『水面に波紋を残して』


 

「――じゃあ、始めるわね」

 

かすかに横顔を緊張させながら、エミリアが室内に透き通る美声を響かせる。

彼女はその銀鈴の声音で、その場にいる全員に語りかけ――あるいは自分に言い聞かせるように言って、その細い両腕を持ち上げた。

 

「――――」

 

瞑目し、掲げた両手にマナを集中させ始めるエミリア。

莫大な魔力が渦巻くのと、それを精緻に操作するための極限の集中力。どちらを欠いても目的に達せない、彼女にしかできない試みだ。

 

「――――」

 

真剣な面差しで大魔導に臨むエミリアに、いくつもの無数の視線が浴びせられる。息を呑み、彼女の挙動を見守るのは身を寄せ合う女性や子どもたちだ。

彼ら、彼女らはあるものは互いに手を握り合い、またあるものは祈るように願うように目をつむり、ただ不安と希望だけはお互いに共有して震えていた。

 

「……辛いな」

 

そして、多くの複雑な感情を一身に浴びるエミリアを、スバルは同じ空間の端から静かに見守っている

 

場所は都市プリステラの地下施設の一角だ。

もともと、緊急時の物資が備蓄されていた倉庫であり、あらかたの中身を放出した今の姿は本来の目的に適っている。石造りの地下は物が置かれていないと、広々としていることがかえって薄暗さと寒々しさを強調しているようであった。

ただ、そんな場所だからこそ、今の目的には相応しいというべきなのか。

 

「それがいいことだなんて、言わないけどな」

 

「感傷的なことを呟くのはやめるかしら。誰に聞こえてもよくないし、エミリアだって集中が乱れるのよ」

 

思わず漏れたスバルの呟きに、すぐ傍らに立つベアトリスの忠告が入った。

スバルの左手と手を繋ぎ、空いた方の手で自分の縦ロールを弄ぶ少女は、眼前で行われている白い儀式をジッと見つめている。

その薄青の瞳がスバルには、どこか痛みを堪えているようにも思えて、

 

「エミリアなら大丈夫だよ。そんなに心配すんな」

 

「……勘違いするんじゃないかしら。ベティーが心配してるのは、エミリアじゃなくスバルなのよ。誰彼構わず、感情に共感するのは悪い癖かしら」

 

「さいですか」

 

握られる手の力が強くなり、少女の配慮にスバルは唇をへの字に曲げた。

ベアトリスの言いたいことも、気遣われていることもわかっている。だが、それをわかった上での決断が、今のスバルの判断であるのだ。

その点は曲げられない。迷惑ばかりかけると、それもわかっているが。

 

「――――」

 

スバルたちの静かな言い合いを余所に、エミリアの儀式は進められている。

持てる限りの集中力を注ぎ込むエミリアは、白い息を吐きながらうっすらと額に汗を浮かべていた。膨大なマナの制御に、心身ともに全力を傾けている。

 

エミリアの両手を中心に、青白い光がうっすらと地下を包み込み始める。

視界が曖昧に白くけぶるほどの冷気、にも関わらずその冷たさは肌を刺すのではなく、まるで剥き出しの心を抱くような柔らかさがあった。

 

低体温症にかかり、死を目前にした人間は寒さを忘れると聞く。極限の冷気は人間から正しく温度を感じる機能を奪い、命を奪う最後の餞に温もりを与えるのだと。

あるいはそれに近いものが、この白い世界にはあるのかとぼんやり思うが、スバルはすぐに無粋なだけだと首を横に振った。

 

青白い光が空間を満たし、冷気が部屋の中央へと集められる。

そして、光の中心には――、

 

「――――」

 

体を丸め、翼を畳んだ黒い巨体――黒竜が横たわっている。

異形はそれだけに留まらず、黒竜の周囲には人ほども大きさのある蝿がひしめき合っており、ある種の悪夢めいた光景そのものを思わせた。

 

だが、その光景にスバルは嫌悪感を覚えない。

――否。正確には黒竜と人蝿の姿形に、嫌悪感を覚えないよう強く意識した。

 

