『赤い雪景色』
――墓所からスバルが一人で出てきたのを見て、ガーフィールの敵意が肌に突き刺さるほどに高まっていた。
墓所の中と外では、やはり寒気の勢いが段違いだ。
いくらか保温性のあった墓所と比べて、極寒の『聖域』は立ち尽くすものの体温と体力を秒単位でごっそりと削り取っていく。
吹き止まない吹雪と、視界を遮り続ける白い帳。吐き出す息はそのまま凍り付いてしまいそうで、スバルは体の芯からの震えを堪え切れない。
己の肩を抱き、身震いするスバルをガーフィールが睨み付ける。
剥き出しの牙を噛み鳴らし、ガーフィールはスバルの背後に意識を向けるが、
「てめェの後ろから面ァ出すってわけじゃァなさそうだなァ、オイ」
「ああ、出てこねぇよ。エミリアは今、中で眠ってるからな」
「眠ってる、だァ?」
「疲れ果ててんだよ。二日間、目覚めては『試練』。目覚めては『試練』って繰り返してたみたいだからな。心も体も、だいぶ消耗してる。飯だって食ってねぇんだ。女の子が、無理しすぎなんだよ」
強硬に『試練』に挑み続けて、それでも『試練』を突破できなかったエミリアの心情を思うと、その悔しさと、自分への不甲斐なさは想像ができる。
それは正しく、スバルが幾度も噛みしめてきた無力感と等しいものだろうから。
「――――」
墓所の奥、『試練』の間でエミリアは幸せな顔で眠っている。
盲目的なスバルへの愛を囁き、熱い体で抱きしめ続けてくれたエミリアの体温を思い出し、スバルは血液が沸騰しそうなほどの愛情と、死にたくなるほどの悔恨に打ちのめされた。
エミリアが頬を赤らめて、声を熱情に震わせて、スバルが聞きたかった言葉の全てを、感情の全てでスバルを溺れさせようとしてくれたことを、思い出せる。
そのまま柔らかな堕落に溺れて、エミリアと一緒に沈んでしまえたらと、スバルがどれほど考えたことか。それは誰にもわかるまい。
神すらも惑わすエミリアの誘惑を断ち切って、スバルはこうして外へ出てきた。
中で眠るエミリアに、外のことを知らせるつもりはない。そしてスバルは、ガーフィールの害意をエミリアに届かせるつもりもなかった。
スバルの静かな決意と裏腹に、ガーフィールの怒りの炎は弱まる気配がない。
足元の雪を蹴散らし、ガーフィールは白い牙を鋭く鳴らせ続け、
「半魔は引っ張り出してこねェ。雪も止む気配がねェ。手土産なしの辛気臭ェ面ぶら下げて戻ってきて、それでてめェはどんな落とし前つけてくれんだァ、あァ?」
「――エミリアがな、俺のことを好きだって、言うんだよ」
「……。……。…………はァ?」
勢いに割り込んだスバルの発言が、あまりにも場違いだったからだろう。一瞬、何を言われたのかわからないという顔をしたガーフィール。しかし、すぐに自分が馬鹿にされたものと判断し、いっそうその表情を険しくして、
「状況が見えてねェなァ、どうやら中の半魔だけじゃァなくててめェもみてェだなァ!よくもまァ、こんな状況でクソふざけったのろけ話ができたもんじゃァねェか、オイ!オイ!オイ!あァ!?」
怒気が熱を孕み、ガーフィールの体に触れた雪が白い靄になって蒸発する。一回り、ガーフィールの肉体が大きくなって見えるのは目の錯覚ではなく、彼が体の状態を人間から大虎の方へ委ね始めているからだ。
それを目にしていながら、スバルの表情は揺らがない。
のろけ、と断定された言葉を口にしたときの表情のまま、乾いた目でガーフィールを見ている。
怒れるガーフィールの前で、スバルは繰り返す。
「エミリアが、俺のことを好きだって、俺さえいてくれたらいいって、言ってくれたんだ」
「――てっめェ」
「可愛い顔で、甘えた声で、震えがくるような仕草で、溶けそうなぐらい近くで、息がかかるぐらい触れ合って……言って、くれたんだ」
