『血の咆哮』


 

――走る地竜の首が根本から吹き飛び、引かれる竜車は意思を失った巨体が崩れ落ちるのに従い、道を外れて大きく弾み、横転する。

 

横倒しになった車体が派手に地面を削り、噴煙を巻き上げながら轟音を立てる。木材がへし折れ、倒れた地竜の肉体が車輪に巻き込まれると、血肉が引き千切られる不快な音と血煙までもがぶちまけられ、現場は一瞬で惨状へと様変わりした。

 

場所は山中、リーファウス街道を抜けて林道に入り、メイザース領の入口へと辿り着いたところであった。

いくつかの森林地帯と丘を越えて、二時間ほども走れば目的地に着いただろう。

が、竜車はその途上で無残にも破壊され、空転する車輪の音だけが空しく事故現場にカラカラと響き渡っていた。

 

肉塊となった地竜が横たわり、車両は残骸へと変わり果て、噴煙には土と血が入り混じって異様な臭気を漂わせる。

そんな現場に、

 

「……うぅ、あぉう……」

 

投げ出されて、あちこちに擦過傷を作った少年が呻き声を上げていた。

 

崩壊した竜車からはわずかに離れ、その体が落ちるのは林道を外れた草原の一角だ。緑が生い茂るそこは蔦が張り巡らされており、それらが落下した少年の体を衝撃からいくらか守ったのだろう。あれほどの惨状の中心にいたにも関わらず、少年の負った傷は奇跡的というしかないほど軽微なもので済んでいた。

 

とはいえ、それでも無防備に投げ出された傷が痛まないわけではない。

擦過傷といくつかの打撲。幸いにも骨折や大量出血を伴う傷などは生じなかったものの、それらの苦痛は意思なき幼子を蹲らせるには十分にすぎた。

 

「あふぅ、うぐふっ……っああ」

 

草原から転がり出て、痛みに呻き、涙を流している黒髪の少年。

顔は土に削られた額から流れる血で汚れ、涙と涎がそれに拍車をかけている。乱暴に拭った結果が赤茶けた色を顔中に広げ、泥に塗れた衣服の袖にも赤が付着する。

手足の伸びた大人の醜態としては見るに堪えず、残骸と化した竜車の惨状と相まって見るものに悲壮さばかりを思わせる光景。

そんな場面に――、

 

「――――」

 

黒装束の人影が次々と湧き上がり、少年と竜車を十数名が取り囲む。

人影は倒れ伏した首のない地竜を見分し、肉塊となったそれが確かに死んでいるのを確認すると、寝転がって泣いているスバルの方を静かに見やる。

 

黒装束たちは頭まですっぽりとフードを被っており、その顔も性別すらも判然としない。呼吸しているのかすら定かでない影たちは揺らめくような、滑るような動きでスバルを取り囲むと、痛みにのみ反応する彼を見下ろし、

 

「――ラ」

 

ぼそりと、人影が単語をひとつ呟く。

ひとりがそうこぼすと、次に誰かが同じ単語を口にする。そうしている間に単語の連鎖は次々と流れ出し、取り囲む全員が巡るように囁き声を漏らす。

 

虫の鳴き声も生き物の気配もまるでない世界に、風に枝葉の揺れる音と黒い影たちが呟く囁き――まるで、世界がそれだけで完結しているような歪な情景。

そして、

 

「――あがっ。あぁ!ああぁ、あぶぁあぁ!」

 

次第に、囁きが重なるにつれて、痛みに呻いていたスバルに変化が生じる。

身をよじり、仰向けの体で背を跳ねさせ、苦鳴を漏らす姿は痛みを堪えている点においては変わらない。が、その質が先ほどとは明らかに違う。

擦過傷や打撲の痛みとは別次元の苦しみに、内側から溢れ出そうとするなにかを堪えているような動きに、体内を荒れ狂う苦痛の種が芽吹こうと彼を苦しめていた。

 

それが周囲の、黒い影たちの囁きに呼応しているのだと、見るものがいれば気付いただろう光景。苦しむスバルを見下ろし、影たちはなおもその呪言をやめようとはしない。ただ、喘ぐスバルの様子に何がしかの結論を得たように、彼らは囁きを続けたままその体に手を伸ばし――、

 

「――ぼ」

 

うなりを上げて飛来した鉄球が、スバルに触れようとした男の頭部を爆砕した。

血と頭蓋の破片が周囲にまき散らされ、苦しむスバルにも容赦なくそれが降り注ぐ。崩れ落ちる影の動きには鉄鎖の軽やかな響きが伴い、蛇のようにのたくるそれは死体となった影の周囲――他の黒装束を目掛けて暴れ回る。

