、その後の無人の『聖域』の不可解さはそれを上回る。あれほど中を走り回って、声をかけて回ったというのに反応はゼロ。
そして、墓所へ答えを求めて向かったスバルを襲った最後の災厄。
自分の胸に空洞を開けられておきながら、スバルはそれがなにによってもたらされた傷なのか全くわからないまま事切れるしかなかった。今も鮮やかなほどの傷跡を思い出しながら、蘇るのは苦痛と恐怖だけであり、そこから拾えそうなものはない。
いったいあのとき、『聖域』になにが起きていたのか。スバルの身に起きた出来事はなんだったのか。ベアトリスの思惑は。そしてエミリアは――。
「……嘘だろ」
そこまで考えて、スバルは自分の思考と行いの矛盾に愕然と顔を強張らせた。
これまでの状況整理、大切だ。今後の目標と、それを達成するためのプランの立案、それも大事だろう。散らばった情報をかき集めて形を作り、求める未来に届かせるための一助とすること、優先すべき行いだろうとも。
「――――」
だがそれは、目の前で今の悪夢に抗っているエミリアを蔑ろにしてするべきことなのか?
「お、れは」
『試練』を受け、今の苦しみに苛まれているエミリア。過去が彼女に襲いかかり、背負う十字架がその重みで肉体を、魂を激しく痛めつけている。
その苦痛の時間は長く続き、そしてなんら安らぎを得ることなく終わってしまう。
スバルはそれを知っている。それを受けて彼女がどれほど悲しみ、どれほど磨り減り、どれほど心を弱らせるのかを。
それが見ていられないと思ったから、彼女に代わって『試練』をやり遂げる覚悟さえ決めた。あらゆる障害を根こそぎ刈り尽くして、彼女の通る道を整えてあげようと腐心した。
そうだったはずなのに、今スバルは彼女の苦痛を目にしながら安堵したのだ。
自分の戻ってきた時間が、彼女の苦しんでいる今でよかったと。そしてその苦痛の結末を知っているが故の酷薄さで、彼女の身柄より自分の思考を優先した。
それを理解してしまった瞬間、スバルは自分がひどく醜い存在に落ち込んだことを意識してしまった。
大切な人を目の前にして、その子が耐え難い苦しみに喘いでいるのを知っていながら、その苦難から目を逸らして自分本位を貫ける愚かしさを。
それはスバルにとって、唾棄すべき醜悪な弱さそのものだった。
「とにかく……」
罪悪感と自分の心の矛盾に苛まれている暇はない。一刻も早くエミリアを目覚めさせ、この場所を出なくてはならない。
考えをまとめる時間は外でも取れる。彼女の苦しみを長引かせる理由はない。それに――、
「ことここに至っちゃ、もう話を聞き出さないわけにはいかねぇ奴がいるからな」
これまでの、あまりに温すぎた自分の態度が腹立たしい。事態の中核に関わっている人物がいながら、なんと曖昧な姿勢でお茶を濁してきたのか。
その結果が屋敷の惨劇であり、『聖域』における理不尽な死の結末だ。
このままスバルが小さくなったままで得られる未来がその形で訪れるというのなら――、
「なにをしたって、塗り替えてやる」
そう口にしながらエミリアを目覚めさせようと手を伸ばす。
そのスバルの横顔が抑え切れない激情に引き歪んでいることには、スバル自身すら気付けないでいた。
※※※※※※※※※※※※※
「――お前はなにを、どこまで知ってる、ロズワール」
扉を開き、開口一番にそう言ってのけたスバルを見て、寝台に身を預けていたロズワールは目を細めた。左右色違いの眼に自分が映るのを見ながら、スバルは遠慮のない足取りで室内に踏み込み、乱暴に扉を閉めて今の心情を端的に表現する。
――『試練』から戻ったエミリアを介抱し、墓所から出たスバルは彼女を寝かせるためにリューズの家へと向かった。そこでラムにエミリアの世話を任せ、彼女が目覚めるまでの時間を潰すと断ってロズワールの療養する建物までやってきたのだ。
家を離れるまでの間、無言でスバルを睨みつけるガーフィールの存在が不安材料ではあったが、幸い彼が道中で仕掛けてくるようなことはなく無事に辿り着けた。