彼らは被害者であり、何の罪もない無辜の人々だ。

大罪司教『色欲』の悪意の犠牲者であり、人外へと変異させられた被害者。

その作り変えられた肉体を元の姿に戻す手段は、今のスバルたちの知識の中に存在していない。だからこそ、今回の方策が選択されたのだから。

 

「先延ばしにしかならないのかもしれねぇけど……」

 

「時間がある、ということはそれだけで救いになることもあるのよ。差し迫れば視野は狭まって、本来なら得られるはずだった選択肢も浮かばなくなる。そのことに気付けないのも、あとで気付いてしまうのも……どっちも残酷なことかしら」

 

スバルの呟きに、独り言のようにベアトリスが応じる。

その小さくか細い嘆息には、実際に長い長い思案の時間を過ごしたものだけが抱くことのできる達観と感傷があった。

言葉の端にそれを感じ取り、スバルはベアトリスに何も言えず、ただ黙ってその頭を撫でてやる。

 

「……なんなのよ」

 

「なんでもねぇよ」

 

いくら時間をかけても、正しい選択ができるとは限らない。

時には時間を費やしても、正しい選択を選び取ることができない場合もあろう。

それでも、選んだ選択が最善となるように行動していくことはできる。

 

ベアトリスの四百年に対し、スバルの出した答えはそうだ。

そしてこの都市で起きた悲劇にもたらされる時間も、そうあることを願う。

 

「――――」

 

そんなスバルの感慨と、地下を満たす冷気の最高潮が重なり、やがて空気のひび割れるような音が鳴り響いたかと思うと――、

 

「……無事、終わりました」

 

白い息を吐きながら、エミリアが振り返る。

かすかに息を乱し、その場にぺこりとお辞儀する彼女の背後――そこには全身を白い結晶に覆われ、その魂ごと氷の内側に封じられた命たちがあり、

 

「――っ」

 

泣き崩れる家族や、嗚咽を漏らす恋人。

感謝よりも先に、悲痛な慟哭が飛び出し、それは地下に無情に響き渡る。

長く長く、愛するものとの制限のわからぬ離別に、悲しみの際限などないかのように延々と木霊し続けた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「とりあえず、エミリア様の提案はうまくいったみたいで一安心……って考えてもよさそうでしょうか」

 

集会場の話し合いと、その後のエミリアの変異被害者の凍結作業――その両方の報告を受けて、オットーが安堵した顔で頷いた。

 

場所は避難所を脱して、一応は治療院の個室に担ぎ込まれている。

寝台の上の彼の容体は見た感じ変わらず、両足に巻かれた包帯が痛々しい。それでも野戦病院のような待遇からはひとまず抜け、両足を吊っている分だけずいぶんとマシになったといえるだろう。

本来、オットーの立場は都市防衛に貢献した功労者の一人なので、もう少し質のいい手当てを受けてもよさそうなものだが、本人が言い出さないので、スバルはたぶん周囲に配慮しているんだろうと口出ししないことにしていた。

 

「言葉にしないで察するおもてなし……それがワビサビの神髄ってもんだ」

 

「ナツキさんがここにいても心ここに在らずなのはいつものことなんでいいんですが……エミリア様はお疲れ様でした」

 

頷いているスバルは無視して、オットーが見舞いのエミリアの労をねぎらった。彼女はその労いに眉尻を下げると、

 

「ううん、それは平気。それより、オットーくんに相談もしないで勝手に話を進めてごめんなさい。だけど、私にしかできないことだと思ったから」

 

「ああ、それはいいんです。怒ってなんてませんし、その行い自体は尊い善行には違いありませんから。それに打算的な意味でも大いに価値のある行いです」

 

「打算……?」

 

「わかった方がいいんでしょうが、わからないならわからないでも……いや、どうなんだろう。あれ、正直どっちがいいのか僕には難易度が高いんですが」

 

「考えるな、感じろ。それがE・M・Tだ」

 

イマイチ自分の行いの結果に自覚のないエミリア。そんな彼女の態度に頭を抱えるオットーを、スバルは魔法の言葉で大らかに流して「それより」と続け、

 

「足、やっぱりしばらく無理そうか?」

 

