『罪人の抱擁』


 

――黒い斑の紋様が走る右腕を、痛々しく赤い雫が滴り落ちていく。

 

幸いというべきか、ずいぶん大胆なイメチェンをした右腕であっても、その耐久力は人体のそれと何も変わっていないらしい。

爪を立てれば痛みが走り、力を込めれば皮が裂けて、血が流れ出す。

気持ち、その傷の出血が止まるのが速い気がしたが、本当に微々たる差といえた。

 

「――――」

 

乱暴に掌で血を拭い、右腕に掠れた血の跡を残して袖を下ろす。自分でやった結果とはいえ、あまり長く見ていたいものではない。もちろん、左腕に刻まれた『ナツキ・スバル参上』の文字も、袖を降ろして隠しておいた。

 

「とにかく、ここに長居はできねぇ……」

 

すでに、結構な時間をこの部屋で無駄にしてしまっている。

部屋の中央には変わらず、息絶えて動かないメィリィの亡骸があるが、もはやスバルから彼女にしてやれることは何もない。

殊更に弔いの何かをしてやることも、死後を辱めることも願い下げだった。

――否、これからすることで、死後を辱めることにはなるのかもしれない。

 

「――――」

 

軽い体、少女の両脇の下に腕を入れ、スバルはメィリィの亡骸を引きずり、部屋の隅へと位置をずらす。

そこにあったのは、打ち捨てられた部屋の、元調度品といったところだろうか。

元々は石材で作られた机、あるいは寝具だったのかもしれない。とにかく、切り出しただけの四角い石が置かれていて、そっとその裏側にメィリィの死体を隠した。

 

――悪いと、メィリィには心の底から詫びるが、スバルは彼女の死を隠すことにした。

 

そもそも、包み隠さず打ち明けて、いったい誰がこの状況のスバルを弁護できる。

スバル自身が『ナツキ・スバル』の真意を推し量れないのに、いったい他の誰ならそれができるというのだ。

 

「弁護も何も、ねぇよ。メィリィを殺したのは……俺じゃないかもしれなくても、殺した凶器は俺の両手だ」

 

この世界の犯罪捜査がどんなレベルか推測もできないが、メィリィの手の爪と、スバルの手首の傷を見れば陪審員は満場一致でスバルに有罪判決を出すだろう。

そして、スバルにはそれに異議を唱え、上訴する意義が見出せない。

 

となれば、スバルにできることは裁判の放棄――否、罪過を隠すことだった。

これが正しい判断とも、最善の選択だとも思わない。しかし、スバルには他に取り得る手段がない。――誰を信用し、誰を疑えばいいのか、もうわからなかった。

ただ一つ、言えることがあるとすれば――、

 

「次、メィリィと会えたら……お前だけは、容疑者じゃない」

 

全滅と、絞殺と、スバルは二度もメィリィの亡骸をこの目で見たのだ。

ここまでくれば、少なくとも他の誰よりメィリィの疑惑は薄いと考えられる。問題はそれを認めたところで、すでに彼女に話を聞く手段がないこと。

 

クローズド系のミステリーのお約束、死者だけが容疑者から外れるパターンだ。

だが、探偵役のナツキ・スバルは掟破りにも、殺されることで時間を巻き戻す『死に戻り』の力を備えている。これなら、どんな惨劇にも対応できて無能でも名探偵だ。

 

「探偵役自身が犯人ってのも、ミステリーのお約束だけどな」

 

残念なことに、いかに『死に戻り』が優れていても、『ナツキ・スバル』の犯人説が濃厚な以上、事件は何度でも引き起こされ、止めることは難しそうだ。

探偵役の、別人格が犯人。このパターンもミステリーでは使い古されている。ならば、事実に気付いた探偵役が崖から身投げすれば一件落着だろうか。

 

『死に戻り』と『探偵自身が犯人』と、二つが組み合わさることで事件は永久に迷宮入りだ。抜け出せない、螺旋迷宮といったところだろう。

 

「言ってる、場合か……!とにかく今は、時間を稼ぐんだよ」

 

時間が解決する問題ではないが、時間がもたらすものは必ずある。

そう信じて、スバルは袋小路の状況からの離脱を願い、その場に立ち上がる。

 

「――――」

 

去り際、スバルは一度だけ、もう動かないメィリィの額を撫でた。きっと、彼女はスバルに二度と触れられたくなかっただろう。

その証拠に、触れた額は悲しくなるほど冷たく、スバルを拒絶していた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

