『遠い眼差し』


 

ぐらぐらと、ものすごい勢いで頭が揺らされている。

 

誰かが自分の腰を横抱きにして、懸命に走っているのだとわかった。

こういう運ばれ方をするのは初めてではない。

物のように扱われるのに慣れている、というわけではないが、自分の配慮の足りない相方にこうした形で運搬されるのはよくあることだった。

 

「いい加減にしてよねえ、エルザ……」

 

何度注意しても耳を貸さない相手、彼女をなんと形容するかはいつも困る。

相棒、相方なんて言うほど信頼していないし、姉や母なんて呼べるほど近しくもない。友人なんて関係性じゃなくて、知人というほど遠くもなくて。

だから、いつも困ってしまうのだ。彼女を、なんと呼べばいいのか。

 

――エルザは、自分のことをなんだと思っていたのかと。

 

「揺らさないでってばあ……」

 

言っても治るものではないが、言わずに諦めたと思われるのも癪なので、届かないとわかっていながら文句を垂れる――否、垂れようとした。

そうする前に、言葉を上塗りするみたいに熱いモノが口の奥から溢れた。ごぼっと、食べたものを戻してしまったかと思うが、違う。

それは、自分の体の深いところから溢れ出した、赤い赤い血だった。

 

「クソ!血が止まらねぇ!ベア子!どうしたらいい!?」

 

「とにかく!吐いた血は出し切らせるかしら!窒息したらマズいのよ!」

 

耳元で怒鳴り合う男女の声がして、それから体を横に傾けられた。咳き込み、なおも喉から唇から流れる血は止まらない。

何かが口に当てられ、止まらない血が吸い出される。かろうじて喉が空いて、窒息しかけた肺や脳へと空気が流れ込んでいった。

 

「――ぺっ!よっしゃ、呼吸戻った!治癒魔法頼む!」

 

「わかってるかしら!でも、そればっかりにかまけてもられないのよ」

 

「そっちもわかってる!……メィリィに深追いさせたのは俺のミスだ。その分のツケは俺が払う」

 

頭上で何事か言い合っているが、呼吸できるようになると、体が重くなってきた。

いや、おそらく体はずっと重かったのだ。重篤な部分が変わったことで、意識がそれ以外のところにも向き、結果的に被害の全体像が見えてくる。

 

手足、動かない。頭、ぐらぐらする。吐いた血はコップ三杯分くらいだろうか。全身が猛烈に熱く感じるが、特に熱いのは背中だ。

背中に全体的に、何か大きな違和感を受けてしまっている。

 

それが、体がうまく動かせないのと、自分が血を吐いている理由なのだろう。

直前のことも、言い合う男女も、何がどうなってしまったのかも、よく思い出せない。

ただ、薄ぼんやりと、何もかもが曖昧な世界に、引っかかるモノがある。

それは――、

 

「やく、そく……」

 

それを、誰かと交わしたような、そんな気だけがしていて――。

 

△▼△▼△▼△

 

――大サソリの体色が変化した瞬間、炸裂した光はこれまでで最大のものだった。

 

膨れ上がる白光が四方八方へ散り、その紅に染まった甲殻を狙った複数体の燃える餓馬王、それが木端微塵に砕け散り、その余波は拡大、砂海が割れた。

もちろん、その被害はスバルやベアトリスも免れなかったが、それ以上に当たりどころが悪かったのはメィリィだ。

 

魔獣の指揮のために前のめりになっていた彼女は、大サソリ――『紅蠍』の反撃をかなり強烈に浴びてしまった。

不幸中の幸いは、光の正体である尾針の直撃を免れたこと。もしも尾針に掠められでもしていれば、少女の小さな体は一瞬で蒸発していただろう。

そうならずには済んだ。だが、逸れた尾針が砂海を砕いて、その際に発生した衝撃波をまともに喰らった。それだけで、十分以上に瀕死の重傷だった。

 

「メィリィ!!」

 

