『耳障りな声』


 

ぐわん、ぐわん。

 

近くて遠いどこかから、重々しい空洞を鳴らすような音が低く轟いている。

音の振動を間近に感じるような感覚。鼓膜から入った音が頭蓋骨を揺らし、そこから骨を伝って手足の先まで振動が走り抜ける。

 

血の流れが鈍くなり、血管の中に汚泥を流し込んだような不快感がある。

内臓の働きが極端に弱り、粘土細工を腹の中に詰め込んでいるような気分だ。

 

脳味噌に酸素が行き渡らず、浮かぶべき思考も疎らで頼りない。

重く響く音は留まる気配がなく、眼球が瞼の中でゴロゴロと転がっている気がした。

 

「――――」

 

ひどく緩慢な体の感覚と、身動きの取れない倦怠感。込み上げる吐気と鈍い思考を引きずったまま、スバルはゆっくりと目を開けた。

 

瞼の裏の暗闇に慣れた視界は、割り込んでくる白い光をなかなか受け入れない。

ぼやけ切った世界は右へ左へ、白い光景の中を色んな色がちらちらと蠢き回る。まるで白いキャンパスに、子どもが絵具をぶちまけたような景色だ。

そんな感慨も、次第に見える世界が落ち着き始めることで遠いものへと変わる。

 

十数秒、時間をかけて瞳が平常を取り戻したとき、スバルの視界に広がっていたのは薄暗い部屋と汚れた天井。それから、周囲を忙しなく走り回っているいくつもの人の気配と、その体の端々だった。

 

「――おい、兄ちゃんが目ぇ覚ましよったで!」

 

耳鳴りがやまないままのスバルを、唐突に張り上げられた声が襲う。

不必要な声量には力があり、それまで忙しくしていた人々の動きが止まり、視線がそちらへと集中するほどだった。

 

「猫耳の嬢ちゃんはこっちきてんか!他ん人はそのまんま仕事しててええで!ワイが悪かった、仕事し!ほら、時間が勝負やで!」

 

「もう、うっさいにゃぁ。さっきから何度も注意してるのに治らにゃいんだから。安静にしてる人が多いんだから、とっとと自分の仕事に戻ってよネ!」

 

手を叩き、自分の声の大きさで注意を引いたことを詫びる巨漢。犬の頭を持った関西弁の獣人に、ぷりぷりと怒った様子で歩み寄るのは猫耳の少女――否、青年だ。

露出の多い女物の服を着て、その体のあちこちを血で汚した人物、フェリスは高い位置からスバルを見下ろすと安堵の吐息を漏らした。

 

「目、覚めたみたいだネ。状況はわかる……っていうか、喋れる?」

 

「……ぁ。ふぇり、す?」

 

「そそ、みんなの大好きなフェリちゃんですよーだ。それで、君はナツキ・スバルきゅん。ここは今、ちょっとした野戦病院ににゃってて、君は大ケガをしてここに担ぎ込まれたの。理解できる?」

 

掠れた声で応じるスバルに、フェリスが早口に情報を投げ渡す。

緩慢な頭をどうにか動かし、彼の言葉を一つ一つ噛み砕いて呑み込んだ。

 

首を巡らせ、スバルは自分の周りを確認する。そこでようやく、自分がどうやら衣類や布を重ねた簡易的な寝具に横たわっていたことに気付いた。

そして実際、フェリスが語った通り、周囲は野戦病院の体を為している。

 

周りには、スバルと同じような簡易ベッドに横たわり、痛みと苦しみに喘ぎながら治療を受けている人々で溢れ返っていた。

あちこちから血臭と、すすり泣くような声が交差する惨状。魔法の治療行為だけでは追いつかず、針と糸で傷を縫い合わされる場面も目の端には捉えられた。

 

「こ、れ……一体、何が」

 

「まだ混乱してるみたいだネ。ゆっくりと、自分が気絶する前に何が起きたのかを思い出してごらんよ。それが思い出せたら、自ずと答えが出せるから」

 

