『シュドラクの民』


 

不遜かつ傲慢な笑み――覆面越しのそれを向けられ、スバルは静かに息を呑む。

 

この不遜な男は、草原とレムとはぐれた際、スバルに道を示し、あのナイフを譲ってくれた相手に相違あるまい。覆面姿のせいで断定はできないが、声にも態度にも覚えがあった。相手がスバルの名前を知っているのも、その証だ。

 

「――――」

 

木製の檻の中、土が剥き出しの地べたに寝かされ、手足どころか全身ボロボロの状態のスバル、その命運は途切れず続いているらしい。

トッドたち帝国兵を引き連れて森に入り、自分の瘴気を囮にして魔獣を呼び寄せ、彼らを襲わせる隙をついて逃れようとして――、

 

「それから、俺は……」

 

「聞けば、森を彷徨っていたところを罠にかかったらしいぞ。獣を獲るための罠に人間がかかったと、集落の連中が騒ぎ立てていた」

 

「罠に、集落……?」

 

覆面男の説明を受け、スバルは痛む頭を振りながら檻の外に意識を向ける。

スバルを閉じ込める木製の檻は、帝国兵の陣地で見た鉄製のそれと比べると、ずいぶんと粗末な造りの代物だった。簡易的というか、突貫で作られたものに見える。

 

そして檻の外、遠目に見えるのは背の高い木々の群れと、それらを切り開いて作られた土地――スバルの印象としては、『聖域』の集落が近いだろうか。

『聖域』も、クレマルディの森と呼ばれる深い森の中に作られた集落だった。ただし、森の中にあっても家や教会といった建物のあった『聖域』と異なり、こちらの集落はいい言い方でログハウス、悪い言い方で原始的な住居ばかり。

自然派と、そういう言い方でお茶を濁しておくのが吉と思えた。

 

それに、それ以上にスバルにとって重要なのは、集落の貧相さではなく、その集落で暮らしているのが誰なのかということ。

つまり――、

 

「――『シュドラクの民』?」

 

「ほう、知っていたか。まぁ、貴様のその見苦しい在り様を見れば、たったの一日でさぞかし苦難を背負い込んだのだろうよ。はぐれた女は見つかったのか?」

 

「……あぁ、おかげさまでな」

 

スバルの呟きを聞きつけ、そう問うてくる覆面男にスバルは深々と息を吐いた。

余裕のある態度を崩さない覆面男、しかし、彼もまたスバルと同じように檻の中にいるのだ。彼がこの集落の重要人物で、囚われの相手と一緒に檻に入るという奇特な趣味がない限り、その立場はスバルと同じ状態だろう。

帝国の陣地でなったばかりだが、スバルはここでも捕虜になったというわけだ。

ただ、それだけではない点もあった。

 

「――これ、肩とか背中の傷、手当てしてくれてるのか?」

 

自分の肩や背中に触れ、きつく締め付けられる感覚から止血されているとわかる。つんと鼻をつく刺激臭も、消毒液など薬液のそれに近いものに感じた。

そのスバルの疑問に、覆面男は「ふん」と鼻を鳴らし、

 

「手当てがなければそのまま死にかねん有様だったからな。連中も、貴様の扱いには困ったのだろうよ。俺同様、どうするのが正解なのかとな」

 

「あんたの、その余裕はどこから……」

 

「強いて言えば、魂からだ。貴様こそ、いつまで醜態を晒す気だ?ナツキ・スバル」

 

「余計な――」

 

お世話だと、そう言い返そうとしたところで、傷の痛みに奥歯を噛む。

手当ては最低限、スバルを死なせないためのモノであって、傷を急速に塞いだり、痛みを取り除くためのものではない。帝国の陣地で受けたものより、環境は劣悪だ。

そう、帝国の陣地のことを思い、スバルは気付く。

 

その帝国の陣地に、一刻も早く帰り着かなくてはならない理由があったのだと。

 

「しま……俺がここに連れてこられて、どのぐらい経った!?」

 

「――。そうさな、二時間といったところか。言っておくが、俺からくれてやる十分な温情だぞ。思うところがなければ、もっと早くに起こして――」

 

「なんで、もっと早く起こしてくれなかったんだ!」

 

「――――」

 

震える膝を地面について、そう訴えるスバルに覆面男が目を細める。

彼からすればとんだ言いがかりだ。傷だらけで運び込まれ、瀕死の状態だったスバルを二時間寝かせたのは、静養が必要だと判断したためだろう。

その後、スバルの頭を踏んだのが我慢に耐えかねての犯行なら、彼もまたヴォラキア的な人間性の持ち主であるとも言える。だが、それなら――、

 