「プリステラの現状だと、これ以上の治療は難しいですね。負傷者の多さに都市の治癒術師の数が追いついてません。いっそ別の都市の治療院に転院した方がいいかもなんて思いますが、近隣の都市にはキリタカさんが片っ端から使いを出して、治癒術師を呼び寄せているらしいんですよ。なので、大人しくここで余所の治癒術師が駆けつけてくれるのを待つか、お屋敷まで帰った方が賢明かもしれません」

 

たはは、と弱々しく笑い、オットーはしばしの前線離脱を余儀なくされる。

オットーほどの深手になってしまうと、かなり高度な治癒魔法を扱える術師でなければ簡単には癒せない。禁書庫時代のベアトリスか、フェリスレベルでなくては。

 

「そのフェリスはクルシュさんに付きっきりだし、うちの癒し系特攻隊長はプリステラ中を飛び回ってるしな。……理由はやっぱ、あの家族だろうけど」

 

「小さい姉弟と、お母さんの三人よね。あの竜の姿をした人がお父さんだから、四人家族だったんだと思う」

 

この場にいない特攻隊長――ならぬ、ガーフィール。

彼は今頃、あちこちで人手の足りない都市中を飛び回り、その復旧作業に全力で勤しんでいる。もともと、ガーフィールは心根の真っ直ぐで優しい少年だ。この都市に何の思い入れもなくても、困っている人になら躊躇なく力を貸してしまう。

ただ、それにしてもプリステラへの注力ぶりは群を抜いていた。そしてその理由はなんとなく、スバルは察しがついている。

 

「俺たちに話さないってことは、色々と込み入った事情があるんだろうな」

 

「うん、そうよね。……そうだ、話は変わるんだけど、ガーフィールとあの家族ってちょっと似てるところがない?髪の毛の色と瞳の色が綺麗に一緒で」

 

「エミリアたん、話変わってないよ?」

 

「え!?」

 

仰天しているエミリアはともあれ、ガーフィールはそんな塩梅だ。

本来であれば彼自身、決して軽傷とはいえないダメージを全身に負っているはずなのだが、『地霊の加護』と底無しの体力を理由に安静にする素振りもない。

おまけにそんなガーフィールに付きまとい、傷が開いては弟たちに迷惑をかけているミミもいるのだから騒がしいといったらなかった。

 

「まぁ、ガーフィールの真意についてはそのうちに勝手に漏らすでしょう。僕たちがあえて聞き出そうとする必要はないかと。それより……」

 

「うん?」

 

「あ、いえ、お二人が全然触れないから僕も何も言いませんでしたけど、ベアトリスさんはなんであんなにむくれてるんです?」

 

上体を傾けて、オットーが病室の片隅――そこで赤い頬を膨らませ、見るからに不機嫌な目つきで頭を左右に揺らしているベアトリスに話の水を向ける。

と、スバルはその疑問に「ああ」と頷いて、

 

「それはアレだ、ほら。お前のお使いで復元術師のとこにいって、そこで門前払いされたことに不貞腐れてんだよ。……多角的に見るとお前の責任じゃね?」

 

「いやあ、さすがにそれはどうかと……ねえ、エミリア様」

 

「うん、そうね。自分の精霊の面倒を見るのは契約者として当然の義務。だからベアトリスをあやすのは、スバルがやらなきゃなことなんだから」

 

「あやすって言っちゃったし、それ言い出すとエミリアたんがパックのこと面倒見てた記憶があんまり俺の中にないんだけど」

 

「揚げ足取らないの!それに私、スバルの見てないところでちゃんと色々やってました。毛繕いとか、爪磨いたりとか、抱いて寝たりとか……」

 

精霊との付き合い方のフォーマットとして参考にしていいのか疑問だが、パックのことを語るエミリアの表情は晴れ晴れとしている。

これまで、『聖域』での突然の別離が突き刺さり、パックのことを思い出す彼女の表情には憂いの色が強かったのだが、その段も抜けたようだ。

 

――エミリアの胸元には、無色の大魔石を加工した結晶石が飾られている。

 

パックと別れる以前、彼女が肌身離さず身に着けていたものと同じ意匠で、表情の華やかさも相まってエミリアらしさが舞い戻っていた。

彼女はその細い指で結晶石に触れると、

 