スバルとベアトリスが砂に倒れる彼女の下へ駆け付け、抱き起こしたときにはひどい有様だった。とっさに体を丸めたのか、衝撃波の影響の大部分は背中だ。

黒いマントが吹き飛び、破れた衣服の下にはズタズタになった地肌が見える。重度の裂傷と火傷に見えて、スバルは一瞬、目の前が暗くなる。

だが――、

 

「馬鹿か俺は!何のための俺だ」

 

遠くなる意識を拳骨で呼び戻し、スバルは己の内なる力に呼びかける。

常に発動し続けている『コル・レオニス』――仲間たちの負担を引き受ける力を使い、メィリィが受けた致命傷に近いダメージを引き取る。

無論、丸ごと引き取ってスバルが倒れれば元も子もない。メィリィを生かしつつ、スバル自身も昏倒しない配分が求められるが、

 

「大丈夫だ。俺ならできる。――やれるだろ、ナツキ・スバル」

 

以前までなら、ここで狼狽え、取り乱し、無様な醜態を晒したかもしれない。

しかし、『ナツキ・スバル』の辿った道のりを歩いて、スバルは己を見つめ直した。自分の役割はもちろん、自分にしかできないことも。

だから――、

 

「――エミリアたんと、ユリウスは大丈夫だ。エキドナとパトラッシュ、レムもセーブ」

 

塔内にいる仲間たちの反応を探り、それぞれの状態から最適解を求める。

反応の途切れたエミリアは気掛かりで、レイドと戦うユリウスの様子も気になる。エキドナとパトラッシュたちの位置も懸念事項、だが、信頼がそれを押しとどめた。

代わりに、スバルの意識はラムと、目の前のメィリィに集中される。

 

「――ぐ」

 

途端、メィリィの味わう苦しみが流れ込み、スバルは臓腑を焼かれる痛みに呻いた。

正直なことを言えば、ラムの負担の肩代わりだけでもかなりの消耗があった。そこへ、メィリィの瀕死の重傷を引き取るのは、まさに自殺行為。

 

「マズい……!」

 

威勢のいいことを言ったにも拘らず、両方を限界まで引き受けるのは不可能だ。

となれば、命に関わるメィリィの方を優先せざるを得ず、スバルはラムから自分へと流れ込む負担の程度を下げるしかない。

おそらく、それだけで察しのいいラムには何があったか伝わるはずだ。

 

「あとで、絶対どやされる……」

 

『ハッ!あれだけ威勢のいいことを言っておいて、この様。所詮はバルスね』

と、嫌にリアルな反応が想像できて、スバルは苦々しい思いで血の味を堪える。

『コル・レオニス』の効果はあくまで負担の肩代わりであるはずだが、実際に血の味を感じるのは、ある種のフィードバックがスバルの肉体に起きている証だ。

 

思い込みが肉体に与える影響は殊の外大きい。

焼けた鉄を押し付けられたと信じるものの体には、実際に火傷が生じるという現象も起こり得ると聞いたことがある。

つまり、背中や内臓に重大な傷を受けたメィリィのダメージを引き取ることで、スバルの肉体にも同じ反応が生まれるということだ。

下手をすると、同じ死因の死体が二つ生まれることにもなりかねない。

 

「それはちょっと、困るから、な――!」

 

口内に溜まる血を吐き捨てて、メィリィの体を担いで立ち上がる。そして、振るわれる餓馬王の炎の槍を下がって躱し、ベアトリスの紫矢で牽制、距離を取った。

 

今襲ってきた餓馬王は、先ほどまでスバルたちを乗せてくれていた一頭だ。

状況が悪くなった途端、利に聡い魔獣がまさかの裏切り――ではなく、メィリィの加護が切れて、通常営業の塩対応に戻っただけの話。

メィリィの指示がなければ、魔獣はスバルたちを敵とみなす人類の害敵だ。

そして、そんな魔獣はこの砂海に、今や無数に存在している。

 

「げほっ」

 

「メィリィ!」

 

魔獣と距離を取りながら、走るスバルの腕でメィリィが吐血する。咳き込みながら血を吐くメィリィ、その苦しげな様子に焦燥が高まる。

落ち着いて、治療する時間の確保さえできない。このままでは――、

 