もっともそれらの警戒心なども、こうしてロズワールを視界に入れた直後に完全に霧散してしまったのだが。
「ふーぅむ」
そんな穏やかならないスバルを見上げ、ロズワールは感慨深げな吐息を一つ。それから彼は立てた指を正面のスバルへ向けて、その先端を揺らしながら、
「さーぁっきまでと違ってずーぅいぶんと怒ってるね。いーぃ兆候だ」
「茶化すんじゃねぇ。それに悪ふざけにも冗談にも付き合ってやってる心の余裕が今の俺にはねぇぞ。実力行使も辞さない、その覚悟だ」
あくまで気楽な姿勢のロズワールに噛みつくように言って、スバルは寝台のすぐ傍らに立つとベッドに掌を着いた。そして、極々間近で道化を見下ろし、
「今、『試練』を受けて戻ってきたとこだ。――聞きたいことが、山ほどできた」
「……そう、か。君が『試練』を。なるほど。なるほど、なーぁるほどねーぇ」
スバルの体感時間からすれば、両親との決別を迎えた『試練』自体の経験はすでに数日前の感覚だ。だが、実時間の方ではその経験はほんの数十分前のこと。そしてその『試練』の話をするとき、ロズワールがいくらか不可解な反応を見せることも三度目の経験だった。
一度目は、見たこともないような刹那だけの激情。そして二度目の世界では幾分か冷静に受け止めていたように思う。それでも、寂寥感めいた彼に似合わない感傷を覗かせていたのは事実だ。
三度目の今回、彼がどういった反応を見せるか。スバルにとっては一度目の世界の激昂、その方が望ましい。いかなロズワールとて、怒りに支配されているときぐらいはその口もいくらか滑りやすくなるものだと思うからだ。
だが、そう目論むスバルの望みと裏腹に、ロズワールはその口元にほんのささやかな微笑を刻むと、
「さーぁて、では私の方から質問をしよう」
「は?なに言ってんだ?お前が?質問?……あんまりふざけてると、本気で怒って喚くぞ、この野郎」
「君の怒りが正当なものであることはわーぁかっているとも。それをわかった上での質問だ。それが私の意に沿うのであれば……協力を惜しむ理由なんて、どーぉこにもないんだからねーぇ」
「その質問に答えたら……いや、やっぱり待て」
怒りを噛み殺すスバルに提案でもするかのようなロズワール。一瞬、それを受け入れる姿勢を見せようとして、スバルは即座にその判断を却下。これまでの流れと同様、ロズワールの作る雰囲気に押し流されそうになっていることに気付いたからだ。
それに逆らわずに身を任せてきて、これまで痛い目を見ているのだ。なにか展開を変えたいと願うならば、まずその時点から変えていく必要がある。
「お前の質問に答えるのはなしだ。話がしたいのは俺の方だ。俺が先に話す」
「……おや、ずーぅいぶんと横柄なことじゃーぁないの」
「質問に答えねぇとは言わねぇが、先にお前に手番を渡すと碌な展開にならない気がすげぇんでな。そういう芽は先に摘ませてもらう」
強固な姿勢を崩さないスバルに、ロズワールは片目をつむって小さく吐息。それから彼は両手の掌をスバルに差し出し、「どーぅぞ」と手番をこちらへ押しやり、
「好きに質問するといーぃとも。確かに、私の方から話を進めなくてはならない、ということはなーぁいんだからね」
「物分かりの良さが逆に変な感じだけど……まぁ、詮索しても仕方ねぇから受け取る。質問だ。――お前と、ベアトリスはどんな契約を結んでるんだ?」
「――――」
生まれた沈黙が、ロズワールにとって意表をつく質問であったことの証左だ。
ほんの僅かではあるが、彼のその頬が固く強張るのを見てスバルは自分の発言がクリティカルなものだったことを内心で確信する。
前回のループまでの道筋で、新たに発覚した事実と発生した謎。絡み合うそれらに対処するには、こちらもからも新たな事実と謎に対する返答を用意しなくてはならないと踏んでいた。その中でも彼女――ベアトリスに関する質問は、『聖域』と屋敷のどちらにおいてもロズワール以外の誰に問い質すこともできない。
なにより、別れ際の彼女とのやり取り、そして彼女が手にしていた『福音』。それが焼き付いて頭から離れない。
