『勇気ある選択』


 

「うおわ!」

 

右手に鋭い衝撃があったと思った直後、掴んだ鞭のグリップがもぎ取られる。

とっさに抵抗しようと手に力を込めたが、持っていかれる力には到底敵わず、それどころか前のめりにつんのめり、「あべし!」と地べたにひっくり返された。

 

「いてて……」

 

「日々、精進あるのみです。まだまだ修練不足のご様子。お粗末」

 

「返す言葉もないッスわ……」

 

地べたに倒れ込み、頭上から降ってくる辛辣な指摘にスバルは顔をしかめる。ゆっくりと体を起こせば、こちらを見下ろす怜悧な美貌と視線がかち合った。

濃い青の髪を丁寧に切り揃え、爬虫類を想起させる鋭い目つきをした男性。その片目に付けたモノクルと執事服の印象通り、きっちりかっちりとしたスマートな仕事人だ。

彼の名前は――、

 

「――クリンド!スバル様になんてご無礼なことなさいますの!」

 

「――――」

 

そう、クリンドと呼ばれた青年が無言で視線を横へ向ける。すると、のしのしとこちらへ歩いてくる長身の女性の姿が目に飛び込んできた。

 

金色の長い髪を揺らし、美しい翠の瞳をしたスタイルのいい美女だ。黒を基調としたメイド服に身を包んだ彼女はクリンドを素通りし、地べたのスバルの下へ歩み寄ると、そっと白い手拭いを差し出してくれる。

 

「大丈夫でしたの、スバル様。見たところ、顔から地べたに……」

 

「ああ、平気だってフレデリカ。ちょっと服がドロドロに汚れたけど、それぐらいいつものことだし」

 

ありがたく手拭いを受け取り、顔を拭うスバルを心配げに見つめる美女――フレデリカは、その答えに「ですが」と食い下がる。

しかし、そのフレデリカの言葉にやれやれと肩をすくめたのはクリンドだ。

 

「仰られた通り、スバル様の修練としては通常運行だ。むしろ、君の方こそ大げさに騒ぎ立てて、スバル様に恥を掻かせているのでは?お節介」

 

「んな!」

 

クリンドの物言いに顔を赤くして、フレデリカが鋭い歯を見せて目つきを鋭くする。

そうして睨み合いを始めた二人の間で、スバルは「また始まった……」と頭を抱えたい気分になった。

 

――クリンドとフレデリカ。

 

執事服とメイド服、共にメイザース家に仕える使用人という立場だが、古い付き合いであると聞く二人の関係はあまりよろしくない。

普段はどちらも物腰丁寧で気配りもできる有能な使用人なのだが、こうして二人が接触すると、何かにつけてすぐに言い合いが発生する。

それはロズワールの政務について、使用人として非常に高度な意見交換の場合もあれば、ただ単に廊下で道を譲る譲らないのくだらない論争のこともある。

早い話、馬が合わないという関係性らしいのだが――、

 

「フレデリカ、俺の心配してくれんのは嬉しいけど、大丈夫だって」

 

「いいえ、スバル様の心配なんて。ただ、この男の取り澄ました顔や態度、配慮のない発言が腹立たしいだけですのよ……!」

 

「俺の心配じゃなかった!恥ずかし!」

 

「あ、いえ!心配していないわけでは!もちろん、スバル様のことは心配しておりますわ。わたくしだけでなく、ペトラもです」

 

思わず口走ってしまった風なフレデリカ、彼女の口から出されたペトラの名前にも、スバルは指で頬を掻きながら苦笑いするしかない。

ラムを除いた屋敷の女性陣――特にペトラには心配をかけっ放しだ。

現状も、手の離せないペトラに代わり、フレデリカがスバルの様子を見てくるよう頼まれた、というあたりが真相だろう。

 

「ただ、頼んだのは俺の方からなんだ。スパルタになるのは覚悟の上……何としても、師匠がアンネローゼのところに帰る前に一皮剥けねぇと」

 

「――良いお覚悟です。こちらも指導に力が入るというもの。発奮」

 

と、スバルの答えを聞いたクリンドが腕を振るうと、彼が手にした象牙色の鞭がしなりながら空気を爆ぜさせる。

同じ武器で、スバルの習得の手伝いをしてくれるクリンド。そんな彼の技術や立場を尊重し、スバルはクリンドを師匠とそう呼んでいた。

 

