『雪の顔型』


吹き付ける冷たい風。身を切るような極寒の気温。

視界を埋め尽くす白い食欲の猛威。繋いだ掌から伝わる温かさ。

 

ナツキ・スバルがここに立つのに、何の迷いも躊躇いもない。

 

「格好良く参上したのはいいけど、これ状況ちょっとおかしいな!?」

 

雪に頬を殴られながら、スバルは予定と違う景色に声を張り上げる。

ごうごうと風の鳴る『聖域』は、見ての通り完全に雪の帳の真っただ中だ。スバルにとってもこれはいずれ来る覚悟の景色だが、その期日が記憶と違う。

『聖域』が雪に覆われて、それに誘われる白い魔獣が集まってくるのは明朝――まだ半日以上の余裕が、確かに存在したはずだったのだが。

 

少し斜め後ろに、白い息を吐きながら肩を揺らす銀髪の少女がいる。

エミリアはその半身を、自身の体の中から溢れるマナを御しきれずに氷に埋めている。左半身が白く染まり、かなりの苦痛があるだろうに表情に微塵も出していない。

気丈なエミリアを内心で大讃美しながら、この雪の原因に彼女を疑う。

 

だとしたら、制御しきれない魔力の暴走が雪を降らせ、大兎を招いたのか。

 

「それにしちゃ、順番がおかしい……」

 

制御しきれない魔力と、雪に誘われる大兎の順序があべこべだ。

エミリアは兎に対抗するために魔力を行使し、結果として自身にダメージを負っている。正しく流れを酌むなら、原因はむしろ――。

 

「――――」

 

エミリアのさらに背後、そこにはエキドナの墓所が堂々と鎮座している。

そして入口から恐々と外を覗く、複数の視線を確認してスバルは頷いた。中にいるのが『聖域』の住民であるなら、彼らは墓所の仕掛けの影響を受けていない。それは墓所の機能の停止を意味し、つまりはエミリアの『試練』踏破の証明だ。

 

『試練』を乗り越えたエミリア。予定より早く降っている雪。『聖域』の住民たちの様子や、エミリアの覚悟の表情と叫び。そして、

 

「ロズワール」

 

「――――」

 

墓所の入口の脇に座り込み、呆然とこちらを眺めているロズワール。その腕に眠るラムは、無事でいるのかどうかを確認する時間が今はない。

無事であると、そう信じる以外に他も。

 

「スバル」

 

と、考え込むスバルの手が、握られる小さな手によって引かれた。

聞き慣れた声に耳慣れない呼び方をされて、とっさにスバルは息を詰めて、

 

「おっふ、ひゃい」

 

「……なんでおかしな返事をしてるのかしら」

 

「いや、お前に名前で呼ばれるのが新鮮でさ。もう一回、照れた感じで呼んでもらってもいい?」

 

「はぁ!?お前、本当に頭おかしいのよ!こんなときにバカじゃないかしら!」

 

スバルの戯けた注文に、ベアトリスが恐い顔をして食ってかかる。

さすがにおねだりしても流されるか、とスバルは渋々と引き下がった。と、

 

「す、スバル……ほら、やるのよ」

 

「ベア子、お前可愛いなぁ」

 

「――っ!もう言ってやらんのかしら!これが片付いたら覚えているのよ!」

 

握った手をぶんぶんと振って、ベアトリスは顔を真っ赤にしながら怒る。

スバルはそんな少女を微笑ましく見ながら、じりじりと間合いを詰めつつある周囲の兎の群れへと意識を向けた。乾いた唇を一度舐める。

 

「で、ベアトリス。相手は大兎だけど、心の準備は?」

 

「契約直後。相手は三大魔獣が一翼。準備不足に状況悪し。契約者は素人。ベティーは実戦に駆り出されるのが四百年ぶり」

 

「で?」

 

「ちょうどいい、ハンデかしら」

 

ベアトリスが不敵に笑い、キチキチと歯を鳴らす魔獣が一気に距離を詰めてくる。迎え撃つように前に出ながら、スバルは背後のエミリアを振り返り、

 

「今から俺とベアトリスで大兎をぶっ飛ばす。エミリアたんには悪いけど、打ち漏らしからみんなを守ってほしい!」

 

「私も……」

 

言葉を切り、それ以降を続けるか一瞬だけエミリアは迷う。

しかし、彼女は目をつむり、小さく息を呑んでから、

 

「わかった。任せて。――だから、任せる」

 

「おおよ、任された」

 

適材適所、役割分担、亭主元気で留守がいい。

エミリアが深々と息を吐き、自身の魔力の制御に集中しながら防衛線を張る。降り続ける雪の中、さらに氷の結界を張り巡らせるエミリア。

 

エミリアの張った防衛線から外に踏み出し、スバルは白い暴風の外を見た。

視界一面を埋め尽くす、赤い瞳と鋭い牙。純白の体毛に覆われた、この世でもっとも原始的で貪欲な食欲に支配された魔獣。多兎――転じて大兎。

 

キチキチと鳴り響く牙の音に、スバルの魂の疼きが全身に伝染する。

あの牙に食らいつかれ、内臓まで食い荒らされた壮絶な死。胴体に風穴が開けられて、噴き出す血と喉笛を噛み千切られる激痛。そして全身あちこちの肉を食い破られ、四肢を欠損し、エミリアの腕の中で終わった圧倒的な喪失感。

 

ナツキ・スバルの此度のループは、この魔獣を乗り越えなければ果たされない。

 

「――恐いのかしら?」

 

息を詰め、魔獣を見るスバルにベアトリスが声をかける。

横目にちらとこちらを見上げ、ベアトリスは澄ました顔つきだ。ただ、その瞳が、横顔が、言葉より雄弁にスバルに教えてくれている。

 