「だっからなんだってんだァ!あの半魔がてめェにべったりなことぐらい、ここに入ったときからわかり切ってたこったろォがよォ。思い通じ合って祝福でもされてェってんなら、俺様がわかりやすく噛み砕いて――」
罵声に唸り声が混じり始め、ガーフィールの敵意が肉体に変異を促す。そうして今にも飛びかかってきそうなガーフィールの言葉が、スバルに突き刺さる。
――もう、限界だった。
「……わけ、ねぇだろうが」
「あァ?聞っこえねェよ、もっとはっきり……」
「――エミリアが俺のことを、好きだなんて言うわけねぇだろうが!!」
「――――ッ」
顔を上げて、スバルは叫んだ。
感情の奔流にガーフィールすらも口を噤む。その怯むガーフィールを睨み、悲痛な顔つきでスバルは心を爆発させる。
墓所の中で交わした言葉を、触れ合った熱を、確かめた愛情を、かなぐり捨てる。
惜しい。惜しくないわけがない。だのに、手放し難いそれはスバルの中で、本当の意味で輝いてくれない。
その偽物の輝きに騙され続けられるほど、愚かだったならどれほどよかったか。
そこまで愚か者になり切れないところが、ナツキ・スバルの不幸なところだった。
「言ってくれるもんかよ。エミリアが俺のことを好きだなんて……俺に甘えて、俺に全部を預けて、俺さえいれば他に何もいらないなんて……絶対に」
「な、何を言ってやがんだよォ、オイ」
「あんな風に俺に依存して、俺への感情が自分の全てだなんて、言い切ってくれることなんか、絶対にない。――パックがいたんなら、そんな風に俺に浸かり切ってくれるなんてことは、絶対にないんだよ……」
エミリアの一番であれたらと、どれほど望んだかわからない。
けれど、現段階でスバルがエミリアの一番になれたと己惚れるほど、スバルは自分を評価してもいないし、エミリアを過少に見積もってもいない。
エミリアが最大の信頼を預けて、最後の最後に縋りつくのはパックなのだ。
今は、そのパックが彼女の前に姿を現さないから、その次の頼る対象としてスバルを選んでいるに過ぎない。
あの愛の告白が、熱い指先が、震える吐息が、全てが嘘であるとは思いたくない。
思いたくないが――本物では、ない。
顔を上げ、スバルはガーフィールを睨みつける。
いくらか先の激情の波が引いた顔のガーフィールに対し、今度は逆にスバルの方が牙を剥いて、
「誰があの子を、俺みたいなどうしようもない奴に縋らなきゃいけないほど追い詰めた?あんな風に、何度も何度も心を折られて……それでも、立ち止まることなんてできないって、そうやって思い悩むほど、誰が!」
「それァ必要なことだろうがよォ!てめェで選んだことだろうがよォ!それを、俺様や……『聖域』の他の連中のせいだって言うのか、あァ!?」
スバルの勢いに、ガーフィールもまた勢いをぶつけ返してくる。
吠えるガーフィールの答えに、スバルはゆっくりと首を横に振った。
エミリアを追い詰めたのが、誰か。
そんなことの答え、聞くまでもなく知っている。
「誰のせいも何も決まってる……俺のせいだ」
「――はァ!?」
「俺のせいだ。エミリアがあんなに追い詰められたのは、間違いなく俺のせいだ。俺のせいで、お前のせいで、お前らのせいだ」
「……ふざっけんな。重圧に耐えかねて、それで潰れるってんならそれがそいつの器じゃァねェか!そんな弱っちい心構えで、よくもまァ高い目標掲げたもんだって、馬鹿にされて当然じゃァねェかよ!」
「そうだな。お前の言う通りだよ。エミリアは、真っ直ぐに重圧を受け止めるには優しすぎるんだよ。だから抱え込んだもの、誰に打ち明けることもできないで、潰れちまう。――ホントは、俺がそれをしなきゃならなかったのに」
ガーフィールの怒りと向き合いながら、スバルは自分の心が、まるで周囲の白い光景と同化したように冷え切っていくのがわかる。