「実際、教わらなきゃ独学にも限界があっただろうしな。身近に鞭が使える人がいてくれて助かったぜ」

 

「お役に立てて光栄です。歓喜。しかし、私以外にも鞭を使えるものでしたら他にもおりますよ。候補」

 

「え、誰か使えたの?言葉の鞭を操るって意味でラムとかじゃないよね?」

 

「スバル様、そのような考えは……いえ、ラムの場合は否定できませんけれど」

 

落とした自分の鞭を拾い、次に備えるスバルの軽口にフレデリカが苦い顔。そんな二人の様子を見比べ、クリンドがモノクル側の目をつむり、

 

「簡単なことです。旦那様ですよ。万能」

 

「じゃあ、絶対に教わりたくねぇや!」

 

言いながら、スバルはあってないような選択肢を踏み躙り、鞭を振るった。

本気の速度ならば音速をも超えるトップスピードを発揮する鞭、その先端が唸りながら狙うのはクリンド――ではなく、二人の間にある切り株の上の薪だ。

 

丸い切り株の上に立てられた薪を鞭で搦め捕ること。

それがクリンドから出されたスバルへの課題であり、今日まで一度も達成できていない高いハードルだった。

それは純粋に、スバルの技量が未熟で薪を鞭で捉えられないからではない。

 

「狙いが見え見えです。阻止」

 

「ぐ……!」

 

放った鞭の先端を、恐るべき精度でクリンドの鞭が打ち払う。

この妨害を乗り越え、薪を鞭で手元へ引き寄せるのが課題の条件だ。これが、スバルが一度もハードルを越えられていない真相である。

 

「狙ったところへ当て、狙ったものを搦め捕り、狙った成果を発揮する。剣や槍に頼るのではなく、鞭を選んだ実を果たせなくては。無意味」

 

「だ!で!ど!クソ!涼しい顔で打ち払われる!言われなくてもわかってらぁ!俺の小賢しさを活かす道は、これしかねぇん……だぁ!?」

 

払われた鞭を引き寄せようとして、その先端が再びクリンドに搦め捕られる。

事実に気付いたときには遅い。次の瞬間にはバランスを崩され、大して力も入れていないようなクリンドに、スバルはあっさりと引き倒されていた。

 

「おとばしらっ!」

 

「派手にいきましたね。受け身も重要ですよ。警戒」

 

「す、スバル様!」

 

またしても前のめりに倒れ込んだスバルへ、フレデリカが駆け寄る。今度は顔面から地面に打ち据えられ、鼻からぼたぼたと血がこぼれた。

それを、慌ててフレデリカが手拭いで押さえてくれて、

 

「クリンド、これはいくら何でもやりすぎですわよ!」

 

「スバル様の立場を思えば、仕方のないこと。必要。君もあまり、男児の奮起を邪魔立てしてはいけない。理解」

 

「男児の奮起だなんて……」

 

信じられないという顔をするフレデリカだが、クリンドは首を横に振った。そして、彼は怜悧な瞳で、鼻血を拭っているスバルを見据え、

 

「スバル様、教えを乞うたあなたの姿勢を私は評価しています。立派。騎士としてエミリア様のお傍に立つ以上、あなたには力がいります。エミリア様やご自身を守り抜くための力が。必須」

 

「……ああ、わかってる。だから、厳しくやってもらってありがたいよ」

 

ふがふがと鼻を鳴らしながらも、スバルの士気は折れない。

それを見て取り、フレデリカもきゅっと唇を結んだ。

 

「殿方同士は、ガーフのようにお馬鹿さんですわね……」

 

「馬鹿さだけじゃなく、腕っ節でも並べたら大助かりだったんだが、そうもいかないみたいなんでな」

 

鼻を押さえ、鼻の穴の片方ずつから血を吹き出し、強引に鼻血を止める。

それから立ち上がったスバルを見やり、クリンドは深々と顎を引いた。

 

「前向きに足を止めず……その姿勢、実に快いものです。待望」

 

「そりゃどうも。……鞭の扱いがマシになれば選択肢が増える。選択肢が増えれば、俺だけじゃなく、俺の周りの取れる手が増える」

 

「ええ。ですが、過信なさらず。スバル様が一人で戦わなければならない場面など、そうそう訪れるものではないでしょう。援護」

 