「クソ!血が止まらねぇ!ベア子!どうしたらいい!?」

 

「とにかく!吐いた血を出し切らせるかしら!窒息したらマズいのよ!」

 

歩幅の違いを懸命さで埋めながら、ベアトリスが少ないマナを駆使して周囲の魔獣を近付けない。その間、スバルはメィリィの体を揺すり、喉の血を吐かせようとする。

しかし、それでもメィリィの顔色は変わらず、血も止まらない。仕方ないと、スバルは少女の口に拳で作った即席のストローを当て、それ越しに血を吸い出した。

 

「えほっ!げほっ」

 

「――ぺっ!よっしゃ、呼吸戻った!治癒魔法頼む!」

 

「わかってるかしら!でも、そればっかりにかまけてもられないのよ」

 

「そっちもわかってる!……メィリィに深追いさせたのは俺のミスだ。その分のツケは俺が払う」

 

厳密には、失敗のツケはすでにスバルが支払いを始めている。

ただし、凄まじい勢いで利息は積み重なっていき、ラムへの融資を減らしながらもスバルはすでに青色吐息の状態だった。

このままで、あとどれだけ時間を稼げるか――、

 

「いいや、ここが俺の踏ん張りどころ。ここでやらなきゃ男がすた……」

 

「ふりゃ!かしら!」

「おう!?」

 

歯を食いしばり、権能の効果を全身に味わいながらメィリィを抱えて走るスバル。そのスバルの頭へと、唐突にベアトリスが飛びついてきた。

思いがけず、肩車するような形になってスバルは驚く。無論、ベアトリスは綿菓子のように軽いので、それが逃走の妨げにはならないが――、

 

「ベア――」

 

「スバル、何もかも一人で抱え込むのはよすのよ。ベティーとスバルはパートナーで、メィリィも仲間の一人かしら。助けるって、約束したのはスバルだけじゃないのよ」

 

「――――」

 

ぐっとスバルの頭を丸ごと抱え込み、ベアトリスは静かな声で訴えかける。

それを聞いて無言になるスバル越しに、彼女はその優しい治癒魔法でメィリィの傷の手当てを始めた。――じわりと、温かな光がメィリィを癒していく感覚、それがスバルにも彼女越しに伝わってくる。

この温もりの分だけ、ベアトリスが皆を思ってくれていることも。

 

「――――ッッッ」

「――――」

 

背後、魔獣たちの仲間割れは続いている。

幸い、メィリィの加護が切れたとしても、紅蠍と餓馬王とで即座に和平条約が結ばれることはなかったらしい。それは他の魔獣も同様だ。

紅蠍の薙ぎ払う大鋏と尾針が、スバルたちへ迫る魔獣の半分を倒してくれる。

当然、もう半分はこちらを狙ってくる以上、悠長にはできない。

 

「選択肢は――」

 

実は、ないわけではない。

ベアトリスのかけてくれた言葉、メィリィを大事に思ってくれる彼女の思いを汲み、この置かれた状況を打破まではいかずとも、変える手段は確かにあった。

ただし、実現可能かどうかは試してみなければわからないのと、その手法のモデルがスバルにとって最悪の相手であったため、実行を躊躇する。

しかし――、

 

「スバル!躊躇う理由がベティーのためなら、いらないかしら!理由がベティー以外なら、あとで一緒に謝ってあげるのよ!」

 

「――――」

 

「一緒に苦しみたいし、一緒に喜びたい……ベティーを仲間外れにしない!それが、ベティーとスバルの契約の条件かしら!」

 

抱え込むスバルの横顔に何を見たのか、怒りを込めてベアトリスが叫ぶ。

頭のすぐ後ろにいるものだから、ベアトリスの今の顔は見えない。だが、怒りの形相であっても可愛らしいのが、スバルの自慢のパートナーだ。

だから、そのパートナーからの言葉に勇気をもらい、スバルも甘える。

 

悩む時間は、ない。

悩む必要性は、悩むなと、そうパートナーが言ってくれたからそれもない。

故に――、

 