 

「――――」

 

が、黒装束たちの判断は早い。仲間の突然の即死から即座に意識を切り離すと、鉄鎖の追撃を避けるように声もなくあたりに散開する。

その際、黒装束たちが懐から抜き出したのは、十字架を象った刃だった。鈍い輝きのそれは先端に刃が備わった悪趣味な意匠のものであり、両手に一本ずつそれを構える黒装束たちは油断なく周囲を警戒する。

 

その数は十一名。全員が互いに背中をカバーできる位置に陣取り、死角を殺して奇襲に応じる陣形を取ったのは賞賛に値する。

しかしそれも、相手が二次元という次元で立ち向かえる相手に限定される。

 

「――しぃっ!」

 

上空、木々を蹴りつけてエプロンドレスが翻る。

すさまじい速度で跳躍し、斜め下に射出された少女の体は音に気付いた影の意識よりわずかに早い。

 

振り下ろされる凶器の柄尻が、黒装束の頭部を真上から穿つ。鋭い音とともに頭頂部に風穴を開けられ、そこから血と脳漿を溢れさせる影がぐらりと倒れる。

その体を蹴りつけ、付近にいた黒装束の視界を塞いで少女は飛びずさる。しかし、仲間の死体を蹴りつけられた影も躊躇はない。突進し、向かってくる仲間の死体を正面から十字架で串刺しにすると、仲間の死体ごと下がる少女を貫きかかる。

 

その影の体が、貫いた死体ごと棘付きの鉄球の颶風によってバラバラに四散した。

真っ直ぐに鉄球を投げ込んだ少女。その体が鎖が伸び切ると同時、鉄球の重さに負けたように前に傾ぐ――その前のめりに傾いた彼女の頭部があった位置を、投げつけられた十字架が通過。木の幹に刃の突き立つ固い音が鳴り、傾いていた少女が姿勢そのままに初速を得ると、地面と水平に跳躍して地を爆発させた。

 

「るぁぁぁぁ!」

 

叫び、牙を剥き出しに吠える少女。

その血に濡れた青い髪が揺れる頭部には、純白の鋭い角が突き出し輝いている。

 

跳躍の途上にいた黒装束が、飛来する少女の高速移動に巻き込まれる。腰に回された腕は影の腰部を粉々に打ち砕き、半身不随が確定した哀れな人物を勢いのまま背後の木へ叩きつけ、内臓の大半を口と尻から吐き出させて命をもぎ取った。

 

死した黒装束の死体を腕振りひとつで放り捨て、鉄球を手元に戻す鬼が振り返る。

鬼は愛らしい顔立ちを血に染めて、爛々と双眸を輝かせながら黒装束たちを睥睨。そしていまだ無言の黒影の足下に転がる少年をその視界に入れると、

 

「スバルくんには、なにもさせません」

 

覇気のみなぎる声音で宣言し、少女は――レムは血の滴る左足を引きずって、鉄球をうならせながら頭上を旋回させる。

竜車の横転の際、弾けた木材を避け切れずに負った負傷だ。レム単独であれば無傷で切り抜けることも可能だったかもしれないが、それは不可能だった。

 

地竜の首が吹き飛んだ瞬間、竜車が派手に転倒するのがレムには即座にわかった。

事態を重く見た彼女がとっさに行ったのは、自分の膝の上に眠るスバルを横転する竜車からいかに無事に守り切るかの一点。

めまぐるしい速度で頭を回転させ、視界をめぐらせた彼女は目の端に草と蔦の重なり合う場所を見つけると、そこへスバルを放り投げた。脱出までのコンマ何秒という時間の余裕はそれだけで奪われ、レムはそのまま残骸となった竜車と運命を共にすることとなったのだ。

 

その結果が額に負った裂傷と、左足の太ももに深々と突き刺さった木材。左肩の脱臼は無理やりにはめ込んで、動かすために激痛が白い頬に痺れを走らせる。

だが、レムはそれらの負傷の影響を一切感じさせない足取りで前に出て、

 

「魔女教徒……ッ」

 

黒装束の一団を睨みつけると、憎悪に満たされた声でそう吐き捨てた。

レムの呼びかけに対し、黒装束たちは依然として反応を見せない。彼らは変わらず意識のあるのかないのかわからないような佇まいを維持し、牙を剥き出す少女に十字架を向けたまま動かずにいた。

