『着慣れた鎧』
――そうはまとまったものの、座敷の空気の完全な復元は不可能だった。
フェルトの啖呵を聞き、満足げな顔をしたプリシラはアルを引き連れて旅館をそのまま出ていった。彼女からすれば、目的の大半を果たせてご満悦といったところか。
スバルたちが被った被害を考えれば、身勝手極まる行いである。
結局、座敷の食事をそれぞれの陣営が手早く片付け、歓談の再開もままならないまま食事会は解散の流れだ。
各々、受けた衝撃と爪痕の影響は色濃く、特にラインハルトとヴィルヘルムの二人の心労は外野には察することができないほどのものがあった。
それでも表情にそれと悟らせないだけ、二人の精神は大したものだ。
無論、叶う寸前だった祖父と孫の和解は先送りになってしまい、スバルとしてはいつまでも消えない痛恨の思いを残されたのだが。
「あの場にガーフィールがいなくて、本当に助かりましたね」
とは、食事会を終えてミューズ商会へ発ったオットーが残した言葉だ。
確かに彼の言う通り、あの食事会にガーフィール他、血の気の早い面子が揃っていれば大変な事態を招いたことだろう。ガーフィールがハインケルに飛びかかり、血の惨状が展開されたことは想像に難くない。
理性的なメンバーばかりが座敷に残っていた。――あるいはそれすらも、プリシラの掌の上の出来事なのかもしれないが。
「……そこまで万能であってたまるかよ。たまたまの、たまたまだ」
強運とうそぶくプリシラの運が、実際に風向きよく働いたに他ならない。
はっきり言って最悪の中でマシなものを探すに等しい考え方だが、不幸中の幸いとしてそのぐらいの事実を認めておかなくては、腸が煮えくり返りそうだった。
エミリアとベアトリスの心痛も、スバル以上に苦しいものがあっただろう。
フェルトすら理性的に振舞っていた場で、もっとも感情的になってしまったのがスバルだった。敵に味方に、気を配る必要があった二人には申し訳ないと思っている。
エミリアたちは部屋に戻り、約束の散策を前に小休止を入れているはずだ。
スバルは空いた時間を利用し、落ち着かない気持ちを歩き回ることで押さえ込もうとしていた。板張りの床を踏む足が、心なしか普段より強めだ。
靴裏に感じる床の軋みが、まるで自分の心の軋みを反映しているようだ。
そんなことを思いながら、自らの軋みを自覚するためにスバルは足を踏む。と、
「そう床に当たるものではないよ、スバル。宿のものを困らせることになる」
足元を睨みつけていたスバルは、横合いからかけられた声に顔を上げた。
見ると、スバルはいつの間にか庭園の前の縁側にやってきていた。そこで床を軋ませるスバルを、庭に立つユリウスが風を浴びながら見ている。
やや癖のある紫の髪に手を当て、涼しげな風を受ける姿は妙に絵になる。
ユリウスに対しては基本、やっかみから入らざるを得ないスバルはひとまず、その美青年ぶりに舌打ちしてから縁側に腰を下ろした。
「エミリア様やベアトリス様とは一緒ではないのかな?」
「見りゃわかるだろ。二人だって子どもじゃないんだ。プライベートな時間が欲しい年頃で、それを尊重するデリカシーぐらいは俺にもある。二人とのデートはちゃんと約束してあるしな」
「いくつか聞き覚えのない単語があるが、おおよそは把握したよ。さしもの君も他者を思いやる気持ちは学んだらしい」
「ぐ、お前な……!」
スバルの方から仕掛けたにも拘わらず、ユリウスの物言いに先にケンカ腰になってしまう。しかし、その苛立ちもユリウスの表情を見て霧散した。
彼は小さく首を横に振って、
「すまない。君が他者を思いやることができないような男なら、先の場であれほど副団長に声を荒げることはしなかっただろう。……むしろ私は感謝すべきだった」
「感謝なんてされるようなことしてねぇよ。俺はあいつが気に入らなかったから頭にきてただけだ。周りが冷静なのにみっともねぇ」
「そんなことはない。君が短慮な振舞いを見せたから、周りはかえって落ち着くことができたにすぎない。私も含めてそうだ。君の軽挙さも役立つことがある」
「お前、本当は俺のこと褒めるつもりとかねぇだろ?」
あんまりな言いようにスバルが顔をしかめる。