「愛してるぜ、ベア子」

 

「ベティーの方が上なのよ」

 

互いに愛情を交換し合い、スバルは腕の中で瀕死のメィリィを見下ろす。

そして、その命を決して取りこぼすまいと心に決めて――、

 

「――コル・レオニス、セカンドシフト」

 

自ら命名した『獅子の心臓』に新たな名を与え、自分の中でギアを明確に切り替える。

そうすることで、己に課した『小さな王』としての権能を拡大――みんなの想いを背負って立つ、孤独な王様としての在り方、それを叱られた。

 

かといって、自分の積み荷を誰かに押し付ける恥知らずな『強欲』にはなれない。

だから、スバルがこの権能の果てに望むのは――共に在りたいと、スバルをそう望んでくれる仲間と荷を分かち合うこと。

つまり――、

 

「セカンドシフト――負担の分配」

 

スバルが一人、全身で味わわなければならなかった仲間たちの負担。それを、分かち合う意思のある相手と分配する。

この場においてはさしあたり――、

 

「――スバル」

 

「ああ」

 

「……めちゃめちゃしんどいかしら!!」

 

「ああ、めちゃめちゃしんどいんだ!!」

 

『コル・レオニス』の第二段階が発動し、スバルの受ける負荷が分配される。

半分とはいかない。半分の半分程度だが、それでもスバルの負担はずいぶんと軽くなり、代わりに負担を共に背負うベアトリスの顔色は悪くなる。

その辛さを誤魔化すように怒鳴ったベアトリスに、スバルも声高に怒鳴り返した。

 

辛い。苦しい。やってられない。

みんなの負担を全部引き受けて、王様なんてクソ喰らえだ。――だから、一人では立てない『小さな王』を、支えたいと思ってくれるみんなのおかげで立っていられる。

 

「ちなみにこの苦しみ、お前に分けられたりは……」

 

「――――」

 

「しねぇよな、残念」

 

負担を分け合い、肩車するベアトリスにメィリィを治療してもらいながら、スバルはその意識を紅蠍の方へと向ける。

その正体はシャウラであり、今も彼女とは『コル・レオニス』を通じて存在が繋がっていることを感じる。淡く、大きな光がそこにあると。

しかし、残念ながらスバルとベアトリスが味わう負担をその紅蠍へ引き渡すことはどうやらできない。――受け取る意志が、今の彼女にないからだ。

 

『小さな王』を支えられるのは、支えたいと思ってくれる相手だけ。

実にわかりやすく、融通の利かない力。だからこそ、傲慢にならずにいられる。

自分が誰かに支えられていると、忘れないでいられるから。

 

「ベア子!頭と体で違うことして!」

 

「――っ、難しい注文してくれるもんなのよ!!」

 

体にはメィリィの治療の継続を求め、頭には次なる状況の打開策を一緒に考えてもらう。何故なら発光する紅蠍の尾が、スバルたちへ向けられて――、

 

「――E・M・M!!」

 

切り札一枚目の絶対無敵魔法が切られ、衝撃波がスバルたち三人を呑み込んでいった。

 

△▼△▼△▼△

 

――雲の下の出来事は、雲上のエミリアには伝わらない。

ただ、命懸けの戦いを繰り広げる仲間たちと同様、エミリアも熾烈な戦いを潜り抜けた果てに、ようやくその場所へと辿り着いていた。

 

「――――」

 

プレアデス監視塔の最上層、一層よりさらに上、真の意味でのてっぺんへの到達。

多数の氷兵の犠牲があって辿り着けたその場所で、エミリアが目にしたのは中央の柱の根本――そこに置かれた、黒いモノリスだった。

 

モノリス自体は、三層の『試験』の最中にも見かけたものと同じに見える。

違うのは、モノリスが浮いているわけではなかったことと、真っ平らだったはずの表面に目を引く特徴があったこと。

それは――、

 

「――誰かの、手形?」

 