「もっと早く、我慢の限界を迎えてくれてりゃよかったんだ」

 

「これは異なことを。貴様、何を言っているのかわかっているのか?貴様は、もっと早く俺に頭を踏まれておけばよかったと、そう言っているのだぞ」

 

「ああ、そうだよ!他にどんな……づっ、くぅ……ッ」

 

理不尽な理屈を口走りながら、スバルの視界が赤く明滅する。

全身余すところなく痛むが、特に強く痛むのは背中、肩甲骨あたりに新たに生まれた刺し傷――最後、逃げるスバルを狙ったトッドのナイフの一撃だ。

思い返せば、刺されたナイフは目の前の覆面男にもらったもので、それに傷を負わされた状態で彼と再会するのも、何とも因果なものである。

ともあれ――、

 

「帝国の陣地に、レムを置いてきちまった……森で魔獣とぶつけた帝国兵たちが陣地に戻る前に、俺も戻らねぇとレムが……」

 

トッドたちが森を抜け、陣地へ戻り、諸々の報告を済ませるまで時間がない。

大蛇が隊列を砕いた際、ジャマルたちは当然ながら魔獣への対処を優先した。だが、あの中で唯一、トッドだけがスバルを殺すことを優先したのだ。

おそらくトッドは、魔獣を引き寄せたのがスバルだと勘付いている。そして、あの場でトッドはスバルに二匹目を呼ばせないよう、即座の処理を実行しようとしたのだ。あの一瞬の判断力と実行力は侮れないし、侮ってはならない。

一応、レムたちとの関係の薄さを強調し、スバルについての情報を聞き出すことはできないと印象付けたつもりではあるが――、

 

「確証がないなら、とりあえず拷問してみるぐらいはしかねない」

 

そういう怖さが、トッドを始めとしたヴォラキア帝国にはある。

それをさせないためにも、スバルはレムを救いに戻らなくてはならない。

なのに――、

 

「こんなとこで……!」

 

「――。なるほどな。察するに、そのレムというのが貴様の探していた女か。俺と別れたあと、よほどの目に遭ったらしい。森の外の、帝国兵か?」

 

「ああ、そうだよ!捕まってたんだ!それで逃げるために一芝居打って……でも、レムは連れてこれなかった。だから……」

 

「その必死さか。道理で、捕虜慣れした面構えだと思ったものよ」

 

「誰が捕虜面だ!そもそも――」

 

捕まっているのは覆面男も同じではないか。

恩義のある相手とはいえ、余裕のなさからそう怒声を上げそうになるスバル。だが、そのスバルの軽挙を、とある気付きが阻害した。

 

「――――」

 

売り言葉に買い言葉、覆面男との言い合いに集中していたスバルは、自分の横顔に突き刺さる別種の視線を感じたのだ。

振り向いてみれば、檻の外、格子の隙間から中を覗き込む二つの光が見えた。ゆっくりと像を結べば、それが緑色の双眸だとわかる。

その双眸の主は、スバルの視線がそちらへ向くと、目をぱちくりとさせ、

 

「――あ、ウーに気付いタ」

 

「な……」

 

「ミーに教えなキャ」

 

そう言って、すっと格子から離れる双眸の主。スバルは慌てて、「待ってくれ!」とそれを止めようとするが、間に合わない。

スバルが格子に飛びつく頃には、相手はするするとその場を離れ、こちらを一顧だにしないで走り出してしまったところで。

 

「今のは……」

 

「『シュドラクの民』の娘だ。好奇心が強いのだろうよ。俺が一人でいたときも、何度かやってきては中を覗いていた。やれ顔を見せろ、覆面を剥げとうるさいことこの上なくてな……」

 

「――――」

 

覗き相手の態度に不満があるらしく、覆面男が腕を組みながらぶつくさとぼやく。

生憎と、その愚痴に相槌を打つ余裕がスバルにはなかった。スバルの意識は、遠ざかっていった相手――その幼い少女に奪われていたからだ。

 

十歳かそこらの幼い、褐色の肌をした少女だった。

白い衣を体に巻いて、動きやすい露出の多い格好をしているのは、こうした亜熱帯の雰囲気がある土地に適応した装束なのだろう。

おかっぱに近い髪の毛の、その先の方だけ桃色になった特殊な髪色は、おそらく染色しているのが理由だろうか。髪の付け根の方は黒い色をしており、『シュドラクの民』は黒髪だというトッドの説明とも合致する。