「今はまだ、パックが戻ってくるだけの力が足りてないけど……私とパックの契約は切れてないから、顕現できるだけのマナが溜まればまた会える。もうちょっとだけの辛抱だから、ね」

 

「それもベア子の功績と……まぁ、キリタカの厚意に感謝だわな」

 

もともと、スバルたちが都市プリステラに足を運んだ理由が大魔石の入手だ。

本当は交渉の末に譲る譲らないの話になるはずが、とんだ遠回りの商談もあったものである。ともあれ、実際に物は手に入って大満足だが。

 

「だからベア子、お前も機嫌直せって」

 

「別にむくれちゃいないかしら。スバルの思い違いなのよ。つーん」

 

「やだ、ベアトリス可愛い……」

 

わかりやすいSEまで付けて、ベアトリスはご機嫌を取ろうとするスバルから顔を背ける。背後でキュンキュンきているエミリアにスバルも同感だが、可愛いことと話し合いできるかどうかはまた別なのである。

 

「ダーツ氏も職人気質な人のようですからね。一度引き受けた仕事を半端に投げ出せない、というのはわかります」

 

「けど、さすがに職業意識が極まりすぎてんのもどうかと思うぞ。あの人、騒ぎの間もずっと工房で仕事してたらしいじゃねぇか。仕事人間すぎるだろ」

 

「そこまでいってこその職人、ですよ」

 

「そこまでいってこその職人、か」

 

何故、オットーが自慢げなのかイマイチわからないが、なんかそう言い切られるとそれでいいような気がしてくるから男の子は単純だ。職人気質って格好いいし。

ただ、頷き合うスバルとオットーに、ベアトリスは苛立った目を向け、

 

「でもだからって、依頼主の言葉もガン無視するのはいただけないかしら。倍額払うから返せって言ったのに、うんともすんとも言いやがらなかったのよ」

 

「幼女が札束でほっぺた叩いて言うこと聞かせようなんて、よほどその道に精通した玄人以外にはご褒美にならねぇよ。エミリアたんからも言ってやって」

 

「そう、そんな風に考えたらダメよ、ベアトリス。無駄遣いするなら、お小遣いは取り上げちゃうんだから」

 

「二人揃ってなんて失礼な扱いかしら!」

 

憤慨するベアトリスがカーテンを掴み、それに包まって隠れてしまう。

すると、エミリアが我慢できなくなってベア子INカーテンに抱きつき、「ぎにゃーなのよ!」と悲鳴が上がった。

 

そんな微笑ましい幕間劇はさておき、ベアトリスの気持ちもわからなくはない。

オットーが復元術師ダーツに依頼し、スバルたちが回収しようとしたのは破損した『叡智の書』だ。所有者であったロズワールがあれだけ、スバルに先んじて未来を妨害しようと試みた原因――その内容には当然、興味がある。

 

「邪魔らしい邪魔こそしなくなっても、のらりくらりは一緒だからな、あいつ」

 

妨害行為自体がばれても、表面上のロズワールの態度は以前と変わらない。

無論、飄々とした振る舞いの裏側であれだけ悪巧みされていたのだから警戒は欠かしていないのだが、毒気の抜けたような雰囲気があるのも事実。

とはいえ、傍観者的な立ち位置で、協力的といえるほどではないのは同じだ。

 

「せめて『叡智の書』の先が見えて……」

 

ロズワールが何も企んでいないのだと、以前のことはどうあれ、とりあえず先々の道は一緒に歩いても大丈夫なんではないかなと確信が持てれば、もうちょっと今後の陣営の在り方にも良い影響があるかなと。

 

「俺はそう主張したいわけなんですよ」

 

「そんな一生懸命に弁明しなくても、僕もエミリア様も大体はナツキさんと同意見ですから大丈夫ですって。ガーフィールだけはまぁ……私怨がありますから、事実関係がわかっても態度は変わらないかもしれませんが」

 

私怨とは果たして『聖域』のことか、それともラムのことなのか。

そのことには触れず、スバルはじゃれているエミリアとベアトリスを眺め、

 

「あの本のことはベアトリスも他人事じゃないからな。確認できるもんなら確認したいって気持ちはあるんだと思う。禁書庫から連れ出せたことと、過去が吹っ切れたってこととはまた別の問題だし」