 

均衡が崩れるのは一瞬だった――。

 

頭上で鉄球を旋回させていたレムが、このままでは埒が明かないと先手を切る。

遠心力に腕力が上乗せされた鉄球は、進路上の障害物をすべからく粉砕する鋼鉄の終焉だ。一撃で骨どころか命ごと持ち去る一発は、体のどこに当たったとしてももろともに全てを奪い尽くす。

 

鎖をめいいっぱいに伸ばした一撃は木々をへし折り、木片と土塊をぶちまけながら黒装束たちに迫る。が、黒装束たちはこれを跳躍、あるいは姿勢を低く走ることで回避し、一撃を放って無防備なレムの身へと一気に飛びかかる。

振り切った姿勢で大きな隙を生じさせたレム。彼女は手元を離れた鉄球を思い切り引く動作で身をよじる。しかし、鉄球が戻るより凶刃が彼女に届く方が早い――。

 

「――るぁ!!」

 

先頭の黒装束の顎が、下から跳ね上がるレムの爪先にごっそり抉られた。

蹴り上げられた、などと生易しい表現ではなく、文字通りに下顎を真下から爪先にこそぎ落とされたのだ。

顎を失い、桃色の舌をだらんと垂らす影。が、それは己の致命傷すら意に介さない動きで目の前のレムに掴みかかり、振り被る十字架を彼女の胸に打ち込もうとする。

 

――その動きが成就するより早く、レムが引き寄せた鉄球が影の残された上顎を頭蓋ごと吹き飛ばしていた。

 

飛び散る脳漿に混じって鉄球が飛び出す。自らの顔面に迫ったそれをレムは掲げた掌でキャッチ――棘が彼女の左手を貫通し、真っ赤な血が白い頬を汚す。が、それを思い切り握りしめ、レムは即座に身を翻すと、真横で十字架を振るおうとしていた黒装束の顔面を鉄球ごと殴りつけて叩き潰した。

 

これで都合六名。最初の十二名から半数にまで刺客を減らし、レムは荒い息を肩でしながら残敵に向かって殺意に濡れる目を向ける。

その眼前に、先端を鋭利に尖らせた岩の槍が飛来。首を傾けて寸前で回避、遅れた髪と側頭部が岩肌を食らって鑢がけされ、痛みと衝撃で目がくらむ。

 

視界が真っ赤に染まり、頭部への衝撃がレムから判断力を奪う。

足下がふいにぬかるむ感触。身が沈む悪寒に本能が反応し、足をわずかに屈める動きで反動を得ると、右足一本で斜めに跳び上がる。そのまま前方の大樹の枝に飛び乗り、最初と同じく奇襲の体勢を作ろうと思考するが、

 

「しま――ッ」

 

遠距離攻撃の手段がある敵の前で、簡単に跳躍した自分の浅慮さを呪う。

 

着地する予定だった枝が灼熱の炎に焼き焦がされ、その向こう側から大樹を焼きくり抜いて火球が出現――肌が高温に炙られる感覚が前面に広がり、レムはとっさに血塗れの左手を正面に構え、

 

「ヒューマ!!」

 

薄く形成された水の膜がレムの前面に展開、火球と衝突した瞬間に白い蒸気が吹き上がり、水が焼かれる断末魔が森に響き渡る。

が、火球は多少の火勢を弱めたものの、とっさの詠唱で掻き消えるほど錬度の低いものでもなかった。

 

「――――!!」

 

握りしめた左手は掌に穴が空き、今後の戦闘で使い物になるかはわからない。故に彼女は握った拳を振りかぶると、躊躇なく勢いそのままの火球へ叩き込み、炎ごと己の拳を爆裂させる。

 

「――うぁぅ!」

 

中空で爆発に巻き込まれ、錐揉み吹っ飛ぶレムの体が木の幹に叩きつけられる。そのままのたくる根の山に落ちるレムは、左腕の鈍痛に苦鳴を漏らして顔を上げた。

 

左腕は手首から先が黒焦げになり、小指と薬指は炭化している。肘までの肌は醜く赤くただれ、痛みの感覚すら肩から先にはない。

フェリスと並ぶほど腕のいい魔法使いにかからなければ、左腕は二度と動かなくなるだろう。

 

そんな重傷を押して立ち上がり、レムは現実へ意識を回帰して痛みを忘れる。

苦鳴を噛み殺して逆に吠え猛り、自身を昂ぶらせるとともに自らの戦意が衰えていないことを敵へと知らしめ、少しでも彼らの意識をスバルから遠ざけるために。

だが、

 