 

だが、それ以上に少女の外見がスバルに衝撃をもたらしたのは、彼女の姿かたちの特別さではなく、それが初めて見るものではなかったからだ。

 

「――俺を」

 

殺した少女だと、そうスバルの記憶が主張する。

あの少女こそが、毒矢を使ってスバルの背中を射抜き、死に至らしめた少女だ。

スバルの失言が理由で密林に火が放たれ、炎の燃え広がっていく土地から逃れ、憎悪に濡れた瞳でスバルを睨んでいた、あの少女――。

 

スバルの中で点と点が繋がった。

あのとき、少女が憎悪を宿した表情でスバルを見ていたのは他でもない。――あれは、自分の土地と仲間を焼き殺した原因への、復讐だったのだと。

 

「どうした、水を浴びせられたように大人しくなったではないか」

 

「――ぁ」

 

木の格子に額を当てて、唇を噛んでいたスバルの背に男の声がかかる。

覆面男は最初の位置に座ったまま、感情の乱高下が激しいスバルを見つめている。その瞳がひどく居心地が悪く、スバルは彼から視線を逸らした。

 

「掴みどころのない男だ。いずれにせよ、喚き散らすのはよすがいい。ここでは黙らせるにも面倒が多い。無駄に体力も浪費する。いちいち叫ばずとも――」

 

「叫ばなくても……?」

 

「――向こうから、話を聞きにやってくる。そら」

 

そう顎をしゃくる男に従い、振り返ったスバルは目を見開いた。

ゆっくりと、薄暗い視界を照らしたのは炎――松明の光だ。松明を手にした複数の人影が現れ、それがスバルたちのいる檻の方へとやってくる。

 

先頭に立つのは鍛えられたたくましい体つきをした長身の女性。元々は黒いだろう髪を赤く染めた女性は、褐色肌の顔や体に白い模様のペイントを入れており、ひどく目力の強い印象の緑の瞳をしていた。

そんな彼女の背後に、ひょっこりと隠れてついてくるのが先の少女。こちらへやってくるのは十人ほどの集団で、全員が女性のようだった。

 

「――――」

 

しかし、その圧迫感にスバルは思わず気圧されてしまう。

野性味のある雰囲気の集団は、ルグニカ王国の騎士団や、先に見かけたヴォラキア帝国の軍人たちとも違い、本能的に統率された獣の一団のような美しさがあった。

論理ではなく、本能を核心に置いて作り上げられた集団、そんな印象だ。

 

彼女らの歩みにそんな印象を抱いたスバル、そのスバルを閉じ込めた檻の前に立ち、女性たち――『シュドラクの民』は、檻の中の二人を見据えた。

そして――、

 

「目覚めたようだナ。――お前たちは、いったい何者なのダ?」

 

と、スバルと覆面男を一緒くたに問いかけてきたのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

――お前は何者なのか。

 

わりと物語ではよく聞く話だが、実際に問われることはあまりない類の質問だ。

正体を怪しまれ、それを問い詰められるという状況は、実生活の中ではそうそう起こるものではない。聞く側も聞かれる側も、そういう問いかけをしなくてはならない職業以外なら、あるいは一生縁のない言葉と言えるかもしれない。

 

そういう意味では、スバルにとっても馴染みのあるとは言えない質問だ。

ただ、人生で最初にそれを聞かれたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。

 

スバルが何者で、何を目的としているのか。

人生で初めてスバルにそれを聞いたのは、屋敷でスバルの正体を怪しんだ、レムからの問いかけに他ならなかったからだ。

 

「お前じゃなく、お前たち……?」

 

と、そんな思い出を振り切って、スバルは問いに疑問符を浮かべる。

同じ牢に入れられているとはいえ、スバルと覆面男との関係性は薄い。というか、同じ牢に入れたのは向こうの都合で、スバルの関与はゼロに等しい。

それで同じ立場扱いというのは、いささか乱暴な発想ではないのか。

 

「つまらぬところに引っかかるな。貴様と俺とは見知った仲だと、そう奴らに告げたのは俺だ。問いかけも、それが理由に過ぎん」

 

「おま……っ!見知った仲って……そこまでじゃねぇだろ!?」

 

「嘘はついていない。俺も貴様も、互いを見れば知った相手とわかる。見知った相手と呼ぶのに、それ以上の何がいる?」

 

「め、めちゃくちゃな論調……」

 

