『咆哮の再会』


 

息をひそめて、少女は暗がりの中を音を殺して歩いていた。

 

「――――」

 

小さい体をさらに小さくして、着ている服が空気と触れ合う衣擦れすらも気を払う。口に手を当てて歩くのは、そうして物理的に押さえていなければ呼吸が掠れてしまうから。

 

うるさいぐらいに鳴り響く、この心臓の鼓動さえも静まってほしいのが本音だった。

 

「――――」

 

赤みがかった茶髪を揺らす幼い少女――ペトラはようやく見慣れ始めた屋敷の中を、まるで見知らぬ世界に迷い込んだような不安な心持ちで進んでいた。

ふかふかの絨毯が敷かれていることが、今だけは心の底からありがたい。普段は歩きづらいと内心で思っていたけれど、震える足が音を立てずにいるのはそれのおかげだ。

 

次に洗う機会があれば、全霊の感謝を込めて丹念に洗濯することを心に誓う。

 

そうやって別のことに意識を割いていなければ、かろうじて交互に踏み出せている足が止まってしまいそうだ。ただでさえ毛虫が這うのと変わらないような速度でしか進めていないのに、止まってしまえばどうなるものか、考えるのも恐ろしい。

 

長い長い、果ての見えない廊下の長さが今はとても憎らしかった。

 

大きな屋敷で働けることを認められたとき、ペトラは心が弾んだのを覚えている。

村のすぐ近くにありながら、そのお屋敷はペトラにとってはとても遠い場所だった。距離の問題ではない。立場の問題としてだ。

 

領主であり、屋敷の主である辺境伯様は、暇を見てはアーラム村に顔を出した。

貴族なのに気取らない態度と、子どもの暴言を笑って許す器量。村の人たちから、装い以外の部分で辺境伯様の悪口を聞いたことがない。

ペトラも、辺境伯様のことをことさらに意識したことはなかった。

 

ただ、お屋敷の大きさにはいつも憧れていた。

小さな村の、普通の両親を持つペトラにはとても届かない場所。大人になったら王都に出て、服を作る仕事がしたいなどと言っていても、それは自分に相応な夢を描いたというだけで、届かないものへ指を伸ばす諦めを幼くして知っていたからだ。

 

そんな折、ペトラは図らずも憧れの屋敷で働ける機会を得た。

さらにそこには、ペトラにとっては命の恩人でもあり、ほのかに想いを寄せる人物まで一緒にいるのだ。どちらの喜びが勝ったか、やや後者の方が強いのは内緒だ。

 

ともあれ、ペトラにとって、お屋敷での仕事はそんな夢のような日々の始まりだった。

廊下の広さや部屋の数、お掃除にかかる膨大な時間などは目が回る部分があったが、それでもめまぐるしい日々の数々はペトラに生きる喜びをもたらしていた。

 

その憧れと夢の場所が、今のペトラには心を凍らせるほどに恐ろしい。

 

何が起きて、どうしたことでこうなったのか、それはペトラにはわからない。

わかることは、普段通りにお仕事を終えて、いつものように先輩メイドのフレデリカ――フレデリカ姉様と呼んでいる女性と、二人きりの夕食を終えたこと。

 

踏み台を使ってペトラが洗い場で食器を片付け、その間にフレデリカはお屋敷にいるというベアトリス様への食事を回収してくる。手は、付けられていなかった。

お屋敷に住まうベアトリス様を、ペトラはまだ一度も見ていない。本当にそんな人がいるのか、と思わないでもなかったが、フレデリカやエミリア、そしてスバルは知っている様子だったので、ペトラは何も言わずに従うまでだった。

 

どこかへ遠出しているお屋敷の主人たち。

ペトラとフレデリカという使用人を除けば、お屋敷に残っているのは二人。その姿の見えないベアトリス様と、スバルが連れ帰ったレムという少女だけだ。

そのどちらも食事を食べようとしてくれないので、ペトラは少しだけ不満だった。

 

ただ、眠り続けるレムという少女は不憫に思えたし、何よりスバルが彼女をひどく丁寧に扱っていたことをペトラは忘れていない。

レムの寝顔を見るスバルの横顔はあまりに痛切で、ペトラは嫉妬心を抱くことすら躊躇わせるほどの深い感情と苦悩が見えた。

だから――、

 

「……レムさんだけは、助けなきゃ」

 

決意を思わず口にしてしまったのは、それだけがペトラの行動原理だからだ。

 

フレデリカがベアトリスの夕食を下げてきたあと、ペトラは食器を片付けて、明日の仕事の確認と指示をフレデリカから受けた。

本当ならまだ仕事の残っているフレデリカを手伝いたいのだが、まだ成長過程のペトラの体は夜遅くまでの労働には耐えられない。ペトラの意気込みだけを受け取って、フレデリカに部屋に送り出されるのが常のことだった。

 

ただこの夜は、部屋まで送られる途中で、違うことが起きた。

 

――屋敷全体の照明が、一斉に落ちたのだ。

 

暗くなったことに驚き、ペトラは隣にいたフレデリカに抱き着いた。フレデリカはそれを優しく抱き留めて、安心させるように何度も言葉をかけた後で、息を詰めた。

 

空気の張り詰めるその感覚を、ペトラは決して忘れない。

どこかで味わったことのある乾いた空気。湧き上がる不安に抱き着く力を強めるペトラを、フレデリカの手はそっと解いて、

 

「ペトラ。いい子ですから、よく聞いて。――後ろにある階段を使って、外へ。音を立てずに、静かに、できるだけ急いで、お逃げなさい」

 

「ふ、れでりか姉様は……」

 

「すぐに追いかけますわ。お屋敷の外に出たら、村まで走りなさい。無事に私が合流したら、朝になってから片付けをしましょう」

 

優しく語りかけて、フレデリカが前を見たのがペトラにもわかった。

それから軽い力で後ろへ押し出されて、フレデリカとの距離が開く。雲がかかる空はこのとき、月を隠していて光源は何もなかった。

 

フレデリカが静かな足取りで、前へ進むのを感じる。

それに気付きながら、ペトラは言われた通りに屋敷の通路をフレデリカと反対に。階段にどうにか辿り着いて、そのまま階下へ行こうとして、思い出した。

 

「これ……森と、おんなじ」

 

乾き、張り詰めた空気をどこで味わっていたのか思い出した。

それはほんの二ヵ月前に、村の他の子どもたちと森へ入ったときの空気。

 

魔獣の殺意が吹き荒れる森の中で、命を脅かされたときに感じた空気だった。

 

「――いかなきゃ」

 

それに気付いた途端、ペトラの足は階下ではなく、階上を向いた。

フレデリカの言いつけは覚えている。それを破ることの、罪悪感もある。

 

でも、この森と同じになってしまった屋敷に、レムを残してはいけない。

あのとき、とても恐い森からスバルに連れ出してもらったときのことを、ペトラは忘れていなかったのだから。

 

「――ぁ」

 

泣きそうになりそうな記憶の回想を終えて、ペトラは歩幅の感覚で目的地が近いことを感じ取った。

音を立てない。気付かれない。それを頑なに守ることで、最低限の速度しか得られなかった道行きが終わる。

 

レムの部屋に辿り着いたところで、体の小さなペトラでは彼女を連れて逃げられない。

そんなことに頭が回らないほど、ペトラの頭は切迫感に支配されていた。レムの眠る部屋に辿り着き、彼女の存在を確認できれば全てがうまくいく。

 

幼い少女が身の丈に合わない使命感と、死を間近に感じる恐怖に苛まれているのだ。

気付いて当然のことに気付けないペトラを責めることは、誰にもできない。

 

あと数歩、あと数メートル、あと二つほど部屋の扉を素通りした先。

 

「――――」

 

目的の部屋に、あとちょっとで辿り着ける。

心臓が爆発しそうなぐらいに高鳴り、抑えきれない呼吸音が手の隙間から漏れる。

 

あと少し、あとちょっと、あと――。

 

「――――」

 

到着した、とペトラは顔を上げた。

ちょうどその瞬間だ。廊下に面した窓の外、月にかかる雲が風に流れる。

 

月明かりが窓から差し込み、闇ばかりだった世界に色が生じた。

そして、ペトラは見た。

 

「あら、可愛いメイドさんね」

 

闇に同化するような、黒い女がすぐ目の前に立っていた。

目的の部屋の扉を挟んで、たった三歩の距離だ。

 

長身の、髪の長い女だった。

豊満な体を惜しげもなく見せつける、ひどく妖艶な衣装。編まれた髪の先端を手で揺らし、悠然と歩み寄る姿には尋常でない色気があった。

その髪を持つのと反対の手に、鈍く輝く大きなナイフを持っていると気付かなければ。

 

「聞いてた話で標的は二人と、追加が一人。あなたが、小さなメイドさんね」

 

「……ぁ」

 

「震えているの?大丈夫よ。――きっと、あなたの腸は綺麗だわ。未来のある子のお腹の中は、いつだって美しいものだから」

 