やらなくてはならないことが、はっきりと明文化された気分だ。
「そうだ。俺がやらなきゃいけないことだった。そのために、俺がいるんだ……お前にそう言ったのは俺だったのに、何をやってたんだかな……」
「何を勝手に納得してやがんだァ、オイ。……いや、もういい。もう、いい。てめェの戯言に付き合ってても埒が明かねェ。『モルドバの渇きは癒せない』だ。てめェにできないってんなら……」
「お前が墓所に入って、エミリアを連れ出す……か?お前に、それができるのかよ」
「……そりゃァ、どういう意味だ」
低い声の恫喝。こちらを威圧する目的で発されるガーフィールの言葉だが、それがかえってスバルの根拠のない推測を口にさせる。
「ガーフィール、お前が『強欲の使徒』だってのはもうわかってる。リューズさんの複製体を指揮する権利が、それにしかないって知ってるからな」
「――――」
「必然的にわかるのは、『強欲の使徒』であるお前は、墓所の中に入ったことがあるってことだ。……いや、『試練』を受けたことがある、の方が正しいか」
「――て、めェ」
「挑んだんだろ、『試練』に。どうしてお前がそれを頑なに隠すのかはわからねぇけどな。『聖域』の住人は墓所に入っちゃいけないって決まりのためか、そうでないなら……墓所に入ったお前を、助けるために墓所に入ったリューズさんのためか」
「――――ッ」
ガーフィールの顔色が変わる。
やはり、彼にとって家族のことは傷になる場所なのだ。悲痛に顔色が変わるのを目にして、スバルは自分の推測を喋りながら現在進行形で形作っていく。
「お前が墓所に入ったことは、フレデリカから聞かされた。リューズさんが中に入ったことも、知ってる」
「あ、の……お喋り女がァ……!こっから出てっただけじゃ足らずに、まァだ外の連中におべっか使ってやがるのかァ……ッ」
「それを、知られたらまずい相手がいるのか?そもそも、『聖域』の住人たちの契約ってのは誰と結んだもんなんだ?『聖域』を作ったのは魔女エキドナだ。なら、『聖域』の住人たちは死者との契約を守り続けてるのか?」
「それ、以上は――ッ!」
言わせない、とガーフィールが地を蹴り、風になってスバルに飛びかかる。
鉄板すら穿つ、鋭い爪が最短距離でスバルの顔面を狙い――、
「――この雪を降らせてるのは、ロズワールだ」
「――――」
核心に触れたスバルの眼前で、届く寸前だったガーフィールの爪が止まる。
唖然とした顔を浮かべるガーフィールに、スバルは頷きかけた。
「エミリアじゃない。パックもいないんだ、エミリアにはできない。万が一、エミリアがこれを引き起こしていたとしても、あの子がそのことをおくびにも出さないで俺と話したりできるわけがない」
「そ、れも……てめェの、都合のいい想像で……ッ」
「そうだな、俺が信じてるってだけだ。あの子が、自暴自棄になったとしても、そんな回り全部をダメにしちまうような、そんな癇癪を起こす子じゃないって……俺が、そう信じてるだけだ」
消去法で、といったら犯人扱いされる当人はたまらないかもしれない。
だが、決して根拠のない話ではなかった。
「お前たちを『聖域』に縛り付けてるのも、ロズワールだろ」
「それも、フレデリカから聞いたのか?」
「まさか……状況証拠と情報を整理して、あと先入観と悪印象で濡れ衣でもいいやっていう思い切りだよ。――当たってた、みたいだけどな」
「――――」
黙り込むガーフィールに、スバルは白い嘆息をこぼす。
――黒幕だと思っていた人物が、素直に黒幕だったときのなんともいえない脱力感だ。ロズワールが何事か企んでいる人物なのは明白だったが、『聖域』の住民たちをこの場所に押し込める契約を維持し、その住民たちを雪で苦しめているのは何のためなのか。考えても考えても、まともな答えは出てこない。
ならば、
「直接、その横っ面に一発浴びせにいくしかねぇよな」
スバルの決意のこもった呟きに、ガーフィールが腕を下ろす。
彼の表情にもまた、スバルと同様の強い感情がさんざめいているのがわかった。
※※※※※※※※※※※※※
「――どーぅやら、ずーぅいぶんと怒っているみたいじゃーぁないの」
宛がわれた部屋の寝台の上で、スバルとガーフィールの来訪を迎えたロズワールはそう言って、いつもの道化メイクのまま楽しげに微笑んでいた。
「そうだな。今のところ、かなーりきてる。俺はともかく、こっちが今にも飛びかかりそうなのはわかるだろ?発言、気ぃ遣ってくれよ」
入口を塞ぐように立ち、両手を広げるスバルは隣を顎でしゃくってそう告げる。そのスバルの示した先、低いうなり声を上げているのはガーフィールだ。
獣の呼吸音は、彼が最後の理性で人型を保っている証か。室内とはいえ、気温の低さは石材越しに中へ伝わる。スバルもロズワールも白い息を吐いているが、ガーフィールの呼吸だけは赤い色が付きそうなほど熱を帯びていた。
「面白い取り合わせだーぁね。確か、ガーフィールはスバルくんが戻ってきたら、縦に引き裂いてやるだーぁなんて豪語してたと思ったけど?」
「事情がちっとばかし変わっちまったかもしれねェんでなァ。それが本当に違っちまったかどうか、確かめねェことにゃァ誰を挽肉にしていいのかわかりゃァしねェ」
「ナチュラルにおっかない会話してんじゃねぇよ。ロズワールも、そんなとんでも発言を当たり前みたいに受け取ってんじゃねぇ」
『聖域』を出て屋敷に向かう際、ガーフィールとのやり取りはスバル自身にも自己嫌悪の残るひどいものだった。その屈辱を忘れていないだろうガーフィールが、ロズワールやエミリアになんと罵声をぶつけたのかは想像に難くない。
眉根を寄せるスバルにロズワールは「いやいやーぁ」と首を振り、片目をつむって黄色だけの瞳でスバルとガーフィールを見つめて、
「そうなるならそうなるで、だーぁよ、スバルくん」
「ずいぶんとまぁ、嫌ってくれたもんだな。俺は悲しいぜ、ロズっち。俺がガーフィールに食い散らかされても何とも思わないってか」
「おーぉやおや、それこそ弱気なことじゃーぁないの。スバルくんとガーフィールがぶつかって、絶対にガーフィールが勝つと決まってるわけじゃーぁないだろう?」
「俺が勝てると思ってんのか?俺の戦績聞いたら、さすがのお前も恐れおののくぜ」
なにせ、異世界召喚されてからこっち、生傷が絶えないというのにスバルが単独で、『戦い』というものに勝利した経験値はほとんどない。
路地裏でトンチンカンをぶちのめしたことと、かろうじてジャガーノートを下したことと、瀕死のペテルギウスにトドメを刺したぐらいか。
「思ったより好成績な気がしてきたけど、元気溌剌のガーフィールとやり合ったら二秒で肉の塊だ。それぐらい、自己分析できる」
「そうかな。存外、条件を整えればいい勝負になりそうだと思うけーぇどね」
瞳を細めて、スバルを上から下まで眺めてロズワールが述べる。その言葉を吟味してみても、頷ける箇所は残念ながらない。
スバルが肩をすくめる仕草でロズワールの言葉を切り捨てるのと、隣のガーフィールが床を踏み砕いたのはほとんど同時だった。
「んなこたァ今ァどうっでもいいだろうがよォ!今、話さなきゃなんねェことはもっと別のこったろうが、あァ!?眠てェのか、てめェら」
部屋の中央に踵でクレーターを作り、ガーフィールは歯を剥き出してスバルとロズワールに罵声を飛ばす。
本題に入る前の、軽い牽制が直情径行の彼にはお気に召さなかったらしい。もっとも、スバルにとっても慣れない上に似合わない腹芸というやつだ。
ガーフィールの意見に従って、スバルは一度頷いてから、
「外の雪、降らせてるのはお前だな、ロズワール」
本題に、真っ直ぐに切り込んだ。
「――――」
スバルの問いかけに、ロズワールは口を閉ざしたままだ。
スバルも、ロズワールの答えを待って口を閉じる。室内に沈黙が落ち、響くのは家の外から窓に凍える風が吹き付ける音と、時計を刻むように几帳面なリズムで噛み鳴らされる、ガーフィールの牙の音だけだった。
「スバルくん」
「ああ」
「――それは、私から聞いたのかね?」
「――――」
それは、意味のわからない質問だった。
ロズワールがどんな返答を戻してくるか、スバルは頭の中でいくつかのシミュレーションを行っていた。
不敵に笑い「よくぞ見破った」というパターンもあれば、「な、何を馬鹿なことを……証拠、証拠はあるのかね!」と動揺を露わにするパターン。最有力だったのは「君が何を言っているのか、ちょっとよくわからないねーぇ」とはぐらかされるパターンだったのだが。
ロズワールが返してきた答えは、そのいずれの想像とも異なるものだった。
「私もクソも、今、こうしてお前と話してるってのにどうやってそんな会話するんだよ。何かと言い間違えたのか」
「ふ、む……そうか。そうか。そーぅかい。……残念だ」
言葉の意味を噛み砕けないまま、スバルはロズワールに無理解を示す。と、ロズワールはそのスバルの言葉に目を伏せ、弱々しい息を吐きながらそうこぼした。
普段から青白い横顔が、どこかさらに力なく見える。それは肉体が万全でないこととは無関係の、ロズワールの心のありようからくるものにスバルには見えた。
「――そーぅだね。言い間違い、言い間違えだよ。おかしなこと言ったね」
顔を上げたとき、ロズワールはすぐに今の発言を撤回して薄く微笑む。
紅を塗った唇が描く笑みが、普段のものと違うようにスバルには見えた。
だが、そんなロズワールの些細な変化など気にも留めず、足を一歩前に踏み出すのがガーフィールだ。
「否定、しやがらねェのか、オイ」
「疑われている身の上で、みっともなく言葉を並べ立てるといかにも嘘っぽく見える気がしないかい?ただでさえ、わーぁたしは普段の言動と行動から、君たちの信頼を得られていない自信があるしねーぇ」
「わかってんじゃァねェかよ。それなら、これから俺様がどう動くのかも、想像がついてんだろう……なァ!」
鋭い呼気を放ち、ガーフィールの体が数歩の距離をゼロにする。
寝台に歩み寄り、ガーフィールは伸ばした腕でロズワールの喉を掴みにかかる。とっさの動きに、スバルの反応では制止を呼びかけることも間に合わない。
だが、
「――てめェ」
「ロズワール様にご無礼は許さないわ、ガーフ」
隣室から飛び出したラムが、伸びるガーフィールの腕を体ごと受け止めていた。
伸ばした右腕を胸の前で掴まれて、ガーフィールは眼前のラムを睨みつけて喉を震わせる。
ラムが家の中にいたことに気付いていなかったスバルはその出現に驚いたが、少なくとも彼女のおかげで即座の流血沙汰は避けられた、と安堵の吐息。
だから――、
「ラム。君は本当に、よくできた従者だよ」
「はい、ロズワール様――」
二人の会話が耳を掠めたとき、スバルはそれを何ともおかしいとは思わなかった。
主の身を守るために体を張ったラムを、ロズワールが労っただけの発言だ。そこにおかしなところはない。ラムは、確かにその仕事を果たした。
何が問題なのだろうか。顔を上げて、眉根を寄せたスバルは考える。
寝室の入口の前に立つスバル。正面、ガーフィールの背中があり、小さなラムは小柄なガーフィールの体の向こうに立っている。二人の背後に寝台があり、ロズワールがそこで療養の名目で寝っ転がっていたのが部屋の内情だ。
――ロズワールは、いつの間に立ち上がったのだろうか。
「――――」