ユリウスの言葉には、スバルに対する微妙な皮肉が常に交えられる。お互い様なので言えた話ではないが、素直に褒められているとは受け取れないものだ。
「わかってるよ。もっと冷静に落ち着いて。それが騎士らしいってことだろ。騎士って立場になっても、落ち着きが足りねぇのは自覚があるよ。小学生の頃の通信簿にも毎回のように書かれてたからな」
「そう、だな。確かに騎士らしく、その振舞いを求めるのであれば君の行いは決して褒められたものではない。だが」
拗ねるスバルの前で、ユリウスはふいに言葉を切った。
それから彼が行った動作を見て、スバルは驚きに目を見開く。
「なんのつもりだよ」
「見ての通りだ」
「見ての通りだっていうなら、俺にはお前が俺に頭を下げてるように見えるぞ」
スバルの前で、ユリウスは腰を折って頭を下げていた。
騎士の礼ではない。貴族としての礼法でもない。そこにあるのは純粋な、礼儀も立場も無視した一礼。ユリウスらしさのない振舞いだった。
「感謝を。君に感謝する。私に代わり、あの場で義憤を露わにしてくれた君に、私は感謝する」
「……意味がわからねぇ」
「騎士らしさを重んじるのであれば、どんな場であろうと騎士らしく振舞うことが求められる。たとえ友が貶められ、人として許し難いほどの恥辱を与えられていようと、感情のままに振舞うことなどあってはならない。だが、君はそうではなかった」
頭を下げたまま、ユリウスはスバルの短慮さに感謝の言葉を重ねる。
思いもよらない反応に、スバルはただ戸惑うばかりなのに。
「騎士と自分の狭間に揺れて、私はとっさに怒りを抑制した。しかし、激昂する君を見て私は自分が恥ずかしくなったよ。だから、君に感謝したい」
「自分に代わって怒ってくれてありがとうってか」
「――――」
スバルが納得したような声を出すと、ユリウスがようやく顔を上げる。
一言、胸中を打ち明けて彼は晴れやかなものを瞳に浮かべていたが、スバルはそれを見て思い切りに唇を曲げた。
「馬鹿言えよ。お前、あんまりふざけんな」
「……ふざけるな、か」
「当たり前だろ。なんで俺がお前の代わりに怒ったことになってんだよ。俺が怒ったのは俺がムカついたからだ。誰かの代わりに、あのヒゲ親父をぶん殴ってやろうとしたわけじゃねぇよ。そんな優しいマジギレなんて器用なことできるかよ」
何を勘違いしているのかと、スバルは本気でユリウスに呆れる。
スバルの怒りとて、義憤などといえるほど高尚なものであったか自信はない。ラインハルトとヴィルヘルムの想いは、二人だけにしかわからないものだ。
スバルは外野からそれをこうであると想像し、それを汚されたから鼻息荒く詰め寄ったに他ならない。それは誰のためでもない、自分の怒りだ。
「ムカついてたんなら、お前も怒ればよかったじゃねぇか。俺一人だから余裕ぶってやがったけど、お前も加わってればもっとあっさりビビって逃げたぞ、あの親父」
「仮にも近衛騎士団の副団長だ。直属の上司でもある相手に、そのような無礼を行うことなどなかなかできるものではないよ」
「今は直属じゃねぇし、そもそもお前も今、仮にもって言っちゃったじゃねぇか。窮屈な考え方してんじゃねぇよ。騎士らしく騎士らしくって思い詰めてる間に、心まで鎧を着ちまってんのか?」
「――――」
押し黙るユリウスに、スバルは膝の上で頬杖をつきながら大袈裟に息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい言い争いだ。感謝を素直に受け取れないから、それに反発してスバルはユリウスに八つ当たりをぶつけている。
発端にハインケルがあると思うと、なおのこと腹立たしい。
「心まで鎧を、か。……ふ、まったく耳が痛いよ」
「我ながら格好いい言い回しだと思うけど、聞き流せよ。戯言だ」
「いいや、肝に銘じておこう。君から教わることもあるのだと、そう思うと快いものがあるな。一年前には考えられなかったことだとも」
「言っとくが、俺はいまだにたまに夢でうなされるからな」
練兵場でユリウスと向かい合い、木剣でタコ殴りにされる夢は今も見る。
そのときに感じた肉体的苦痛を思い出すのも辛いが、それ以上に辛いのは味わった精神的な苦痛を余すことなく再現してくれることだ。いらない記憶力は鮮明にあの瞬間を焼き付けており、映画のフィルムのように夜毎レイトショーを開催する。