そうして、心ならずもメィリィ殺害現場を隠蔽し、スバルは部屋を出る。それから通路の左右を窺って、ゆっくりと現場を離れようと――、

 

「――あ、スバル!よかった、ここにいたのね」

 

「――っ!?」

 

不意の呼びかけに肩を跳ねさせ、振り返るスバルの下にやってくるのはエミリアだ。小走りにやってくる彼女は、頬を硬くするスバルに首を傾げ、

 

「ごめんね、驚かせちゃった?」

 

「――。お、どろいた。驚いたけど、それは、まぁ、なんだ、あれだ。いきなりだったからってだけで、全然平気。エミリアちゃんは、どしたの?」

 

「――?私は、お昼までの間、何かできることないかなって塔の中を歩き回ってたの。それより、スバル」

 

「うん?」

 

「今の、また何かの悪ふざけ?」

 

エミリアの不思議そうな問いかけに、スバルは息を詰める。

紫紺の瞳が真っ直ぐにスバルを見つめているが、スバルには彼女の問いかけの意味するところがわからない。

声に動揺があったのは事実だが、話した内容自体は取り立てて目立ったところのない受け答えだったはずなのだが。

 

「――――」

 

じっと、というよりはジーっとしたエミリアの視線に、スバルは居心地の悪い感覚を味わい、やけに苦い唾を呑み込んだ。

すぐ背後の部屋では、今も眠り続けるメィリィの亡骸が転がっている。部屋の中を軽く覗いたぐらいではわからないよう隠してあるが、ちょっと詳しく調べられればあっさり見つかる幼稚な隠し方でしかない。

とにかく、今はこの場を離れることが優先だった。

 

「悪い、ちょっとトイレ」

 

「あ、うん、わかった」

 

いかにも適当な誤魔化しの言葉を残し、スバルは素早く部屋の前を離れる。

早歩きで、エミリアから距離を取り、一刻も早く一人で時間を潰せる場所にいかなくてはならない。そこで、右腕の傷の返事を――、

 

「って、エミリアちゃん?俺、トイレだってば。なんでついてくんの?」

 

「え?だって、あとちょっとしたらみんなで集まってお昼にするんだし、一緒にいた方がいいと思わない?大丈夫、ちゃんと扉の外にいるから」

 

「おしっこの音聞かれることの心配はしてないけども……」

 

離れたがるスバルの隣に並んで、エミリアがこちらの顔を覗き込んでくる。

正論といえば正論だが、基本的に正論とは言われる側が辛い思いをするものだ。この場合も例外ではなく、言われるスバルは正論が浮かばずに苦心した。

ただ、そうして苦心する裏側で、スバルは注意深くエミリアの胸中を推し量る。

 

――エミリアは、何のつもりでスバルに同行したいと言ってきているのか。

 

「――――」

 

「――?」

 

じっと、横目で自分を窺ってくるスバルにエミリアがきょとんとした顔をする。

何も企んでいないように見える可愛い顔だが、実際には彼女は有力な敵の容疑者だ。

 

前回の全滅時、スバルはエミリアとベアトリスの亡骸を見ていない。

腕の傷から、『ナツキ・スバル』の真意が不明なのは事実だが、仮に『ナツキ・スバル』の暗躍があったとしても、あの状況は一人では作り出せない。

 

シャウラを、エキドナを、ラムを。ユリウスをメィリィを殺し、ついには影の力で塔を崩壊させ、最後にはスバルの首を刎ねて嗤った何者か。

まだ、スバルが存在を知らない、何者かが、あの塔の中にいたのだ。

 

「スバル、大丈夫?やっぱり、まだ調子が戻ってないんじゃない?」

 

「――っ、だ、大丈夫。ちょっと考え込んでただけ」

 

「ホントに?でも、顔色が悪いと思うの」

 

そっと、エミリアがスバルの方へと手を伸ばしてくる。

とっさに払いのけることもできず、エミリアにさせるがままに頬を弄らせる。その、くすぐったい感触にスバルは眉を顰めて、

 

「……よく見てるね」

 

「ん、そうよ、よく見てるの。なんだか、最近、気付くとスバルを目で追ってることが多くて……なんでかよくわからないんだけど、不思議ね」

 

「――そうだね、不思議だね」

 