紫紺の瞳を丸くしたエミリア、その視界にあるのはモノリスの表面に押された複数の手形――全部で六つの、異なる男女の手形だった。

掌の大きさや指の太さから、それが全員別々の人間の手であるとわかる。

ただ、わざわざこんな風に並べて手形を残すぐらいだから、その人物たちが親しい間柄にあったことと、この監視塔の関係者なのは間違いなく――、

 

「……もしかして、シャウラのお師様とか、レイド?」

 

塔の関係者を思い浮かべたとき、エミリアが思いつくのはそれぐらいだ。

あとはボルカニカもいるにはいるが、ここにあるのはいずれも人間の手形なので、彼の龍の痕跡が残されている様子はない。

だから、エミリアに思いつく手形の該当者は六人中二人だけ。

 

「――?待って、これって」

 

そこまで考えたところで、エミリアは手形の一つに違和感を覚えた。

それは、六つの手形の一番端にちょこんと押された手形――隣に同じぐらいの大きさの手形があるが、端の二つだけが明らかに小さい。

おそらく、その二つだけが女性の手形だからだ。

そして、エミリアの意識を引きつけたのはその手形の片方、それが――、

 

「この手形って、私の……?」

 

エミリアは眉を顰めながら、自分の右手を見下ろして呟く。

そんなことはおかしなことなのだが、そんな気がしてならない。そのモノリスに押された手形の一つ、それが自分のモノのように思えるのだ。

 

「――――」

 

息を呑み、エミリアはモノリスと向かい合った。そして、自分の疑念を晴らすため、その手形へと自分の右手を伸ばして――、

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「――っ!戻ってきた!」

 

モノリスに触れる直前、上から降ってくる厳めしい声にエミリアは振り返る。

すると、翼をはためかせて最上層へ降り立つのは、先ほどエミリアの氷兵に喉元の白い鱗を触られ、激しく悶えていたボルカニカだった。

 

『――――』

 

モノリスを背に、エミリアは再び『神龍』と相対する。

柱をよじ登る戦いもうんと大変だったが、ここでさっきの続きとなるならかなり厳しい戦いを強いられるだろう。それなりの広さはあるが、最上層の空間は一層よりも狭く、立ち回りが難しい。

 

「それに、モノリスが壊されちゃったらすごーく困っちゃう……」

 

モノリスの丈夫さはわからない。

三層でモノリスと遭遇したときも、叩こうとするのはユリウスやラムたちに止められてしまったため、その強度は不明のまま。

ただ、いくら頑丈にできていても、『神龍』に力一杯叩かれて無事とまではとてもエミリアには思えない。

 

「あなたに叩かれたら、きっと壊されちゃうわ。だから――!」

 

やらせるわけにはいかないと、エミリアは再び自分の周囲に七体の氷兵を召喚する。

最上層へくるために散々砕かれた氷兵たちだが、エミリア同様、その表情はやる気に満ち満ちていて心強い。

彼らが氷の武器を構えるのに合わせ、エミリアの二振りの氷剣を両手に取った。

そして、七人の氷兵と一丸となってボルカニカへ突っ込む。

 

「いくわ、みんな!ボルカニカは、首の白いところが弱いから!」

 

あれだけ激しい反応を見せたのだから、あの白い鱗がボルカニカの弱点だ。

それを傷付けるまではしたくないが、触れるだけでも誰かが届けば、エミリアがあのモノリスを調べる時間が取れるはずと――、

 

「――ぇ?」

 

次の瞬間、エミリアは自分の視界がぐるりと上下反転したことに声を漏らす。

 

「――――」

 

何が起こったのか、とっさのことすぎて判断がつかない。

ただ、前進するために踏み込んだ足に、何かが素早く触れていった感覚があった。それも、ひっくり返ってから触れられたと気付くほどささやかに。

そして、それと同時に――、

 

「あ」

 

天地がひっくり返るエミリアの周囲、七体の氷兵がいっぺんに砕け散った。

全員、その頭部だけを器用に砕かれて、為す術もなくマナの塵へと姿を変える。それを肌で感じたところで、エミリアは戦慄と共に気付いた。

 