――スバルの隣にいるのが、いったい誰であるのかを。

 

「いいや、恐くない」

 

「そう」

 

「後ろにエミリア、隣にお前。なんたって、最強の気分だ」

 

「そうなのよ」

 

頬が緩み、ベアトリスが微笑する。

わかっているじゃないかとでも言いたげな顔に、スバルもまた凶悪に笑った。

 

大兎たちが気勢を上げ、大胆不敵な二人へ一斉に飛びかかってくる。

それに対し、ベアトリスはスバルと繋ぐ左手、その反対の右手を向けると、

 

「まずは小手調べかしら。――エル・ミーニャ」

 

詠唱と同時に空間が渦巻き、スバルたちの周囲を紫色の結晶が出現、取り巻く。

氷柱のような形状と輝きのそれは、かつてのループでベアトリスがエルザを串刺しにした魔杭だ。それが一瞬で、都合四十本ほど生成される。

 

照準は一瞬、音もなく射出される魔杭――狙い違わず、口を開けた兎の顔面を貫いた。そのまま、一匹を串刺しにする魔杭は宙を飛び、後ろに並ぶ兎の群れへ突入、そこで炸裂し、飛び散る破片が着弾地点にいた兎をもズタズタに引き裂いた。

一撃でその威力が、四十本一斉に襲いかかったのだ。

 

四方から迫る破壊の衝撃に、白い世界で兎の血霧の赤い花が咲く。

開戦の一発の容赦なさに、正面に展開していた魔獣の群れが百匹単位で消し飛んだ。破壊の痕跡だらけになる広場に、苦痛の悲鳴を上げる大兎の生き残り。無限に増える魔獣はまだまだ数を残しているが、それでもスバルは興奮した。

 

ベアトリスの、想像を超えた圧倒的な殲滅力に。

 

「す、すげぇぇぇぇ!!」

 

「そ、そうかしら?大したことないのよ。ベティーにかかれば、序の口かしら。お茶の子さいさいなのよ」

 

「いや、おま、これ……こんな威力あったの、この魔法!?何属性!?」

 

「陰属性に決まってるかしら。陰以外、あんまり得意じゃないのよ」

 

スバルの讃辞に満更でもない顔のベアトリス。

吹き飛んだ魔獣たちは、早くも肉片になった同類の屍を食んで増殖を再開しているが、ベアトリスは雑兵が増えることを歯牙にもかけた様子はない。

 

「いいのよ、スバル。同じ陰属性の使い手の好でレクチャーしてやるかしら」

 

「え、それだけ?」

 

「は?」

 

「俺とお前って、ただ陰属性同士って繋がりだけだったっけ……」

 

「べ、別にそういう意味じゃないのよ。同じ陰属性の使い手で、契約者で、それからえっと、ベティーのスバルかしら。そう、だから教えてやるのよ」

 

あたふたするベアトリスは、自分でも何を言ってるのかわかっていないのだろう。少女は咳払いしてから指を立てて、意図的に声を低くする。

 

「陰属性の極致――世界最高峰の、陰魔法の力ってものを」

 

「俺、何してたらいい?」

 

「ベティーと手を繋いで、一人にしないでいてくれたらいいかしら」

 

「んや、それも大事だと思うんだけど……」

 

「……精霊使いのやり方がわかっていないみたいで、先が思いやられるのよ」

 

呆れたように言われても、知らないものは知らないのだからしょうがない。

唇を曲げるスバルに首を横に振り、手を引いて前に出るベアトリスは、

 

「基本的に精霊使いと精霊は、戦場では別個の頭を持つ一人として戦うもんかしら」

 

「別個の頭を持つ一人……」

 

エミリアの戦い方を思い出す。

パックと二人で戦うエミリアの姿で鮮烈なのは、盗品蔵でのエルザとの戦いだ。あのときエミリアは、攻撃をパックに、防御を自分が担当して役割を分担していた。また、パックが大技を放つための時間を、エミリアが小技で稼ぐなど様々だ。

隣にいた剥げた爺さんも、精霊使いはそう戦うのが基本と言っていた気がする。

 

「つまり、俺もそれをやればいいんだな。よし、シャマクは任せろ!」

 

「スバルの不完全なシャマクをされると、こっちも被害被りそうで御免なのよ。それに今、スバルのゲートは……」

 

ベアトリスが言いづらそうに言葉を濁す。その態度に、スバルは気を遣わせてしまったことを反省。スバルのゲートは、たぶんもう駄目だ。

酷使しすぎた。破損した感覚があった。だから、それも夢物語だ。

 

「――くるかしら」

 

説明の途中で、ベアトリスが小さく呟いた。「はん?」とスバルが声を上げた直後、スバルは自分の足が地面を離れたことに気付く。

隣のベアトリスが軽く地面を蹴り、その跳躍力がまるでバネ仕掛けのように二人の姿を上空へと運んだのだ。そして刹那、二人のいた地点に押し寄せる魔獣の牙。大兎の牙が噛み合う音が響き、上へ飛んだ二人を追って次々と魔獣が地面を蹴る。

 

「空、飛んだのか!?」

 

「軽く跳ねただけなのよ。陰魔法の『ムラク』で重力の影響を軽減したかしら。その気になれば、風に乗って空も飛べるのよ」

 

「でも落ちてるぞ!?」

 

「逃げるだけなら、このまま風に乗ってもいいけど……奴らは滅ぼすかしら」

 

風に翻弄される木の葉のように、スバルたちの体が吹雪に煽られる。それでも無様に宙で引っくり返ったりしないのは、ベアトリスが何かしているからか。

十メートルほどの高空から、ゆっくりと時間をかけて降下する二人。真下で口を開けて待ち構える大兎の群れに対し、再びの魔杭の一撃が期待される。

 