今後の彼女との接触にも密接に関わる部分だ。なあなあで済ませることなどできないし、知った上で決めなくてはならない。
――今回のループで避けることのできない、ベアトリスとの接し方を。
「答えてもらうぜ、ロズワール。お前の質問に答えてないからお前の方も答えない、なんてつまらない返事はなしだ。聞かせてもらう」
沈黙を守り続けるロズワールに焦れて、スバルは返答の要求を重ねる。
焦燥感が胸の内で存在を主張しているのがわかる。それは嫌な予感を、予想を覆してほしいという自身の願いの裏返しだ。
静寂の一秒が一分にも十分にも感じられる心情の中で、答えを待つスバルにロズワールはやがてゆっくりと口を開くと、
「――その質問がここで出てくるということは、君は思い出したのかな?」
だが、それはスバルの望んだ質問の答えではないばかりか、スバルの質問に己の質問を重ねて問い返すものだった。その態度にスバルは苛立ちを感じて舌打ち、それからロズワールに「うるさい」と手を振り、
「なんで質問で返すんだよ。百歩譲って質問されてやるとしても、お前が俺の質問に答えるのが先だ。順番を譲るつもりは毛頭ねぇ」
「なるほど。では順番に質問を交換する形式でいこう。君の質問は『私とベアトリスの間の契約』だーぁったね。私と彼女は契約を結んでいない。以上だ」
「な――!?」
早口で流れるようにペースを掴まれてスバルは絶句。思わず言葉を失うスバルにロズワールは手を差し伸べると、「さーぁ」と音を継ぎ、
「今度は君が私の質問に答える番だーぁよ。――君は思い出したのだろうか」
「……なにを、だよ。言っとくが、俺とお前はツーカーで伝わるほど関係を深めてないんだ。主語欠いた文章で話が繋がると思うなよ」
「その返答で、私の質問に対する君の答えは知れたよ。……残念だ」
してやられた仕返しをしてやろうとするが、それすら上滑りしてロズワールの方が上手だ。彼は物憂げに目を伏せてから、
「どうやら、私では届かないらしい」
「……なにを」
「君の質問の番だよ。次はもっとうまーぁく、言い逃れできないよーぅに質問をしたまえ」
疑問の声が遮られた上に、言い逃れの自覚があるロズワールに苛立ちが消えない。スバルは深呼吸で感情をなだめてから、こめかみに指を当てて思考を巡らせ、
「ベアトリスと契約の関係にないって、言ったな。それじゃあ、ベアトリスはどういう理由でお前の屋敷にいるんだ?お前と、ベアトリスの関係がわからねぇ」
「質問が二つになっているし、さっきからベアトリスのことばーぁかりだけど、エミリア様のことはいーぃのかな?それとも、あんな幼い見た目の子も好みなの?」
「年下属性ねぇよ、色恋的な意味で攻略するつもりなんざこれっぽっちもねぇ。現状打破の意味で、どうにか攻略してやらなきゃならねぇとは思ってるがな」
ベアトリスのことを思うとき、スバルの心には確かに疼くものがある。
しかし、それはエミリアやレムのことを思うときに生じる疼きとは発端を別とするものであり、その感情の意味はスバルにはよくわからない。
ただ、スバルはベアトリスが『福音』を手にしていたのを見た今でもこう思っている。
――ベアトリスとスバルとのこれまでの関係が、わけのわからない本に記されていた通りの紛い物であったなどと、認めたくないのだと。
「そのためにも、俺はあいつを知る必要がある。で、どうやら身内であいつの事情に深く関わってそうなのはお前だけだ。だからお前に聞くしかない」
「そうやって目につくもの全てを拾い上げようだーぁなんて張り切っていると、いざ大切なものを選ぶときに支障をきたさないかーぁね。本当の本心から一番大事なものを見つめるために、その甘さは邪魔でしかないと思うけどねーぇ」
「俺の両手が塞がってんのは自覚あるよ。だから、あいつのことは行き掛けの駄賃に口でくわえていくだけだ。文句、あんのかよ」
「文句なんてとてもとーぉても。カッコイイこと言っちゃって、とは思うけどいーぃんじゃないの。――実際、そうなったときどうなるかが答えだからね」