今のは、ボルカニカの尻尾だ。

ボルカニカの尾が高速でエミリアの足を払い、同じ尾で氷兵たちの頭を割った。

それを、高速の尾の一振りで実現したのだとわかり、喉が凍り付く。

 

とっさに、エミリアが防ぐことができた最初の不意打ちよりも桁違いに速い。

スバルの鞭が一なら、ボルカニカの尾撃は千か万か、それぐらいの差があった。

その強烈な攻撃の前には、エミリアさえも容赦なく敗北していただろう。

だから、疑問だった。

 

「なんで、私には優しくしたの……?」

 

エミリアに対しては足払い、氷兵に対しては頭部を砕いた。

ここで生まれた差はなんなのか。まさか、さっき白い鱗に触ったのと同じ顔をしているから腹いせをされた、とは考えにくいが。

と、そこまで考えたところで、エミリアは自分がいまだに天地のひっくり返った状況から抜け出していないのを思い出す。

 

「いけな――っ」

 

そのまま、危うく頭から床に叩き付けられる寸前だ。

再び、反転して宙にあるエミリアの足を横合いから柔らかい衝撃が打って、

 

「わ、ととっ……!」

 

反転状態からくるりと半回転させられ、エミリアは危うげに着地する。

そして、危なかったと顔を上げたところへ――、

 

『……汝は、何をしているのだ』

 

そう言いながら、エミリアの眼前に顔を突き付ける『神龍』の姿があった。

 

「えっと……?」

 

それは文字通り、目と鼻の先だった。

エミリアがちょっと顔を前に出せば、その岩のように鋭く頑健な肌と鼻が触れ合ってしまうぐらいの直近。

その距離に龍の顔があること、それ自体もエミリアを驚かせることだった。

だが、それ以上にエミリアを困惑させたのは――、

 

「さっきまでの、ずっと繰り返してたのと違うこと喋ってる!」

 

『――――』

 

「正気に戻ってくれたの?だったら、色々話せる?『試験』のこととか、この監視塔の決まり事を変えたいとか、たくさん相談があって……」

 

ボルカニカの様子に希望を見て、エミリアは矢継ぎ早にそう声をかける。

ボケてしまったと思った『神龍』が復活したなら、改めて『試験』についての話ができる。それなら、無理に乱暴な手段に訴える必要もないのだ。

 

「ねえ、お願い!ちゃんと話を……」

 

『そうも奔放に飛び跳ねて、転びでもしたらなんとする。万一があれば、叱責を受けるのは我であろう。……皆、汝には頭が上がらぬ故』

 

「ボルカニカ……?」

 

塔の中のみんなの様子が気掛かりで、必死に訴えるエミリアにボルカニカがまたしても繰り言ではない言葉をかけてくる。

しかし、その内容はエミリアの言葉に答えたものと思えず、困惑は深まった。

 

ただ、ボルカニカのエミリアを見る金色の瞳、そこには穏やかな色が宿っている。

直前までの、茫洋として曖昧なものとは異なる、感情の光だ。

それは優しく穏やかに、慈しむようにエミリアを見つめていて――、

 

『フリューゲルやレイドは何処へいった?別れ際に言葉もなくては、シャウラが寂しがるぞ。ファルセイルも、喧しく騒ごう』

 

「――――」

 

エミリアを優しげな目で見つめたまま、ボルカニカがそう言葉を続ける。

どこか遠いモノを見る眼差しで龍が語ったのは、フリューゲルとレイド、それにシャウラの名前と、もう一人――、

 

それが誰なのか、家名まで聞かなくてははっきりとわからないが、その響きにエミリアは覚えがあった。ファルセイルと、それがエミリアの覚えの通りなら。

 

「ファルセイルって、ファルセイル・ルグニカ?四百年前の王様?」

 

それは、王選に向けての勉強の中で何度も文献に名前の挙がる人物だ。

ファルセイル・ルグニカ――ルグニカ王国の三十五代目の国王にして、四百年前の『魔女』の時代に国を統治した偉人。

そして、他ならぬ『神龍』ボルカニカと盟約を結び、長きにわたるルグニカ王国の繁栄の第一歩を刻んだ『最後の獅子王』。

 