慎重に、エミリアの一挙手一投足に目を配る。

微笑したエミリアの手が、スバルの顔に触れているのだ。瞬きしたほんの一瞬で、彼女の手がスバルの喉笛を掻き切らないとも限らない。あるいはそんな必要なく、エミリアの腕力なら、そのままスバルの頸骨をへし折ることも可能だろう。

 

しかし、彼女の手つきに悪意や敵意が感じられず、スバルは途方に暮れる。

所詮、スバルの――コンビニ帰りの、平和な日本しか知らない一学生のスバルの感覚など当てにはならない。人の敵意や害意、そんなものに触れた経験などほとんどないのだ。

 

スバルに馴染み深いのは、厄介者を遠巻きにする雰囲気と、冷たい蔑視とすら言えない無関心の静寂。――どちらも、ナツキ・スバルを孤独にはしても、傷付けはしない。

 

だから、目の前の少女が紫紺の瞳に浮かべる感情が、本物か偽物か、わからない。

ただ、何もわかっていないのだとしたら――、

 

「――――」

 

何もかも、ぶちまけてやったら、どんな顔をするのだろう。

その、悩み事なんて一つもないとばかりに、綺麗なものばかりを見てきて育ったみたいな美しい顔を、くしゃくしゃにしてやったらどれだけ胸がすくだろうか。

 

――お前が、心配しているナツキ・スバルなど、もうどこにもいないのだと。

――いいや、違う。あいつは、残酷で狂った人殺しなのだと、言ってやったら。

 

「――そういえば、メィリィのことなんだけど」

 

「――っ」

 

ひゅっ、と喉が鳴り、スバルの目が見開かれる。

何故ここでメィリィの名前が、という驚きが微塵も隠せていない、不意打ちの動揺だ。もしも、エミリアの狙いがその反応を見ることにあったのだとしたら、スバルは完全に彼女の術中に嵌まったことになる。

 

だが、エミリアはスバルから目を逸らし、視線を床へと落としていた。それは通路を見ているのではなく、もっと大きく、塔全体を見据えるような雰囲気だ。

その姿勢のまま、エミリアは微かな躊躇いを覗かせたあと、

 

「気が早いって怒るかしら。この塔から無事に戻ったら、メィリィのことをどうしたらいいかなって、相談するの」

 

「――――」

 

「もちろん、あの子が一年前にしたことは悪いことだし、簡単に信じちゃいけないってオットーくんの言い分もわかるんだけど……砂丘を越えられたのはメィリィのおかげだし、まだ悪さするつもりなら、塔にくる前に色々できたと思う」

 

自分の服の裾を摘んで、エミリアがつらつらと考えていたことを述べる。

話半分、という感覚ではなかったが、この塔にいる一行の中でもメィリィの立場は特殊で、本来はエミリアやベアトリスの命を狙った暗殺者、らしい。

その任務に失敗し、囚われの身だった彼女だが、その生まれつきの特殊能力を活かして今回の旅に同行、かつての標的の目的に貢献したわけで。

 

「恩赦、ってヤツか」

 

「自由にしてあげるって言っても、それはみんなに反対されちゃうと思うわ。でも、もっと別の、それこそ座敷牢の外で暮らすくらいは、ね?」

 

「――――」

 

「もちろん、メィリィ本人と話してみて、あの子がそれを望んだらって条件付き。私が勝手に先走って、あの子に嫌われちゃったら大変だもの」

 

慌てて手を振り、エミリアはあくまで意見の一つだと、そう主張した。

おそらく、彼女なりに十分に考え、満を持して伝えてくれた話なのだろう。随所に、反論を想定して手直しした余地が垣間見える。

 

――これは、エミリアの本心なのだろうか?

 

「――――」

 

信じて、いいものだろうか。

少なくとも現時点で、エミリアの態度が一度でもスバルへの敵意を浮かべた場面はない。――否、それを言い出せば、そもそもスバルに敵意を見せたものなどいない。

ベアトリスも、エキドナも、ラムも、ユリウスも、メィリィも、誰一人、スバルに敵意を見せた人物などいないのだ。

 

確実なのは、スバルを突き落として殺した犯人と、塔内の関係者を全滅させた犯人と、スバルの首を刎ねた犯人。――そして、メィリィを殺した『ナツキ・スバル』。

それらが、唾棄すべき邪悪であるという、そのことだけ。

 