「スバル、話の続きなのよ。本来、精霊使いは己の中のマナでなく、大気中に存在するマナに直接干渉して魔法を使うかしら。これに関しては、微精霊との契約が必須で、今のスバルはその条件を満たしていないのよ」

 

「ちょ、あれ、ベアトリスさん?下に、下にいっぱいきてるんですけど!?」

 

「いいから聞くかしら。自分のゲートはダメ、微精霊も使えない。そんなダメダメでどうしようもないスバルは、あとはベティーの隣でベティーの素敵さを褒め称える以外にやることがないのかしら。何のためにいるのよ」

 

「俺が聞きてぇよ!」

 

「なら、教えてやるかしら」

 

眼下、飛び跳ねる魔獣の牙がもうすぐこちらの足にまで届く。食いつかれれば、大兎はその牙を絶対に外さない。余裕ぶって格好つけて、それで大ダメージを食って半泣きは我ながらダサすぎる。

もったいぶったベアトリスに、スバルはヤケクソ気味に叫んだ。

 

「どうすりゃいい!?」

 

「イメージするのよ。思い浮かべるのは、さっきのベティーと同じ結晶でいいかしら。あれはマナを結晶化させ、具象化した魔力で編んだ杭。先端を尖らせ、内側に破滅を詰め込んで、防御を貫通して肉体に突き刺さる――そんな一撃を」

 

「想像した!」

 

「なら、あとは詠唱するだけかしら!」

 

すぐ下、口を開ける大兎の群れ。

赤い瞳、血塗れの口腔、鋭い牙、スバルを肉の塊としか見ていない本能。

全てがおぞましく、全てが憎らしい、『聖域』における最大の敵だ。

 

「――エル・ミーニャ!!」

 

スバルとベアトリスの詠唱が重なり、出現する魔杭が上空から大地へ降り注ぐ。

爆裂と破壊が『聖域』の大地を吹き飛ばし、醜い魔獣が千切れ飛んでいった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「すごい……」

 

左方を抜けて飛びかかる大兎を氷柱で固めて、エミリアは感嘆の吐息を漏らす。

紫紺の瞳が釘付けになるのは、吹雪の向こうで魔獣を相手取るスバルたちの姿だ。

 

より正確に言うのなら、エミリアの目はスバルと手を繋ぐベアトリスに釘付けだった。

自身も精霊使いの身であり、今も微精霊と協力して魔法を行使するエミリアの目には、目の前で繰り広げられる魔法戦がどれほど規格外のものなのか痛いほどわかる。

 

第一に、ベアトリスはスバルからの魔力供給を受けていない。

これは契約関係にある二人の間でパスが繋がっていないわけではなく、ベアトリスが意図してそうしているのだ。まだ精霊との契約したての体で、いきなり実戦に臨むスバルから必要なだけマナを吸い上げては、とても彼の体がもたない。

ベアトリスはそれを理解した上で、スバルに負担をかけないよう対処している。

 

第二に、ベアトリスはスバルから魔力をもらわないどころか、与えている。

言い方に語弊があるが、事実だ。今、ベアトリスと手を繋ぐスバルは、ベアトリスの補助を受けて、まだ扱えないはずの魔法を行使している。自分のゲートではなく、ベアトリスの存在そのものをゲートのように代用してだ。

これがどれだけ規格外の行いなのか、スバルには全く理解できないだろう。

ベアトリスは精霊の身でありながら、スバルと自分と二人分の魔力を、余所からではなく自分自身の貯蔵魔力で補っているのだ。

 

そして第三に、極まった陰魔法というものの本物を目にしたことだ。

魔法使いにとって、得意属性というものは未来を大きく左右する。基本の四大属性が、それぞれ特化すれば明確に役割が別れるのと同様、陰属性と陽属性という二つの特殊な属性は、極める以前から他の四属性とは大きく趣が異なる。

ましてやそれが一見、使い道に乏しいものに思える属性であるからなおさらだ。効果が出るまでの時間や、必要魔力の多寡など問題が多いのも負の側面である。

 

故に、陰陽の属性はその希少性も相まって、高めるものがそもそも少ない。

他の四属性と違って失伝した魔法も多く、新たな大魔法使いが生まれにくい土壌にあるのだ。

そんな問題性ばかりが際立つ陰属性の魔法を、ベアトリスは極めている。それも失伝する前の、歴史の中に埋もれてしまった古の魔法を引っ提げてだ。

 

「わ、すごい飛んでる。え……?今、消えたよね……あ、もうあんなところに」

 

それはまるで、夢か幻を見ているような現実感を忘れる戦いぶりだ。

スバルとベアトリスが、仲良く手を繋いでいるのもそう思わせる原因だろう。

 

スバルが必死で戦っているのはわかるが、ベアトリスは薄く微笑んですらいた。

きっと、あの少女は本当に楽しいのだ。戦うことが楽しいわけでも、力を振るえることが楽しいわけでもない。ただ、ああしていることが楽しいのだ。

 

「――――」

 

瞬きの直後、スバルとベアトリスの位置が全く違う場所へ移動する。限定的な『扉渡り』のような転移魔法だ。紫の魔杭が前後から大兎の列を吹き飛ばし、獰猛に吠え猛る魔獣が二人に飛びかかろうとして、空中で何かに体を引っかけて切り裂かれた。

 

目を凝らし、気付く。

炸裂した魔杭の破片が消滅せず、そのまま宙に時が止まったように縫い付けられているのだ。跳躍した魔獣はその破片に体を引き裂かれ、自ら千切れ飛んだ。

光を受ける破片の罠は大量にばらまかれていて、飛びのき、横に転がり、果敢に二人へ挑みかかり、周囲を移動する魔獣が次々と面白いように罠にかかる。

 

大兎は恐るべき魔獣だが、個体の能力は魔獣の中でもそれほど高くない。

一匹一匹の能力は低く、単体を相手取るだけならば獰猛さに気をつければ、戦い慣れているものなら決して遅れをとらないだろう。

食欲という本能に従うだけの我武者羅な戦い方には学習能力がない。自分の周りの同類が罠にかかってバラバラになろうと、自分の食欲が全てなのだ。だから、全く同じ罠にかかって死ぬことを考慮せず、飛びかかって屍をさらすことになる。

 

「や!」

 

また一匹、包囲網を抜けてきた大兎へと魔法を叩きつける。

地に足を着いた姿勢で凍りつく大兎の氷柱を、エミリアは駆けていって躊躇なく蹴り砕いた。氷の破片になり、魔獣は復活不可能なまでに絶命する。

スバルとベアトリスの奮闘のおかげで、こちらに抜けてくる大兎の数は驚くほど少ない。エミリアも、渦巻く自分の魔力の制御に力を傾けることができる。

 

しかし、あれほど圧倒的な強さを見せるベアトリスを見ていても、エミリアの中の不安の種は決して消えてはくれない。

ベアトリスの罠による包囲網は強力で狡猾だ。大兎はことごとく罠にかかり、次々と屍の山を築き上げている。だが、底は全く見えない。

 

今もエミリアの視線の先、蹲る大兎が身を震わせると、まるで背中から生えるようにして別の大兎が増殖する。それを繰り返し、魔獣の数はネズミ算式に増える。

百匹の大兎は、次の瞬間には二百に、そして次の瞬間には四百に増えるのだ。

 

物量と、退くことを知らない浅ましい本能。

故にこの魔獣は三大魔獣に数えられ、四百年間『災厄』の名を欲しいままにしてきたのだから――。

 

「スバル、ベアトリス」

 

二人の名を呼び、圧倒的優勢にあるように見えても油断はならない。

ロズワールとラムを連れて墓所に戻り、最初に大兎の群れを確認したときの戦慄はエミリアにとっては忘れられないだろう。

 

生きとし生けるもの全てを、自分の食料としか思っていない双眸。

本当の意味で決して相容れない存在というものは、それほどまでに絶望的な隔たりを相対するものに感じさせるものなのだ。

圧倒的な理不尽に対抗するには、こちらもまた匹敵する力を発揮する他にない。

 

エミリアが、本当ならそれをするつもりだった。

自分の中に渦巻いている、御しきれない魔力の奔流。決して、自分一人のものではないだろうそれを解放すれば、大兎の群れすら滅ぼせる。

その代わり、自分の命と引き換えだ。最悪、それを覚悟していた。

 

「スバル……」

 

眼前で、戦う彼の名前を口の中で呟く。

大兎の襲来を事前に知っていた彼が、無策でこの暴威に挑むとは思えない。ベアトリスを禁書庫から連れ出して、ああも生き生きと振舞わせている。

あの笑顔を曇らせるようなことを、彼は絶対にしないだろう。

 

だからエミリアは、ナツキ・スバルという男を信じる。

胸中で存在を主張する、全てを終わらせる白い魔力。それを抑え込み、出番は訪れないのだと言い聞かせるように。

 

――あの人の言葉を、信じてる。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

スバルにとって、魔法の行使は常に自分の魂を削るも同然の行いだった。

 

最初の時点でパックやロズワールに指摘された通り、スバルには魔法使いとしての才能が全くない。初めてシャマクを使ったときなど、押さえが利かずに体中のマナを絞り出して身動きが取れなくなったぐらいだ。

その後もボッコの実の力を借りてドーピング。使うなと禁止されても決闘で勝手に使い、挙句の果てには限界まで使い倒してゲートが崩壊。

魔法使いとしての道など、もはや完全に断たれている。

魔法に助けられた機会は多いが、それはスバルにとってただでさえ細い芯を削って尖らせるような、そんな行いだった。折れたことも、必然だったと思っている。

 

だからこそ、今の自分が行っているような、大魔法を連発するような光景は夢に描いたことしかないし、実現は不可能だとばかり思っていた。

 

「おい、ベアトリス!これ、この調子でぶっ放してて大丈夫なのか!?」

 

やられる数に勝る増殖を繰り返し、対抗したつもりでいる大兎。同類の屍を喰らい、増殖していく奴らはどうやら増殖にエネルギーを使っているのか、増えれば増えるほどに個体ごとの勢いが増してくる。

このまま時間稼ぎをしていれば、いずれは増殖するエネルギーがなくなるのではないかと淡い期待が芽生えるが、

 

「増殖の限界がくることはないのよ。こいつらはそういう風に作られた魔獣かしら。滅ぼそうにも滅びない。全部を、一度に消滅でもさせない限り」

 

「じゃ、どうする?お前、何かいい考えがあるか?」

 

「スバルの方こそ、可愛いベティーに頼るばかりなのかしら?」

 

魔杭の炸裂で集団に穴を開け、吹き飛ぶ大兎が宙に残る破片を浴びてバラバラになる。それを見届けながら、ベアトリスはスバルの腕を引いて軽やかに飛ぶ。引かれる力も跳躍も、それほど力を込めていないにも関わらず軽々と運ばれる。

 

宙を歩き、踊るようなステップで牙を避け、破片の罠の隙間を縫うようにかいくぐるベアトリス。彼女がこの戦いにおいて、昂揚していても不安がないのは、その豪奢なドレスにいまだ汚れも返り血の一滴もないことが証拠だろう。

 

「渡るのよ」

 

「おう」

 

掛け声、次の瞬間に空間が歪み、二人の体が小規模の転移を行う。

『扉渡り』とはまた違った形で空間を渡り、新たに出現するのは大兎の群れの真後ろ。鼻を鳴らし、しかしスバルたちを見失った魔獣たちは隙だらけだ。

 

「左を頼むかしら」

 

「じゃ、右は任せた」

 

イメージする。スバルの掌を伝うイメージがベアトリスの魔力に反応し、世界がその干渉を受けて変貌を遂げる。

人の褌で相撲を取る感覚には間違いないが、だからこそ遊びは欠片も作らない。

 

スバルの想像力に従い、生み出される紫紺の結晶、陰属性のミーニャ系。

生み出されるそれにスバルは回転するように溝を生み、貫通力を上げて一気に射出する。自分の手に触れていないものが、自分の意思に従って放たれる感覚。

脳内にしか存在しない弓の弦を引き、形のない矢を放つような気分だ。

 

風を穿ち、推進力を得た魔杭が無防備な群れを直撃し、耳障りな悲鳴を上げながら大兎の群れが吹き飛ぶ。

群れの右側では同じように、ベアトリスの生み出す破壊が大兎を消し飛ばす。

空間に生じた亀裂が魔獣の群れを呑み込み、閉じた空間がまるで絵のように数百匹の大兎を閉じ込めた。鏡の向こう側のような場所を跳ねる大兎たち。何もわかっていないようなその群れ目掛け、ベアトリスは魔杭を一撃――平面状の世界が粉々に砕け散り、その向こう側にいた大兎の群れも丸ごと終わりに呑まれる。

 

息を呑み、スバルはベアトリスの多彩な魔法の技量に舌を巻いた。

スバルがバカの一つ覚えのようにミーニャを繰り返す間にも、ベアトリスは一つたりとも同じではない陰魔法を繰り出し、大兎を滅ぼしていく。

まるで、自分の持ち得る手札を全てスバルに見せるように。あるいは自分の持っていた技術を、自らもまた思い出すように。

 

「そろそろ、なのよ」

 

「ああ?」

 

一段と数の減った大兎だが、減った数だけ一瞬で増える。

その様子を見ていて、スバルは先ほどから覚えていた違和感を再度覚える。ベアトリスの方の呟きと合わせて、言葉を交わしたいところだ。

 

「ベアトリス。あいつらさっきから、減った数だけ復活しちゃいるが……元いた数以上、増えてないように感じないか?」

 

大兎が千匹いたなら、百匹やられれば百匹増える。二百匹やられれば二百匹増える。その手法で、先ほどから殺しても殺しても形勢が傾く気配がない。

だが、スバルには奴らが最大数より増殖する姿を、それと体感していない。

そのスバルの言葉にベアトリスは顎を引き、

 

「たぶん、増殖自体には限界はなくても、種を維持する個体数の最大数には限界があるのよ。だから、それ以上は増えられないかしら」

 

「それなら、最大数をいっぺんに仕留められれば……」

 

「理論上は滅ぼせる。……でも、それはそれで難しい話なのよ」

 

光明を見たスバルに、ベアトリスは難しい顔をする。

それは当然の話だろう。視界を埋め尽くすほどの量の大兎。あるいは見える範囲全てを焼き払うような魔法であれば奴を滅ぼすことも可能だが、それを一瞬で、いっぺんにまとめて、行えるほどの力はどれほどのものか。

 

スバルの知る力でも、ここら一帯をミサイルで吹き飛ばすような乱暴な策だ。それをして、一匹でも焼き残れば即座に復活される。リスクが大きすぎた。

 

「そうなると、やっぱり……あれか」

 

「何か思いついているのかしら?」

 

「相変わらず、完全にお前頼りになっちまうんだけどな」

 

魔獣の増殖を目にしながら、スバルはベアトリスの耳に口を寄せて耳打ちする。

それを聞いたベアトリスが考え込むように目を伏せ、それから頷いた。

 

「ベティーも、同じようなことは考えていたのよ。でも、それをするには……」

 

「ネックなことがあるのはわかってる。でもだ!勘違いすんな、ベアトリス!」

 

「――?」

 

「別に俺たちは、俺たちだけでこれを解決する必要はないんだぜ?」

 

スバルの答えを聞いて、ベアトリスが軽く目を見開く。それから小さく息を吐くと、スバルの方へ倒れかかって胸に額を当ててきた。

 

「本当に……大した答えを出すのよ、スバル」

 

「今後もお前を飽きさせない、鮮度感抜群な契約者であることを約束するぜ」

 

親指を立てて歯を光らせるスバルに、ベアトリスは苦笑する。

それから彼女はスバルの胸の中で顔を上げると、

 

「いいかしら、やってやるのよ。ただし、さすがにそれを実行するにはベティーも時間をかけるかしら。その間に、うまくやってほしいのよ」

 

「大船に乗った気でいろ。俺はその気でいる」

 

「漕ぐのが誰なのか見物かしら」

 

胸を押して離れるベアトリス。

少女が息を吸い、目をつむりながら魔力を高めて集中し始める。

 

それを見て取り、スバルは気合いを入れて雪を蹴った。

走るスバルを追いかけ、魔獣が牙を噛み鳴らす。足を狙って飛びついてくる影。だが遅い。この二日でくぐった修羅場を思えば、最後の大兎が手緩く思える。

 

「邪魔だ邪魔だ!どけどけ!お前らに今、かまってる暇ぁねぇ!」

 

牙を避け、蹴りつける。

詠唱し、魔杭で強引に道を切り開いて、スバルはベアトリスを抱えたまま一気に穴だらけの広場を突き抜けて、墓所の方へと駆け戻った。

 

「え、あれ、スバル!?」

 

戻ってきたスバルを見て、エミリアが驚いた顔をする。

その隣に雪を削りながら滑り戻り、スバルは目をつむるベアトリスをすぐ隣に下ろして頭を撫でながら、

 

「悪い、エミリアたん!ベア子と二人だけで片付けるのはきつかった!」

 

「べ、別にそれはいいけど……でも、どうするの?やっぱり、私が……」

 

「いや、倒す方法は思いついてる。エミリアたんが自爆覚悟で必殺技とか使う必要はないよ。つーか、やめて。ここまで頑張った意味なくなるから」

 

エミリアが息を呑み、スバルの顔をまじまじと見る。

まさか気付かれていないとでも思っていたのだろうか。思っていたのだろう。

こういう場面で、本当に追い詰められれば、エミリアは自分の身を惜しまずに使って打開しようとするに決まっている。まったく、なんて困った女の子なのか。

自分が傷付いてみんなが助かればいいだなんて、勘弁してほしい。

 

「みんな無事でみんな助かるのが、一番いいに決まってんだからさ」

 

「……スバル」

 

「エミリアたん、今からちょっと無茶なお願いをする。できないようならもうちょい頭ひねるけど、できるようなら頑張ってほしいんだ。――みんなで、勝とう」

 

「――――」

 

エミリアが胸に手を当てて、スバルの言葉に何かを感じたように何度も瞬く。

彼女の決心がつくまでの時間を稼ぐために、スバルは魔杭を生成し、それを魔獣の群れに打ち込んで牽制する。だが、それは長くを必要としなかった。

 

「わかったわ。やりましょう、スバル。なんでも言って」

 

決心を固めて、強い覚悟を瞳に宿したエミリアの答え。

それにスバルは拳を固めて振り返り、

 

「そうこなくっちゃ。やったろうぜ!」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

凄まじい魔力の高まりを、スバルは自分の隣、両側から感じていた。

 

左隣にエミリアが立ち、右隣にベアトリスが立つ。

二人が伸ばす手は、それぞれスバルの片手と結ばれており、三人が手と手で繋がっている形だ。

別にこの形をとったことに意味はない。ただ、スバルのやる気が高まるだけだ。

そのやる気が高まるというものが、戦いにおいては士気と呼ばれる。そして士気が高いということは、それが戦いの趨勢を決定づけることすらある大切な要素だ。

 

「イメージ、イメージ、イメージ!」

 

頭の中に思い描く、凶悪で強力な魔法の一撃。

紫紺の結晶を尖らせる魔杭を生み出し、スバルは迫る魔獣の包囲網を砲撃。牽制を繰り返し、墓所にも自分たちにも近付けまいと奮闘する。

この陰魔法において、スバルは自分のマナを使用していない。故に負担をまったくなしに魔法を行使している――と、それは間違いだ。

 

魔法の行使に必要なマナはベアトリスから借り受けているが、魔法の制御に関しては紛れもなくスバル自身が行っている。威力、狙い、数、それをイメージとして形作り、具象化させて打ち出し、即座に次の攻撃を判断する。

本職の魔法使いともなれば、ここにさらに肉体的疲労も加わるのだから、その膨大な並列作業と負担は計り知れない。才能がないと言われたのも頷ける。

 

魔杭を叩きつけ、爆ぜる地面と衝撃に大兎が吹っ飛び、抗議するように鳴き声を上げる。キチキチと耳障りな牙の音が連鎖し、吹雪の中で奏でられるそれはまるで地獄の歯車か何かのようだ。

スバルたちを断頭台へ送る死のコンベアが、歯車によって着々と進んでいる。

 

「ミーニャ!ミーニャ!ああ、クソ!噛むぞ、この魔法!」

 

魔法の言いづらさに不満をぶつけながら、スバルは突出する大兎の塊を狙う。

生み出される魔杭が射出され、それは先頭の魔獣の頭――それを掠めず、手前の地面に着弾、衝撃波が再び奴らを群れの中へと押し返した。

 

作戦の第一段階だ。

スバルは魔杭によって群れを牽制しているが、殺しはしていない。殺すことで最大数の原則が崩れて、不確定なところで増殖が起きることを避けるためだ。

大兎には最大数を維持したまま、ここに釘づけになってもらう。もっとも、

 

「マナの匂いに誘われてくるなら、お前らが今の俺たちから目を離せるわけないけどな」

 

何せ、こちらには滅多にお目にかかれないほど莫大なマナを保有する人材が二人。それも両方とも美少女。今、スバルは両手に花。嫉妬されること請け合い。

 

「イメージ、イメージ、イメージ……どうだ、羨ましいだろうが!もっと寄ってこい!」

 

口ずさみながら、スバルは通じないだろう獣に対しても挑発を欠かさない。

相手を煽ることも狙いだが、スバルの軽口はそれ以上に自分を鼓舞する意味が強い。非日常で日常を装うことで、スバルはかろうじて己を保つ。

 

そうでなくては今、膝が震えない保証がない。両手から伝わってくる温もり。この感触を間近に感じる今、情けないところなど見せられない。

 

「イメージ、イメージ、イメージだ……っ!」

 

繰り返し繰り返し、スバルは呟きながら目を凝らす。

大兎の群れは全体が一気に前進し、牽制によって押し止めるのも限度がある。だがまだ、準備が完全に整っていない。

エミリアも、ベアトリスも、そしてスバルの準備も。

 

「……スバル」

 

左手を握られる感触、見れば薄目を開けたエミリアがスバルを窺っている。彼女の準備は整ったということか。薄く唇をほころばせ、スバルの合図を待っている。

 

「――――っ」

 

エミリアの視線に背中を押されるように、スバルは血走った目をさらに凝らす。

吹き付ける吹雪の幕が厚く、目に入れたい場所がちらちらと遮られる。それでも蠢く白い姿が、魔獣と雪原との違いを微かにスバルに教えてくれるのだ。

 

――あと少し、もうちょっと、もうちょい、いけ、いけ、いけ!

 

歯を噛み、その瞬間を待つ。

視界の向こう、両端、手前、全部を一緒くたに確認し、スバルは目を見開いた。

 

「今だ、エミリア!ラインをなぞれ――!!」

 

叫び、スバルが強くエミリアの手を握りしめる。

エミリアの紫紺の双眸が力強く前を睨みつけ、スバルが引いたラインを見た。

 

魔杭で大兎の群れを牽制しつつ、スバルは並行してマナによるラインを地面に引いていた。形を作る魔杭と違い、形ないマナで地面を削るのは至難の業だった。

だが、無才と言われたスバルは集中力と、常人をはるかに超えた『見栄』でその苦難を乗り切った。格好悪いところを見せられないという、見栄で。

 

引かれたラインは四本。

眼前にいる大兎の群れを、『四角く囲うようにして引かれた長方形のライン』だ。

エミリアに見てわかるように、射程を引いたライン。

 

「さすがスバル!すごーく素敵!」

 

見事なお膳立てに、エミリアが普段は絶対に言わない歓喜の声を上げる。

エミリアはスバルと繋いだままの右手を上げ、魔力の暴走で白く覆われつつある左手をその手に重ねる。そして、詠唱する。

 

「――アル・ヒューマ!!」

 

膨大な魔力が迸り、エミリアの詠唱に従って世界が変質する。

駆け抜けるマナはスバルとエミリア二人の繋いだ手を伝い、そこから大気へ飛び込み、大地を突き抜け、スバルの引いたマナのラインへと合流する。

――轟音を立てて、凄まじい現象が生じる。

 

「すげぇ……」

 

目の当たりにしたスバルが、思わず呆気にとられた声を漏らした。

それもそうだろう。この光景を見れば、誰もが同じ反応をするはずだ。

 

エミリアの魔力は地面に描かれたスバルのラインをなぞり――その四角い空間にあった雪を全て、雪原ごと持ち上げて宙に浮かせたのだ。

当然、持ち上げられた雪の地面の上には大兎の群れが丸ごと乗せられたままであり、魔獣たちは今の衝撃が自分たちの足場が浮かんだせいだと気付いてもいない。

 

限定的な範囲とはいえ、浮かんだ雪原は二十メートル四方はあるだろう。

密集した大兎の数も数であるため、白い地面の上を膨大な数の白い毛玉が震えている光景は、魔法というものの存在の超常的さを見事に表している。

 

「エミリア!」

 

「わかってる!もう、逃がしてあげないから!」

 

ただ、そこで終わっては雪原から大兎が飛び降りて終わりだ。

それを逃がさないために、もう一つの仕掛けが必要になる。

 

エミリアが繋いだままの手を高く掲げ、一気に振り下ろす。

その動きを起点として、浮上した雪原が震動する。そのまま、雪上の大兎たちには何が起きるのか想像もつかなかっただろう。

 

激しい音と、発生する刺すように冷たい凍てつく風。

それを浴びながら、スバルたちは視線をそらさずに結果を見届ける。

 

――風が止んだとき、そこには縦に閉じた雪原の姿があった。

 

エミリアは浮かせた雪原を、左右から真ん中へ向かって畳んだのだ。

まるで本を閉じるような形で大地を閉じられて、その上にいた大兎たちは為す術もなくまとめて雪原の間に封じ込められる。

 

慌てて閉じた雪原の周囲を見渡す。打ち漏らし、なし。動く影、なし。

全ての大兎を一ヶ所に、極々狭い範囲に封じ込めた。この条件で、

 

「さあ、真打ち頼むぜ、ベアトリス――!」

 

右手に繋いだベアトリスを呼び、スバルはお膳立てに次ぐお膳立ての終了を告げる。それを受け、静かに詠唱を続けていた少女の瞳がそっと開かれた。

 

眼前の光景を目にして、ベアトリスは小さく笑う。

驚きでもなんでもない。ただ、信頼だけが込められた笑みを浮かべて、

 

「これが陰属性の極致――アル・シャマク」

 

詠唱がささやかれた瞬間、世界が影に覆われた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――一瞬、それは全身を振り回す浮遊感のようなものに翻弄された。

 

ただ、それも本当に一瞬の出来事だ。

浮遊感が終わり、衝撃が足元から訪れる。直後に全身を圧迫していた束縛感が失われて、それはまず体を大きく揺すって体毛にまとわりつく雪を落とした。

 

鼻を鳴らし、首を巡らせる。

目で、鼻で、耳で、獲物を探すのがそれらにとっては何より先んじて行われる行動だ。赤い目であたりを見回し、芳醇な香りのする獲物を探す。

 

感じない。つい先ほどまで、それの目の前には胃が絞られる痛みを感じるほどに食欲をそそる獲物がいた。肉が柔らかく、血が甘く、一時でも満腹感に酔わせてくれそうな、そんな獲物が確かにいたはずだった。

 

鼻、感じない。目、映らない。耳、聞こえない。

いたはずの獲物がいない。首を巡らせる。見つからない。

 

失望に似たものは、即座の空腹感によって上書きされる。それは口さみしさと空腹を誤魔化すために、とりあえずすぐ傍らにあった白い塊に食らいついた。

食いちぎり、肉を引き裂き、血を啜って内臓を掻き出す。思うさまに咀嚼し、平らげて、周りでも同じような食事が繰り広げられていることに気付いた。

 

獲物が減ってしまう。

危機感ではないが、それは生存本能に従って、目の前のものを食い散らかすのに必死な白い塊の頭を食い千切った。噛みつき、呑み込む。

 

繰り返し、繰り返し、尽きぬ食欲に動かされて、それは隣の獲物を、隣の隣の獲物を、隣の隣の隣の獲物を、隣の隣の隣の――。

 

やがて、それはいつしか周囲の全てを食い荒らし、独りになっていた。

地面を浸した血を舐め、散らばる肉片も、血を吸った大地も草も残らず咀嚼する。そうして食べ残しすら綺麗に片付けてしまえば、今度こそ本当に独りだ。

 

それの内側を、その体積を上回るほどの肉を収めても消えない飢餓感が襲う。

鳴き声を上げ、キチキチと歯を鳴らし、それは気が狂いそうになる。尽きぬ空腹感、決して満たされない飢餓感。食んでも食んでも、許されない狂気。

 

母も、こんなものを抱えていたのだろうか。

 

一瞬だけ、食欲に支配されるそれの脳裏を謎の思考が過った。

ノイズめいたそれは単なる感情の走りで、決して言葉として明文化されるようなものではない。そしてそれも、すぐに狂いそうな飢餓感の前に永遠に消える。

 

それは身を震わせ、激しく身を震わせ、内臓を掻き乱される感覚に絶叫しながら、無意識に己とは別個の存在を生み出した。

 

突然に出現した白い塊は、歩き方を忘れたように背中から地面を転がった。

獲物を全感覚器官で知覚したそれは、躊躇いなく転がる塊に食らいついた。

悲鳴すら上げさせずに、平らげる。平らげた後、また飢餓に苦しむ。そして苦しみ足掻いた果てに、再び己とは異なる存在が世界に生まれる。

 

繰り返し繰り返し、それはその行いを続ける。

独りだ。他に何もない世界だ。建物も、森も、土も、空気も風もあるのに、獲物だけはいない、独りなのだ。

 

それは、食み続ける。

そしてやがて、『それ』もまた、己と異なる食欲に食まれて消えてなくなる。

 

また新しい独りが、独りでなくなるのを繰り返し、世界は回る。

 

――満たされない飢餓感が、満たされることはない。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

一瞬、目の前を覆い尽くした凄まじい影の存在にスバルは息を呑んでいた。

 

「――――」

 

詠唱したベアトリスによって生み出された漆黒の球体は、エミリアによって封じ込められた大兎を包む雪原を丸ごと呑み込み、そのまま圧縮されてドンドン小さくなって、やがてビー玉以下のサイズにまで縮み、音もなく消失した。

それが何を意味するのか、原理はわからなくとも結果はぼんやりと理解できる。

 

アル・シャマク――シャマク系の最大の魔法は、空間に作用する魔法なのだ。

そしてその魔法は雪原ごと大兎の群れを呑み込み、別次元へと奴らを吹き飛ばした。再生も増殖も、これならば何の意味もない。

文字通り、それは別世界の話なのだから。

 

「禁書庫みたいに……隔離した空間にあいつらを飛ばせねぇかとは言ったけど……」

 

「ご不満なのかしら?」

 

圧倒的な所業に声を震わせるスバルに、隣でベアトリスが唇を尖らせている。

腰に手を当ててふんぞり返る少女は、スバルの態度にいたく不服のご様子だ。

 

「ホントに、すごい……」

 

スバルの隣で、エミリアもまたその結果に目を丸くしている。

エミリアの場合、スバルよりも魔法の造詣が深いため、その驚きはもう少し別のベクトルで訪れていることだろう。半身の凍結も、かなり大規模な魔法を使ったことで多少は収まってきているようだ。あとの制御は、おそらく大丈夫だろう。

 

首を巡らせ、スバルは大兎がいた場所に何もいないのを確認。

背後を振り返り、墓所の安全も確認。墓所からひそやかに顔を出すのは、無表情のリューズの群れ。リューズの複製体も、どうやらみんな避難できているらしい。

墓所の入口の脇にはロズワールが寄り掛かっており、その腕にラムがいる。

 

そして、ラムの手がロズワールの頬に触れ、ロズワールが泣いているのが見えた。

 

「――――」

 

それを見て、スバルは急速に胸のつかえがなくなるのを感じる。

まだ、きっと話し合わなくてはならないことがたくさんある。屋敷にも、オットーやガーフィールたちを残してきたままだ。無事だとは思うが、合流してちゃんとした話をしなくてはならない。こっちでのことも、エミリアからたくさん聞きたい。

 

ただそれら全てが、何となく大丈夫なんじゃないだろうかと思えた。

 

まだ確認できていないことがたくさんあるのに、泣いているロズワールと、それを微笑んで見ているラムを目にしたら、大丈夫なんじゃないかと思えたのだ。

 

「スバル、ほら」

 

長い息を吐いたスバルの頬を、エミリアがふいに指で突いた。

自分を見るスバルにエミリアは微笑み、それからスバルの背後を手で示す。そちらではまだ、ベアトリスが腕を組んでむくれた顔のままでいて、

 

「何か一言、この功労者にあってもいいと思うのよ」

 

頬を膨らませる幼い仕草に、スバルは小さく顎を引いた。

そして、

 

「わ、きゃっ!」

 

脇の下に手を差し込んで、その軽い体を一気に抱き上げる。

可愛らしい悲鳴が上がるのも無視して、スバルは少女を抱いたままその場で回り、

 

「よくやってくれた!さすがだ、愛してるぜ、ベア子!!」

 

「ちょ、待っ!ちが、はな、離すかしら!ベティーはこんな……っ」

 

「よーしよーし!可愛い可愛い!ベア子素敵!ベア子最高!ベア子万歳!」

 

大讃美しながら、スバルはベアトリスを抱えたままくるくる回る。

抱き上げられるベアトリスは顔を真っ赤にし、エミリアははしゃぐ二人をひどく優しげな目で見つめている。

 

そうして勢いよく、喜びを全身で表現して、回り続けた精霊と契約者は、

 

「あ――!」

 

最後には足を滑らせて、二人仲良く雪に顔面から突っ込んでいった。