「――――」

 

ちらと、エミリアは視線を背後のモノリスへ向ける。

六人の手形――ボルカニカの言葉が無関係でないなら、手形の三人はフリューゲルとレイド、それにファルセイルだろうか。あとの三人は不明だが、一つは未確認ながらもエミリアの手形と一致するのではないかと思われる。

あとはおそらく、男と女が一人ずつで。

 

「なら、女の人の手形はシャウラの……?」

 

可能性として、それが一番高いと考えられる。

最後の男性の手形の正体は不明だが、今のところはそのあたりで落ち着くだろう。相変わらず、目下最大の問題は知らない自分の手形がある事実――、

 

「まさか、私……森の母様たちのこと以外にも、まだ何か忘れてるの!?」

 

疑い始めると、エミリアには自分で自分の記憶に蓋をしていた過去がある。

そうでなくても、『暴食』の大罪司教の存在があるおかげで、『記憶』や『名前』がしっちゃかめっちゃかになることがあるとわかっている状態だ。

もしかしたら、エミリアは前にここにふらっとやってきて手形を押したくせに、それをぽんとうっかり忘れているだけなのではないだろうか。

 

「……ううん、いくら何でもそんなことないはず。パックがいてくれたら、私がここにきたことがあるかどうかわかったのに」

 

『――どうした?悩み事か?』

 

「あ、ええと、大丈夫。心配してくれてありがと。ありがとなんだけど……」

 

結局、ボルカニカとの会話の成立が怪しく感じられ、エミリアは困る。

問答無用で尻尾や前足に叩かれるよりよっぽどいいが、『試験』に関して手詰まりな状況であることは変わらないまま。

どうしたものかと、エミリアは思案し――、

 

『何かあれば話せ。汝の憂いなら我が取り除こう、――サテラ』

 

――そう呼ばれ、息を詰めた。

 

「――――」

 

サテラと、その名前で呼ばれることは初めてではない。

銀髪に紫紺の瞳、そしてハーフエルフ――その特徴を備えたエミリアを見れば、この世界を生きる多くの人間は同じ存在を連想する。

あとは、それをなんと呼ぶのかという違いがあるだけだ。

 

ある人はサテラと呼び、ある人は最悪の災厄と呼び、ある人は『嫉妬の魔女』と呼ぶ。

だから、誰かがエミリアをそう呼んだとしても不思議はない。

 

ただし、ボルカニカが、親愛を込めてサテラの名を呼ぶのは不思議なことだった。

だって、ボルカニカとレイド、それにシャウラに己の功績を押し付けたフリューゲルの三者は、『嫉妬の魔女』と呼ばれるサテラを封じた張本人。

それがどうして、彼女のことを――、

 

「どうして、『嫉妬の魔女』に優しく話しかけるの?」

 

純粋と、そう呼ぶにはいささか不用意な問いかけだった。

それをこの瞬間のエミリアに気付けというのは酷な話だったが、少なくとも、状況を客観的に見たとき、起点となってしまったのはこの一言だ。

 

あるいはサテラでも、『魔女』でもよかったかもしれない。

ある人はサテラと呼び、ある人は最悪の災厄と呼び、ある人は『魔女』と呼ぶ。

そして、エミリアは『嫉妬の魔女』とそう呼んだ。

それが――、

 

『――『嫉妬の魔女』』

 

――ボルカニカの、遠くを見る眼差しへの変化を生んだ。

 

金色のボルカニカの瞳、そこに生じた変化は劇的なものだった。

変わらず、エミリアを見つめる龍の頭部は目と鼻の先にあった。だからこそ、その変化の度合いを間近で捉え、エミリアの全身が総毛立つ。

 

これは、良くない変化だと直感する。

森育ちのエミリアには、野生の中で育ったという経験値がある。そうした状況で、豹変する動物を、魔獣を幾度も見てきた。

その感覚に従い、エミリアは弾かれるように後ろに飛んだ。

それで正解だった。

 

「――っ」

 