ならば、エミリアを信じてもいいのだろうか。

この無垢で、穢れを知らない、降り積もったばかりの新雪のような彼女を信じても。

 

――エミリアがこれだけ熱を込めて語り、思い悩んでいるメィリィはこの手が殺したけれど、それでも君は、俺のことを信じてくれるのかと。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

「え?」

 

「くだらねぇって、そう言ったんだよ。自分でもわかってたはずだろ。気が早い?その通りだよ。こんな……こんな状況で、先の展望の話なんか、できるもんかよ」

 

四方八方が手詰まりで、他人のことを気遣ってやっている余裕など全くない。

ましてやそれが、すでに死んだ少女の未来の話となればなおさらだ。その『死』を知らないということに目をつむったとしても、なんとお気楽な頭なのだろうか。

 

「――――」

 

感情的に罵って、スバルはすぐに自分の発言に唇を噛んだ。

馬鹿なことを言ったものだ。言っても仕方のないことを、ただ怪しまれるだけの発言を、その場の勢いと感情に任せてエミリアに叩きつけた。

この行いには、何の正当性もない。ただの八つ当たり、子どもの癇癪だった。

それを――、

 

「スバル!」

 

「ぶ」

 

「急にどうしたの。機嫌が悪くても、そんな言い方したらダメじゃない」

 

「――――」

 

驚き、愕然として、そのまま傷付く感情のままに俯くと、涙を流して嗚咽する。

そんな反応を予期したスバルを蹴散らすように、エミリアはスバルの頬を勢いよく両手で挟み込むと、真っ直ぐな目でこちらの黒瞳を覗き込んできた。

 

「――ぁ」

 

「不貞腐れて、辛い気持ちならちゃんと話すの!私でも、ベアトリスでもいいわ。スバルが困ってるなら、私だって一緒に困ってあげる。でも、一人で抱え込んで、一人でむしゃくしゃして、一人で終わりにしちゃうのはやめて。そんなの、悪かった頃のロズワールみたいじゃない。真似しちゃダメよ」

 

一生懸命に、エミリアがスバルの向けてまくし立てる。それから彼女は、呆気に取られるスバルの顔から手を離すと、ぐいっと頭を引き寄せた。

そして、自分の胸の中にスバルの頭を抱き入れ、優しく撫でる。

 

「わかってくれる?私の心臓、全然怒ってないから。幻滅もしないから、話して」

 

「――――」

 

押し付けられた柔らかな感触、温かなその向こう側に、命を刻むリズムを感じる。

それが、まるで赤子に聞かせる子守歌のように優しくて、スバルは息を詰めた。瞬間、スバルの心に湧き上がったのは、強烈な恥の感情だった。

 

ここまでしてもらって、あれだけ酷いことを言って、それでもなお、優しくて。

そんな彼女を、疑って、闇雲に憎んで傷付けて、何の意味がある。

 

――本当に、いるのか?スバルを殺そうと、企んでいる何者かなんて。

――転落死だって、本当はただの事故だったんじゃないのか?

――誰かが意図的にしたことじゃなく、うっかり、躓いた誰かが押しただけで。

 

この、塔の中に、悪い人なんか誰もいなくて。

一番、心が汚くて、醜くて、危険なのは、ナツキ・スバルと『ナツキ・スバル』、本来ならいなかったはずの、不躾な異分子だけなんじゃないのか。

 

「エミリア、俺は……」

 

「――うん」

 

「俺は……」

 

何から伝えればいいのかわからない。

ただ、伝えてしまおうと、打ち明けてしまおうと、さらけ出してしまおうと思った。

 

記憶をなくしたことも、メィリィのことも、死ぬたびに時を遡っていることも。

全部、信じてもらえないかもしれない。でも、信じてもらえるかもしれない。信じてもらえたら、打開策が見つかるかもしれない。

それさえ見つかれば、スバルは――、

 

「――エミリア様!バルス!」

 

ぐしゃぐしゃの頭の中身を、何とか絞り出そうとした瞬間だった。

スバルの苦悩を塗り潰すように、鋭く、切迫した声が横合いから飛び込んでくる。エミリアに抱擁されたまま、とっさにスバルは声の方を見られない。その頭上から、相手を確認したエミリアが「ラム」と呟くのが聞こえて、

 

「どうしたの?今、スバルとすごーく大事な話をしてて……」

 

「それは、見ればラムにもわかりますが……中断してください。火急の、用件です」

 