突き放すような、というわけではない。

フェリスの言葉は優しくはないが、それは彼の機嫌の問題ではないのだ。ただ、彼にすら余裕がない状態。捲った袖と、白い肌や頬を汚すいくつもの血痕。

治癒術師として一流であるフェリスが、この惨状の中でどれだけ役割を求められたかは想像に難くない。そして、この大惨事の原因は――、

 

「魔女教……っ」

 

「ホントに、あいつらって最悪だよね。わかってたことだけど……ちょっと、まだ認識が甘かったぐらいだよ。まさか、ここまでやるだにゃんて想像できなかった。想像してなきゃ、いけなかったのに」

 

口惜しげに唇を噛み、フェリスがスバルの呟きに顎を引いた。

悔恨に震えるフェリスの気持ちは痛いほどスバルにもわかる。わかるが、今はそれどころではない。確かめなくてはならないことがある。

 

「え、エミリアは!?エミリアはどうなった?ここにきてないのか!?」

 

「…………」

 

「ご、強欲の野郎が……大罪司教がエミリアをさらって、それで俺は……」

 

語尾が震えるのは、不安が的中したことがわかったからだ。

目を伏せ、沈黙を守るフェリスの態度にスバルは明確な答えを得てしまった。

 

少なくとも、エミリアはこの場所には一緒にきていない。

そして気絶する前の光景がそのままならば、彼女はレグルスの手に落ちて――。

 

「ベアトリスは?」

 

「……ベアトリスちゃん」

 

「そう、だ。ベアトリスは、俺と一緒にいた女の子はどうなった?縦ロールにドレス着て、生意気な顔が可愛い……べ、ベアトリスは?」

 

エミリアがレグルスに連れ去られたのは、おそらくは間違いない。

レグルスの態度からして、奴がエミリアに危害を加える可能性は――確実とは言えないが、低いと考えていいだろう。許せないが、ひとまずは。

だが、ベアトリスはどうなる。あの場には、レグルスだけではなくシリウスもいたのだ。そしてシリウスは、ベアトリスに対して強い敵意を抱いていた。

 

スバルが無事に、野戦病院に担ぎ込まれている以上、シリウスからは逃れた。

誰がどうやって、スバルを守ってくれたというのか。

 

「おい、頼む。教えてくれ。ベアトリスは……」

 

「――――」

 

答えがないことが不安を掻き立て、スバルは必死になってフェリスに懇願する。フェリスは一度目をつむり、すぐ傍らに立つ巨躯の獣人――リカードだ。『鉄の牙』の団長でもある彼と、顔を見合わせてから揃って一方を見た。

彼らの視線を辿り、スバルは目を見開く。

 

「ベアトリス……っ」

 

治療を受ける人々からは離れた位置に、ぽつんと置かれたドレスの少女。

作られた簡易ベッドに寝そべり、ピクリとも動かないベアトリスを見つけて、スバルは腹にかけられていたタオルケットを跳ねのけて駆け寄ろうとする。

しかし、体を起こそうとした途端に頭に急激な重さがのしかかり、その上、右足が痛みと共に突っ張ったことで体勢を崩してしまう。

 

頭の重みは倦怠感が理由だが、右足の不自由は意味がわからない。

慌ててそちらへ視線を落とし、スバルは自分の足の状態を目にして喉を詰まらせた。

 

「お、ぁ」

 

「ベアトリスちゃんが治癒魔法をかけてくれてなかったら、スバルきゅんは今頃は片足がなくなってたはずだよ。あの子に、感謝しなきゃね」

 

スバルの右足は、大腿部の肉が半分ほど抉れてなくなってしまっていた。左足と比べて明らかに貧相な右足を、まるで悪いものを封じるかのように包帯が幾重にも重ねて巻かれている。さらには足を固定するために添え木のようなものまで当てられていて、自由が利かなかったのもこれが原因だろう。

思わず指先がそこへ伸び、触れた瞬間に雷に打たれたような感覚を受けてスバルはのけ反った。

 

「思い、出した……!」

 

レグルスの、去り際の最後の一撃だ。

エミリアを奪い、戯言を述べて立ち去る前にレグルスは、後ろ足で砂をかけるような気軽さで地面を抉り、スバルの足へ土を浴びせかけた。

その瞬間に、スバルの右足は獣の爪に抉られたような傷を負ったのだ。その結果が今のスバルの右足。

 