瞬間、エミリアの目の前の空気が爆ぜる。

それは誇張でも何でもなく、文字通り、空間が圧縮され、直後に膨らみ、爆ぜた。

原理のわからない現象は、まるで空間そのものをねじ繰り回したような奇妙なものであり、その位置にいれば防護の硬軟と無関係にねじられていた。

そしてそれは、ちょうどエミリアの頭があった位置に発生していて。

 

ほんの刹那、頭を下げるのが遅れていれば、エミリアは死んでいた。

尻尾の打撃といい、今の空間のねじれといい、塔の上に登ってきてから、エミリアは死にかねない状況を何度も経験している。

未だかつて、ここまで命の危うい状況は初めてかもしれない。

 

「でも、全部何とかなってるってことは、すごーくついてるかも」

 

運が味方した要素がエミリアを生かしているなら、エミリアがこうして息ができているのも幸運の賜物、そうエミリアは自分の状況を前向きに解釈した。

そうでもしなくては、続く状況の変化にへこたれそうになってしまう。

何故なら――、

 

『――サテラ』

 

再び翼を広げたボルカニカが、確かな敵意をこちらへ向けているのだから。

それを見て、エミリアは地団太を踏みたい気持ちを堪える。せっかく、ボルカニカが正気に戻ってくれたように思えたのに、また逆戻りだ。

それどころか、さっきの半分寝ていたようなときと違い、もっとやる気を出してボケてしまっているように見える。

 

「――アイシクルライン」

 

故に、エミリアも手加減不要、不退転の覚悟で自分の魔力を開放する。

大気が冷たくひび割れ、ゆっくりと白い靄が漂い始めた。それは雲の上に位置する監視塔の最上層だろうと変わらず、世界を白く凍えさせる。

 

音を立てて、ゆっくりと生じるのは氷の武具――床に突き立つそれらから槍を引き抜くと、エミリアはそれをくるくると回し、正面に向ける。

改めて、ボルカニカとの一戦に備えた。

 

ただし、エミリアを足払いした一発、あれがボルカニカの本気の戯れだとしたら、この先の攻撃にエミリアが対応できるかはわからない。

ボケていたときとは桁違いの強さ――否、今もボケてはいるようなのだが。

 

「でも……」

 

真っ直ぐ、相手の金色の瞳を見つめるエミリアは、そのボルカニカの態度をただボケてしまっているからと、そう言い捨ててしまいたくなかった。

だって、ボルカニカの瞳には哀しみが、悲痛なそれが満ち満ちていたから。

 

『サテラ、そうだ、サテラ。『嫉妬の魔女』と成り果てた汝を、我らが止めねば』

 

「……仲良しだったの?」

 

『あの日、我が躊躇わなければよかった。あの日、我が躊躇わなければ、誰も――』

 

問いかけへの答えはなかった。

だが、そのボルカニカの震える声が、答えそのものに思えた。

 

悔やむ龍が大きく息を吸い、再び世界を白く焼き尽くす息吹きがくる。

その前に、エミリアは踏み込み、あの白い鱗を打たなくてはならない。それができなくては、エミリアも、当然、他のみんなも助からない。

 

「――スバル、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、パトラッシュちゃん、エキドナ、ユリウス、アナスタシアさん」

 

この塔にいて、大変な目に遭っているみんなのことを考える。

助けなくてはならないみんなを、同じ目的のために顔を上げているみんなを。

そうすることで、エミリアの胸の奥、そこから知らない力がモリモリ湧いてくる。

 

『――『嫉妬の魔女』、サテラ!!』

 

「――いいえ、違うわ。私はエリオール大森林の『氷結の魔女』、エミリア」

 

エミリアを、どうやら似ているらしい誰かと勘違いする『神龍』へ、エミリアは湧いてくる力を自らの全身に流しながら、大きな声で答える。

敵は『神龍』何するものぞ。――エミリアには、みんながついている。

だから――、

 

「――名前だけでも、ちゃんと覚えてね!」

 

――プレアデス監視塔を取り巻く最終局面、雲上と雲下で同時に光が爆発した。