あまりに強引な話術だが、その強引な論調にスバルは覚えがあった。

それこそ見知った相手の一人に、こういう論理を振りかざしてスバルや他の人たちをやり込める人物がいる。

偉い人間というのは、こういう輩が多いのかとスバルの頭がくらくらしたが――、

 

「おい、こそこそと何を話していル。質問に答えロ」

 

「あー、あー、俺の名前はナツキ・スバルだ。見ての通り、哀れで惨めなボロボロの迷子!それから、後ろの奴は……ええと?」

 

「――アベルだ」

 

「そう、アベル!覆面被ってて顔も隠してる上に性格も傲岸不遜の嫌な奴だが、道に迷ってる相手にナイフをプレゼントしてくれるところもある、その意外性がもたらすギャップで何人も女の子を泣かせてきたプレイボーイ、そんなところで自己紹介どうぞ!」

 

「お、おお……?私はミゼルダだガ……」

 

畳みかけるようなスバルの勢いに呑まれ、先頭の女性――ミゼルダがそう名乗る。

そうしてよくよく相手を見る余裕が生まれれば、ミゼルダを始めとした女性たちの雰囲気を表す、非常に的確な言葉が見つかった。――『アマゾネス』だ。

 

女性が多く、鍛えられた強靭な肉体を持ち、部族や少数民族のイメージに合致した体のペイント、弓を背負っているものもいるなど、まさしくといった様相。

『シュドラクの民』とは、スバルの認識するアマゾネスで相違ない。

 

「何気に、覆面マンの名前がアベルって判明したのも驚きの事実だが……」

 

「――――」

 

「今はそれは後回しだ!聞いてくれ、ミゼルダさん、それにシュドラクのみんな!」

 

覆面男――アベルへの言及は後回しにして、スバルは集まった女性たちへ声を上げる。

見たところ、彼女たちは問答無用でスバルを殺すようなつもりはないらしい。それは手当てしてくれていることからも、話を聞く姿勢を見せてくれたことからも窺える。

ならば、誠意を込めて真摯に話し合えばわかってもらえるかもしれない。

 

「知ってるかもしれないが、この森の外に帝国の兵隊が陣地を作ってる。そこには俺の大事な女の子が捕まってて、今すぐ戻らないと危ないんだ!だから、俺を解放してくれ!」

 

「――――」

 

「それから、兵隊は『シュドラクの民』を目的にしてる。話し合えればいいって言ってるが、最悪、戦いになるのも覚悟の上って構えだ。もしあれなら、俺が……」

 

とりなして、話し合いの場を作ってもと言いかけ、スバルは口を噤んだ。

確かにそれができれば、帝国兵とシュドラクの民との間に戦いは起こらないかもしれないが、それをスバルが手引きすることはもはや不可能だろう。

トッドたちの認識では、スバルは彼らを魔獣の罠にかけた張本人だ。信用などされるはずもないし、それを期待するのは虫が良すぎる。

 

スバルは明確に、レムとトッドたちとを天秤にかけたのだ。

そして、レムを助けるために彼らに危害を加えることを選択した。その選択の責任から逃れることはできない。

 

「悪い、今の発言は訂正する。兵隊がシュドラクのみんなを狙ってるのは本当だ。かなりの人数で陣を張ってるから、戦っても……」

 

「――我らが負けるというのカ?」

 

「あ……」

 

物量や取れる作戦の違い、そうした点から不利なのは否めない。

そう伝えようとしたスバルを遮り、ミゼルダが静かな声で言い放った。その反応を聞いて、スバルは自分が言葉を選び違えたと理解する。

 

『シュドラクの民』は、おそらくは狩猟民族だ。

そのための腕を磨き、常に実力を高めている彼女らにとって、戦えば負けるなんて説得の仕方は地雷も地雷、やってはならない論説だった。

 

「ヴォラキアの兵隊がきているのは知っていル。だが、奴らと我らとの間には古き約定があるのダ。争いになどならなイ」

 

「――ッ、いや、待ってくれ!その約束のことは知らないけど、でも、奴らは本気であんたたちのことを……」

 

「くどいゾ!」

 

「――っ!」

 

詰め寄ろうとしたスバルが、木の格子越しの衝撃に打たれてひっくり返る。拳を格子に打ち付けたミゼルダが、その瞳に憤慨を宿していた。

これもまた、スバルの言葉の選び違いだ。

 

戦いへの誇り同様に、古い約定とやらも彼女らにとって重要な代物。

スバルはそれを無意識に、またしても無遠慮に踏み躙ってしまった。

 

「ヴォラキアの兵は、森の外で隊を動かす訓練をすル。何度もしてきたことダ」

 