「ワイが駆け付けたときには、兄ちゃんの足は皮と肉が一枚ずつでぶら下がっとるような状態やった。絶対にくっつかん思たで。あの嬢ちゃんが泣きながら治癒魔法使い倒して、どうにか間に合わせたんや」

 

「その後、運び込まれたスバルきゅんをフェリちゃんが重ねて治したわけ。フェリちゃんの治療だから元通りになるのは保証したげるけど、今は骨と神経を繋いで、肉が再生するまで安静にしてなきゃダメ。無理はぶぶー」

 

両腕を交差し、×印を作ってスバルに無理を封じるフェリス。しかし、スバルも黙ってそれに従って、ベアトリスから離れているのを呑み込めない。

フェリスの前で、どうにか身じろぎして移動しようとするスバルに大きなため息。それから巨大な掌が芋虫のように這うスバルを鷲掴みにして、

 

「いったん、あの嬢ちゃんのとこまで連れてったる。そんぐらいのこと、兄ちゃんらはしたとワイは思うからなぁ」

 

「悪い。ありがとう」

 

「ええねんええねん」

 

リカードに寝具ごと運ばれて、スバルはベアトリスの簡易ベッドの隣へ。そこから身を乗り出してベアトリスの様子を窺うと、動かないベアトリスは呼吸すら聞こえないほど静かな眠りの中についている。

精霊であるベアトリスが人間のように眠るのは、活動によって無駄なマナを消費しないためという理由もあるが、パックのように依り代などの中に消えることができない弊害から、少しでも負担を減らすためという側面もある。

 

それが理由で、ベアトリスの寝顔を見ることはスバルにとって珍しくはない。

ただ、ここまで静かに、それも死んだように眠る姿を見たのは初めてだ。

 

「これ、寝てるだけ……なのか?不安が半端じゃねぇんだが」

 

「寝てる、っていうと語弊があるかも。今は完全に精霊としての機能も閉鎖して、休眠中……んー、仮死状態に近いから」

 

「仮死状態って、なんで……!?」

 

ベアトリスの額に触れて、そこから伝わる熱の冷たさに驚く。睫毛をなぞっても頬に触れても、愛らしい反応が一つも返ってこない。その上で今のフェリスの報告だ。血相を変えたスバルに答えたのは、しゃがみ込んだリカードだった。

 

「猫耳の嬢ちゃんが言うには、限界までマナを使った結果や。実際、そんぐらいのことにはなるやろ。ワイがたまたま兄ちゃんらを見つけた広場、兄ちゃんとほっとんどおんなじケガした奴らがぎょうさん転がっとった。その全部、この嬢ちゃんが一人で死なせんとこまで持ち堪えたんやぞ」

 

「――――」

 

嘆息するリカードの言葉に、スバルは思わず息を詰まらせた。

スバルと同じような傷を負ったケガ人――それはつまり、レグルスに足を抉られたスバルと、他の人々が感覚を共有したことによる被害の増大だ。シリウスの嫌がらせに違いない。どうやら怪人はそこで撤退したようだが、残されたベアトリスの奮戦はそこからだったのだ。

 

スバルも、スバルと同じ傷を負った人々も、等しく治療する。

当然だ。スバルが欲張りで、多くを求めすぎる男だから。そんなスバルと一緒に過ごしてしまったこの子が、誰かを見捨てられるはずがない。

だからベアトリスは自分の持つマナの限界を振り絞って、人々の命を救う代わりに倒れてしまっているのだ。

 

「ベアトリスは、大丈夫なのか……?休めばよくなるって思っても」

 

「……正直、あんまりよくにゃい。ううん、はっきり言って悪いよ。フェリちゃんが治癒術師として超一流でも、精霊のことは門外漢。それにこの子、普通の精霊とは物が違うでしょ?打てる手が、ほとんどにゃい」

 

「ど、どうすればいい!?ベアトリス、助けないと……俺は」

 