顎をしゃくったクリンド、彼の示した先にいるのはフレデリカだ。

彼女を始めとして、スバルの周りにはガーフィールやオットー、何より一番近くにはベアトリスがいてくれる。守るために戦うなら、当然、エミリアも。

だから、クリンドの言い分は正しい。

スバルの戦いは、スバル自身が勝利をもぎ取るのではなく、スバル以外の誰かを活かすことで成り立つものだ。

 

「ちなみに、もしもうっかり、俺だけみたいな状況になったらどうしましょ」

 

「逃げるべきです。一目散」

 

「――――」

 

冗談まじりの軽口を、しかしクリンドは笑わなかった。

ほとんど起こり得ないような状況だが、それでもないとは限らない。そんな追い込まれに追い込まれた絶体絶命な状況で、クリンドのアドバイスは端的だった。

 

「逃げることです、スバル様。それはもう、一目散にみっともなく、なりふり構わず全力を以て逃げる。それが得策です。唯一」

 

「その語尾だと、マシな手ってより、他に手段がないって聞こえるな……」

 

その言葉に、クリンドは表情を変えないまま答えない。

答える必要のない。つまるところ、その通りだという証左なのだろうが。

 

「ったく、俺のお師匠さんは容赦がねぇ!」

 

「あの男は昔からそうですのよ。見込みのある相手を厳しく育てて……でも、自分の興味がなくなったらポイっと放り出しますの。冷たく、残酷に」

 

「デリカさん?なんか、声が冷たくなってますよ?」

 

触れたら切れそうな殺傷力を感じて、おずおず尋ねるスバルにフレデリカは「知りません!」と不機嫌に顔を背けた。

それから彼女はメイド服の裾を払い、

 

「決めましたわ。わたくしも、スバル様の特訓の成功を応援します。ぜひ、あのクリンドの涼しい顔にほえ面を掻かせてくださいまし」

 

「それは、結構厳しい要求だなぁ……!」

 

「あら、エミリア様に王様になれと求めていらっしゃる方が言いますの?」

 

さすがは有能なメイド、挑発をやらせても一流だ。

フレデリカの言葉にスバルは目を見張ると、「確かに」と悪い笑みで頷いた。それから、力強く鞭を構えて、

 

「そうまで言われてできないなんて男が廃る!やってやるぜ、見てろ!」

 

勇ましい掛け声と共に、スバルが振りかぶった鞭を全力で放った。

ビュンと鋭い軌道を描いて、鞭の先端が真っ直ぐに切り株目掛けて宙を奔り――、

 

「意気込みはご立派ですが、技量が拙い。稚拙」

 

「ぐ、ぐああああ――っ!!」

 

「す、スバル様――っ!!」

 

またしても、顔面から思い切り地面に引き倒されるのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

頭上で大木がへし折られ、真っ二つになる衝撃波が全身を打つ。

それを背中に浴びながら、スバルは口内を満たした鉄錆臭い血を吐き出した。

 

「――――」

 

腕の中、柔らかく熱いレムの体がある。

自分の手も足もついている。どうやら、矢の一撃の回避には成功したらしい。それだけわかれば、この瞬間は及第点だ。

 

「い、いきなり何を――っ」

「黙ってろ、舌噛むぞ!」

 

とっさのことに反応の遅れるレムだったが、彼女の反論に耳は貸せない。

スバルは抱え込んだ彼女の体を引き起こすようにして、前に倒れた次は後ろへと倒れ込み、レムを抱きしめたまま勢いよく転がる。

腕の中、レムが悲鳴を押し殺しているのを感じるが、それはもっと大きな音――へし折られた大木が倒れてくる轟音によって遮られた。

 

直前まで、スバルとレムが伏せていた場所が大木に押し潰され、その転倒に巻き込まれる他の木々が森林破壊を広げていく。

自然に生かされる人間として、その事実にはひどく胸を痛まされるが――、

 

「――今はこっちが優先、だ!」

 

倒木が巻き上げる土埃に紛れながら、スバルは転がる勢いを止めない。レムの抵抗があるが、火事場の馬鹿力任せで力ずくに引き寄せる。

そのまま、転がり、転がり、転がった先で、不意に地面が消滅した。

 

「ぐおおっ!」

「きゃあ!?」

 

浮遊感は一瞬のことで、すぐに地面が落ちた二人を受け止める。

いくつもの倒木と、土砂が降り積もった大穴――それは、レムがスバルを陥れるために作った落とし穴だった。

あえて、その大穴へ転がり込むことで、相手からの射線を切ったのだ。

ただし、その代償がゼロというわけではない。

 

「が、ぐ……だ、お、折りやがったな……!」

 

無我夢中でレムを抱き寄せた左腕、その彼女に掴まれた指がへし折られた。中指と薬指と小指、お父さん指とお母さん指以外が全滅だ。

おかしな方向を向いた指を直視しないようにして悶えるスバルから、同じ大穴に落ちたレムが這いずって逃れ、距離を取る。

 

「当然です!あんないきなり……いったい、何が起きてるんですか!?」

 

「……話しそびれたけど、森の中に危ない狩人がいるんだよ。鹿狩り目的で誤射したって可能性は、ほぼほぼこれで消えたけどな。……づぁっ」

 

額に脂汗を浮かせながら、スバルは折れた三本の指を真っ直ぐに伸ばし、ひとまず、枝の一本を添え木にして手拭いで固定する。

折られたのが左手の指だったのは不幸中の幸いだ。これで利き手かつ、鞭を扱う右手だった場合、スバルの行動力は小学生ぐらいまで低下するところだった。

 

「危ない狩人……あなたの味方ではないんですか?」

 

「味方がこんな勢いで援護射撃するか?大体、何のための援護射撃……うお!?」

 

そっと穴から頭を出し、外の様子を窺おうとした瞬間、すぐ目の前の倒木が爆ぜた。

どうやら狩人はスバルたちを狙い撃つため、まずは視界を綺麗にすることを優先し始めたようだ。こちらに遠距離攻撃の手段がないと見切られている。

 

「本来なら、狙撃手は存在がバレた時点で位置を変えるのがセオリーのはずだろ……クソ、舐められてやがる。何にも言い返せねぇが」

 

「――。これが弓矢の威力?信じられません。こんなの、普通じゃない」

 

「ああ!俺もそう思うよ!きっと、撃たれたら胸にでかい風穴が開くだろうな!」

 

実際には矢で射抜かれ、そのまま木に縫い付けられて昆虫標本みたいな死に方をしたのが前回の結果だ。

ただ、おかしな点がなくもない。――前回と、スバルは反対の森へきたのに。

 

「どうして、てめぇがこっちにきてやがる……?」

 

折れた指から伝わってくる痛みが、スバルの脳をガンガンと錐で突いてくる。

その痛苦に割れそうなぐらい奥歯を噛みしめながら、スバルは必死に思考を働かせた。

 

この狩人と、スバルを殺した狩人が別人とは考えにくい。

どちらもスバルへ攻撃を仕掛けてきているし、得物が同じ強弓だ。問題は、この襲撃が偶発的なものなのか、狙ったものなのかの違い。

 

いずれにせよ、何故この瞬間にスバルを狙ったのか、疑問は尽きない。

スバルとレムが対峙し、彼女の拒絶にスバルが棒立ちになったのは事実だが、だからといってこれまで以上に狙いやすい位置というわけでもなかったように思う。

 

その上、もし積極的に相手がこちらを狙うなら、尾行されていた可能性が浮上する。

イマイチ状況は曖昧だが、プレアデス監視塔からスバルたちがどういう形で飛ばされてきたのかは把握できていない。もしかしたら、空を流れ星みたいに飛行し、あの草原へと墜落した可能性も無きにしも非ずなのだ。

もちろんその場合、レムはともかく、か弱いスバルの体が粉々になっていなければ説明がつかないため、それとは異なる状況だったと想定されるが。

 

「あの場に落っこちてきた不審者を狙ってる、とか……」

 

あるいはここが私有地で、不法侵入した相手を過激に追っ払おうとしている。弓の精度に反して、その手加減が下手なのが狩人――と受け取るのはどうか。

 

「だったら、話し合いができるんじゃないのか!おい!俺に敵意はない!俺たちがこの森にいるのはたまたまの偶然で……」

 

「ちょっと待ってください!その、俺たちというのは私とあの女の子も含めているんですか?あなたと一緒にされたくありません!」

 

「今そんなこと言ってる場合じゃ――どわぁ!?」

 

停戦を呼びかけるスバルへの返答は、地面を大きく抉った矢の一発だ。

途中のレムとの言い合いも消し飛ぶような壮絶な威力は、遠からず視界の障害物を一掃し、大穴のスバルたちへも牙を剥くだろう。

 

「どうやら、話の通じる相手ではないみたいですね……」

 

「相手が矢だと、曲射で当ててくる可能性も想定しなきゃならねぇ……本気でスナイパー相手みたいに、何時間も構えられたら……いや、さすがに弓矢の場合、スコープ覗いてるのと違うんだから、長時間は無理なのか?」

 

よく映画や漫画などで、狙撃銃を扱うスナイパーが何時間もじっと獲物を待ち構えるといったシーンが登場するが、さすがに弓矢では勝手が違うだろう。

動かすのが引き金だけでいい銃と違い、矢は弓につがえ、弦を引いていなくてはならない。異世界の常識外れの体力の持ち主たちでも、限界はある。

そうなれば、敵の狩人が狙うのも――、

 

「――短期決戦」

 

そう遠くない段階で相手が何らかの手を打ってくると考え、スバルは長考する余裕がないと、己自身に制限時間を設ける。

相手が話し合いに応じるつもりがない以上、戦いは避けられない。そして、避けられない戦いなのに使える手札はあまりに貧弱だ。

 

「お師匠さんの教え通り、逃げの一手しかない」

 

幸い、大穴へ飛び込んだおかげで、相手はスバルたちの位置を目視できない。穴の反対側から上がり、姿勢を低くして逃れれば茂みへ逃げ込めるかもしれない。

あるいは――、

 

「――――」

 

「――?急に黙って、どうしたんですか。今、逃げる算段を立てていたのでは?」

 

「……さすがに緊急事態だし、話を聞いてくれる気にはなったみたいだな」

 

「む」

 

形のいい眉を寄せ、土の上に膝を畳んだレムが不愉快そうな顔をする。

しかし、それですぐに攻撃してこない以上、スバルと口論する余裕がないことは彼女もわかってくれたらしい。

一時休戦と、彼女の敵意がいったんでも引っ込められるなら話は早い。

 

「レム、聞いてくれ。俺が飛び出して奴の目を引きつける。その間に、お前は穴の反対をよじ登って避難するんだ」

 

「は……?」

 

「相手の矢の威力はやべぇが、遮蔽物なら緑の大自然だけにより取り見取りだ。それでどうにか時間を稼いでみせっから、お前は逃げてくれ」

 

レムを連れて逃げるのと、レムに先に逃げてもらうのと。

どちらの成功率が高いか考えた場合、後者の方ではないかとスバルは考えた。相手がどれだけ弓の達人だとしても、ここは木々の立ち並んだ森の中で、スバルは矢が飛んでくる可能性を考慮して立ち回るのだ。簡単には射抜けまい。

 

「十分時間が稼げたら俺もとんずらする。ただ、逃げたお前と離れ離れにはなりたくねぇから、できれば道しるべは残してくれ。わかりづらいと思うんだが、俺の地元で矢印って記号があるから、それで大体の方角を……」

 

「――勝手なことを言わないでください」

 

「レム?」

 

てきぱきと、逃げるための方策をレムに伝えるスバル。だが、そんなスバルの説明を遮って、レムがスバルを強く鋭く睨みつける。

その視線の鋭さに息を詰め、スバルはどうしたのかと困惑した。そして、レムはそんなスバルの困惑にますます苛立った様子で、

 

「全部、何もかも自分一人で決めて……挙句、私に逃げろと言うんですか?子どもを見捨てようとしたのを理由に、あなたに怒っている私に?」

 

そう、最初にスバルを拒んだのと、同じ理由でスバルの提案を拒絶した。

その理屈は、わかる話だ。善なる人間性が為せる答えだと、そう言えるだろう。だが、それがこの状況において、スバルを見捨てさせまいとするとは思わなかった。

 

「それは……でも、俺は」

 

「言い訳は結構です。時間もありません。でも、私だけに逃げろという指示はお断りします。そもそも、あの子を置いてもいけません」

 

驚きを隠せずいるスバルから視線を外し、レムが穴の外へ意識を向ける。

彼女の意識が向いたのは、最初の矢が吹き飛ばした大樹――そこからやや離れた位置にある別の大木だ。

 

「いないと思ったら、あいつはあそこに隠してるのか?こんな騒ぎになってるってのにどうやって大人しく……」

 

「……連れ歩くのが大変だったので、気絶させました。しばらくは起きないかと」

 

「お前……」

 

この期に及んで、スバルたちの離脱のお荷物となるルイ。そのことに芽生えかけた憤懣が、レムのあまりにレムらしい答えを聞いて砕け散る。

やや過激なその即断、実にレムとしか言いようがない。

 

「……私も、よくない手だったとは思っていますよ」

 

「いや、現状じゃ妙手だったんだろうよ。――相談だが、あいつを置いて一緒に逃げてはくれないんだよな?」

 

「自分が何者かもわからない私ですが、そんなことをするぐらいなら舌を噛んで死にます」

 

はたして、レムがその程度で死ぬのか怪しいところだとスバルは思ったが、試してみるだけだったとしても、レムにそんなことはさせたくない。

正直、ここでルイを放り捨てて、レムと離脱するのがスバルにとってのベストな選択肢だったが、レム自身がそれを許してくれそうになかった。

 

「影に呑まれる前、仏心を出した俺を呪うぜ……」

 

『緑部屋』が影に呑み込まれる際、レムだけでなく、とっさにルイの体も抱きかかえてしまったことがこの事態を招いた。もはややり直すこともできない場面だが、あそこの選択は間違えたと声を大にして言い張れる。

 

「どうするんですか?」

 

「……やるよ。連れてくる。あの木でいいんだな?」

 

「――。はい。木のうろに寝かせてあります。勝算はあるんですか?」

 

「師匠には、強敵とやるときは迷わず逃げろって言いつけられてるよ」

 

彼我の実力差の把握云々の話ではない。

どうせこの世界、大抵の相手はスバルよりも強いのだから、出くわす相手は全員が格上だと思っておくのが自衛手段として最適だ。

だからこそ、逃げ出すのを最優先に。しかし、もしも逃げられないなら――、

 

「使えるもんを全部使う。レム、嫌だろうけど、手を貸してくれ」

 

「――。それが、あの子を助けるためでしたら」

 

差し出した手をじっと見つめて、レムはその手を握らない。

ただ方策を練ったスバルに、不承不承といった素振りで頷いてくれたのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

一度強く左腕を振り、折れた三本の指の調子を確かめる。

痛みは、ある。ジンジンと消えない痛みが脳に爪を立てるような感覚を味わいながら、スバルはそれが走り出す邪魔にならないよう、覚悟を決めた。

そして――、

 

「――しっ!」

 

ぐっと力を込めて、大穴から小ぶりな倒木を地上へ押し上げた。

次の瞬間、押し上げられた倒木へと、凄まじい速度で迫った矢が突き刺さる。衝撃が倒木を腕からもぎ取り、勢いよく背後へ吹っ飛ばされた。

 

「うおおおお!!」

 

それを尻目に、スバルは大穴から這い上がり、荒れた地面を踏みしめる。

弓術に自信のある狩人であろうと、弓の速射には限度がある。銃とは違い、矢をつがえて弦を引いて、狙いを定めなくてはならない。

このタイムラグが、スバルにわずかな生存の目を――、

 

「――早いです!!」

 

大穴から這い上がったスバルが、最初の一歩を蹴り出した瞬間だった。

時間にしてみれば、最初の一発が囮の倒木を吹き飛ばしてからほんの二秒――だが、熟練の狩人には、その二秒で次を放つには十分だった。

 

「――っ」

 

レムの声が聞こえた直後、スバルの背後で地面が吹き飛ぶ。

呼びかけに硬直し、守る姿勢に入らなかったのが功を奏した。もっと言えば、呼びかけに反応できるほど神経が優れていなかっただけだが、結果オーライ。

 

そのまま、目的の木に向かって走るスバルへ、続けざまに二秒以内の間隔で矢がくる。

それに追われれば、スバルも遠からず針ねずみのようにされる。

しかし――、

 

「させません――!」

 

狩人の次なる攻撃は、勇ましい声と共に放り投げられた土塊によって中断する。

それは大穴の勾配に背を預け、土のついた大石を構えるレムの投擲――否、砲撃ともいうべき強烈な攻撃だった。

 

「魔法の使い方がわかればベストだったんだが……!」

 

戦力確認の際、レムは魔法や鬼族の角の力の使用に難色を示した。正しくは、それらの使い方が思い出せなかったというのが事実だ。

ただ、それらの技術を思い出すために時間を費やすこともできない。故に、スバルが代わりに提案したのが、技術はなくともその身に宿ったままの腕力――、

 

鬼族の生まれ持ったフィジカルを利用した、原始的な暴力による蹂躙、それがスバルたちを弱者と侮り、位置を変えなかった狩人へと襲いかかる。

 

「窮鼠猫を噛むってなぁ!存分に味わいやがれ!!」

 

すぐ足下で発生する矢の衝撃波を飛び越え、吠えたスバルの視界、狩人が矢を放ってきた方角へとレムが放り投げた大石が飛び込んでいく。

 

「あ、あああぁぁぁ――ッ!!」

 

いざ敵対すれば、手加減を知らないのがレムのチャームポイントだ。

念のためにと拾い集めた石ころが、彼女の華奢な腕から投じられるだけで、凄まじく危険な凶器へと早変わりだった。

 

「その、レムが時間を稼いでくれてる間に――ッ」

 

狙撃を砲撃で叩き潰す、正しい兵器運用を行いながらスバルが目的の木へ達する。

そのまま大木の裏へ回り込めば、内部が腐って開いたうろの中、己の金髪にくるまるようにして眠っているルイの姿が目に飛び込んできた。

 

「――――」

 

桜色に色づく頬と、微かに上下する胸を見て、生きていることを確認。

と、その体に腕を伸ばそうとして、スバルは己の内側に強烈な拒絶感を覚える。割り切ったつもりでも、脳ではなく、魂がルイを拒絶している。

 

たとえ幼気な寝顔を晒していたとしても、これは大罪司教。

許し難い大逆人なのだと――、

 

「足を止めないでください!!」

「――っ!」

 

その逡巡が、切迫したレムの訴えによって砕かれる。

それを聞いた途端、スバルは拒絶感を何とか呑み込み、ルイの体を担ぎ上げた。そして軽い体を掴んだまま、木のうろから飛び出し、レムの下へ――、

 

「――あ?」

 

そうして、飛び出したスバルの眼前、不意の黒い影が道を阻んだ。

同じ道を通って大穴へ戻る想定だ。こんなモノは、道中にはなかったと、そうスバルが突如として現れた影を見上げる。――そして、絶句した。

 

「――――ッッ!!」

 

音もなく森をすり抜け、スバルの前に立ちはだかった巨大な影。その正体は、全長十メートル近くはあろうかという大蛇だった。

全身をびっしりと緑の鱗で覆い、黄色い瞳をした大蛇。その突然の闖入者の額に、ねじくれた白い角があるのを見て、スバルはその正体を解する。

 

「魔獣――っ!!」

 

その威容を目前にして、スバルは馬鹿な見落としを後悔する。

スバル自身、自覚症状があったはずだ。自分が現在、この異世界へ呼ばれて以来、最も魔女の残り香を強く発している状態であることに。

となれば、アウグリア砂丘でそうであったように、これまで多くの場面でそうしてきたように、魔獣がスバルへ引き寄せられるのは必定。

こんな、人の行き来の少ない暗い森の中など、まさしく格好の住処だと。

 

「――――ッッ」

 

くわっと大口を開け、大蛇がスバルへと狙いを定める。

スバルどころか、抱えているルイごと呑み込んでも余裕のありそうな大口、それが間近に迫るのを見て、スバルの時間の感覚が緩慢なものへ変わる。

 

――あ、マズい。

 

と、スバルはその他人事のような感覚の中でそう感じる。

ゆっくりと緩慢に世界が揺らめいて見えるのは、いわゆる走馬灯を見ているときのそれと近いものだ。走馬灯とは、死を目前にこれまでの人生経験の中から脳が助かる術を探していると、そんな説がある。

しかし、スバルの場合、いくら脳内を探しても、大蛇に呑まれるのから辛くも逃れた経験などない。強いて近いのは兎の群れだが、走馬灯さえ拒否したい記憶。

 

そんな、益体のない思考に微かな瞬間が費やされ、スバルは身をすくめる。

とっさにルイを庇うように動いた自分の体を呪いながら、大蛇の大口に頭から――、

 

「――――ッッ!?」

「うぁ?」

 

思わず目をつむったスバルの頭上、びしゃびしゃと何かが降り注ぐ。

よもや、食前に消化液をぶちまけるタイプかと嫌な想像が走ったが、そうではない。スバルの全身を汚したのは、ぶちまけられたどす黒い血。

 

鋭い矢に胴体を射抜かれた大蛇がぶちまけた、大量の喀血だったのだ。