『精神の死』


 

――怒りの臭いがする。

かぐわしく、芳醇で、純度の高い怒りの臭いがする。それがたまらなく、この細く小さな体を掻き回し、高みへ押し上げてくれるのがわかった。

 

「ははァッ」

 

螺旋階段の上下で向かい合い、バテンカイトスはラムの啖呵に陰惨に嗤った。

薄紅の瞳に強い感情を宿した少女、彼女がこちらへ向けている憤怒や憎悪、殺意といった感情を胸一杯に吸い込んで、バテンカイトスは恍惚感を味わう。

言葉を選ばず言うなら、この一息のために生きていると言っても過言ではない。

 

「いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃない。そんな風な怒り顔、俺たちに向けてくれる人って普段はいないからさァ。すごい貴重な感覚なんだよねェ。わかる?わかるかなァ、今の僕たちの嬉しい気持ちがッ!」

 

弾む気持ちの表現に地団太を踏んで、バテンカイトスは舌なめずりする。

そう、この感情との邂逅は、普段のバテンカイトスには決して望めないものだ。

『暴食』の権能で奪われた『記憶』や『名前』は世界から剥がれ落ち、ロイやルイ以外には認識することすらできなくなる。

大切な人を失った悲しみも、奪われた怒りも、空っぽの喪失感も、何もかもがすっかり消え去ってしまって、どうにもならなくなる。

 

「それで当然、そんなの当たり前。だから、気にしたことなんてなかったけどさァ」

 

嫌われ者の魔女教として活動していれば、所属に憎悪を向ける人間とは幾度も出会う。だが、ライ・バテンカイトスの所業を知って、ライ・バテンカイトス個人に対して憎悪を抱き、ライ・バテンカイトスを殺そうと狙うものはいなかった。

そんな、『暴食』の権能の生み出す当然の摂理、当たり前の不文律が、覆る。

 

――『暴食』の権能の影響を受けない、第三者の存在が浮上したことで。

 

「ナツキ・スバル……ッ!」

 

ルイの執着した男の名前を呟いて、バテンカイトスは薄い胸の奥に甘い疼きを得る。ルイに感化されたわけではない。それ以前から、彼のことは知っていた。

ルイよりもはるかに前から、ずっと強く深く、彼のことは想っていた。

それは――、

 

「――姉様も、わかってくれるんでしょォ?」

 

この胸の甘い疼きの原因と、こちらを見下ろしてくる少女との関係は深い。――否、深いどころではない。一心同体、かけがえのない一人、半身といって差し支えない。

そんな彼女ならわかってくれるはずだ。甘く淡く、強すぎる想い。まさしく、愛憎入り混じるこの感覚と、解放を待ち焦がれる胸の疼きを。

だから、そんな確信と期待を込めて、口を半月に裂いて語りかけ――、

 

「言ったはずよ。――豚のように鳴きながら死になさいと」

 

「――っ!」

 

次の瞬間、階段を蹴って降ってくるラムの先手が、バテンカイトスを大きく後ろへ飛びのかせていた。

すんでのところで身を引いたが、突き出される杖の先端は正確にこちらの右目を狙っていた。頭を引くのが遅ければ、眼窩から脳を掻き回されていたはずだ。

 

「姉様ったら容赦なァい!今の喰らってたら、豚の鳴き真似どころか、何にもできなくなって死んじゃってたとこだからッ!」

 

「考え直したのよ。豚以下に真似されたら、豚もいい迷惑でしょうから」

 

螺旋階段を飛びのいて、段差の分だけ着地が遅れる。そのバテンカイトスへ、冷たい殺意を告げながら、ラムの猛撃が凄まじい勢いで追撃を仕掛けた。

細い体を回しながら、ラムが杖を突き、蹴りを放ち、肘鉄を穿たんと撃ち込む。バテンカイトスはそれをことごとく体捌きで避けるが、耳元を掠めた際の豪風などは、一発もらえば確実に肉体の一部の機能を喪失させる勢いがあった。

 

「ハハッ!怖い怖い!怖いけど、さァ!」

 

躊躇いなく襲いくる攻撃に際し、身躱ししながらバテンカイトスは嗤う。それは余裕ではなく、高揚だ。――否、わずかに余裕もある。

ラムの体術は大したものだ。容赦もなく、殺すことに躊躇いがない。だが、それでもバテンカイトスは悠々と避けられる。何故か。それは簡単だ。

 

「姉様がもっとすごいこと、こっちはちゃァんとわかってるからさァ」

 

バテンカイトスの内側に仕舞い込まれた数多の『記憶』。その中に、ラムを姉と慕い、彼女の無限の可能性に焦がれる情熱的なモノがある。

その『記憶』の有する、ラムへの飽くなき信頼と期待は、目の前にいるラムとの落差を悲しいぐらい正確にバテンカイトスへ伝達していた。

早い話――、

 

「――角のない姉様なんて、レムでも代替できる紛い物でしかないってことだよねェ」

 

「――――」

 

「あ、怒った?怒っちゃった?怒るんなら怒ってくれてもいいんですよ、姉様。考えてみたら、一度もちゃんとした姉妹ゲンカってしたことなかったからさァ」

 

思い出を、自らのものとしてひけらかすバテンカイトス。その言動にラムの頬が硬くなるが、彼女の攻撃の手は緩まない。

ずいぶんと、無理をしているなとバテンカイトスは内心で感嘆した。

どれほどの苦しみかは不明だが、角をなくした鬼族の肉体が自分の体を扱い切れなくなるのは有名な話だ。ラムも、延々とそのペナルティに苦しみ続けてきた。

 

何度、その苦しみを代わりたいと思ったことかわからない。

だが、同時に思ってもいた。――自分では、彼女の抱える苦しみに耐えられまいと。

角の喪失の苦痛が、その鬼の元々持っていた力に依存するのだとしたら、ラムもそれはこの世のどんな鬼にも共有できない、最大級のモノのはず。

 

だから、そんな苦しみを押して、自ら果敢に飛び込んでくる姿に称賛を。そして、すまし顔を歪めて、一生懸命に食らいついてくる姿勢に感謝を。

最高、最大、最上の美味が熟成され、芳醇に匂い立つ瞬間に立ち会えることを、いったい誰にお慶び申し上げればいいのかわからない。

 

――この美食に巡り合えた奇跡に、感謝感激雨あられだ。

 

「本当ッ!姉様ったら素敵ですッ!!」

 

螺旋階段で繰り広げられる、愛憎入り混じった殺意の舞踏。それを存分に味わい尽くしながら、バテンカイトスはラムの存在を祝福した。

そして、『記憶』の欲するままに身を傾け、逸らし、屈んで避けて――、

 

「じゃじゃーんと、反撃タイ――」

「うるさいわね」

 

杖を突き出したラムの外側に回り込み、その白い首を狙おうとしたバテンカイトス。確実に死角に入り込んだはずのこちらと、振り向くラムの視線が交錯した。

瞬間、怖気を感じたバテンカイトスは攻撃を中断、大きく横っ跳びに逃れる。しかし、その右の頬が風を感じた直後、血を噴いた。

 

「――ッ」

 

ざっくりと裂けた頬を手でなぞり、バテンカイトスは微かに息を詰める。

受けるはずのない傷だった。少なくとも、バテンカイトスの中にある『記憶』――神童ラムを最もよく知る存在に従えば、この傷を受ける未来はなかった。

それなのに――、

 

「みっともなく鳴きなさいと言ったけど、見苦しい相手の声は聞き苦しくもあったわね。これ以上、付き合い切れないから、死なすことにするわ」

 

「姉様、これは……」

 

「『記憶』を頼りにラムを評価していたんだとしたら、まだまだ評価が甘いわね」

 

べったりと頬を血で汚したバテンカイトスを見やり、ラムが自分の桃色の髪を撫ぜる。彼女は恐ろしく冷え切った流し目をこちらへ送ると、

 

「ラムの地金を暴いたつもりでいたの?だとしたらお笑いね。――ラムの可能性は無限大よ。だって」

 

「――――」

 

「――ラムは、レムの姉様だもの」

 

何の根拠もない放言、それが異常な説得力を持って響くのは、他でもない、バテンカイトスの内側にある『記憶』が姉の存在をそう捉えているからだ。

その事実を認識し、バテンカイトスは笑みを消して、忌々しげに頬を歪めた。

 

楽しくない。面白くない。わかっていない。

 

「怒りも憎悪も、さらなる美味のためのスパイスなんだよ。だけど、スパイスの味が濃すぎたり、主張が強すぎたらせっかくの皿も台無しになる。料理しない姉様には、ちっともわかんない例えだったかなァ?」

 

「そんなことないわ。何を隠そう、ラムの得意料理は蒸かし芋だもの」

 

それを鮮明に想起させる『記憶』が蘇り、腹が鳴る。

その空腹感の訴えを意図的に無視して、バテンカイトスはお遊び気分を捨てた。

 

ラムはまだ、その力の真価を発揮していない。それはつまり、半身同然の妹にすら、全てを明かしていなかったということに他ならない。

つまり――、

 

「――姉様は、妹のことも信じられない、究極の個人主義ってことだよねェ」

 

「……浅い物事の見方ね。どれだけ多くの人間の人生を味わっていたのか知らないけど、その人たちも浮かばれないわ。レムのこと以外は些事だけど」

 

バテンカイトスの食事観を否定して、ラムが薄紅の瞳を細めた。

そして、彼女は自らの薄い胸を撫でながら、

 

「せいぜい気張りなさい、バルス」

 

と、ここにはいない少年へと呼びかけ、非情の覚悟を冷たい表情に宿した。

 

「運命共同体なんて、ゾッとするけどね」

 

△▼△▼△▼△

 

砂塵を飲まないように、口元まで防塵布を引き上げ、深く息をする。

本当ならゴーグルも欲しいところだが、それは残念ながら高望み。目の中に砂粒が飛び込んでくるのを覚悟で、塵旋風の奥に目を凝らし続けるしかない。

 

「ベア子!メィリィ!しのぐぞ!」

「わかってるのよ!」「もお、人使いが荒いんだからあ!」

 

砂で霞んだ視界を横断するのは、漆黒の甲殻を纏った凶悪な存在。

接近を許し、大鋏の一撃を浴びれば命取り。距離を置いて、尾針を放つための助走を稼がれれば命取り。他にも、命取りの条件は大量にある。

敗北条件だけなら、まさしく売るほどあるのが現状だ。

 

「とはいえ、それはいつものことだからな……!」

 

ナツキ・スバルの戦いは、いつだってギリギリの綱渡りの連続だ。

『死に戻り』で先のことがわかっているのに息苦しいのは、持ち得る能力と、相対する敵の強大さがあまりに釣り合っていないからだ。

手札が足りないのはいつものこと。みんなの力を信じて、臨機応変に戦ってくれることを期待しながら、スバル自身もみんなの期待に応えるべく奮戦する。

 

「これ、俺の戦いってより、俺と愉快な仲間たちの戦いだな!」

 

「言ってる場合なのお!?もお!頑張ってえ、餓馬王ちゃん!」

 

スバルの益体のない叫びを受け、隣を並走するメィリィが魔獣――餓馬王へ命じる。

ケンタウロスを模した魔獣は赤子の鳴き声を上げながら、二頭がそれぞれ、スバルとベアトリス、メィリィを乗せて砂海を全力で駆け抜けていた。

そして、その猛然と砂を蹴る背中へ追い縋るのが、多くの足で砂を掻き、砂塵を巻き上げながら襲いかかる大サソリだ。

 

「――ッッ!」

 

先の感覚通り、距離を取れば尾針が、近付けば大鋏が、こちらの命を狙ってくる。つかず離れずの距離を保ちながら、相手の攻撃に対処する形だ。

数えた敗北条件と比べ、こちらに許された勝利条件は、遅滞戦闘の果ての変化。エミリアが塔の一層を攻略し、提示されたルールを書き換えるのを待つというものだ。

事実として、それが可能なのかどうかすら確定していないが――、

 

「それができないとしたら、そもそも塔の決まりに組み込まれてるのがおかしいかしら」

 

「イグザクトリーだ、ベア子。わざわざ、ルールに『決まりを壊してもいいよ』って断ってるってことは、このルールは壊されることを前提にしてるってこと」

 

そしてそれが可能だとしたら、塔の攻略者への褒美といったところだろう。そう考えれば、正当な手段でクリアしたものにだけ与えられる権利。

エミリアが、真っ当にレイドを突破してくれていて本当によかった。彼女が勝利してくれていなかったら、シャウラを救う手立ては指を掠めもしなかったろう。

 

「エミリアたんにセクハラしたあいつは、絶対に許さねぇけど……!」

 

思い返すに腹立たしい出来事だったが、レイドへの報復はユリウスに投げてある。

彼があの暴力男をコテンパンにしてくれることを期待しつつ、スバルは長大な監視塔を視界に入れ、ベアトリスとメィリィの奮戦に身を委ねていた。

 

「お兄さん!ここだと身動き取りづらいわあ!もっと塔から離れた方が、魔獣ちゃんたちが暴れやすいと思うんだけどお!?」

 

「ぐ……!お前の言い分はわかる!わかるんだが、無理だ!俺は塔から離れられない。これ以上離れると、わからなくなる!」

 

メィリィの訴えを却下するスバルは、自分の胸元を掴んで奥歯を噛んだ。

『コル・レオニス』の効果は継続し、今も塔内にいる仲間たちの居場所は淡い光となってスバルの把握できる圏内にある。しかし、まだまだ未知数な部分の多いこの権能は、何が切っ掛けとなってほどけるかわかったものではない。

権能の効果として、一番わかりやすいのはやはり距離だろう。

現に、アウグリア砂丘の外にいる仲間たちの居場所まではスバルに感じられない。それが距離を原因としているなら、監視塔からどれだけ離れられるか。

 

仲間たちの居場所を、その安否を確かめられなくなるのも怖い。

だが、最大の問題は安否確認よりも、負担の肩代わりができなくなること。エミリアやユリウスといった、大変な戦いに身を躍らせるものたちは当然だが、それ以上にスバルの心を鷲掴みにして離さないのは、敵討ちに臨んでいるラムだった。

 

「――――」

 

それぞれ、仲間たちを最適な場所へ配置した自信はあるが、中でもラムの戦いが過酷になることは最初から予想されていた。それは、彼女の相手がライ・バテンカイトス――レムを『眠り姫』にした張本人であり、ラム自身のコンディションもあるからだ。

万全なラムでなくては、ライ・バテンカイトスには対抗できない。

その上で、ラムには思う存分、バテンカイトスを打ちのめしてほしい。そのためには、常日頃彼女を苦しめている負担をスバルが肩代わりする必要があるのだ。

だからこそ――、

 

「迂闊に塔からは離れられない!ハンディ戦ばっかで悪いが、付き合ってくれ!」

 

「~~っ!こんなの、絶対の絶対、あとでひどいんだからあ!」

 

スバルの訴えに唇を結び、顔を赤くしたメィリィが餓馬王の背中で叫ぶ。

そのまま、少女は空を睨みつけると、高い高い蒼穹を旋回する存在へ手を叩いた。

 

「羽土竜ちゃんたち!出番よお!」

 

甲高い命令を受け、空を飛び回る小型の影が砂海へ急降下してくる。それが砂上の大サソリを狙うのを見て、スバルはとっさに「ベア子!」と声を上げ、

 

「あいつらに合わせてくれ!」

「――っ、わかったのよ!『ヴィータ』!!」

 

スバルの狙いを察して、ベアトリスが小さな掌を空へ掲げる。

詠唱の効果が発動し、しかし、その狙いは大サソリの方ではなく、大サソリを目掛けて落ちてくる羽土竜たちの方だった。

落下する羽土竜の進路、そこに生じる淡い光の輪――羽土竜がその輪を潜った瞬間、光を纏って小型の魔獣が加速する。

 

「――――」

 

穿つ衝撃が大サソリの外殻に突き刺さり、激しい音が響き渡った。

ここまで、羽土竜の吶喊をそよ風のように受けていた大サソリが、無視できない威力の直撃に複数ある足を止める。

 

「今のって……ベアトリスちゃん、何したのお?」

 

「お前の操る魔獣を、ぶつかる前に重くしてやったかしら。速さと硬さは変わらないけど、重くなるだけで結果は変わるのよ」

 

メィリィの驚きにベアトリスが答える。

羽土竜の突然の強化の背景はそれが答え――威力は、重さと速度の掛け合わせだ。

その強靭な角で土中をも潜行する羽土竜、空と地下を自在に飛び回る魔獣の命懸けの突撃は、信じ難い破壊力で大サソリの足止めを敢行した。

 

大サソリの対応力は見事なものだが、初見の攻撃にまで満遍なく対応できるわけではない。そして、その反射的な対応力を上回るため、スバルは頭をフル回転させる。

 

「魔獣には悪いが、命と時間のトレードオフだ。使える魔獣の数と種類は豊富、ベア子のアシストがあれば可能性は無限大……!この方法なら――」

 

やれる、と確かな手応えがスバルに拳とベアトリスの髪を握らせる。その手の中で、ベアトリスが「痛いかしら!」と抗議の声を上げた。――その瞬間だった。

 

「――あ?」

 

時間稼ぎを引っ張りたい目算で、監視塔を見上げたスバルが声を漏らす。

その空虚な声を聞いて、ベアトリスが「スバル?」と振り向くが、答えられない。

スバルの意識が持っていかれたのは、監視塔の見えている外側ではなく、内側――淡い光を各所に感じる塔内、仲間たちの反応が原因だ。

 

おそらく、激しい戦いを繰り広げていると思しき面々、そんな中から一つの反応が消えていた。――頂上へ向かう、エミリアの反応だ。

 

「――――」

 

瞬間、スバルの心臓が爆ぜるように強く打った。

エミリアの反応が消えた事実、それがひどくスバルを混乱させる。まさか、今の一瞬でエミリアが失われたと、そんなことがあるはずが――、

 

「――ッ、落ち着け、馬鹿野郎」

 

目の前が暗くなりかけたのを、己を叱咤して引き止める。

現実に絶望するのは早い。もっと、『コル・レオニス』の能力を信じるべきだ。その発祥が最悪な男からでも、芽生えたての力だろうと、この権能は味方なのだ。

 

ここまでの『コル・レオニス』の反応から、淡い光の光度や温もりの強弱は、仲間の状態を示していると考えられる。

激しく昂っていれば色や光の強さは変わる。逆もまた然りだ。

ならば、エミリアの反応が消えたのは、彼女の『死』を意味するのだろうか。

 

「だとしたら、反応が消える速度が一瞬すぎる」

 

仮に、エミリアが存在を一瞬で消滅させるような恐ろしい敵と遭遇したのだとして、その敵の手にかかったのだとしても、無抵抗に消えるなんて思えない。

思えないし、思いたくない。信じている。だから、これはおそらく、別の問題だ。

 

監視塔を駆け上がり、一層へ向かったエミリアの身に、『コル・レオニス』の影響の範囲内から抜け出すような出来事が起こった。

それ故に、エミリアの反応はするりと一瞬でスバルの知覚から抜け落ちたのだと。

そう思わなくては――、

 

「スバル!」

「お兄さん!呆けてる場合じゃないわよお!」

 

頬肉ごと奥歯を噛みしめ、痛みで自分を律するスバルを二人の幼女が呼ぶ。

それを聞いて、スバルは「わかってる」と己と、彼女たちへ聞こえるように応じて、

 

「どこで、何と相対してるかはわからない。でも、戻ってくれるのを信じてる」

 

△▼△▼△▼△

 

――はるか眼下の砂の上、スバルが祈りの言葉を口にしたのと同じタイミング。

 

何と相対しているかわからない、とスバルは考えていたが、そんなスバルの想像力でもエミリアの置かれた状況までは読み解けなかっただろう。

スバルの指示に従い、プレアデス監視塔のルールを書き換えるために一層へ向かったエミリア――彼女が遭遇したのは、青く輝く鱗を纏った強大な存在。

 

このルグニカ王国において――否、世界でその名を知らないもののいない存在。

『嫉妬の魔女』が恐怖の象徴だとすれば、それは希望や信頼の象徴と言うべきだろう。それほどの功績を、この存在は世界に対して積み上げ続けてきたのだから。

その、強大にして偉大な存在の名前は――、

 

「――『神龍』ボルカニカ」

 

名乗られた名前を反芻し、エミリアは自分の全身がさっと冷たくなったのを感じる。

こう言ってはなんだが、エミリアは緊張とは無縁の体質だ。もちろん、人前に立たされたり、大事な話をするときには少しだけ体が重く感じることはあるが、いざ実際に行動に移してみれば、それらの影響はすぐに忘れてしまえる。

