『帝国事情』


 

――城郭都市『グァラル』。

 

それがスバルたちが辿り着いた、帝国で最初の文明的な街の名称だ。

これまで帝国兵の野営陣地と『シュドラクの民』の集落と、ほとんど野宿と変わらない環境で過ごしてきたのだから、文明を目にした感動は一入である。

とはいえ、手放しに環境の文明開化を喜べるものでもない。

何故なら――、

 

「――検問」

 

視線の先、都市の入口で行われている検問を見て、スバルは唇を舌で湿らせる。

四方を防壁に囲まれたグァラルは、都市への出入りを東西に一つずつある大正門によって制限している。検問はその大正門に常設されたもので、遠目にも屈強な門兵たちが、厳つい顔で険しい目を光らせているのが確認できた。

 

『アタイたちは一目でシュドラクってバレっからナ。仲間でついてけねーけド、怪しいもんとか持ってねーなら平気だロ』

『おどおどしないで堂々としてたらいいノー。レムとルイをちゃんと守るノー』

 

とは、街に到着する前に別れたクーナとホーリィの言葉だ。

どちらも必要以上に気負うなというアドバイスだったが、緊張と不安を忘れろというのもなかなか無理のある提案。

なにせ、スバルたちは帝国において、所属不詳で身分証明もない異邦人なのだから。

 

「ただ、今の時期にルグニカの人間がヴォラキアの中をうろちょろしてるのが歓迎されないってことは、俺が常識のない異世界人でもわかる」

 

馬鹿正直に素性を名乗れば、間違いなく門兵の不興を買うこととなるだろう。

文字通りの門前払いにされるだけならまだしも、うっかり捕縛されるようなことになれば目も当てられない。その展開なら、もうすでに帝国兵の陣地でやったのだ。

 

――また、スバルのミスで大勢が焼かれるような結末は絶対に許されない。

 

「――――」

 

「……あまり険しい顔をしていると、周りに不審がられますよ」

 

複雑な心中を反映し、眉間に皺を寄せていたスバルがその声に目を丸くする。

声が聞こえたのは背中側――背負子に乗せているレムのものだ。背負子の構造上、互いに背中合わせの姿勢でいるので、レムにはスバルの顔が見えないはずなのだが。

 

「なのに、どうして俺が眉間に皺寄せてるってわかったんだ?」

 

「見えなくても、息遣いは聞こえます。背負子越しですが、背中が触れ合っているので心臓の鼓動も。……こっちにも、緊張が伝わってきます」

 

「う……そりゃ悪い。眉間の皺も、うるさい心臓も」

 

「はい。静かにさせてください」

 

「それ、落ち着けって意味で、息の根を止めろって言ってんじゃないよね?」

 

念のための確認に対して、レムは無言で嘆息するにとどまった。

そのレムの吐息は、スバルへの呆れと無関心のちょうど間ぐらいの温度感。明確な嫌悪感や敵愾心ではなかったので、ほんのちょっぴり安心してしまう。

志が低いと言われたら、それには何も言い返せないのだが。

 

「うー、うー?」

 

「……わかってるから急かすな。お前も悩みの種の一つなんだぞ」

 

ぐいぐいとスバルの袖を引いて、行列を指差すのは長い髪をまとめたルイだ。

クーナたちから託された魔獣の角――白い包みにくるまれたそれを背負ったルイは、スバルが列に並ぼうとしないのが不思議でしょうがないらしい。

しかし、ルイのように何も考えずに行列に並ぶなんて無謀はできなかった。

 

「今の俺たちには身分を証明する手段も、門兵に渡す袖の下もない。ってことは、正攻法で乗り込むのは無理ってことだ」

 

「列に並んで、門兵の方と話してみるのはダメですか?」

 

「誠実に訴えるってのは選択肢としてはあるけど、失敗した場合のリカバーが利かない可能性が怖い。……今の俺たちは頼れる相手がいないから」

 

スバルの懸念を聞いて、レムが微かに喉を鳴らして黙り込む。

『記憶』のないレムにはあれこれと想像が難しいかもしれないが、場所が場所、お国柄がお国柄なだけに、慎重になるに越したことはない。

 

――思いがけず、スバルたちがプレアデス監視塔から帝国へ飛ばされ、もうそろそろ十日近くが過ぎようとしている。

 

当初の混乱もずいぶん薄れ、レムやルイとの一触即発の関係も一時的に棚上げとなった状態だが、状況の全部が好転したとは相変わらず言い難い。

 

そもそも、スバルとレム、ついでにルイが三人だけで行動する状況は、飛ばされた当初の狩人やエルギーナからの逃走劇の一瞬だけだった。

それ以外では帝国兵の陣地やシュドラクの集落、このグァラルへの旅路だったりで、常に帝国を知る誰かしらが行動を共にしていた。

その全員と友好関係を築けたわけではなかったが、少なくとも心細くはなかった。

 

「でも、こっから先は違う」

 

トッドたちとは敵対し、アベルとも道を違え、『シュドラクの民』とも離別した。

ここからスバルたち三人は、帝国という未踏の地を杖のない状態で歩いていかなくてはならない。否が応でも、自分の判断に慎重になろうというものだった。

 

「では、どうするんですか?悩んでも迷っても、目的は変わりませんよね?まさか、この街を通り過ぎるわけにもいかないでしょうし……」

 

「ここの検問を諦めても、別の街で同じことやってないとも限らないしな。これがルグニカだったら、ここまで警戒厳重じゃねぇってのに……いや」

 