「う、うん……」

 

靴音がすぐ傍までやってくると、エミリアがおずおずとスバルを解放する。温もりの遠ざかる感覚と、眦の熱さをスバルは強引に袖で顔を拭って追い払った。

それからエミリアと二人、ラムへと向き直る。

 

格好の悪いところを見られた、あるいはタイミングが最悪だと、膨らむ感情のままにラムにぶつけてやりたくなる。

それを反省したばかりなのに、すぐに立て直せない自分が本気で恨めしい。

 

しかし、ラムの様子は、抱き合う二人をからかったり、それを見られて感情の行き場に窮したスバルを慮ったり、そんなことをする余裕はなかった。

 

「ラム、どうしたの?」

 

「……火急の、用件です。すぐに三層の、書庫へお越しください。ベアトリス様が、大変なものを」

 

「ベアトリスが?」

 

驚くエミリアに、ラムは「ええ」と短く頷く。

それから、彼女はスバルたちに背を向けると、

 

「アナスタシア様……いえ、エキドナでしょうか。とにかく、あの方と、ユリウスを探すわ。バルス、エミリア様とご一緒して」

 

「あ、ああ、わかった……」

 

有無を言わせぬ態度に、スバルはとっさに反論できずに首を縦に振った。

その返事も見届けず、ラムは颯爽と床を蹴り、二人の前から駆け去ってしまう。その様子に驚きつつ、スバルはエミリアに振り返った。

 

「ええと、ラムは、ああ言ってたけど……」

 

「――急ぎましょう。ラムがあんなに真剣だった。何か、大変なことがあったのよ」

 

「――――」

 

「スバル、さっきの話、忘れてないから」

 

「……うん」

 

そこだけ念押しするエミリアに、スバルは弱々しく頷いて従った。

もはや、メィリィへの罪悪感と、状況への切迫感から、一人になろうと考えていたスバルの方針は完全に頓挫する。

 

そのまま、スバルはエミリアと連れ立って、三層『タイゲタ』へと急ぎ足で向かった。

長い階段を駆け上がり、出迎えられるのは膨大な蔵書を誇る『死者』の書庫だ。

 

「――きたかしら」

 

その、無数の『死者の書』が収まる書棚を背後に、階段の前に佇むベアトリスがスバルたちを出迎える。

短い腕を組んで、特徴的な紋様のある瞳を伏せた少女は、やけに疲れた吐息をこぼす。

 

「ベアトリス、ラムに呼ばれてきたの。何か、大変なものを見つけたって」

 

「いい知らせ、とは言えないのは確かなのよ。むしろ、凶兆と呼ぶべきものかしら」

 

そう言って、ベアトリスはエミリアの質問にゆるゆると首を振る。

それから、彼女はスバルの方へと青い瞳を向けて、

 

「ベティーは朝から、このタイゲタの書庫を調べていたのよ。スバルが倒れていたのもそうだし、仕組みとして禁書庫と近くて遠い、この部屋を解析しようとしてたかしら」

 

「ま、前置きはいい。何があったんだ?教えてくれ」

 

階段を駆け上がり、軽く息を乱したスバルが結論を急ぐ。

その言葉に、ベアトリスは一度、目をつむった。そして、彼女はゆっくりと、斜め後ろにある書棚の一つを指差して、

 

「上から三段目、一番右にある本なのよ」

 

「――三番目の」

「一番右」

 

ベアトリスの指摘に従い、スバルとエミリアは言葉を反芻しながら書棚へ向かった。

ぎっしりと、書架には本が詰まっていて、背表紙に書かれた異世界文字はスバルには全く読み取れない。相変わらず、象形文字としか思えなかった。

 

だから、ベアトリスがスバルたちに教えたがった本、そのタイトルもわからない。

少なくとも、この書庫にある以上、それが『死者の書』であることは確かで――、

 

「嘘……」

 

と、すぐ隣のエミリアがこぼした。

そちらへちらと目を向け、スバルは彼女の愕然とした反応に頬を硬くする。

 

これほどの驚愕、遅れてすぐにやってくる悲嘆。

いったい、何が彼女の心をそれほど強く、手加減抜きに打ち抜いていったのか。

そんな、ショックを受けるエミリアに義憤を覚えるスバルの隣で、彼女の唇が震える。

 

そして、エミリアは言った。

 

「――メィリィ・ポートルート」