まだ、たった一年しか経っていない。

連れ出して、幸せにしてやると、そう言ってから一年しか経っていない。ベアトリスはここで終わるわけにいかない命だ。

幸せで、幸せで、幸せで、誰より幸せでなくてはならない子なのだから。

 

「マナ不足で消えそうなんが問題なんやろ?余所から持ってきたらええのと違うんか?兄ちゃんが契約者や言うんなら、兄ちゃんから」

 

「……この馬鹿スバルきゅん。ゲートが潰れてるから余所からマナを送り込むこともできにゃいの。スバルきゅん経由で、マナを送り込むのが一番手っ取り早いのに」

 

「そう、そうだ。ボッコの実。ボッコの実があればどうだ?俺の中身をブーストして、それで絞り出したマナをベアトリスに渡せれば……!」

 

「この馬鹿ッ!」

 

光明が見えた気がして顔を上げたスバルを、フェリスが怒りの形相で睨みつける。

その思わぬ視線の鋭さにスバルは驚き、フェリスはすぐに自分が怒ったことを恥じるように前髪を弄りながら、

 

「何度も言わせにゃいで。あれは……本当に本当に危険にゃの。スバルきゅんの体には特に、もうあれはただの毒でしかにゃい。あんなことをしても、死人が二人に増えるだけ……絶対にやらにゃいで」

 

「…………」

 

厳しいフェリスの言葉には、縋って訴えるような響きが込められていた。

その真摯な意思に、スバルは口を閉ざして軽率な判断を引っ込める。

 

フェリスは治癒魔法のエキスパートだ。当然、倒れた誰かを治療するための考えなど千も万も巡らせているに決まっている。

スバルが思いつく程度の浅はかな発想、とっくに検討した後なのだ。

 

「ベアトリスちゃんが心配なスバルきゅんの気持ちはわかる。わかるけど、ベアトリスちゃんも今すぐにどうこうって話じゃにゃい。今はこの子だけの心配より、他にも色々と考えなきゃいけないことがたくさんあるから……」

 

「ベアトリス以外に……そう、そうだよ。エミリアのことだって!それに……」

 

フェリスの言葉で状況に立ち返り、スバルはぐるりと周囲を見回す。

野戦病院と化した空間に、今も転がされているいくつもの人影――だが、それがおかしいのだ。そこにいるのはどう見ても、スバルと同じように右足の負傷を負った人々だけではない。他にももっとたくさんの、違う要因で運び込まれた人々の姿がいくつもいくつも見られるのだ。

 

「そもそもここはどこで、この状況は……いや、今は何がどうなってる?どうしてこんなにケガ人だらけの状態になってるんだ」

 

「大罪司教に魔女教、兄ちゃんも言うとったやろ?」

 

「それだけじゃ、ねぇだろ?違う。俺が見たのは大罪司教二人だけだ。でもこの被害はどう見ても、その二人だけのやらかしじゃない。っていうより、大罪司教が魔女教徒を連れずにきてるってのがまずおかしい考え方だったんだ」

 

脅威として、あまりに強大すぎる二人が最初に目についた。

だからスバルは単純に、危険性の高い存在である大罪司教二人に焦点を絞っていたが――ペテルギウスがそうだったように、奴らが配下である魔女教徒を連れて都市へやってきているという方がよっぽど自然だ。

ならばこの被害の大きさにも頷けるというものである。

 

「大罪司教二人と、その二人の配下の魔女教徒。これが今、都市を襲ってる脅威ってことなんじゃねぇのか?」

 

「その点についても、色々と話さなきゃなことが……」

 

スバルの出した結論に、苦い顔をしたフェリスが答えようとする。

しかし、その言葉は途中で遮られた。彼がスバルの出した結論を補足する前に、まったく想像のしていない方向から横槍が入ったからだ。

それは、

 

『やっほ。やっほー。やっほっほー』

 

空間に響き渡るのは、調子っぱずれの甲高い声だ。

気楽な調子で紡がれるその声は、この悲壮な雰囲気とは明らかにかけ離れている。真剣な話し合いの最中に、うっかりバラエティ番組のチャンネルに回してしまった――例えとしては、そういった理不尽な不謹慎さが近い。