首を横に振り、スバルは帝国の事情を鑑みる。

皇帝の座を追われたと、別れたアベルは自らの事情をそう語った。それが事実であるなら、帝国は現在、内紛の真っ只中と言える状態だ。

アベルは皇帝不在の件を市井には隠していると言っていたが、人の口に戸は立てられないものだし、雰囲気というものは何気なく伝染する。

それこそ、野営地ではトッドも、今回の出動に違和感を抱いている様子だった。

 

「だとしたら、検問が厳しいのはアベルのせいか……?クソ、恨むぜ、あいつ」

 

アベルには助けられた向きもあるのだが、差し引きと気分的な問題で若干のマイナスとしておきたいところだ。

あの性格と態度なら、下の人間に謀叛された理由も信長チックな想像がつく。

 

「王は人の心がわからない、を地でいきそうな奴だったし」

 

「……もしかして、真剣に悩んでいるんじゃなく、どうでもいいことを考えて時間を無駄にしていませんか?」

 

顎をさすり、そう呟いたスバルにレムの声が冷たく硬くなる。

それは呆れや無関心を通り越し、素直な怒りを含有した声色だったので、スバルは慌てて「いやいやいや」と弁明する。

 

「待て待て、安心しろ。確かに俺の円卓的な感想は無駄話もいいとこだったが、何も無策でボケっと行列を眺めてるわけじゃない。ちゃんと考えがあるんだ」

 

「平然と嘘をついて、人として恥ずかしくないんですか?」

 

「少しは信じる姿勢を見せよう!?ノータイムで嘘判断は早計だよ!?」

 

レムの心証の低下がとどまることを知らず、スバルは信頼の回復に必死だ。

事実、嘘八百を並べたわけではなく、ちゃんと検問を突破するための代案はある。スバルたちだけでは、真っ当な方法で門兵のチェックをパスできない。

ならば、スバルたちだけではなければよいのだ。

 

「つまり……」

 

「ナツキ・スバル、百八の特技――『他力本願』の本領発揮だ」

 

親指を立てて、歯を光らせたスバルの回答。

それを受け、何故かその顔が見えていないはずなのに、こちらにも見えないレムが顔をしかめたのが背中越しに伝わってきた気がした。

 

△▼△▼△▼△

 

独特の緊張感のある検問を抜け、見上げるほどの大きな正門を潜り抜ける。

そうして開けた視界、異国情緒の溢れる石造りの街並みを正面にして、スバルは達成感からぐっとその場に両手を突き上げた。

 

「抜けたぞー!」

「あーうー!」

 

勢いのあるスバルの声を聞いて、すぐ横ではルイが同じように両手を上げている。

まるで仲間みたいな態度に思うところはあるが、ひとまずのところ、街へ入るための最初の関門を乗り越えた喜びがそれを押し流した。

業腹だが、ルイの存在が検問突破に役立ったのも事実なのだから。

 

「それにしても、やっぱりルグニカとは違うもんだな。王都とかプリステラも、ちょいちょい違うところはあったけど……」

 

街の雰囲気を眺めながら、スバルは頭の中のルグニカ王国の街並みと比較する。

スバル的に最も印象深いのは、新ロズワール邸の傍にあるコスツールの街並みだが、やはり違う国であるという変化は大きなもののようだ。

それぞれの特色が出ている王都やコスツール、プリステラにも王国特有の雰囲気の共通点のようなものがあった。それが、このグァラルには感じられない。

 

いわゆる、異世界ファンタジーの王道的な雰囲気のあった王国と比べ、帝国の街並みはもっと無骨で色が少ない。飾り気より、実用重視といった印象だ。

街全体が華やかさよりも、強さや洗練さを感じさせる方向に統一感があり、整地された剥き出しの地面がその印象を助長しているように感じられた。

 

「ルグニカなら石畳だけど、こっちはこれが基本っぽいか」

 

街の大きさや人口的にも、グァラルは帝国で平均以上の都市だと考えられる。

おおよそ、帝国の各地と比べる物差しとしてちょうどいい塩梅ではないだろうか。

 

「まぁ、あまり長居したくねぇから、物差しも使わないに越したことないけど」

 

「――あの、そろそろ下ろしてくれませんか?」

 

「と、悪い」

 

そんな感慨を抱くスバルの背後、背負子のレムに下ろすよう言われ、スバルは彼女に謝りながら、その場にゆっくりと膝をついた。

肩にかけるフックを外して背負子を下ろすと、杖を持ったレムが地面に立つ。

長旅の移動の間は背負子の上でも、街に入れば自分の足で歩きたい。急ぐ理由もなくなった以上、レムのその願いを聞かない理由はなかった。

 

「ここが……」

 

杖をつくレムが振り返り、ようやくスバルたちと同じ光景を目の当たりにする。

軽く眉を上げたレム、薄青の瞳には驚きと微かな感動があり、レムのポジティブな反応にスバルはほんのりと頬を緩めた。

 

「どうだ、驚いたか?」

 

「それは……はい、驚きました。行列でもそうでしたが……こんなに人がいるのも、ちゃんとした街を見るのも初めてですから」

 

「あ、それもそうか。レムにとっちゃ、まともな人里は初めてなんだよな」

 

前述の通り、これまでレムが経験したのは例外的な場所と待遇ばかりだった。

『記憶』がない以上、レムには誰かと生活した記憶もない。スバルやルイ、『シュドラクの民』との生活が、レムの持つ経験の全てなのだ。

 