「隊を動かす訓練……軍事演習、ってことか?」

 

聞き慣れない単語だったらしく、ミゼルダはスバルの言葉に眉を寄せる。しかし、スバルはだんだんと、ヴォラキア側が仕掛けた罠の全貌が見えてきた。

ヴォラキアの兵隊が軍事演習の名目で、このバドハイム密林の周辺に陣地を張るのはよくあることなのだ。シュドラクの民も、もはやそれに慣れ切っている。

その慣れという名の油断に乗じ、ヴォラキア軍はバドハイム密林を包囲し、そのまま一気にシュドラクの民を攻略する気でいる。

気掛かりがあるとすれば――、

 

「なんで、そこまでしてこの人たちを狙わなきゃならない?」

 

もちろん、こうして目の前に立っているミゼルダを始め、シュドラクの民が力量確かな部族であることは間違いないだろう。満ち満ちた覇気からもそれは窺える。

しかし、わざわざ軍隊を出動させ、森を包囲してまで彼女たちを攻略しなくてはならない理由が、スバルにはちっともわからない。

今もそうであるように、彼女らには森を出ようという意思がないように見えた。彼女らはここで暮らし、生きていくだけの存在だ。

それなのに――、

 

「ナツキ・スバルもアベルも、本当を言わなイ。それでは私たちには響かなイ」

 

「――っ、それってまさか」

 

「――――」

 

ミゼルダはゆるゆると首を横に振って、話し合いの終わりを宣告する。

彼女の無情な決断に、他のシュドラクの民も異論を述べない。どうやら、先頭のミゼルダがこの場の、あるいはこの集落の長であるらしい。

彼女の決定に従い、シュドラクの民がスバルの訴えに背を向け、棄却を決める。

そのまま、松明を持って遠ざかる集団の背中に、

 

「待ってくれ!嘘じゃない、嘘じゃないんだ!みんな危ない!約束は……約束は破られるんだ!みんなも、レムも危ないんだよぉ!」

 

必死になって、スバルはそう訴えかける。

しかし、すでに族長の決定を得たシュドラクの民の足は止まらない。唯一、ちらちらとスバルの方を気にするのはあの幼い少女だったが、それも足を止めるほどではない。

声を嗄らし、血の味のする痰を吐きながら訴えるスバルに、誰も耳を貸さなかった。

 

「げほっ……ちく、しょう。なんで、いつもこうなんだよ……!」

 

その場にへたり込み、スバルは格子に額をぶつけてそう嘆く。

右手は肩が、左手は指が、どちらも故障しているせいで、牢屋に八つ当たりすることもできない。満身創痍の役立たず、口八丁も使えないときたものだ。

だったら、ナツキ・スバルになんて何の価値が残っている。

 

「……諦めの悪さと、小賢しさだけだろうが」

 

目の前が暗くなるような絶望感を味わいながら、しかし、スバルは断固として諦めを拒絶し、何とか歯を食い縛って抗おうと決める。

これまでのスバルならば、自分で自分の限界を勝手に決めてしまっていただろう。

だが、己のこれまでを振り返り、自らの歩んできた道が容易ではなかったと、そう見つめ直した今のスバルは少しだけ違う。

 

前よりも少し諦めが悪くなった。それは、暗い夜道を照らす確かな光だ。

 

「ずいぶんと、無様な交渉があったものよな」

 

「――――」

 

と、牢の格子となっている枝にかじりついて、何とか抜ける隙間を作れないかと画策し始めるスバルへと、アベルの嘲笑まじりの侮蔑が届いた。

腹立たしくはある。が、言い返せない。実際、スバルは相手の地雷を見事に踏み抜いて交渉を失敗させた。考えなし、ここに極まれりだ。

しかし――、

 

「俺が無様なら、あんたの方は無だったじゃねぇか。そもそも、俺はあんたに言ったはずだよな?危ない奴がいるから森に入るなって」

 

「そうであったな。あの意見は指針になった。礼を言っておこう」

 

「言われても捕まってるじゃねぇか。俺は無力感でいっぱいだよ。……クソ、どっか緩んでるところとかねぇのか」

 

体ごとぶつかってみるが、即席に見える木の牢に穴は見当たらない。丸太のような格子は一本一本が深々と地面に突き刺しており、重機を使ったかと思われるほどしっかりとした設営が行われていた。

無論、この世界に重機なんてものがない以上、これを作ったのは人の手だろう。大勢でやったか、あるいはエミリアやガーフィール並みの怪力がやったかだ。

 