 

「何度も、相談しようとは思ったんですよ?」

 

「責めてるわけじゃねぇよ」

 

『叡智の書』を回収したことも、それを復元しようとしたことも、それらを全て個人でやり切ろうとしたことも、オットーなりの好かれと思った判断だ。

そして基本的に、オットーの配慮が外れた経験はほとんどない。私利私欲で動く人間でないことも、十分に承知だ。

 

「お前、ホントに商人向いてねぇな……」

 

「放っておいてくれます!?それより、ダーツ氏はなんと?」

 

「これまでで一番の大仕事になるかもしれねぇと。料金は据え置きでいいから、最後まできっちりやらせてほしいとさ」

 

期限が切られなかったことが不安だが、相手も職人だ、無理は言うまい。

まさか、期限を過ぎてもごねるタイプの職人ではないと信じたいが。

 

「じゃあ、結局、『叡智の書』の回収のこともありますし、僕はプリステラに残るのが既定路線って感じでしょうかね」

 

「ガーフィールもしばらく、復旧作業と都市防衛に残すつもりだ。一応、追っ払ったってことで話はまとまってるけど、それがフェイントで再襲撃!なんてやらないとも限らない連中だからな、あのクソ共」

 

嬉々として悪意の天丼をやらかしそうな連中だ。

その点についてはスバルだけの認識ではないらしく、関係者全員が警戒を抜け切っていない。無用の緊張感を強いて苦しめる、それも奴らの狙いの可能性があるが。

 

「それ言い出すと、もうどうしようもねぇしな」

 

「ともあれ、経過を見守るのは必要だと思います。僕も足がもうちょっとまともになり次第、色々と調べて回ってはみますよ。ただ……」

 

今後の方針を話し合いながら、オットーはそこで言葉を中断した。

彼は寝台から無理やりに上体を起こすと、片目をつむるスバルを見上げる。そして自分のこめかみを指で叩きながら、

 

「はっきり言っておきますが、僕は反対しておきますよ」

 

「……まぁ、お前はそうだろうよ」

 

オットーの断言に、スバルは苦笑した。

彼がそう言って反対するのは、スバルにとっては十分予想できた態度だ。

 

なにせ、オットー・スーウェンはナツキ・スバルを正しく評価している。

スバルの無力を誰より痛感しているのはスバル自身だが、そんなスバルの足りなさをしっかりと理解しているものはそれほど多くはない。

せいぜい、ベアトリスとオットー。そこにパトラッシュが入るぐらいか。あるいは今はそれどころではないが、フェリスあたりもそうかもしれない。

 

それだけに、同陣営のベアトリスとオットーに反対されるのは予想していた。パトラッシュにも言葉が通じれば、同じように反対されるだろうと思う。

ただ、

 

「俺のことをそこまでわかってるお前なら、俺の答えもわかってるはずだ」

 

「……ベアトリスさんの不機嫌は、本当はダーツ氏のことだけじゃないでしょう?」

 

「さて、どうだろな。さすがに俺もベア子の心の奥底まではわからねぇし」

 

肩をすくめながらスバルが嘯くと、オットーが呆れた顔をした。

当然、耳聡い彼ならば伝承・噂についての知識は事欠かないだろう。スバルの選択の危険性も、十分に熟知しているはずだ。

その上でスバルは、オットーに「悪いな」と前置きして、

 

「ちょっくら、白狐のガイドで賢者とやらに会ってくらぁ」

 

と、笑ったのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――どうぞ」

 

一応の礼儀として扉をノックすると、中から静かな声で返答があった。

聞き慣れたものだが、覇気に欠けた声であり、スバルは無性にそれが気に障る。

 

「君か、スバル」

 

「俺で悪いか」

 

「これが不思議なことに、今は君の顔を見るとひどく安心する」

 

「カーッ、ぺっ」

 

室内に足を踏み入れて、最初に交わした悪態をそんなアクションで締めくくる。

そんな態度を示しつつも、後ろ手に扉を閉めるスバルの手つきには配慮がある。音を立てずに扉を閉めるのは、中で眠るものたちへの最低限の礼儀だ。

 