「――――」

 

目を細め、感慨深げにしているレムの姿にスバルは片目をつむる。

ひとまず、レムを下ろした背負子を折り畳み、彼女の感動が引くのを待った。

 

――都市として、グァラルは活気に溢れているとは言い難い。

 

行列の並ばされた検問や、無骨で暗色の目立つ街並み。総合して、華やかな印象とは程遠い土地だ。街の規模も、数千人ぐらいのものだろうか。

それでも、レムの瞳を過った感動の価値は目減りするものではないだろう。

 

「あれなら、ちょっと見て回ったりするか?」

 

「――。いいえ、結構です。余計な時間を取らせたくありませんから」

 

「お前のためなら、余計なことなんて特にないんだが……」

 

首を横に振ったレムに、スバルは頬を掻きながら答える。

実際、レムの心中に明るい兆しが訪れるなら、街の観光ぐらいは問題のないことだ。これが差し迫った状態なら遠慮願いたいところだが、ひとまず見通しは立った。

それもこれも、レムの機転が作ってくれた幸いだったのだから。

 

「レムがいなきゃ、フロップさんたちとうまくやれなかったんだ。少しぐらい、わがまま言ってくれてもいいんだぜ」

 

「……そのフロップさんたちをお待たせするのがよくないと言っているんです。ただでさえ甘えすぎているのに、これ以上の借りを作るんですか?」

 

「う……そう言われると、それは、はい、すみません……」

 

街並みへ向ける眼差しから一転、レムの鋭い視線にスバルは胸を押さえる。

そんなスバルたちの背後、ゆっくりと重たい車輪の音を立てて、一台の牛車――勇牛『ファロー』の引く、ファロー車がやってくる。

 

『ファロー』とは、地竜や大犬『ライガー』のような使役されるタイプの動物だ。

地竜やライガーのように荷車を引くことが多く、大荷物の運搬などで使われることが多い。速度はゆっくりで、地竜のような『風除けの加護』もないため、基本的には都市内で運用されることが一般的と聞く。

そして――、

 

「やあやあやあ、お待たせしたね。積み荷の確認に時間を取られてしまってねえ。まったく、お役人の仕事には困ったものだよ」

 

ファロー車の御者台、そう言いながら肩をすくめるのは前髪の長い青年だ。

眩い金色の髪と色白の肌、線の細い体を袖の広い服に包んだ人物で、スバルたちが街へ入るのに尽力してくれた人物だった。

そのファロー車の青年の登場に、スバルは「お疲れッス」と頭を下げる。

 

「すみません、フロップさん。ついでの俺たちの方が先に通してもらって」

 

「いいや、構いはしないとも。積み荷の検品なんて退屈な仕事さ。わざわざ付き合うほど見応えのあるものじゃぁないからね」

 

スバルの謝罪の言葉に、御者台の青年――フロップはやんわりと首を横に振った。

流麗な仕草に長い前髪が鬣のように揺れて、そこにキラキラしたエフェクトが幻視できる気がする。癖のある人だが、受け答えはわりとまとものでギャップが大きい。

そんな心象のスバルの前、彼は再び自分の前髪を撫でると、

 

「そう、退屈な仕事さ。そんなのは未来へ旅する君たちではなく、僕に……ですらなく、僕の妹にでも任せておいたらいい」

 

「あんちゃん、あんちゃん、聞こえてんだけど!」

 

「ははは、聞こえないように言っていないよ、妹よ。兄の声量を舐めちゃいけない」

 

微妙に焦点のぼやけたフロップの回答、それを聞かされたのは、ゆっくりと進む牛車と並んで歩いている女性だった。

フロップと同じ髪の色、よく似た顔立ちをした長身の女性だ。肩や足を大胆に晒した服装と、ボリューム感のある髪を何房にも分けた奇抜な髪型をしている。

そんな外見も特徴的だが、最も目を引くのは腰の裏の二振りの蛮刀だろう。

見掛け倒しやこけおどしの道具でないことは、使い込まれた道具の状態からも明白。

彼女はミディアムといい、兄のフロップと二人で旅をする仲良しオコーネル兄妹だ。

 

二人とは検問の行列で知り合った間柄だが、身分証明も袖の下も難しかったスバルたちの検問越えを手伝ってくれた、恩人ともいうべき相手である。

もちろん、ただの親切で彼らがスバルたちに協力してくれたわけではない。元々、検問を越えるためにオコーネル兄妹に目を付けたのはスバルだった。

 

金もコネもないスバルたちには、検問を越えるために他者の協力が必要となる。

そこで、スバルはフロップたちなら交渉の余地があると考えたのだ。

そうスバルが考えた理由は――、

 

「すげえや、あんちゃん!じゃあ、あたしの考えは全部お見通しだったのか!」

 

「もちろんだとも。先が読めなければ商いには勝てない。我らオコーネル商会は、僕の頭脳とお前の腕っ節で成り立っているのだからね!」

 

「さっすがー!何言ってるんだかちっともわかんねえや!」

 

「はっはっはっは、我が妹ながら人生楽しそうで大いに結構!」

 

互いに胸を反らせ、大きな声で笑い合うオコーネル兄妹。彼らの仕事は行商だ。

厳密にはフロップが行商人として商いを担当し、ミディアムは道中や市内での兄と品物の護衛を担当しているとのことだった。

 