 

「なん、だ……?」

 

聞こえた声に顔を上げ、スバルは慌てて周りを見渡す。だが、声の主が視界に入ってくるようなことはない。その原因にすぐスバルも思い至った。

今の声の聞こえ方は、拡声器やスピーカーのそれに近い――その感想は、スバルも今朝方にまったく同じものを抱いたばかりだったのだから。

 

「都市に声を聞かせる、放送用の魔法器……?」

 

『クズ肉の皆さん、元気にしてやがりますかー?日に何度聞いても麗しい、アタクシの美声に大興奮してんじゃねーですか?きゃははははっ!』

 

スバルの考えを裏付けるように、魔法器による放送が再び続けられる。

途端、聞こえてきたのはどこか子どもじみた残虐性を感じさせる、礼節に唾を浴びせて踏み躙るような喋り方をする女の声だった。

高笑いが鼓膜の奥に押しつけがましく響き、それが生理的嫌悪感を呼び起こす。

 

「なんだ、この馬鹿みたいな声。おい、これって……」

 

「しっ、スバルきゅん黙って」

 

唇に指を当てて、耳を尖らせるフェリスがスバルを黙らせる。

その異変にフェリスは真剣な顔つきだ。見ればリカードも同じように警戒した顔をしており、寝そべるケガ人たちは耳を塞いで嗚咽をこぼしている。

彼らはどうやら、この声を聞くのが初めてではないらしい。

 

『さてさて、美少女の声に発情収まらないクズ肉の皆さんに、アタクシから重大なお知らせがありやがりまーす!アタクシたち、もう飽きたから帰っちゃおうかなーなんて思ったりしちまいました。――嘘でーす!冗談じゃねーです!まだまだ昼も夜もこれからじゃねーですか、きゃははははっ!』

 

軋る軋る、軋る音がする。

他人の耳元に鏡を突き付けて、それを鋭い爪で引っ掻くのを愉しむ悪辣な喜びが声に満ち満ちている。

なんだ。なんなのだ。この声は、この女は何者なのだ。

 

額に冷や汗が浮かび、スバルは自分の体の変調に息を呑んだ。

スバルの頭の理解が追いつくより前に、体の方が何か異変を捉えている。

 

『抱腹絶倒間違いなしのアタクシの冗談は良しとして、お知らせの続きをさせてもらいやがりまーす。さっきも言った通り、この都市はアタクシたちが占拠しちまいました。てめーら全員、籠の鳥……違ぇーます。虫籠の虫けらじゃねーですか!』

 

「――!?」

 

『虫けらは虫けららしく、虫籠の持ち主の機嫌で命を左右されるのがお似合いってもんです。羽やら足から首やら、好き放題にもがれて遊ばれる……きゃはははっ、無様無様!情けねー奴らですよ。間引きしてやるアタクシたちの優しさに感謝するがいいじゃねーですか。きゃははははっ!』

 

繰り返される、悪意だけが塗り込められた高笑い。

他人を見下し、踏み躙り、存在を凌辱することをこの上なく楽しむ悪辣。

スバルはそれをする存在に、他の誰よりも強い心当たりがあった。

 

『で、で、で。頭の悪いてめーらはきっと、今のアタクシの有難い言葉の本当の意味にきっと気付けねーはずです。能無しの薄らボケで、暇があったら交尾することしか考えてねーようなグズグズ肉の塊共に、優しいアタクシがもっともっとわかりやすく噛み砕いて、被虐趣味の変態大絶賛の唾吐きかけて教えてやろうじゃねーですか』

 

「――――」

 

『虫籠の虫けらは、持ち主の機嫌で弄ばれるってんですから、てめーら虫けらにできるのは籠の主導権を握るアタクシたちのご機嫌取りってわけです。機嫌の悪い間は羽根やら足やら持ってかれるかもーなんて震えてやがるどーしようもねーてめーらでしょうが、蜜を持ってくる間は頭をもがない母のような優しさがアタクシにはありやがりまーす。だーかーらー、きゃははははっ!』

 

繰り返される悪意に、スバルはフェリスたちに倣って黙って耳を傾ける。

一息、単語一つ、重ねられる言葉のたびにドロリと濁ったものが胸中に溜まっていくのを感じていながら、スバルは鉄の意思でそれを封じ込めた。

 

そして、気付く。あることに、気付いた。

なんだ、これは。

 

『また後で、アタクシたちからてめーらクズ肉共に要求を差し出してやりまーす。てめーらは必死こいて無様な顔して、死にたくない死にたくない喚きながら、それをどうにかひり出してアタクシたちに届けやがればいいんです。そーしたら、その優しさに大陸中の人間が涙したと噂のアタクシは、虫籠を手放すことを考えねーでもねーってわけじゃねーですか。きゃー、わかりやすーい!きゃははっきゃはっ!』

 

自分で盛り上がって手を叩き、椅子にでも座っているのか足を踏み鳴らす声。

その内容と頭の悪い喋り方と耳障りな声も、スバルの神経をささくれ立たせるが――問題は、それだけではない。

 

先ほどから、音が聞こえている。

おそらく、放送されている魔法器と同じ部屋の中に音の原因があるのだ。それが女の声の脇から滑り込み、放送に割り込んで微かにスバルにも届いてきている。

 

ただ、その音の正体がわからない。

何かあと一歩、もう少しで答えに辿り着けそうな気がするのに、出てこない。

それは理解が届かないのではなく、本能が理解を拒んでいるのだ。

 

気付くな。気付くな。知らなくていい。

高鳴る心臓と、血の流れる音が聞こえるほどの集中。拒絶、理解、拒絶、理解。

 

――微かに聞こえるそれが、スバルには無数の虫の羽音に聞こえた。

 

近い。限りなく正解に近い。近いが、あり得るのか。

羽虫の羽ばたく羽音が、こうも放送機器の中に紛れ込むようなことが。この世界の魔法器の性能をスバルは知らない。だからあくまで想像でしかない。スバルの中の常識観に沿って、違和感を覚えているだけに他ならない。

その違和感と羽音が、スバルの鼓膜に張りついて離れようとしなかった。

 

『じゃ、以上、アタクシのありがたーいお話はこれでおしまいでーす。変態クズ肉共はご愁傷様。虫けらなてめーらはせいぜい頑張りゃーいいってもんです。さっきも言いやがりましたが……この都市の水路を操作する四つの制御搭はアタクシたちがそれぞれ陣取ってます。変なことは考えねー方がいいと思いますよ?溺死した人間の死に顔って、見るに堪えねーぐれー醜いですから!きゃははははっ――』

 

脅迫する甲高い笑い声、それが自然にフェードアウトすることで音が途切れる。

スバルの不安を掻き毟っていた羽音も聞こえなくなり、自然と脱力感が全身を支配した。それからすぐ、スバルはフェリスとリカードを見上げ、

 

「今の放送、どう受け取ったらいいんだ?」

 

「どう受け取るも何も、そのまんま。……情けにゃい話だけど、先手を打たれまくって完全に後手に回ってるのが今のフェリちゃんたちの現状」

 

渋い顔で爪を噛むフェリスの答えに、スバルは眉根を寄せた。

細部に気になる部分が多い放送ではあったが、目的と所属はわかった。

 

「つまり今のも、魔女教の……」

 

「最初の放送がスバルきゅんの寝てる間にあって、今のが二度目。最初の放送では名乗ってたよ。魔女教大罪司教の、『色欲』担当。なんだけど……」

 

そこで言葉を切り、フェリスはその続きを口にするかどうか悩んだ顔をする。

その躊躇いの理由がわからず、スバルは首をひねった。

 

魔女教の連中の名乗りは、憎たらしいことにテンプレートをなぞっている。

流れからすれば、その後に続くのは名前だ。

 

魔女教大罪司教『色欲』――まさかの、三人目の大罪司教。

その名前は、

 

「眉唾だから、フェリちゃんは信じてにゃい。けど、確かに相手はこう名乗った」

 

フェリスはそう前置きし、スバルに信用度は低いと断ってから言った。

 

「カペラ・エメラダ・ルグニカ。――いるはずがない、王族の名前にゃんだけどね」