一瞬の、ことだった気がする。
スバルが瞬きをした一瞬の間に、ロズワールは寝台から立ち上がり、すぐ近くで火花を散らすラムとガーフィールの側へと歩み寄った。
そして、
「――――」
あれは、なんだろう。
ガーフィールの背中から、人の腕のようなものが突き出している気がする。
胸の正面から、背中の真ん中を突き抜けて、蠢く五本の指を備えたそれは、スバルには人の右腕に見えた。
「ご、ふ……ッ」
目の前で、ガーフィールの体が大きく震える。
じわりと、彼の着ている上着の背中が朱に染まり出し、膝が落ちかけるのがわかった。体を支えられず、膝をつくガーフィールの背中から腕が消える。
途端、塞ぐものを失った穴から大量の血が溢れ出した。
「――え?」
崩れ落ちるガーフィール。それを見下ろす、ラムとロズワール。
そして見下ろすラムの胸からは、
「ろず……」
「君は本当に、よくできた従者だったよ」
弱々しい声で名前を呼ぼうとしたラムを、遮ってロズワールが優しく告げる。
左手がラムの桃色の髪を柔らかに撫で、頬を赤く染めたラムが陶然とした表情でそれを受け入れた。
――その微笑みの口の端から、遅れて鮮血がこぼれ落ちる。
当然だ。
胸を、背後から貫かれているのだから。
腕が抜かれる。
ラムの小さな体が、その軽い衝撃に耐えかねて前へ倒れ込んだ。
それを受け止めるのは、自身の体からもおびただしい出血をしているガーフィールだ。
彼は自分の腕の中に倒れてきたラムを抱き起こし、
「が……ロズ……ッ。ら、むゥ……ラム、ラム、ラム、ラムラムラムラムラムゥ!」
一瞬、憎悪に支配されかけた心が目の前の想い人の姿に掻き消される。
ガーフィールは腕の中の少女の名前を何度も叫び、血の混じる雄叫びを上げながら両腕から青白い燐光を放出させる。
鮮やかなその輝きが、治癒魔法の効果をもたらすものとスバルは知っている。
ガーフィールが得意ではないと前置きした上で、それを扱える存在であることも。
ガーフィールは今まさに、自身も胸を貫かれる致命傷を受けながら、腕の中のラムの治療に全力を注いでいる。
その彼の肉体が、心臓の鼓動に合わせて波打ちながら変貌していく。
露出した肌を体毛が多い、牙が伸び始め、瞳の瞳孔が一気に細まる。肉体の筋肉量が圧倒的に増えて、一回り大きくなる体躯に衣服が耐えかねて破れ出した。
理性を失った大虎への獣化だ。傷を負った自分の体を守るための獣の本能と、目の前の愛しい人の命を繋ぎたいという人間の理性が激しく火花を散らしている。
しかし、
「――――」
「獣化されるのは、厄介なのでね」
軽く首を傾けながら、ロズワールはそう言ってガーフィール目掛け足を一閃。
横に振られた長い足が風になり、ガーフィールの側頭部を直撃――卵が割れるような軽い音がして、冗談のようにガーフィールの頭部が真っ赤に弾けた。
首から上を失ったガーフィールの肉体。千切れた首の断面から噴水のように血が噴き出し、部屋を血臭で満たしながらラムの上へと亡骸が倒れ込む。
その下敷きになるラムも、薄く微笑んだ表情のままぴくりとも動かない。
ガーフィールの治癒魔法の効果も、発動していない。ロズワールの手を離れた時点で、心臓を破壊されたラムの鼓動は止まっていたのだ。
ガーフィールは、それに気付かずに全霊を振り絞っていただけで。
「さーぁすがの私でも、天候に干渉する規模の魔法を使っているときには他の魔法を使うのは難しいのでね。――宮廷魔術師としては、不甲斐ない姿だよ」
血で染まった足を手近なシーツで乱暴に拭い、無手でラムとガーフィールの両名を殺害したロズワールが、微動だにできないでいるスバルの方を見た。
それからロズワールは、まるで普段と何も変わらない態度と口調で、言った。
「では――話をしようか。ナツキ・スバルくん」