――商人。

 

それが、スバルが検問突破に当たっての頼りに選んだ相手の条件だった。

 

「オットーと、アナスタシアさんとあれこれ話した経験が活きたな……」

 

身内であるオットーと、長旅を共にしたアナスタシア。――後者は本人ではなく、それを装ったエキドナの演技だったのだが、知識面では当人と遜色なかったはずだ。

そんな主に二人の薫陶を受け、スバルは商人に対してある種の信頼があった。

それは国境を越えたところで活動するものだったとしても、商人であればメリットを提示した相手の話を聞いてくれるということ。

 

文字通り、当たって砕けろの覚悟で猛アタックを仕掛け、四組の商人相手に空振りしたところで、スバルたちはオコーネル兄妹と遭遇した。

そして、やや癖のある彼らを口説き落とし、見事に検問越えの協力を得たのだ。

そのための交渉材料として、彼らの興味を強く引いてくれたのは――、

 

「それにしても、本当に見返りはこの背負子でよかったのか?確かに多少工夫しちゃいるけど、手作り感半端ないぜ?」

 

「素朴さは否めないがね。しかし、組み立て式であることと、持ち運びのために工夫された仕組みが興味をそそった。重い荷物の運搬にも役立つだろう?」

 

「……まぁ、フロップさんがそれでいいならいいんだけども」

 

いくらか気後れしながら、スバルは折り畳んだ背負子をミディアムへ引き渡す。

それを受け取ると、ミディアムは「ほへー」と背負子をしげしげ眺め、首をひねってから牛車の荷台へ押し込んだ。彼女的には価値を見出せなかったらしい。

実際、スバルもフロップがどこを評価したのかはわかっていない。

 

オコーネル兄妹の協力する条件、それがスバルの作った背負子の譲渡だった。

レムを乗せた背負子を見たフロップは、独特で面白い造りだと感心すると、それと交換なら検問突破に口添えすると約束してくれた。

正直、交渉材料として魔獣の角を提案される可能性も覚悟していたため、スバル的にはむしろ肩透かしな条件だったと言える。

 

「街についたら、もっとマシな材料で作り直そうと思ってたし、最悪、レムがもう乗ってくれない可能性もあるからな」

 

「できるだけ、自分の足で歩きたいのは事実ですね。背負子に乗っていると、あなたの悪臭が風に流れて漂ってくるので」

 

「ソーリー……」

 

杖をつきながら、レムが静かに魔女の残り香の件をつついてくる。

とはいえ、旅の間も漂っていたそれを我慢し、目的地に到着してから話してくれたあたりは有情だったと言っておこう。

そんなスバルとレムのやり取りを見て、フロップが「いけないなぁ」と肩をすくめた。嘆かわしいと言わんばかりの仕草だが、その態度には理由がある。

 

「もっと仲良くしたまえよ、君たち。妻と夫というものは支え合うものだ。先ほどの、まさしく支え合う姿など美しかったよ」

 

「まぁ、背負子を取り上げたのはあんちゃんだけど!」

 

「まさしくそれだ!どの口で言っているんだろうね、僕は!」

 

額を押さえたフロップと、腹を押さえたミディアムが声高に笑う。

二人の馬鹿笑いに合わせて頬を緩めながら、スバルはちらっとレムの横顔を窺った。ちっとも笑わず、片手にルイをまとわりつかせているレム。

そんな彼女の横顔に、スバルはおずおずと「あの~」と声をかけた。

 

「そのですね、レムさん?怒ってらっしゃいます?」

 

「は?どうして私が怒ると?心当たりでもあるんですか?」

 

「いや、設定上とはいえ、俺と夫婦という話は不本意なのではないかと……」

 

指と指を突き合わせながら、スバルはレムの心情に恐々と配慮する。

フロップたちの認識で、スバルとレムは夫婦ということになっている。

それは検問越えのための相談を持ちかけた際、兄妹にスバルたちの関係を聞かれ、とっさの答えに窮したのが原因だった。――否、窮したわけではない。

用意していた答えはあったのだが、それが疑われて仕方なくだった。

 

「まさか、旅の兄妹設定が信じてもらえないとは……」

 

「フロップさんとミディアムさんが同じ境遇でしたし、お二人はよく似ていらっしゃいますから。私とあなた、それにこの子とでは無理のある嘘でしたよ」

 

商人として、嘘と誠が飛び交う世界を生き抜く相手を騙すには、スバルではただただ錬度不足だったと言わざるを得まい。

もっとも、兄妹という嘘を見抜いたのは「全然似てないね、あんちゃん!」と声を大きくしたミディアムの方だったのだが。

 

ともあれ、その眼力に敗北して、スバルの用意した兄妹設定から派生し、故郷から遠くの山へ呪われた指輪を捨てにいくというスペクタクル大長編は打ち切られた。

そのショックもあって、彼らの問いかけへの答えに窮したスバル。その窮地を救ったのが、機転を利かせたレムの「妻です」という説明だった。

 

「俺とレムが夫婦で、こいつはレムの姉さんの子どもを預かってるって話……」

 

「私に姉がいると、そう教えたのはあなたでしょう。双子という話でしたから、こんなに大きな子がいるとは思えませんが……そこは目をつぶります」

 

「うー?」

 