「騒がしくして目覚めてくれるなら、その方がよほど救われるだろうに」

 

「もしそうなら、お前が拍手喝采の一発芸でも披露してくれるってのか?そりゃ貴重なワンシーンだ。見逃させた『暴食』にはますますムカついてくるわ」

 

「ふ」

 

息を抜くような笑みに、スバルは視線を合わせずに首を傾げる。それからなんとなしに室内を見回し、ずらりと並ぶ寝台の列に目を細めた。

簡素なベッドに薄手のタオルケット、そこに眠る人々への施しはそれだけだ。そして、それ以上のものは必要ないこともスバルは知っている。

 

ここに眠る人々は思い出に忘れられ、日常から切り離され、ただ死んでいないだけの不完全な存在として残り続けるのだから。

 

「ユリウス。俺が言うのもなんだけど、あんまりここにいるもんじゃねぇぞ」

 

「――――」

 

「ジッと見てても、思い出せないものは思い出せない。最愛の妹でも……本当に半身みたいな相手でも、そうなるんだ」

 

安易に慰めの言葉は用いず、スバルは青年――ユリウスへ呼びかける。

並ぶ寝台の隅、一番端のベッド脇に腰掛けていた彼は顔を上げ、その整った面差しに隠しきれない憂いを宿して、

 

「知識として知ることと、実感として知ることでは全く異なる。自惚れていたわけではないが、私は今まで自分が頭でっかちな人間とは思っていなかったよ。こうなるまで気付けないとは、自省の限りだ」

 

「――――」

 

言いながら、ユリウスはすぐ傍らのベッドを見下ろす。

当然、そこにも『名前』を失った食欲の被害者が寝かされており、その意識と思い出は世界から切り離されてしまっている。

だから、ユリウス・ユークリウスはその人物――長い紫色の髪をした、細面の青年が自分の弟のヨシュア・ユークリウスであると思い出せずにいるのだ。

 

「ヨシュア、か」

 

彼が弟の名前を呼べるのは、関係性と名前をスバルが彼に教えたからだ。

『暴食』の権能の被害者――身元不明の、意識が戻らない人間が多数見つかったと報告された時点で、スバルはレムと同じ被害を受けた人間が出たと確信した。

そして自分であれば、忘れられた人々を忘れずにいるかもしれない。そのささやかな希望だけを頼りに病室を訪れ、眠るヨシュアを発見したのだ。

 

「不思議なものだ。君から話を聞かされて、確かに血の通う肉親であると判断できるだけの共通点もあるのに、私の中には弟の記憶は欠片もないのだから」

 

感情を面に出さず、ユリウスは瞑目する。

『暴食』の被害者の中、見つかった知人はヨシュアただ一人だけだ。それ以外の三十余名にも及ぶ被害者は、スバルの記憶にも縋り付くことができず、誰に安否を気遣われることも悲しまれることもなく、眠り続けている。

 

そう考えれば、兄に心配されるヨシュアは幸せな方だといえるのだろうか。

あれだけ慕った兄に忘れられて、その兄も形だけの兄弟愛に縋るように病室へ足を運び、実感のない弟へ呼びかけるような環境でも。

 

忘れられても、忘れても、思い出にいなくても、事実だけあっても、辛いだけ。

 

「……クソったれ」

 

わかっていたはずだ。わかっていたことだった。

『暴食』の大罪司教の権能が、この世で最も唾棄すべき罪悪であることを。

 

感情を意のままに捻じ曲げる『憤怒』も。

人間の尊厳を形ごと砕き、踏み躙る『色欲』も。

自己以外全てを否定し、独りよがりな全能感を押し付ける『強欲』も。

勤勉の一言を免罪符に、他者の営みを身勝手な愛で塗り潰す『怠惰』も。

 

誰一人、生きるに値しない最悪の悪意には違いなくても。

『暴食』ほどあらゆる命を、冒涜する存在が他にいてたまるものか。

 

「――ここにいても気が滅入るだけだぞ。何度も言わせんな」

 

嫌なことばかりが脳裏を掠める。

その苛立ちを舌に乗せて、スバルはユリウスに呼びかけた。その言葉にユリウスは立ち上がり、見覚えのない弟の薄い胸に触れて、

 