もちろん、ユリウスとの決闘ばかりが上映内容ではないが、いくつもの『死』に匹敵するほど、スバルの心に傷を刻み込んだ出来事としては最大級のものだ。
「できればやめてほしいところだ。夜毎、君と夢で再会していると思うのはあまり気持ちのいいものではない」
「夢の責任者に言え。俺だってどうせならエミリアたんとキャッキャウフフな夢が見たいに決まってんだろうが」
「そこを実力ではなく、夢に頼ってしまうあたりが君の君らしい由縁だろうね」
「てめぇ、急に立ち直って人をヘタレ呼ばわりしてんじゃねぇよ!てめぇはどうなんだよ!」
「アナスタシア様は魅力的な女性だよ。近くでお仕えできて、これ以上の名誉はないだろう。自分の立ち位置を幸福と思っているとも」
しれっと言い返すユリウスに、スバルは「ふかーっ」と猫のように唸る。
頭を下げた殊勝な雰囲気などあっさりと忘れて、ユリウスはすでに普段の佇まいを取り戻していた。その態度に安堵を感じる自分がいるのにスバルは顔をしかめて、咳払いしてから別の話題を引っ張り出す。
「さっきの、あのヒゲ親父だけどよ……副団長ってのは、マジなんだよな?」
「疑わしいと思うのも仕方ないことだろう。だが、事実だ。あの人物こそがルグニカ王国近衛騎士団副団長、ハインケル・アストレアその人だ」
「見る目ねぇのか理由があんのか、問題はねぇのか疑問の声はねぇのか」
「全ての問いかけに対して反証があるよ。無論、上からも近衛騎士団からも、副団長の資質を疑問視する声はないわけではない。実際、副団長の役職もお飾りとして与えられているようなもので、あの方が実務を行う姿を見たものはいないだろう」
首を振るユリウスの答えに、スバルは天下りの役人のイメージを思い浮かべる。
役職について、大した仕事もしないのに高給取り――それが政府高官が天下りしたときのスバルのイメージだが、ハインケルの立場はそれに近い。
その上、無能であると周囲が理解した上であの振舞いだ。
「まさか、剣聖の父親だってことをかさに着てやがるんじゃねぇだろうな」
「……それも、なくはない。表立って副団長を糾弾することは、その子息であるラインハルトの耳にも当然入る。ラインハルトの公平性は公然のところだが、家族が関わればどう判断するか。そこまで信じ切れるものが全てではない」
「俺にはラインハルトが、あの父親のために道義を破るとは思えねぇぞ」
「それでも父親だ。他人から見てどうあろうと、ラインハルトにとって血を分けた肉親には違いない。誰にも彼の想いは測れないよ」
熱くなるスバルを、あくまでユリウスは冷静に宥めようとする。
奥歯を噛み、スバルは悔しさに喉を唸らせた。
ユリウスの言う通りだ。たとえどんなろくでなしが父親であろうと、その関係を切り捨てられるかどうかはラインハルトの心にしかわからない。
公平性を重んじる騎士としては、その親子関係に惑わされるべきではない。だがラインハルト個人としては、それを易々と断ち切れるほど振り切れていてほしくない。
外野ですらラインハルトに求める姿勢が固まらないのに、当人に揺れるななどと誰がいえるものだろうか。おこがましいにもほどがある。
「さっきお前は、それもあるって言ったな。それもってことは、それ以外の理由もあるってことだろ。他には何が……」
「あの方がアストレア家の当主で、ヴィルヘルム様のご子息であるからだ。端的に言えば、王国最高峰の武の名門家の当主にして、先代剣聖の息子。そんな人物に要職を与えず、閑職に追いやって国家へ叛意を持たれてはたまらない」
早口に、努めて無感情を意識したユリウスの答え。
その言葉を聞いて、スバルは数秒考え、それからすぐに理解に達した。
「国は!ラインハルトも!ヴィルヘルムさんも!信じてないってことか!ハインケルが国に逆らう気を見せたら、剣聖の一族が敵に回りかねない……ッ!だから大事に抱え込んで、爆弾をしけらせてるって、そういうことかよ!」
だとしたらそれはなんという、ラインハルトとヴィルヘルムへの侮辱なのか。
あの二人の人間性を見て、それでもなお、国を裏切ると思っているのか。
先ほどの、ハインケルに相対したときに匹敵するほど激昂するスバル。そのスバルの前に立ち、ユリウスはスバルの肩に手を当てて首を振った。