レムに頭を撫でられ、ルイがこそばゆそうな顔で小さく唸る。

このルイの無害に見える仕草や態度も、フロップたちにスバルたちを警戒させなかった要因の一つとなったようだ。

目つきの悪いスバルはともかく、足の悪いレムと無防備なルイ。この三人組が、都市で悪さを働く悪党とフロップたちは判断しなかったのだから。

 

「どうして……」

 

「うん?」

 

「どうして、あんなところで返事に困ったんですか?普段から、もっと適当なことをあれこれとまくし立てているじゃないですか」

 

「それは褒め言葉と見せかけた苦情の申し立てっぽいな……」

 

とはいえ、スバルの不甲斐なさがレムを危うくしかけたのは確かだ。

もしもレムのとっさの機転がなければ、スバルたちはいまだに門の外、行列を眺めながら立ち往生していた可能性が高い。

 

「――――」

 

軽口で誤魔化すのも限界がある。

これ以上、レムの信頼を損ねるのも避けたいスバルは、じっと自分を見てくるレムの視線に「あー」と小さく唸ってから、

 

「自分でも驚いたんだけど、嘘って見抜かれた瞬間、ものすごい体が緊張したんだよ。もしかしたら、野営地で迂闊なこと言ったせいで肩をグサッとやられたのがトラウマになってんのかもしれない」

 

「あ……」

 

「下手な受け答えしたら、フロップさんたちが豹変するんじゃないかって思ってさ。情けない話だけど、それで思考が止まっちまった。悪い」

 

情けない自己分析を伝えて、スバルはレムに正直に頭を下げた。

小賢しい頭と口八丁、それが人より秀でた数少ないナツキ・スバルの武器だ。それなのに、頭と口が回らなくなったら、それこそただの足手まといになり下がる。

レムの命を預かっている。――下手な失敗はできないのに。

 

「――。事情はわかりました。仕方ないと思います」

 

「……本当に?あんなヘマしたのに?」

 

「誰でも、痛い思いをすれば体は強張るものです。少なくとも、私はそう思いますから」

 

てっきり、冷たく罵られると思っていたスバルは、そのレムの反応に驚かされる。

もちろん、根っこは優しいレムだから、人に配慮できるのはわかっていたことだ。意外だったのは、その配慮をスバルにも向けてくれたことだった。

 

「……怒ってない?」

 

「怒っていません。ただ、次は事前に相談を。私も、毎回うまく言い訳できるとは思いませんから」

 

「あ、ああ、わかった。……本当に怒ってない?」

 

「怒っていません」

 

「本当に本当?」

 

「怒ってないって言ってるじゃないですか……!」

 

心配するあまり、かえってレムの怒りを買ってしまった。

鋭いレムの眼差しに頭を抱え、スバルは小さくなって結局許しを請う。

そんな一幕を挟んで、スバルたちはようやくグァラルへと入場したのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

「――やっと、人心地ついたぁ!」

 

と、スバルは宿屋の寝台に体を投げ出し、手足を伸ばして自由を満喫した。

それなりに質のいいベッドとシーツ、そこそこの清潔感のある部屋の雰囲気と、宿のグレードとしては中の上――お値段も相応の一室だった。

立場上、あまり贅沢をすべきではないが、安全を買うための必要経費と割り切る。

 

『どこかに泊まるなら、安宿や野宿って選択肢は消しておいた方がいいですよ。エミリア様やガーフィールみたいに自衛力があるならともかく、僕やナツキさんでは悪さを企む方々にとっていいカモですから』

 

とは、以前、オットーの部屋で管を巻いていたときの話題の一個だったか。

落ち着いて考えてみれば当然の警戒だが、路銀が乏しいときにはついつい安全性というものは後回しにされがちになる。

ただ、今のスバルたちの状況を鑑みれば、それは必要な出費だった。

もっとも――、

 

「部屋割りはだいぶ揉めたけども……」

 

そうこぼしながら、スバルは寝台に横向きに寝転がり、壁を睨みつける。

その壁の向こう、隣室にはレムとルイが一緒にいるはずだ。――グァラルで宿を取ることとなり、部屋割りは男女で分けることに決定したが、スバルは不本意な結果だ。

今さらではあるが、スバルのルイに対する疑惑と警戒は解けていない。スバルの見ていないところで、二人を一緒にしておくことには抵抗がある。

とはいえ、三人で一つの部屋という提案はレムの方が受けてくれなかった。そのため、この形に落ち着くしかなかったのだが――、

 

「おやおや、旦那くん。ずいぶんとふやけているじゃないかね。結構、結構!」

 

そう言いながら、遅れて宿の部屋に入ってきたのはフロップだ。

彼はスバルが寝転がっているのと別のベッド、そちらへ手荷物を放り投げると、長い前髪を撫で付けながらウィンクする。

堂々としたフロップだが、何も勝手に部屋に上がり込んできたわけではない。

この部屋は、彼とスバルと一緒に使う想定で借りたものだ。当然、レムたちの方には妹のミディアムが向かっている。

 

「あー、すみません。何から何まで世話になって……」

 

「いいってことさぁ。君は知恵によって自らを守った。『帝国民は精強たれ』の教えは、武に依って立つものばかりじゃぁない」

 

「……そう言ってもらえると、気が楽になりますよ」

 

ベッドの上で胡坐を掻いて、スバルはフロップの言葉に苦笑する。

検問の突破だけに関わらず、フロップとミディアムの兄妹にはその後もスバルたちは大いに助けられた。

安全性を買える宿の心当たりもそうだが、一番助かったのは魔獣の角だ。

 

「俺たちだけじゃ、どれだけ足許を見られてたか想像もつかねぇ」

 

ルイに背負わせていた魔獣の角だが、それはすでにスバルたちの手を離れている。

クーナたちからの助言に従い、グァラルの商店で換金してもらったあとだからだ。そしてその値段交渉には、何故かついてきてくれたフロップが協力してくれた。

彼と店主の間で交わされた壮絶な値段交渉は、法律の知識のない人間にとっての法廷バトルみたいな激しさを感じ取るのが関の山だった。

 

ともあれ、おかげで無事に魔獣の角は帝国金貨へと姿を変えた。

相応に重たい金貨の袋、それがスバルたちの帝国における軍資金となる。今後の旅費はこれで賄われるのだから、十分に注意が必要だ。

 

「さっきの調子で、相手の食い物にされるわけにいかねぇからな」

 

「はっはっは!何事も、まずは堂々としてみるものだよ。胸を張って背筋を正していれば、相手も簡単には仕掛けてこられない。そのうち、根拠のない自信も本物になってくれるかもしれない。そしたら儲けものじゃないか」

 

「うーん、実践してる人が言うと説得力があるな……」

 

良くも悪くも、フロップには自信が満ち溢れている。

場合によってはあけすけな彼の物言いは余計な諍いを生む可能性もありそうだが、今日まで彼がやってこられた以上、そのやり方が正しい証左と言える。

実際、そんな彼の在り方に助けられたスバルなので、ここは素直に感心だ。

 

「しかし、奥さんを背負っての長旅だったんだろう?今日はぐっすり休んで、さっきの話は明日にでもするかい?」

 

「それは、心惹かれる提案なんですが……やめときます。俺たちは一日でも早く、目的地に辿り着かなきゃならないんで、時間を無駄にできないんだ」

 

柔らかいベッドの誘惑に駆られながら、スバルはそれを何とか引き剥がす。

そう言って寝台から下りるスバルに、フロップは「大いに結構!」と胸を張った。

 

「その意気やよし、だ。大切な誰かのためなら、重たい足を動かさなくてはならないときだってある。僕にとっての妹のように、旦那くんにとっての奥さんのように」

 

「そこまで言われるとこそばゆいけども!……で、案内お願いできますか?」

 

「もちろんだ。僕から申し出た話なのだからね!」

 

どんと自分の胸を叩いて、快く請け負ってくれるフロップ。

そんな彼の返事を受け、スバルは今一度、気合いを入れて精神をベッドから引き剥がすと、フロップを伴って隣室へと向かった。

扉をノックして、部屋の中にいるレムを呼ぶ。

 

「レム、そっちは問題なさそうか?」

 

「はい、大丈夫です。今は、ルイさんを私とミディアムさんのどちらのベッドに寝かせるかで話し合っていて……」

 

「……そうか」

 

「今、床で寝かせたらいいとでも言いたげな顔をしましたね」

 

「怒ると思ったから言わなかったじゃん……」

 

ルイの危険性を鑑みれば、ミディアムと同じベッドも薦められない。

本音を言えばスバルが一晩中監視しておくのがベストなのだが、今の体調だと、見張りを始めて数時間で寝落ちするのがオチだろう。

この十日間、何もしてこなかったという点を信頼するしかない。

 

――大罪司教を信頼するなんて、ひどく馬鹿げた考えだとは思うのだが。

 

「さっきも話したけど、俺はフロップさんとちょっと出てくる。夕飯は外でなんか買ってくるから一緒に食べよう」

 

「わかりました。……考えてみると、ここにはたくさんの人がいるんですから、もうあなたにだけ頼る必要はないんですよね」

 

「何故、俺が急に離れ難くなることを言い出したのかがわからねぇ!」

 

「……何故でしょう。ただ思ったことを言っただけでした」

 

レムの言葉に後ろ髪を引かれながらも、スバルは初志貫徹を優先する。

部屋の中、ルイに髪を引っ張られてじゃれ合っているミディアムに手を振り、

 

「ミディアムさん、二人のこと頼む。迷惑かけたら、遠慮なくしばいてやってくれ」

 

「本気でー?あたしのゲンコ、めちゃめちゃ痛いよ?」

 

「ああ、痛くしないと覚えないから」

 

とはいえ、何かあるなら事前にレムが止めるだろう。

ルイがレムの精神安定に一役買っている現状、歯痒くもありがたくはある。せめて、何かしらの役割を果たしていると認められなければ、スバルがルイを連れ歩くための極小の納得すらも自分から引き出せなくなるから。

 

「なかなか大変な旅路のようじゃないか、旦那くん」

 

レムとルイを宿に残し、再び街並みへ踏み出したところでフロップに肩を叩かれる。

大変な旅路と言われると、思わず「そうなんだよ」と膝から崩れ落ちたくなるが、そうされてもフロップも困ってしまうばかりだろう。

ただでさえ、彼とミディアムにはすっかり頼りきりなのだ。

これ以上、心配と負担を押し付けるのは避けたい。

 

「いくら『他力本願』が俺の百八の特技でも、限度ってもんがあるぜ」

 

「なに、おんぶにだっこにならなければ、他者を頼るのは誤りではないと思うがね。僕と妹は二人旅だが、お互いに足りないところを補い合っている。そうでなければ、僕も妹もそれぞれの弱点が理由であっさり死にかねない。それも帝国流だ」

 

「帝国流……」

 

ひらひらと手を振り、その手で自分の前髪を撫でるフロップ。彼の口から飛び出した『帝国流』という単語が、スバルの胸に重たく圧し掛かる。

たぶん、それこそがスバルが恐れている、形のない恐怖の源――価値観の相違だ。

そういう意味では、フロップの考えはスバルにも理解しやすく、距離が近い。ただ、ここまでのヴォラキア帝国への印象と、かなり異なる。

 

「皆が皆、武張った生き方や在り方に適応できるわけじゃない。重要なのは、与えられた枠組みの中、自分の折り合いをつけることだとも」

 

「折り合いをつける、ですか」

 

「さっきも言ったが、僕と妹は一個人として見た場合、なかなか弱点の多い存在だ。だが、二人で力を合わせたら、弱点を隠してちょっとしたものとなる。事実、今日まで僕や妹が生きてこられたのは、それが勝因と言えるだろう」

 

「――――」

 

「覚えておきたまえ、旦那くん。僕や妹、君や奥さんが今日まで生きてこられたのは、挑まれた戦いに全勝してきたためだ。――どうだね、僕も帝国の男だろう?」

 

頬を緩め、称賛を求めるようなフロップの横顔。

それをまじまじと見つめて、スバルは思いがけない天啓を受けた気分だった。足りない部分を補い合う、それはスバルの価値観と何も変わらない。

あるいは帝国では、そうしたスバルの考えが一切通じないのではとも思わされたが。

 

「そんな絶望的なことばっかりじゃない、ってことか」

 

「そうは言っても、大抵の人の帝国流は腕力のことを語る場合が多いがね!僕のこの考えも、弱虫の羽音と笑われるものだ。決して一般的ではないとも」

 

ある種の納得を得たスバルの横で、フロップが過信は禁物と念を押す。

しかし、その上で彼は「だからこそ」と言葉を継いで、

 

「その腕前に値段を付けるという考えも成り立つ。僕が旦那くんに紹介するようにね」

 

「うす、助かります」

 

頷いて、スバルはフロップの提案に改めて感謝。

それは検問の突破と宿の紹介に加え、現在の外出の目的――今後のスバルたちの旅路を円滑にするために確保したい、足と護衛の紹介についてだ。

 

今回、グァラルまでの道のりをクーナとホーリィが護衛してくれたように、道中の危険から身を守るためには、腕の立つ護衛がいなくては難しい。

背負子にレムを乗せ、スバルが歩いて移動するのも限界がある。理想は地竜だが、それが難しいなら勇牛や大犬、とにかく移動のための騎獣が必要だ。

そのどちらも、限られた軍資金でやりくりしなくてはならない。

 

「なんで、フロップさんが心当たりを教えてくれるのはホントに助かる……」

 

「心当たりといっても、そうした生業の人間が出入りする酒場を知っている程度だよ。騎獣の方は相談に乗れるがね。――そう、ファロー車とか!」

 

「ファロー、めちゃめちゃ推してきますよね……」

 

「僕はファローの乳で育ったと言っても過言ではない、ファロー贔屓だから」

 

大きな声で笑いながら、フロップはいかにファローがおススメか熱弁してくる。

もっとも、重量のある荷物を運ぶならいざ知らず、長距離を旅したいスバルたちとの相性はあまりよくない。速度もかなりゆっくりなので、ファローは最終手段だ。

 

「なんにせよ、道中は少しでも安全策を取った方がいい。……ここだけの話、帝都の方が色々と騒がしいようでね。それが飛び火しないとも限らない」

 

「――帝都が騒がしい」

 

ぴくっと眉を上げるスバル、しかし、フロップはそのスバルの反応には気付かなかった様子で、「そうなんだ」と腕を組みながら答える。

 

「年中、どこかしらで火種が燻っているのが帝国なんだが、その火種が燃え広がる可能性が懸念されていてね。奥さんを心配させたくないから、君にだけ話すんだが」

 

「お気遣いどうも。……ちなみに、それって皇帝となんか関係あったり?」

 

「ヴィンセント・ヴォラキア閣下と?」

 

思いがけない話を聞かされたように、フロップが目を丸くする。それから、彼はすぐに「いやいやいや」と首を横に振って、

 

「皇帝閣下がどうという話はついぞ聞かないさ。それでなくとも、皇帝閣下はこれまで国内を見事に平定してこられた」

 

「けど、さっきは火種が燻ってるって言ってましたよね?」

 

「火種で済んでいたのが、皇帝閣下の手腕だとも。今代の閣下が皇帝に即位されたのは七年か八年前だが、それ以前はもっと帝国は荒れていた」

 

「――――」

 

「今回の騒動も、閣下が直々に指揮を執っておられる。またすぐに、火種の燻る我らが故郷が戻ってくることになるだろう」

 

「え?」

 

火種が燻ってこそ我が故郷と、そう嘯くフロップ。

しかし、スバルは彼のその言葉に引っかかるものがあった。――彼の、皇帝が直々に指揮を執っているという話に、だ。

 

「帝都のいざこざって、皇帝が何とかしようとしてるの?」

 

「自分のお膝元……それこそ、真の意味でお膝元となれば閣下も動くだろう。この機に乗じるものには容赦しないと、そう声明が発されたしねえ」

 

「皇帝の声明……」

 

淡々としたフロップの説明に嘘は感じられない。

そもそも、フロップが帝都のいざこざについて、スバルを騙そうとする理由が全く存在しないのだから、少なくとも彼は自分にとっての事実を話しているはずだ。

しかし、だとしたらスバルは引っかかる。

 

「アベルの奴が本当に皇帝なら、声明を発表したのはあいつ……?」

 

――否、タイミング的におかしい気がする。

もちろん、皇帝の声明を出すなんてことは、皇帝本人がいなくても「秘書がやったことです」的な形で大臣がやったりできるのかもしれない。第一、アベルの言を信じるなら、皇帝の城に残っているのは他ならぬ皇帝を追い落とした人々だ。

皇帝への敬意など踏みつけて、名前の利用でも何でもするだろう。

ただ――、

 

「アベルがただのイカレ野郎って線も、一応気に留めとくとしよう」

 

見たものを何でもそのまま信じていては、荒ぶる大海原で生き残れない。

ここは大海原でも、常に荒ぶっているわけでもないが、そのぐらいの心構えで帝国とは臨みたいという所信の表明だった。

もっとも、アベル本人と対峙し、話をした身としては、あれが自称皇帝に出せる迫力ではないと思っているところもあるのだが――、

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

と、そんなスバルの様子を慮り、正面に回り込んだフロップがそう言った。

思わず足を止めるスバルの前、フロップは自分の眉間を指差し、

 

「笑顔と余裕のないものの下には、幸運は訪れない。これから、旦那くんは自分たちの旅の同行者を探すんだろう?だったら、良縁を探さなくては」

 

「それは……」

 

「だったら、眉間の皺は消して、口の端を緩めて余裕を演出する。それが、できる男の嗜みというものだよ」

 

指差した眉間をぐりぐりと指でいじり、次いでフロップは自分の頬を両手で緩める。

そんな彼の仕草を目の当たりにして、スバルは息を詰めた。それから、彼の言う通りに眉間と、頬をゆっくりと指でほぐす。

 

「ああ、忘れてたぜ。ただでさえ、俺は目つきが悪いんだから、せめて雰囲気だけでも柔らかくしとかなくちゃだよな」

 

「すまない!僕の力では君の目つきまではどうしようもないんだ!」

 

「そんな本気に受け取らないで大丈夫だよ!親からもらったもんだから、実は言うほど気にしてないし!」

 

大げさに嘆かれたので大げさに返したが、それすらもスバルの強張った緊張をほぐすためのフロップの気遣いなのだろう。

そんな茶番を交わしながら、スバルとフロップは目的の通りへ差しかかった。

フロップが手で示したのは、路地の先にある隠れ家的な酒場だ。

 

「これが大人数なら、護衛もドンと数を雇うべきだが、旦那くんと奥さん、それに姪っ子ちゃんの三人だけとなると、大所帯というわけにもいかないだろう。さすがに、グァラルの外までは僕と妹もついていけないのでね!」

 

「でも、ミディアムさんならうまくやればついてきてくれそうな気が……」

 

「妹を引き抜かれると、弱点を補えない僕はもう死ぬしかないな!」

 

信頼と安全を天秤にかけた場合、真面目にフロップとミディアムは選択肢として悪くないのだが、これ以上の借りと迷惑を増やせない。

 

「いや、最悪、二人を連れてそのままルグニカに国外脱出。そして、二人にはオットーの果たせなかった商人としての立身出世を叶えてもらうという手も……」

 

「おおい、旦那くん?大丈夫かい?」

 

考え込むスバルの前、フロップが手を振りながら調子を問うてくる。

そんな彼の反応に「悪い」とスバルは頭を掻いた。思いつきではあったが、悪い提案ではない気がしてきた。

せっかく、ここまで案内してもらったのは悪いのだが――、

 

「なぁ、フロップさん、ちょっとミディアムさんと二人に頼みたいことが――」

 

あるんだが、と言おうとした瞬間だった。

 

「――――」

 

――どこかで、何か微かに硬い音が響いたのは。

 

△▼△▼△▼△

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

「……は?」

 

不意に、瞬きしたように視界が切り替わり、スバルの意識は空白を得た。

そのスバルの正面、フロップが自分の眉間を指差している。彼は足を止めたスバルに講釈するように、自分の眉間を指でぐりぐりとほぐし、

 

「笑顔と余裕のないものの下には、幸運は訪れない。これから、旦那くんは自分たちの旅の同行者を探すんだろう?だったら、良縁を探さなくては」

 

「――――」

 

「だったら、眉間の皺は消して、口の端を緩めて余裕を演出する。それが、できる男の嗜みというものだよ」

 

そのまま、ぐにぐにと両手で頬をほぐし始めるフロップ。

彼のその仕草には見覚えがあった。ありすぎた。なにせ、ほんの数分前のことだ。

ほんの数分前に交わしたのと、同じ会話を繰り返している。

 

「おい、おいおい、ちょっと待ってくれ……」

 

不意打ちのように汗が冷たくなり、スバルは自分の顔を覆った。

それを見て、フロップが「隠すんじゃなく、ほぐすんだ!」と声を高くしているが、その言葉に応じる余裕が消失している。

 

見れば、周囲の通りにも見覚えがあった。

初めてくる街並みであり、グァラルに詳しいわけではない。それでも、見たばかりの光景を忘れられるほど、記憶力に難ありではなかった。

つまり――、

 

「――『死に戻り』した?」

 

何気ない状況下、我が身に何が起こったのかもわからないまま、スバルは直前のそれとは全く異なる理由で頬を強張らせ、そう呟いた。