「女の人だらけの集落で、よくもこんなもんを……」

 

「シュドラクの民を甘く見るな。あれらは女ばかりが生まれる女系種族にして、この森で何百年と暮らしてきた戦神共の末裔よ。男手など、子を増やすとき以外に必要とせぬ。その男も余所からさらってくるのが通例だ」

 

「ガチのアマゾネスじゃねぇか……。おい、まさか俺たちが捕まってるのって」

 

男を捕まえ、子種を吐き出させるための道具とする。

そうした発想や考えは古来より山間の寒村などでは実在したものだ。ましてやここは、スバルの常識が通用しない異世界の中の異国、ありえる話だった。

しかし、そのスバルの言葉をアベルは鼻で笑い、

 

「安心せよ。あのものらも子種は選ぶ。――嘘偽りを述べ、自分たちを謀ろうとした輩の子種からは穢れしか生まれん。そんな種は願い下げだろうよ」

 

「……嘘偽り」

 

アベルの言葉を受け、スバルは自分の説明の拙さを呪った。

ミゼルダや他のシュドラクの民に信じてもらえなかったのは、焦りがあったとはいえ、スバルの説明の組み立ての悪さが発揮された形だ。

誠意と必死さを込めた説得も、相手の流儀や誇りの置きどころを理解していなければ、それこそ無礼な暴挙と何も変わらない。変わらなかったのだ。

 

「でも、嘘じゃないんだよ。帝国の兵士はシュドラクの民を狙ってる。それに……」

 

「それに?」

 

「奴らは最終手段に……いいや、違う。最初の手段として、火を放つ」

 

スバルのその発言に、アベルが初めて微かに息を詰めた。

森に放たれる炎、それはトッドが森に潜む魔獣の存在を知ることで発生した出来事だ。前回、スバルの話を聞いただけで、帝国軍はバドハイム密林を焼き払うことを選んだ。

実際にその存在を確認したなら、密林が燃やされるのは今回も避け難いはずだ。

 

「……トッドたちが全滅してれば話は別だが」

 

魔獣をけしかける選択をした時点で、その可能性も十分に考慮している。

死ぬかもしれない敵を呼び込む作戦は、間接的な殺人と何も変わらない。スバルはそれをわかっていて囮作戦を実行したし、実際に死人は出たかもしれない。

そのことを考えれば、胸の奥に重たい塊が生じ、心臓が詰まるみたいに痛む。

しかし、その殺人への忌避感と罪悪感を抱えていくのは一生ものとして、着目しなければならないのはもっと別の点――トッドたちは、全滅していないだろうということ。

 

「――――」

 

二十人ほどの人員と、魔獣戦闘の経験不足。

しかし、トッドの判断力やジャマルの意外な積極性なども合わせると、あの一匹の大蛇がトッドたちを壊滅させてくれたと期待するのはいくら何でも無理がある。

当然、トッドたちは生き残り、森から撤退して陣地に戻るだろうと考えるべきだ。

 

陣地に戻ったトッドたちは、スバルの裏切りと魔獣の存在を報告する。場合によってはスバルがシュドラクの民であるという点だけは信じたまま、シュドラクの民が敵対的な行動を取ったと結論付ける可能性もあった。

そうなれば当然、前回と同じように軍の被害を最小限に抑えるため、帝国兵は躊躇わず森へと火を放つ。――シュドラクの民は、焼かれるだろう。

 

「――なんだ、貴様のその目は」

 

「いや……」

 

そう考えたところで、スバルの視線にアベルが言及する。とっさに目を逸らしたスバルだったが、考えたのはアベルの末路だ。

おそらく、前回もこうしてアベルはシュドラクの民に捕まっていたと考えられるが、その場合、森を焼かれたなら彼も一緒に焼かれただろう。

あの大火で、シュドラクの民が捕虜とした男の生存に力を尽くしてくれたとは考えにくい。最悪の場合、牢の中で逃げ遅れて焼死しかねない。

だとしたら――、

 

「――シュドラクの民も、アベルも、俺が殺したようなもんだ」

 

自分の命も、レムのことも、アベルやシュドラクの民も死なせたくはない。

だからこそ、ここでスバルは立ち上がり、打開策を探さなくてはならないのだ。

 

「無駄だとわからぬのか?貴様の力で、ましてや負傷した身で抜ける余地を残すほど間抜けな連中ではない。たかだか女のために、どうしてそこまでする?」

 

なおも木にかじりつき、懸命な抵抗を続けるスバルにアベルが呆れた風に言った。

だが、その言葉がスバルに火を付ける。

 