「呼吸は、している。生きてはいる。不思議なものだ」

 

「そういうもんなんだよ。でも、飯は食べないし、トイレもいらない。風呂に入れる必要もないんだ。……笑いもしない」

 

「忘れられたことの悲しみも、だ。――その点は幸いかもしれないな」

 

「幸い……?」

 

ユリウスのこぼした一言に、スバルは眉を上げて反応する。

振り返るユリウスはかすかに口の端をゆるめ、弱々しい微笑を浮かべながら、

 

「忘れられたことに気付かなければ、取り残される不安に怯える必要もない。親しいはずの人々に一方的に関係を絶たれるのは……なかなか堪えた」

 

「――――」

 

「スバル。忘れられることと、忘れることと……どちらの方が辛いのだろうね」

 

「そんなこと……」

 

その問いかけに、スバルは喉が詰まった。

答えに詰まったのではない。答えは、一瞬で出来上がっている。だからスバルの言葉を遮ったのは戸惑いではない。激情だ。

シニカルな笑みを浮かべるユリウスを、スバルは睨みつけた。

 

「そんなこと、俺が知るかよ。ふざけるな、浸ってんじゃねぇ」

 

「……スバル?」

 

「忘れるのも、忘れられるのもどっちもクソ喰らえだ!辛いことに順番なんか付けようとすんな、後ろ向きかお前!?世界で一番不幸だみたいな顔しやがって。俺とこれまでの不幸比べしてみるか?どうせ俺が勝つぞ!?」

 

「――――」

 

指を突きつけ、声を荒げるスバルの豹変にユリウスは絶句した。

目を丸くして、突然激高したスバルに彼は何も言えない。そうして押し黙るユリウスを見ながら、スバルは突きつけた指を下ろし、肩を上下させながら、

 

「弱気な面、してんじゃねぇ。お前が辛いのも、忘れられて居場所がねぇのもわかってるけど……でも、お前に弱い面されるのは御免だ」

 

「――――」

 

「忘れたのか、ユリウス。――いや、忘れるな、ユリウス」

 

唇を噛みしめて、激情を孕みながら、スバルはユリウスを睨みつけた。

胸に手を当てて、かつて一度、そうしたように断言する。

 

「お前の強さは俺の目が知ってる。俺の恥が知ってる。誰が忘れたとしてもだ」

 

「――――」

 

息が切れる、頭に血が上った感覚が消えない。

本当に、これだけ怒り心頭になったのはいつぶりだ。レグルス以来だ。まだ半日程度しか経っていないことに愕然とした。

このプリステラの騒動は、どれだけスバルの心肺に負担をかけるのか。

と、

 

「ふ、はは……」

 

「ああ?」

 

「はは……いや、君は本当にとんでもない男だ。それを改めて実感して……」

 

それまでの驚愕の表情を消して、ユリウスはふいに腰を折って笑い出した。

笑いの衝動に押し負け、不満げなスバルの前でユリウスは笑い続ける。そして、次第にその衝動が収まると、ユリウスは長く息を吐いて、

 

「そうか、そうだな。何もかもに置き去りにされたわけではなかったのだったね」

 

「置いてけぼりっていうか、三馬身差ぐらいでお前の方が前だ」

 

「三馬身で足りるだろうか?」

 

「ぶっ飛ばすぞ、お前!俺とベア子のペアなら、前と全然違うからな!」

 

中指を立てて、調子を取り戻し始めるユリウスに唾を飛ばす。

するとユリウスは飛んだ唾を優雅に避けて、「なるほど」と一礼して、

 

「では、その大言に期待させてもらうとしよう」

 

「……おお、そうしろ。お前もせいぜい、みんなの記憶に戻ったときに驚かれるぐらいの大活躍しろよ」

 

キザったらしい態度に、スバルは今度は立てた親指をひっくり返して挑発。その下品な行為に、スバルだけが知る『最優の騎士』は優美に笑い、

 

「――ではまず最初に、記憶のある君を誰より驚かせるよう努力するとしよう」

 

そう言って、待ち受ける『プレアデス監視塔』への同行の意志を固めたのだった。