「――――」

 

音もなく接近した無手の黒装束の掌が、レムの胴体を衝撃とともに背後の大樹へ再度叩きつけていた。

内臓がひねり潰され、胸骨が軋む威力にレムの口が大量に血を吹きこぼす。

 

吐血の灼熱感に喉を焼かれ、全身が絞られる苦痛に体が沈む。そのまま引かれた掌が再び突き出され、それが頭蓋を叩き潰そうとするのをかろうじて回避。背後の幹が掌底にぶち抜かれ、信じられないほど軽々と大木が宙を舞う。

踏み込み一発で地面をひび割れさせる黒装束は、明らかにそれまでの相手とはものが違う。横っ跳びに追撃を避け、転がるレムは口の中に残る血を吐き出し、取り落としてしまった鉄球を探して視線をさまよわせ、

 

「――――!!」

 

顔面の横を岩の槍がかすめ、ぐらついた体を背後から岩の槌に打ち据えられた。背骨が激しく軋み、小柄な体が大地をバウンドして吹き飛ばされる。

跳ね飛ばされる先、待ち受けるのは先ほどレムを圧倒した無手の人影。影はその手にレムが手放した鉄球を握っており、弾む彼女目掛けてその鉄塊を振り上げ、

 

「――エルヒューマ!」

 

詠唱に吐き出した血が凍りつき、純血の刃が鉄球を構える男の腕を半ばまで切り裂く。その苦痛に黒装束の手から獲物が落ちる。と、

 

「がぅるるるぅ!」

 

地面を叩いて姿勢制御し、跳ねるレムは右手を伸ばして黒装束が落とした鉄球の柄を掴む。同時に地面に落ちた鉄球を蹴り上げて影の背後へ飛ばし、影の太い首に鎖を回すと、万力の力を込めて引き絞る。

 

鎖が肉を引き絞る水気まじりの音が鳴り、脛骨ごと黒装束の首がねじ折られる。百八十度後ろを向いた顔がレムを見て、双眸が光を失う。

沈むその体に強敵を屠ったとレムはわずかに脱力する――その瞬間、

 

「――――ッ!!!」

 

力を失ったはずの黒装束の体が動き、すさまじい威力の蹴りがレムの胴体を薙ぎ払っていた。

 

左脇に直撃した蹴りはレムの左側の肋骨を全損させ、左大腿部をもへし折って大地に叩きつける。そして、その一撃を最後に今度こそ黒装束は絶命。うつ伏せに倒れた体が空を見上げる、壮絶な死体の出来上がりだ。

 

「うぅ、あぅ……」

 

呻き、血を吐き、レムは腕を含めて言うことを聞かない左半身を叱咤しながら立ち上がる。

おそらくは敵の集団の中でもっとも手練れであったろうものを始末した。が、そのために支払った代償は安くない。

 

残りは五名。無手の人物に混じってこなかったことから、接近戦を得意とするものはいないはず。となれば、近づいてひとりずつ首をねじ切れば片付くはず。

 

今の震える体で、傷だらけの有様で、右半身しか動かない状態でやれるだろうか?

 

首を振り、弱気を噛み殺して、レムは挫けそうになる自分を叱咤する。

やれるかどうかではない。やらなければならないのだ。

左半身が死んだからなんだというのか。まだ右側は動く。右腕がダメになれば足で踏み殺せばいいし、右足もダメになるなら噛み殺すまで。

 

最後のひとりまで殺し尽くして、スバルが生き残ればレムの勝ちだ。

 

すでにこれほど大規模戦闘、おまけにメイザース領には入っているのだ。

意識してはいないが、これだけ殺意に濡れた自分の感情が姉に伝わっていないはずがない。遠からず、姉はこの場所を突き止めてくれるだろう。

そのときに自分の命の有無は関係ない。スバルの命さえ守れれば、ここで使い潰すことになんの躊躇いがあるというのか。

 

未練がわずかにレムの心に歪みを生む。

レムは最後の躊躇いを殺すために、ちらと倒れているはずのスバルの方を見る。せめてその姿を一目見れたのなら、あとはもうどうなっても構わない。

なのに――、

 

「――スバルくん!?」

 

いない。

痛みに、苦痛に、恐怖に、喘いでいたはずのスバルの姿がどこにもない。

 

焦り、レムは視線を周囲に走らせる。

まさか先の戦いの余波に巻き込まれ、彼がどこかへ飛ばされてしまったのではと。しかし、探せども探せどもその姿は見つからない。

そして、はたとレムは気付く。

 