何を、言っているのか、わからない。

 

ただ、微笑む女が近付いてくることが、死の足音と同義なことには気付けていた。

気付けているのに、ペトラの足は恐怖に竦んで動かない。

 

細い女の手には不釣合いの大きなナイフ。

あれが振るわれるとき、きっと自分の命は無造作に刈り取られる。

なのに、

 

「いい子ね。……天使に会わせてあげるわ」

 

無情にも、震える少女に目掛けて女はナイフを振り上げた。

その刃が風を切り、ペトラの胴を撫で切る――直前、

 

「ペトラ――!!」

 

廊下の反対側から飛び込んできた大きな影が、ペトラとナイフの間に割って入り、甲高い音を響かせながら火花が散る。

正面、金色の長い髪をなびかせてペトラを庇うのは、もう見慣れた頼りになる背中。

女の人とは思えないぐらい、頼れる広い背中の持ち主は一人だけだ。

 

「フレデリカ姉様!」

 

「悪い子ですわね、ペトラ。お逃げなさいと言ったのに……あとで、お仕置きですわ」

 

「はいっ、はい!」

 

ペトラを背中に庇いながら、首だけ振り向いたフレデリカが厳しい声で言う。

悪い子、と呼ばれたことにペトラは身を震わせ、その背中に泣きそうになりながら何度も頷いた。

 

「あなたが、大きなメイドさん?本当に、ずいぶんと大きいのね」

 

そんな二人のやり取りを正面に、ナイフを防がれた女は軽く下がった位置で首を傾げる。長い三つ編みがその動きに合わせて揺れるのが、女の異常性と釣り合わずにどこか滑稽なものに思えた。

 

「体が大きいのは気にしていますのよ。多分、父の血でしょうね」

 

「そう、お父様が大きかったの。それだけ大きいのなら、きっと腸も見応えがあるでしょうね。楽しみだわ」

 

「あまり良い趣味とはいえませんわね」

 

「女の人の腸の方が、男の人のものより明るく色鮮やかなのよ。二人のものを見比べて、それを教えてあげるわ」

 

異常性ここに極まれりな女の発言に、フレデリカは両腕を前に突き出して構える。

その両手には鋭い鉤爪を備えた手甲を装備しており、女の最初の一撃を防いだのはその武器によるものだろう。

大きく力強い体格を活かした、フレデリカらしい武器と言えるが――。

 

「口惜しいですけれど、相当にできますわね」

 

「あなたもなかなかのようだけれど、多分、私には及ばないわ。少し前に王都で死ぬような思いをしてから、なんだか腕が上がったの」

 

「そうですの。あなたを仕留めきれなかった、その方を恨みたい気分ですわね」

 

目の前の女の力量を見取って、相対するフレデリカの額に冷や汗が浮く。

見合うだけで感じる力の差は、女が放つ尋常でない鬼気から察せられる。ただ何気なく立っているだけに見えるというのに、濃密な死の気配が女からは漂っていた。

 

いったい、どれほどの命を刈り取ればこのような鬼気がまとえるものか。

 

「ペトラ。今度こそ、お屋敷の外へ。あの女は私が引き留めます」

 

「で、でも、姉様……」

 

声を詰まらせるペトラが、ちらちらとすぐ近くの部屋の扉を見ている。

それを見ただけで、フレデリカはどうしてペトラが自分の言いつけを破ってここへやってきたのかを理解した。

だから、

 

「誰に依頼されたかは存じ上げませんが……私とペトラは、標的に含まれているようですわね」

 

「ええ、そうね。あなたと、小さなメイドさんと、あとは精霊の女の子。数には不満があるのだけど、精霊のお腹は開いたことがないから少し楽しみにしているわ。前回は一歩及ばず、見ることができなかったから」

 

「ずいぶん簡単に口を割りますのね。プロとして、失格ではありませんの?」

 

「構わないわ。あなたはすぐに口が利けなくなるし、依頼主が文句を言うようなら黙らせたらいいだけだもの」

 

「破綻していますわ」

 

頭の痛くなるような会話の交換だった。

フレデリカはこれ以上、女と会話する意味がないことを悟る。それでも、聞きたいことは聞き出せた。

 

「ペトラ。あの女の狙いは私と、あなたと、ベアトリス様です。わかりますね?」

 

「――っ、はい」

 

ペトラは涙を拭いて頷いた。

今のやり取りと、確認の言葉でフレデリカの意図を察したのだ。

 

賢い子だと思う。いい教え子でもある。死なせたくはない。

 

「行きなさい!」

 

「はい!」

 

フレデリカの声に応じて、ペトラがつんのめるようにして後ろへ走り出す。

同時、身を翻す黒い女から何かが投じられた。風を切り、走るペトラの背中を狙うのは投げつけられた四本の投げナイフだ。ペトラの手足を見事に狙った鮮やかな醜悪さに、フレデリカは右の鉤爪を走らせてかろうじて防ぐ。

 

高い音が鳴り響き、投げナイフは全弾が弾かれる。

逃げるペトラは振り向いてすらいない。フレデリカへの全幅の信頼だ。それに、応えなくてはならない。

 

「いい子ね」

 

「ええ、自慢の子ですわ!」

 

直近へ踏み込んだ女を目掛けて、フレデリカは左の鉤爪を叩きつける。わずかに身を傾けることでそれを回避した女。が、体勢が傾いだその胴体を目掛けて、フレデリカの本命の前蹴りが射出された。

風を穿ち、壁すらも砕くフレデリカの直蹴り。ただの人間であった母と違い、フレデリカの父はバリバリの戦闘系の種族の血を引いたハーフだった。自分の体に流れる血を全面的に肯定することはできないが、今はこの力に感謝する。

 

直蹴りが、軽く目を見開く女の胴体をぶち抜く。女はとっさにナイフを持たない左手を前に出したが、蹴りの威力は細い腕をへし折ってなお本命を砕くのに十分――、

 

「な――!?」

 

「驚くほどのことかしら?」

 

驚愕に息を呑むフレデリカに対し、逆さの女が朱の引かれた唇を緩めてみせた。

女はフレデリカの蹴りに左手が触れた瞬間、力加減の寸分の狂いも許されない状況でありえない軽業を見せたのだ。蹴りの先端に体重をかけて、女の体が片手で倒立。フレデリカは自分の足の上に女を乗せていながら、羽毛のように軽い女に戦慄する。

 

「蜘蛛女――!」

 

「それ、この間も言われたばかりだわ」

 

心外そうな声で言って、その声に見合わぬ苛烈な斬撃が宙を走る。

月明かりを反射する銀閃はフレデリカの首を目掛けて一直線、とっさに掲げた鉤爪でそれを防ぐも、両腕で防いだはずのフレデリカの腕が悲鳴を上げた。

女は片腕、それもフレデリカよりずっと細腕にも拘わらず、尋常でない剛力。

 

火花が散り、刃同士がこすれ合う音を間近に拾いながら、フレデリカは女を乗せていた足を引き下ろし、そのまま起死回生の蹴りを逆さの女の顔面に目掛けて――、

 

「それは下策だわ」

 

鉤爪と噛み合ったままの刃――それを起点に、女の体がさらに中空で反転した。

フレデリカの蹴りの軌道に落ちてくるはずだった女は、真下を抜けるそれを悠々と見送って、反対の手が女の長い脚へと伸ばされる。めくられたスカートの下から、もう一本の禍々しい刃が覗き、

 

「鮮やかな中身を見せてね」

 

逆さまのままの女の交差する刃が、フレデリカの胴体を両断する勢いで左右から迫った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「はっ!はっ!はぁっ!」

 

階段を飛ぶように駆け降りて、小さな腕を大きく振りながらペトラは走る。

 

上の方から聞こえる甲高い音の連鎖と、フレデリカのかすかな叫び。

自分を逃がすために奮戦するフレデリカの気持ちを酌めないほど、ペトラは幼い頑なさに拘り続けるほどに愚かではなかった。

 

ただ、戦いのことなんてまったくわからないペトラにだってわかる。

あの黒い女は、とんでもない怪物だ。

 

フレデリカがあれほど恐い顔をして立ち向かっても、あの女の微笑みは小動もしなかった。力量差がわかっていないのではない。はっきりと、わかっていたのだ。

あのまま放置していては、フレデリカは殺されてしまう。

 

「べあ、とりす様なら……!」

 

この屋敷にいるという、もう一人の存在。

あの黒い女はどうやら、レムの存在のことは知らなかったらしい。もちろん、レムが見つかれば彼女もあの女の標的に加えられてしまうとは思うが、それでもペトラやフレデリカがみだりに触れ回らない限り、レムの存在には気付けまい。

 

「ここ……違う、こっちは!?」

 

下の階に降りて、ペトラは手当たり次第に近くの扉を開けて中を確認する。

信じられない話だが、ベアトリスはこの屋敷の中で移動する部屋に住んでいるという話だ。屋敷の中にあるいくつもの扉、その扉を開けていけば、いずれは辿り着ける部屋に住んでいるのだと。それだけの力を持った魔法使いなのだと、そう聞いていた。

 

その魔法使いの力が、今のペトラには必要だった。

そんな存在がいるのなら、きっとフレデリカを助けてくれる。あの黒い女をやっつけて、このペトラの夢の屋敷を守り抜いてくれる。

 

「いない……ここにも、いないよ……ねえさま……!」

 

息が切れて、その場に崩れ落ちてしまいそうになりながらペトラは涙をこぼす。

使用人棟の、手近な扉は全て開けた。なのに、ベアトリスの部屋はペトラの前に姿を現してくれない。フレデリカと女の戦いが、始まってどのぐらい経っただろうか。

早く、早くしないといけないのに。

 

「ねえ、さまぁ……」

 

走り出さなくてはいけないのに、ペトラの足は動いてくれない。

握りきれていない手で何度も足を叩き、ペトラは委縮した心を奮い立たせようとする。でも、足りない。勇気が出ない。希望は今にも、枯れ果ててしまいそうだ。

 

「――スバルぅ」

 

弱さに心を支配されたとき、縋るように出た名前は、ここにはいない人の名前。

ペトラにとって、この世で一番、勇気を持っている人の名前だった。

 

震える足を叱咤して、勝てない相手にも立ち向かう、勇気を持ったすごい人。

ペトラや村のみんなが本当に危なくて、死んでしまいそうなとき、助けてくれるみんなの救世主――その名前を、呼んでしまう。

ここにその人が、いないとわかっていても。

 

「スバル、スバル……助けてよぉ、スバルぅ」

 

「おし、わかったぜ、ペトラ」

 

「――ぇ」

 

泣きじゃくりに、顔を覆っていたペトラは、その声に思わず顔を上げた。

涙でぼやけた視界、すぐ目の前に誰かが立っている。

 

その人物は、しゃがみ込むペトラのために床に膝をついて視線を合わせると、

 

「遅くなって悪い。でも、助けにきた。……無事でよかった、ペトラ」

 

見知った目つきの悪い顔で、その人は困ったような笑みを浮かべてくれている。

精一杯、ペトラを安心させようとしてくれているその顔が全然優しくなくて、だからペトラは心の底から安堵してしまった。

 

「スバル……なの?きて、くれたの?」

 

「俺だし、きたよ。もう大丈夫だ」

 

安心させるような彼の頷きに、ペトラは手を伸ばす。

頬をペタペタと触れて、そのまま前のめりに体重を預けると、支えてくれた。

 

幻影でも、夢でもなく、確かに彼はここにいる。いてくれる。

そのことの安堵を噛みしめたい。――けど、そんな暇は今はどこにもなくて。

 

「スバル……フレデリカ姉様が、上で女の人と戦ってるの」

 

「フレデリカが?」

 

「黒くて、大きなナイフを持ってる人で……なんだかすごく、怖い人で」

 

「黒くてでかいナイフ持ってるおっかない女か……ああ、知ってる」

 

ペトラの言葉に顔をしかめるスバル。

どうやら脅威度を共有できているようだと納得して、ペトラはスバルの腕を引く。

 

「お願い、フレデリカ姉様を助けて!スバル、やっつけて!」

 

「よっしゃ、俺に全部任せとけ!って言いたいとこだけど、フレデリカの勝てない相手に俺が突っ込んでも一瞬で死体になるだけだよ!」

 

「――――っ」

 

一瞬、その答えにペトラの胸に絶望が広がりかける。

しかし、スバルはそんなペトラの頭を大きな掌で優しく撫でて、

 

「だから、俺の代わりに超強い援軍を送り込んでおいた」

 

スバルは階上を見上げるように視線を向け、そこで繰り広げられる光景を想像する顔。それはどこか、不安と安心とがない交ぜになったもので。

 

「再会の場面にしては、ちょっと邪魔者が邪魔すぎる夜だけどな」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

胴体から真っ二つになると、フレデリカは確かな事実としてそれを受け入れかけた。

 

「ちィっと悪ィがなァ……てめェ、お呼びじゃァねェんだよ」

 

鋼が鋼と打ち合う軋る音が響き渡る中、その声はご機嫌な不機嫌さを伴っていた。

矛盾しているようだが、事実なのだ。

 

声の主は機嫌よく高揚していながら、同時に目の前の相手に不愉快さを感じている。

それも、当然と言えば当然だろう。

 

「あなた……」

 

「いつまで逆さまッの状態で乗っかってやがんだ、あァ!?――ぶッ散れ!」

 

両腕の刃を止められた状態でいた女のど真ん中に、突き上がる蹴りが直撃。くの字に折れて吹っ飛ぶ女を見送り、男は上げた足を下ろしながら両腕を打ち合わせた。

 

その両腕には銀色の輝く盾が、しっかりと装着されている。

片手盾を両腕に、拳を覆うような形で装備しているのだ。

 

「大将の話じゃァ、『攻撃は最大の防御』って言葉があるらしい」

 

言いながら、男は鋭い犬歯を剥きながら、歯を噛み合わせて音を鳴らす。

 

「じゃァよォ。防御する盾で攻撃でッきるようにしちまやァ……最大の攻撃と最大の防御が同居して、最大二つで最強なんじゃァねェか?」

 

それは頭の悪い、子どもが考えたような理論だった。

だが、その男はその子どもの考えた理論を実践し、二つの盾を武器にしている。

 

足を開いたスタンスで、正面の相手を油断なく睨みつけながら、短い金髪を逆立てた男は首だけでちらとフレデリカを振り返り、

 

「そう思わねェかよ、姉貴――って、でかァ!?」

 

途端、それまでの一角の戦士の雰囲気を保っていた態度が粉砕される。

男――否、少年は目を見開き、驚きを露わにしながらフレデリカを上から下まで眺め、

 

「ちょ、本気か!?これ姉貴か!?俺様の知ってる姉貴ァ、もうちょい小さくてもうちょい細くて、もうちょい口元穏やかだったはずじゃァねェか!?これじゃ、姉貴ってより兄貴って言った方が……おごァ!?」

 

「失礼なこと言うんじゃありませんわ」

 

じろじろと人のことを見ながら無礼を叩く少年を、フレデリカの膝が打ち抜いた。

脇腹を叩かれた少年が床に転がり、よろよろと立ち上がる。そのふらつく彼の顔を見ていて、フレデリカは気付いた。その額の、白い傷跡に。

 

「ガーフ、ですの?」

 

「そういうそっちァ、フレデリカでいいのかよ……信じられねェ……ぐえ!」

 

「姉を呼び捨てにするんじゃありませんわ」

 

立ち上がる動作の途中、背中に肘が叩きつけられてガーフィールは悶絶。

その悶える姿に、幼い頃のことを思い出す。『聖域』には遊び道具なんてものはなく、お互いの肉体を使って退屈を紛らわす他になかった。

フレデリカは飛びかかってくるガーフィールを、年の差九つということを考慮せずに放り投げたりしたものだ。そのときと、まるで変わらない。

 

「いいえ。ガーフ……大きくなりましたわね」

 

「今の姉貴に言われると嫌味にしか聞こえねェなァ、オイ!言っとくがなァ、俺様ァまだまだこっからでかくなる!いつまでもつむじ見下ろしてられッと思うなよォ!」

 

「ふふふ、訂正しますわ。体は少し大きくなっても、器は小さいままですわね」

 

「んだとォ!?」

 

牙を剥き、フレデリカの言葉に物申すガーフィール。そんな弟との十年ぶりの直接のやり取りを経て、フレデリカは信じられないほどの幸福感に満たされていた。

まさか『聖域』の外で、こうしてガーフィールと言葉を交わせる日がくるとは。

 

――きっと、『聖域』へ赴いたうちの誰かがうまくやってくれたのだ。

 

ラムか、エミリアか、あるいはスバルか。いずれかの、誰かが。

 

「あと、オットー様がいましたわね」

 

「ハッ、あの兄ちゃんもいちいち報われねェ。『ミグルド族の橋が落ちるのはいつものこと』って考えると、まァそういうもんって気がするけどなァ」

 

灰色の髪の青年の、落ち込んだ顔が目に浮かぶようだ。

姉弟で揃ってそんな結論に達する頃、ふと暗がりの廊下の奥から、

 

「それで、そろそろ私は行動に移ってもいいのかしら?」

 

「わざわざ待ってるたァ、気の回るとこもあんじゃねェか。なんならそのまま、仕事のことなんざ忘れッて帰っちまえよォ。俺様も女なら殴りたかァねェ」

 

「あら、優しいのね」

 

虫を払う仕草で遠ざけようとするガーフィールに、女が嫣然と微笑む。

フレデリカは油断だらけのガーフィールの背を叩き、

 

「ガーフ。あの女を、見た目通りの女と思っては痛い目を見ますわよ」

 

「わかってらァ、尋常じゃねェよ。それによォ、俺様が本当の意味で女扱いしてやんのァこの世でラム一人だけだぜ」

 

「それ、格好いいと思ってるなら全然格好よくありませんわよ。ラムに鼻で笑われますわ」

 

「んだとォ!?」

 

呆れた顔のフレデリカに、ガーフィールが憤慨して振り返る。

 

――次の瞬間、女の手から凄まじい速度で銀色の円盤が投じられた。

 

円盤。否、それは円盤ではなく、高速で縦回転する大振りのナイフだ。視認速度の限界を超えた弾速は音を風切り音を置き去りにガーフィールに迫り、その頭部を割って鮮血を弾けさせようとする。

 

「あのなァ」

 

「――――」

 

金属同士の擦過音と、目が痛くなるほどの火花の炸裂。

襲いかかる刃は掲げられた右の盾の表面を削り、巧みな角度変化によって真上へと跳ね上げられた。飛ぶ刃は天井にその先端が突き刺さり、それを見届けもせずにガーフィールの体が真っ直ぐに正面へ滑走、床上を滑るように女に迫り、左の盾が振り上げられる。

 

「俺様ァとっとと帰れって、ちゃァんと言ったからなァ?」

 

「ええ、その答えがこれよ」

 

拳が振り抜かれる寸前、軽く後ろへ下がる女が左腕を勢いよく引いた。

次の瞬間、ガーフィールが弾いて天井に突き刺さっていた刃が引き抜かれ、戻る勢いで再び回転してガーフィールを背後から襲う。

刃の柄尻には紐が結いつけられており、それが女の持つもう一本のナイフと繋がっていたのだ。

 

「ガーフ!」

 

その脅威に気付き、フレデリカが声を上げるが間に合わない。

刃は回転しながらガーフィールの半身、今にも女へ叩きつけられる寸前である左腕を断ち切ろうと迫りくる。だが、

 

「――しゃらくせェ!!」

 

「――!?」

 

フレデリカの声が届くか否か、そんな刹那のタイミングでガーフィールが叫ぶ。

直後、振り抜かれるガーフィールの左腕が爆発的に肥大する。金色の体毛をまとい、まるで丸太のような太さに変貌したそれは、人のものではありえない獣の腕だ。

さしもの女も、これには動揺を双眸に浮かべる。

 

「ッらァァァァ!!」

 

気合い一閃、ガーフィールの左の拳が盾ごと女の胴体をぶち抜く。

当然、回避に欠片も気を払わなかったガーフィールの左腕に背後からの刃が突き刺さるが、それは太く成長し、針金のような体毛を備えた獣の腕を断ち切れない。

 

「――うぅ!?」

 

「吹っ飛べやァ、黒女ァ!!」

 

肉を削られる痛みもなんのその、ガーフィールは振り抜く勢いで女を吹っ飛ばし、女は威力を殺すこともできずに地面に叩きつけられ、そのまま弾んで転がっていく。

転がる女を見ながら、ガーフィールは左肩に突き立つナイフを引き抜いた。柄尻の紐を牙で噛み切り、ナイフを手近な窓から外へと放り捨てる。

 

「はァ!『クルガンは腕をなくしても敵を仕留めた』ってやつだ!俺様が痛いのにビビって縮こまると思ったら、大間違いだ、バァカ!」

 

「馬鹿はあなたに決まっていますわ!!」

 

「あだァ!?」

 

勝ち誇るガーフィールの後頭部を、姉の拳が打ち抜く。

打たれたガーフィールはしゃがみ込み、思わぬ折檻に抗議の目を向けるが、

 

「あんな体を傷付けるような戦い方して……お婆様が見たら泣きますわよ」

 

「う、ぐ……べ、別にババアにどう思われようと知ったこっちゃねェし……」

 

「お婆様に対してなんて呼び方していますの!?私はガーフをそんな風に育てた覚えはありませんわよ!?」

 

「四歳ぐれェからいっぺんも会ってねェのに、久々の再会でこんだッけやってきやがる姉貴の方が俺様にゃァ信じられねェよ!……と」

 

痛いところを突かれて形勢不利だったガーフィールが息を詰める。その反応にフレデリカもつられて前を向けば、ゆらりと立ち上がる黒い影。

 

女は静かに体を持ち上げると、握ったままのナイフを手の中で回転させて、口の端を滴った血を指ですくって舐めとった。そして、恍惚の笑みを浮かべる。

 

「――いいわね、あなた。とてもいいわ。すごく、活きのいい子ね」

 

「俺様も正直、今のが入ってすッぐに立ってくっとは思ってなかったぜ。悪ィ、ちっとばっかし舐めてかかった」

 

血を舐めながら微笑む女と、手を合わせて謝るガーフィール。

人智を超えた殺し合いをした仲とは見えないやり取りに、フレデリカは一瞬だけ時の経過を忘れた。

が、すぐに気を取り直したように首を振ると、

 

「ガーフ!とにかく、どこか得体の知れない女ですわ。油断も容赦もせずに……」

 

「わァってるっつの。それッよりよォ。姉ちゃ……姉貴ァ、レムって女は知ってっか?」

 

「……?ええ、屋敷にいますわ。その、ラムの妹と聞いてますけれど」

 

その点に関してはフレデリカも確証がないのだ。

ラムを幼い頃から知っているフレデリカの記憶に、その妹の存在はない。ただ、スバルにラムの妹であると説明されたレムは、驚くほどにラムと瓜二つの少女だった。今も眠り続けている少女は、魔女教の被害にあった影響で皆の記憶から消えているのだと。

 

「ラムに似てんのかよ?」

 

「そっくりですわ。だからって、代わりにするのは許しませんわよ」

 

「んなクズすぎる真似ァしねェよ。確かめたかっただけだ。――そうかよ」

 

姉弟の会話の最中、女は軽く手足を回して自分の体の調子を確かめている。

こちらの会話の時間を持たせてくれているのか、よく考えのわからない女だ。

ともあれ、

 

「この階のどっかにいるってんなら、姉貴が隙見て連れ出してくれや。俺様ァ、多分あいつの相手で手いっぱいだッからよォ」

 

「な、何を言いますの。私も戦いますわよ。二人がかりならもっと優位に……」

 

「それはどうなのかしら?」

 

一人で戦おうとするガーフィールをフレデリカは止めるが、女の声が割り込んでくる。フレデリカが厳しい目を女へ向けると、女は刃の先端で口元を隠して、

 

「恐い顔をしないでほしいわ。それに、私の言うことが的外れでもないのはそちらの弟さんが証明してくれると思うのだけれど」

 

「……ガーフ?」

 

女の言葉に訝しむように眉を寄せ、フレデリカが弟の名を呼ぶ。

その声にガーフィールは両手の盾の角度を直しながら、

 

「悪ィな、姉貴。後ろを気にッしたまんまでやれるほど、温い相手じゃァねェ」

 

「な……!」

 

足手まとい、と断言されたことにフレデリカは絶句する。

もちろん、自分の技量があの女に遠く及ばないことは認めるが、それでも足を引っ張ると言われるほどに力になれないとされるのは屈辱だった。

 

「と、勘違いすんじゃァねェよ、姉貴。別に姉貴が足手まといって言ってんじゃァねェ」

 

「……では、なんと?」

 

「俺様とあいつが本気でやったら、周りがメッチャクチャになるって言ってんだ」

 

ガーフィールが己を指差し、それから女に指を向けると、女はその言葉を肯定するように愉しげな表情。長い三つ編みの先端を手で弄び、前屈みになってみせる。

 

「そうね。……だからあなたは、下がっていた方がいいわ」

 

「――――」

 

本物の強者だけがわかり合う、兵の感覚。

自分がその域にはるかに及ばないことを理解して、フレデリカは悔しさに身を焦がす。

十年ぶりに再会した弟に対して、何の力添えもできないなんて。

 

「つッまんねェこと考えてんじゃァねェぜ、姉貴よォ」

 

「ガーフ……」

 

「俺様の両腕を見ろや。この盾ァ、ガキの頃ッに姉ちゃんと俺で遊んでたやつだ。俺様の今の強さの出発点は、姉ちゃんと一緒に走り出したッことだ」

 

ガーフィールの言葉に、フレデリカは目を見開く。

気遣うような、慰めるような、それとも違う感情を交えたような声音に、フレデリカは離れていた弟の確かな成長を感じた気がして胸が熱くなった。

 

「大将ァ、数の力で俺様をぶちのめしやがったがなァ。生憎、極限状態じゃァまた話が変わってくらァ」

 

言いながら前に踏み出し、ガーフィールは盾を、牙を、打ち鳴らし、噛み鳴らす。

そして、

 

「かかってこいや、黒女。『聖域』の外に出た祝いだ。手始めに、最初の壁ってやつを俺様が完膚なきまでにぶっ壊してやらァ――!!」