「君の怒りはもっともだ。だが、王国はありえる可能性に対処しなくてはならない」
「ありえる可能性ってなんだ!そんなこと、ありえねぇだろうが!」
「……ヴィルヘルム様は近衛騎士団の前団長だ」
「――っ!?」
腕を振り払おうとするスバルは、その言葉に思わず動きを止めた。
「十四年前、王城で王族の方が一名、何者かに誘拐される事件があった。当時、ヴィルヘルム様は近衛騎士団の団長で、そのさらわれた王族の捜索の責任者でもあった」
「それが、なんだよ。俺だってその話ぐらいは、聞いてる」
さらわれた王族、それがフェルトなのではないかというのが目下の焦点となった話だ。スバルとしては現実味のない話だと受け止めているが、それをここで掘り返したユリウスの真意はわからない。
「さらわれた王族は見つからなかったってのもわかってる。けど、なんだ?ヴィルヘルムさんがその責任と取らされて、それで近衛騎士を辞めたから、王国を恨む理由があるってのかよ。でも、そんなのは……!」
「先代剣聖様を加えた、白鯨討伐のための『大征伐』。それは王族捜索のために、ヴィルヘルム様が王都を離れている間に行われたんだ」
「――――」
ユリウスが言い放った言葉に、スバルの思考は空白を得た。
その空白の中に滑り込むように、いつかのヴィルヘルムの言葉が流れ込む。
ヴィルヘルムは言っていた。
自分の妻が亡くなったとき、ヴィルヘルムは傍にいることができなかったと。
「……王族がさらわれたせいで、自分の奥さんの死に立ち会えなかった。だからヴィルヘルムさんが、王族や王国を恨んでるって、そう言うのかよ」
「ヴィルヘルム様の真意はわからない。ただ、王族の捜索が打ち切られ、大征伐そのものも失敗に終わった後で、ヴィルヘルム様が近衛騎士団を脱退されたのは事実だ。その後、立て直しに尽力したマーコス団長がいらっしゃらなければ、近衛騎士団はその機能を完全に喪失していたことだろう」
「その後のことなんか知るかよ!俺が話してるのはヴィルヘルムさんのことだ!お前は……お前はどう思ってんだよ!ヴィルヘルムさんがそんな風に、奥さんのことで周りを逆恨みして、それで……それで!」
何もかもに恨みを抱いて、王国に反旗を翻しかねない。
そんな風に思われるような人物だと、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアを思うのか。あれほど真っ直ぐに人を愛して、そのために全てをなげうった男を見て、どうしてそんなことを思うのだ。あの目を、背中を、見たことがないのか。
剣鬼の曇りない刀身を、見たことがないというのか。
「あの人がそんな人じゃないってことぐらい、なんでわからねぇんだよ!!」
「――――」
肩に乗っていた腕を今度こそ振り払い、スバルは目の前のユリウスの胸を突き飛ばす。勢いに負けて後ろへ下がるユリウスを、スバルは立ち上がって睨みつけた。
こちらを見返す黄色の瞳が、スバルの怒りを羨望するように見ている。
わかっている。この怒りが、見当違いなものであることぐらいわかっている。
ユリウスがスバルに語ったのは、あくまでそうした目もあるという話に過ぎない。ユリウス自身がどう思っているのかは、これまでの態度が表明している。
だってユリウスは一年前、白鯨の戦いを終えたヴィルヘルムを労った。
十四年の長い月日をかけ、妻の敵討ちを終えたヴィルヘルムを労ったのだ。
その彼がヴィルヘルムの、王国への叛意を疑っていることなどあるはずがない。
「……悪い。俺が馬鹿だ」
「いいや、君は悪くない。君が正しい。間違っているのは私の方だ。――間違っている方が正しいと思っている、私の方だ」
視線を落とし、二人は目をつむる。
やりきれない思いを抱いているのはどちらも同じだ。
ヴィルヘルムの心が疑われる土壌は、どうにもならない形で出来上がっている。スバルもユリウスも、個人の感情をぶつけるだけでは何もならない。
「ラインハルトも、そうなのか?」
「……同じ理屈で語れば、むざむざと失敗する計画に祖母を巻き込み、先代を死なせた王国を恨む理由が彼にはあると、そう言えるかもしれないな」
「それなら」
「だが、ラインハルトに限れば違う。王国は彼に対して叛意を疑ってはいない。疑っているのはむしろ、ハインケル様の方だ」
ラインハルトの父親の名前が出て、スバルは三度、目を丸くした。
正直、聞きたくない名前だが、彼が関わっているのであれば耳を塞ぐわけにもいかない。むしろ、その名前が出るだけで悪い内容に信憑性が生まれるほどだった。
「ラインハルトと父親と、どう関係ある?いや、関係だけでいえばこれ以上ないぐらい明確に血縁関係なんだろうが」
「ラインハルトは一時期、ハインケル様の言いなりだった時期がある。親子なのだから当然といえば当然のことだが……度を超えていた時期があってね」
スバルから視線をそらし、ユリウスはどこか悔しげにそう口にする。
彼をして、度を超えていたと言わしめる親子関係。いったい、どのような事実があったのか、そこから推し量ることは難しい。しかし、ユリウスも詳細を語るつもりはないらしく、すぐに視線の位置を戻して、
「ラインハルト自身の自立を切っ掛けに、必然的にそうした様子は見えなくなった。ただ、決定的な理由がわからないまま、ラインハルトはハインケル様の言葉には耳を傾けるのではないか、という疑念が消えずに残っている」
「……それで、ハインケルがラインハルトにキレた命令をしたりしないように、王国はハインケルを厚遇してるってことなのか?」
「あるいはもっと悪い。これはあくまで噂の域を出ない話ではあるが、君には伝えておこう。ラインハルトの友として、あの場で怒ってくれた君には」
不安になる前置きをして、ユリウスは軽く周囲に気を向ける。聞き耳を立てるものがいないかを確かめた上で、彼はスバルのすぐ傍らに立った。
そして、
「副団長には、十四年前の王族誘拐の関与が疑われている」
「――!?」
「確証はない。だが、そうした疑惑を抱かれ、幾度も事情を聞かれているのは事実だ」
「本当のことなのかよ。その、誘拐に関係してるってのは」
「事の真偽はこの際、関係はない。そうした疑いを持たれた人物が、王国の最高戦力を動かせるかもしれない立場にある。それが問題視されているんだ」
『剣聖』という名が持つ華々しい栄誉。
しかし、実態が明らかになるたびに、それは栄誉というより呪いのようなものにスバルには思えてくる。
「でも、本当に誘拐に関係してるなら、ハインケルは父親と母親を死に目に会わせなかった原因ってことになるぞ」
「……それどころの話ではないよ。当時、すでに剣を置いて現役を退いていたテレシア様を、大征伐の参戦者として推薦したのはハインケル様だと聞いている」
「自分の母親を、魔獣の最前線に放り込んだってのか!?」
「こちらはほとんど間違いない事実として記録にある。副団長が大征伐に参加するのを辞退する代わりに、テレシア様を推薦したことはね」
絶句、する他に反応ができない。
先ほどのような曖昧な根拠ではなく、ユリウスはこれには確証があると言った。記録として残っているのなら、当時の全員が欺かれない限りは事実だ。
ハインケルは自分の母親を、自分の代わりに魔獣の戦いに差し出した。
そして母親は戦死し、父親はその死に目に会うことができずに復讐の刃を握り、自分は息子の才能を盾にして、安穏とした日々を過ごしていることになる。
ありえない。そんなことができる人間が、実在するはずがない。
「何かの、間違いだろ……」
信じたくない。
ハインケルの人間性を信じたいわけではない。あの男が最悪なことぐらい、一度、実際に言葉を交わしてみれば誰にだってわかる。
だが、最悪以下の劣悪、極悪、醜悪であることなど認めたくない。
倫理観や人間的なあらゆるものを、踏み止まる限界があると信じてそう願いたい。
そんなことが現実に起こり得るなど、想像することすら罪だった。
「……すまない。こんなことを、心の準備もさせずに畳みかけるべきではなかった」
絶句し、言葉が出ないスバルにユリウスが沈鬱な声で呟く。
聞いていたスバルがそうなのだ。語っていた彼も、冷静でいたはずがない。理性的であることを常に意識させるユリウスの、らしくない態度であったといえる。
「き、聞かせてもらいたがったのは俺だ。お前が悪いわけじゃねぇよ。……お前が悪いって、そう言えたら少しは楽なんだろうけどな」
「褒められた姿勢ではない。風聞と先入観を交えて、他家のことを見てきたように語るなどあまりに無神経だ。騎士として、恥じ入るべき言動だった」
「でも、お前は見てきたんだろ?ラインハルトの、友達だったんだから」
自省を口にするユリウスに、スバルはそう声をかけた。
ユリウスが顔を上げ、スバルを見返す。スバルは彼に頷きかけ、
「お前がいつからラインハルトと友達なのかは知らねぇけど、ラインハルトを心配してることぐらいはわかるよ。だからカッとなったのもわかる。別にそれがおかしなことだとも、筋違いだとも俺は言わねぇよ。他人の家の事情だからって、大人しく引っ込んでるのが正しいとも思わねぇ」
「……君は、そう言うのか」
「隣の家の中からでも、泣き声が聞こえたら飛び込めばいいじゃねぇか。窓越しに友達が凹んでるのが見えたら、声をかけてやればいい。お前がラインハルトを気にしてたのだって、おかしなことだと俺は思わねぇ。思うようになりたくねぇよ」
下卑た好奇心で覗き見ていたなら、スバルとてユリウスを軽蔑する。
けれど、ユリウスの言葉に態度に、そしてこれまでの付き合いに、そうしたあさましい感情を見ることなどできなかった。
「さっきも言ったろ。お行儀がいいばっかりの騎士らしさに、別に拘り続ける必要はねぇだろうが。そうだよ。鎧脱いで、ユーリになってみるのも悪くない。あれぐらい融通利かせた方が、うまく回ることもあるかもしれねぇぜ」
ユーリは、ユリウスが魔女教討伐の際に名乗った偽名だ。
立場上、ユリウスとして傭兵団に加わるわけにはいかなかった彼が、苦し紛れを優雅さの裏に隠して名乗った役立たずの偽名。最終的には誰も、本人すらも呼ぶのをやめた名前だった。だが、あのときユリウスは、騎士らしくはなかった。
「ユーリ、か。懐かしい名前を引っ張り出してきたものだ」
「一時的どころか一瞬しか使い道なかったからな。俺もとっさにそれが思い出せた自分を褒めてやりたいぐらいだ」
「騎士らしさに縛られるなとは。君はずいぶんと私に対して難しいことを言う。私がなんと呼ばれているか、知らないわけではないだろうに」
「そうやって最も優秀とか肩肘張ってるから、心も体も固いんじゃねぇのか。風呂入るときは鎧脱いで、鎧着る前にストレッチしろよ」
スバルがその場で腰を折り、柔軟性を示すように掌をぺたっと地面へつける。パルクール習得前は体がガチガチに固かったが、本格的に体を動かし始めるにあたって最初に矯正したのが柔軟性だった。
そして、その柔軟性を示すスバルの前で、
「今ので私に勝ったつもりなら、君の見識の浅さを嘆く以外にないな」
「おお!?」
そう言って、ユリウスがその場で足を前後に開いた綺麗な股割りを見せる。長い足を伸ばし切り、楽々と地面に尻をつける柔軟性は驚嘆に値する。
というか、何もかもでスバルを易々と追い越していくつもりか。
「ぬぐぐ……けどな、けどなぁ!リュリーレの演奏とか、アップリケの縫い付けとかなら俺の勝ちは揺るがないぜ……!」
「それで勝ることにあまり意義が見出せないが、私も嗜み程度なら楽器の演奏を心得ているよ。さすがに裁縫は難しいがね」
「くわっ!出たよ、嗜み!お前みたいな奴が言う嗜みってのは、超一流って意味なんだよ。俺、絶対にお前とバンドは組まねぇ。ボーカルとられる!」
足を伸ばした動きを逆再生するように、するりと立ち上がるユリウス。
言い返すスバルに彼は己の前髪をさっと撫でつけ、それから勝ち誇るように微笑みを浮かべて空を仰いだ。
「なるほど。ユーリとして見る空は、浴びる風は、こんな気分だったか」
「ああ?」
「思えばあのときも、いつもとは空の色が違うように見えてきたように思い出せてね。それだけの話だ」
「わけがわからねぇ。気取るなキザ野郎」
浸っている雰囲気の肩を押して、スバルは縁側にどっかりと座り込む。そのスバルの態度に苦笑し、ユリウスは日差しを眩しがるように目を細めた。
気まずくなる会話の雰囲気を、それ以外の雰囲気でどうにか追い払う。
もちろん、話した内容が記憶から消えるわけではないし、しこりが胸に残っているのは否めない。それでも、そればかりを引きずらないように協力はできる。
――離れたところから見れば、そんな二人は普通の友人同士に見えるのだった。