「あの子が、俺にとってたかだかなんて言葉じゃ片付かねぇ女の子だからだよ。代わりなんてどこにもいねぇ。レムは、レムだけなんだ」

 

「――――」

 

「あんたこそ、そこで俺のやることにケチつけてるばっかりでいいのかよ。なんでこんなとこにいるのか知らねぇけど、捕まってはい終わりってだけなのか?」

 

最初に見かけたとき、アベルは『姿隠し』のマントとやらを纏い、何らかの目的があって森へきたような素振りを見せていた。そうでなくても、トッドの話によれば、皇帝から賜るような立派な短剣を他人にあっさり譲る人物だ。

何の意味もなく、ここにいたなんて話は考えにくいし、信じられない。

 

「そんなとこで冷たい土の上に座って、あんたは何がしてぇんだよ」

 

「――機を待っていただけだ」

 

スバルの問いかけに、アベルがひどく静かな声でそう答えた。

それは、それまでのどこか挑発的な発言や、スバルを嘲弄するそれと趣を変えた、アベルの本心からこぼれ出た言葉のようにも聞こえて。

 

「機を、待ってた?機会って、チャンスってことか?何のチャンスを……」

 

「貴様のその『ちゃんす』とやらはわからぬが、俺が待っていたのは盤面の準備だ。それが整うまで、俺が手を出せば余計な色が混じると傍観に徹した。本当なら、森の外の連中が動いてからが本命と考えていたが……」

 

「――――」

 

「奴らが森を焼く気でいるなら、いつまでも胡坐を掻いているわけにもゆかぬ」

 

そう言って、アベルは組んでいた腕を解くと、その場にゆっくり立ち上がった。

そのすらりとした立ち姿と、彼の言葉に目を見開いてスバルは硬直する。

 

「どうした、その呆けた面は。俺に向けるには不敬であろう」

 

「ふ、不敬かどうかは知らねぇけど……あんた、俺の言葉を信じるのか?だって、シュドラクの民は……」

 

「信じなかったな。奴らの誇りを汚し、奴らが後生大事に抱える古き約定をも無意味なものと一蹴した。まさしく、後世に残すべき失敗交渉よ」

 

「うぐ……っ」

 

我ながら、擁護すべき点がない自覚があるため、アベルの評価に打ちのめされる。

そうして顔をしかめたスバルに、アベルは「だが」と言葉を続けた。そして、顔を上げるスバルを、アベルは覆面越しに見つめ――、

 

「俺はシュドラクの民ではない。奴らの誇りや、大事な約定など塵芥も同然だ。必要なのは貴様がもたらした、嘘偽りではない事実のみ」

 

「……俺が、嘘をついてたらどうするんだよ」

 

「決まっていよう。――命で支払え」

 

その言葉には、戯れで『死』を物語るものとは一線を画した重みがあった。

アベルは本気で、スバルの行動が過てば『死』で償えと言っている。これは決して遊びでも戯れでもない、本物の覚悟が問われる場面であるのだと。

 

そのことを感じ取り、スバルは自然と背筋を正していた。

いつしか檻との格闘をやめ、スバルは目の前のアベルに真っ直ぐ向かい合う。そのスバルの黒瞳を見据え、アベルの眼光が威圧感を増した。

 

「心して答えるがいい、ナツキ・スバル。――貴様は、自分が救いたいもののために、全てを犠牲にする覚悟はあるか?」

 

「――――」

 

問いかけは真っ直ぐ、躊躇うことも嘘偽りを述べることも許されない。

ここに虚実を織り交ぜて答えれば命はない。そう、スバルに信じさせるだけの力が、アベルという男の声には込められていた。

 

アベルの問いかけを、スバルは心で受け止める。

全てを、救いたいものを救うために、それ以外のモノを犠牲にする覚悟があるかと。

その問いかけへの答えなら――、

 

「――そんな覚悟はない」

 

「――――」

 

「俺が差し出せるのは、俺だけだ。――それだけなら、全部賭けられる」

 

刺された右腕ではなく、指を折られた左手を胸に当て、スバルは答える。

これが、アベルの問いかけへの嘘偽りのないスバルの答えだ。

 

何もかも、全てを犠牲にしろと言われ、それを受け入れることなんて到底できない。

そうするには、この世界にはスバルの大事なモノが、まだ見ぬ眩しいモノが多すぎる。

だから――、

 

「猪口才な答えをする。業腹な道化め」

 

「――――」

 

「だが、貴様は嘘偽りを述べなかった。ならば、焼かずにおくとしよう」

 

その答えを聞いて、アベルがそう言ったのをスバルは命拾いしたと実感した。

どっと、全身から冷たい汗が唐突に溢れ出し、スバルは自分がアベルに命を握られていたのだと理解する。

 

前に、草原で遭遇したときの評価通り、アベルは決して常外の強者ではない。

スバルがこれまで見てきた、あるいは接してきた強者たちと比べれば、常人の領域を出ていない力の持ち主だ。だが、それでもスバルは命を拾ったと感じた。

ただの腕力や剣力とは異なる力が、アベルには宿っているのだと、そう。

 

「ならば、話は早い。――そこな娘」

 

「うきゃんっ!?」

 

と、命拾いに大汗を流すスバルを余所に、アベルが不意に誰かを呼んだ。途端、その声音に反応し、小さな悲鳴が物陰から上がる。

驚いたスバルが振り向くと、アベルの視線の先、檻からいくらか離れた木陰から、こちらをおずおずと見ていた少女の姿があった。

髪の先を桃色に染めた少女は、スバルたちの視線に慌てて逃げようとしたが――、

 

「逃げれば機を損なうぞ、娘。それは貴様の本意ではなかろう」

 

「う……」

 

機先を制したアベルの言葉に、少女は小さく呻く。それから、彼女はバツの悪そうな顔をしながら、すごすごとこちらへ歩み寄ってきた。

そして、「ウーは、ウーは……」と躊躇いがちに唇を震わせ、

 

「ミーは、男の話は聞くなっテ。でも、ウーは気になル。お前、気になル」

 

「……俺?」

 

そう言って、自分をウーと呼ぶ少女がスバルの方を指差した。気になると、そう思いがけない指摘を受け、目を丸くしたスバルに少女は頷いた。

 

「さっき、お前、一生懸命だっタ。ウーたち、危なイ。でも、ミーは聞かなイ」

 

「あ……」

 

「どうしテ、あんなに一生懸命だっタ?お前、ウーたちと関係なイ」

 

関係ないのに、どうして干渉するのかと。

そのお節介を指摘されたのかと、スバルは一瞬、息を詰まらせた。しかし、少女の言葉にはそうした狙いはなかった。彼女は、純粋に疑問なのだ。

スバルがどうして、スバル自身以外の、シュドラクの民にも必死だったのか。

その答えは、スバル自身にもわからないが――、

 

「……君に、あの顔をしてほしくないんだと思う」

 

「――?」

 

「あんな、憎悪で濁った、敵を睨まなきゃいけない思いをしてほしくないんだよ」

 

毒の矢で相手を射抜いて、憎悪の目でその『死』を見届けようとしていた少女。

スバルの目には、今も少女の憎しみと、その憎しみへ至る強烈な出来事の罪悪感が残っている。渦巻いている。棘となって痛みを発している。

あんなことは、重なるべきではない。繰り返すべきではない。

 

『死に戻り』なんて、しないに越したことはない。

それでも、スバルが命を落とすことで、やり直すことになる世界で、関わる人をよりよい道へ進める方法があるのなら――、

 

「俺が、一生懸命頑張る意味は、そこにあると思うんだ」

 

「……ウー、わからなイ」

 

スバルの答えを聞いても、少女にはその真意が伝わらない。当たり前だ。『死に戻り』を知らない相手に、こんなことを話しても意味不明なだけだった。

そして、それをわかってもらおうともスバルは思っていない。そんな事実があったことすら、目の前の少女の人生には不要なことなのだ。

 

「――気は済んだか?長話をする余裕がないのは、俺も貴様も同じはずだな」

 

「……あ、ああ、悪い」

 

そのスバルと少女の会話を、大した興味もないとアベルがバッサリ切り捨てる。

それからアベルが少女の方へ向き直ると、少女も先ほどのスバルと同じような圧迫感を覚えたのか、その小さな体を緊張させ、アベルを見上げた。

 

「娘、だらだらと貴様と話すつもりはない。先ほどの、ミゼルダといったか。あのものを連れてくるがいい。あれが族長であろう」

 

「ミー?ミーと、何を話ス?」

 

「大したことはない。ただ、提案したいことがあるだけだ」

 

「提案?」

 

そうして、首を傾げるスバルと少女に見られながら、アベルは深々と頷いた。

それからやはり、覆面越しで見えないながらも笑みを作り、

 

「――『血命の儀』を受けると伝えよ。奴らを説得するのに、最も手っ取り早い方法だ」

 

と、そう告げたのだった。