スバルの発言に同意しつつも、最後に不穏当な呟きを残すロズワール。その言葉に視線を鋭くするこちらに彼は「さーぁて」と言葉を継ぎ、
「ベアトリスが屋敷に滞在している理由、だーぁったね。彼女が私の屋敷にいるのはメイザース家との付き合い。言ってしまえば、数世代前の当主の厚意で屋敷の禁書庫を管理してもらっている。その流れを私の代でも汲んでいるわーぁけだね」
「雇われ管理者ってことかよ。……それって、契約とは違うもんなのか?」
「質問形式が前提と違っているけど……まーぁ、いいとも。もうわーぁたしの質問はほとんど意味を持たないだろうからね。ベアトリスの素性が精霊であることは、すでに知っているはずだーぁよね」
ロズワールの言葉をスバルは顎を引いて肯定。実際にベアトリスが精霊らしい姿を見たことがあるわけではないが、自称と存在感がそれを後押ししている。
ロズワールはスバルの首肯を見届けて指を立て、
「精霊にとって、人との契約は非常に重要な意味を持つ。エミリア様と大聖霊様の関係がまさにそーぅだね」
「……ああ、厄介な約束事がいっぱいあるってエミリアも苦労してた。最近はその大聖霊様も、めっきり顔を出しちゃくれないけどな」
パックに対しては三度殺されたことと、眠るレムへの見解の相違で未だにわだかまりが残っている。それらを解消する前に今の神隠し状態に入ったため、スバルのあの子猫に対する感情は難しいままで固定されてしまっていた。
「大聖霊様の気難しさは別として、ベアトリスもその例外に漏れない。あの子は私とそれなりの協力関係にはあるけーぇれど、それはあくまで互いの利害が一致している上での不干渉協定のようなものでしかない。私の目的のために彼女が手を貸してくれることはまーぁずないし、逆も然りだ」
「お前とベア子が仲良くしてるようで無関心ってのはわかったけど、契約関係の内容に繋がってねぇぞ」
「おっと、これは失礼。契約関係はまた別。ベアトリスは精霊であるが故に契約を重視する。その彼女が契約を口にするとしたら、それはまた別のかなーぁり大きな問題。あの子はなーぁにせ、未だに四百年前の契約に縛られているからねーぇ」
聞き捨てならない発言に身を乗り出し、スバルはロズワールに迫ると「それだ!」と声を上げて、
「その四百年前の契約、それの詳細が知りたい」
「契約内容をペラペラと口外する精霊なんていやしなーぁいよ。当時の関係者が残っているはずもなし、ベアトリス本人が喋らない限りわかるわけなーぁいでしょ」
「くっそ、使えねぇ!その四百年前の契約ってやつがわかれば……」
あの少女があの部屋でいつも一人で、こもって小さくなっている理由がわかるのではないのか。
「ただ、これだけは言えることがある」
「――?」
「ベアトリスは四百年前からの契約に縛られている。その彼女が新たに、契約をしているその上に契約を重ねるなんてことはまーぁずありえない。あの子をあの場所から引っ張り出したいというんなら、その契約を破らせるところからじゃーぁないと」
「契約を……破らせる?」
「履行する、でもいーぃけどね。契約を交わした対象が失われている可能性大な以上、破らせる方がずーぅっと賢いと思うよーぉ?」
スバルの考えに対し、ロズワールが続けて建設的な意見を述べてくる奇跡。彼の言葉に胡乱げな顔でいたスバルも、次第に眼から鱗が落ちたような顔になり、
「――俺が一言でも、ベアトリスを外に出したいなんて話をしたか?」
スバルは低い声で、目つきを鋭くしながら間近のロズワールを射抜いていた。
手は寝台に置いたまま、置いた手の指で時を計るようにシーツを叩く。その仕草に目を落としながらロズワールは片目をつむり、黄色の瞳にスバルを映し、
「君は本当に――気付いてほしくないところにばーぁかり、気付く男だね」
「どういう……」
「どの道、私にとっては実のない時間だーぁからね。このあたりで話を区切ってもいーぃだろうか?」
「ふざ――ふざけんなよ!?」
先ほどと打って変わってその瞳に失望の色を浮かべるロズワール。彼はそれまでの態度と一変した姿勢で吐息をこぼし、ひと目でそれとわかるほどにやる気を失った顔で、
「今さらなにを言ったところで私の心は動かせないと思うけど……好きにしたらいーぃんじゃないかな」
「てめぇのそのふざけた姿勢はなんだ!?大事な……大事な話をしようってのに、それがお前の姿勢かよ!まだ聞きたいことが残って……」
「だから、聞きたいことがあるなら聞いたらいいじゃーぁないの。それに私がまともに答えるかどうかは、もはや完全に気分次第だけどねーぇ」
激昂するスバルと反対にどんどん感情の波を失っていくロズワール。彼は顔を赤くするスバルに対して、己の藍色の髪を撫ぜながら首を傾け、
「質問、しないのかーぁな?」
「――ッ。あいつが、ベアトリスが契約に縛られて屋敷にいるってのはわかった。その内情はもういい。聞きたいのは別だ。あいつが持ってた黒い本……それがなんだったのかについて聞かせろ」
「へーぇ、見たんだね。感想は?君はなんだと思うのかーぁな?」
「質問で返すんじゃねぇよ。――俺はあれが、魔女教の奴らが持ってた本に、似てるって、そう、思って」
途切れ途切れのスバルの言葉は、否定してほしい感情の表れだ。が、それを聞くロズワールは欠伸を噛み殺すような顔つきで、
「魔女教徒の持つ『福音』。魔女の意思を介在し、所持者の望む未来への道筋を記述する魔本。まーぁ、指向性がある点を度外視すれば、そこそこ手間のかけられた預言書ってーぇとこだね」
「――!知って?」
「物珍しい、ってほどでもないもんだーぁからね。魔女教徒はそこいら中にいるもんだし、彼らの信奉する魔女と異なる魔女の関連施設。『聖域』を管理する私にとって、小競り合いが一度もなかった相手ってわけじゃーぁないし」
「ほ、本当に未来が見える……のか?」
死なずに未来がわかるのだというのなら、それはスバルの『死に戻り』の上位互換であるといえる。それに対する嫉妬などという意味ではないが、仮に魔女教徒が全員、そんな規格外のものを装備しているのだとすれば事だ。
だが、戦慄するスバルにロズワールは首を横に振り、
「そこまで便利なものでもないとも。記述の回数自体がまず、信徒によって異なるし多くもない。内容も曖昧なものが多くて、解釈の仕方は多様性があるとか。なにより、『福音』は所持者しか読み取れず、別の人が読んでも不思議と内容が頭に入ってこない。不完全な未来図しか、わからないのさ」
「不完全な……」
その情報に安堵を隠せない。もっとも、『福音』が本当の意味で未来を描き出す預言書としての力を持つのであれば、スバルがペテルギウスに勝利することは不可能だったはずだ。そういう意味で考えれば、大罪司教の『福音』であってもそこまでの域に達していないのだと頷ける。だが、
「それとこれとは話が別だ。その、ベアトリスが持ってたあの本は……」
「あれが魔女教徒の持つ『福音』と同一のものか、という質問ならその答えはそうでもあり、そうでもないというものだよ」
「はぐらかすな!大事なところなんだよ!」
「はぐらかしちゃーぁいないとも。ベアトリスのあれは『福音』ではあるが、魔女教徒のそれとはルーツが異なる。魔女教のそれは不完全なものだが、ベアトリスの持つ『福音』は完成されたものだからね」
「完成……?」
「そう、完成されたものなんだよ。不確定な未来に左右されて、ふらふらと記述の内容が安定しない欠陥品とは違う」
困惑するスバル。が、その前でロズワールの表情はどこか晴れやかだ。
まるでなにかを自慢するような顔つきと口ぶり。その彼の変貌ぶりにもスバルは声を失ったが、本当の意味で言葉を見失うのはこの直後だった。
「――!?」
ロズワールが後ろ手にしていた右手を前へ、その手に黒い装丁の本が握られている。
それはこの近距離で見間違えるはずもないほど、はっきりそれとわかる『福音』そのものであり、
「唯一、二冊だけ現存する完成された『福音』。それを持つのは私と、ベアトリスの二人だけ……ということになーぁるね」
「――――」
目の前で、手の中の本を小さく左右へ振ってみせるロズワール。だが、その挙動に気を配っている余裕がスバルには存在しない。
ロズワールが魔女教が持つものと同じ本を手にしていること。それも確かにスバルにとって驚くべきことであった。ベアトリスの手にしていた本が『福音』であり、図らずも別れ際のベアトリスとの会話が肯定されてしまったこと、それもスバルに衝撃を与えた一因でもあった。
――しかし、今のスバルの心を支配しているのはそれらのことではなく、
「それ、が……未来を記した『福音』?」
「そーぅだとも。これが本物の、『福音』だ」
「お前は未来を……知って?今、こうしてることも、その本に……?」
「記述されているねーぇ。君は読めないのだろうけど」
そんなことはどうでもいい。
スバルに読める読めないなど、今この瞬間にはなんの意味もない。意味を持つのはたった一つだけ。たった一つ、それだけは聞かなくてはならない。それは、
「この先、どうなるか……書いて、あるのか」
「世界の全てが記述されているわけじゃーぁないが、所持者の未来の一部はわかるようになっているねーぇ」
「今、こうなることも……わかってたのか?」
「記述通りの状況を作るのは、これでなかなか骨が折れるんだーぁよ?陰日向での私の努力を、少しは褒めてほしいもんだーぁね」
声が震えるのを止められない。
その震えの原因は、激しすぎる感情の発露だ。この感情がなんなのか、それの指向性がどちらに向くのか、すぐにわかる――それは、
「こうなるって、これまでのことがわかっていたんなら……」
「――ふむ」
「――お前、わかっててレムを見殺しにしたってことなのか?」
「レムって、だーぁれのことなのかーぁな?」
「――殺してやる!!ロズワーァァァァァァル!!」
瞬間、堪えようのない怒りだけがスバルを突き動かしていた。
寝台の飛び乗り、横になるロズワールの首に両手をかけて締め上げる。これまで発揮されることのなかった、スバルの常人を上回る握力が細い首を軋ませ、青白い道化の顔に苦痛の色を刻んだ。
「なにもかもわかってて、てめぇは――!!」
わかっていたのなら、知っていたのなら、悲劇を回避することができたというのなら――レムをあんな目に遭わせなくて済んでいたというのなら。
「俺にレムを、見殺しにさせたのは――お前かぁ!!」
どうしようもない怒りが、噴き出した後悔が、目の前の男への殺意となってスバルを突き動かす。衝動が理性を忘れさせ、感情が、愛情が力に変換される。
そのままロズワールは声も出せず、黙ってスバルに首をへし折られるのを待つばかりの身で――。
「――『化けても被っても、ウルガルムの臭いは消せない』ってなァ!!」
――衝撃。
横合いから叩きつけられる固く鋭い感触に、スバルは自分の顔の右半分が叩き潰されるのを味わいながら吹っ飛んだ。
ベッドの上から受け身も取れずに壁に激突し、そのまま床へと頭から落ちる。一発で思考がおしゃかになり、全身がぴくりとも動かない。
耳から鼻から出血があり、右の視界が真っ黒に染まった。目が、潰れたのかもしれない。
「――墓ァから出てっきて、臭ェのが増しやがったからよォ。まさかと思って見張ってたが、思った通りじゃァねェか、あァ!?」
足音。乱雑なそれがすぐ傍に迫るのを感じる。這いずることを体が許さない。前にも後ろにも、動けないままスバルは頭を掴んで持ち上げられ、
「魔女臭ェてめェがなにする気ィだったのか、体に聞いてやろうか、オイ。あんなんでもこの場所にゃァ必要な野郎だ。ふざっけんなよ、オラ」
金髪の青年。ガーフィール。何事か、怒りと殺意がないまぜの声をぶつけられながら、スバルの意識が遠のいていく。
頭の半分が、確認できないが潰れたような感覚があるのだ。死ぬ、のかもしれない。これで死ぬのなら、なんともまあ最低の終わり方だ。
だが、このドロドロとしたものを抱えたまま『死に戻り』をして、果たして自分はこの場所を救いたいと、そう希望を持ったままでいられるのだろうか。
「わから、ねぇよ……レム」
その言葉を最後にぷっつりと、スバルの意識は闇の中へと落ちていった。