「ひとり、足りない……」

 

黒装束の一団の残りは五人。だが、その数が今やどこを見ても四人しかいない。

十字架を両手に下げる黒装束たちは正面の獣道を遮るように立ちはだかり、レムの視界から遠ざかる仲間を隠すようにするする移動し始める。

――スバルを担いで逃げた仲間から、彼女を遠ざけるように。

 

「お前……たちは……」

 

震える唇から、震える声がこぼれ出す。

 

大量の出血で血の気を失った唇は、口内から溢れる血のルージュに染まっている。その凄絶な戦化粧の中、レムはその愛らしい顔立ちをまさに鬼の形相へ変え、

 

「レムから、生きる理由を奪っただけじゃ飽き足らず……」

 

鉄球を握りしめる右腕をたわめ、片足を屈ませて爆発力を溜め込む。

前方で黒装束たちに緊張が走り、彼らがこちらへ飛びかかる瞬間、

 

「今、この場で死にに行く理由すら奪うのか――!!」

 

レムの咆哮が炸裂し、大地が吹き飛ぶような蹴り足でレムの体が飛ぶ。

 

その正面、飛び込むレムの前面に展開されたのは、十字架を構える黒装束たちを目くらましに、その背後で詠唱されていた拳大の火球――ただし、その数は視界を覆い尽くすほどに多い。

 

「――――――――ッ!!!」

 

叫び声が爆発し、直後に朝焼けの森の中に真紅の輝きが連鎖する。

高熱が吹き荒れ、木々を焼き払い、一面が焦土と化す熱量に世界が断末魔を上げ、

 

――焼け野原に、白いエプロンドレスの焼け残りが舞い落ち、刹那のあとに焼き消えた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――ゆらゆら、ずきずき、ゆらゆらぁり、ずきずきぃり。

 

黒装束の肩に担がれ、無抵抗に揺られながらスバルは涎を垂らしていた。

 

竜車からの落下によってできた傷、それらの痛みはすでにほとんど感じない。感じていないわけではないのだが、それらがどうでもよくなるほどの痛みに意識が支配され、動く気力すら奪われて沈み込んでいるのだ。

 

竜車横転の現場で、黒装束たちがスバルを取り囲んで始めた呪言の囁き。

あの囁きを聞く内、スバルの体は内側から膨れ上がる得体の知れない感覚に食い破られそうになり、頭には耳鳴りという表現では足りないほどの騒乱が荒れ狂った。

 

黒いものが胸の中で、腹の内で、頭蓋の内側で、心の中心で、存在をグチャグチャにしようとでもするかのように暴れ回ったのだ。

 

あともう少し、アレがそのまま続いていたらと思うとゾッとする。

あの痛みは人の心を砕くものだ。人の心をねじ曲げるものだ。人の心を変えてしまうものだ。人を人でなくす、そういう類のものだ。

もしもあのままでいたら、ナツキ・スバルは――。

 

「ふひへ、ひひはひ、へふへへ……」

 

途端、思い出したように狂笑が唇の端から涎とともにこぼれ落ちる。

 

痛みに支配されていた意識に自己が戻り始めるにつれ、自然と心は痛みとは別のベクトルでバラバラになったままの有り様をさらす。

 

体のあちこちが痛い。頭が特に割れそうに痛い。

青がいない。青が側にいない。黒いのに運ばれている。黒いのはなんなのか、青はどこへいったのか。このままどこへいくのか。

 

森を掻き分け、獣道を飛ぶように黒装束は走る。

特別、鍛え抜いているようにも見えない細身の体つきでありながら、脱力した人間を担いで風のように走る姿はあまりに現実離れしていた。

 

それこそ、まるで日の光に従って動く影のように滑り、スバルを担いだ黒装束は山中を、目印もない獣道を我が物顔で駆け抜けた。

 

そうして、十数分も走った頃だろうか。

日差しが届かない緑深い闇の中、ふいに黒装束の人物が足を止める。正面、そびえ立つのは苔に覆われた岩肌が目立つ絶壁であり、見上げるほどに高いそれはとても道具なしで踏破できるような代物ではない。

 

そんな岸壁を前に黒装束は視線をめぐらせ、一際目立つ岩塊の方へ足を向けた。そして、その岩塊に掌を当てると、

 

「――――」

 