よくよく、スバルやラムには大物だと褒められていたものだ。

 

だが、そんな大物であるエミリアをして、『神龍』の前では身動きを封じられた。

呼吸さえ、相手の許可なくしてはいけないのではないかと思わされる。それほどに、本物の龍の存在感は突出して、世界を掌握してしまっていた。

 

「――――」

 

息を呑みながら、エミリアはそのボルカニカの全身を改めて見る。

青く、深い色味を帯びた鱗は宝石のように煌めいていて、一枚一枚が鍛え上げられた宝剣よりも鋭いもののように思われた。

太い前足と後ろ足には黒々とした岩のような爪が備わっていて、地竜とよく似た顔つきには長命を感じさせる、信じ難い年月を見つめてきた黄金の双眸がある。その頭部には二本の太く大きな角が生えており、搾りたてのミルクのように白い。

『神龍』の体躯は十五、六メートルはあるだろうか。立ち上がらず、その場に翼と尾を畳んで蹲っているため、正確な大きさはわからない。しかし、その状態でこれだけ大きいのだから、塔の中に収まり切らないのも当然だ。

一層が開けたところに作られているのも、ボルカニカのために違いなかった。

 

「……三層が『賢者』で、二層がレイド、それで一層がボルカニカ」

 

『――――』

 

「もしかして、大昔の三英傑が全員、塔の『試験』に関わってるの?」

 

ここまでの『試験』の内容を振り返り、エミリアはそこに共通点を見出した。

『三英傑』――かつて、『嫉妬の魔女』の封印に尽力し、ルグニカ王国の歴史に残った三人の英雄たち。シャウラとレイド、それにボルカニカがそうだ。

もっとも、シャウラは実際にはフリューゲルの功績だと言っていたし、レイドはとても乱暴で口が悪かったし、ボルカニカは人ではなく龍だ。

それでも、全員がここに関係しているのなら――、

 

「何百年経っても仲良しなんて、すごーく素敵ね」

 

約束や結束、そういったものが三人の英雄たちを繋いでいるなら、それはなんだかとても素敵なことにエミリアには思われた。

元々、ボルカニカはルグニカ王国との『盟約』を交わした存在であり、実際、何十年も前に黒竜がルグニカ国内で暴れたときにも、その力を振るったと記録にあった。

 

エミリアは、約束を重要視する存在が好きだ。

ちゃんと約束を守れることはとてもいいことだと思っている。スバルのことはとても大切だし、信頼しているが、約束を守ってくれないところはダメダメだと思っていた。

あんな調子で、ベアトリスが真似するようになったらどうするのか。

エミリアも、スバルとベアトリスの二人を約束破りで叱りたくはないのだ。

 

「あ、いけない。そんなこと考えてる場合じゃなかった。……あのね、ボルカニカ!私は『試験』を受けにきたの!一層の『試験』!それに挑むわ!」

 

『――――』

 

「どんな大変な『試験』かわからないけど……でも、大急ぎでお願い!私が頑張らないとスバルたちが困ったことになっちゃうの。何でも、どんとこいよ!」

 

自分の頬を両手で叩いて、エミリアは竦みかけた気持ちを立て直した。

図らずも、スバルやベアトリスのことを思ったことが切っ掛けになった。あの二人が約束を破ってエミリアに叱られるとしても、それは明日以降の未来の話。

その未来を迎えるためには、ここでエミリアが踏ん張る必要があった。

 

『――――』

 

沈黙する『神龍』は、その黄金の色をした瞳でじっとエミリアを見つめている。

誇張抜きに、吸い込まれてしまいそうなほどの深みを感じる瞳だ。

『嫉妬の魔女』と戦い、ルグニカ王国と盟約を結んだのが四百年前――だが、この偉大なる龍が生きてきた年月は、その四百年よりもはるかに長くへ及んでいよう。

それこそ、千年に迫るかもしれない年月、あの双眸は世界を見つめてきた。

そんな『神龍』に、エミリアの存在がどんな風に映るかはわからない。わからないが――、

 

「私、誰かに点数を付けられるのは慣れてるの。私のことをハーフエルフって理由で嫌う人も、エキドナみたいに意地悪な子もいたけど……でも、スバルやラム、ベアトリスたちみたいに、期待してくれてる子たちもちゃんといる」

 

話しながら、エミリアは自分の胸元の結晶石に指で触れた。

今も、眠り続けているエミリアの大切な家族は、そうやって色眼鏡で見られることの多かったエミリアを、一番最初に肯定してくれていた存在だ。

その家族を始めとして、この塔には、エミリアを認めてくれる仲間がいる。

 

「だから、どんな目で見られてもへっちゃらよ!」

 

一度は気圧されかけた『神龍』を前に、エミリアはそう啖呵を切った。

存在感の違いに押し潰されかけた魂も、震えて小さくなりそうだった手足も、悠久の年月を知る存在に呑まれかけたエミリアという存在も、もう負けない。

――絶対に、負けられない。

 

『――――』

 

ぐっと拳を固めて、威勢よく紫紺の瞳を輝かせるエミリア。

そのエミリアの眼差しを一身に浴びながら、ボルカニカはゆっくりと瞬きした。それから、ボルカニカはその龍の顎を雄大に動かし――、

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「――――」

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

「……あれ?」

 

息を詰め、ボルカニカから出題される難題に身構えていたエミリアが、龍の息吹きを共に吐き出された重苦しい言葉を聞き、首を傾げる。

その内容に、聞き覚えがあったからだ。

 

「あの、それってさっきも聞かせてくれたお話よね?私が一層にきた人で、あなたがボルカニカ……それで合ってる?」

 

『――――』

 

「……あ!もしかして、自己紹介をしてないから?ごめんなさい。私はエミリア、ただのエミリアよ。ちょっと、今はたまたま私のことを覚えてない子が多いから、証明してって言われると困っちゃうんだけど、でも、エミリアなの!」

 

『――――』

 

「……これでも、ダメ?」

 

挨拶を飛ばしたことが不興を買ったのかと思ったが、改めて挨拶し直してもボルカニカの反応は芳しくなかった。

これがスバルなら、最初の挨拶を抜かしたことで一層の『試験』を受ける資格を剥奪されたとまで悲観するところだったが、エミリアはそうは考えない。

悪いことがあっても、謝れば相手はそこまで非情ではないと考えるのがエミリアだ。

そのため、このときも自分の非礼がボルカニカの沈黙を買ったとは考えなかった。

エミリアが考えたのは、ボルカニカが怒っているわけではないという可能性。あるいはその場合の方が、怒っているよりもっと悪いかもしれなかった。

何故なら――、

 

「もしかして……」

 

じっと金色の瞳を見つめ返し、エミリアはおそるおそる前に進み出た。

一歩、二歩と空に近い場所で足を進め、『神龍』ボルカニカとの距離を詰める。その息遣いさえも荘厳な存在へと、エミリアは堂々と近付いた。

そして、そっと手を伸ばし、相手の前足の鱗に触れる。

 

「――冷たい」

 

触れた鱗を氷のように、あるいは冷え切った鋼のように冷たかった。

いったい、どれほどの時間を停滞して過ごせば、ここまで熱を失うものだろうか。

それは生物的な『死』を意味するものではない。長きにわたる停滞が奪うものは、肉体の活力だけではないのだ。

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「――――」

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

その前足に触れるエミリアを見下ろしながら、ボルカニカが今一度繰り返す。

再三、と言うべき頻度で重ねられる出迎えの言葉。それは、エミリアが挨拶を欠いたことを責めるためのものではなかった。

ボルカニカの、深きを見つめるその瞳は、エミリアを映しているようで映していない。

その理由は明白だ。

 

「もしかして、お爺さんすぎて『試験』のこと、忘れちゃってる……?」

 

肉体の『死』ではなく、精神の『死』が、長命の龍をも襲ったのだと。

そしてそれは、一層の『試験』を乗り越えなくてはならないエミリアにとって、あるいは一層の『試験』の本命以上の難題として降りかかるのだった。

 

大図書館プレイアデス、第一層『マイア』の試験。

制限時間『仲間たちの生存時間』。挑戦回数『不明』。挑戦者『一名』。『試験内容』不明。

 

――試験、開始。