ぼそり、と影が言葉を紡ぐのを聞き、スバルの体が緊張に強張る。

あの場でスバルの脳内に響き渡った呪言、再びそれが繰り返されることを恐れての反応だった。

が、一言だけ呟かれたそれは先ほどの呪言とは違ったものだったらしく、その効果もスバルの頭蓋を軋ませるものではなかった。

 

「――――」

 

呪言を呟いた黒装束の前で、その巨大な岩塊が突如として消失する。

まるで夢か幻か、溶けるように大気に消えたそれを当然のように受け入れ、黒装束は改めてスバルを担ぎ直すと、岩塊が消えたことで生じた洞穴へ踏み入る。

 

ひやりと冷たい洞窟の空気に、ゆっくり地を踏む影の靴音だけが規則正しく鳴り響く。洞窟を十数メートル進んだところで、ふいに背後から届いていた明りが閉ざされた。おそらくは、再び洞穴の入口が岩塊によって塞がれたのだろう。

 

冷気が肌を刺す洞穴の中で、しかし黒装束は慌てる様子もなく、足取りが乱れる素振りもない。

と、薄闇は迷いなく進む影の前で、唐突に生じたぼんやりと白い輝きで払われる。ラグマイト鉱石の輝きだ。

 

通路、と思しき壁面には等間隔に鉱石が設置されており、歩く影の道のりを先導するように次々と明りが点灯されていく。

 

洞穴を奥へ奥へ、闇へ闇へと進まされる。

血のにじむ肌が粟立つのは、寒さが原因かそれとも別の要因か。

 

担がれたままのスバルは小さく身を震わせて、瞳の端から熱い涙をこぼしながら、へらへらへらへらと笑い続けていた。

 

そして、その暗く冷たい岩肌の通路の終わりが見える。

ラグマイト鉱石の輝きがわずかに強く、照明がしっかりと用意されたそこは洞穴の中では格段に大きく面積を取られた天然の広間だった。

 

スバルはそうしてそこで、悪意の塊と顔を合わせることとなる。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――痩せぎすの男だった。

 

黒い装束の男たちに囲まれるその男は、自らも黒の法衣に身を包んでいる。

身長はスバルよりもやや高く、深緑の前髪が目にかかる程度の長さに整えられている。頬はこけており、骨に最低限の肉と皮を張りつけて人型の体裁を取っている、と表現するのが適当に思えるほど、生気が感じられない肉体の持ち主だ。

 

ただし、その狂気的にぎらぎらと輝く双眸がなければの話ではあるが。

 

男は身を傾けて、壁に拘束されて座り込むスバルをジッと観察している。曲げた腰の上でさらに首を九十度傾け、ぎょろついた目で無遠慮に眺める姿は常軌を逸した奇体さを露わにしており、事実その男の言動は常人と一線を画していた。

 

「なぁるぅほぉどぉ……こぉれはこれは、確かに、興味深いデスね」

 

ひとしきり、舐めるようにスバルを上から下まで眺めた男は、納得したような頷きでもって周囲の男たちに賛同を示す。

黒装束の人影は男の肯定に顎を引き、無言のまま男の言葉の続きを待つようだ。

 

男は人影の沈黙を守る姿勢になんらリアクションせず、ひとり考え込むように右手で自分の左手を握りしめ――手首に生じている傷口に親指をねじ込み、血が滴るそれを意に介さず、自らの血肉を穿り返す。

 

「あぁなぁた……まさか、『傲慢』ではありませんデスよね?」

 

姿勢を曲げたまま振り返り、男は奇妙な体勢のままスバルを振り仰ぐ。問いを発したその口に、傷口を抉った血に染まる親指を差し込み、鉄の味をその舌でねぶりながら恍惚に、澱んだ光を放つ瞳を震わせて。

 

問いかけられたスバルの返事はない。

ただ、目の前に立つ男の顔をぼんやり見上げ、へらへらと場に合わない笑みを浮かべているだけだ。

 

それを見つめて、男は音を立てて唇から指を抜くと、

 

「あぁ、そうデスか。これはこれは、失礼をしておりました。ワタシとしたことが、まだご挨拶をしていないではないデスか」

 

スバルの笑みに応じるように、男は色素の薄い唇をそっと横に裂き、禍々しく嗤うと、ゆっくり丁寧に腰を折り曲げ、

 

「ワタシは魔女教、大罪司教――」

 

腰を折った姿勢のまま、器用に首をもたげて真っ直ぐスバルを見つめ、

 

「『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ……デス!」

 

名乗り、両手の指でスバルを指差し、男は――ペテルギウスはケタケタと嗤った。

 

ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと。